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呪術 2
「なまえの髪、伸びすぎじゃない?」
そう指摘したのは、1年生の紅一点、家入硝子。そんなこと気にしたこともなかったと言わんばかりに、夏油は箸からキャベツの千切りをこぼした。珍しく家入が食事をしている夏油となまえの方に来たかと思ったら、要件のような要件でもなかったので、夏油は珍しいものでも見たというふうに家入を眺めた。
「硝子、意外だな。なまえのことを気にかけているなんて」
「私のことなんだと思ってんの。気付かなすぎなんだよ、夏油」
家入の言ったことはごもっともだった。夏油の隣で食事をしているなまえは、つい2週間前、高専に来たときはおかっぱだった。それから夏油は彼女の髪型を気にしたことはない。言われてみれば、おかっぱだった毛先が伸びている気がしなくもない。夏油は自分のとんかつを一切れ食べた。
「前はこんくらいだった。2週間にしちゃ伸びすぎだよ」
家入がそっとなまえの頭に手を伸ばして、耳のすぐ下あたりを示す。それに気付いたなまえはびっくりして、顔を家入に向けた。その表情が無機質すぎて、実は家入が慄いていたのは内緒である。
「2週間で10cmくらい」
「確かに速いな。術式の影響かもしれない」
「……大変だね。なまえは」
ちら、と家入は小さい彼女の顔を伺って、くるりと踵を返した。
「あとなまえにもうちょいご飯あげてやってよ。私がおせんべ食べてるとじっと見てくるから。お腹空いてんでしょ」
なまえは家入の指が離れてから、すぐ食事を再開した。メニューは夏油とは違い、野菜たっぷりのうどんである。にんじんをフォークにさしているが、家入の言葉を聞いた途端、動きが鈍った。
「硝子からおやつもらっちゃだめだからね。虫歯になるよ」
「……はい」
これはどうやらもらっている反応だ。食欲旺盛なのはいいことだが、お菓子ばかりを食べさせるわけにもいかない。彼女の世話をするからには、夏油はこの子を遺したご両親が悲しまない振舞をさせたいのである。
よくよく見ると、今のなまえの髪型はまるで怪談に出てくるトイレの花子さんである。赤いワンピースを着せれば完璧だ。それだとさすがにかわいそうなので、夏油はとりあえず週末に、高専から一番近い美容院へ彼女を連れて行く計画を立てた。
なまえと夏油、はじめてのおでかけだ。バスで最寄りの駅まで20分、更に電車で15分、その辺に美容院が数カ所ある。女の子を1000円カットに連れていくのは抵抗があったので、その中で適当に見つくろおうと思ったのだった。
季節は6月。初夏の日差しが肌を刺す。夏油がダメ元で夜蛾にスウェット以外の子供服はないのか、と聞いたところ、夜蛾は快く子ども用のワンピースを貸してくれた。なまえには少し大きかったが、何と夜蛾が丈を調節してくれたのだ。
ついでにぬいぐるみもプレゼントとしてついてきたが、なまえはそのぬいぐるみをそっと夏油の机の上に置いて、それから触りもしない。夜蛾の独特なセンスのぬいぐるみは、なまえには刺さらなかったらしい。
夏油の部屋でしか寝起きしないなまえは、当日の朝は普段よりしゃきっと目覚めた。珍しく、夏油より先にベッドを下りたのである。わくわくしているのは感じ取れたが、目と頬の筋肉がそれについていってないようだ。難儀な表情筋である。
そんな無表情ななまえであるが、いよいよ夜蛾から借りたワンピースを着られるとなると、そわそわと体を動かし始めた。背中にファスナーがあるタイプの、襟が白く、黒色のノースリーブの、丈が長いワンピースだ。
なまえは見た目よりも思考は乙女だったようだ。夏油が着せてやると、想像よりも大人びた、3歳とはかけ離れた印象になってしまったが、可愛かった。夜蛾から借りたワンピースの色が黒でよかったとひしひし感じる。赤なんて来たら、本当に怪談から抜け出てきたような花子さんだっただろう。
「なまえは黒が似合うね」
夏油がそういって頭をなでると、なまえは少しうつむいて、こっくり首を縦に振った。照れているのかもしれない。
なまえと出会って2週間。会ったばかりのころはよくわからなかったが、つい最近、この子どもはずいぶんと綺麗な顔立ちをしていることに気付いた。子どもらしいぷっくりと丸い頬や、低い頭身など、全体的に見れば愛くるしい子ども然としているが、ふとした角度から一瞬、子どもを模してつくった人形になる。錯覚だとも思うが、このまま成長していったら、この子はどんな姿になるのだろう。
早く出発したがるなまえは、年相応の子どもだ。夏油には妹も弟もいないが、心根が純粋な幼い子どもに慕われるのは気分が良い。もともと面倒見の悪くない夏油なので、素直ななまえは手間もなく、初めて可愛がって世話をするのにちょうどいい子だった。
そういうわけで、夏油は私服に着替えて支度をすると、朝食もそこそこに高専を出発した。土曜日の朝の高専は静かだ。どの術師も疲れている。夏油はまだ1年なので大量の仕事に忙殺されるということはないが、先輩方を見ていると休みも削って出張、というのも珍しくないようだ。呪術界の人手不足は深刻らしい。
なまえは夏油の手をしっかり握って、よそ見もせずに歩く。この歳なら道端の花や虫に気をとられて転んだりしてしまってもいいと思うのだが、なまえにそういうのはなさそうだ。
なまえは軽くうつむき気味で、淡々と歩いている。真っすぐで黒い髪が、御簾を分けたように首の上で二股に分かれて、その隙間から白い襟足がのぞいた。
「ここにも日焼け止め塗ればよかったな」
そっと夏油は、なまえの黒髪をかき寄せた。空気の熱を吸って、真の黒にほど近い黒髪は火照っている。すだれの下に透けるのは、黄色人種とは思えないような、雪のような真っ白な肌。日焼けしたら真っ赤になってしまうんじゃないかと夏油は思っていた。なまえは夏油の指をくすぐったそうに振り払うと、その方を見上げる。
一瞬、目がガラス玉かと錯覚する。
「あつくないよ」
「そういう意味じゃないんだけどね」
初夏の日差しがそう見せたのだろう。太陽の光は屋内灯とは違う肌艶を醸し出す、とは、家入と仲のいい京都校の先輩の言葉だ。それが子どもの場合、というかなまえの場合、瞳に適用されるだけで。
のんびり高専の建つ山を下り、ふもとのバス停から15分1本のバスに乗る。1時間に4本も通るくせに、乗客はさほど多くない。緑の田舎風景は最初の5分だけで、すぐ車窓には市街地が入り込んでくる。
なまえはじっと窓の外を食い入るように見つめている。何事かと思ってその視線を追ってみると、街中の小さな社があった。呪霊の姿はなかった。がたん、とバスが道路の凹凸に引っかかっただけで、なまえの小さな体は上下に揺れた。
「何もいないよ」
「うん」
「何を見てるんだい?」
「あれ」
「だから、あの社には何もいないよ」
なまえの頷きは車体の揺れにかき消された。車窓からその小さな社は見えなくなってしまい、階層の低い商業ビルがガラスを覆う。あと数分もすれば駅だ。
窓の外に流れる景色は、もうさほど変化はなかった。コンクリートの建物と、飲食店と、コンビニと。終点までには乗客は増え、最後部座席に座っていた夏油となまえは最後にバスを降りた。
「お嬢ちゃん、ずいぶんおめかししてるねえ。いっぱい遊んでおいで」
「はは、ありがとうございます」
バスの運転手は気が良い人だったようで、にこにこ笑顔でなまえに手を振ってくれた。なまえはそっと夏油の手を握るだけで手を振り返しはしなかったが、かすかにこくりと頷いていた。行こうか、と夏油が声をかけると、なまえは小走りで夏油についてくる。
なまえがこんなに懐くのは夏油だけだ。それが少しだけ、夏油の自尊心をくすぐる。出会ってたった2週間なのに、おかしな話だ。邪心のない子どもに好かれて、自分は立派な人間だと思い込めるからだ、と夏油は内心で自分を鼻で笑った。
土曜日なので、駅の周りは外出する人々で込み合っている。なまえの手に力がこもるのがわかった。人見知りをする子だ。大きな大人の身長に威圧され、縮こまっているのだろう。
「抱っこする?」
「あるく」
ちょこちょこ歩くなまえは、大勢の人の目を引いた。中には他人に興味のない人やなまえを見ても驚かない人もいたが、大半の人間はなまえの顔を二度見する。すれ違ったかと思えば、くるっと反射のように知らない顔が夏油の足元を見返すのだ。そして、足早に離れていく。
なまえがいるので都合がよかったが、夏油の近くをわざわざ通ろうとする人は減った。遠目で、夏油の足元を見て、そそくさと斜めに進んで半径2メートルの距離をとろうとして、同じ方法をとった者同士で衝突した。
なまえの顔は、絶大な魔力があった。夏油は自分の審美眼に自信があるわけではないし、五条はそもそもなまえに近付きたがらないし、家入はなまえにおやつを与えたことはあるらしいが、それだけ。夏油はまざまざとなまえが持つ力を思い知った。
弱冠3歳で、造形が整いすぎていて、まるでひな人形か何かのようなのだ。人形が暗い座敷でケースの中に飾られている様子と同じだ。背中を向けると視線を感じる。衣擦れの音が聞こえる。不安に駆られて振り向いても、何も起こっていない。
彼女は、そういう雰囲気をまとっている。
「つらかったら言うんだよ」
「だいじょうぶ」
こくりとなまえは頷いただけだった。周囲の様子には気付いているのかは分からないが、こんな駅の真ん前で尋ねるのも気が引ける。そのまま駅の構内に入ると夏油は2人分の切符を買った。その画面を珍しそうになまえが見ていたので、夏油が小さい体を抱き上げてタッチパネルを操作させてやると、動かない表情筋の代わりに真っ黒な目が大きく輝いた。
駅のホームでも、電車内でも、なまえの周りには大半の人間は寄り付かなかった。ちらちらなまえの方に視線を寄こしている人も見受けられたものの、それ以上は何もなかった。
可愛い子どもは誘拐に遭う、なんて言うのは心配性が行き過ぎた年寄りくらいのものだ、というのが夏油の見解である。そんな年寄りだって、こんな3歳ぽっちの子どもと会ったらその意見を180度変えるかもしれない。
なまえは、可愛いか可愛くないかで言えば間違いなく可愛い部類なのだが、見ての通り誰も寄り付かない。この矛盾したものを見せてやりたい。
なまえは同い年の子どもと比べて、随分おとなしかった。夏油が促すまま席に座り、じっとしている。向かい側の窓をぼんやりとした視線で眺めていて、その無表情さに驚いた乗客が、居心地悪そうに隣の席へずれた。
電車に揺られて15分。ホームが6つほどある大きな駅。階段を登って改札を出て、大勢の人でにぎわうコンコースを左へ行って歩道橋を下ると、大通りに面した美容院が2件、並んでいた。6月の日差しに照らされ街は活気づいているが、このうだるような暑さには参ってしまう。
じりじりとコンクリートから立ち込めてくる熱に、小さな子どもは耐えられるだろうか。冷たいお茶が飲みたくなって、夏油はなまえを抱き上げるか考えた。
「大丈夫?」
「うん」
細い首を触ってみても、特に熱が出ている様子でもない。夏油は立ち並ぶ店の名前を確かめ、すぐ近くの扉に手をかけた。木枠で囲まれたガラス戸があいて、木製のウインドチャイムがカラカラと鳴った。
「いらっしゃいませー」
「今日予約していた夏油ですが」
「お待ちしていました! カットするのは……」
「この子でお願いします」
夏油がとん、となまえの背を軽く押すと、なまえはそれに抗うように後退した。顔もうつむき気味で、もぞもぞと夏油の手を握った。愛想のいい女性店員の視線が夏油の足元に移ったが、夏油はその表情が一瞬ひきつったのを見逃さなかった。それでも彼女は接客のプロであり、かがんでなまえに目線を合わせる。
「お名前は~?」
「……なまえ」
「なまえちゃんか。なまえちゃん、お兄ちゃんには隣にいてもらうから、こっちにきて椅子に座ってくれるかな?」
「なまえ。可愛くなっておいで」
もう一度夏油はなまえの背を押した。今度はすんなりと言うことを聞いて、店員に示された椅子によじ登った。
夏油はその隣の空いている席に座らされた。美容院は向かい合って鏡台が設置されている。合わせ鏡は一般人の恐怖を誘う対象ではあるが、美容院に呪霊が発生した事例はあまり聞いたことがない。
かくいう夏油も明るい光の下でも延々と続く自分の繰り返しを見ても何も感じない。
隣には、なまえの姿が虚像の世界へ分裂していっているのが見える。それは正直に言えば、見ていると頭がおかしくなりそうな様相だった。無限に並ぶ人形を見せられている気分だ。なまえには黒いワンピースが一番似合うのだが、それを選んだことも後悔した。鏡の間にいる対象で、こうも明るい空間に冷や汗を誘うことができるとは。
準備ができた女性のスタイリストが、お待たせいたしましたーと言って戻ってきたのだが、彼女はなまえの映っている鏡を見て、「ひっ」という悲鳴を慌てて飲み込んだようだった。
「さ、さて、本日はどのようにしましょうか?」
「おかっぱみたいになっているのを直してほしくて」
「もしかしてお兄ちゃんが切られたんですか?」
「お恥ずかしながら」
「ちっちゃい子だとそういうことよくありますよー」
30代くらいに見えるスタイリストはそういうと、なまえに白いカバーをかぶせた。子ども用サイズで、手を出す場所はない。首の周りにも2重にカバーをかけて、更にその間にタオルを巻く。
「なまえちゃん、どう? 髪の毛伸ばしたい?」
なまえは無反応だった。それでもスタイリストは霧吹きでなまえの黒髪を濡らしながらしゃべるのをやめない。
「なまえちゃんは長いのが似合うと思うんだよねー。お兄ちゃん、どうですか?」
「そうですね、なまえの好きなように……なまえ、伸ばす?」
夏油が尋ねると、なまえはかすかに首を縦に振った。
「人見知りな妹ちゃんですね」
「ええ、まあ」
夏油となまえはまったく似ていなかったが、兄妹ということで通せているらしい。スタイリストは長い指でなまえの髪をかき分け、ピンでとめた。
「綺麗に伸びるように切っていきますねー」
そう言うと、彼女はすきバサミを取り出し、早速カットを始めた。なまえの細い髪糸がはらはらと白いカバーに散る。空気にすら邪魔されて、床に落ちていくのに重力に逆らって、夏油の足元に舞い降りた。
夏油は、目の前に落ちてきた自分の前髪の束と、白い床に散っているなまえの髪の毛を無意識のうちに見比べていた。この吹いて飛ばせば見失うような細さの髪の毛は、果たして成長と共に太くなるのだろうか。
視界の隅で、もぞもぞと黒いものが動いた。虫だろうかと思っていたが、気配が違った。黒くて汚いもやをまとっている、虫のようなものは、まごうことなく呪霊だった。こんな昼間に、こんな低級の呪霊が、のこのこ出てくるだろうか。その虫のような呪霊はよたよた蠢くと、何度目かのもがきで目的のものに到達した。
なまえの切れた髪の毛だ。
彼女が術式を使用した様子はないので、その毛から生み出されたわけではなさそうだった。それでは、なまえの髪の毛には呪力がこもっていて、それに呪霊が寄せられているというのだろうか。その仮説が有力かもしれない。
とりあえず夏油は手持ちの小さな呪霊を呼び出して、寄ってきた低級呪霊を祓うことにした。骨の体から肉が垂れさがっている獣型の呪霊を呼び出し、それらを狩らせてみたはいいが、なまえのカットされた髪の毛には次々と低級呪霊が群がってくる。
「あれ……なんか頭痛が……」
なまえのうしろでカットされている女性がそう言って、耐えきれなかったように頭を前に抱え込んだ。大丈夫ですか、と別の美容師が呼び掛けても、彼女は起き上がらない。
それもそのはずで、彼女の茶色に染められた頭髪の中で楽しそうに遊んでいる呪霊たちがいるからだ。頭頂でかぎづめのついた足でぴょんぴょん跳ねられたら、それは頭が痛くもなろう。
夏油は何気ない仕草でケータイ電話を取り出すと、メールに気付いたというふうを装って待ち受け画面を眺めた。もちろんのことながら、そこには着信やメールなどは示されていない。そのまま携帯電話をしまって、立ち上がる。
「すいません」
「はい?」
「用事が入ってしまって。今からキャンセルでお願いします」
「え? 今からですか?」
「ええ。急ぎでして」
我ながら苦しい言い訳である。怪訝な顔をするスタイリストを何とか押し切り、夏油はカバーを外されたなまえを抱き上げた。そのまま何体か呪霊操術で取り込んだ呪霊を呼び出すと、店中に放った。
「では。申し訳ありませんでした」
「は、はあ……」
そのあまりにも速い夏油の行動に、スタイリストは呆気にとられるばかりだった。夏油はそんなものを気にしているわけにもいかず、足早に美容院から離れると、状況をわかっていないなまえを地面に下ろした。
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