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 平日11時。床に敷いた布団から見える窓の外が青い。ほんの少し開いたカーテンの隙間からでも十分なほどの青空だ。
 多くの人間が学校なり仕事なりに精を出している時間だ。ところがどっこい俺はどうだろう。
 いくら指定校推薦で進学先が決まったからといって、これはあまりにも、やらかしているのではなかろうか。

「ねーりつきさん、そろそろ起きない?」

 ぼんやりと薄暗い天井を見つめながら、隣で寝息を立てるハイトーンの派手な金髪に話しかける……というか全く反応がないため独り言に近かった。
 息を吸って、吐き出す。遠くの方で微かに踏切が鳴っている。それ以外は静かなものだ。何やってるんだろう、俺。
 微かな不安と焦燥、それからデカめの優越感に駆られていた。
 俺は朝家を出て、そのまま学校へ向うための電車とは別の急行に乗り、ここ、律希さんの部屋に転がり込んでいる。幸い何度か来たことがあったから迷わずに来られたのはいいのだが、こんなことをしていて本当にいいのだろうか、という考えが頭を過ぎる。
 まさかこんなことになるとは思わなかった。鍵を持って帰るわけにもいかないし、かといって、施錠しないまま寝ている人間を放置するわけにもいかない。

「マジで起きねぇし」

 律希さんと会うのは約一ヶ月ぶりだった。相変わらず綺麗な顔で、朝だというのに無精髭ひとつない。
 会えて嬉しい。もうとんでもなく。本人寝てるけど。
 そんな喜びが俺をここに縛りつける一番の理由だった。大多数の人間の活動時間に、転がって好きな人の寝顔を見つめられるなんて、どんな贅沢だろう。
 玄関で潰れていた律希さんを部屋まで運んで、こうして一緒に床に転がり初めてからもう三時間になる。どうせ昨夜の仕事終わりに酔っ払って帰り、そのまま鍵もかけずに撃沈したのだろう。あまりにも不用心だ。
――まぁ、それくらい泥酔してなきゃ俺に「あいたい」なんてメッセージを寄越さないのがこの人だ。だから俺も、皆勤賞など早々に捨てて、ノコノコやってきてしまったのだけれど。

「男子高校生に都合のいい男させんのさぁ、ヤバすぎでしょ。律希さん」

 ぼそりと呟いてもまだ、律希さんが起きる気配はなかった。 
 ブリーチを繰り返した彼の髪はふにゃふにゃで、俺が知っている黒髪時代など見る影もない。触ってみても、もちろん触り心地は全く違う。昔はこんなにチャラい見た目じゃなかった。
 俺の中二の頃の家庭教師で、俺の憧れで――初恋をかっさらった、そういう人だった。なんなら気持ちだけは、さらったまま持ち逃げされ続けている。

「んん……」
「お、律希さん、起きた?」
「……おり……?」

 俺に気づいた律希さんが、無理矢理まぶたをこじ開けて、険しそうにこっちを見た。状況が掴めていないらしい。なんで、と舌っ足らずに掠れた声で呟く。

「律希さんが呼んだんだろ」
「はぁ……? つか、いまなんじ」
「11時。朝の」
「え、お前学校は? 平日だよね」
「行ってないからここにいるんじゃん」
「そりゃそ、や、そうじゃなくて」

 はぁ〜〜と盛大に溜息をつきながら、律希さんは仰向けのまま両手で顔を覆った。

「昨日の記憶がない……」
「だろうね。俺が来たとき律希さん玄関で寝てたし」
「うわぁ最悪。てかもしかして僕、お前に電話とかしちゃってた?」

 恐る恐る、と言ったふうに、顔に乗せたままの指の隙間から、律希さんがこっちを見る。
 本当になにも覚えていないらしい。一体どれだけ飲めば記憶って飛ぶものなんだ。未成年の俺には知る由もないが、クラブのバーテンダーという職業柄、そういうことも珍しくないのだろうか――俺が知らないだけで。
 そう思うと少々イラッときて、意地の悪いことを言いたくなった。

「いーや? 朝7時に『あいたいよぅはーと、おりくんだいすきぃ』ってDMきた」
「うそだ……しかもDM? まってスマホどこ……やだでも見たくないそんなの……死にてぇ」

 やっぱり顔を覆ったまま、律希さんはごろりと俺に背を向けるように転がった。おかげで体の正面が壁にぴったりとくっついている。苦しくないのだろうかというくらいだ。そのまま小さく丸くなってからは、「マジで無理」「ほんとやだ」と唸るように呟いていた。
 そんな姿に、思わず笑みが浮かぶ。人が周知にもだえる様を見ながら笑うのは悪趣味なのかもしれない。けれどたまらなく可愛くて、たまらなく好きだった。
 俺の言うとことを真に受けるところも、酔った自分が俺に恥ずかしいメッセージを送る可能性があることを否定しないのも。

「はは、来てよかった。ここまで恥ずかしがる律希さんなんてめずらしい」
「織くんはいつからそんな悪趣味になったんだい……」
「律希さんを好きになったときから?」
「うわ、最近の高校生こわすぎ」

 いまだに壁の方を向いて、布団ごと丸まったままの律希さんに近づく。俺の返答のせいでなんだかさっきよりも丸くなった背中をつん、とつついた。途端にびくっとした体を見逃さずに、ちらっと見えている耳元で囁く。

「嬉しかったよ。会いたいって言ってくれて」
「記憶にないからノーカンで」
「だめ。はい見て。ちなみにもうスクショしてバックアップしたから」

 肩を掴んで、半ば無理やりこっちを向かせた。知り合ってから三年を過ぎたあたりで律希さんの身長は越していた。そのおかげ、単純な力比べなら俺の方が強い。

「いい……! 見せなくていい! これ以上耐えられない! 酔っ払って歳下の男子高校生に甘えたDM送るとか辛すぎる」
「大丈夫だって、いーから」

 寝転んだままの律希さんに、スマートフォンの画面を見せつける。
 メッセージアプリではなく何故かSNSのダイレクトメッセージに送信された言葉は、シンプルにたった一行。
『あいたい』その一言だけだった。

「うそつきか……」

 そう呟いて、律希さんがじっとりと俺を睨む。俺が教えた恥ずかしい内容は、たしかにからかう為に盛ってはあった。――とはいえ、普段会いたいなんて言わない律希さんのこれは、もはやそういう事だろうと思うのだ。

「律希さんの会いたいには俺が言ったくらいの意味、込められてるっしょ」
「んなわけあるか」
「いやいや? よいしょ」

 強く否定する律希さんをよそに、俺はその細い体にマウントを取った。露骨にえっ、と固まった表情がおもしろくて、唇の端が持ち上がるのを隠しきれない。
 俺と律希さんのそもそもの始まりは家庭教師とその生徒。俺が生徒を辞めてからは兄弟のようでもあり、歳の離れた友達のようでもある。今だってそうだ。
 けれど――もちろん、そんな関係じゃ満足出来ない。
 律希さんが寝ているうちはまだ、世間的に子供である俺が、こんな時間にここにいていいのだろうかと迷うところもあった。迷惑になるんじゃないだろうか、とも考えていた。でも、もう――。

「せっかく学校サボってきたし、もういいよね」
「織くんは泥酔して羞恥にまみれた僕をついに犯罪者にでもしたいのかな? ヤバいよそれは」
「もう手遅れだろ。律希さん、第三者から見れば朝っぱらから部屋に高校生連れ込んでるんだよ? それに未成年に『会いたい』なんてその気にさせるようなこと送った時点でアンタが悪い」

 強めの語気で言い切ると、真下の唇が言葉を詰まらせた。俺もこの人も、きっと邪魔なものはモラルと法律と世間体だけなのだ。
 チャラついた見た目よりずっと「大人」をやっているこの人は、きっと俺なんかよりもそのことを分かっている。それが俺といる上で、どれだけ大切なことかも。
 
「律希さんが俺の気持ち知ってて、だから上手い具合に距離取ろうとしてるの、ちゃんと分かってるつもりだった。だから昨日まで、それでいいと思ってた」
「分かってんなら、最後までいい子でいてくれればよかったのに」

 どこか拗ねたように逸らされた視線すら、いまは逃がしたくなかった。我儘なことは百も承知だ。

「だって我慢して待って、律希さんの気が変わらない保証てか、待っててくれる保証なんてどこにもないじゃん。高校卒業まで? 成人まで? それすら定かじゃないのに」
「……それはお互い様だろ。別に織だけが我慢してたわけじゃない。つーかこの関係どう足掻いても分が悪いの僕の方だし」

 そう言われるとぐうの音も出ない。それでももう一度、こっちを見て欲しくて、律希さんの頬に触れる。じゃれて絡むことはあっても、自分からこんな風に触るのは初めてだった。
 そのあたたかさに駄々をこねたいような、縋りたいような、なんとも言えない感情が込み上げる。
 
「そういうの、ちゃんとこっち見て言ってよ」
「織、」

 鼻の先が当たりそうな距離で、強引に視線を合わせた。近づいたぶん、まだ律希さんからは微かにアルコールの匂いがしていることが分かる。
 たしなめるような響きでもう一度名前を呼ばれたが、その口を塞いでみたくなるばかりだった。
 そうして暫く無言のまま睨み合って、もう観念しようかと頭をちらつき始めた頃。律希さんが僅かに先にはあ、と息を吐いた。

「……だってさぁ、織くん」
「なに」
「例えば今ここで高校卒業したら付き合おうって約束するとか……まぁ言ってしまえば、このまま手とか出してなし崩し的に付き合ったりするとするじゃん」
「そんなことしてくれんの?」
「まぁ最後まで聞けって」

 そこで一度、律希さんはちらりと別の場所に目線をやった。恐らくは、窓の向こう。秘密を目の前にして躊躇う俺たちには、嫌味なほどの青空を見たのだろう。観念したかのように。
 律希さんが言葉を続ける。

「僕はさぁ、織。お前が途中で他の人好きになったりするの、多分耐えらんないんだよね。下手したらこの部屋で首吊りかねない」
「なんだよそれ、じゃあ、」
「人の気持ちは変わるものだからさ。子供のお前にそんな激思感情背負わせたくなかったわけ。――だから、このまま。このままでいるつもりだったんだよ、適当に距離とって、ずっと。ただの都合のいいお兄さんでいるつもりだった」
「……」
「はは、引いた?」

 すぐに言葉がでず、ただ首を横に振ることしかできなかった。ただ苦笑いを浮かべる律希さんを目の当たりにして、腹の底からふつふつと湧き出す感情があった。
 引く、なんてとんでもない。嬉しいとかそういうのでもない。これはもっぱら怒りに近かった。同時に、ひどい寂しさにも襲われた。
 ふざけんなよ、と喉までせりあがった言葉を、それでも俺はなんとか押しとどめた。今聞かされた言葉が、紛れもなく律希さんの覚悟だったからだ。
 声を発さない代わりに、俺は細い体を抱きしめた。はために見れば、抱きついているといったほうが正しいかもしれないが。

「……本当は僕がさっさと一線引いて、織の目の前から消えればよかったんだけどさ。どうしてもできなかった。勝手だよな」

 ずっと黙って聞いていた俺の頭を、伸びてきた律希さんの手が優しく撫でる。まるで、謝るような手つきで。
 昔から頭はよく撫でられてきたけど、こんなに弱々しく触れられるのもまた初めてだった。
 
「なんかごめん。めんどかったら、忘れていいから。僕の存在ごと。重くて気持ち悪いとかだったら消えるし、フツーに」
「……いやさぁ。律希さん、なんでそうなる。俺の気持ちそんなに軽そう?」

 俺はゆっくりと顔を上げると、申し訳なさそうな律希さんの表情が、ゆっくりと困惑に変わっていく。なんなら、えっなんで怒ってんの? と顔に書いてある。いやいや分かれよバーカ!……なんて小学生みたいな言動をしなかっただけ、俺はよく頑張ったというものだ。
 誠に遺憾である。このセリフが脳内にでかでかと浮かぶ。
 中学二年の冬から高校三年の秋現在、このいわゆる青春真っ只中の期間を全て、俺が誰に捧げたと思ってるんだこの人は。

「ねぇ、全部喋った今でもまだ、俺と適当な距離感保ってこれまで通りにとかって考えてたりする? もしかして、この期に及んで、俺と別れた後音信不通になる算段でも考えてたり?」

 一息で詰め寄った俺に、いやそんなこと、と律希さんが言い淀む。案の定だ。
 怒りよりも先に特大のため息が出た。意外に分かりやすいところがあるのが、この人の可愛いところだと、気づいたのは最近だ。しかし今は可愛さあまって、でもあった。
 本当にもう、ため息しかでない。

「俺はもうすでに、中二から高三までの青春をあんたに全部持ってかれてる。けどそれでもまだ足りないなら、その後の時間いくらつかってもいい。律希さんが納得するまで俺から逃げていいよ」

 そう告げると、律希さんが目を見開いた。言葉を失っている間に体勢を起こすと、押し倒していた律希さんもついでに引っ張り起こす。
 転がっていた時よりもずっと真正面で目と目が合う。もう二度と逸らされないように、両手で目の前の顔を挟んだ。

「逃げてもいい――けど、アンタが本気で嫌がるまでずっと追い回すから、本気で嫌になったらちゃんと警察呼んでね」

 こんな気味の悪い告白がいまだかつてあっただろうか、と自分でも薄々感づいてはいた。が、撤回する気も取り繕う気もなかった。
 今さらここで引き下がれるのなら、ここまで好きでいられるはずがないし、きっと今、この部屋にいることもなかったのだ。
 律希さんはしばらくきょとんとした顔をして、それからきゅっと眉を寄せた。そうして次第に、肩を震わせ始めた。

「ふふ、ははは……っ、なにそれ未成年淫行野郎VSストーカーじゃん」
「一緒に捕まる?」
「ばか、未成年とは行く先別だし」
「マジレス〜」

 二人して堪えきれずに、ゲラゲラと笑い声を上げた。離れていた体を引き寄せて、もう一度抱きしめる。
 ぴったりと引っ付いて抱きしめ合いながら、俺たちはそのまま、しばらく笑っていた。
 ようやく笑いが収まった頃、律希さんがとんとんと俺の背中を叩いた。

「すごい今更……ていうか、呼んどいてアレだけど、今日学校に連絡とかは」
「してない」
「……それはまずいだろ。心配かけると困るのは織じゃん」
「あぁまぁ、友達には午後から出るから、先生に言っといてって伝えてあるからへーき」
「なるほど、さすが僕の元教え子」 
「当然じゃないですかりつ先生」

 昔の呼び名で返せば、うわぁ背徳感、と腕の中で声がむず痒そうな上がった。
 りつ先生と呼んでいた頃はまだ、俺の方がずっと華奢で小さかった。なんなら声変わりの遅かった俺は、呼ぶ声すらあの時のものじゃない。
 そう考えると、あの頃の自分にこの状況を自慢してやりたいような、なんとも言えない気分だった。

「ねぇ織、」
「んー」
「高校卒業したらさぁ、ここの鍵あげるよ。スペア」
「え、」

 思わず体を離して、律希さんの顔を見る。その目は照れているようで、しっかりとこっちを見つめ返してくれていた。
「首じゃなくて、腹くくろうかなって」と、そう笑う顔に、なぜか泣きそうになる。

「っ……上手いこと言う」
「だ、」

 きっと「だろだろ〜」とかそんな風に続けるつもりだったんだろう。けど、それよりも先にこっちが我慢できなかった。自身の涙目を誤魔化すように、律希さんの口を塞ぐ。
 ん、と驚く声がくぐもっていて、押し付けた唇が濡れていて柔らかい。ほとんど衝動的なファーストキスだった。やめろと抵抗されもしない。それどころか、顔に手を添えられて、角度を変えて再度唇が合わさる。ちゅ、ちゅと唇が重なる度に、音の粘度が増していく。――ヤバイ、これ、最高にいい。

「は、りつき、さ……っ」

 もう微かに息すら上がっていた。もっと欲しい。体に火のつく寸前だった。
 
「だめだって、これ以上は。午後から学校行くんだろ?」
「そっ……! それを今言うか……」
「はは、ちゃんと高校卒業しなきゃだもんなぁ?」

 にやりと笑って律希さんの手がするりと離れる。確かに。確かにそうだが。味見だけさせてお預けはあまりにも、あまりにも無慈悲だ。
 今度は俺が両手で顔を覆って、布団に転がる転がる番だった。それこそ、午後の授業に間に合う、ギリギリまで。



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