長編:一兎を奪う
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26.氷の温度はいかほどか
『だめよ、ユリト。女は強くなくちゃ』
可笑しそうに笑う母。行きなさいと背を押してくるのは悲しくて。でもそうではない感情も持っているのは自分でも気づいていて苦しくて。そのことに母も気づいているのか手のかかる子を見るような、でも愛おしいものを見るような目で私を見ていた。
『いい人が見つかったとして、どうしたらいいの』
『貴方がしたいようにすればいいのよ』
それはすごく怖いことだ。私には大事なものがある。「いい人」ももちろん大事だけれど、私は家族も大事で。私は「いい人」がとても大事だけれど、その人は私のことは大事ではないかもしれない。いつの日にか、「いらない」と言われる時が来るかもしれない。
『……私は、家族が大事なの。お母さんも、お父さんも、大事なの』
『ええ、知っているわ。私もユリトのことが大事よ。でもユリト、大事なものは増やしてもいいのよ。そして大事にする方法はいくらでもあるわ』
そもそも「あの人」にとっての私はどんなものなのかも分からない。好きか嫌いかで言ったらきっと好きでいてくれているのだろうけれど、私に好きにしろと言ったほどには心に余裕があって、心が広い人だ。きっと私が「嫌い」だと言ったら「そうか」と言うに違いない。私は、それが……とても怖い。
お腹が熱くて痛い。体が重くて頭が回らない。意識が朦朧とする中、『何があっても、自分が決めたと言える選択をしなさい』と母が言うのが聞こえた。どこかで聞いたことのある言葉だ。
白い空間に黒い靄のようなものが広がっている。母が『良くないわね』とあまり見ない厳しい顔でつぶやいたのが聞こえた。けれど私に向ける表情はいつもの母の顔で、なだめるように肩に置かれた手は温かかった。
『女はリスクを避けたがるって言うけれど、お母さんの場合はお父さんより肝が据わった選択ばかりしたわ』
『それって、』
どういうこと。続けようと思った言葉は真っ黒な靄に飲み込まれた。
意識が浮上した瞬間、口の中にどろりとしたものが流れ込んできた。その味がひどくて、苦いのか辛いのかしょっぱいのかとにかく全部の味を混ぜました、と言わんばかりの味で飛び起きた。行儀が悪いとか羞恥とか言っていられないほどひどい味。吐き出すためにほとんど条件反射で起き上がったと言うのにその瞬間お腹に激痛が走ってうっかりうめき声とともに少し飲み込んでしまった。
「ああ!ごめん、起きる前に飲ませてあげようと思ったんだけど!」
そう横から声がしたかと思うと「これ飲んで!」とコップが差しだされた。ほとんどすがるようにそれを口にすればどうやらリンゴ(ぽい)ジュースのようで、一口飲んで二口目は口を漱ぐようにしてから飲み込めば幾分か……いや、涙目だけれど、口の中はましになった。
「な、にこれ……」
「ごめんね~、熱がひどかったから解熱剤を飲ませようと思ったんだけれど、ちょうど起きちゃったんだね。いや、まずすぎて目が覚めちゃったのかな?まあ、どっちでもいいけど体どう?」
「からだ……?」
眠りから覚醒したばかりの鈍い頭では、若い男の人が何を言っているのか分からない。何度か瞬きをして、ゆっくりとあたりを見渡せば、私はベッドの上にいることに気が付いた。
どうなったんだっけ。確か船を飛び出して、海に落ちたけれどたぶんナミュールさんが引き上げてくれて。それでハルタさんが私を帰そうとしてくれたけれど、イゾウさんが――。
「スモーカー大佐が君をここに連れてきたんだよ。一応保護の扱いで、熱と、おなかの怪我がひどいからとりあえず、治療を僕が頼まれた。ここは海軍支部の医務室兼、研究室」
「僕はトゥル・リガ―。リガート、とでも呼んでくれ」と笑う彼はおそらく医者だろう。青みがかかったやや長い灰色の髪をハーフアップにして結び、人好きのする笑顔は子どもを相手にされているようだ。少し汚れた白衣を揺らしながら「点滴見るね~」と緩い口調で医療器具を確認している。
……蹴り倒したスタンドは、船を汚さなかっただろうか。弾いてしまったハルタさんは怪我をしなかっただろうか。いや、それよりも飛び出してきてしまった以上は――
「りがーと、さん」
「うん?うん、そう。僕の名前ね、リガートだよ」
「治療、しなくていいです」
「うん?」
「しなくて、いい」
治療しなくていいと言ったのだけれどリガートさんは頬を掻いた。
「治療しなくてもいいって言われてもなあ……僕の一存じゃあ決められないし」
「本人がいいと言っているのに?」
「うん。もちろん普通の患者だったら本人の意思は尊重するけれど、一応君は、捕縛寄りの保護だからね~」
「そうね、話によっては嬢ちゃんはいろいろ……あーまあなんかあるのよ」
ひやりとした空気が肌を撫で、新しい声にドアの方を見れば長身の男が立っていた。その男になぜか少しだけ見覚えがあって、首をかしげる。どこかで会っただろうか。
「クザンさん、いらっしゃったんです?あ、ま~た、仕事放って来たんでしょ~、部下が泣きますよ」
「いやいや、これ立派な仕事で来てるって。その嬢ちゃんに用事あんのよ」
「……どこかでお会いしましたか」
聞くほうが早いと尋ねれば、長身の男の人はちょっとだけ首を傾げた。
「ありゃま、覚えてねェのか……あーあれだ、嬢ちゃんが初めにいた島、嬢ちゃんが白ひげんとこの隊長に連れ去られる瞬間に会ってる」
「……あおきじ、さん?」
「そそ、まあそれは通り名みたいなもんね。名前はクザン」
「クザン、さん」
「……えーめっちゃいい子じゃん、もう保護で良くない?俺帰っていい?」
「結局職務怠慢じゃないですか」
仕事しなさいさいな、とリガートさんにたしなめられ、クザンさんはめちゃくちゃめんどくさそうにベッド近くの椅子に座った。ぐっと曲がった長い足が窮屈そう。「熱あんの?」と聞かれ「そうらしいですね」と答えればすっと長い腕が伸びてきた。ぱきっと何かが割れるような音が響いて額に当てられた手は冷たい。
「しんどいところ悪いんだけど、嬢ちゃんにいくつか確認しなきゃなんなくてな。まず、嬢ちゃんの名前」
「……ユリトです」
「出身は?」
「日本」
「ニホン。ああ、いや、いい。説明は。知ってる、こことは違う世界のどっかの島でしょ?」
「どうして……?」
「まあ、いろいろあんのよ。嬢ちゃんは、この世界のことをどれだけ知ってんの?」
「それは……どういった意味でですか?」
「あれま、やっぱり賢いのね」
「秘書にならねえ?」という言葉に首を横に振れば残念そうにされる。「仕事しなさいな」とまたリガートさんが言った。どうやらクザンさんは仕事をさぼる人らしい。
「んー……確かめる方法がねェっていうか、めんどくせェ……単刀直入に聞く、嬢ちゃんはこの世界の『未来』を知ってるか?」
「知らないです」
「あーなんだ。よし、俺帰るわ」
「職務怠慢~」
「今に始まったことじゃないでしょーよ」
話は終わりだ、と言うように立ち上がった彼の手が離れていく。その手から、またぱきっという音がして氷のかけらが落ちるのが見えて、能力者であることが分かった。
冷たい氷。きっと凍ってしまえば痛くもないないのではないだろうか。
「クザンさんは」
「ん?」
「私を殺すことができますか?」
ぴたり、視線が止まる。上からの視線をまっすぐに受け止めれば、徐々にその長い胴体が傾きクザンさんは「う~ん」と唸った。
「強さの意味で聞いてんだったらそりゃイエスだ。やるかやらないかでいったら、嬢ちゃんの理由による」
「死なないと帰れないんです」
「なるほど?」
「殺してくれませんか?」
「え~……やだ」
「やだ」
「うん、だって俺まだ白ひげんとこと揉めたくねェし」
白ひげ海賊団はやはり世界規模で影響を与えているらしい。大きな海賊団で、力もあるから海軍も目に余る行動でなければ黙認しているのだとか。それができるのは海賊の中でも比較的気のいいやつらだからだとクザンさんは言いつつ、もう一度椅子に座った。
「嬢ちゃんは白ひげんとこのクルーじゃねえの?」
「違いますね」
「スモーカーが、火拳と一緒にいたって報告書上げてたけど?」
「エースと一緒にいたのは本当です。でも、乗せてもらっていただけです」
「ふうん……?エース、ねぇ……」
別に何の感情も乗っていないオウム返しだったけれど居心地悪く感じる。海賊である彼らの名前を親しく呼び捨てで呼んでしまうのは、隠しようなく彼らによくしてもらった事実があるからだ。一緒に過ごした時間は消えない。
少しの沈黙が落ち、不意に長い腕がまた私の、今度は頬に伸びてきた。ぱきりと鳴った手はやはり冷たい。
「俺はまあ、一応海軍に所属してるわけで、何の罪のないお嬢ちゃんをなんの理由もなく殺せないのよ。例えば、この手を弾くなら俺は殺さなきゃいけなかったわけだけど、それもねェし、この世界の未来も知らないっつーなら、無駄にでっかい海賊団に喧嘩を売るめんどくせェこともしたくねぇ」
「彼らは、」
「関係ないって言うなら、島の裏に停まってる船。なんて説明すんの?」
島の裏側に白ひげ海賊団の船が停まっているらしい。私は丸一日ここで寝込んでいたらしいから、航海に必要なログは一日で溜まるはずなのにまだ出航していないと。街でクルーを見かける事こそないが、船は確かに島の裏側に停まっているのだと言う……私は目を覆った。
そんな無駄なことをするような人たちではない。何かきっとあるのだろう。揉めているのだろうか。私のことで。自惚れだろうか、でもそう笑えない自分がいる。イゾウさんが何か言ったか。ハルタさんが何か言ったか。後者かな。だって私が約束を守らなかったから。ハルタさんはきっと怒っている。「意気地なし。やっぱり大バカ者だね、むかつく。本当、つまらない子」ぐらい言われるだろうか、なんて不機嫌な彼が頭に思い浮かんでも確かめようのないことで、無駄なこと。
彼は何と言っただろうか。きっと何も言っていないだろう。全てを弾いてしまう直前の彼を思い出した。あの時の彼は今までにないぐらい空気が尖っていた。怒りではない何か。きっとあれが彼の本当に近いものなのだろう。
いかに自分が彼に甘やかされていたかを思い知らされた。彼はこっちの世界の人で、海賊で、私とは違う。彼はただ、私に力や視線、足並みを合わせてくれていただけ。そして、周りもそれを許容していた。海賊なのに。きっと見ていてイライラしただろうに、なんでこんな小娘なんかを、とも思うこともあっただろうに、彼らは許してくれていたのだ。
「……今、貴方の手を弾けばいいんですか?」
少しの沈黙の後私は言った。顔を上げて、まっすぐにクザンさんを見る。あまり表情の読めない顔はじいっとこちらを見ていて、それを静かに見返しながら私は小さく頬に触れていた手を弾こうと願った。
その瞬間、不意に白檀の匂いが鼻を掠めた。
どうして。イゾウさんが遠征に出かけてからこの匂いはどんどん薄くなっていたはずなのに。この部屋の薬とアルコールの匂いに負けないその匂いが鼻をくすぐり、体をめぐる。
ちりんと鈴が鳴った。
パチッと音がして氷が欠ける。
「……さっきも言ったが嬢ちゃんは間違いなく一般人だ。海軍の脅威にもなり得ないと確認できた以上、まあなんだ……あー好きにしなさいな」
クザンさんが静かに立ち上がって来たときと同様にめんどくさそうにドアへと歩いていく。ものすごくめんどくさそうだけれど、離れていく前にもう一度頬に触れた手は温かった。さぼり癖があるのは本当だろうし、真面目に仕事はするべきだと思うけれどそれはとても海兵さんらしい行動だと思った。
零れ落ちた氷が溶けたのかベッドに放られた私の腕に、水滴が一つ流れていった。
『だめよ、ユリト。女は強くなくちゃ』
可笑しそうに笑う母。行きなさいと背を押してくるのは悲しくて。でもそうではない感情も持っているのは自分でも気づいていて苦しくて。そのことに母も気づいているのか手のかかる子を見るような、でも愛おしいものを見るような目で私を見ていた。
『いい人が見つかったとして、どうしたらいいの』
『貴方がしたいようにすればいいのよ』
それはすごく怖いことだ。私には大事なものがある。「いい人」ももちろん大事だけれど、私は家族も大事で。私は「いい人」がとても大事だけれど、その人は私のことは大事ではないかもしれない。いつの日にか、「いらない」と言われる時が来るかもしれない。
『……私は、家族が大事なの。お母さんも、お父さんも、大事なの』
『ええ、知っているわ。私もユリトのことが大事よ。でもユリト、大事なものは増やしてもいいのよ。そして大事にする方法はいくらでもあるわ』
そもそも「あの人」にとっての私はどんなものなのかも分からない。好きか嫌いかで言ったらきっと好きでいてくれているのだろうけれど、私に好きにしろと言ったほどには心に余裕があって、心が広い人だ。きっと私が「嫌い」だと言ったら「そうか」と言うに違いない。私は、それが……とても怖い。
お腹が熱くて痛い。体が重くて頭が回らない。意識が朦朧とする中、『何があっても、自分が決めたと言える選択をしなさい』と母が言うのが聞こえた。どこかで聞いたことのある言葉だ。
白い空間に黒い靄のようなものが広がっている。母が『良くないわね』とあまり見ない厳しい顔でつぶやいたのが聞こえた。けれど私に向ける表情はいつもの母の顔で、なだめるように肩に置かれた手は温かかった。
『女はリスクを避けたがるって言うけれど、お母さんの場合はお父さんより肝が据わった選択ばかりしたわ』
『それって、』
どういうこと。続けようと思った言葉は真っ黒な靄に飲み込まれた。
意識が浮上した瞬間、口の中にどろりとしたものが流れ込んできた。その味がひどくて、苦いのか辛いのかしょっぱいのかとにかく全部の味を混ぜました、と言わんばかりの味で飛び起きた。行儀が悪いとか羞恥とか言っていられないほどひどい味。吐き出すためにほとんど条件反射で起き上がったと言うのにその瞬間お腹に激痛が走ってうっかりうめき声とともに少し飲み込んでしまった。
「ああ!ごめん、起きる前に飲ませてあげようと思ったんだけど!」
そう横から声がしたかと思うと「これ飲んで!」とコップが差しだされた。ほとんどすがるようにそれを口にすればどうやらリンゴ(ぽい)ジュースのようで、一口飲んで二口目は口を漱ぐようにしてから飲み込めば幾分か……いや、涙目だけれど、口の中はましになった。
「な、にこれ……」
「ごめんね~、熱がひどかったから解熱剤を飲ませようと思ったんだけれど、ちょうど起きちゃったんだね。いや、まずすぎて目が覚めちゃったのかな?まあ、どっちでもいいけど体どう?」
「からだ……?」
眠りから覚醒したばかりの鈍い頭では、若い男の人が何を言っているのか分からない。何度か瞬きをして、ゆっくりとあたりを見渡せば、私はベッドの上にいることに気が付いた。
どうなったんだっけ。確か船を飛び出して、海に落ちたけれどたぶんナミュールさんが引き上げてくれて。それでハルタさんが私を帰そうとしてくれたけれど、イゾウさんが――。
「スモーカー大佐が君をここに連れてきたんだよ。一応保護の扱いで、熱と、おなかの怪我がひどいからとりあえず、治療を僕が頼まれた。ここは海軍支部の医務室兼、研究室」
「僕はトゥル・リガ―。リガート、とでも呼んでくれ」と笑う彼はおそらく医者だろう。青みがかかったやや長い灰色の髪をハーフアップにして結び、人好きのする笑顔は子どもを相手にされているようだ。少し汚れた白衣を揺らしながら「点滴見るね~」と緩い口調で医療器具を確認している。
……蹴り倒したスタンドは、船を汚さなかっただろうか。弾いてしまったハルタさんは怪我をしなかっただろうか。いや、それよりも飛び出してきてしまった以上は――
「りがーと、さん」
「うん?うん、そう。僕の名前ね、リガートだよ」
「治療、しなくていいです」
「うん?」
「しなくて、いい」
治療しなくていいと言ったのだけれどリガートさんは頬を掻いた。
「治療しなくてもいいって言われてもなあ……僕の一存じゃあ決められないし」
「本人がいいと言っているのに?」
「うん。もちろん普通の患者だったら本人の意思は尊重するけれど、一応君は、捕縛寄りの保護だからね~」
「そうね、話によっては嬢ちゃんはいろいろ……あーまあなんかあるのよ」
ひやりとした空気が肌を撫で、新しい声にドアの方を見れば長身の男が立っていた。その男になぜか少しだけ見覚えがあって、首をかしげる。どこかで会っただろうか。
「クザンさん、いらっしゃったんです?あ、ま~た、仕事放って来たんでしょ~、部下が泣きますよ」
「いやいや、これ立派な仕事で来てるって。その嬢ちゃんに用事あんのよ」
「……どこかでお会いしましたか」
聞くほうが早いと尋ねれば、長身の男の人はちょっとだけ首を傾げた。
「ありゃま、覚えてねェのか……あーあれだ、嬢ちゃんが初めにいた島、嬢ちゃんが白ひげんとこの隊長に連れ去られる瞬間に会ってる」
「……あおきじ、さん?」
「そそ、まあそれは通り名みたいなもんね。名前はクザン」
「クザン、さん」
「……えーめっちゃいい子じゃん、もう保護で良くない?俺帰っていい?」
「結局職務怠慢じゃないですか」
仕事しなさいさいな、とリガートさんにたしなめられ、クザンさんはめちゃくちゃめんどくさそうにベッド近くの椅子に座った。ぐっと曲がった長い足が窮屈そう。「熱あんの?」と聞かれ「そうらしいですね」と答えればすっと長い腕が伸びてきた。ぱきっと何かが割れるような音が響いて額に当てられた手は冷たい。
「しんどいところ悪いんだけど、嬢ちゃんにいくつか確認しなきゃなんなくてな。まず、嬢ちゃんの名前」
「……ユリトです」
「出身は?」
「日本」
「ニホン。ああ、いや、いい。説明は。知ってる、こことは違う世界のどっかの島でしょ?」
「どうして……?」
「まあ、いろいろあんのよ。嬢ちゃんは、この世界のことをどれだけ知ってんの?」
「それは……どういった意味でですか?」
「あれま、やっぱり賢いのね」
「秘書にならねえ?」という言葉に首を横に振れば残念そうにされる。「仕事しなさいな」とまたリガートさんが言った。どうやらクザンさんは仕事をさぼる人らしい。
「んー……確かめる方法がねェっていうか、めんどくせェ……単刀直入に聞く、嬢ちゃんはこの世界の『未来』を知ってるか?」
「知らないです」
「あーなんだ。よし、俺帰るわ」
「職務怠慢~」
「今に始まったことじゃないでしょーよ」
話は終わりだ、と言うように立ち上がった彼の手が離れていく。その手から、またぱきっという音がして氷のかけらが落ちるのが見えて、能力者であることが分かった。
冷たい氷。きっと凍ってしまえば痛くもないないのではないだろうか。
「クザンさんは」
「ん?」
「私を殺すことができますか?」
ぴたり、視線が止まる。上からの視線をまっすぐに受け止めれば、徐々にその長い胴体が傾きクザンさんは「う~ん」と唸った。
「強さの意味で聞いてんだったらそりゃイエスだ。やるかやらないかでいったら、嬢ちゃんの理由による」
「死なないと帰れないんです」
「なるほど?」
「殺してくれませんか?」
「え~……やだ」
「やだ」
「うん、だって俺まだ白ひげんとこと揉めたくねェし」
白ひげ海賊団はやはり世界規模で影響を与えているらしい。大きな海賊団で、力もあるから海軍も目に余る行動でなければ黙認しているのだとか。それができるのは海賊の中でも比較的気のいいやつらだからだとクザンさんは言いつつ、もう一度椅子に座った。
「嬢ちゃんは白ひげんとこのクルーじゃねえの?」
「違いますね」
「スモーカーが、火拳と一緒にいたって報告書上げてたけど?」
「エースと一緒にいたのは本当です。でも、乗せてもらっていただけです」
「ふうん……?エース、ねぇ……」
別に何の感情も乗っていないオウム返しだったけれど居心地悪く感じる。海賊である彼らの名前を親しく呼び捨てで呼んでしまうのは、隠しようなく彼らによくしてもらった事実があるからだ。一緒に過ごした時間は消えない。
少しの沈黙が落ち、不意に長い腕がまた私の、今度は頬に伸びてきた。ぱきりと鳴った手はやはり冷たい。
「俺はまあ、一応海軍に所属してるわけで、何の罪のないお嬢ちゃんをなんの理由もなく殺せないのよ。例えば、この手を弾くなら俺は殺さなきゃいけなかったわけだけど、それもねェし、この世界の未来も知らないっつーなら、無駄にでっかい海賊団に喧嘩を売るめんどくせェこともしたくねぇ」
「彼らは、」
「関係ないって言うなら、島の裏に停まってる船。なんて説明すんの?」
島の裏側に白ひげ海賊団の船が停まっているらしい。私は丸一日ここで寝込んでいたらしいから、航海に必要なログは一日で溜まるはずなのにまだ出航していないと。街でクルーを見かける事こそないが、船は確かに島の裏側に停まっているのだと言う……私は目を覆った。
そんな無駄なことをするような人たちではない。何かきっとあるのだろう。揉めているのだろうか。私のことで。自惚れだろうか、でもそう笑えない自分がいる。イゾウさんが何か言ったか。ハルタさんが何か言ったか。後者かな。だって私が約束を守らなかったから。ハルタさんはきっと怒っている。「意気地なし。やっぱり大バカ者だね、むかつく。本当、つまらない子」ぐらい言われるだろうか、なんて不機嫌な彼が頭に思い浮かんでも確かめようのないことで、無駄なこと。
彼は何と言っただろうか。きっと何も言っていないだろう。全てを弾いてしまう直前の彼を思い出した。あの時の彼は今までにないぐらい空気が尖っていた。怒りではない何か。きっとあれが彼の本当に近いものなのだろう。
いかに自分が彼に甘やかされていたかを思い知らされた。彼はこっちの世界の人で、海賊で、私とは違う。彼はただ、私に力や視線、足並みを合わせてくれていただけ。そして、周りもそれを許容していた。海賊なのに。きっと見ていてイライラしただろうに、なんでこんな小娘なんかを、とも思うこともあっただろうに、彼らは許してくれていたのだ。
「……今、貴方の手を弾けばいいんですか?」
少しの沈黙の後私は言った。顔を上げて、まっすぐにクザンさんを見る。あまり表情の読めない顔はじいっとこちらを見ていて、それを静かに見返しながら私は小さく頬に触れていた手を弾こうと願った。
その瞬間、不意に白檀の匂いが鼻を掠めた。
どうして。イゾウさんが遠征に出かけてからこの匂いはどんどん薄くなっていたはずなのに。この部屋の薬とアルコールの匂いに負けないその匂いが鼻をくすぐり、体をめぐる。
ちりんと鈴が鳴った。
パチッと音がして氷が欠ける。
「……さっきも言ったが嬢ちゃんは間違いなく一般人だ。海軍の脅威にもなり得ないと確認できた以上、まあなんだ……あー好きにしなさいな」
クザンさんが静かに立ち上がって来たときと同様にめんどくさそうにドアへと歩いていく。ものすごくめんどくさそうだけれど、離れていく前にもう一度頬に触れた手は温かった。さぼり癖があるのは本当だろうし、真面目に仕事はするべきだと思うけれどそれはとても海兵さんらしい行動だと思った。
零れ落ちた氷が溶けたのかベッドに放られた私の腕に、水滴が一つ流れていった。