5.羽織に約束
name
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
5.羽織に約束
結論から言えば、桔梗の人とのお話はとても楽しかった。
あの後、抵抗を含め完全に動きを止めた私に笑みを一つこぼして、桔梗の人はひょいと船に飛び乗った。それからすたすたとおそらく定位置なのだろう、甲板の隅、少し影になっていてこちらからは甲板が良く見えるがおそらく甲板にいる人たちは気を付けて見なければ見えない位置に腰を下ろすと、その膝の上に私を座らせた。
始めこそ恥ずかしいやら焦るやらでどうにか降りようとしていたのだけれど、簡単に片手で抑え込まれてしまって、しかもどうやら桔梗の人は私の足の裏が擦れていたことに気が付いていて、その手当のために私を膝に座らせたらしいと気づいて抵抗できなくなってしまったのだ。手当てに来てくれたナースさんが(ぼんきゅっぼんだった……)「踊り子も肉体労働ね?」なんて、お姉さま方とは違う色気のような母性のようなものがにじんだ声でいたわってくれて、ぼっとまた顔を赤くさせてしまった。だってそんなの、照れてしまう。ナースさんには「可愛い……!!」と抱きしめられた。すぐに桔梗の人に引きはがされたけれど。
桔梗の人は聞くのも話すのもうまかった。私の話をたくさん聞いてくれて、両親の顔は知らないこと、拾われて踊り子をやっている事、休みの日は何してるとか、料理は雑務でやっているからできるとか。すごく他愛ない話だったけれど、相槌は心地よく、時折挟まれる桔梗の人の海の話に目を輝かせていれば、あっという間に時間は過ぎた。
「送る。明日も踊るんだろう?」
話すだけ、と言う話だったから甲板に酔いつぶれた人が増えてきたころに桔梗の人はそう言った。一人で帰れると言ったのだけれど、どうしても引いてはくれなかったから結局一緒に船を降りた。船が大きくて高さもあったからどちらにしろ怖くて降りられなかっただろうからよかったのかもしれない。降りるときも抱えてくれてひょいと降ろしてくれたのだけれど、胃が浮くような感覚に思わずぎゅっと抱き着いてしまったら少し笑われた。
港から宿舎までの距離を手をつないで歩く。降ろしてもらったときに握られてそのまま。握られた時はあわあわしてしまって、手汗とかなんか色々気になって必死に離そうとしたのだけれど、少し眉を下げて「……嫌か?」なんて聞かれてしまえば首を横に振ることなんてできなかったのだ。
そのあとすぐにくつくつと「純粋すぎるのも考えものだな」と言われたからからかわれたのだと分かったけど……。
「……意地悪ですね」
「お前さんがかわいいのがいけねェな」
「かっ……!?」
と、こんな具合に文句を言っても簡単に負けてしまうので早々に諦めた。
海賊の人は女の人に慣れているというけど本当なんだなあなんてぼんやり歩いていれば、宿舎はすぐだ。
「どこの下っ端もやっぱり待遇は同じなんだな」
「ふふっ。寝床があるだけましですよ」
明かりもついていない見るからにボロボロの長屋。これが見られるのが嫌で一人で帰れると言ったのもあったのだけれど、桔梗の人は特に驚いた様子もなくむしろ懐かしいとも言いだしそうに笑っていた。
「桔梗の人も、踊り子だったんですか?」
「その『桔梗の人』っつーのはなんだ?」
聞けば聞き返されてきょとり。そしてやっとで名前を聞いていなかったことに思い至る。
「あ、その。名前を知らなかったので……」
昼間目が合ったとき桔梗の花のような人だと思ったのだと話せば、「海賊がそんな可憐なもので呼ばれるとはな」と感嘆された。確かに海賊と花はあまりしっくりこないかもしれない。もしかして気分を害しただろうかと目を伏せれば、ぽすりと頭を撫でられ顔を上げれば「俺もだ」と。
「俺も聞いてねェ。おめえさんの名はなんていうんだ?」
「あ、そっか……」
何時間も話していたというのに互いの名前を知らないなんて。思わず笑えば、同じように思ったのかくすっと柔らかい笑み。それに少し胸が高鳴った気がしたが、胸を押さえて知らないふりをした。
「私に名前はないんです。オドリコと呼ばれています」
「それじゃあほかの踊り子も振り返っちまうじゃねェか」
「貴方の声で呼ぶ『オドリコ』が私だけなら、一番に振り返るのは私だけですよ」
だってほかの踊り子にはちゃんとした名前があるもの。私は名前の代わりに「オドリコ」と呼ばれているだけで他のお姉さま方は名前で呼ばれている。だから、オドリコと呼ばれても振り返るのは私だけ。
桔梗の人を見ればなぜか少し驚いた顔をしていた。どうしたのだろうと首を傾げれば、今度は深く溜息をついて。かと思えば、大きな手の平が伸びてきて、そっと私の頬を包んだ。
少し冷えた指先に羽織を借りたままだったと気が付く。けど、返そうと動かそうとした手は落とされた声に止められた。
「『胡蝶』だ」
「え?」
「お前さんの名前さ。気に入らないならそう名乗らなくてもいい。だが、俺はそう呼ぶ」
胡蝶。自分の声で転がした瞬間ぶわっと頬が熱くなった。
「……もったいない、名前ですね」
「そうか?お前さんにぴったりだと思うぞ」
なんだか照れ臭いような嬉しいような変な感情が廻って、目を伏せれば、笑いながら私の肩に掛けられていた羽織をかけなおされた。持っておけ、と言うことらしい。でも、ここで受け取ってしまったらたぶんもう返す機会がない。明日は他のお客に踊りを見せることになっているし、彼は海賊だ。いつまでもこの島にいるわけではないだろう。
「明日の夕方、俺たちはこの島を出る」
「それなら……お借りすることは……」
「もし、海に出る気があるなら返しに来い」
思いもよらぬ言葉にぱっと顔を上げた。冗談かと思ったが、こちらに向けられている目はいたって真面目で、だからこそどうしたらいいのか分からない。
「……私、戦えませんよ」
「問題ねェ。もともとうちは女の戦闘員は乗せねェことになってる」
「きれいでもないし」
「容姿で人を見る気はねェと言ったはずだ」
「……どうして……誘ってくださるんですか……」
「蝶は自由に飛んでた方が綺麗だろ」
踊っている私は蝶のように見えたらしい。海は自由だと彼は言った。
なぜかぼろりと涙がこぼれた。たぶん、うれしいのだと思う。ぼろぼろと零れる涙も、押し殺した嗚咽も綺麗だとは言えないけれど、私は必死にうなずいた。
私は、もっと、自由になりたい。
「必ず……必ず返しに行きます」
「ああ」
ふっと顔に影が落ちて、顎を掬い上げられたかと思うとそっと頬に唇が落とされた。涙の跡をたどるようにそれが滑って目じりでかすかなリップ音。驚いて涙も止まってしまう。目を見開いてしまったからか笑われた。それに文句を言おうとすれば今度はかぷっと唇が食べられてしまってかなわなかった。
「……桔梗の人、だったか。あながち間違いじゃねェかもな」
「あ……そうだ、名前」
「お前が明日、本当にそれを返しに来たら教えてやるよ、胡蝶」
離れた唇。でも、まだ近い距離でこれ見よがしに名前を呼ばれて私は少し唇を尖らせてしまった。やっぱりこの人は少し意地悪だ。自分の名前は教えてくれない癖に、私の名前はいっとう大事そうに呼ぶなんて――絶対わざとだ。だって彼は海賊。私は戦闘員ではない、踊り子だ。厚かましくも言うならば、私は彼らの船に花を添える、彼らにとっての宝。はじめから、逃がす気などないのだ。
それはそれでいいけれど、でもやっぱり自分の意思で行くのだと言いたい。
「絶対に行きます……!」
再度、今度は震えていない声で強く強く目を見て言えば桔梗の人は笑った。
結論から言えば、桔梗の人とのお話はとても楽しかった。
あの後、抵抗を含め完全に動きを止めた私に笑みを一つこぼして、桔梗の人はひょいと船に飛び乗った。それからすたすたとおそらく定位置なのだろう、甲板の隅、少し影になっていてこちらからは甲板が良く見えるがおそらく甲板にいる人たちは気を付けて見なければ見えない位置に腰を下ろすと、その膝の上に私を座らせた。
始めこそ恥ずかしいやら焦るやらでどうにか降りようとしていたのだけれど、簡単に片手で抑え込まれてしまって、しかもどうやら桔梗の人は私の足の裏が擦れていたことに気が付いていて、その手当のために私を膝に座らせたらしいと気づいて抵抗できなくなってしまったのだ。手当てに来てくれたナースさんが(ぼんきゅっぼんだった……)「踊り子も肉体労働ね?」なんて、お姉さま方とは違う色気のような母性のようなものがにじんだ声でいたわってくれて、ぼっとまた顔を赤くさせてしまった。だってそんなの、照れてしまう。ナースさんには「可愛い……!!」と抱きしめられた。すぐに桔梗の人に引きはがされたけれど。
桔梗の人は聞くのも話すのもうまかった。私の話をたくさん聞いてくれて、両親の顔は知らないこと、拾われて踊り子をやっている事、休みの日は何してるとか、料理は雑務でやっているからできるとか。すごく他愛ない話だったけれど、相槌は心地よく、時折挟まれる桔梗の人の海の話に目を輝かせていれば、あっという間に時間は過ぎた。
「送る。明日も踊るんだろう?」
話すだけ、と言う話だったから甲板に酔いつぶれた人が増えてきたころに桔梗の人はそう言った。一人で帰れると言ったのだけれど、どうしても引いてはくれなかったから結局一緒に船を降りた。船が大きくて高さもあったからどちらにしろ怖くて降りられなかっただろうからよかったのかもしれない。降りるときも抱えてくれてひょいと降ろしてくれたのだけれど、胃が浮くような感覚に思わずぎゅっと抱き着いてしまったら少し笑われた。
港から宿舎までの距離を手をつないで歩く。降ろしてもらったときに握られてそのまま。握られた時はあわあわしてしまって、手汗とかなんか色々気になって必死に離そうとしたのだけれど、少し眉を下げて「……嫌か?」なんて聞かれてしまえば首を横に振ることなんてできなかったのだ。
そのあとすぐにくつくつと「純粋すぎるのも考えものだな」と言われたからからかわれたのだと分かったけど……。
「……意地悪ですね」
「お前さんがかわいいのがいけねェな」
「かっ……!?」
と、こんな具合に文句を言っても簡単に負けてしまうので早々に諦めた。
海賊の人は女の人に慣れているというけど本当なんだなあなんてぼんやり歩いていれば、宿舎はすぐだ。
「どこの下っ端もやっぱり待遇は同じなんだな」
「ふふっ。寝床があるだけましですよ」
明かりもついていない見るからにボロボロの長屋。これが見られるのが嫌で一人で帰れると言ったのもあったのだけれど、桔梗の人は特に驚いた様子もなくむしろ懐かしいとも言いだしそうに笑っていた。
「桔梗の人も、踊り子だったんですか?」
「その『桔梗の人』っつーのはなんだ?」
聞けば聞き返されてきょとり。そしてやっとで名前を聞いていなかったことに思い至る。
「あ、その。名前を知らなかったので……」
昼間目が合ったとき桔梗の花のような人だと思ったのだと話せば、「海賊がそんな可憐なもので呼ばれるとはな」と感嘆された。確かに海賊と花はあまりしっくりこないかもしれない。もしかして気分を害しただろうかと目を伏せれば、ぽすりと頭を撫でられ顔を上げれば「俺もだ」と。
「俺も聞いてねェ。おめえさんの名はなんていうんだ?」
「あ、そっか……」
何時間も話していたというのに互いの名前を知らないなんて。思わず笑えば、同じように思ったのかくすっと柔らかい笑み。それに少し胸が高鳴った気がしたが、胸を押さえて知らないふりをした。
「私に名前はないんです。オドリコと呼ばれています」
「それじゃあほかの踊り子も振り返っちまうじゃねェか」
「貴方の声で呼ぶ『オドリコ』が私だけなら、一番に振り返るのは私だけですよ」
だってほかの踊り子にはちゃんとした名前があるもの。私は名前の代わりに「オドリコ」と呼ばれているだけで他のお姉さま方は名前で呼ばれている。だから、オドリコと呼ばれても振り返るのは私だけ。
桔梗の人を見ればなぜか少し驚いた顔をしていた。どうしたのだろうと首を傾げれば、今度は深く溜息をついて。かと思えば、大きな手の平が伸びてきて、そっと私の頬を包んだ。
少し冷えた指先に羽織を借りたままだったと気が付く。けど、返そうと動かそうとした手は落とされた声に止められた。
「『胡蝶』だ」
「え?」
「お前さんの名前さ。気に入らないならそう名乗らなくてもいい。だが、俺はそう呼ぶ」
胡蝶。自分の声で転がした瞬間ぶわっと頬が熱くなった。
「……もったいない、名前ですね」
「そうか?お前さんにぴったりだと思うぞ」
なんだか照れ臭いような嬉しいような変な感情が廻って、目を伏せれば、笑いながら私の肩に掛けられていた羽織をかけなおされた。持っておけ、と言うことらしい。でも、ここで受け取ってしまったらたぶんもう返す機会がない。明日は他のお客に踊りを見せることになっているし、彼は海賊だ。いつまでもこの島にいるわけではないだろう。
「明日の夕方、俺たちはこの島を出る」
「それなら……お借りすることは……」
「もし、海に出る気があるなら返しに来い」
思いもよらぬ言葉にぱっと顔を上げた。冗談かと思ったが、こちらに向けられている目はいたって真面目で、だからこそどうしたらいいのか分からない。
「……私、戦えませんよ」
「問題ねェ。もともとうちは女の戦闘員は乗せねェことになってる」
「きれいでもないし」
「容姿で人を見る気はねェと言ったはずだ」
「……どうして……誘ってくださるんですか……」
「蝶は自由に飛んでた方が綺麗だろ」
踊っている私は蝶のように見えたらしい。海は自由だと彼は言った。
なぜかぼろりと涙がこぼれた。たぶん、うれしいのだと思う。ぼろぼろと零れる涙も、押し殺した嗚咽も綺麗だとは言えないけれど、私は必死にうなずいた。
私は、もっと、自由になりたい。
「必ず……必ず返しに行きます」
「ああ」
ふっと顔に影が落ちて、顎を掬い上げられたかと思うとそっと頬に唇が落とされた。涙の跡をたどるようにそれが滑って目じりでかすかなリップ音。驚いて涙も止まってしまう。目を見開いてしまったからか笑われた。それに文句を言おうとすれば今度はかぷっと唇が食べられてしまってかなわなかった。
「……桔梗の人、だったか。あながち間違いじゃねェかもな」
「あ……そうだ、名前」
「お前が明日、本当にそれを返しに来たら教えてやるよ、胡蝶」
離れた唇。でも、まだ近い距離でこれ見よがしに名前を呼ばれて私は少し唇を尖らせてしまった。やっぱりこの人は少し意地悪だ。自分の名前は教えてくれない癖に、私の名前はいっとう大事そうに呼ぶなんて――絶対わざとだ。だって彼は海賊。私は戦闘員ではない、踊り子だ。厚かましくも言うならば、私は彼らの船に花を添える、彼らにとっての宝。はじめから、逃がす気などないのだ。
それはそれでいいけれど、でもやっぱり自分の意思で行くのだと言いたい。
「絶対に行きます……!」
再度、今度は震えていない声で強く強く目を見て言えば桔梗の人は笑った。