長編:一兎を奪ったそのあとで
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1.地図があっても迷うもの
(一兎を奪う:イゾウ視点)
真っ赤な血がこんなにも恐ろしいと思ったことがあっただろうか。
遠征からやっとの事で帰ってきて、これからゆっくり話をしようと思っていたのにままならないものだ。タイミングの悪いことに早朝の敵襲。遠征に同伴していた隊員をいたわり、出迎えてくれた隊長どもに軽い返事を返し、親父に報告するかと足を向けた時のことだった。
「機嫌を悪くする前に手を動かしたら?」
「扱いが荒いことで。俺は今しがた帰ってきたばかりなんだが?」
「空気を読みなよ」
「分かってら」
本当にタイミングが悪い。敵船は多く、負けるとは思わないが少し不快を与えて来るような空気は雑魚とは言えないことを示していて、ユリトがこの船に乗って以来一番の派手な戦闘になるかもしれないなと感じてはいた。疲労がないとは言えないが、ハルタが言うように早く済ませたいのなら自分も動くべきなのは明確で、だがそれが仇になるとは思ってもいなかった。
「イゾウさん!」
未だ激しい戦闘のさなかの甲板に聞きたかった声で名前を呼ばれ驚いた。聞きたかった声とは言え、喜べやしない。こんな誰が見ても安全とは言えない場所になぜ飛び込んでくるのか、戻れと怒鳴りたかったがこちらにかけてくる彼女が攻撃を全部弾いているのを見て一瞬安堵し、しかし次の瞬間にははっと気がついてやはり「来るな!!」と叫んだ。
反射で一歩下がったことにより、背を預けて戦っていたハルタに軽くぶつかった。戦闘中ではその小さな隙が命取りになることは知っているし、詫びるべきだし、その前にその隙を埋めなければいけないのは頭のどこかで分かっていたがその一瞬だけは飛び込んでくる彼女のことだけしか考えていなかったのは確かで。
聞き慣れた銃声。見慣れた血。見開かれる目だけがひどく記憶に残った。
「かえります」
腕の中にいる彼女に微笑まれて、血でも飛んでいたのか指を頬に滑らされた。震える手でその手を取った時には全く力が入っていなくて。
そこから先は記憶がない。
気づいたらぼんやりとベッドの横に座っていた。清潔な真っ白なベッドに横たわる彼女の顔は青白くて、そのせいか輸血の血が不吉なほど赤く見えた。死にはしない。けれど、もう時間がないことも、待ってやれないこともどこかで分かっている。
横たわるユリトの髪をそっと梳けば、細くて少し癖のある黒髪がするすると指を通り抜ける。自分と同じ色の髪。いつも同じようにぴょこりと結んでいるからいつかいじってやろうと思っていた。化粧を全くしない肌はきめ細かく何もしなくても愛らしいのは知っていたが、いつか化粧をしてやろうと思っていた。熱くも薄くもない唇はいつも自分の名前を呼び、たった一度しか触れたことはないがいつか、と思っていた。
いつか、いつか、いつか。
はたと気づいた。自分はいつからこんなに海賊らしくない思考をしていたのだろうかと。
好いた理由はない。けれど欲しいと思った。理由はないが欲しいと思った、なんて海賊らしい考えだろう。じわじわと水が染みこむように溶け込むのを待つのは得意だと思っていたが、彼女がそれでは染まらないと言うならばその細い足にでも鎖を巻いて部屋にでも入れてしまえばいいのではないか――ひたり、頬を手のひらで包む。
「イゾウ、親父に報告はしたよい」
「……ああ」
「イゾウ……?」
船医でもあるマルコはあの時瞬時に俺とハルタの元に飛んできて、その青い翼で守ってくれたらしい。らしいというのはやはり記憶がないから後から聞いた話でしかないからだ。薄らと残る記憶ではマルコに「診るから離せ」と言われた様な気がする。ああ、なら自分はユリトを抱えたまま戦っていたと言うのだろうか。それならば、馬鹿だ。
この船では器用な方だったはずだ。それなのに、彼女のことだと思考も行動も鈍る節がある。うまく思考もまとまらず、だから行動にも移せない自分に戸惑いいらだつ。それをぐっと押し込めて理性的であろうとする自分は馬鹿だとは思うし、取り繕った理性なんて結局なんら意味も持たないことは分かっているのにうまくいかない。ため息すらも飲み込んでただただじっと彼女を待つのが馬鹿だというなら、やはりもう――。
「……イゾウ」
「……何だ」
「少し休め。疲れてんだろい」
状態的にも朝までは目覚めない、と言うマルコにゆっくりと顔を向ければ少し頭がさえた。凪いだ垂れ目。それを見て息を吐く。
「めんどくせえ女を好きになったねい」
「俺には似合いだろう?」
「ああ。この船にもな」
それはすぐにでも縛り付けろという意味か。そう目で問えばマルコはため息をついた。
「馬鹿なこと考えんな。俺たちもユリトのことは気に入ってるつーこったい」
ひらりと後ろ手に手を振ってマルコは医務室から出て行った。静かな部屋の中でそっと目を閉じる。とにかく、ユリトが目覚める前に何かを決めなければ。
俺はじいっと考えた後、そっとユリトの首に遠征に出かける前に奪っていった鍵を戻した。
(一兎を奪う:イゾウ視点)
真っ赤な血がこんなにも恐ろしいと思ったことがあっただろうか。
遠征からやっとの事で帰ってきて、これからゆっくり話をしようと思っていたのにままならないものだ。タイミングの悪いことに早朝の敵襲。遠征に同伴していた隊員をいたわり、出迎えてくれた隊長どもに軽い返事を返し、親父に報告するかと足を向けた時のことだった。
「機嫌を悪くする前に手を動かしたら?」
「扱いが荒いことで。俺は今しがた帰ってきたばかりなんだが?」
「空気を読みなよ」
「分かってら」
本当にタイミングが悪い。敵船は多く、負けるとは思わないが少し不快を与えて来るような空気は雑魚とは言えないことを示していて、ユリトがこの船に乗って以来一番の派手な戦闘になるかもしれないなと感じてはいた。疲労がないとは言えないが、ハルタが言うように早く済ませたいのなら自分も動くべきなのは明確で、だがそれが仇になるとは思ってもいなかった。
「イゾウさん!」
未だ激しい戦闘のさなかの甲板に聞きたかった声で名前を呼ばれ驚いた。聞きたかった声とは言え、喜べやしない。こんな誰が見ても安全とは言えない場所になぜ飛び込んでくるのか、戻れと怒鳴りたかったがこちらにかけてくる彼女が攻撃を全部弾いているのを見て一瞬安堵し、しかし次の瞬間にははっと気がついてやはり「来るな!!」と叫んだ。
反射で一歩下がったことにより、背を預けて戦っていたハルタに軽くぶつかった。戦闘中ではその小さな隙が命取りになることは知っているし、詫びるべきだし、その前にその隙を埋めなければいけないのは頭のどこかで分かっていたがその一瞬だけは飛び込んでくる彼女のことだけしか考えていなかったのは確かで。
聞き慣れた銃声。見慣れた血。見開かれる目だけがひどく記憶に残った。
「かえります」
腕の中にいる彼女に微笑まれて、血でも飛んでいたのか指を頬に滑らされた。震える手でその手を取った時には全く力が入っていなくて。
そこから先は記憶がない。
気づいたらぼんやりとベッドの横に座っていた。清潔な真っ白なベッドに横たわる彼女の顔は青白くて、そのせいか輸血の血が不吉なほど赤く見えた。死にはしない。けれど、もう時間がないことも、待ってやれないこともどこかで分かっている。
横たわるユリトの髪をそっと梳けば、細くて少し癖のある黒髪がするすると指を通り抜ける。自分と同じ色の髪。いつも同じようにぴょこりと結んでいるからいつかいじってやろうと思っていた。化粧を全くしない肌はきめ細かく何もしなくても愛らしいのは知っていたが、いつか化粧をしてやろうと思っていた。熱くも薄くもない唇はいつも自分の名前を呼び、たった一度しか触れたことはないがいつか、と思っていた。
いつか、いつか、いつか。
はたと気づいた。自分はいつからこんなに海賊らしくない思考をしていたのだろうかと。
好いた理由はない。けれど欲しいと思った。理由はないが欲しいと思った、なんて海賊らしい考えだろう。じわじわと水が染みこむように溶け込むのを待つのは得意だと思っていたが、彼女がそれでは染まらないと言うならばその細い足にでも鎖を巻いて部屋にでも入れてしまえばいいのではないか――ひたり、頬を手のひらで包む。
「イゾウ、親父に報告はしたよい」
「……ああ」
「イゾウ……?」
船医でもあるマルコはあの時瞬時に俺とハルタの元に飛んできて、その青い翼で守ってくれたらしい。らしいというのはやはり記憶がないから後から聞いた話でしかないからだ。薄らと残る記憶ではマルコに「診るから離せ」と言われた様な気がする。ああ、なら自分はユリトを抱えたまま戦っていたと言うのだろうか。それならば、馬鹿だ。
この船では器用な方だったはずだ。それなのに、彼女のことだと思考も行動も鈍る節がある。うまく思考もまとまらず、だから行動にも移せない自分に戸惑いいらだつ。それをぐっと押し込めて理性的であろうとする自分は馬鹿だとは思うし、取り繕った理性なんて結局なんら意味も持たないことは分かっているのにうまくいかない。ため息すらも飲み込んでただただじっと彼女を待つのが馬鹿だというなら、やはりもう――。
「……イゾウ」
「……何だ」
「少し休め。疲れてんだろい」
状態的にも朝までは目覚めない、と言うマルコにゆっくりと顔を向ければ少し頭がさえた。凪いだ垂れ目。それを見て息を吐く。
「めんどくせえ女を好きになったねい」
「俺には似合いだろう?」
「ああ。この船にもな」
それはすぐにでも縛り付けろという意味か。そう目で問えばマルコはため息をついた。
「馬鹿なこと考えんな。俺たちもユリトのことは気に入ってるつーこったい」
ひらりと後ろ手に手を振ってマルコは医務室から出て行った。静かな部屋の中でそっと目を閉じる。とにかく、ユリトが目覚める前に何かを決めなければ。
俺はじいっと考えた後、そっとユリトの首に遠征に出かける前に奪っていった鍵を戻した。
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