13.過去を知った兎は思う
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13.過去を知った兎は思う
「はい、いいわよ」
「ありがとうございます」
リサさんににっこりと微笑まれ、私は止血用のテープを張られた腕を固定台から降ろした。まくった袖を戻そうとしたら、すっと後ろから伸びてきた腕に抑えられて、もう片方の手に手際よく袖を下ろされてしまった。リサさんではない。他のナースでもない。では、誰か。
「イゾウさん」
「ん?」
制止の意味で名前を呼んだのだけれど、効果はない。自分でできますよ、と言っても「そうか」と返ってくるだけで。たかが袖を下ろすだけ。抵抗する間もなくボタンまで留められてしまった。別に抵抗するようなことでもないのだけれど、私は溜息一つ。
週に2度、少しずつ採血をすることになった。体重や身長から無理のない採血量を計算し、船医のエーギルさんが毎回やってくれている。白髪で頬に大きな傷跡がある強面だけど、すごく優しい男の人だ。時たまかけられる声はこちらを気遣うものばかりだからさすがお医者さんだなと思う。
特に体調を崩すこともなく、採血は順調だ。ただ毎回なぜか採血の時にイゾウさんがいるだけで。
「イゾウ隊長は鍛錬の時間では?」
「副隊長に指示してある。なにかあれば呼ぶだろう」
「ユリトは子供じゃありませんよ」
「知ってるぜ。だから一緒にいるんじゃねえか」
リサさんが何度注意してものらりくらりとかわすイゾウさん。採血している間はさすがにくっついてくることはないが真横に座ってじいっと見ている。エーギルさんは何も言わないけど、絶対やりにくいと思う。手が滑ったなんてことはするわけないけど、ただ座っているだけの私だって気になるんだから、絶対多少は気が散るだろう。
「仕事はしないとだめです」
「分かってる。今から行くさ」
私から注意をすれば、採血さえ終わればちゃんと仕事に戻るのだけれど、採血の間は何を言っても絶対に動かないので私も少し困っていて。と言うのもただの採血だから別にいてもいなくても変わらないのに、ここにイゾウさんがいるということは隊の方にはいないということで、隊員の方たちに申し訳なくなってくるのだ。それを見透かすようにイゾウさんには「俺が数分いないだけでどうこうなる集まりじゃねえ」と一蹴されてしまうが。
「愛されているわね。……ちょっと過保護だけど」
採血が終わったからと席を立ったイゾウさんの背を見送って、リサさんの言葉に曖昧に笑う。これが愛されているということなら、ずいぶんと何というか、甘い。それはもう何というかむず痒いほど。イゾウさんは今までと変わらない。ただ、私が少し変わってしまったのだ。あの晩、イゾウさんの気持ちを聞いてしまってから。
『たとえ俺がお前のことを好きでも、お前が俺のことを好きになる必要はねえ』
つまり、勝手にしろと言うことなのだろうけど、あまりに身勝手なそれに私は途方に暮れていた。人肌のせいかしっかり眠りに落ちたというのに、起きた瞬間それは再生されて。
毎朝、横ですーすーと眠るイゾウさんをしばし起こすのをためらうほどには私をおかしくさせた。今日は起こさずに先に食堂に行ってしまおうか、いやでもそれだとサッチさんに迷惑をかけてしまうしな。そんなことで頭を悩ませていれば結局本人が自分で目を覚ましてしまうから朝は変わらず一緒に食事を取っているけれど。
「てっきり付き合っているのかと思っていたのだけれど違うのかしら」
「付き合ってはいませんね。でも、イゾウさんが私のことを気に入ってくださっているのは知っています」
「なるほど。ユリトが答えていないのね」
告白されたのならちゃんと答えなきゃだめよ?と笑って言われたので私はゆっくりと首を横に振った。
「好きにしろと言われたので」
「……どういうこと?」
不可解そうにリサさんが首を傾げたので、私は少し逡巡した。まあ女性同士だしいいかと晩の話をすれば、リサさんの顔はどんどん顰められていって……。
「なにそれ。ただイゾウ隊長が逃げてるだけじゃない」
「いや、私に気を遣ってくださっているのだと思いますよ?」
「いーえ!違うわ!!それはイゾウ隊長が弱っちいのよ!!」
ぱんっ!とカルテを叩いて言い切るものだからほかのナースさんもなんだなんだと会話に飛び込んできて。女子らしくなんやかんやと会話が流れはじめた。
「ってことらしいのよ!」
「それはないわ」
「返事を聞かないにしてももうちょっとねえ?」
「イゾウ隊長ってそんなに恰好悪かったかしら?」
「ほんとよ!男ならはっきりしなさいって感じ!」
「欲しい癖に女一人攫えないのかしら!」
……同性だしいいかと思ったけど、そうでもなかったみたい。私はぼろくそに言われているイゾウさんに内心で謝った。どうやらこちらの女性は肉食系が多いらしい。
「いや、あの。たぶんイゾウさんは私を縛らないためにそう言ったのだと……」
「縛るって何?答えにくい告白をすれば縛らないってこと?」
「いや、その……」
「大体言い方が女々しいわ。まるでユリトが絶対に好きと思ってないみたいな!失礼よ。し、つ、れ、い!男なら落として見せなさいって感じ!」
一応フォローをしようと思ったのだけれど、無駄だった。ごめんなさい、イゾウさん……女にかなわないのは女もなんです。なんて心の中で謝ったって仕方ないのだけれど謝らずにはいられない。
その後もあーだ、こーだと意見が飛び交い、ついには「イゾウ隊長にユリトをあげるぐらいなら私たちがもらいましょう」なんてどういうことかよく分からない意見まで出て。どうしたものかと思っていればエーギルさんが静かに声を落とした。
「仕事に戻りなさい。リサはカルテをまとめて」
それによってリサさんも含めたナースさんがはーい、と散り散りに。私はほっと息を吐いた。
「すまないね。どうにも彼女たちはがつがつしているから」
「いえ」
別に私のことを言われているわけではないのだけれど、どうしても世話になっている人だ。悪く言われるのは気分が良くない。
エーギルさんはパックに収めた私の血を丁寧にまとめると、ストックの箱の中に納めた。棚に手を伸ばすエーギルさんの少し汚れた白衣には、肩のところに白ひげ海賊団のマークが入っていてかっこいい。
「16番隊長は気難しくないかい?」
「……皆さんそういうんですけど、特に気難しいと感じたことはないですよ」
答えればエーギルさんの空気が少し柔らかくなった気がした。彼の表情が変わることはなかったが、何となくそう感じた。
「彼をそういうのは私が知っている中では君で二人目だよ」
エーギルさんはデスクから一枚の写真を取り出すとそれを私に見せてくれた。
「これ……」
写真には父と、イゾウさんが二人で映っていた。宴の最中に撮ったものなのか、二人ともこちらを見て楽しそうに笑っている。父は若く見えたが、イゾウさんの顔は今とあまり変わっていない。あれでも……?父が来たのは20年前ほど前だと言っていた。写真に写っているイゾウさんも20年前のはずだが、今と顔が変わっていないのはこれ如何に。
エーギルさんにイゾウさんの年齢を聞いてみたけれど、彼もよく知らないらしい。でもたぶん、マルコさんとほぼ同じかイゾウさんの方が年上だと言われて驚いた。マルコさんの方が……いや、やめておこう。うん、でも確かにイゾウさんの方が話すと歳を食っている感じがするかもしれない。
「父はイゾウさんと仲が良かったんですか?」
「一番仲が良かったと言ってもいいね。君の世界と、16番隊長の出身は似ているところがあるから話も合ったみたいでね。それに、君のお父さんをもとの世界に戻したのは彼だよ」
「え?」
じゃあそれは。エーギルさんはガラガラと回転いすを座ったまま動かした。
「君は怖かったり驚いたりすると物を弾くだろ?」
父も防衛本能なのか物をはじいたらしい。はじめは採血のための針をもはじくほどで大変だったのだとか。親父さんたちが来るまで、父は治療のための血を自分の腕を切ってあげていたらしいのだけれど、そんなことができるのに採血のための針は怖がるのだからおかしかったとエーギルさんは笑った。
採血は順調だったらしい。適切な採血量より少し多めに毎日少しずつ。それで父は帰れるはずだった。でも、父の体は途中で採血を拒絶したらしい。普通にやっても針を拒絶するから、寝てる間にも試したらしいのだけれど、すべて弾かれダメで。
「君たちが物を弾くのは怖いと思った時や、驚いたとき。無意識にでも警戒していれば、ものを弾く。逆に弾かないときは、安心している時だけだ」
まさか、と思った。私は写真に笑顔で写る二人を見た。だって、写真の中の二人はこんなに仲がよさそうに笑っている。
でもだから、つまり。
言葉にできずに、でも確信していれば、エーギルさんはそうだと言うようにうなずいた。
「16番隊長だけが君の父親を殺すことができたんだ」
私は思わず目を覆った。
すとんと何かが落ちた気がした。当分帰す気はない、いくらでもいればいい、気に入っている、欲しいものがあった、全部すとんと。
イゾウさんが私の採血を嫌がっていたのは私が死んでしまうからじゃない。彼は少し私に嘘をついたのだ。いや、死んでしまうのを怖がっていたのは本当だから、嘘と言うのは少し違うか。でも彼は純粋に私の死を怖がっていたのではない……彼が本当に怖がっていたのは彼自身が私を殺さなければいけなくなることだ。
ハルタさんと仲良くなったのを咎めたのも父のことが原因だろう。私がイゾウさん以外と仲良くなればなるほど、イゾウさん以外に私のことを殺せる人がいることになってしまうから。
「……イゾウさんは、父を『生かした』んですね」
「やっぱり君は彼の子供だね」
とても優しい、と言われて私は静かに首を振った。優しいのはイゾウさんだ。私ではない。
「16番隊長は確かに君のお父さんを生かした。でも、それはこちらの世界では紛れもなく『死』を意味している。とても不謹慎な話だけれど、君のお父さんが帰った直後の16番隊長は、一番人間味があったね。16番隊長はつかみどころがない。親父でさえ、彼のことは分からないことがあると笑っていたよ。そこにいるのにどこかに行ってしまいそうな、儚い男だ。それが美しいのだと思うのだけれどね」
父が帰った後イゾウさんは静かに悲しんでいたらしい。それは誰も声をかけられないほどで、しばらくすると表面上は元に戻ったが不意に見せる寂しい色は誰もが気づいていたとエーギルさんは言った。
イゾウさんは優しい人だ。そしてとても怖がりで、寂しがりや。それを知っているから、知ってしまったから私は迷っているのだろう。
「彼が君を思う気持ちに嘘はないと思うよ。だからこそ、ちゃんと答えてあげて欲しいと私は思う」
「……はい」
私は小さく返事をした。もう少し、迷うかもしれないがちゃんと答えを出そう。帰るにしても、しっかり答えを言ってから帰らなければ。
イゾウさんはきっと私の答えを強制しないと思うけれど、いやむしろいらないと思っているかもしれないけど。
「あ、あったあった。ほら、君にこれをあげるよ」
がらがらと回転いすを引いていたエーギルさんが振り返って私に渡してきたのは一枚の紙。筆記体で「izo」と書かれている。
「ビブルカードと言ってね、別名『命の紙』。特定の人の居場所やその人の生存を示す紙だ」
渡された紙は良く見ると手の平の上で微妙に動いている。……若干気持ち悪い。顔に出ていたのだろう。エーギルさんが小さく笑った。命の紙、と呼ぶぐらいだから大事な紙だろうにごめんなさい。でも、紙が動くなんて私からすれば軽いホラーだ。
「彼はたぶん君が帰る選択をしたなら、何もくれないだろうから私から君にあげておくよ。それでどの選択をしても寂しくないだろう」
小さな紙だからなくさないようにとエーギルさんは私が首から下げていたカギの筒に入れておくといいと言った。言っている意味が分からなくて首を傾げれば貸してみなさいと。
「この筒は笛にもなるし、簡単な手紙も入れられるんだ。まあ、主に鳥とかに預けるものなんだけれどね。こうして使うこともあるだろう」
はじめの日に渡された部屋の鍵。そんな機能があったとは。笛……知らなかったけど「迷子防止」と言って渡されたし、それは鈴のことを指していたのではなく、笛のことも指していたのだろう。……ことごとく子ども扱いだ。いいけど。
「うん?ああ……彼らしいな」
「どうかしましたか?」
「いいや。なんでもないよ」
筒を開けたエーギルさんが楽しそうに笑ったから尋ねたけど、結局教えてくれなかった。筒に何か仕掛けがあったみたいなのだけど。別に私が知らなくてもいいらしく、はじめと同じように筒をもとに戻されて返された。
綺麗に紙を入れてもらった私は「私もビブルカードを作れるか」と聞いた。エーギルさんは作れると思うがおすすめしないと少し眉を下げた。イゾウさんの紙を貰ったから私も渡すべきではないかと思ったのだけれど、もし私が帰る選択をしたとき、私が元の世界に帰った瞬間紙は燃えてしまうらしいのだ。
あちらで生きること、それはすなわちこちらの世界での『死』だから。それでは意味がないから、「それは彼には酷だろう」と言うエーギルさんに私もうなずいた。
それからしばらく父がこちらに来ていた時の話を聞いた。20年前にはまだいなかった隊長さんもいて、白ひげ海賊団もここまで大きくはなかったらしい。マルコさんとサッチさん、それからビスタさんあたりはいたから、気になるなら聞いてみるといいと言われた。
「あの頃はナースもあまり乗っていなくてね。ナースが何人かと、私とあともう一人船医が乗っていたよ。ああ、そうだこれも言っておかないとじゃないか」
エーギルさんが取り出してきたのは一本の試験官。その中には血。ラベルを見ると、かすれた文字。読めないでいれば、エーギルさんが読み上げてくれた。父の名前だった。
「君のお父さんの血はこれだけしかないんだ」
「え?どういうことですか?」
「盗まれたんだよ」
治療のために血を使ってくれと言った父は、採血を無意識に拒絶するまでは血を採っていた。その血はかなりの量だったらしいが、そのころ乗っていたもう一人の船医が持ち出したっきり戻ってこなかったのだとか。
「本当に特殊な血だったから、船の上じゃ検査できないと言ってね。あいつは島に有効な使い方を研究すると言って降りた。親父の許可も得てね。でも、数か月後その降りた島に迎えに行っても彼はいなかった。生死は分からないが、研究室だと教えられた場所からは血も一緒に消えていた。……君らの血は本当に特別だ。医療関係者なら分かる。ほぼなんでも治せるクスリなんてこの世にはまだ存在しない。それを限りなく可能にするのが君らの血だ」
用心しなさい、と言われて私は「はい」と返事をした。
「エーギル」
軽いノックとともに知った声。入ってきたのはイゾウさん。鍛錬に行ったはずじゃ、と時計を見て驚いた。かなり時間がたっている。
「まだいたのか、ユリト」
「私もびっくりしたところです」
数歩こちらに近づくからほんのり白檀の匂い。それに混ざって硝煙と……。
私は血の気が引いた。
「怪我した」
「いや、怪我したどころの話ではなくないですか!?」
思わず駆け寄ろうとして、先にイゾウさんに制されてしまう。「おやまあ、珍しいね」とはエーギルさん。大したことないような言いぶりだが、左腕の二の腕からかなり血がにじんでいる。
「派手にやったね。相手は4番隊隊長かい?」
「ああ」
椅子を空ければイゾウさんはそこに座った。本当にかなりざっくり切れているから心配しつつも、着物から腕を抜き患部をエーギルさんに見せる彼の背中に、私は目を奪われた。
「これ……」
「ん?ああ……ユリトくすぐってェ」
なぞったのは背中の刺青。初めて見た。そして意外だ。エースのように大きく背中に刺青を入れているのは。
何となく少し違和感で、でも彼らしい。
「……どこかに行かないようにいれたんですか?」
「さすがだな。そうだぜ、親父を不安にさせてちゃ我らが長男がうるさくて敵わねえからな」
くすぐったいのか身じろぎしつつ、くつくつと喉が鳴る。楽し気で、どこか嬉しそうな色を映す目。
どこまでも優しい人だと思った。すべての行動が、他人に付随しているのだから。
父が、親父が、マルコさんが、隊員が……好きでやっていることだろうけど、自分のことは後回し。どこまでも優しく、欲のない人。
そんな人が欲しいと願ったのが私なのだろうか。
「ユリト?」
気づいたときには私はその辺の切れそうなもので、ぴっと手首を切っていた。
瞬間、ガタリと椅子の音。イゾウさんに刃物を取り上げられて、でも切った手首を取られるのは防いだ。そしてたぶん、怒ろうとしたのだろうイゾウさんの開いた口にそれを。
「ん……!」
精一杯背伸びをして半ば強引に擦りつけるようにしたから、びっと少し口元からずれて薄い唇から赤が伸びた。それでも血は少し口に含まれたらしい。
「あれま」
間の抜けた声はエーギルさん。ぺろっと唇に付いた血もなめとったイゾウさんの傷は、夢か魔法のようにあっという間に塞がっていって。
「この馬鹿」
ごちっと鈍い音はイゾウさんの鉄拳。
容赦なく振り落とされて私はうめいたのだった。
「はい、いいわよ」
「ありがとうございます」
リサさんににっこりと微笑まれ、私は止血用のテープを張られた腕を固定台から降ろした。まくった袖を戻そうとしたら、すっと後ろから伸びてきた腕に抑えられて、もう片方の手に手際よく袖を下ろされてしまった。リサさんではない。他のナースでもない。では、誰か。
「イゾウさん」
「ん?」
制止の意味で名前を呼んだのだけれど、効果はない。自分でできますよ、と言っても「そうか」と返ってくるだけで。たかが袖を下ろすだけ。抵抗する間もなくボタンまで留められてしまった。別に抵抗するようなことでもないのだけれど、私は溜息一つ。
週に2度、少しずつ採血をすることになった。体重や身長から無理のない採血量を計算し、船医のエーギルさんが毎回やってくれている。白髪で頬に大きな傷跡がある強面だけど、すごく優しい男の人だ。時たまかけられる声はこちらを気遣うものばかりだからさすがお医者さんだなと思う。
特に体調を崩すこともなく、採血は順調だ。ただ毎回なぜか採血の時にイゾウさんがいるだけで。
「イゾウ隊長は鍛錬の時間では?」
「副隊長に指示してある。なにかあれば呼ぶだろう」
「ユリトは子供じゃありませんよ」
「知ってるぜ。だから一緒にいるんじゃねえか」
リサさんが何度注意してものらりくらりとかわすイゾウさん。採血している間はさすがにくっついてくることはないが真横に座ってじいっと見ている。エーギルさんは何も言わないけど、絶対やりにくいと思う。手が滑ったなんてことはするわけないけど、ただ座っているだけの私だって気になるんだから、絶対多少は気が散るだろう。
「仕事はしないとだめです」
「分かってる。今から行くさ」
私から注意をすれば、採血さえ終わればちゃんと仕事に戻るのだけれど、採血の間は何を言っても絶対に動かないので私も少し困っていて。と言うのもただの採血だから別にいてもいなくても変わらないのに、ここにイゾウさんがいるということは隊の方にはいないということで、隊員の方たちに申し訳なくなってくるのだ。それを見透かすようにイゾウさんには「俺が数分いないだけでどうこうなる集まりじゃねえ」と一蹴されてしまうが。
「愛されているわね。……ちょっと過保護だけど」
採血が終わったからと席を立ったイゾウさんの背を見送って、リサさんの言葉に曖昧に笑う。これが愛されているということなら、ずいぶんと何というか、甘い。それはもう何というかむず痒いほど。イゾウさんは今までと変わらない。ただ、私が少し変わってしまったのだ。あの晩、イゾウさんの気持ちを聞いてしまってから。
『たとえ俺がお前のことを好きでも、お前が俺のことを好きになる必要はねえ』
つまり、勝手にしろと言うことなのだろうけど、あまりに身勝手なそれに私は途方に暮れていた。人肌のせいかしっかり眠りに落ちたというのに、起きた瞬間それは再生されて。
毎朝、横ですーすーと眠るイゾウさんをしばし起こすのをためらうほどには私をおかしくさせた。今日は起こさずに先に食堂に行ってしまおうか、いやでもそれだとサッチさんに迷惑をかけてしまうしな。そんなことで頭を悩ませていれば結局本人が自分で目を覚ましてしまうから朝は変わらず一緒に食事を取っているけれど。
「てっきり付き合っているのかと思っていたのだけれど違うのかしら」
「付き合ってはいませんね。でも、イゾウさんが私のことを気に入ってくださっているのは知っています」
「なるほど。ユリトが答えていないのね」
告白されたのならちゃんと答えなきゃだめよ?と笑って言われたので私はゆっくりと首を横に振った。
「好きにしろと言われたので」
「……どういうこと?」
不可解そうにリサさんが首を傾げたので、私は少し逡巡した。まあ女性同士だしいいかと晩の話をすれば、リサさんの顔はどんどん顰められていって……。
「なにそれ。ただイゾウ隊長が逃げてるだけじゃない」
「いや、私に気を遣ってくださっているのだと思いますよ?」
「いーえ!違うわ!!それはイゾウ隊長が弱っちいのよ!!」
ぱんっ!とカルテを叩いて言い切るものだからほかのナースさんもなんだなんだと会話に飛び込んできて。女子らしくなんやかんやと会話が流れはじめた。
「ってことらしいのよ!」
「それはないわ」
「返事を聞かないにしてももうちょっとねえ?」
「イゾウ隊長ってそんなに恰好悪かったかしら?」
「ほんとよ!男ならはっきりしなさいって感じ!」
「欲しい癖に女一人攫えないのかしら!」
……同性だしいいかと思ったけど、そうでもなかったみたい。私はぼろくそに言われているイゾウさんに内心で謝った。どうやらこちらの女性は肉食系が多いらしい。
「いや、あの。たぶんイゾウさんは私を縛らないためにそう言ったのだと……」
「縛るって何?答えにくい告白をすれば縛らないってこと?」
「いや、その……」
「大体言い方が女々しいわ。まるでユリトが絶対に好きと思ってないみたいな!失礼よ。し、つ、れ、い!男なら落として見せなさいって感じ!」
一応フォローをしようと思ったのだけれど、無駄だった。ごめんなさい、イゾウさん……女にかなわないのは女もなんです。なんて心の中で謝ったって仕方ないのだけれど謝らずにはいられない。
その後もあーだ、こーだと意見が飛び交い、ついには「イゾウ隊長にユリトをあげるぐらいなら私たちがもらいましょう」なんてどういうことかよく分からない意見まで出て。どうしたものかと思っていればエーギルさんが静かに声を落とした。
「仕事に戻りなさい。リサはカルテをまとめて」
それによってリサさんも含めたナースさんがはーい、と散り散りに。私はほっと息を吐いた。
「すまないね。どうにも彼女たちはがつがつしているから」
「いえ」
別に私のことを言われているわけではないのだけれど、どうしても世話になっている人だ。悪く言われるのは気分が良くない。
エーギルさんはパックに収めた私の血を丁寧にまとめると、ストックの箱の中に納めた。棚に手を伸ばすエーギルさんの少し汚れた白衣には、肩のところに白ひげ海賊団のマークが入っていてかっこいい。
「16番隊長は気難しくないかい?」
「……皆さんそういうんですけど、特に気難しいと感じたことはないですよ」
答えればエーギルさんの空気が少し柔らかくなった気がした。彼の表情が変わることはなかったが、何となくそう感じた。
「彼をそういうのは私が知っている中では君で二人目だよ」
エーギルさんはデスクから一枚の写真を取り出すとそれを私に見せてくれた。
「これ……」
写真には父と、イゾウさんが二人で映っていた。宴の最中に撮ったものなのか、二人ともこちらを見て楽しそうに笑っている。父は若く見えたが、イゾウさんの顔は今とあまり変わっていない。あれでも……?父が来たのは20年前ほど前だと言っていた。写真に写っているイゾウさんも20年前のはずだが、今と顔が変わっていないのはこれ如何に。
エーギルさんにイゾウさんの年齢を聞いてみたけれど、彼もよく知らないらしい。でもたぶん、マルコさんとほぼ同じかイゾウさんの方が年上だと言われて驚いた。マルコさんの方が……いや、やめておこう。うん、でも確かにイゾウさんの方が話すと歳を食っている感じがするかもしれない。
「父はイゾウさんと仲が良かったんですか?」
「一番仲が良かったと言ってもいいね。君の世界と、16番隊長の出身は似ているところがあるから話も合ったみたいでね。それに、君のお父さんをもとの世界に戻したのは彼だよ」
「え?」
じゃあそれは。エーギルさんはガラガラと回転いすを座ったまま動かした。
「君は怖かったり驚いたりすると物を弾くだろ?」
父も防衛本能なのか物をはじいたらしい。はじめは採血のための針をもはじくほどで大変だったのだとか。親父さんたちが来るまで、父は治療のための血を自分の腕を切ってあげていたらしいのだけれど、そんなことができるのに採血のための針は怖がるのだからおかしかったとエーギルさんは笑った。
採血は順調だったらしい。適切な採血量より少し多めに毎日少しずつ。それで父は帰れるはずだった。でも、父の体は途中で採血を拒絶したらしい。普通にやっても針を拒絶するから、寝てる間にも試したらしいのだけれど、すべて弾かれダメで。
「君たちが物を弾くのは怖いと思った時や、驚いたとき。無意識にでも警戒していれば、ものを弾く。逆に弾かないときは、安心している時だけだ」
まさか、と思った。私は写真に笑顔で写る二人を見た。だって、写真の中の二人はこんなに仲がよさそうに笑っている。
でもだから、つまり。
言葉にできずに、でも確信していれば、エーギルさんはそうだと言うようにうなずいた。
「16番隊長だけが君の父親を殺すことができたんだ」
私は思わず目を覆った。
すとんと何かが落ちた気がした。当分帰す気はない、いくらでもいればいい、気に入っている、欲しいものがあった、全部すとんと。
イゾウさんが私の採血を嫌がっていたのは私が死んでしまうからじゃない。彼は少し私に嘘をついたのだ。いや、死んでしまうのを怖がっていたのは本当だから、嘘と言うのは少し違うか。でも彼は純粋に私の死を怖がっていたのではない……彼が本当に怖がっていたのは彼自身が私を殺さなければいけなくなることだ。
ハルタさんと仲良くなったのを咎めたのも父のことが原因だろう。私がイゾウさん以外と仲良くなればなるほど、イゾウさん以外に私のことを殺せる人がいることになってしまうから。
「……イゾウさんは、父を『生かした』んですね」
「やっぱり君は彼の子供だね」
とても優しい、と言われて私は静かに首を振った。優しいのはイゾウさんだ。私ではない。
「16番隊長は確かに君のお父さんを生かした。でも、それはこちらの世界では紛れもなく『死』を意味している。とても不謹慎な話だけれど、君のお父さんが帰った直後の16番隊長は、一番人間味があったね。16番隊長はつかみどころがない。親父でさえ、彼のことは分からないことがあると笑っていたよ。そこにいるのにどこかに行ってしまいそうな、儚い男だ。それが美しいのだと思うのだけれどね」
父が帰った後イゾウさんは静かに悲しんでいたらしい。それは誰も声をかけられないほどで、しばらくすると表面上は元に戻ったが不意に見せる寂しい色は誰もが気づいていたとエーギルさんは言った。
イゾウさんは優しい人だ。そしてとても怖がりで、寂しがりや。それを知っているから、知ってしまったから私は迷っているのだろう。
「彼が君を思う気持ちに嘘はないと思うよ。だからこそ、ちゃんと答えてあげて欲しいと私は思う」
「……はい」
私は小さく返事をした。もう少し、迷うかもしれないがちゃんと答えを出そう。帰るにしても、しっかり答えを言ってから帰らなければ。
イゾウさんはきっと私の答えを強制しないと思うけれど、いやむしろいらないと思っているかもしれないけど。
「あ、あったあった。ほら、君にこれをあげるよ」
がらがらと回転いすを引いていたエーギルさんが振り返って私に渡してきたのは一枚の紙。筆記体で「izo」と書かれている。
「ビブルカードと言ってね、別名『命の紙』。特定の人の居場所やその人の生存を示す紙だ」
渡された紙は良く見ると手の平の上で微妙に動いている。……若干気持ち悪い。顔に出ていたのだろう。エーギルさんが小さく笑った。命の紙、と呼ぶぐらいだから大事な紙だろうにごめんなさい。でも、紙が動くなんて私からすれば軽いホラーだ。
「彼はたぶん君が帰る選択をしたなら、何もくれないだろうから私から君にあげておくよ。それでどの選択をしても寂しくないだろう」
小さな紙だからなくさないようにとエーギルさんは私が首から下げていたカギの筒に入れておくといいと言った。言っている意味が分からなくて首を傾げれば貸してみなさいと。
「この筒は笛にもなるし、簡単な手紙も入れられるんだ。まあ、主に鳥とかに預けるものなんだけれどね。こうして使うこともあるだろう」
はじめの日に渡された部屋の鍵。そんな機能があったとは。笛……知らなかったけど「迷子防止」と言って渡されたし、それは鈴のことを指していたのではなく、笛のことも指していたのだろう。……ことごとく子ども扱いだ。いいけど。
「うん?ああ……彼らしいな」
「どうかしましたか?」
「いいや。なんでもないよ」
筒を開けたエーギルさんが楽しそうに笑ったから尋ねたけど、結局教えてくれなかった。筒に何か仕掛けがあったみたいなのだけど。別に私が知らなくてもいいらしく、はじめと同じように筒をもとに戻されて返された。
綺麗に紙を入れてもらった私は「私もビブルカードを作れるか」と聞いた。エーギルさんは作れると思うがおすすめしないと少し眉を下げた。イゾウさんの紙を貰ったから私も渡すべきではないかと思ったのだけれど、もし私が帰る選択をしたとき、私が元の世界に帰った瞬間紙は燃えてしまうらしいのだ。
あちらで生きること、それはすなわちこちらの世界での『死』だから。それでは意味がないから、「それは彼には酷だろう」と言うエーギルさんに私もうなずいた。
それからしばらく父がこちらに来ていた時の話を聞いた。20年前にはまだいなかった隊長さんもいて、白ひげ海賊団もここまで大きくはなかったらしい。マルコさんとサッチさん、それからビスタさんあたりはいたから、気になるなら聞いてみるといいと言われた。
「あの頃はナースもあまり乗っていなくてね。ナースが何人かと、私とあともう一人船医が乗っていたよ。ああ、そうだこれも言っておかないとじゃないか」
エーギルさんが取り出してきたのは一本の試験官。その中には血。ラベルを見ると、かすれた文字。読めないでいれば、エーギルさんが読み上げてくれた。父の名前だった。
「君のお父さんの血はこれだけしかないんだ」
「え?どういうことですか?」
「盗まれたんだよ」
治療のために血を使ってくれと言った父は、採血を無意識に拒絶するまでは血を採っていた。その血はかなりの量だったらしいが、そのころ乗っていたもう一人の船医が持ち出したっきり戻ってこなかったのだとか。
「本当に特殊な血だったから、船の上じゃ検査できないと言ってね。あいつは島に有効な使い方を研究すると言って降りた。親父の許可も得てね。でも、数か月後その降りた島に迎えに行っても彼はいなかった。生死は分からないが、研究室だと教えられた場所からは血も一緒に消えていた。……君らの血は本当に特別だ。医療関係者なら分かる。ほぼなんでも治せるクスリなんてこの世にはまだ存在しない。それを限りなく可能にするのが君らの血だ」
用心しなさい、と言われて私は「はい」と返事をした。
「エーギル」
軽いノックとともに知った声。入ってきたのはイゾウさん。鍛錬に行ったはずじゃ、と時計を見て驚いた。かなり時間がたっている。
「まだいたのか、ユリト」
「私もびっくりしたところです」
数歩こちらに近づくからほんのり白檀の匂い。それに混ざって硝煙と……。
私は血の気が引いた。
「怪我した」
「いや、怪我したどころの話ではなくないですか!?」
思わず駆け寄ろうとして、先にイゾウさんに制されてしまう。「おやまあ、珍しいね」とはエーギルさん。大したことないような言いぶりだが、左腕の二の腕からかなり血がにじんでいる。
「派手にやったね。相手は4番隊隊長かい?」
「ああ」
椅子を空ければイゾウさんはそこに座った。本当にかなりざっくり切れているから心配しつつも、着物から腕を抜き患部をエーギルさんに見せる彼の背中に、私は目を奪われた。
「これ……」
「ん?ああ……ユリトくすぐってェ」
なぞったのは背中の刺青。初めて見た。そして意外だ。エースのように大きく背中に刺青を入れているのは。
何となく少し違和感で、でも彼らしい。
「……どこかに行かないようにいれたんですか?」
「さすがだな。そうだぜ、親父を不安にさせてちゃ我らが長男がうるさくて敵わねえからな」
くすぐったいのか身じろぎしつつ、くつくつと喉が鳴る。楽し気で、どこか嬉しそうな色を映す目。
どこまでも優しい人だと思った。すべての行動が、他人に付随しているのだから。
父が、親父が、マルコさんが、隊員が……好きでやっていることだろうけど、自分のことは後回し。どこまでも優しく、欲のない人。
そんな人が欲しいと願ったのが私なのだろうか。
「ユリト?」
気づいたときには私はその辺の切れそうなもので、ぴっと手首を切っていた。
瞬間、ガタリと椅子の音。イゾウさんに刃物を取り上げられて、でも切った手首を取られるのは防いだ。そしてたぶん、怒ろうとしたのだろうイゾウさんの開いた口にそれを。
「ん……!」
精一杯背伸びをして半ば強引に擦りつけるようにしたから、びっと少し口元からずれて薄い唇から赤が伸びた。それでも血は少し口に含まれたらしい。
「あれま」
間の抜けた声はエーギルさん。ぺろっと唇に付いた血もなめとったイゾウさんの傷は、夢か魔法のようにあっという間に塞がっていって。
「この馬鹿」
ごちっと鈍い音はイゾウさんの鉄拳。
容赦なく振り落とされて私はうめいたのだった。