【RKRN】梅に鶯
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いつも彼女からはまるで春の陽だまりのような柔らかな梅の匂いがしていた。
しかし、今日――この日は、彼女から薬草の臭いが立ち込めていて、そして、つらいほどの血の匂いがした。
軽やかな足音が聞こえた。
それは意識をそちらに集中していなければ、周りの音にかき消されるほどの微かなものだった。
俺の部屋の前で足音が止まる。やや間があって声が聞こえた。
「伊作ーいるー?」
声が聞こえてすぐに部屋の戸が開いた。薄桃色のくの一教室の制服を着た小柄な少女――清水小春が立っていた。
制服と同じ色の頭巾は外され、夜の暗さと同じ黒髪には、闇に映える淡い黄色の髪帯が結ばれている。
「伊作なら医務室で寝ずの番だ」
「ありゃ」
彼女が探していた俺の同室は現在、不運委員会――もとい保健委員会の当番で一晩中医務室に詰めている。部屋に戻って来る予定はないらしい。
「伊作に用なら言付けておくぞ」
「いや、伊作というか、伊作の薬に用があるから医務室行くね」
伊作の薬と聞いて、彼女がこんな夜更けにわざわざ忍たま長屋に訪ねて来たのか、合点がいった。
「明日の実習か」
「うん。さっき長次と最終確認してたら薬を用意しておこうって話になって」
詳しい実習の内容は聞いていないが、難しい内容ではあることはわかっている。優秀な彼女や冷静に物事を運ぶ長次なら大丈夫だろう。
「伊作が医務室なら医務室行って薬貰ってくるね――……留三郎、まだ起きてる?」
部屋の戸に隠れた彼女の顔が少し覗く。
「ああ。そのつもりだ」
小春に委員会から持ち帰った用具を見せる。
用具委員会は人員が足りなくて大変ね。と笑うと薬を貰ったら戻って来ると言い残した。
日常的に足音を消すことに慣れている――軽やかな足音が戻ってきた。先程のものよりも少し浮かれているようだった。
「とーめさぶろっ」
機嫌のよい声とともに部屋の戸が開いた。
「薬は貰えたか」
「うん!もともと用意しておこうってなってた薬以外にも色々渡された」
風呂敷いっぱいにまとめられた伊作印の薬を見る。前から伊作は小春と長次の実習を気にかけていた。だからこその薬の量なんだろう。
「実習、出るのはいつだ?」
「んー朝。結構早い」
今はもう夜更け。朝日が昇る刻限はあっという間にやってくるはずだ。
「はよ寝ろ!」
古桶を修理していた手を止めて小春の額に手刀をお見舞いする。うぎゅと声が上がった。
「えー……」
小春が不満げにこちらを見る。顔には出していないが、おそらく明日の実習にかなり緊張しているから眠気が来ていない。
「身体を横にして、目を閉じるくらいしていろ。それだけでも身体が休まるから」
「んー」
それでも納得いかないような小春の髪帯を解く。長い豊かな黒髪がパラパラと肩に落ちる。髪を撫でつけて小春をなだめる。
「俺の布団、使っていいし、ここで寝ていいから」
「本当!?」
さっきと打って変わって目を輝かせて部屋の押し入れを開けに行く。もしやこれはくの一の手練手管だったのではないだろうか……と冷や汗が出た。
慣れた手つきで俺の布団を引っぱり出して布団を敷き始める。文机の前で作業をしている俺にギリギリまで布団を近づける。
「こんなに近づくと灯りが眩しくないか?」
「平気。留三郎私が寝るまでそばにいてね~」
枕を置くと小春はごろんと転がる。布団を被せてやると隙間から出してきた小さい手が俺の着物の端を握った。
「そばにいるから目を閉じて身体を休めろ」
「はーい」
小春の返事が聞こえてくるとしばらくして着物の端を握っていた手の力が弱くなる。様子を見てみるとすやすやと寝息を立てている。
やはり緊張していたのは確かなようだ。俺の布団で横になった途端にこれだ。
「頑張れよ、小春」
もぞもぞと人が動く気配がした。医務室から帰ってきた伊作かと思ったが、伊作が占有している領域ではないここで伊作が何かをしているとは考えにくい。
とすれば気配の正体は明白だった。
昨晩部屋に泊めた恋人の小春ということになる。
目を開けて周りの様子は見えていないが、おそらく朝になったんだろう。小春が実習に行くために起き出したに違いない。
人の気配は俺の近くにあるようだが、どうにも何がしたいのかわからない。何かするなら早くしろ、と文机に突っ伏して狸寝入りする俺は考える。
気配が動いた。人肌の温もりが残った布団が俺にかけられた。そして
「行ってきます、留三郎」
瞼に柔らかいものが当たる。
小春の気配が遠ざかり、部屋の戸が閉められた。
長屋の廊下からも小春の気配がなくなったところで俺は身体を起こした。
柔らかいものが触れた瞼を触って寝転がる。
先程かけられた布団からは柔らかい梅の花の匂い。
「ああ、小春の匂いだ……」
敵に狙われていた。雑木林で姿をくらませても追ってくる。
「小春!」
矢羽音で散らばって敵を混乱させるよう伝える。
合図で別方向へと散る。追いかけてくる敵はどっちだ!と叫ぶ。
大周りになるが、このまま敵を巻いて決めておいた合流地点を目指す。敵に追われるのは想定外の出来事だったが、これをクリアすれば、実習は終わる。
「うわああぁ!!」
子どもの声がした。小春が向かった方角だ。
人気のない雑木林のはずだ。まさか子どもが来ていたのか、まずい。と考えが巡る。
「こっちだ!」
敵が子どもの声の方角へと動く。小春に追いつかれてしまう。
急いで小春が向かった方へと走る。子どもがいるのなら、小春はそれを守って動くだろう。雑木林でも追ってきた敵だ。子どもを守りながらの小春では分が悪い。
ザシュ
鈍い音がした。
「お姉ちゃん!」
続いて子どもの悲痛な声がした。
「逃げなさい!!」
小春の声がした。小さな足音が遠ざかっていく。
二人のいる位置まではもうすぐそこだった。
敵の方はどうやら私の気配に気がついていない。背後を取ることができた。
「私に気を取られすぎなんだよっ!」
敵の足元にうずくまる小春が棒手裏剣を打った。
それを避けた敵の意識の中から完全に私が消える。背後から刃を突き立てた。
敵が――動かなくなった。
「小春、無事……」
辺りが赤く染まっていた。敵の血だけではない。
「へーき……」
ヘラヘラと小春が笑う。立ち上がるも身体はフラフラだった。
小春は背中から大量の出血をしていた。大きくはない背中に袈裟掛けに刀傷が走っている。
「止血は出来るか」
「伊作が薬持たせてくれたのが……風呂敷…に……」
真っ白な顔になって小春が気を失った。もう一刻の猶予もない。早急に学園へ戻らなくては取返しのつかない事態になってしまう。大急ぎで刀傷からの出血を止めるために布を巻き付ける。
力の抜けきった小春を背負って忍術学園への帰路を急いだ。
荒々しく門が開かれる。余裕もなく長次が叫んだ。
「伊作!!新野先生を!!!」
長次の叫び声を聞くのは珍しい。最後に聞いたのはいつだったかも思い出せないくらいだ。
「中在家先輩……」
一つ下の――おそらく不破雷蔵が長次に駆け寄る。不破がビクリと身体を震わせたのが見えた。
視界に映ったのは――赤。
薄桃色の制服に広がる鈍い赤色。豊かな黒髪が乱れ、だらりと力なく長次に背負われる小さな身体。
――淡い黄色の髪帯。
「小春」
「――っ留三郎!小春を医務室に運ぶ手伝ってくれ!!」
長次の纏う衣は藍色だった。しかしそれが今や背中が赤く染っている。小春の出血量を物語っていた。
手に持っていた修補の道具を作兵衛に預けて長次のもとへ走る。
小春を2人で持ち上げると、できるだけ身体を揺らさないように医務室へ向かった。
小春の身体は酷く冷えきって、顔も真っ青になっていた。それでも小さく息をしていた。生きようと、何がなんでも生きようとしていた。
「刀で袈裟斬りだ。毒の類は塗られていなかった」
「うん……わかった」
医務室に運び込むと新野先生や保健委員会の上級生たちが集まっていた。
伊作が長次から事の次第の説明を受ける。
どうやら実習が終わった後に敵忍者に追われ、偶然居合わせた子どもを守るために怪我を負ったという事だった。
「絶対に助けてみせるから、安心して」
伊作が力強く言い切る。
「治療に移るから散って散って!上着脱がせるから戸閉めるよ!」
騒ぎを聞きつけ集まってきた生徒たちを散らせる。
わらわらと集まってきた生徒たちは誰が運ばれてきただの、どこを怪我しただのを話しながら散っていく。口をそろえて酷い怪我だ。と呟き、心配の色が見えていた。
俺は伊作によって閉められた医務室の戸の前でしばらく立ち尽くしていた。
「――留三郎、すまない」
血に染まった衣を脱ぎ、肌着になった長次が呟いた。
「長次の責任じゃないだろ。子どもを庇ったのは小春の選択だし、怪我を負わせたのは敵忍者だ。何も長次が気に病むことなんてない」
「……」
それでも長次は無言を貫いた。
「ちょーじー!!」
人一倍底抜けに明るい声がこちらにやって来た。
「長次、実習おつかれ!!風呂沸かしてあるから入ってこい!」
小平太が長次の背を押して風呂場へと連れて行く。――きっと長次のことなら小平太に任せれば大丈夫だ。
「留ちゃんは?」
風呂、どうする?と続けて訊かれる。
「俺は……ここで待つ」
医務室の戸は閉じられたばかりだ。再び開かれるのはまだ先になりそうだ。
「ふー……」
手が冷たい。
頭がくらくらする。腹の中にあった食べ物が消えた気がする。
新野先生がいる。保健委員会の上級生たちがいる。伊作も絶対に助けると言ってくれた。
――だから、大丈夫。
と頭の中で何度も唱える。
医務室前の廊下で俺はひたすら待った。
「――ぶろう……め……さぶろう――留三郎!!」
意識が覚醒する。待つうちに廊下で丸まって眠ってしまっていた。
「ずっと待っていたのかい?風邪ひくし、身体を傷めるよ、まったく」
やれやれと言わんばかりに伊作が俺の身体を揺さぶる。
気だるげに顔を動かして伊作の方を見た。
「――小春は?」
声が少し掠れていた。
「大丈夫だよ」
伊作が医務室の戸を開ける。布団の上に小春がいた。
まだ血色は悪く白い。だが、運んだ時に見た今にも死んでしまいそうな顔色ではなかった。
「治るのには時間がかかるだろうけど、大丈夫だよ。ただ、しばらくは熱も出るだろうから絶対安静」
「そうか……そうか……!」
ほーっと息をつく。
「しばらくは眠っているから自分の委員会に戻りな?確か委員会活動中だったろう、おまえ」
「ああ、そうだった」
小春を医務室に運び込む前、修補の道具を作兵衛に預けたのを思い出す。もう日は沈みかけて委員会も終わっていそうだが、用具倉庫に寄らなくてはならない。
「長次は?」
「小平太が風呂に連れて行った。怪我もしていなかった」
「ならいいね。留三郎も倉庫寄ったらすぐ風呂だよ。廊下で寝てたんだから身体を温めて」
「わかった、わかった」
「小春なら明日の朝には目を覚ますはずだから、その時来てね」
目を覚まして、目に入ったのは薬棚だった。
身体を動かし上を向こうとすると、背中に激痛が走る。
「いったぁ……!」
「[小春、目が覚めたんだ、よかった」
「……伊作……」
伊作がいる。目に入った薬棚。薬草の臭い。
「医務室……」
「うん。そう。背中に大怪我を負って運び込まれたの」
伊作の言葉に記憶を辿る。敵忍者に追われていて、長次と別れた先に子どもがいた。その子を庇う時に斬られたのは覚えている。確か子どもの声に長次もこっちにきてくれて、敵忍者は倒した。その後の記憶が曖昧だ。
「小春、腕出して」
「ん」
横を向いたまま寝転がって左腕を出す。手首に触れて少しばかり伊作が様子を見る。
「はい次おでこ」
短い前髪を少し上げて額を見せる。伊作の額と私の額の熱を比べられる。
「少し熱があるね。しばらく安静にして眠ること。寝返り打てないから、動きたいなら補助するから何でも言って」
「はーい」
しばらくは眠気も来なさそうだし、暇だろうなぁと布団から出していた手を引っ込める。
「ご飯取ってくるけど、お粥で大丈夫かい」
「平気~」
医務室を出る伊作にヒラヒラと小さく手を振る。空腹感はあまりないが、お腹が空っぽの感覚だけはある。多分食べておいた方がいい状態だ。
伊作が静かに医務室の戸を閉めた。
しん……と部屋が静かになる。
朝日がわずかに上り始めた刻限のようだ。新野先生もいないようだし、伊作が一人で番をしていたんだろう。
「留三郎のこと聞いとくの忘れてたな……」
ぼんやりと記憶があった。長次が叫び、医務室へ運ばれて行く中ですぐ近くに留三郎の気配があったのだと。
伊作が持って来たお粥はなんと、級友たちお手製のものだった。しばらく私は絶対安静で出来る限り人とは接触しないことになっているから、見舞いの意味も込めて級友たちはお粥を作ってくれていた。
「食堂に何個か失敗作があったけどね」
身体を起こしてくれた伊作が笑う。
「この梅干し、去年小春が作ってたやつでしょ?おいしそうだね」
「私が作ったんだからね。たまーに食堂に出してるよ」
「えーそうだったんだ、どれだろう」
温かいお粥を口に入れる。少し味が薄い気もしなくはないけど、おいしい。
「あ、そうそう。伊作、留三郎ってどうしてる?」
「ああ、多分部屋で寝てるはず。お粥片づけたら様子見てくるよ」
早朝なら留三郎は朝の鍛錬をしていそうだ。あいつは文次郎みたいに徹夜よりも早く起きて鍛練するタイプだから。
「私を運ぶときってさ、長次以外にいた?」
「あ、覚えてた?留三郎が学園の敷地に入ってから一緒に運んでくれたんだよ。ちょうど居合わせたから」
「やっぱり。ぼんやりだけどいた気がして」
「小春の手当てが終わるまでずっと廊下で待ってたりもしていたんだよ」
「それはさすがにわからん」
手当て中の記憶はさっぱりない。完全に意識は落ちていた。戸を隔てて誰かがいたかなんて多分わかるはずなかった。
「よし、お粥完食だね。食欲がちゃんとあるならすぐに良くなるよ。僕はこれを食堂に返して――留三郎の様子見てくるね」
「うん、お願い」
「よしじゃあ、身体は横になって休んでてね」
「あと、暇つぶしになんか本とか持ってきて~」
「ち、注文が多いなあ!」
その後、私の傷の経過はよく――といっても痛み止めが切れて激痛に苦しんだこともあったけれど――面会も大丈夫と判断された。
毎日誰かしらが私の休む部屋に訪れる。
今日は、同郷の竹谷八左ヱ門だった。
「村のおじさんたちから滅茶苦茶文が来た」
「いつ実家に連絡が行ってたのよ……」
馬借便ではない、伝書鷹による何通もの文が渡される。村共同の鷹から届いたものらしい。鷹匠術を使える八左ヱ門が全て受け取っていたんだろう。
「学園の方から手紙出してたんだよ。小春ちゃん、まあほぼ死にかけてたし」
「それもそうか……もうしばらくしたら返事も書けるようになるから、それまで待ってって伝えといて、八左ヱ門」
「俺を使うなよ、俺をぉ」
はーなんて書こう……と八左ヱ門がうなだれる。悪いなぁとは思いつつも八左ヱ門ならやってくれるとなって丸投げしてしまう。気が楽な相手で助かる。
「そういやさ、小春ちゃん……食満先輩は見舞いに来たの?」
「……」
留三郎は、一度も見舞いに来ていない。それこそ伊作に様子を聞いたりしていて、元気らしいのは知っている。
しかし、一度も顔を見ていない。
「来てない」
「えー!俺、昨日潮江先輩と喧嘩してるの見たよ!?」
「知ってる、文次郎のやつが治療に来たし」
文次郎と喧嘩をする余裕はあるくせして私の見舞いに来ないのだ、あの男は。
「離縁状でも叩きつけてやろうかしら」
「それはなんでも食満先輩がかわいそうじゃない?」
嘘でも離縁状を叩きつけてやれば焦って私のところにやってくるはずだ。なんで一度たりとも会いに来なかったのか、何がなんでも聞き出すにはそれしかない。
「――今度食満先輩に会ったらそれとなく言ってみるよ。多分近いうちに生物委員会で使ってる道具壊れそうだし」
「大変ねぇ」
確か生物委員会は扱う生物の数に対して、委員の数が足りていないんだったか。去年入学してきた「虫めづる君」――伊賀崎孫兵くんのペットがとてつもない数だという話だ。
「うちの委員会五年生いないから、来年は俺が委員長代理なんだよ~予算取れる気がしねぇよ~」
「くの一教室からは何とも言えないわ、がんばんなさい」
八左ヱ門が訪ねて来て数日。このまま経過も良ければ布団から動くこともできるようになるそうだ。
「えーっ!まだ留三郎来てないの!?」
今日は伊作が当番の日。耳に残る歌を歌いながら包帯を巻いている作業中の世間話の中で、「留三郎が一度も来ていない」と話した。
「……あの文次郎だって一回はお見舞い来てるのに?」
「うん。留三郎がその文次郎と喧嘩する暇があるのに」
「……」
伊作が頭を抱える。
ちなみに同級生だと留三郎以外は全員来ている。仙蔵は寝たきりの状態でも体型を崩さない方法を教えに来てくれていたし、小平太は裏々山で採った花を持ってきてくれたし、文次郎は最初は鍛練が足りんとかなんとか言ってきたが、町の団子を持ってきてくれた。長次なんかは目が覚めたらすぐ飛んできてくれて、暇つぶしになる本を何冊か持ってきてくれた。
「あそこまで心配してたのに、なんで来ないんだ、あいつは……」
ブツブツと伊作が呟き始める。どうやら何かを考え始めたようであーするか、こうするか、と言い出す。
「よしきた!」
「なんだね伊作くんよ」
「留三郎のことなら任せて!ふんじばってでも連れてくるよ!」
「て、手荒な真似はするなよー?」
不運で碌なことにならないといいんだが。
伊作は行動したら早かった。
その日の夕方、暇つぶしに読んでいた本も区切りの良いところまで読み終わり、背中の包帯を替えることを待つとしたときだった。
忍者の学校にしては珍しい、体重のある人間が足音を立てて医務室にやって来る。
数は、一つ、二つ。三つ――は引きずられているようだ。
「小春]ー!?約束通り留三郎連れてきたよ!!」
伊作の顔は、とてもいい笑顔だった。下級生から好かれる、警戒のされない笑顔とは違う。年相応というか少年らしいというか。やりきった仕事に対して晴れやかな気持ちで終わったような笑顔。
「もそ」
伊作に続いて長次が姿を現す。彼も同様やりきった顔をしている。
長次の手には縄。その縄の続く先には――
「なんで忍術学園中を縄で縛られて引き回されにゃならんのだ!!」
留三郎が吠えていた。
「留三郎が一度も見舞いに来ないからじゃないかー。不誠実だよー」
「もそ」
「んぐぅ」
伊作の言葉に留三郎は言い返せない。
「それでね?これから小春は背中の包帯替えの作業だから、留三郎にやってもらおうかと思って!」
ピシリと空気が凍る。といっても伊作は呑気だし、長次も普段通りだ。凍ったのは、私と留三郎だけ。
「さすがに恋仲でもなんでもない男に素肌見せるのは、小春の気持ち的にも良くないだろうからね。留三郎がやってあげたらいいじゃんと思ってね」
「いや、保健委員でもないのに包帯はよぉ……」
「留三郎、何年僕の同室をやっているんだい?包帯巻きなんてお手の物だろう?」
入学してから今までの五年弱。伊作に降りかかってきた不運は星の数。そして、傷の数もまた星の数を数えた方がマシなほど。同室たる留三郎が手当てをしてきたのは至極当然のこと。
言い逃れは出来ない空気になっていた。
「というわけで!僕と長次は席を外しているから、包帯替えてあげてねトメサブロー」
あ、包帯はいつもの棚だよ~と言い残すと医務室の戸は閉じられた。
医務室には私と留三郎だけ。ただ沈黙が流れる。
「……っ、と、留三郎、包帯、お願いできる?」
「……ああ」
するりと寝間着を脱ぐ。衣擦れの音だけが大きく聞こえる。
留三郎が背後に来たのを確認して巻かれていた包帯を緩める。
包帯をすべて取りきって背中を晒した。
大きな袈裟掛けに斬られた刀傷が多分、留三郎の目には映ったんだろう。息を吞む、そんな気配がした。
――もともと綺麗な身体ではなかった。
小さな傷跡なんてものは、今までもかなり残っていたし、留三郎以外の男に身体を触らせたこともあった。
私は、忍術学園を卒業したら家に入る。嫁になる。忍者一家の跡取り娘である私は、忍者の嫁となるからくの一にはならない。――できるのなら、大きな傷のない身体で嫁ぎたかった。
「――ごめん、留三郎……こんな……大きな傷……もう、綺麗な身体じゃなくなって……」
留三郎が見舞いに来なかったのは、そういうことなんだ。
鼻の奥がツンとなる。
「……!ち、ちがう、ちがうぞ!小春!!ああ、泣くな。泣かないでくれ」
「え……ちがう、の……?」
後ろを振り返る。随分と間抜けな声が出た気がする。
「あー!前を隠してくれ!!」
留三郎の言葉にさして大きくもない胸を晒していたことを思い出す。すぐに布を手繰り寄せた。
顔を逸らした留三郎は赤くなっていた。
私が前に向き直ると、留三郎は濡れた手ぬぐいで丁寧に背中を拭い始めた。
「おまえが大怪我して戻ってきたとき、かなり動転したんだ。」
「うん」
「手は何度温めても冷えたままだったし、頭はクラクラするし、腹は軽いしでな。医務室の前で待ってたら伊作に心配されてしまった」
「うん」
私は、短く相槌を打った。ただ、留三郎の言葉に耳を傾ける。
「忍たるもの怪我をするのはつきものだ。だから、小春が怪我をすることも珍しいことではない。動転するのは……俺の心構えがなかったのだと思った」
「そっか」
留三郎の言葉に否定はしない。怪我はつきもの。一々心を乱すべきではない。
「確かに『忍』としては、心を乱すべきではないと思う。でも、同胞を心配することは、必要なことなはず。『心』がなければ、『|忍《わたしたち》』はただの『刃』になってしまう、と思うから」
「そうか、そう、だな」
新しい包帯が巻かれ終わった。もう少しすれば、包帯も必要なくなるだろう。
再び医務室の戸が開かれた。伊作が笑顔で戻って来る。
仲直りできた?と訊いてきたので、二人揃って
「喧嘩なんてしてない」
と答えた。
しかし、今日――この日は、彼女から薬草の臭いが立ち込めていて、そして、つらいほどの血の匂いがした。
軽やかな足音が聞こえた。
それは意識をそちらに集中していなければ、周りの音にかき消されるほどの微かなものだった。
俺の部屋の前で足音が止まる。やや間があって声が聞こえた。
「伊作ーいるー?」
声が聞こえてすぐに部屋の戸が開いた。薄桃色のくの一教室の制服を着た小柄な少女――清水小春が立っていた。
制服と同じ色の頭巾は外され、夜の暗さと同じ黒髪には、闇に映える淡い黄色の髪帯が結ばれている。
「伊作なら医務室で寝ずの番だ」
「ありゃ」
彼女が探していた俺の同室は現在、不運委員会――もとい保健委員会の当番で一晩中医務室に詰めている。部屋に戻って来る予定はないらしい。
「伊作に用なら言付けておくぞ」
「いや、伊作というか、伊作の薬に用があるから医務室行くね」
伊作の薬と聞いて、彼女がこんな夜更けにわざわざ忍たま長屋に訪ねて来たのか、合点がいった。
「明日の実習か」
「うん。さっき長次と最終確認してたら薬を用意しておこうって話になって」
詳しい実習の内容は聞いていないが、難しい内容ではあることはわかっている。優秀な彼女や冷静に物事を運ぶ長次なら大丈夫だろう。
「伊作が医務室なら医務室行って薬貰ってくるね――……留三郎、まだ起きてる?」
部屋の戸に隠れた彼女の顔が少し覗く。
「ああ。そのつもりだ」
小春に委員会から持ち帰った用具を見せる。
用具委員会は人員が足りなくて大変ね。と笑うと薬を貰ったら戻って来ると言い残した。
日常的に足音を消すことに慣れている――軽やかな足音が戻ってきた。先程のものよりも少し浮かれているようだった。
「とーめさぶろっ」
機嫌のよい声とともに部屋の戸が開いた。
「薬は貰えたか」
「うん!もともと用意しておこうってなってた薬以外にも色々渡された」
風呂敷いっぱいにまとめられた伊作印の薬を見る。前から伊作は小春と長次の実習を気にかけていた。だからこその薬の量なんだろう。
「実習、出るのはいつだ?」
「んー朝。結構早い」
今はもう夜更け。朝日が昇る刻限はあっという間にやってくるはずだ。
「はよ寝ろ!」
古桶を修理していた手を止めて小春の額に手刀をお見舞いする。うぎゅと声が上がった。
「えー……」
小春が不満げにこちらを見る。顔には出していないが、おそらく明日の実習にかなり緊張しているから眠気が来ていない。
「身体を横にして、目を閉じるくらいしていろ。それだけでも身体が休まるから」
「んー」
それでも納得いかないような小春の髪帯を解く。長い豊かな黒髪がパラパラと肩に落ちる。髪を撫でつけて小春をなだめる。
「俺の布団、使っていいし、ここで寝ていいから」
「本当!?」
さっきと打って変わって目を輝かせて部屋の押し入れを開けに行く。もしやこれはくの一の手練手管だったのではないだろうか……と冷や汗が出た。
慣れた手つきで俺の布団を引っぱり出して布団を敷き始める。文机の前で作業をしている俺にギリギリまで布団を近づける。
「こんなに近づくと灯りが眩しくないか?」
「平気。留三郎私が寝るまでそばにいてね~」
枕を置くと小春はごろんと転がる。布団を被せてやると隙間から出してきた小さい手が俺の着物の端を握った。
「そばにいるから目を閉じて身体を休めろ」
「はーい」
小春の返事が聞こえてくるとしばらくして着物の端を握っていた手の力が弱くなる。様子を見てみるとすやすやと寝息を立てている。
やはり緊張していたのは確かなようだ。俺の布団で横になった途端にこれだ。
「頑張れよ、小春」
もぞもぞと人が動く気配がした。医務室から帰ってきた伊作かと思ったが、伊作が占有している領域ではないここで伊作が何かをしているとは考えにくい。
とすれば気配の正体は明白だった。
昨晩部屋に泊めた恋人の小春ということになる。
目を開けて周りの様子は見えていないが、おそらく朝になったんだろう。小春が実習に行くために起き出したに違いない。
人の気配は俺の近くにあるようだが、どうにも何がしたいのかわからない。何かするなら早くしろ、と文机に突っ伏して狸寝入りする俺は考える。
気配が動いた。人肌の温もりが残った布団が俺にかけられた。そして
「行ってきます、留三郎」
瞼に柔らかいものが当たる。
小春の気配が遠ざかり、部屋の戸が閉められた。
長屋の廊下からも小春の気配がなくなったところで俺は身体を起こした。
柔らかいものが触れた瞼を触って寝転がる。
先程かけられた布団からは柔らかい梅の花の匂い。
「ああ、小春の匂いだ……」
敵に狙われていた。雑木林で姿をくらませても追ってくる。
「小春!」
矢羽音で散らばって敵を混乱させるよう伝える。
合図で別方向へと散る。追いかけてくる敵はどっちだ!と叫ぶ。
大周りになるが、このまま敵を巻いて決めておいた合流地点を目指す。敵に追われるのは想定外の出来事だったが、これをクリアすれば、実習は終わる。
「うわああぁ!!」
子どもの声がした。小春が向かった方角だ。
人気のない雑木林のはずだ。まさか子どもが来ていたのか、まずい。と考えが巡る。
「こっちだ!」
敵が子どもの声の方角へと動く。小春に追いつかれてしまう。
急いで小春が向かった方へと走る。子どもがいるのなら、小春はそれを守って動くだろう。雑木林でも追ってきた敵だ。子どもを守りながらの小春では分が悪い。
ザシュ
鈍い音がした。
「お姉ちゃん!」
続いて子どもの悲痛な声がした。
「逃げなさい!!」
小春の声がした。小さな足音が遠ざかっていく。
二人のいる位置まではもうすぐそこだった。
敵の方はどうやら私の気配に気がついていない。背後を取ることができた。
「私に気を取られすぎなんだよっ!」
敵の足元にうずくまる小春が棒手裏剣を打った。
それを避けた敵の意識の中から完全に私が消える。背後から刃を突き立てた。
敵が――動かなくなった。
「小春、無事……」
辺りが赤く染まっていた。敵の血だけではない。
「へーき……」
ヘラヘラと小春が笑う。立ち上がるも身体はフラフラだった。
小春は背中から大量の出血をしていた。大きくはない背中に袈裟掛けに刀傷が走っている。
「止血は出来るか」
「伊作が薬持たせてくれたのが……風呂敷…に……」
真っ白な顔になって小春が気を失った。もう一刻の猶予もない。早急に学園へ戻らなくては取返しのつかない事態になってしまう。大急ぎで刀傷からの出血を止めるために布を巻き付ける。
力の抜けきった小春を背負って忍術学園への帰路を急いだ。
荒々しく門が開かれる。余裕もなく長次が叫んだ。
「伊作!!新野先生を!!!」
長次の叫び声を聞くのは珍しい。最後に聞いたのはいつだったかも思い出せないくらいだ。
「中在家先輩……」
一つ下の――おそらく不破雷蔵が長次に駆け寄る。不破がビクリと身体を震わせたのが見えた。
視界に映ったのは――赤。
薄桃色の制服に広がる鈍い赤色。豊かな黒髪が乱れ、だらりと力なく長次に背負われる小さな身体。
――淡い黄色の髪帯。
「小春」
「――っ留三郎!小春を医務室に運ぶ手伝ってくれ!!」
長次の纏う衣は藍色だった。しかしそれが今や背中が赤く染っている。小春の出血量を物語っていた。
手に持っていた修補の道具を作兵衛に預けて長次のもとへ走る。
小春を2人で持ち上げると、できるだけ身体を揺らさないように医務室へ向かった。
小春の身体は酷く冷えきって、顔も真っ青になっていた。それでも小さく息をしていた。生きようと、何がなんでも生きようとしていた。
「刀で袈裟斬りだ。毒の類は塗られていなかった」
「うん……わかった」
医務室に運び込むと新野先生や保健委員会の上級生たちが集まっていた。
伊作が長次から事の次第の説明を受ける。
どうやら実習が終わった後に敵忍者に追われ、偶然居合わせた子どもを守るために怪我を負ったという事だった。
「絶対に助けてみせるから、安心して」
伊作が力強く言い切る。
「治療に移るから散って散って!上着脱がせるから戸閉めるよ!」
騒ぎを聞きつけ集まってきた生徒たちを散らせる。
わらわらと集まってきた生徒たちは誰が運ばれてきただの、どこを怪我しただのを話しながら散っていく。口をそろえて酷い怪我だ。と呟き、心配の色が見えていた。
俺は伊作によって閉められた医務室の戸の前でしばらく立ち尽くしていた。
「――留三郎、すまない」
血に染まった衣を脱ぎ、肌着になった長次が呟いた。
「長次の責任じゃないだろ。子どもを庇ったのは小春の選択だし、怪我を負わせたのは敵忍者だ。何も長次が気に病むことなんてない」
「……」
それでも長次は無言を貫いた。
「ちょーじー!!」
人一倍底抜けに明るい声がこちらにやって来た。
「長次、実習おつかれ!!風呂沸かしてあるから入ってこい!」
小平太が長次の背を押して風呂場へと連れて行く。――きっと長次のことなら小平太に任せれば大丈夫だ。
「留ちゃんは?」
風呂、どうする?と続けて訊かれる。
「俺は……ここで待つ」
医務室の戸は閉じられたばかりだ。再び開かれるのはまだ先になりそうだ。
「ふー……」
手が冷たい。
頭がくらくらする。腹の中にあった食べ物が消えた気がする。
新野先生がいる。保健委員会の上級生たちがいる。伊作も絶対に助けると言ってくれた。
――だから、大丈夫。
と頭の中で何度も唱える。
医務室前の廊下で俺はひたすら待った。
「――ぶろう……め……さぶろう――留三郎!!」
意識が覚醒する。待つうちに廊下で丸まって眠ってしまっていた。
「ずっと待っていたのかい?風邪ひくし、身体を傷めるよ、まったく」
やれやれと言わんばかりに伊作が俺の身体を揺さぶる。
気だるげに顔を動かして伊作の方を見た。
「――小春は?」
声が少し掠れていた。
「大丈夫だよ」
伊作が医務室の戸を開ける。布団の上に小春がいた。
まだ血色は悪く白い。だが、運んだ時に見た今にも死んでしまいそうな顔色ではなかった。
「治るのには時間がかかるだろうけど、大丈夫だよ。ただ、しばらくは熱も出るだろうから絶対安静」
「そうか……そうか……!」
ほーっと息をつく。
「しばらくは眠っているから自分の委員会に戻りな?確か委員会活動中だったろう、おまえ」
「ああ、そうだった」
小春を医務室に運び込む前、修補の道具を作兵衛に預けたのを思い出す。もう日は沈みかけて委員会も終わっていそうだが、用具倉庫に寄らなくてはならない。
「長次は?」
「小平太が風呂に連れて行った。怪我もしていなかった」
「ならいいね。留三郎も倉庫寄ったらすぐ風呂だよ。廊下で寝てたんだから身体を温めて」
「わかった、わかった」
「小春なら明日の朝には目を覚ますはずだから、その時来てね」
目を覚まして、目に入ったのは薬棚だった。
身体を動かし上を向こうとすると、背中に激痛が走る。
「いったぁ……!」
「[小春、目が覚めたんだ、よかった」
「……伊作……」
伊作がいる。目に入った薬棚。薬草の臭い。
「医務室……」
「うん。そう。背中に大怪我を負って運び込まれたの」
伊作の言葉に記憶を辿る。敵忍者に追われていて、長次と別れた先に子どもがいた。その子を庇う時に斬られたのは覚えている。確か子どもの声に長次もこっちにきてくれて、敵忍者は倒した。その後の記憶が曖昧だ。
「小春、腕出して」
「ん」
横を向いたまま寝転がって左腕を出す。手首に触れて少しばかり伊作が様子を見る。
「はい次おでこ」
短い前髪を少し上げて額を見せる。伊作の額と私の額の熱を比べられる。
「少し熱があるね。しばらく安静にして眠ること。寝返り打てないから、動きたいなら補助するから何でも言って」
「はーい」
しばらくは眠気も来なさそうだし、暇だろうなぁと布団から出していた手を引っ込める。
「ご飯取ってくるけど、お粥で大丈夫かい」
「平気~」
医務室を出る伊作にヒラヒラと小さく手を振る。空腹感はあまりないが、お腹が空っぽの感覚だけはある。多分食べておいた方がいい状態だ。
伊作が静かに医務室の戸を閉めた。
しん……と部屋が静かになる。
朝日がわずかに上り始めた刻限のようだ。新野先生もいないようだし、伊作が一人で番をしていたんだろう。
「留三郎のこと聞いとくの忘れてたな……」
ぼんやりと記憶があった。長次が叫び、医務室へ運ばれて行く中ですぐ近くに留三郎の気配があったのだと。
伊作が持って来たお粥はなんと、級友たちお手製のものだった。しばらく私は絶対安静で出来る限り人とは接触しないことになっているから、見舞いの意味も込めて級友たちはお粥を作ってくれていた。
「食堂に何個か失敗作があったけどね」
身体を起こしてくれた伊作が笑う。
「この梅干し、去年小春が作ってたやつでしょ?おいしそうだね」
「私が作ったんだからね。たまーに食堂に出してるよ」
「えーそうだったんだ、どれだろう」
温かいお粥を口に入れる。少し味が薄い気もしなくはないけど、おいしい。
「あ、そうそう。伊作、留三郎ってどうしてる?」
「ああ、多分部屋で寝てるはず。お粥片づけたら様子見てくるよ」
早朝なら留三郎は朝の鍛錬をしていそうだ。あいつは文次郎みたいに徹夜よりも早く起きて鍛練するタイプだから。
「私を運ぶときってさ、長次以外にいた?」
「あ、覚えてた?留三郎が学園の敷地に入ってから一緒に運んでくれたんだよ。ちょうど居合わせたから」
「やっぱり。ぼんやりだけどいた気がして」
「小春の手当てが終わるまでずっと廊下で待ってたりもしていたんだよ」
「それはさすがにわからん」
手当て中の記憶はさっぱりない。完全に意識は落ちていた。戸を隔てて誰かがいたかなんて多分わかるはずなかった。
「よし、お粥完食だね。食欲がちゃんとあるならすぐに良くなるよ。僕はこれを食堂に返して――留三郎の様子見てくるね」
「うん、お願い」
「よしじゃあ、身体は横になって休んでてね」
「あと、暇つぶしになんか本とか持ってきて~」
「ち、注文が多いなあ!」
その後、私の傷の経過はよく――といっても痛み止めが切れて激痛に苦しんだこともあったけれど――面会も大丈夫と判断された。
毎日誰かしらが私の休む部屋に訪れる。
今日は、同郷の竹谷八左ヱ門だった。
「村のおじさんたちから滅茶苦茶文が来た」
「いつ実家に連絡が行ってたのよ……」
馬借便ではない、伝書鷹による何通もの文が渡される。村共同の鷹から届いたものらしい。鷹匠術を使える八左ヱ門が全て受け取っていたんだろう。
「学園の方から手紙出してたんだよ。小春ちゃん、まあほぼ死にかけてたし」
「それもそうか……もうしばらくしたら返事も書けるようになるから、それまで待ってって伝えといて、八左ヱ門」
「俺を使うなよ、俺をぉ」
はーなんて書こう……と八左ヱ門がうなだれる。悪いなぁとは思いつつも八左ヱ門ならやってくれるとなって丸投げしてしまう。気が楽な相手で助かる。
「そういやさ、小春ちゃん……食満先輩は見舞いに来たの?」
「……」
留三郎は、一度も見舞いに来ていない。それこそ伊作に様子を聞いたりしていて、元気らしいのは知っている。
しかし、一度も顔を見ていない。
「来てない」
「えー!俺、昨日潮江先輩と喧嘩してるの見たよ!?」
「知ってる、文次郎のやつが治療に来たし」
文次郎と喧嘩をする余裕はあるくせして私の見舞いに来ないのだ、あの男は。
「離縁状でも叩きつけてやろうかしら」
「それはなんでも食満先輩がかわいそうじゃない?」
嘘でも離縁状を叩きつけてやれば焦って私のところにやってくるはずだ。なんで一度たりとも会いに来なかったのか、何がなんでも聞き出すにはそれしかない。
「――今度食満先輩に会ったらそれとなく言ってみるよ。多分近いうちに生物委員会で使ってる道具壊れそうだし」
「大変ねぇ」
確か生物委員会は扱う生物の数に対して、委員の数が足りていないんだったか。去年入学してきた「虫めづる君」――伊賀崎孫兵くんのペットがとてつもない数だという話だ。
「うちの委員会五年生いないから、来年は俺が委員長代理なんだよ~予算取れる気がしねぇよ~」
「くの一教室からは何とも言えないわ、がんばんなさい」
八左ヱ門が訪ねて来て数日。このまま経過も良ければ布団から動くこともできるようになるそうだ。
「えーっ!まだ留三郎来てないの!?」
今日は伊作が当番の日。耳に残る歌を歌いながら包帯を巻いている作業中の世間話の中で、「留三郎が一度も来ていない」と話した。
「……あの文次郎だって一回はお見舞い来てるのに?」
「うん。留三郎がその文次郎と喧嘩する暇があるのに」
「……」
伊作が頭を抱える。
ちなみに同級生だと留三郎以外は全員来ている。仙蔵は寝たきりの状態でも体型を崩さない方法を教えに来てくれていたし、小平太は裏々山で採った花を持ってきてくれたし、文次郎は最初は鍛練が足りんとかなんとか言ってきたが、町の団子を持ってきてくれた。長次なんかは目が覚めたらすぐ飛んできてくれて、暇つぶしになる本を何冊か持ってきてくれた。
「あそこまで心配してたのに、なんで来ないんだ、あいつは……」
ブツブツと伊作が呟き始める。どうやら何かを考え始めたようであーするか、こうするか、と言い出す。
「よしきた!」
「なんだね伊作くんよ」
「留三郎のことなら任せて!ふんじばってでも連れてくるよ!」
「て、手荒な真似はするなよー?」
不運で碌なことにならないといいんだが。
伊作は行動したら早かった。
その日の夕方、暇つぶしに読んでいた本も区切りの良いところまで読み終わり、背中の包帯を替えることを待つとしたときだった。
忍者の学校にしては珍しい、体重のある人間が足音を立てて医務室にやって来る。
数は、一つ、二つ。三つ――は引きずられているようだ。
「小春]ー!?約束通り留三郎連れてきたよ!!」
伊作の顔は、とてもいい笑顔だった。下級生から好かれる、警戒のされない笑顔とは違う。年相応というか少年らしいというか。やりきった仕事に対して晴れやかな気持ちで終わったような笑顔。
「もそ」
伊作に続いて長次が姿を現す。彼も同様やりきった顔をしている。
長次の手には縄。その縄の続く先には――
「なんで忍術学園中を縄で縛られて引き回されにゃならんのだ!!」
留三郎が吠えていた。
「留三郎が一度も見舞いに来ないからじゃないかー。不誠実だよー」
「もそ」
「んぐぅ」
伊作の言葉に留三郎は言い返せない。
「それでね?これから小春は背中の包帯替えの作業だから、留三郎にやってもらおうかと思って!」
ピシリと空気が凍る。といっても伊作は呑気だし、長次も普段通りだ。凍ったのは、私と留三郎だけ。
「さすがに恋仲でもなんでもない男に素肌見せるのは、小春の気持ち的にも良くないだろうからね。留三郎がやってあげたらいいじゃんと思ってね」
「いや、保健委員でもないのに包帯はよぉ……」
「留三郎、何年僕の同室をやっているんだい?包帯巻きなんてお手の物だろう?」
入学してから今までの五年弱。伊作に降りかかってきた不運は星の数。そして、傷の数もまた星の数を数えた方がマシなほど。同室たる留三郎が手当てをしてきたのは至極当然のこと。
言い逃れは出来ない空気になっていた。
「というわけで!僕と長次は席を外しているから、包帯替えてあげてねトメサブロー」
あ、包帯はいつもの棚だよ~と言い残すと医務室の戸は閉じられた。
医務室には私と留三郎だけ。ただ沈黙が流れる。
「……っ、と、留三郎、包帯、お願いできる?」
「……ああ」
するりと寝間着を脱ぐ。衣擦れの音だけが大きく聞こえる。
留三郎が背後に来たのを確認して巻かれていた包帯を緩める。
包帯をすべて取りきって背中を晒した。
大きな袈裟掛けに斬られた刀傷が多分、留三郎の目には映ったんだろう。息を吞む、そんな気配がした。
――もともと綺麗な身体ではなかった。
小さな傷跡なんてものは、今までもかなり残っていたし、留三郎以外の男に身体を触らせたこともあった。
私は、忍術学園を卒業したら家に入る。嫁になる。忍者一家の跡取り娘である私は、忍者の嫁となるからくの一にはならない。――できるのなら、大きな傷のない身体で嫁ぎたかった。
「――ごめん、留三郎……こんな……大きな傷……もう、綺麗な身体じゃなくなって……」
留三郎が見舞いに来なかったのは、そういうことなんだ。
鼻の奥がツンとなる。
「……!ち、ちがう、ちがうぞ!小春!!ああ、泣くな。泣かないでくれ」
「え……ちがう、の……?」
後ろを振り返る。随分と間抜けな声が出た気がする。
「あー!前を隠してくれ!!」
留三郎の言葉にさして大きくもない胸を晒していたことを思い出す。すぐに布を手繰り寄せた。
顔を逸らした留三郎は赤くなっていた。
私が前に向き直ると、留三郎は濡れた手ぬぐいで丁寧に背中を拭い始めた。
「おまえが大怪我して戻ってきたとき、かなり動転したんだ。」
「うん」
「手は何度温めても冷えたままだったし、頭はクラクラするし、腹は軽いしでな。医務室の前で待ってたら伊作に心配されてしまった」
「うん」
私は、短く相槌を打った。ただ、留三郎の言葉に耳を傾ける。
「忍たるもの怪我をするのはつきものだ。だから、小春が怪我をすることも珍しいことではない。動転するのは……俺の心構えがなかったのだと思った」
「そっか」
留三郎の言葉に否定はしない。怪我はつきもの。一々心を乱すべきではない。
「確かに『忍』としては、心を乱すべきではないと思う。でも、同胞を心配することは、必要なことなはず。『心』がなければ、『|忍《わたしたち》』はただの『刃』になってしまう、と思うから」
「そうか、そう、だな」
新しい包帯が巻かれ終わった。もう少しすれば、包帯も必要なくなるだろう。
再び医務室の戸が開かれた。伊作が笑顔で戻って来る。
仲直りできた?と訊いてきたので、二人揃って
「喧嘩なんてしてない」
と答えた。