毛皮と火
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熟れかけりんごは未収穫 2
「ほ、ほんとに……鬼さまいるって、思う?」
「いる可能性はあると思ってる。土着の伝承って、歴史に基づいてることが多いの。調査はすっごく時間かかるかもしれないけど、それに見合う価値は大いにある! 私も伝説の当事者に会ってみたいし!」
その語り口は、妙に説得力があって、なまえの力強い瞳にスグリは気圧された。
なんか、なまえは、自分の知らない特別なことを知っているような気がする。学園ですら感じたことないわくわく感を、スグリは抱いた。このまま知らない世界へ、なまえと一緒にいれば、飛び込めるんじゃないかって。
何より、鬼さまに会いたいと思う気持ちが、同じで。鬼さまに会いに行く、というスグリの小さい頃からの夢を、受け入れるだけじゃなくて、同じ目標に向かうって。
「うん。もっと色々調べてみよ。あー楽しくなってきた……。やっぱりフィールドワークって説話蒐集の醍醐味だな~」
そういうなまえの表情は、今日一番、輝いていた。好きなものを目の前に積み上げられたときのようだ。バトルのときの、らんらんと輝く目とはちょっと違う。地獄谷の風景に感動していたときのみずみずしい表情とも、ちょっと違う。どう、とはスグリには言えないけど、少なくとも、なまえの生き生きしたところが、スグリは好きだ。
かっこよくて強くて特別で、そんななまえの隣で、一緒に冒険したくて。
「なまえ、あの、おれも……」
おれも一緒に、鬼さまさ探したい。
『ロトロトロト……』
スマホロトムの着信音が洞穴に響いて、スグリは言葉を飲み込んでしまった。なまえはスグリに目配せして、少し申し訳なさそうに、ロトム、と言う。
『もしもし、なまえさん。管理人ですよ』
「なまえです。どうしたんですか?」
『そろそろお昼ができますんで、公民館まで戻ってらっしゃい。スグリも一緒かな?』
「はい。2人で戻りますね」
『はいはい。お待ちしていますよ』
通話が切れる。赤いスマホロトムが、なまえのポケットに滑り込む。
「遮ってごめん。もっかい、いい?」
すまなそうになまえは、ちょっと眉を下げて、たれ目をさらに垂らした。
あれ、言えなかったこと、なんだっけ。
聞き返してくれたことが、こんなにもうれしいなんて。ちゃんとなまえは、おれの話聞いてくれる。優しくて、おれのこと見ててくれる。それだけのこと、って言われそうだけど、キタカミの訛りも、人見知りで喋るのがうまくいかないことも、なまえはなにも言わない。おれの話、聞いてくれて、鬼さまのことにも興味持ってくれて、これ以上なにが起こったら、こんなに浮かれ気分になるんだろう。
なんだっけ。うれしすぎて、さっき考えていたことを思い出すのに、時間がかかる。
「おっ、おれも鬼さま探しに行きたい。なまえと、一緒に」
一息で言いきらないと、口ごもって最後まで言えない気がして。
恐る恐るなまえの顔を伺うと、胸がきゅっとなるくらい、なまえの笑顔はこぼれていた。
「先に探してたのはスグリでしょ。私は仲間に入れてもらう側だよ」
なまえ。
胸がいっぱいで、ぎゅうぎゅうと何かやわらかいものが詰められたように、布団にくるまれているような心地よさだ。でも何も言えなくなって、さっき勢いで言い切ったのが正解だった。
なまえ、って、名前を呼びたいのに、声が出てこない。今の気持ち、伝えたいのに。
おれも、なまえと冒険できることが、うれしい、って。
「まず腹ごしらえだね。あとは情報収集だな。公民館とかに歴史資料集とかある?」
「あ、あると思う」
「あとね、もっとこの土地のこと教えてほしいの。私は部外者だから、スグリの方が詳しい」
「そ、そんくらい、勿論」
「ありがとう! スグリがいてよかった! キタカミの伝承の立会人に、絶対、会いに行こうね!」
なんか、嬉しすぎて。途中から、自分が何言っているのかよくわからなくなって、ただただなまえの声だけが響いている。
なまえについて洞穴から出ると、明るさが目をさした。
お日様の下で、なまえの笑顔はもっと輝く。横顔ですら眩しい。つい、ぽーっと眺めてしまう。
なまえは、ベルトについているボールの1つに手をやった。何してんのかな、と思っていたら、ボールの中から現れたのは、あの真っ赤なドラゴンポケモンだ。
「あぎゃす!」
「コライドン。2人で乗っていい?」
「ぎゃぁあ」
コライドン、と呼ばれたポケモンが頷く。
「……え、2人で、って」
「だってもうお昼だし。管理人さん待たせるの悪いから」
当たり前のように言ってのけて、なまえはかがんでくれるコライドンに跳び乗る。
屈託ない笑顔で、スグリに手を伸ばす。
「コライドンもいいって。スグリ、私の後ろでいい?」
「ほ、ほんとにいいの?」
「いいよ。ね、コライドン」
「あぎゃあ」
赤と白の尻尾がぺしぺしと地面をたたく。早く、と言っているみたいだ。
そっとコライドンに乗ってみる。想像よりもコライドンの鱗は痛くなくて、波打つ筋肉に、見たことがなくてもポケモンなんだ、と感じさせる力がある。アマリとは掌1つ分、距離をとった。
「しっかりつかまらないと落ちるよ。ほら」
「え?」
なまえが振り返って、黒い髪の隙間から横顔が覗いて、さっきよりもずっと近くになまえがいた。アマリはスグリの腕を引っ張って、自分の腰に回す。
え。
女の子に、こんな触っちゃダメだ。
触りたいと思っても顔はだめ、とか、スグリはそういうルールを守っている。なまえに嫌な思いさせちゃいけないから。
でも今、なまえの腰を抱きしめている。なまえの背中と、スグリの胸がくっついて、胸のうずきが伝わってしまいそう。顔にサラサラの黒い髪が触れて、石鹸のいいにおいがする。
これ、ダメだ。こんなに近付いちゃいけね。いくら触りたくても。いくらなまえがいいって言っても。いくらこの体勢が、幸せで心地よくても。
そろそろとスグリはなまえから体を離そうとする。
「だから、落ちるって」
「んでも……」
「コライドン、いいよ!」
ぎゃあっとコライドンは軽く返事をする。
来た道をたどるのだと思っていた。コライドンの速さなら、急な山道だってあっという間かもしれない、と。
でも、なまえが示した方向は違った。
そっちは、崖だ。
「え!?」
「つかまってて」
コライドンの体が、高台から乗り出る。
思わずスグリは、なまえの腰にぎゅっとしがみついた。固く握りあった手を、なまえの手が覆う。
ひゅん、と一瞬内臓が浮いて、それからびゅうっと強い風が頬を切った。何が起こるのか怖くて、きつく目を閉じてしまう。
風が顔に吹き付ける。
「スグリ、見て見て! スイリョクタウン!」
楽しそうななまえの声が、風に負けず、スグリの耳に届いた。
ゆっくり目を開ける。
「わやじゃ……飛んでる……!」
コライドンのたてがみが左右に広がって、空中を滑っていた。
地獄谷の石柱を避けて、岸壁地帯を抜け、狭い視界が一気に広がった。
「わあああ……!」
スイリョクタウンと、アップルヒルズ、ちょっと左を向けば参道と、神社がちらり。その全部が、いつも見ているより小さくて、自分より低いところにある。ミニチュア模型みたいな、こんなキタカミは初めて見た。キタカミって、思っていたより広いんだ。
なまえがちらりと肩越しに振り返って、笑っている。こんな近くになまえの笑顔がある。風に吹かれるなまえの髪の毛が視界を邪魔するけど、そんなことが気にならないくらい、なまえの楽しそうな笑顔と、その奥に広がるキタカミの森の風景に、胸が高鳴った。どう? となまえが口だけ動かしていて、スグリも、たのしい、と唇だけで伝えた。するとなまえは力強く頷いて、コライドンの首のところをぽんぽんとたたくと、コライドンは大きく右へ曲がる。
徐々に滞空高度が下がってきて、木々が大きくなっていく。それに従い、見慣れたスイリョクタウンの町並みが近付いてきて、スグリは一抹の寂しさを覚えた。
広い世界が、終わっちゃう。
「アップルヒルズのはずれに着地でいい!?」
「いいよ!!」
風に負けないように、大声で会話する。
コライドンは、スイリョクタウンの真上を通らないように、大きく迂回してアップルヒルズの坂道に沿い、リンゴ畑のはずれにどすんと降り立った。その衝撃で、スグリはうっと息を詰まらせた。
「ありがと、コライドン」
「あぎゃす!」
なまえはぽんぽんとコライドンの首を叩く。
「スグリ、大丈夫?」
「だ、大丈夫……」
先にコライドンを下りたなまえが、手を出してくれている。
まだぼうっとしている。あんなに高いところにいたんだ、と空を見上げてみて、こっちの顔を見ているなまえに目を戻した。
さっきの浮遊感がまだ体に残っていて、何も考えられなくて、目の前のなまえの手をとって、ゆっくりコライドンから降りた。地面に足をつけても、なんだか揺れているような気がする。
「どう? コライドン、すごいでしょ」
「わやすごかった……」
悪戯っぽく笑うなまえに、また胸がうずいて、ようやくスグリは硬い地面の感覚と、そこに自分が直立している感覚を取り戻すことができた。
コライドンが、空飛んでた。おれは、そこに乗せてもらって。
なまえは、いつもこんな大冒険をしているのだろうか。こんなすごいポケモン連れて、あんなにすごい景色を見て。
やっぱりなまえは、特別だ。
「お昼ご飯食べよ!」
そう言って、なまえはスグリの手を引っ張る。その横を、コライドンがついていく。
なまえ。
なまえは特別だけど、おれと冒険するって言ってくれた。一緒に鬼さまに会う、って、言ってくれた。
なまえがキタカミに来てくれて、なまえと出会えて、なまえと仲良くなれて、本当に良かった。
なまえといると、こんなに楽しくて、こんなに胸がいっぱいになって、自然と笑えて、自然に話せる。
背中を見るのがちょっと寂しくて、隣にいられるとうれしくて。手を繋ぐと、もっとうれしい。
なまえの隣に追いついて、乗せてくれてありがと、と言うと、どういたしまして、とキレイハナの花が咲くように、笑顔になってくれる。その笑顔で、スグリは胸がうずうずして、もっと見ていたいな、って。かわいい、って、思う。
お昼ごはん食べたら、またポケモンバトルしてくれるかな。
*
次の日の朝。なまえに会うのが楽しみで、また早く目が覚めてしまった。
昨日はずっと楽しかった。公民館で資料を探すのも、息抜きに水遊びするのも、オモテ祭りの準備真っ最中のキタカミセンターに散歩に行くのも。ぜんぶなまえと一緒だった。夕ご飯前に別れなきゃいけないのが嫌で、うちに泊まりにくればいいなと思ったけど、さすがに誘うのはやめておいた。その代わり、朝からまた遊ぼうね、って約束した。
早起きの達人の祖父母に匹敵する時間に居間に下りたので、すごく驚かれた。ただ、早すぎてもなまえの迷惑になると思って、久しぶりにオオタチと、舞出山道まで朝の散歩に行ってみたりした。キタカミセンターの入口まで行って帰ってきたら、リンゴ農家のおじさんが丁度朝の水やりから戻ってきた時間だったので、そろそろなまえに会いにいってもいいかな、と思って、公民館に入ると。
「なまえさん? ちょっと出かけてくる、って言ってたよ」
なまえとすれ違った。
公民館のおばさんは、あっちの方、とアップルヒルズ方面を指さした。その通りに村を出たけれど、なまえらしき人影は、リンゴ畑の向こう側には見当たらない。
もしかして、置いていかれた?
見慣れたリンゴ畑の風景が、急に暗くなった。
カジッチュであふれかえっているリンゴ畑が、ざわざわと風に吹かれるたびさざめいて、低い音が胸の不安をあおる。
だって昨日、一緒に鬼さま探しに行こうって、冒険しようって、言ったべ?
なまえ。なまえ、どこ? おれ、こんなになまえに会うの楽しみにしてたのに。なまえと一緒に冒険したくって、なまえと鬼さまの話するの楽しくて、バトルは負けてばっかだけど、隣でなまえの笑顔見られるのが、あんなに幸せで。
……やっぱり、おれじゃ、だめ? おれなんかいなくても、なまえは特別だから、1人でなんでもできて、困らない?
「なまえ……」
吐きそうなくらい、胸が痛くなった。
なまえ探さなきゃ。置いていかれる前に。
アップルヒルズのほう、って言ってた。それなら、ともっこプラザまで行ったのかな。いつもより坂が上りづらい。心臓がばくばく音を立てて、緊張している。なまえに置いていかれたらどうしよう、って。目の前が暗くなる。なまえ、どこ?
今日も2人で遊ぼう、って約束したのに。もしかして、昨日楽しかったのは、おれだけ? なまえは、おれに会いたいって思ってくれない? いや、そんなことない。なまえは優しいんだ。おれの話を馬鹿にしないし、鬼さまの存在も信じてくれた。なまえは友達だ。そんなことない。そんなことない、はず。
__昨日言ったことは、嘘だった?
ごつん、と足が何かを蹴っ飛ばす。
「かっちゅ!!」
「わっ、カジッチュ……ごめんな、よく見てなかった」
「ちゅうー!」
ぐるぐる不安で回る視界の中、不注意で足蹴にしてしまったのは、ころころと地面を移動する野生のカジッチュだ。ずいぶんご立腹な様子で、そのまま転がっていく。道を真横に通り過ぎ、何となく目で動くカジッチュを追ってみると、リンゴの木の間、見えづらいけど、畑の奥に、真っ赤な何かが見えた。
なまえの、コライドン?
足が、引きずるようにしか動かない。草に足をとられてこけそうだったけど、それより早く確かめたいことがある。
なまえ。どこさいるの?
さっき蹴飛ばしてしまったカジッチュに追いつく。リンゴの木の間を通り抜けると、ひとつ段があって、田んぼが広がっている。
コライドンは、そこにぽつぽつと立っている、木の陰にいた。座り込んで、動く気配がない。カジッチュがころころとその木へ転がっていく。よく見ると、他にも同じところへ向かっているカジッチュが、数匹。
なまえ?
力の入らない足が、ざかざかと雑草に引っかかる。木の幹にもたれる黒髪、覗く脚。横顔。そこに集まる、数匹のカジッチュとマダツボミたち。
コライドンの体は、規則的に上下している。寝息も聞こえる。足元のポケモンたちにぶつからないように、そっと、小さな背中の前に回る。
なまえだ。
なまえが、木にもたれて、眠っている。
オレンジ色の制服と、力の抜けた腕と。腿に本が一冊、ページが開いたまま落ちている。わが物顔でなまえの膝の上を占拠している、カジッチュ。
よかった。置いていかれたわけじゃ、なかった。
感じたことのない安堵感が、湧き水のようにあふれ出して、急にじんじんと指先まで血が通ったみたいだった。さわさわと優しい風が、雑草とポケモンと、リンゴの木を撫でて、朝の涼しい空気感が不意に戻ってきた。
そよ風に、なまえの髪がとかされて、柔らかそうなほっぺをくすぐっている。
規則的に上下する体は、コライドンよりも呼吸が小さくて、小刻みで、寝息も小さかった。完全に唇が閉じてなくて、なまえのちょっとだらしない表情に、なぜだか、昨日たくさん見た眩しい笑顔より、胸がうずく。
なまえ?
名前を呼んでみたいけど、それだけで胸のうずきが鈍い痛みに変わって、息が苦しくなる気がした。それに、なまえが起きてしまったら、もうこの顔は見られない。それなら、なまえの目が覚めるまで、このままがいい。
ゆっくり、音を立てないように、なまえの隣に座って。どんな表情にもましてかわいい寝顔を、眺めていたい。かさ、と雑草が折れる。大丈夫かな、となまえの顔を覗き込んでみたら、ぴくっと瞼が震えた。けど、起きなかった。
広がりっぱなしの本の中身が気になる。昨日、公民館でキタカミの歴史を読み漁っていたなまえは、とても本が好きなのだ。なまえの本は、遠目で見ても何が書いてあるかわからない。ちょっとだけ身を乗り出してみると、つらつらとそのページを埋め尽くしているのは、なんと、授業で習うような古典の文章だった。
かろうじて1年生のスグリに読めたのは、”真っ赤なガオガエンは、本当は優しいのです”という最初の1文程度だ。けれどその話は、スグリも聞いたことがある。有名な童話だ。遠い南の地方の、怖い顔のガオガエンのお話。
”ガオガエンは、真っ赤で、黒い模様があって、目つきも悪いけれど、本当は誰よりも優しいのです”
絵本にある有名なフレーズだ。祖母に読み聞かせしてもらっていたのが懐かしい。そう言えば、ブルーベリー学園には野生のニャビーがいると聞いたことがあるけど、出会ったことがない。
林間学校のあとは、パルデアの学校から留学生を招くと姉が言っていた。なまえが、来てくれないだろうか。一緒にニャビーを捕まえに行くのは、すごく楽しそう。
そよそよと風が吹くと、ぺらりとページがめくれ上がる。なまえの髪の毛も、耳にかかったのがぱらぱらと落ちてきて、半分開いた口の中に入ってしまう。
とってやりてえなあ。
手を伸ばしかけて、ためらう。
なまえは女の子だ。昨日、いくら仲良くなかったからといっても、顔は触っちゃいけない。本当は、腰になんて抱き着いちゃいけなかったのだ。触りたい、と思っても、触っていいのは、手と、腕と、せいぜい肩くらいまで。それ以上は、触っちゃいけない。誰かにそう言われたわけではないけれど、スグリは、そういう規範を信じている。
でも、せっかく綺麗な髪が、汚れてしまう。
だから、今だけは、いいのかな。ちょっとだけ、髪を指でよけるだけ。ほっぺや、くちびるを触るわけじゃない。だから、いいのかな。
グローブじゃ、きっと触り心地が悪いから。マジックテープをはがす音がうるさくならないようにこんなに気を遣ったのは、スグリは人生で初めてだ。改めて見ると、汚くてくたびれたグローブだ。赤くて、デザインがかっこよくて、けっこうお気に入り。もしなまえがブルーベリー学園に来たら、これと同じデザインのを使うのだろうか。
同じ制服を着るのを想像したら、胸の中がくすぐったい。
爪で、柔らかそうな肌をひっかかないように。そっと。そっと。丸くて、ほんのりピンク色のほっぺは、触りたいけど、ダメだ。髪をこめかみから、すくうようにして、顔になるべく、触れないようにすれば__
「……ん……」
ふるり、と一瞬長いまつげが震えて、まぶたがちょっと持ち上がった。
「!」
すぐさまスグリは手を引く。指先が、髪の毛にもかすらなかった。
ゆっくりと瞼が開いて、昨日と同じ、丸い瞳が覗く。重たそうに頭が持ち上がる。いつもよりも垂れた目で、こちらを見上げる。
「スグリ……?」
「あっ……、起き、た?」
「え……あー……寝ちゃってた……」
やっちゃった、と眠たそうに笑う。目が細まって、眉が浅く八の字になって、寝顔とは違うけど、昨日よりも気が抜けた表情で、スグリの胸がくすぐったい。今初めて、触りたかった、という後悔がじわじわとしみてきた。
本当は触っちゃ駄目なのに、今のなまえを見ていると、つい触りたくなる。髪も、ほっぺも、くちびるも。触っちゃえばよかった、なんて、思っちゃいけないけど。
「ごめん、スグリ。探しに来てくれたの?」
「えっと……うん」
「ありがと」
寝起きの笑顔は、ずいぶんとあどけなくて、バトルのときの凛々しさはどこにもない。ふにゃ、と効果音がつきそうなくらいやわらかくて、かわいい。そんな顔で見られると、触りたくなっちゃう。我慢するために、スグリは右手にグローブをはめた。
「それ、読んでたの、”やさしいガオガエン”?」
「うん。そう。アローラに行ったときに、原典買ったの」
”やさしいガオガエン”
ガオガエンは、真っ赤で、黒い模様があって、目つきも悪いけれど、本当は誰よりも優しいのです
ガオガエンを怖がるものは大勢いましたが、親友のガーディはガオガエンが大好きでした
ガオガエンは熱い炎をものともせず、火山から守ってくれます
だからガーディだけは、ガオガエンが心優しいことを知っていました
ところが、それを面白く思わないものがいました
デカグースです
デカグースは仲間を集め、ガオガエンに嘘を吹き込みました
ガーディが海に落ちた、と
ガオガエンは一目散に海へ行き、ガーディを助けるために深い海へ飛び込みました
本当は、ほのおよりもみずが苦手なのに、です
ガーディは岸辺からガオガエンの名前を呼びます
ガーディもみずが苦手なので、海へ入ることはできません
なかなか戻ってこないガオガエン
ガーディは悲しみにくれました
一日たって、二日たって、それから1週間と10日、ガーディはガオガエンを呼び続けました
知り合いのペリッパーに聞いてもガオガエンの行方はわかりません
もう諦めなよ、怖いガオガエンがいなくなってせいせいしたよ、とデカグースは言います
お前たちの方がよっぽど怖いよ!ガオガエンは嘘を信じて、大嫌いなみずの中に消えちゃったんだぞ!
ガーディが今にもデカグースにかみつこうとしたときです
海の中から、ラプラスの甲羅に乗ったガオガエンが現れました
なあんだ!ガーディ、無事だったのか!それは良かった!こんなに喜ばしいことはない!
みずびたしのガオガエンは、疲れているにも関わらず、満面の笑みでした
ガオガエンは、デカグースを倒そうともしませんでした
親友のガーディが元気なのが、一番うれしかったからです
デカグースはきまり悪く、森の中へ消えてゆきました
それから、ガオガエンは、ガーディがウインディになっても、ずっと親友でいたのです
めでたし、めでたし
ガオガエンが、デカグースに騙されて、身を挺して親友のガーディを助けようとする話だ。昔話にありがちな友情話と、底抜けに心が広い主人公と。でもスグリは小さい頃、ガオガエンの、自ら窮地に飛び込んで、それでも親友の無事を喜べる強さが、好きだった。
「原題を直訳すると”赤黒模様の正直者”っていうんだけどね、アローラの中でも島によって出てくるポケモンが違うんだけど、原典はガーディで、実は話の内容も結構改訂されててね、最近の絵本に載ってるのは確か、20年前にシンオウで出版された子供向け説話集の編みなおしなんだけど……」
途端になまえの顔から眠気が吹き飛んで、寝起きで垂れていた目がきらきらと輝きだした。
なまえは本を持ってページを1つめくると、そこにある文章を人差し指でなぞる。
「ここにアローラの守り神を示す言葉があるんだけど、話の流れだとアーカラが舞台のはずで、だからこれは多分カプ・テテフかなって思うんだ。カプ・テテフって言えば、こっちの方にガオガエンの力が回復したって書いてあって……」
突然、なまえは”て”の口の形をしたまま黙ってしまった。
そして、ページから顔を上げ、伺うようにこっちを見てきて、スグリはなまえの顔が赤くなっているのに気付いた。
気まずそうな目が、スグリと本を行ったり来たり。
どうして、そんな顔するんだろう。
見たことないくらい顔が赤くて、唇をきゅっと結んで、指先でページの端をもてあそんでいる。
「あの……ごめん。探させた上に、こんな話を……」
ちょっとうつむくと、ぱさ、とサイドの髪が落ちてきて、なまえの赤いほっぺが見えづらくなってしまう。
胸がうずうずして、今すぐなまえに、触りたい。
縮こまって恥ずかしそうにするなまえ。見たことないなまえ。
なまえは、バトルのときのかっこいい笑顔も、ポケモンを可愛がるときの緩んだ笑顔も、風景に感動するときの輝く笑顔も、全部、全部かわいいけど。
さっきみたいな気の抜けた寝顔や、今みたいな真っ赤になっているなまえだって、それに負けないくらい、かわいい。
触りたい、って、油断したら、手が伸びてしまう。
我慢しなきゃ。なまえは、女の子だから。男のおれが、ほんとは気やすく触っちゃいけないから。
「う、ううん。だってなまえ、おれの鬼さまの話も、聞いてくれたべ?」
「あれは私も楽しんでたし……それとこれとは違うっていうか」
そんなことない。なまえの話だって、楽しい。なまえの話は聞くだけで楽しい。目を輝かせて昔話について教えてくれるなまえは、すごくかわいかった。その横顔を見ているだけで、胸がうずうずして、地面がふわふわして、熱が出てるときみたいに頭がぽーっとする。そのとき、寝顔を見ていたときみたいに、息は苦しいけど、辛くない。オオタチの柔らかい尻尾にくるまれているときみたいな、心地いい重さが胸にかかっているだけ。
なまえに会えないと、ただ苦しいだけだけど。会えたら、ぎゅっと胸がおされて、息は確かにしづらいけど、高めの体温を感じているみたいに、居心地がいい。
なまえに、そんなことないって伝えたい。けど、いっぱい説明したらどうしても長くなるし、なまえも驚くだろうし。
「……出発しよっか? せっかく来てくれたから」
今日も、なまえと一緒に遊んで、冒険できるから。
ずっと胸が心地よくて、うずうずするから。
それだけで、すごく、すごく幸せだ。
「んだな。案内したいとこ、いっぱいある」
「楽しみ!」
満面の笑みの、なまえ。触れないのは、ちょっと苦しいけど、隣にいられれば、大丈夫。
なまえと一緒に、伝説の鬼さまを探しに行く。その約束を思い出すだけで、わくわくが止まらなくて、胸がうずうずする。
だって、初めてできた女友だちだから。友だちと遊ぶのがこんなに楽しいなんて、思ってなかった。今までとは全然違う。地元の同い年の子とも、ブルーベリー学園の同級生とも、全然違う。
こんなに楽しくて、幸せになれるのは、なまえが初めてだし、なまえだけだ。
なまえがコライドンを起こしていて、昨日はその背中にくっついていたんだなと思い出すと、きゅっと胸が締め付けられて、同時に幸せだった感覚を思い出した。
なまえ。大好き。
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