逍遥日記
武田信道について
2011/07/10 00:00日本史
武田信道とは信玄の次男龍宝の子、顕了道快(信道)の事であり、この信道の子孫が江戸時代に高家だった事もあり、武田家直系の家系と言う事になっている。(途中、養子で繋いでいるが)
『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望―――天正壬午の乱から小田原合戦まで』の中で、天正十三年の石川数正出奔の混乱のさなかに龍宝の生存(実際は既に故人)と上杉支援での甲斐復帰の噂が信濃で流れていたと言うくだりで武田家滅亡時の信道の動向が史料をもとに整理されていたので少し触れてみたいと思う。
信道は武田家滅亡時一向宗(正確には浄土真宗だが)長延寺(現東本願寺甲府別院光澤寺)の実了師慶とともに甲斐を脱出し、織田からの追及を逃れたと言われている(『甲斐国志』など)。この記録と『光沢寺記』の信道が甲斐を脱出した際の記録に出て来る八重森因幡(家昌)と言う北信濃出身で上杉家と関わりも深い人物と一向宗が盛んな北信濃と言う土地柄、さらには龍宝の生母が三条夫人であった事から、一向宗のネットワーク等を利用し信道が生き延びる事ができたのであろうと指摘している。
八重森家昌は菊姫が景勝に輿入れした際、春日山城へ随行しているだけでなく、武田家滅亡時に織田に反発し一向一揆を起こしたような一向宗の盛んな北信濃出身である。確かに彼のコネクションを利用したと考えれば信道があの武田狩りから逃げ延びる事ができた事も頷ける。
また信道だけでなく、元僧で後に還俗した信清(信玄の末子)が越後へ逃げ延びれたのも、勝頼の遺児勝三が落ち延びれたのも納得である。彼等が生き延びる事ができた背景には一向宗と言うのコネクションがあったのであろう。
やはり宗教的な繋がりのネットワークはかなり強固なもののようだ。本願寺だけでなく、大徳寺などでも宗門の違いはあれど同門の繋がりがあった事も考えると同じモノを信じる者の繋がりは強固なのだろう。現代でも一部では宗教の繋がりが強固である宗門もある。
あるいはそれ以上に首都にあるような有名な所で学んだ同門同志の繋がりは寺が大学になっても強固だと言った方が無宗教な人が多い現代っ子には想像しやすいかも知れない。
何処の誰だよ、いい大学にいく意味がないと宣ってる馬鹿は!コネクション作りっているだろ!←(話脱線)
さて、武田信道に話を戻そう。
武将にこそならなかったが、この武田信道と言う人間の生涯はなかなか波乱に満ちたものである。
天正二年(1574年)に生まれて8歳の時に実家(?)武田家が滅亡して逃亡を余儀なくされ、本能寺の変後に甲斐へ帰国し、自分を逃した実了の養子となり(母が実了に再嫁したらしい)出家。慶長八年(1603年)に実了の後を継いで長延寺二世住職となるが、信道を庇護していた大久保長安(武田遺臣)が慶長十八年(1613年)に死ぬと大久保長安事件に連座して、松平康長に預けられた後に、元和元年(1615年)に伊豆大島に配流され、寛永二十年(1643年)居を構えた伊豆大島の野増でそのまま没している。
なかなか変転激しい波乱に満ちた生涯である。
一時信濃で流れた噂の通り上杉家の支援を受けて甲斐復帰を目指していればさらに波乱に満ちた生涯となっていたかも知れない。
もっとも天正十年に滅亡寸前まで追い詰められ新発田重家の反乱を鎮圧できていない上杉家にそこまでの余力があったとは思えないが…
『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望―――天正壬午の乱から小田原合戦まで』の中で、天正十三年の石川数正出奔の混乱のさなかに龍宝の生存(実際は既に故人)と上杉支援での甲斐復帰の噂が信濃で流れていたと言うくだりで武田家滅亡時の信道の動向が史料をもとに整理されていたので少し触れてみたいと思う。
信道は武田家滅亡時一向宗(正確には浄土真宗だが)長延寺(現東本願寺甲府別院光澤寺)の実了師慶とともに甲斐を脱出し、織田からの追及を逃れたと言われている(『甲斐国志』など)。この記録と『光沢寺記』の信道が甲斐を脱出した際の記録に出て来る八重森因幡(家昌)と言う北信濃出身で上杉家と関わりも深い人物と一向宗が盛んな北信濃と言う土地柄、さらには龍宝の生母が三条夫人であった事から、一向宗のネットワーク等を利用し信道が生き延びる事ができたのであろうと指摘している。
八重森家昌は菊姫が景勝に輿入れした際、春日山城へ随行しているだけでなく、武田家滅亡時に織田に反発し一向一揆を起こしたような一向宗の盛んな北信濃出身である。確かに彼のコネクションを利用したと考えれば信道があの武田狩りから逃げ延びる事ができた事も頷ける。
また信道だけでなく、元僧で後に還俗した信清(信玄の末子)が越後へ逃げ延びれたのも、勝頼の遺児勝三が落ち延びれたのも納得である。彼等が生き延びる事ができた背景には一向宗と言うのコネクションがあったのであろう。
やはり宗教的な繋がりのネットワークはかなり強固なもののようだ。本願寺だけでなく、大徳寺などでも宗門の違いはあれど同門の繋がりがあった事も考えると同じモノを信じる者の繋がりは強固なのだろう。現代でも一部では宗教の繋がりが強固である宗門もある。
あるいはそれ以上に首都にあるような有名な所で学んだ同門同志の繋がりは寺が大学になっても強固だと言った方が無宗教な人が多い現代っ子には想像しやすいかも知れない。
何処の誰だよ、いい大学にいく意味がないと宣ってる馬鹿は!コネクション作りっているだろ!←(話脱線)
さて、武田信道に話を戻そう。
武将にこそならなかったが、この武田信道と言う人間の生涯はなかなか波乱に満ちたものである。
天正二年(1574年)に生まれて8歳の時に実家(?)武田家が滅亡して逃亡を余儀なくされ、本能寺の変後に甲斐へ帰国し、自分を逃した実了の養子となり(母が実了に再嫁したらしい)出家。慶長八年(1603年)に実了の後を継いで長延寺二世住職となるが、信道を庇護していた大久保長安(武田遺臣)が慶長十八年(1613年)に死ぬと大久保長安事件に連座して、松平康長に預けられた後に、元和元年(1615年)に伊豆大島に配流され、寛永二十年(1643年)居を構えた伊豆大島の野増でそのまま没している。
なかなか変転激しい波乱に満ちた生涯である。
一時信濃で流れた噂の通り上杉家の支援を受けて甲斐復帰を目指していればさらに波乱に満ちた生涯となっていたかも知れない。
もっとも天正十年に滅亡寸前まで追い詰められ新発田重家の反乱を鎮圧できていない上杉家にそこまでの余力があったとは思えないが…
コメント
- viosywms (非ログイン)2024/06/09 10:00
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