長編:一兎を奪う
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28.涙を流した兎は望む
気がついたら真っ暗な場所で泣いていた。泣きながら怒っていた。何もかもうまくいかなくて、何にもない空間なことをいいことに声を上げて泣き、八つ当たりに真っ暗な地面をたたいた。
視界が下がったり上がったり。きっとうさぎになったり戻ったりしているのだろう。
むかつく。本当に。
ずっと優しい人たちに守られていたせいか、悪い人間のことを忘れていた。そりゃそうだ。自分がこっちの世界に来たとき、私は何を思った?
あの爆発の音や、武器が交わる音を聞いて、すぐに死ぬと思ったんじゃなかったか。だから生きて帰るためにあの船に乗ることを決めて。そして、帰り方を知って怖くなって甘えてあの船にずっと乗っていたんじゃなかったか。
……違う、そうじゃなくて。
うずくまる。苦しくて。痛くて。
帰りたいと思っていたなら、すぐにでも船を下りるべきだった。死ぬのが怖いだなんて甘えだった。私は家族が大事だ。私は家族に会いたかった。だから帰りたかった。でも、いつの間にか船の生活が好きになっていた。船のみんなもよくしてくれて、一緒に洗濯をしたり料理をしたり。書類仕事を手伝って、夜は宴だ何だと騒いで、そしていつも傍らには彼がいて。
会話が多いわけでも、何かをしたわけでもないのに、はじめに助けてくれたからか彼は居心地がよくて、名前を呼べばいつも「なんだ」と薄く笑って振り返ってくれたことにどれだけの安心を得ていたか。
分かっているつもりでいた。自分に取って彼が大事だと言うことは自覚しているつもりだった。それでも家族が大事だと言うことは変わらなくて、それを彼も理解してくれていてお互いに曖昧な関係でいたはずだった。
泣いて叫んで怒って。これまで感じたことがないほどの感情を吐き出すように暗闇の中で吠えた。初めての強い強い感情に潰されそうで。気づいたら、すがるように伸ばした手は温かいそれに取られていた。
『だから母さんには言っておくって言ったじゃないか』
「おとーさ……」
『あーあー、そんなに泣いて。誰だ、娘を泣かしたのは』
冗談っぽく笑う父親はそっと私の手を引いて抱きしめてくれた。仕事をしていたのか、着物と頬がぴったりとくっつく。鼻をくすぐる白檀の匂いにまたぼろりと涙が出た。会いたかった。あんなにも帰りたいと、会いたいと思ってやっとで会えた。けれどもう、悲しくて仕方なかった。
白檀の匂いと畳の匂い。そして本の匂いから、ここは家だと分かる。匂いも感触も音も全部が私が生まれてから育った環境だと分かるのに、抱きしめてくれる温度だけは感じられず帰ってきた訳ではないのだと分かった。
『あっちの世界にいたんだろう?」
とんとんと背をたたかれながら聞かれる。私はただうなずいた。それに父は笑って、私が首から提げている鍵に触れた。
『あいつの匂いだ』
「イゾウさんの……?でも……」
『もともとはあいつの匂いだよ。父さんは忘れないように焚いていただけさ。父さんがどうやってこっちの世界に帰ってきたかはもう知ってるかい?』
うなずけば父は一冊の本を私に差し出した。小さい頃よく読み聞かせてくれた本だ。薄紫色のそう厚くはない本。ページをめくると古い紙の匂いが鼻をくすぐる。私が小さな頃からあるこの本は何度も読まれ、紙が少しだけ黄ばんでいる。
話はとある世界に落っこちた男の話。不思議な血を持つその男が、王様に気に入られて捕まってしまう話だ。イゾウさんにあっちの島に伝わると言う話を聞いたとき、落ちが分かったのはこの話にとてもよく似ていたから。でも、違うのはこの話では島に落っこちた男はその世界で仲良くなった友人に助けられるところ。
「……似たような話があっちの世界に伝わってたよ。王様が男の人の血を死んじゃうまで採っちゃう話」
『この本では落っこちてきた人間と仲良くなった男が王様から逃がしてくれる話だったろう?』
「……それが父さんとイゾウさんの本当の話?」
『そうだ。『お人好しの馬鹿野郎、さっさと死ね』が彼の最後の言葉だよ』
あんぐりと口を開けてしまった。仲が良さそうに見えたのに違ったのだろうか。困惑していれば父はおかしそうに笑った。「仲はよかったよ」と。だから帰してくれたのだと言う父は続きはイゾウさん本人から聞くといいと言った。私はうつむく。
「……できないよ」
『うん?どうしてだ?』
「私、帰るって言って船を出ちゃったんだもん……」
『実家に帰らせていただきますって?』
「……冗談言わないで」
『ははは。全く意気地なしな男だなあ。人の大事な娘をもらうならちゃんとして欲しいもんだ』
なあ?と笑われて、私は涙をこぼした。それから首を横に振る。違う。イゾウさんは悪くない。彼は私の思いを尊重してくれていただけだ。父が笑ったのか空気が揺れた。
『ユリトは優しいからなあ。父さんのことを心配してくれていたんだろう?父さんが病気がちで、母さんが一人になると心配したんだろう?』
「だって、私はお父さんとお母さんが大事だからっ……」
『うん、父さんも母さんもユリトのことが大事さ。大事で、大好きで、愛おしくて、幸せになって欲しいと思ってる。でも、ユリトが言ってたんじゃないか、『この話はおかしい、続きがあるはずだ』って』
年を感じさせる手が、本を裏返した。そしてぺらりと一枚めくったそこには一人で立ち尽くして泣く男の挿絵。ああ、思い出した。この本の最後は、落ちてきた男は元の世界に戻ってくるんだ。落ちた世界で仲良くなった友人に殺されて。そして戻ってきた世界で男は泣いた……そんな話だったから、何度も何度も読まれるたびに私は。
『この話には続きがあるはずだ』
「……だってハッピーエンドじゃない」
『そう。よく覚えてるじゃないか』
ごめんなさい、と無性に謝りたくなって涙をこぼしながらそう繰り返した。父にも母にも謝りたかったし、きっと一番傷つけてしまっただろう彼に一番謝りたかった。
ずっと父と母という家族だけを大切にしてきたから、ほかの物をどんな風に大事にすればいいかなんて分からなかったのだ。だから自分の気持ちも曖昧にして、それを許してくれた彼に甘えていた。
「親孝行もせずにあっちに行く娘でごめんなさい」
『何を言ってるんだ。子どもの幸せを祝えない親じゃないよ。まあ、あいつがまたお前を泣かせるようだったら奪いに行こうかな』
これでも一時は海賊だったんだから、と笑う父は「ニューゲートにもよろしく」と言った。
『ユリト』
「お母さん……」
父から母へ。同じように抱きしめてもらってもやっぱり温度は感じない。こっちの世界は夢で会える。けれどそれはやっぱり夢で、姿も見えて声も聞けて確かにいると分かるのに温度を感じることはできない。
『帰ってきたくなったら眠りなさいね』
「……夢を見ない日もあるよ」
『彼と喧嘩した日なら見れるんじゃないかしら。ああ、でも仲良くやりなさいね。大事な人は大事にしなさい』
『うん……でも、どうしよう……』
悪魔の実を食べさせられて帰れなくなったから戻ってきたと思われないだろうか。帰れなくなったから「好きだ」と言ったと思われないだろうか。彼はいくらでも待つと言ってくれたのに、「帰れなくなったから」と戻ることはできない。
『自分の気持ちに嘘をつくよりよっぽどすっきりするわよ』
『気持ちを無下にするような男じゃなかったと思うけどなあ』
ぼろぼろと涙がこぼれる。どれも本当だった。家族が大事だったのも、船の生活が存外楽しかったのも、みんなと彼を好きになったのも、でもやっぱり帰りたい気持ちがあったのも。けれど全部を叶えるには難しくて、どれを手放すか迷っているうちに全部指の間からすり抜けてしまった。
帰りたいと思っていた気持ちはどこか揺れて不安定に。死ぬのが怖いとたじろいでいれば、望まない形で生かされて。家族に会いたいと願ったけれどそれももう、きっと本当の意味では難しい。でも、まだ望んでもいいと言うなら私は――。
大好きな手が涙を拭ってくれる。温度は感じられないはずなのに、少しだけ温かい気がした。そっと一度だけ抱きしめられて離れる。首に下げている鍵がちりんとなった。
『幸せにね』
『あいつにもよろしく』
ちりん、ちりんと鈴が鳴る。手を振ってくれる父と母は優しく微笑んでいるのにやっぱり少しだけ寂しくて寂しくて。瞬きをするように暗闇に飲まれるまで涙を拭い続けた。
悲しいわけじゃない。会えて良かった。帰りたかったのもあったけれど、きっと私はなにより会いたかったのだろう。
真っ暗だ。その中を当てもなく歩くだけ。鈴の音だけが励ますように、手を引くように鳴っていた。
気がついたら真っ暗な場所で泣いていた。泣きながら怒っていた。何もかもうまくいかなくて、何にもない空間なことをいいことに声を上げて泣き、八つ当たりに真っ暗な地面をたたいた。
視界が下がったり上がったり。きっとうさぎになったり戻ったりしているのだろう。
むかつく。本当に。
ずっと優しい人たちに守られていたせいか、悪い人間のことを忘れていた。そりゃそうだ。自分がこっちの世界に来たとき、私は何を思った?
あの爆発の音や、武器が交わる音を聞いて、すぐに死ぬと思ったんじゃなかったか。だから生きて帰るためにあの船に乗ることを決めて。そして、帰り方を知って怖くなって甘えてあの船にずっと乗っていたんじゃなかったか。
……違う、そうじゃなくて。
うずくまる。苦しくて。痛くて。
帰りたいと思っていたなら、すぐにでも船を下りるべきだった。死ぬのが怖いだなんて甘えだった。私は家族が大事だ。私は家族に会いたかった。だから帰りたかった。でも、いつの間にか船の生活が好きになっていた。船のみんなもよくしてくれて、一緒に洗濯をしたり料理をしたり。書類仕事を手伝って、夜は宴だ何だと騒いで、そしていつも傍らには彼がいて。
会話が多いわけでも、何かをしたわけでもないのに、はじめに助けてくれたからか彼は居心地がよくて、名前を呼べばいつも「なんだ」と薄く笑って振り返ってくれたことにどれだけの安心を得ていたか。
分かっているつもりでいた。自分に取って彼が大事だと言うことは自覚しているつもりだった。それでも家族が大事だと言うことは変わらなくて、それを彼も理解してくれていてお互いに曖昧な関係でいたはずだった。
泣いて叫んで怒って。これまで感じたことがないほどの感情を吐き出すように暗闇の中で吠えた。初めての強い強い感情に潰されそうで。気づいたら、すがるように伸ばした手は温かいそれに取られていた。
『だから母さんには言っておくって言ったじゃないか』
「おとーさ……」
『あーあー、そんなに泣いて。誰だ、娘を泣かしたのは』
冗談っぽく笑う父親はそっと私の手を引いて抱きしめてくれた。仕事をしていたのか、着物と頬がぴったりとくっつく。鼻をくすぐる白檀の匂いにまたぼろりと涙が出た。会いたかった。あんなにも帰りたいと、会いたいと思ってやっとで会えた。けれどもう、悲しくて仕方なかった。
白檀の匂いと畳の匂い。そして本の匂いから、ここは家だと分かる。匂いも感触も音も全部が私が生まれてから育った環境だと分かるのに、抱きしめてくれる温度だけは感じられず帰ってきた訳ではないのだと分かった。
『あっちの世界にいたんだろう?」
とんとんと背をたたかれながら聞かれる。私はただうなずいた。それに父は笑って、私が首から提げている鍵に触れた。
『あいつの匂いだ』
「イゾウさんの……?でも……」
『もともとはあいつの匂いだよ。父さんは忘れないように焚いていただけさ。父さんがどうやってこっちの世界に帰ってきたかはもう知ってるかい?』
うなずけば父は一冊の本を私に差し出した。小さい頃よく読み聞かせてくれた本だ。薄紫色のそう厚くはない本。ページをめくると古い紙の匂いが鼻をくすぐる。私が小さな頃からあるこの本は何度も読まれ、紙が少しだけ黄ばんでいる。
話はとある世界に落っこちた男の話。不思議な血を持つその男が、王様に気に入られて捕まってしまう話だ。イゾウさんにあっちの島に伝わると言う話を聞いたとき、落ちが分かったのはこの話にとてもよく似ていたから。でも、違うのはこの話では島に落っこちた男はその世界で仲良くなった友人に助けられるところ。
「……似たような話があっちの世界に伝わってたよ。王様が男の人の血を死んじゃうまで採っちゃう話」
『この本では落っこちてきた人間と仲良くなった男が王様から逃がしてくれる話だったろう?』
「……それが父さんとイゾウさんの本当の話?」
『そうだ。『お人好しの馬鹿野郎、さっさと死ね』が彼の最後の言葉だよ』
あんぐりと口を開けてしまった。仲が良さそうに見えたのに違ったのだろうか。困惑していれば父はおかしそうに笑った。「仲はよかったよ」と。だから帰してくれたのだと言う父は続きはイゾウさん本人から聞くといいと言った。私はうつむく。
「……できないよ」
『うん?どうしてだ?』
「私、帰るって言って船を出ちゃったんだもん……」
『実家に帰らせていただきますって?』
「……冗談言わないで」
『ははは。全く意気地なしな男だなあ。人の大事な娘をもらうならちゃんとして欲しいもんだ』
なあ?と笑われて、私は涙をこぼした。それから首を横に振る。違う。イゾウさんは悪くない。彼は私の思いを尊重してくれていただけだ。父が笑ったのか空気が揺れた。
『ユリトは優しいからなあ。父さんのことを心配してくれていたんだろう?父さんが病気がちで、母さんが一人になると心配したんだろう?』
「だって、私はお父さんとお母さんが大事だからっ……」
『うん、父さんも母さんもユリトのことが大事さ。大事で、大好きで、愛おしくて、幸せになって欲しいと思ってる。でも、ユリトが言ってたんじゃないか、『この話はおかしい、続きがあるはずだ』って』
年を感じさせる手が、本を裏返した。そしてぺらりと一枚めくったそこには一人で立ち尽くして泣く男の挿絵。ああ、思い出した。この本の最後は、落ちてきた男は元の世界に戻ってくるんだ。落ちた世界で仲良くなった友人に殺されて。そして戻ってきた世界で男は泣いた……そんな話だったから、何度も何度も読まれるたびに私は。
『この話には続きがあるはずだ』
「……だってハッピーエンドじゃない」
『そう。よく覚えてるじゃないか』
ごめんなさい、と無性に謝りたくなって涙をこぼしながらそう繰り返した。父にも母にも謝りたかったし、きっと一番傷つけてしまっただろう彼に一番謝りたかった。
ずっと父と母という家族だけを大切にしてきたから、ほかの物をどんな風に大事にすればいいかなんて分からなかったのだ。だから自分の気持ちも曖昧にして、それを許してくれた彼に甘えていた。
「親孝行もせずにあっちに行く娘でごめんなさい」
『何を言ってるんだ。子どもの幸せを祝えない親じゃないよ。まあ、あいつがまたお前を泣かせるようだったら奪いに行こうかな』
これでも一時は海賊だったんだから、と笑う父は「ニューゲートにもよろしく」と言った。
『ユリト』
「お母さん……」
父から母へ。同じように抱きしめてもらってもやっぱり温度は感じない。こっちの世界は夢で会える。けれどそれはやっぱり夢で、姿も見えて声も聞けて確かにいると分かるのに温度を感じることはできない。
『帰ってきたくなったら眠りなさいね』
「……夢を見ない日もあるよ」
『彼と喧嘩した日なら見れるんじゃないかしら。ああ、でも仲良くやりなさいね。大事な人は大事にしなさい』
『うん……でも、どうしよう……』
悪魔の実を食べさせられて帰れなくなったから戻ってきたと思われないだろうか。帰れなくなったから「好きだ」と言ったと思われないだろうか。彼はいくらでも待つと言ってくれたのに、「帰れなくなったから」と戻ることはできない。
『自分の気持ちに嘘をつくよりよっぽどすっきりするわよ』
『気持ちを無下にするような男じゃなかったと思うけどなあ』
ぼろぼろと涙がこぼれる。どれも本当だった。家族が大事だったのも、船の生活が存外楽しかったのも、みんなと彼を好きになったのも、でもやっぱり帰りたい気持ちがあったのも。けれど全部を叶えるには難しくて、どれを手放すか迷っているうちに全部指の間からすり抜けてしまった。
帰りたいと思っていた気持ちはどこか揺れて不安定に。死ぬのが怖いとたじろいでいれば、望まない形で生かされて。家族に会いたいと願ったけれどそれももう、きっと本当の意味では難しい。でも、まだ望んでもいいと言うなら私は――。
大好きな手が涙を拭ってくれる。温度は感じられないはずなのに、少しだけ温かい気がした。そっと一度だけ抱きしめられて離れる。首に下げている鍵がちりんとなった。
『幸せにね』
『あいつにもよろしく』
ちりん、ちりんと鈴が鳴る。手を振ってくれる父と母は優しく微笑んでいるのにやっぱり少しだけ寂しくて寂しくて。瞬きをするように暗闇に飲まれるまで涙を拭い続けた。
悲しいわけじゃない。会えて良かった。帰りたかったのもあったけれど、きっと私はなにより会いたかったのだろう。
真っ暗だ。その中を当てもなく歩くだけ。鈴の音だけが励ますように、手を引くように鳴っていた。