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逍遥日記

土佐は土佐でも龍馬伝ではなく長宗我部

2010/11/03 23:00
日本史
久々に読書感想である。

『長宗我部』
 著者 長宗我部友親
発行者 バジリコ株式会社
 初版 2010年

 を読んだ。今まで知らなかった長宗我部氏の逸話などは読んでいて興味深いものがあった。
 長宗我部親房が殺害された事件などはまったく知らなかったし、その親房の子孫は土佐藩の下士として生き延び、さらにその子孫から土佐勤皇党に加盟した人間がいたと言う話はかなり驚いた。

 しかしながら、歴史の論文としては正直な話、少し評価が低い。子孫の方が書かれたものなので仕方ないが、客観性を欠いているものが随所にみられる。
 一例と言うかその中で一番気になったのは、元親の嫡男信親が戦死した別次川の戦いに関してではなかろうかと思う。『仙石秀久が無謀な突撃をした裏には秀吉の内命があったのではないか?』と言った秀吉に対する悪意的な解釈を述べておられたが、これはまずありえないだろう。元親や信親を消すため、あるいは長宗我部の国力を削ぐためだけにわざわざ島津に無謀な突撃をして敗戦するのはリスクが高すぎる。また秀久が改易されているが後に許された事実を持って『話が出来過ぎている』と言うのはいかがなものであろうか、どう考えても客観的に見れば、突撃の理由は秀久と島津家久の力量差や無謀な采配ぶり、他にも味方の城を見殺しにする事ができなかったなどと考えた方が理に適う。また、秀久が大名に返り咲いたのは執り成した者達のお陰、あるいは豊臣家には譜代の家臣がいないのでそれを補うためにだと考えた方が遥かに自然だろう。この件は秀久の失態であり彼の技量の限界を物語っており、秀吉に落ち度があったとすれば秀久の器量を見誤った一点だけである。
 最もこの時の秀久の失態で討ち死にした信親の長宗我部家と在保の三好(十河)家が後に潰れ、秀久の仙石家が曲がり成にも幕末まで続いた事実を考慮すれば、長宗我部・三好側が仙石秀久へ物申したいのは仕方がない話である。
 ちなみに蛇足ではあるが、この時の敗戦は力量不足と秀吉の人選ミスなので仕方がないにしても敗戦後の単身で逃亡、並びに、小田原の役後に復帰したにも関わらず関ヶ原では東軍に所属し、豊臣家を見捨てている彼や仙石家が私は好きではない。私が過去の人物である戦国武将を嫌いになる事は非常に珍しいのだが、どうしても彼だけは好きにはなれない。だからセンゴクなるマンガは全く読んでいない。

 『無』の旗印通りの秀久のせいで話が逸れたが、本の感想に戻りたい。

 随所に長宗我部家を改易にした盛親やその首脳部の評価が低いのは仕方がないと考えるが、山内家があのまま入国していれば起きたであろう血みどろの抗争を最小限に抑えた者達まで『下士を見捨てて自分達だけ他家に仕官した』と酷評するのはいかがてあろうか、
 この場合、入国先である土佐での採用を極端に減らし、兵農分離が進む時代の中では特異な存在となっていた一領具足と言う存在を無視した山内家側に問題があったと考えるべきではないだろうか。
 酷評するならば、この入国時の山内一豊の処置は十年前に葛西大崎領へ入国し統治に失敗した木村吉清と同定度の処置だと思う。木村吉清の場合と異なり蜷川達が入国前に地ならしをしたので出血量が減っただけだと私は考える。
 自分の先祖に関わることなので仕方がないかとは思うが、こう言う客観性を欠いた推論はいただけない。

 ただ、最初にも述べたが、論文としてではなく長宗我部家の逸話集と考えて読んだ場合は非常に面白いものだ。元親が捕鯨した鯨を土佐から大坂に送り秀吉に鯨を見せた話などは私は知らない話だったので面白い逸話だと感じ、また、秀吉が鯨を見たのは弟秀長が亡くなった直後と言うことになるので、そう考えても非常に興味深い逸話だと思う。
 また(伝ではあるが)長宗我部信親像を初めて見れたのは個人的には非常に大きな収穫だった。

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