毛皮と火
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熟れかけりんごは未収穫 1
※なまえ パルデアチャンピオン就任後 碧の仮面軸
ちょっと困り顔をした、オレンジ色の制服の女の子。ねーちゃんとおれを見つけて、困り顔が、やわらかい笑顔になった。すいません、と口を開いたら、やわらかい表情とは少し違った。はっきりしてよく通る声だった。
人見知りで、絶対に自分から話しかけられないおれとは正反対だ。かっこいい、と思った。
「はあ!? 急所ってどこよ!? 絶対あたってないから!!」
姉の癇癪も、隣で聞いていたはずなのに、遠い。
ブロロロームのアイアンヘッドが、姉のチャデスのHPを根こそぎえぐっていく。
レベルが高いだけじゃできない芸当。ブルーベリー学園ではまだスグリは習っていない。
あの子は、生き生きとした笑顔で、あの強者にも食らいついていく姉を、いともやすやすと倒した。
かっこいい。強い。
姉に置いていかれるのが嫌で、あの子と話はできなかった。明日、バトルできるだろうか。
あの子のブロロロームや、マリルリが、そしてあの輝いている表情が、忘れられなくて、ついつい口から滑り出るたび、ゼイユは意地悪く笑う。祖父母は笑顔で聞いてくれるけど、早く明日にならないかなって、遠足の前日みたいに胸がうずいた。
翌朝、あんなに憂鬱だった林間学校が嘘みたいに待ちきれなくて、いつもよりずっと早く起きてしまったけれど、公民館に集まるのは結局姉と同じ時間だ。
知らない人と目が合うのが怖くて、ついついうつむいてしまう癖がある。大勢の前で自分の名前を口にするのは、もっと苦手だ。だけど、オレンジアカデミーから来た4人の生徒の中で、あの女の子に真っ先に目が吸い寄せられた。昨日は全然顔を見られなかったけど、前髪の隙間からわかったのは、穏やかなたれ目と、優しそうに微笑む口。思ったよりも小さくて、スグリと身長は同じくらい。
あの子は、どうしてスグリの目をひいて、そこから目が離せなくて、話しかけたかったけどそんな勇気もない。まごまごしていたら、あの子は、真っすぐこちらに歩いてきてくれた。迷うことなく。
「私、なまえっていいます。ゼイユ、昨日はバトル楽しかったね」
「うるさいわね。煽ってんの?」
「そ、そんなことない! ところで、昨日の、あの茶さじ持った緑色の子はなんていうの?」
「ああ、チャデスのこと?」
「チャデスかあ!」
なまえ。なまえっていうんだ。なまえ。なまえ。
姉と話している顔が、優しそうに笑っていて、つい見つめてしまう。
ふとなまえがこちらを向く。思わず下に目線を下げてしまったが、なまえのつま先はスグリの方へ向いていた。
「なまえです。よろしくね、スグリ」
「え……あ……」
名前。おれの名前呼んでくれた。スグリ、って。
こげ茶の瞳だ。そんな真っすぐ見つめられたことない。よろしくね、って、そんな笑顔で言われたこと、ない。
眩しい。太陽の光より、なまえが。風邪ひいたときみたいに足元がふわふわする。
「ほらスグ。恥ずかしがってないで、挨拶くらいしなさいよ」
「う……あ、よろ、しく……」
「よろしく!」
よろしく、って。そんな眩しい笑顔で言わないで。倒れそうなくらい、なまえを見ているとくらくらして、目を逸らしてみても、目の前になまえがいるって分かっている時点で、効果はなかった。アーボックにへびにらみされているみたいな。くろいまなざしで捕まったみたいな。いや、ちょっと違うかも。エルフーンのコットンガードに包まれているとき、みたいな。
「そーだ。なまえ、スグと勝負してやってよ」
「え!? ちょっと、ねーちゃん!」
「いいよ。バトルしよ!」
「よかったねー、スグ。こいつったら、昨日からずっとあんたに夢中で、なまえなまえってうるさいったら」
「そんなこと言ってない!! ねーちゃんのバカ!」
「誰がバカだ! 手ぇ出るよ!」
姉の暴露が恥ずかしすぎて、スグリはぶわわっと赤くなったのを自分でも感じた。恥ずかしくてあなをほるで地中に潜ってしまいたくて、ちらり、と前髪の隙間から、なまえの顔を伺う。
なまえはきょとん、として、また、あの太陽より眩しい笑顔を、こっちに向ける。
「そんなに褒められると嬉しくなっちゃうなー。よかったねえ、マリルリ、ブロロローム」
いつも頑張ってくれてるからねえ、となまえがベルトについたボールに呼び掛けると、6個のうち2個がゆらゆらと楽し気に揺れた。
ボールを見る目が、すごく優しそうで、慈愛に満ちるって、こういうことを言うのかと思った。
そして、あの子がバトルしてくれたのが、飛び上がるほどうれしくて。姉のお節介が、こんなに嬉しいことはなかった。ポケモンバトルできて、林間学校のオリエンテーリングでもペア組めるなんて。
「弟をお願いね。なまえ」
「こちらこそ。色々教えてね、スグリ」
笑顔で手を差し出してくれると、じわじわと頬が熱くなる。あっ、あ、よろしく、とたどたどしく口が動いた気がした。間近で見ると、まるで姉とは正反対の優しい目つきで、昨日のかっこよさが嘘みたいだ。
恥ずかしくて、握手なんてできなかった。
ラウドボーンのフレアソングが、すごかった。技だけじゃなくて、体力もすごかった。声量も、炎の熱さも。ラウドボーンにいくらオタチが攻撃を仕掛けても、ラウドボーンは要塞みたいに微動だにしなくて、的確に技をあててきた。じめん技で対抗しようとしても、見抜かれたようにオリーヴァに交代されて、全然ダメージを与えられなかった。
なまえは、強くて、かっこいい。
そんなアマリは、見ているだけで眩しくて、胸の奥がうずく。
胸がうずうずしすぎて、普通に会話するのも、苦しくなって。
ともっこプラザの場所だけ言い残して、逃げちゃった。
だって、かっこよかったから。
あんなにすごいなまえの隣に立つのは、なんだかおこがましくて。
つい逃げて、プラザの入口からちょっと離れた木の陰から、なまえが来るのを伺う。ここら辺は好戦的なポケモンが少なくて、じっとしているとマダツボミやピチューたちが寄ってきてしまって、ちょっと困る。
「ぎゃぎゃ!」
「あはは。そうだね。初めての場所だもんね。楽しいよね」
「ぎゃっす!」
見たこともない赤い……ポケモン? 色とりどりのたてがみを揺らして、りんご畑の間から、なだらかな勾配を駆け上がってくる。パルデアはライドポケモンにモトトカゲを使うと聞いたことがあるけど、あの赤いドラゴンポケモンは、モトトカゲとは全く違った。背中に乗っているのは間違いなくなまえで、ぐんぐん近付いてくるにつれて、その表情が笑顔なのに気付いた。
バトルしているときはあんなに勇ましい顔なのに。それ以外のときは、あんなに楽しそうに笑う。
なまえは獣道を辿り、プラザの入口前で、大きなライドポケモンから降りた。
「ありがと。コライドン」
「ぎゃあ」
「スグリはどこかな。一緒に冒険したいのになー」
「あぎゃあ」
コライドン? 大きなドラゴン顔が、なまえに頬ずりする。なまえはコライドンの首をぽんぽんと叩き、ボールに戻した。
一緒に?一緒って、おれなんかと?あんなに強いなまえが?
ドラゴンポケモンに気を取られて、なまえの独り言がじわじわと響いてくる。
また、胸がうずく。
なまえの背を追うように、ゆっくりスグリは木陰から出た。オレンジアカデミーの制服が、ひなびたキタカミの草っぱらで、よく目立つ。彩り鮮やかな花々の中に、きちんと手入れされているキタカミ伝承の看板が立っている。
くるり、となまえが振り返った。
「スグリ!」
「あっ、ど、どうも……」
なまえは、優しい表情で笑っている。手招きしている。
なんか、それだけで頭に血がのぼって、ふわっと浮かれた気分になった。
「スグリのおかげで1つめクリアだね」
ちょっとだけ眩暈がした。浮かれたまま、足元がおぼつかないままで。キタカミに顔見知りでない人がいるだけで不思議な気分なのに、それがなまえだと、なおさら不思議な気分だ。
「え、えっと……読んでていいよ。おれ、内容知ってるから……」
「私も知ってる。キタカミの鬼伝説」
「え? 知ってるって……」
「各地の伝承民話を集めてるの。私が専攻してる分野はポケモン民俗学っていうんだけど」
キタカミは山深く、キタカミ鬼伝説はあまり広くは知られていないと思っていた。専攻、って、なんかかっこいい。なまえはポケモンバトルだけでなくて、学者でもあるんだ。すごいし、かっこいい。
なら尚更、おれなんていなくてもいいんじゃ。
「ねえ。スグリはどうとらえてる? 鬼伝説について」
「どう……って?」
「だって、鬼伝説を聞いて育ってきたでしょ? 現地の人の話、私すごく聞いてみたい」
1つめの看板は、里に下りてきた鬼を、ともっこたちが命を賭して追い払った、というシーンが記されている。
隣から、なまえはじっとスグリを見つめている。真っすぐで誠実で、好奇心の覗く丸い目が、なんだかオオタチを思い起こさせる。いつもだったら怖気づいて口を閉ざしてしまうけれど、なまえの優しいまなざしのおかげで、自然と言葉が出てきた。
「おれ、おれは……鬼さまかっこいいって思う」
「かっこいい?」
「アマリは思わんの?」
「うーん……」
顎に手を当てて、なまえは考え込んでしまった。なまえが鬼伝説に興味を持ってくれたからか、ついその先が口からこぼれ出る。
「鬼さまは、1人で3人を相手にして戦ったんだべ。鬼さま強くて、わやかっこいいんだ!」
「なるほど。そういう見方もあるなあ……」
つい熱くなってしまったが、妙に冷静ななまえの言い方に、ぱっと口を閉じてしまう。
「あ、ごめんね。気を悪くしないで」
「……?」
「伝説は色んな面から捉えたほうが研究が進むってこと。スグリの話、面白いよ。続けて続けて」
そう言われても。鬼伝説を語る熱がぱっと冷めて、恥ずかしさがむくむくと湧いてくる。大好きな鬼伝説について、話せるのはうれしいんだけど。
「えっと……その、なまえは、どう思う? 鬼さま」
「私?」
なまえは、手入れされた看板の文字をもう一度眺めた。
「鬼さまにも暴れる理由があったかもしれない。話し合って、みんなで仲良くなれたらいいのに、って」
なまえの目が、少し伏せって、茶色の瞳がゆっくりと白い文字を追っている。
心がぽわぽわする。自分を呼んだときより、しっとりして、どこか物悲しい声で、そんなふうに鬼さまを話す人は、初めて見た。今までスグリの周りは、悪役の鬼さまを悪く言う人ばかりで、それ以外の捉え方をしてくれる人なんていなかった。いつだってスグリが、他の人とは違う意見で、スグリだけが、鬼のことが好きだった。
でも、なまえは、鬼さまを悪く言わない。そんな人初めて会った。
なまえは、初めてだらけだ。
「あ、あの……なまえ、」
「うん?」
くりくりした目が、スグリの方を見る。太陽が端っこに映りこんで、きらきら輝いている。声が一気にトーンアップして、少しだけスグリは驚いた。
「鬼さまさ住んでるっていう場所があるんだけど、行く?」
「行きたい! 今から行けるの!?」
そんなに生き生きと楽しそうな笑顔を向けられたら、こっちも嬉しくなってしまう。足元がふわふわする。頭がくらくらする。でも、何よりも、この笑顔を見ているだけで、胸がうずいて、心地いい。
「う、うん。村はさんで反対側だけど、ついでに看板2つ目もあるし、道教えるから……」
おれは離れてついてく、と言おうとした。迷惑かけるから、って。
なまえが、手首をつかんでいる。ジャケットの上から。もし半袖だったら、なまえの柔らかい掌の感触がわかっただろうな、と考えて、なんて不埒なこと思いついているんだろうと、スグリは顔が赤くなるのを感じた。
「一緒に行こ。離れて、なんて寂しいし、せっかくペア組んだんだから。ね」
ともっこ像も見たい! となまえは遠慮なくスグリの手を引っ張った。スグリは前のめりになりながらも、そのあとを着いていく。
ずっと、このままでいい。なまえの近くで、こんなふうになまえの笑顔を一身に受け止めて、鬼さまやポケモンの話をしながら、遊ぶのが。林間学校で他校の人に会うなんて、全然楽しみじゃなかったけど、なまえがいたから。参加してよかった。なまえに会えてよかった。
看板2つめは、キタカミ神社の脇にある。鬼の持つ力を語る物語だ。碧、青、赤、灰。4色のお面を変えることで、鬼は様々な力を発揮するという。オリエンテーリング用の写真も撮り、なまえとスグリは、神社の裏にそびえる、大きな山を見上げた。
「鬼が山っていうんだべ」
「へええ……大きい……」
「あの山の上に恐れ穴っつー鬼さまの家があるんだ」
「部外者の私が入ってもいいやつ?」
「特に決まりはないし、なまえなら鬼さまも喜ぶんでねえかな」
「そうだったらうれしい」
屈託ない笑顔が眩しくて、お日様以上に優しく照らされる。石段を登り、三角型の鳥居をくぐって、地獄谷に出る。草原から岩場に足元が切り替わって、イシツブテの群れが増える。心もとない木の橋も、スグリが先導すると、なまえは怖気づくことなく渡った。
「すごい石柱。高いなー……」
ドームのような地獄谷の天井を見上げ、垂れ下がる石筍のような巨大な大自然を目の前に、なまえは感嘆した。
「ねえねえ、昔から鬼が山ってこんなに険しいの?」
「鬼さま伝説のまんまってじーちゃん言ってた」
勾配のきつい坂がしばらく続く。昼間だというのに、ヤトウモリの群れがあちこちにいて、こちらをじっと見ている。なまえは小さな彼らの視線に気付き、にこにこ笑って手を振っていた。
「エンニュートはいないねえ」
そんなことを言っていたら、上からオンバットが飛んでくる。うわ、と思わずスグリは声をあげてしまったが、バトルにはならなかった。オンバットは1体、なまえの頭にとまって、わが物顔で毛づくろいをし始めたのである。
「ええ……?」
「あはは。そんなに居心地いいかな。私の頭」
野生のポケモンが、こんなに人に懐くなんて。人懐っこいポケモンは確かにいるけれど、こんなにくつろいでいる姿は見たことない。オンバットは顔の毛をこしこしとこすって、今度は襟巻部分を爪でとかしている。
「ねー、オンバット。歩いてていい?」
「ぎゅわぁ」
肯定か否定か分からないが、オンバットは後頭部をぽりぽり引っ掻きながら、間延びした返事をした。
「じゃあ歩くよー」
なまえは手慣れたように、さきほどよりゆっくりと進む。スグリもその隣で歩調を合わせて、なまえの頭上でくつろぐオンバットを見上げた。
「……あ、なまえ、って、こういうことさよくあるの?」
「えー……まあまあ、たまに、かな」
ちょっともごもごなまえは口ごもった。巨大な石柱の間を抜けて、岸壁の横に出る。さびた看板が見えれば、恐れ穴までもう少しだ。
「そっかぁ」
「ポケモン好きだから、うれしい」
それは、見ていてよくわかる。なまえはオンバットの鋭いかぎづめが頭皮に食い込んでも何も文句を言わないし、さっきのコライドンだって、アマリのことをとても慕っていた。手持ちだけじゃなくて、こんなにポケモンに懐かれるなまえは、きっと特別なんだ。特別、ポケモンと仲良くなれるんだ。すごいなあ、なまえは。
バトルが強くて、学者さんで、その上ポケモンに好かれる。
「……すげえなあ、なまえは」
「スグリ危ない!」
え? と顔を上げた途端に、横向きに倒れた。硬い岩場に腰骨をぶつけ、いってえ、とうめき声が漏れる。
痛みをこらえて目を開けると、目の前に、一緒になまえが倒れている。
「大丈夫?」
「なに、が、」
間近で見るとほっぺがすごく柔らかそう、とか、砂利ついちまってる、とか、そんな間抜けな考えは、なまえのすぐ横をひゅんっと過ぎ去っていったポケモンを見たら、すぐに消えていった。
「イシツブテ……!?」
「ドッコラーがイシツブテ合戦してる!」
そりゃ、ぶつかったら生身の人間はひとたまりもない。ちょっと首をあげると、確かに、ドッコラーが2匹、通りすがりのイシツブテを投げ合っていた。見る間にヤトウモリやオンバットが散っていく。なまえの頭上を陣取っていたオンバットも、上に逃げていくのが寝転がった体勢から見えた。
「こ、こっち!」
狭いけど、石柱を盾にしてその間を抜ければ丁度山道にでるはず。
「どっ、こら!」
ドッコラーの鳴き声と共に、今度はスグリのすぐ隣をイシツブテが飛んでいった。ひえっ、と悲鳴が出かける。
ぶつかったらやべえ。その一心で、スグリはなまえの手を握って、中腰で駆け出した。
石柱がV字型に伸びている。隙間に体を通して、喧嘩中らしきドッコラーを横目に、2人は二股の看板にたどり着いた。
「あー……びっくりした」
「わやびっくりしたあ……」
力を抜いた、スグリとなまえの言葉が被る。
顔を見合わせると、なまえの頬にはさっきと同じように、細かい土くれがついている。
なまえは、さっきまでの張りつめた表情はどこへやら、オンバットに懐かれたときと同じように、楽しそうに笑う。
「キタカミって、楽しいね」
「なまえ……って、変わってるべ……?」
「えへへ。ポケモン大好きなだけだよ」
一歩間違えば命の危険もあったのに。もうそんなふうに笑えるなんて。スグリなんて、滅多に遭遇しない野生ポケモン同士のけんかに巻き込まれて、まだ胸がドキドキしている。
やっぱり、なまえはすごい。
「行こうか! こっち?」
「うん」
つないでいた手が離れる。
グローブを付けていない手で、なまえの手を握っていた。なまえの手は、柔らかかった。掌には触れなかったけど。
まだ、手を繋いでいたかった。
なまえの背中を追うのが、ちょっと寂しい。隣に、近くに立っていたい。なまえの笑顔を見ていたい。なまえに触れていたい。
これが、女の子の友達ってやつ、だろうか。
一緒にいると、地面からちょっとだけ浮いたようにふわふわして、熱が出たときみたいにぽーっとして、くらくらと視界が揺れて。
男友達とは、随分違うんだな。
「スグリ?」
「……あ、」
肩越しに振り返るアマリ。黒髪から覗く顔に、妙に胸がうずうずして、吸い寄せられるようにその背中についていく。
「えと……こっから道狭い」
「イシツブテ合戦が起こりませんように……」
真剣な目をきらりと光らせるなまえに、くすっとスグリは笑って、するとなまえの表情もりんごのみついりの部分のように甘く輝いた。その顔をずっと見ていたい。
なまえの歩調にあわせて、スグリはついていく。左右を高い岩壁に囲まれているかと思えば、突然開け、左手に滝が現れる。
「すごい……どんくらい高いかな……」
恐れ知らずのなまえは、柵もない足場からぐっと下を覗き込む。さすがにスグリの喉からひえっと小さい悲鳴が漏れた。大人たちが恐れ穴を危ないという理由は重々承知のため、スグリは自然の高台から身を乗り出すことはしない。
「滝壺が遠い!」
ぱっと振り返ると、黒髪が散る。さらさらっと顔の凹凸から細い髪がこぼれる。丸い目が輝いている。
地獄谷の石柱の隙間から太陽光が真っ直ぐ差して、滝から散る水しぶきの粒が、白い光の中を浮遊した。なまえがその中にいて、満面の笑顔だ。
なまえ。
めんこいなあ。
地獄谷の滝にはしゃぐ姿に、胸がくすぐったくて、目が離せない。
なまえは、そろそろと後退すると、またも好奇心いっぱいの楽しそうな目で、行こう! とスグリを手招きする。スグリは、それについていくので精いっぱい。無邪気にキタカミを楽しむ姿が、かわいくて、ずっと見ていたくて。できれば、一番近くで。許されるなら、かわいいなまえに触れたくて。
今、なまえと冒険している。それだけで、こんなに幸せだ。
「きききっ」
「あ、さっきのオンバット!」
「わかるの?」
「集音器のでこぼこ、見てみて」
群れなのか、数体集まって飛んでいるオンバットが寄ってきて、なまえはその中の1体に手を振っていた。
スグリの隣にアマリが寄る。
「でこぼこ?」
「うん。見比べてみて。他の子よりも幅広でしょ」
なまえがスグリと目線の方向を合わせる。その指が示すパーツを順繰りに観察してみると、確かに、なまえの言う通りだ。他のオンバットも、よくよく見ると、幅が狭かったり、バラバラだったり、それぞれ異なっている。
「わ、わやじゃあ……」
すごい。個体の見分けができる。なまえはやっぱりすごい。そんなこと、気付かなかった。何となく自分のポケモンだけはわかるけれど、それをきちんと説明することはできなかった。これで、オオタチとかヤンヤンマとかニョロゾとか、自信をもっておれのポケモン、って言える。
「特にキタカミはポケモンとの距離が近いから。余計にわかるよね」
なまえに気付いたのか、先ほどのオンバットがすいっとその肩に近付く。きちきちと鳴きながら、なまえの小さな肩に収まって、ご満悦だ。
「この子は人懐っこいね」
「こんなに懐っこいポケモンっこも、珍しいけど」
なまえがオンバットの胸毛をかいてやると、のんびりあくびをする。スグリもちょっと手を伸ばしてみた。ふわふわの羽毛のような毛に人差し指を入れても、噛みつかれはしない。もふもふの中でなまえの指とぶつかると、ちょっと照れ臭いけど、それ以上に心地いい。
行こうか、とどちらかともなく言い出して、険しい道を登る。石柱の隙間から見えるのは、スイリョクタウンだ。高いなあ、となまえが目を輝かせている。
危ない自然のつり橋の先に、広い足場と、洞穴がある。そこが、恐れ穴だ。ぽっかりと空中に浮かんでいるようでもあり、この険しい谷の天辺に君臨しているようでもあり。スグリは、ここの人気のない、また人里離れした雰囲気が、好きだった。
「ここ? 立ち入っていい?」
「いいよ」
わくわく顔のなまえが、隣にいる。
特別、バトルが強いなまえ。特別、ポケモンに好かれるなまえ。
いつもの恐れ穴とは何となく違う。鬼さまに会えないかな、と願いを込めて通った恐れ穴。1度も鬼さまに会えたことはないけれど、今日はなまえがいる。
いつもとは違うことが、起きる気がして。
「なまえ。おれと、バトルさしてくれね?」
その横顔に呼び掛けていた。
ちょっと声が上ずった。
声掛けでバトル、のルールが苦手だ。けど、なまえになら、言えた。さっきは恥ずかしくて何も言えなかったけど、今なら。
すぐ隣の顔が、ぱっとこちらを向く。
滝を見てはしゃいでいた、無邪気な笑顔だ。
「儀式の奉納みたいだね。いいよ、やろう!」
儀式。
そうか。儀式か。
鬼さまは強いから、バトルしていたら、ひょこっと顔を出したり、なんて。
今日はなまえがいる。何か、いつもと違うことが起きる、かも。
そんなうずうずした気持ちで位置に着き、真っすぐ互いを見据えあった。鬼さまの住まいの前で、なまえとポケモンバトルする。確かに、仰々しい感じだ。なまえは、さっきまでの無邪気な笑顔が、一転して勇ましい笑みに変わる。
姉とバトルしていたときと同じだ。
なまえの肩から、オンバットがぱたぱたと飛び立つ。
「準備はいい?」
「うん。いくべ」
ぎゅっとモンスターボールを握り締める。
「いけっ、オオタチ!」
「いくよマリルリ!」
あのマリルリだ。ボールの中から現れたラグビーボール型の体。姉のロコンやポチエナを容赦なく倒した、なまえのポケモン。ポケモンバトルで手加減するのは失礼だ、と常々学園で言われている。だからなまえは、今も本気だ。
マリルリは、というかなまえのポケモンはやっぱり強くて、オオタチでは歯が立たなかった。みずタイプのニョロゾも、マリルリのじゃれつくで倒されてしまった。最後に残ったヤンヤンマも、何とかマリルリを退けたけど、そのあとに出てきたブロロロームに反撃された。
今回も、なまえが勝った。
「なまえ、強え……」
戦闘不能になったヤンヤンマをボールに戻して、わやおつかれ、と声をかけた。ボールのなかのポケモンたちが、ゆらゆら揺れていた。
なまえは、生き生きと笑っている。やったね、ブロロローム!と跳びはねる勢いで自分のポケモンに抱き着いたかと思うと、ブロロロームもなまえに飛びついたせいで、小さな体が重さで潰れた。
やっぱ、なまえはすごい。強くて、特別だ。
迷うことなくポケモンに指示を出して、しかもそれが的確だ。ポケモンたちもよく育っていて、色々なわざを仕掛けられる。不利な対面になっても、すぐひっくり返す力を持っている。
「待って、待って! 腕が巻き込まれる!」
「ぶおおーん」
なまえの抗議もどこ吹く風なのか、ブロロロームはにこにこ顔でなまえに擦りついている。スグリは、はっと我に返って、慌ててなまえに駆け寄った。
「す、スグリ、ちょっと引っ張って」
「わや痛そう……大丈夫?」
「えへへ。いつものこと」
くっきり赤いタイヤ痕の残った腕で、なまえはスグリの肩を掴む。スグリもなまえの肩を持って、ブロロロームの体の下から引っ張り出した。白いシャツが、土で汚れている。黒いタイヤ模様を手で払ってみても、落ちるわけがない。
「勝ったのうれしくて、つい抱き着いちゃった。ありがとね、お疲れ様」
口らしきところの天辺を撫でると、ブロロロームはくるくる舌を回して喜んだ。ボールを見せると、大人しくその中へ入っていく。ちょっと誇らしそうにしていたのは、気のせいではないだろう。
「なんか変わったところ、ある?」
「あ、ええっと……」
なまえに言われて思い出した。なまえの強さに気を取られていたから。
ぐるっと恐れ穴の周りを見渡して、そして上を向く。
いつも通りの、草木が生えない土の乏しい恐れ穴だ。もうオンバットの群れはいない。
スグリの通い慣れた、がらんどうの恐れ穴だ。
「変わってねえべ……」
つい肩を落とした。
今日は、何か起こるかもしれないと、思ったのに。特別強いなまえがいて、おれからバトル誘って。おれは負けたけど、なまえのかっこいい笑顔は、ずっとそのまんまで。ブロロロームに飛びついた瞬間、いつもの優しい笑顔に戻った。
「明日もやってみよっか?」
そう無邪気に提案するなまえは、どんぐりまなこを輝かせる、いつも通りの、かわいいなまえだった。
よく見ると、頬にも土とタイヤの黒い痕がついている。とってあげたいな、と手を伸ばそうとしたが、やっぱりやめた。
なまえの隣にいたいし、触りたい。けど、何となく、顔は触っちゃダメな気がする。
「それもいいな。……恐れ穴さ、入る?」
「入る!」
なまえは、スグリの後ろからついてきた。
「現地の人に案内されたい!」
そう言って、後ろからスグリの肩を押す。肩に添えられる手がなまえので、なまえが触ってくれてるんだと思うと、何とも言えない満足感がしみわたる。案内するほど内部は入り組んでないし、狭い洞穴ひとつだけど、なまえにとって、自分が案内することが大事なんだったら、それは、もう、とてつもなくうれしい、かもしれない。
身長が大して高くないスグリが、入れるくらいの洞穴だ。なまえにとっても、天井は低くない。岸壁にぽっかり空いたうろの中へ入ると、ただでさえ陽の光が遮られる地獄谷の奥地が、更に暗くなって、気温がぐっと下がる。今の時季は涼しくて気持ちいい。
「見て回っていい?」
「いいと思う、けど」
「じゃあ、遠慮なく……」
なまえの顔は、やっぱりオオタチみたいで、照らすものがなくなったというのに、丸い目が輝いている。入って右手の、まるで椅子のように配置されている岩や、行き止まりの壁、足元の色が濃い岩、とか、なまえは手あたり次第じっくり眺めて、なにか納得しているようにうんうんと頷いている。地面の、黒い変色した場所を人差し指で撫でている。
「鬼伝説って、いつ生まれたか知ってる?」
「そういや、知らね。じーちゃんも、じーちゃんのじーちゃんから聞いたって言ってたし」
「なるほど……」
神妙そうに頷くなまえは、かがんでいて表情が見えなかった。
「……ここさ狭いから、鬼さまかわいそう。もし会えたら、おれんち住まわしてあげてえ」
「もし会えたら……か。色々聞いてみたいな」
「会えたらいいなあ。おれ、ずっと探してっけど、影も形も見つかんね」
なまえはぱっと立ち上がって、生き生きした目をスグリに向けた。
「私も探しに行きたい」
バトルで見たことあるような真剣な瞳を向けられる。なまえの目には、曇りもからかいも見当たらないし、いさめるような冷めた感じもない。ただ真っすぐ、こちらを見つめている。その、突き刺すような真剣さにつかまって、目を逸らせない。
なまえは、本気だ。慰めでも、話を合わせているわけでもなく。鬼さまの存在を本気で信じている。
誰も、鬼さまがいるって、信じてくれなかった。いつか会ってみたくて、でも大人も、同い年の友達も、そんなものはおとぎ話だ、って言って、毎年オモテ祭りをやるくせに、村長も、近所のおじさんもおばさんも、みんなおれに、昔話だから、と言い聞かせてきた。
なまえが初めてだ。鬼さまはいる、って、信じてくれたの。