逍遥日記
丹羽長秀の若狭支配について
2012/02/23 20:04日本史
丹羽長秀が織田信長より若狭を与えられたのは少しでも織田信長についてかじった人間にとっては衆知の事実となっている。
谷口氏の著書でも丹羽長秀は若狭を与えられた遊撃軍と評されている。当然ながら読み手は他の織田家臣と同じように若狭の一職支配を任されたと受け取るし、私自身もそう考えていた。しかしながら戦国史研究会の『織田権力の領域支配』に収録されている功刀俊宏氏の『織田権力の若狭支配』を読み丹羽長秀の若狭支配に関して一職支配ではなかったのではないかと考えるようになった。
功刀俊宏氏は織田家ならびに丹羽長秀の若狭支配に関する文書を丁寧に調べあげられた結果、長秀が直接支配していたのは遠敷郡のみと言う結論付けられていた。
功刀俊宏氏の説を読む限りでは遠敷郡は丹羽長秀が直接支配し、他の二郡(三方郡と大飯郡)に関しては若狭武田家が守護として若狭を支配していた従来の通りに粟屋勝久と逸見昌経の両名に委ねられている。無論、逸見昌経が病死する以前の話である。
また、やはりと言うべきか、織田家の家老として戦場に、政治に、外交にと様々な任務を受け持ち多忙であった丹羽長秀は若狭に腰を据えて若狭支配に乗り出した期間は極めて少なく長秀の家臣(溝口秀勝や長束正家等)や織田家に従う地元の人間(沼田など)に支配を委ねている。この辺りの支配体制が溝口秀勝の織田家への直参化に繋がったようだ。
功刀俊宏氏の説や谷口氏の著書を読み私が感じた疑問は『丹羽長秀と粟屋勝久・逸見昌経両名の関係』並びに『丹羽長秀の若狭支配体制』についてである。
一職支配ならば明智光秀や山岡景佐等、羽柴秀吉と宮部等の様な支配域内の従属的な地侍だが、主従関係ではないような関係となるが、丹羽長秀の場合は異なる。
織田家の他将に類似的な支配体制がないだろうか。
まず思い付いたのは池田恒興と中川清秀・高山右近の様な軍事の時のみ指揮下に入るような関係に近いものだった。何故ならば軍事で粟屋勝久・逸見昌経等若狭衆が丹羽長秀の配下にいた事は間違いないからである。ただ池田恒興と中川清秀・高山右近の関係は軍事以外での上下関係、例えば所領の安堵や内政へ干渉した形跡が見られない。中川清秀・高山右近の両名はあくまで信長の直参で遠征時(武田征伐や中国遠征計画)に指揮下となっただけであり、上下関係は殆どない寄親と与力の関係である。池田恒興の次男輝政の最初の妻(利隆の生母)が中川清秀の娘である事もそれを物語っているのではないだろうか。池田恒興と中川清秀・高山右近の関係は(秀吉時代ではあるが)堀秀政と溝口秀勝・村上頼勝の関係と類似しているように見受けられる。
次に考えたのは塙直政による(南)山城、大和の支配である。塙直政は守護として両国を支配した。これは寺社の勢力や荘園支配等々の旧い支配体制や利権が根を張っていた両国へは守護による支配と言う体制が馴染むのではないかと信長が判断した為だと言われている。守護制度を利用した支配は一向一揆殲滅以前の越前でも試みられている。信長配下の守護支配体制の特徴を(私が知る範囲で)並べると、
・直轄地が少ない。
・旧来の支配体制を取り込んでいる。(おそらく時間をかけて支配体制を徐々に改めて行く予定だったのだろう)
・守護の直接支配が全域に行き渡っていない。(旧来支配者の権益を安堵している為)
・軍事では守護を大将として出陣している。(塙直政の本願寺包囲がその例)
丹羽長秀の若狭支配の特徴は塙直政の山城大和守護支配と類似する点があると考える。ただ、塙直政が両国した期間は短く完全な比較は難しいが、功刀俊宏氏の説を元に丹羽長秀が若狭守護として若狭を支配したのか考察してみたい。
まず若狭の守護と言えば丹羽長秀以前に若狭をしていた若狭武田家である。若狭武田家は遠敷郡を直接支配し、三方郡と大飯郡に関しては粟屋氏と逸見氏が支配させ、その両氏を守護として統率すると言う間接的な支配体制であった。朝倉家に併合される以前や織田家や丹羽長秀の支配が及ぶ以前、永禄年間の若狭支配以下の通りだったと考えられる。
遠敷郡
武田義統・元明(守護)
三方郡
粟屋勝久
大飯郡
逸見昌経
一方、織田家の領国となった天正年間の若狭は功刀俊宏氏が文書を整理して導きだした説は以下の通りである。
遠敷郡
丹羽長秀
三方郡
粟屋勝久
大飯郡
逸見昌経→溝口秀勝(一部は武田元明へ)
この交代を見ると長秀は若狭で一職支配をしたと考えるよりも旧来の若狭守護武田家の支配体制を踏襲し、徐々に織田家の若狭支配を根付かせていったと考えるのが妥当である。やはり一番近い類似の支配体制をみつけるとすれば塙直政の(南)山城支配だと考える。
塙直政が(南)山城、大和両国の守護に任じられている事を考えれば長秀が若狭守護であった可能性は十分に考えられるが、史料にその様な記述は無いので長秀が若狭の守護だったと断言する事は避けるが、長秀の若狭支配が一職支配ではなく旧来の守護的な支配体制だったとだけ述べるに留めておく。
以上の様に長秀の若狭守護への任官の有無はともかく、旧来の若狭守護による支配体制を踏襲した形で若狭を支配していったと考える方が妥当であろう。また一職支配と誤認或いはそう言う印象を抱いたのは本能寺の変後に丹羽長秀が与力を家臣化した影響ではないだろうか、これは前田利家と長連竜の関係を思い浮かべていただければ想像しやすいだろう。
参考文献
功刀俊宏氏『織田権力の若狭支配』(戦国史研究会『織田権力の領域支配』に収録)
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(二〇〇七年 中央公論社)
谷口克広『信長軍の司令官』(二〇〇五年 中央公論社)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典第2版』(二〇一〇年 吉川弘文館)
原著太田牛一 訳者榊山潤『原本現代訳20信長公記下』(二〇〇六年ニュートンプレス)
谷口氏の著書でも丹羽長秀は若狭を与えられた遊撃軍と評されている。当然ながら読み手は他の織田家臣と同じように若狭の一職支配を任されたと受け取るし、私自身もそう考えていた。しかしながら戦国史研究会の『織田権力の領域支配』に収録されている功刀俊宏氏の『織田権力の若狭支配』を読み丹羽長秀の若狭支配に関して一職支配ではなかったのではないかと考えるようになった。
功刀俊宏氏は織田家ならびに丹羽長秀の若狭支配に関する文書を丁寧に調べあげられた結果、長秀が直接支配していたのは遠敷郡のみと言う結論付けられていた。
功刀俊宏氏の説を読む限りでは遠敷郡は丹羽長秀が直接支配し、他の二郡(三方郡と大飯郡)に関しては若狭武田家が守護として若狭を支配していた従来の通りに粟屋勝久と逸見昌経の両名に委ねられている。無論、逸見昌経が病死する以前の話である。
また、やはりと言うべきか、織田家の家老として戦場に、政治に、外交にと様々な任務を受け持ち多忙であった丹羽長秀は若狭に腰を据えて若狭支配に乗り出した期間は極めて少なく長秀の家臣(溝口秀勝や長束正家等)や織田家に従う地元の人間(沼田など)に支配を委ねている。この辺りの支配体制が溝口秀勝の織田家への直参化に繋がったようだ。
功刀俊宏氏の説や谷口氏の著書を読み私が感じた疑問は『丹羽長秀と粟屋勝久・逸見昌経両名の関係』並びに『丹羽長秀の若狭支配体制』についてである。
一職支配ならば明智光秀や山岡景佐等、羽柴秀吉と宮部等の様な支配域内の従属的な地侍だが、主従関係ではないような関係となるが、丹羽長秀の場合は異なる。
織田家の他将に類似的な支配体制がないだろうか。
まず思い付いたのは池田恒興と中川清秀・高山右近の様な軍事の時のみ指揮下に入るような関係に近いものだった。何故ならば軍事で粟屋勝久・逸見昌経等若狭衆が丹羽長秀の配下にいた事は間違いないからである。ただ池田恒興と中川清秀・高山右近の関係は軍事以外での上下関係、例えば所領の安堵や内政へ干渉した形跡が見られない。中川清秀・高山右近の両名はあくまで信長の直参で遠征時(武田征伐や中国遠征計画)に指揮下となっただけであり、上下関係は殆どない寄親と与力の関係である。池田恒興の次男輝政の最初の妻(利隆の生母)が中川清秀の娘である事もそれを物語っているのではないだろうか。池田恒興と中川清秀・高山右近の関係は(秀吉時代ではあるが)堀秀政と溝口秀勝・村上頼勝の関係と類似しているように見受けられる。
次に考えたのは塙直政による(南)山城、大和の支配である。塙直政は守護として両国を支配した。これは寺社の勢力や荘園支配等々の旧い支配体制や利権が根を張っていた両国へは守護による支配と言う体制が馴染むのではないかと信長が判断した為だと言われている。守護制度を利用した支配は一向一揆殲滅以前の越前でも試みられている。信長配下の守護支配体制の特徴を(私が知る範囲で)並べると、
・直轄地が少ない。
・旧来の支配体制を取り込んでいる。(おそらく時間をかけて支配体制を徐々に改めて行く予定だったのだろう)
・守護の直接支配が全域に行き渡っていない。(旧来支配者の権益を安堵している為)
・軍事では守護を大将として出陣している。(塙直政の本願寺包囲がその例)
丹羽長秀の若狭支配の特徴は塙直政の山城大和守護支配と類似する点があると考える。ただ、塙直政が両国した期間は短く完全な比較は難しいが、功刀俊宏氏の説を元に丹羽長秀が若狭守護として若狭を支配したのか考察してみたい。
まず若狭の守護と言えば丹羽長秀以前に若狭をしていた若狭武田家である。若狭武田家は遠敷郡を直接支配し、三方郡と大飯郡に関しては粟屋氏と逸見氏が支配させ、その両氏を守護として統率すると言う間接的な支配体制であった。朝倉家に併合される以前や織田家や丹羽長秀の支配が及ぶ以前、永禄年間の若狭支配以下の通りだったと考えられる。
遠敷郡
武田義統・元明(守護)
三方郡
粟屋勝久
大飯郡
逸見昌経
一方、織田家の領国となった天正年間の若狭は功刀俊宏氏が文書を整理して導きだした説は以下の通りである。
遠敷郡
丹羽長秀
三方郡
粟屋勝久
大飯郡
逸見昌経→溝口秀勝(一部は武田元明へ)
この交代を見ると長秀は若狭で一職支配をしたと考えるよりも旧来の若狭守護武田家の支配体制を踏襲し、徐々に織田家の若狭支配を根付かせていったと考えるのが妥当である。やはり一番近い類似の支配体制をみつけるとすれば塙直政の(南)山城支配だと考える。
塙直政が(南)山城、大和両国の守護に任じられている事を考えれば長秀が若狭守護であった可能性は十分に考えられるが、史料にその様な記述は無いので長秀が若狭の守護だったと断言する事は避けるが、長秀の若狭支配が一職支配ではなく旧来の守護的な支配体制だったとだけ述べるに留めておく。
以上の様に長秀の若狭守護への任官の有無はともかく、旧来の若狭守護による支配体制を踏襲した形で若狭を支配していったと考える方が妥当であろう。また一職支配と誤認或いはそう言う印象を抱いたのは本能寺の変後に丹羽長秀が与力を家臣化した影響ではないだろうか、これは前田利家と長連竜の関係を思い浮かべていただければ想像しやすいだろう。
参考文献
功刀俊宏氏『織田権力の若狭支配』(戦国史研究会『織田権力の領域支配』に収録)
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(二〇〇七年 中央公論社)
谷口克広『信長軍の司令官』(二〇〇五年 中央公論社)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典第2版』(二〇一〇年 吉川弘文館)
原著太田牛一 訳者榊山潤『原本現代訳20信長公記下』(二〇〇六年ニュートンプレス)