ドン・ジョバンニ
芝居が跳ねた後、初老の貴婦人と亜麻色の髪の貴公子は
馬車に揺られながら語り合っていた。
「あの役者、けして美男ではなかったし
背も低いし、ムッチリし過ぎていたわね」
「そうですね・・・
従者レポレロのほうがよほどノーブルに見えた。
背の高い従者役と、互いに服を取り替えて変装という場面は
余りにも無理があって苦笑してしまいました」
「でも、濃い睫と黒い大きな目に
何ともいえない色気があったわ。目千両ね・・・。
それに、あの邪悪で甘そうな唇も・・・。
それに、なにしろ声が良かった。
ぞくぞくするほどセクシーだったわ。さすがは歌手ね。
芸の力は偉大よね。
きっと、あの魅力的な声の力のせいでしょう。
ムッチリした身体つきも猪首も
美男と言うよりは愛嬌のある容貌も、いかにも放蕩者で
不実というよりは悪気のない享楽主義者に見えてくるし
そして、今まさに地獄の業火に焼かれるという
最後の最後まで反抗し続けるところが
だんだん、駄々っ子のように可愛らしく見えてきて・・・
なんだか、かわいそうになってしまったわ・・・」
今夜は演目に合わせて襟元に黒いレースをあしらった水色の繻子の
アンダルシア風のドレスを纏い
小さめに結い上げた髪には鼈甲の櫛を挿し
耳には大粒のバロックの黒真珠を下げている。
その貫禄のある初老の貴婦人が芝居の後の興奮に声を潤ませ
娘のように頬を紅潮させているのを
貴公子は微笑みながら眺めていた。
「・・・あなたも笑っていないで、何かおっしゃってよ。
あなたの、ご省察も、是非、うかがいたいわ」
貴公子の方は、ごくあっさりとした黒と見紛うほどの
濃い紺色のふくれ織の上着に
同色の繻子のシャツを纏っていたが
何かの拍子に、襟元や裾が翻るとき一瞬、ほんのひとすじ
鮮やかな血の色の繻子の裏地が目を射る。
『一見、目立たないのに凝った装いだわ・・・』
と、心の中で感嘆しながら、貴婦人は言った。
「奥様から見ればまるで洟垂れ小僧のような
わたくしの省察など、恐れ多くて・・・」
「あら、つまらないわ。
お誘いした甲斐がないじゃない!?なにか、おっしゃいよ」
「ふふ・・・そうですねえ・・・
何と言うか・・・
わたくしは、いまひとつ理解できないのは
舞台がスペインだからでしょうか!?
もしかしたら、かの地では未だに鍵付きの鋼の下着でも穿いて
就寝する淑女がいるのでしょうか?
それにドン・ジョバンニらは、大層な企てをする割には
ちっとも成功しないので、なんだか気の毒になってしまいましたよ。
あの手際の悪さで、本当に二千人切りを果たしたなんて
とても信じられませんね」
「まあ・・ほほほ・・・それは、お芝居だから。
成功したら、そこでポルノになってしまうじゃない。
ふふ、わたくしも見てみたい気もするけれど。
まあ、芝居は教訓的かつ教育的でなければならぬと
信じ込んでいる偽善的な輩の方が世間には圧倒的に多いのよ」
「ふふ・・・なるほど。そのせいかなあ
ドンナ・アンナには全く、魅力を感じませんでした。
彼女の父親も・・・名誉職とは言え、騎士団長が
娘に夜這いをかけて来た色ボケした放蕩者に破れたとあっては
もし、わたくしだったら、あまりの恥辱に
憤死してしまいそうです。
だから、その許婚者まで破れては、もう世間の笑いものだと
ドン・オッタヴィオも腰が引けているのに
復讐しろ復習しろと責め立てる。
あれは、男の事情というものが、全く解らない
鈍い女です」
「ほほほ・・・たしかに色気もなかったわね。
恐らく、父親の教育が悪かったのでしょうよ。
朝から晩まで『名誉を』『名誉が』と言い聞かされて
育ったのでしょう。
ドン・ジョバンニと手合わせしなくてすんで
一番、ほっとしたのは彼女の許婚者だったのかも
しれないわね」
「村娘のツェルリーナがわりと感度が良くて可愛い娘だと
思いましたが、あの程度の手管でなびいてくるところが
物足りない。
そのくせ、最後の最後で大騒ぎをするのも興ざめです」
「あら、あの娘は大騒ぎして自分の純潔というものの価値を
吊り上げたのよ。
『ドン・ジョバンニに言い寄られて抵抗し
純潔を守った娘』と。
なかなか、賢くて、したたか者よ。
ああいう娘は人妻になってからが、楽しみだわ。
ドンナ・エルヴィラは?
あなた好みのすらりとした美女だったじゃない!?」
「ああ~どんなに美しく気品に溢れていても
ああいう女は一番、苦手です。
過去にドン・ジョヴァンと寝たことがあるとのことだが
精神的には、まるで処女だ。
感度の鈍い処女で、そのくせ、おせっかいで
頑固で執念深い。ああいう女は、一番、厄介ですよ」
「ほほほ・・・
そこのところは同感だわ。
わたくしも、昔の男なんぞさっさと忘れて
ドン・オッタヴィオでも喰ってしまえばいいのにと
思っていたのよ。まったく甲斐性のない女だわね」
「それに、男は追って来られると逃げ出したくなるものです。
こちらが、そうとう、その気に
なっていたとしても、萎えてしまう・・・
追いたいと思わせてくれるような女でないと
正常な食欲は湧いてこないものですよ、男というものは」
「ほほほ・・・どうもありがとう。
あなたの、ご省察、なかなか参考になったわ」
と言いながら、初老の貴婦人は
────「男の事情をよく理解して
いつまでも、追いかけさせてくれる感度の良い処女が良い」
なんて虫がいいわね~
と、心の中で苦笑した。
「ところで・・・
ドン・ジョバンニは地獄の業火で焼かれるほどの
悪人でしょうか!?」
「実は、わたくしも、そう思っているの。
自称『愛の伝道師』は、あながち、冗談のつもりでは
なさそうじゃない!?」
「でも、世間には教育的な輩も多いから・・・」
ふたりは、くすくす笑った。
「さて・・わたくしも、お腹がすいてきたわ。
お夜食は、どこでいただきましょうか?」
馬車に揺られながら語り合っていた。
「あの役者、けして美男ではなかったし
背も低いし、ムッチリし過ぎていたわね」
「そうですね・・・
従者レポレロのほうがよほどノーブルに見えた。
背の高い従者役と、互いに服を取り替えて変装という場面は
余りにも無理があって苦笑してしまいました」
「でも、濃い睫と黒い大きな目に
何ともいえない色気があったわ。目千両ね・・・。
それに、あの邪悪で甘そうな唇も・・・。
それに、なにしろ声が良かった。
ぞくぞくするほどセクシーだったわ。さすがは歌手ね。
芸の力は偉大よね。
きっと、あの魅力的な声の力のせいでしょう。
ムッチリした身体つきも猪首も
美男と言うよりは愛嬌のある容貌も、いかにも放蕩者で
不実というよりは悪気のない享楽主義者に見えてくるし
そして、今まさに地獄の業火に焼かれるという
最後の最後まで反抗し続けるところが
だんだん、駄々っ子のように可愛らしく見えてきて・・・
なんだか、かわいそうになってしまったわ・・・」
今夜は演目に合わせて襟元に黒いレースをあしらった水色の繻子の
アンダルシア風のドレスを纏い
小さめに結い上げた髪には鼈甲の櫛を挿し
耳には大粒のバロックの黒真珠を下げている。
その貫禄のある初老の貴婦人が芝居の後の興奮に声を潤ませ
娘のように頬を紅潮させているのを
貴公子は微笑みながら眺めていた。
「・・・あなたも笑っていないで、何かおっしゃってよ。
あなたの、ご省察も、是非、うかがいたいわ」
貴公子の方は、ごくあっさりとした黒と見紛うほどの
濃い紺色のふくれ織の上着に
同色の繻子のシャツを纏っていたが
何かの拍子に、襟元や裾が翻るとき一瞬、ほんのひとすじ
鮮やかな血の色の繻子の裏地が目を射る。
『一見、目立たないのに凝った装いだわ・・・』
と、心の中で感嘆しながら、貴婦人は言った。
「奥様から見ればまるで洟垂れ小僧のような
わたくしの省察など、恐れ多くて・・・」
「あら、つまらないわ。
お誘いした甲斐がないじゃない!?なにか、おっしゃいよ」
「ふふ・・・そうですねえ・・・
何と言うか・・・
わたくしは、いまひとつ理解できないのは
舞台がスペインだからでしょうか!?
もしかしたら、かの地では未だに鍵付きの鋼の下着でも穿いて
就寝する淑女がいるのでしょうか?
それにドン・ジョバンニらは、大層な企てをする割には
ちっとも成功しないので、なんだか気の毒になってしまいましたよ。
あの手際の悪さで、本当に二千人切りを果たしたなんて
とても信じられませんね」
「まあ・・ほほほ・・・それは、お芝居だから。
成功したら、そこでポルノになってしまうじゃない。
ふふ、わたくしも見てみたい気もするけれど。
まあ、芝居は教訓的かつ教育的でなければならぬと
信じ込んでいる偽善的な輩の方が世間には圧倒的に多いのよ」
「ふふ・・・なるほど。そのせいかなあ
ドンナ・アンナには全く、魅力を感じませんでした。
彼女の父親も・・・名誉職とは言え、騎士団長が
娘に夜這いをかけて来た色ボケした放蕩者に破れたとあっては
もし、わたくしだったら、あまりの恥辱に
憤死してしまいそうです。
だから、その許婚者まで破れては、もう世間の笑いものだと
ドン・オッタヴィオも腰が引けているのに
復讐しろ復習しろと責め立てる。
あれは、男の事情というものが、全く解らない
鈍い女です」
「ほほほ・・・たしかに色気もなかったわね。
恐らく、父親の教育が悪かったのでしょうよ。
朝から晩まで『名誉を』『名誉が』と言い聞かされて
育ったのでしょう。
ドン・ジョバンニと手合わせしなくてすんで
一番、ほっとしたのは彼女の許婚者だったのかも
しれないわね」
「村娘のツェルリーナがわりと感度が良くて可愛い娘だと
思いましたが、あの程度の手管でなびいてくるところが
物足りない。
そのくせ、最後の最後で大騒ぎをするのも興ざめです」
「あら、あの娘は大騒ぎして自分の純潔というものの価値を
吊り上げたのよ。
『ドン・ジョバンニに言い寄られて抵抗し
純潔を守った娘』と。
なかなか、賢くて、したたか者よ。
ああいう娘は人妻になってからが、楽しみだわ。
ドンナ・エルヴィラは?
あなた好みのすらりとした美女だったじゃない!?」
「ああ~どんなに美しく気品に溢れていても
ああいう女は一番、苦手です。
過去にドン・ジョヴァンと寝たことがあるとのことだが
精神的には、まるで処女だ。
感度の鈍い処女で、そのくせ、おせっかいで
頑固で執念深い。ああいう女は、一番、厄介ですよ」
「ほほほ・・・
そこのところは同感だわ。
わたくしも、昔の男なんぞさっさと忘れて
ドン・オッタヴィオでも喰ってしまえばいいのにと
思っていたのよ。まったく甲斐性のない女だわね」
「それに、男は追って来られると逃げ出したくなるものです。
こちらが、そうとう、その気に
なっていたとしても、萎えてしまう・・・
追いたいと思わせてくれるような女でないと
正常な食欲は湧いてこないものですよ、男というものは」
「ほほほ・・・どうもありがとう。
あなたの、ご省察、なかなか参考になったわ」
と言いながら、初老の貴婦人は
────「男の事情をよく理解して
いつまでも、追いかけさせてくれる感度の良い処女が良い」
なんて虫がいいわね~
と、心の中で苦笑した。
「ところで・・・
ドン・ジョバンニは地獄の業火で焼かれるほどの
悪人でしょうか!?」
「実は、わたくしも、そう思っているの。
自称『愛の伝道師』は、あながち、冗談のつもりでは
なさそうじゃない!?」
「でも、世間には教育的な輩も多いから・・・」
ふたりは、くすくす笑った。
「さて・・わたくしも、お腹がすいてきたわ。
お夜食は、どこでいただきましょうか?」
1/1ページ