毛皮と火
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大輪の花
※ドレディア戦後
なんて苦しそうな叫び声。私がそんなふうに鳴くとしたら、大切なパートナーが目の前で絶命してしまったときなのだろう。
目の前が歪んで、淡いオパールのような輝きが視界を支配した。聞こえてくるのは、文字通り舞台に踊り出てきたドレディアの声だけ。彼女の体から立ち込めるのは、自分の過去の痛みをすべて統合してもまだ足りないような、胸が張り裂ける悲しみを凝縮してもまだ薄いと思わせるような、そんな黒いオーラだった。黄色くまばゆい光のはずなのに、彼女の周囲はどす黒かった。
“おいで”
何も考えず、前に踏み出した。彼女がとびかかってくるたび、黄色い光は薄らいでいった。それと同じように、黄色い光についていくように、泥炭のような黒いもやも流れ去っていった。
夢中になって、彼女を呼んだ。動けば動くほどに、叫び声から苦しさが蒸発していったから。彼女は戦いを望んだ。そして、自分は応じた。自分の仲間たちは尽く倒され、なんとかフワライドだけが最後の一発を耐えきった。
ようやく、彼女の体から光ともやが消えた。本来の姿になったドレディアは、土に汚れ、疲れきり、それでも苦痛から逃れられた清々しい顔で、そして崖に咲く一輪の花のように凛とした声で、大地に降り注ぐ太陽の光を喜んだ。
消耗したんだからと、彼女のために作られたシズメダマを渡した。ドレディアは軽やかに近付いてきて、慈愛に溢れた音で、なまえのために泣いた。あなたが悪いんじゃないんだよ。しゃべるだけで体がずきずきしたが、日の光の中で佇めるようになったドレディアの美しさを見れば、そんなことどうでもよかった。1つ1つシズメダマを手渡して、彼女をなだめた。汚れちゃったね。ヒナツさんに綺麗にしてもらおうね。そう口にすると、ドレディアはなまえの体を包み込んだ。
ポケモンのにおいだ。土のにおい。花のにおい。くさタイプ独特の、刈り取られたばかりの青草のにおい。ドレディアからは、天辺からさす太陽のにおいと、ほのかな甘いミツのにおいもした。
ありがとう。ごめんね。あなたも。ヒナツたちも。
ドレディアの言葉が、そよ風にのっていた。かすれ声で、泣き声だった。
この子が、苦痛から解放されて、よかった。
「なまえ!」
ドレディアに抱かれた少女は、雪だるまが壊れるように、ずるりと崩れ落ちた。
息を詰めて見つめていた者の中で、すぐさま反応したのはヒナツだった。それに遅れてセキとユウガオが駆け寄ると、ヒナツはドレディアからなまえを受け取り、横たえていた。
「大丈夫。死んでないよ」
安らかとは言えそうにないが、なまえの胸は上下に動いている。どこからか出血している様子もなく、セキとしては一安心だった。
ドレディアは涙を流していた。朝露のように透き通る目がそんなものを表出したのは、ヒナツも、セキも、ユウガオさえ初めて見た。ドレディアは、自分のために身を削ったなまえを想って、泣いている。
「大丈夫。ドレディア。なまえは死んでないから。疲れて寝てるだけだから」
ヒナツも、ドレディアにつられて泣いている。ヒナツはドレディアの体についた土ぼこりを払って、傷だらけ、と言って、また泣いた。
セキはなまえを抱き上げ、ヒナツに言った。
「こいつはオレが責任もって看病する。お前はドレディアのお世話をして差し上げろ」
「……わかった」
「礼はこいつが目覚めてからだな」
セキが笑って見せると、ヒナツは笑って、涙をぬぐった。
セキはユウガオと共に祭壇を下りた。クイーンと戦い始めたのは、確か、ドレディアが好む早朝だった。今は太陽が中天を過ぎ、まどろみの時間となっている。岩陰でロゼリアたちが昼寝をしていた。
「今まで、キングやクイーンの世話をしていたのは私らだった」
ぽつん、とユウガオがつぶやく、セキは息をひそめて、続きを待った。
「その私らでさえ知らなかった一面を、この子は出会ってすぐに引き出した。何者なんでしょうかね」
その言葉に、棘はない。純粋に不思議がっているようだった。
なまえという少女は、文字通り捨て身の覚悟でクイーンに挑んでいた。コンゴウ団ならまだわかる。クイーンであるドレディアは、信仰するシンオウさまの御使い。だが、ギンガ団は、というかなまえは、そういう信仰では動いていない。ただクイーンであろうとキングであろうと、人間を見たら襲ってくるような獰猛な種であろうと、ポケモンに惹かれ、ポケモンを思いやっている。
セキは腕の中で気を失っている少女を見やって、ため息をついた。
「奇遇だな、ユウガオさん。オレも知りてえと思ってます」
近くで見ると、きれいな肌をしていた。このままなめしたら、さぞ美しい工芸品になるだろう。髪だってそうだ。長い髪を切って売れば、帯留めの材料としてどれほどの値になろう。それが原因なのかは知らないが、この少女は浮世離れした雰囲気がある。
いや、それだけではない。気になっている諸々のことは、セキは何とか飲み込んだ。
暗い海の底から突然浮上した。暗闇が一瞬で四方にはけて、今まで黒が住んでいたところに急角度の木目天井が飛び込んできた。見覚えがある。コンゴウ団の集落の家だ。
「起きたな」
声のする方に首を動かすと、青い衣を脱いだセキが、ストーブのそばで鍋をかき回していた。その以外な組み合わせにあっけにとられていたが、自分は寝台に横たわっているのに気付いた。身を起こそうとしたが、全身に激痛が走って、思わず悲鳴を上げた。
「ゆっくり動けよ。おめえ、どんだけ戦ってたと思ってんだ」
セキの言葉に従い、痛くない姿勢を探って恐る恐る上半身を持ち上げてみる。筋肉を無駄に刺激しなければ、そこまで痛みは生じない。
徐々に状況を思い出してきた。ドレディアの悲鳴に飲み込まれた自分は、恐らく発作を起こしている。ドレディアのことははっきり覚えているし、荒れ狂うドレディアになぎ倒された自分のポケモンのことも覚えている。一方で、記憶の中に人間の姿と言葉がない。それは発作の特徴だ。
でも、自分の身よりも優先すべきことがなまえにはある。
「セキさん、私のポケモンたちは……!」
「ヒナツが手当てしてる。あと枕もと。見てみろ」
セキがなまえのうしろを指さしたので、なまえは勢いよく振り向きたい衝動をこらえ、首だけゆっくりと回した。
プロペラのような部分を体の下に敷いて、眠るフワライドがいた。これだけしゃべっていても目を覚まさないので、疲れきっているのだろう。随分ひどい戦いを強いてしまった。
「どうもオレが気に食わねえみたいでな。ずっとお前のこと見守ってたよ」
「フワライド……」
ごめんね。脚を1本ずつ動かして、胴体を回転させる。転ばないように、ゆっくり手を伸ばして、触れないところで止めておいた。あんなに酷使して、このまま寝かせてやらないと、トレーナー失格というものだ。
気球のような体がふくらんで、縮んで、を繰り返す。口である黄色のバツ印が体に引っ張られて大きさが変わる。ずっと見つめていると、つるつるの体に光に反射する模様が見えてきたり、黄色い部分と紫の部分は質感が違っていたり、頭の上に乗っている雲のような部分はかすかに透けていたり。閉じている目も、本当は鬼灯と炎を同時に思わせるような朱色なのだ。
愛おしい。
「……ぷわっ」
ぱち、とフワライドは目を覚ました。その瞳は、なまえが想像していたより光を反射させなかったが、草木で染め抜いたような朱色だった。
「フワライド、」
「ふわわっ」
なまえが手を伸ばすより先に、フワライドの黄色の腕が伸びてきた。4本の手はしゅるしゅるとアマリの体に絡み、フワライドのふくらんだ体がすり寄ってきた。じんわりあたたかいが、ぬるいくらいの体温だ。
「そんな警戒すんなよ。なまえは恩人だ。丁重にもてなす」
なまえは大きな風船に邪魔されて見えなかったが、どうやらフワライドはセキを威嚇しているようだった。フワライド、と言ってもフワライドはもぞもぞとなまえの肌の温度を奪っていくだけだった。
「そら、仲間呼んでこいよ。なまえ起きたんだから」
「フワライド、連れてきてくれる?」
「ふわあ」
なまえがふくらんだ体をぽんぽんと叩くと、弾む手ごたえがあった。フワライドはするするとなまえの体から腕をほどき、すぅっと前傾姿勢に出口の方へ飛んでいった。開けた視界では、木製のお椀を持っているセキが目の前に立っている。
「ほら食え。熱いから気をつけろよ」
「あ、ありがとうございます」
なまえはそっとセキからお椀を受け取った。スープの中に、つぶされたジャガイモが入っている。イモ粥だ。
お椀からじんじんと熱が指に伝わってくる。自分は冷えていたんだなと実感した。ほくほくと湯気の上がる粥からは、食欲をくすぐる出汁の香がする。匙も木から彫りだされたような武骨な造りだったが、それがイモ粥に妙に似合った。湯気からのぼる風味に食いつくのを我慢しながら、お椀を握って手を温めた。
「……あの、セキさん。すいません」
「うん?」
「何から何まで。ありがとうございます。ポケモンたちの治療もしてくれて、私のことも運んでくれて」
「おうよ。……」
セキは自分の髪の毛をかき回した。その目は考え深げに細まっていて、煮え切らない表情をしている。狭い瞼の隙間から群青色の瞳がなまえの方を向いた。
「セキさん?」
なまえの呼びかけには答えず、セキはなまえの寝ている寝台の真横に来ると、どすっと胡坐をかいた。高かった視線がなまえよりも下にくる。セキの目は、先ほどとは違った。好意的とか、嫌悪感があるとか、そういう類の視線ではない。セキは、年齢の割に大人だった。長たる立場なのだから、それはそうだろう。先ほどセキはなまえのことを恩人と呼んだ。だから見逃してくれないかと思ったが、そうはいかないらしい。お椀を握る手に力がこもった。
「オレは回りくどいことが好きじゃねえ。時間の無駄だしな。だから単刀直入に聞くぜ」
思った通りだった。なまえはうつむいた。自分の表情を見せたくなかった。
「なまえ、おめえ、ポケモンと話せんのか」
なんて説明しよう。自分がカントーから来たことにしてしまえばいいのか。それとも、分かりません、で通せばいいのか。この時代の人が、“かたりべ”に対してどんな感情を抱いているのかは知らない。今打ち明けてしまえば、もしかしたら過去のトウゲンを知れるかもしれない。しかし、記憶喪失、ということで通しているなまえの身元が揺らぎかねない。そうなれば、何が起こってしまうが予想ができない。
なまえは沈黙を守った。視界の横に髪の毛が垂れさがる。何も言えない。この世界を守るため。そして自分自身を守るため。
ずる、と衣擦れの音がする。セキがこちらに近付く気配がした。遠かった体温が、腕を少し伸ばせば届く距離にある。
突然、熱い指で顎をつかまれた。セキの指は太くて、力が強い。今まで鍋をかき回していただけでなく、この人物のもともとの体温が高いのだ。強く顔ごと引っ張られて、首が90度回転した。セキと目が合う。
「嘘はつくな」
セキの目は、衣と同じ群青だ。照明の影に入っても、瑠璃のように輝いている。コンゴウ団の長たる彼は、若いのに、強い長だった。正義感の強い目だ。実直で、団のことを誰よりも考えている。そういう人柄だと分かっていたのに、この目は言葉よりも鮮烈にそれを語った。
「おめえに鎮めてもらったのに悪いが、クイーンはコンゴウ団にとって、命みてえなもんだからな。何かあってからじゃあ遅いのよ」
声も懸命に目的を語った。彼の発する言葉より、彼からにじみ出る音だったり、態度だったり、まなざしだったりが、雄弁だった。逃げられないし、力になりたいという気にさせる。その一方で、逆らえない。逆らったらいけない。根拠は、目でも声色でもない。直感で身の危険を感じさせた。なまえは、乾いた口で息を吸った。
「……わからないんです」
「分からねえ?」
セキはなまえを解放してはくれなかった。そういう意味なのだ。顎をつかむ手に力がこもる。また息を吸って、強い瞳に負けないように、ぐっと見返す。
「発作みたいなものなんです。突然人の言葉がわからなくなって、ポケモンの言葉が聞こえるようになる。いつ起きるか分からないし、原因もわからないんです」
嘘はついてない。だが、これ以上は話せない。“かたりべ”のことも、なまえのことも。口を閉じたら、粘膜から水分が蒸発してしまって、口の中が張り付いた。
なまえはじっとセキの目を見つめた。発作のことは未来にいたときも何も判明しなかった。信じてもらうしかない。こげ茶と群青の虹彩が何度か瞬きして、なまえを見つめる。睨むのと無表情のと、丁度真ん中くらいの視線。口の中に飲み込むものは何もないけれど、緊張をごまかすためになまえは喉を動かした。セキのごつごつした指が嚥下を遮る。
「……これ以上問い詰めたらばちが当たるってもんだな」
セキの手が、なまえから離れていった。首が自由になって、背中の筋肉痛も和らいでいく。セキは笑顔に戻ると、申し訳なさそうに眉を落とした。
「悪いな。コンゴウ団のリーダーだからな。キングも、クイーンも、集落のみんなも、守らなきゃならねえ」
「いえ、」
「それによ、なまえ。おめえ正直すぎるぜ。全部顔に出てんだよ。嘘つけねえんだな」
「えっ……」
「いい奴なんだな」
なまえは思わず自分の顔を片手で触った。イモ粥の温度に暖められて、随分熱い手になった。テルやショウからはそんなこと言われなかったのに、手につられて顔も熱くなってくる。
セキは胡坐のまま、背後に手をついた。天井からぶら下がる灯がセキの顔を照らす。
「あの、セキさん。今話したこと、誰にも言わないでもらえませんか。ギンガ団の人にも」
「わかったよ」
ヒナツやユウガオには、なまえが倒れたときに口止めしてくれてあるらしい。冷酷な目が嘘かのように陽気に笑うセキを見て、なんだかなまえは調子が崩された。
「じゃあ1つだけ」
「何ですか?」
「ドレディア、なんて言ってた?」
セキのその言葉には、どんな意味が含まれているのか、なまえには真意まで測りかねた。だが、瞳の底に、少年のような輝きが見えたので、気付いたら口が動いていた。
「ありがとう、暴れてごめんねって。ドレディアって、ヒナツさんのこと大好きなんですね」
意識を失う直前に、ドレディアから感じたメッセージ。恐らくヒナツは荒ぶるドレディアを助けようと何度も彼女に近付いたのだろう。しかしドレディアは苦痛でそれどころではなかった。意図せずヒナツを攻撃してしまうこともあっただろう。あの悲鳴は、好きな人を傷つけてしまう自分への怒りだったのかもしれない。
セキの目じりが、ほんの少し下がった。それだけでずいぶんと優しい印象になる。雰囲気も和らいだ。彼は、コンゴウ団の長だ。ヒナツもドレディアも大切な仲間で、守るべき存在で。そう考えると、よく正体の分からない自分に荒ぶるクイーンを鎮めさせてくれたと思う。
「あの、ドレディアは大丈夫でしたか?」
「それはヒナツから聞くんだな」
セキの言葉が合図だったかのように、家の戸が勢いよく開いた。冷たい空気が一気に入り込んできたが、目にもとまらぬ速さでなまえに突進してきた暖かいもふもふのおかげで、寒いとは感じなかった。
「マグマラシっ」
「ぐまっ」
マグマラシが覆いかぶさってきた。柔らかい毛皮に顔が覆われ息が苦しくなるが、前が見ないうちに腹部に鈍い衝撃を感じた。
「うっ」
「ふるるる」
フローゼルだ。手で探ると、外気に冷やされて冷たくなったもちもちの皮膚を感ずる。なんとかマグマラシをなだめて顔から離れてもらうと、彼は悲しそうな顔をしていた。お腹に突っ込んできたフローゼルも。飛びつきたいが我慢しているルクシオは寝台の横にいるセキを押しのけ、羨ましそうなゴローンをフワライドが牽制している。寝台の中に無理やり体を滑り込ませたのはムクバードで、鋭いかぎづめでフローゼルの頭を踏みつけている。
「みんな、ごめんね、無理させて」
「なまえ!」
最後に飛び込んできたのは、ヒナツだった。ヒナツが戸を閉めようとすると、その隙間からしなやかな動きでリーフィアが入り込んできた。
「リーフィア。ご苦労さん」
「りるるる」
リーフィアは迷惑そうにルクシオを見やると、寝台の上の段にセキの頭を経由してとびのった。
「なまえ、ケガはどう?」
「大丈夫。ドレディアは?」
「ドレディアはすっかり元気になったよ。森へ帰っていった」
なまえは巻き付くマグマラシを膝に下ろし、フローゼルはその隣に移動してもらった。無意識にもさもさと毛を撫でる。
「本当にありがとう。なまえ。おかげでドレディアがもとに戻った。もしなまえがいなかったら……」
「私は手伝っただけ。ドレディアに一番必要なのは、私じゃなくてヒナツさんだよ」
「なまえ……!」
ヒナツの赤い目が潤む。そもそも目が腫れていたのだ。彼女は責任感が強い。ドレディアがあらぶったのは誰のせいでもない。ヒナツが己を責めることはない。
「あの、なまえ、言い足りないくらいありがとう! ドレディアを苦しみから助けてくれてありがとう……! なまえはコンゴウ団じゃないのに、命張ってくれた……アタシ、恩は返すよ! どんなに時間が過ぎても、この恩だけは忘れない!」
マグマラシが首から炎を出さなければ、ヒナツは勢いのままなまえに抱き着いていただろう。
ヒナツの剣幕に、なまえは面食らった。こんなに感謝されて、もちろん嬉しくないわけがない。それでもよそ者の自分にここまでの感謝をするなんて、人が良くなければできはしない。ドレディアのことを鎮めるだけ鎮められたら、適当にあしらわれるだけでもいいと思っていたのに。
「どういたしまして。ドレディアと仲良くね」
「うんっ」
放っといたら、ヒナツはいつまでもなまえの隣に居座りそうだった。見かねたセキがヒナツを追い返し、やっとセキの家に静寂が戻る。ぐすぐすと鼻をすすりながら帰っていくヒナツがちょっと心配になるくらいだ。
「ヒナツは良くも悪くも真面目だからな。許してやってくんな」
「許すもなにも。ヒナツさんは悪いことしてないです」
なまえはゴローンに手を伸ばした。さっきからフワライドにぺちぺち頭を叩かれていてかわいそうだったからだ。フワライドは間違っていない。ゴローンの巨体がなまえの体にのしかかってきたら、普通の人間であるなまえはつぶれてしまう。
「ほれおめえら、ボールとやらに入ってくれよ。ウチはそんなに広くねえんだ」
な、とセキがルクシオの頭を撫でると、ルクシオはぶるっと身震いしてから、なまえのポーチをくわえて持ってきた。
「そんなにオレが嫌か?」
「ぎゅうう」
ルクシオは喉の奥からひねり出すように声を出した。セキの言葉を否定したいが気を遣って言いたいことが言えない人間のような表情をして見せたので、なまえは苦笑いでルクシオの黒いたてがみをわしわしとかき回した。
「こら」
「くるるぅ」
ルクシオはなまえの手にポーチを落とすと、前足を寝台に載せる。シンオウで旅していたときに出会ったコリンクと比べてずいぶん甘えんぼうだ。彼はとても紳士的な性格をしていが、このルクシオくらいかわいげがあっても全然かまわないのに。
思い出したら、現代に残っているポケモンたちに会いたくてたまらなくなってきた。なまえは目の前の手持ちたちにねぎらいの言葉をかけて、1体ずつボールに戻す。ヒスイのボールはずいぶん重く、普通のモンスターボールもあまり遠くには投げられない。ポケモンがボールの中へ戻ると、手にかかる重量がずんと一段階増した。
「いつ見ても不思議だな」
セキが興味深げに手元を凝視していたので、なまえは空のボールを差し出してみた。
「どうぞ。よかったら差し上げますよ」
「いいのか? 使わんかもしれねえが」
「材料があればたくさん作れますから」
セキはモンスターボールを受け取って、しげしげと眺めた。手の中で転がしてみたり、留め金をいじってみたり。寝台の2段目からリーフィアが顔をのぞかせる。
「……よくできてんなあ」
「りぃふぃ」
布が舞い降りるように、柔らかい足取りでリーフィアはセキの隣に下りてきた。よくわからないのがいなくなって一安心といったあたりなのだろうか。
「よかったら、作り方をお教えしましょうか?」
「いいのか!?」
思いもよらない発言だったのか、セキのボールを握る手に力がこもった。上半身が前のめりになって、アーモンド形の目が好奇心で見開かれ、輝いている。だがそれも一瞬のことで、すぐに光が曇る。なまえはその理由を悟って、イモ粥の椀に視線を落とした。
「……すいません。その、セキさんの立場も考えずに」
セキは癖のようにボールを持った手の甲で額を押さえると、そのままボールを足の付け根に転がり落ちないように置いた。
「オレ個人としちゃ、ギンガ団の技術はすげえと思うし、伝統を守りながらも新しいものを取り入れていくのは重要だと思うんだけどな。どうしても団の中には、反発する奴もいる。ゴメンな、なまえ。気を遣わせて」
セキは寝台の方へ寄ると、たくましい腕をなまえに伸ばした。反射的になまえは目をつむるが、熱い五指はなまえの黒髪の間に入ってゆき、次いで広い掌が側頭骨を包んだ。
「こーんな小せえのに、びっくりするほど人間ができてんだなあ、なまえは」
セキさん、という呼びかけが、出てこなかった。目を開けると、すぐ近くにセキの笑顔があり、表情は親しみを語りかけてくる。脅されたときの差に面食らったが、こっちが彼の本心だと信じたいと思った。セキは少しだけ声を低める。
「コンゴウ団の長としちゃ、だめなんだ。でもオレ個人なら、ボールの作り方を教わってもいい」
「え?」
「セキっつー1人の男にさ、教えてくれよ。ボールの作り方」
万が一、外のコンゴウ団の人間に聞かれてはまずかったのだろう。普段のはつらつとした声を極限まで抑えて、セキはしゃべる。互いの額がくっつきそうで、なまえは急に緊張した。少年のような笑顔が目の前にあり、立ち上る体温を感じる。声を出すのははばかられ、なまえが首を縦に振ると、セキは嬉しそうに口角を上げた。
「約束だぜ」
「はい」
セキが離れるのと同時に、大きな手もなまえの頭を離れていった。頭皮は髪の毛に覆われているはずなのに、今までセキに触れられていたところだけ急に冷たくなった。
「そういや、イモ粥食えよ。冷めるぞ」
「あっ、いただきます!」
なまえは木のさじでイモ粥を掬って、口に運んだ。ぬるくなった出汁ともったりと煮とろけたイモが胃の中に滑り落ちていくと、なまえは自分が空腹だったのを思い出した。出汁と塩の単純な味付けが空の胃腸に優しく、乾いた地面が慈雨を吸い込んでいくようにみるみるうちに平らげてしまった。
満腹になったなまえは泥のように眠ってしまった。寝ついた記憶もないくらいすぐに意識を落としてしまったのか、気がついたら朝だった。布団から身を起こすと、窓辺で日光浴をしているリーフィアと目が合う。
「おはよ、リーフィア……」
「りーぃ」
リーフィアは窓辺からおりて、ストーブの前に座り込んだ。なまえが寝台から降りて恐る恐る背中を撫でてみると、ところどころ絡まって入るものの、綿のように柔らかい体毛が指の間を滑っていく。
思いついたようになまえは自分の枕もとのポーチに手を伸ばして、中に入っているブラシを引っ張り出した。
「とかしてもいい?」
「りる?」
リーフィアは首をかしげたが、ブラシを掲げてみても、嫌がるそぶりは見せない。そのまま体にあてて、毛並みに合わせてブラシを動かしてみても、リーフィアは嫌がるどころか、伸びをしてじいっとアマリなまえを見上げてくる。
同じイーブイから進化したリーフィアだ。骨格はエーフィやブラッキーと同じだった。ずっと一緒にいたせいで、筋肉のつき方から毛の流れ方まで覚えている。肉付きや毛質が違うにも関わらず、骨組みが同じであるリーフィアは、どうしようもなくパートナーを思い出させた。
「りぃ?」
じんと涙があふれてくる。それをリーフィアにはばっちりと見られ、彼は首をかしげていた。
「ごめん、何でもないよ」
頭の上に立っている緑の葉は鋭利で、ブラシでは手入れできない。尻尾も同様だ。湿らせた布で拭くのが正解だろう。自分の目の周りを乱暴にぬぐって、手拭きサイズの白い布をポーチから出す。
「ねえ、リーフィア。井戸ってどこにあるか知ってる?」
「そこの水がめん中から汲んで使いな」
眠たげな声に驚いて、ブラシを取り落とした。声の主は寝起きのセキで間違いないが、それが頭上から聞こえたことに驚いたのである。てっきりもう起きたものだと思っていた。セキは上の段の寝台から顔と腕だけ出すと、半目で棚を指さした。
「桶はそっち」
「あ、ありがとうございます」
「なまえ、早すぎるっての……」
もぞもぞと衣擦れの音がする。なまえはセキに教えてもらった通り桶で水がめの中から水をくんだ。不思議と水はぬるく、冷え切っていない。そのままでも大丈夫そうだ。なまえはリーフィアのもとに戻ると、手拭きを水に浸して硬くしぼり、尾の葉を布で挟む。リーフィアの表情を伺いながら葉の汚れをふき取る。リーフィアは耳をパタパタ振った。
「こっち?」
「ふぃぃ」
リーフィアは頷く。布を裏返して耳の周りを拭いて、耳の穴の中も届く範囲で綺麗にする。するとリーフィアはくすぐったさにぷるっと身を震わせた。
「ちょっと我慢してね」
「ぃいい~」
気持ちいいのか嫌なのか。こういう反応は、エーフィの毛づくろいを手伝っていたときも見たことがあった。耳は敏感で複雑な器官だ。手早く済ませてやりたいが、そうはいかない。丁寧に手入れしないと、不快感が残るし、なにより皮膚病の原因にもなる。
エーフィは、人一倍敏感な子だった。今頃、誰に毛づくろいを手伝ってもらっているのだろう。
「終わったよ」
「りふぃ!」
すっきりした、と表情からありありと感じ取れる。リーフィアは窓枠に戻り、日光浴を再開することにしたようだ。硝子のほうへ顔を向け、額から生える葉のような器官に光を当てている。
「自分の支度よりリーフィアの支度が先か?」
寝台から降りてきたセキが、なまえの頭を撫でつけた。どうやら寝癖がついていたらしい。そういうセキの頭も爆発同然で、いつもの整えられた髪型の面影は薄い。寝起きだからか相変わらずセキの手は温度が高く、なまえの頭頂骨は彼の手のひらを失うと急激に冷え込む。なまえはセキに倣って、水がめからくみ上げた水で顔を洗った。目の周りがひりひりした。
なまえがコンゴウ団の集落を去ったのは、それからすぐのことだった。セキとリーフィアが集落の出口で見送ってくれた。ずいぶんと早朝だったため、集落の人は起きていなかった。東からさす陽光が、集落のテントを細長く地面に映し出すころ、なまえは集落の出口をくぐった。
早朝からロゼリアたちは、両手の花を美しく咲かせる努力で手いっぱいのようだった。そろって東を向いている様子は、花畑を連想させる。ロゼリアの長い長い影が、コンゴウ団のテントが投影されている地面とそっくりだ。
遠くから、中年の女性のような鳴き声が聞こえてくる。もっと丘を登ってドレディアの祭壇付近には、オヤブンのロズレイドが暮らしている。オヤブンは気性が荒く、こちらを見つけると真っ先に襲ってくるので、完全に覚醒していない早朝には出会いたくない相手だ。
緩い下り坂を駆け降りる。ロゼリアやスボミーたちの邪魔はしたくないので、日の差さない崖のそばを選んだ。くさポケモンの真似をして、ウソッキーが太陽の光を全身に浴びて、気持ちよさそうに笑っている。
「きゅっきゅう」
呼びかけられた気がした。
坂道で急に立ち止まったせいで、勢いで前に転がりそうになる。受け身以外で地面に飛び込むのは遠慮願いたかったので、つっかえ棒のごとく膝を思い切り伸ばして耐えしのいだ。その甲斐あってか顔からではなく腕から地面と出会うことになったのだが、膝に土がつくくらいで、大きな被害はなかった。
立ち上がりながら振り返ってみると、なまえの知っているドレディアよりも大きな、ヒスイドレディアが立っていた。彼女は風を音楽とでも思っているのだろうか、そよそよと葉がそよぐ拍に合わせて、体を揺らしている。
「ドレディア?」
「でぃあん」
野生のドレディアはいない。野生にいるのはチュリネだけだ。例外があるとすれば、クイーンドレディア。なまえを呼び止めたのは、つい昨日鎮めたドレディアだった。
「どうしたの?」
なまえがそう聞く前に、ドレディアはかがんで、筋の何本も通った葉のような腕を開いた。その中からは、チュリネとトゲピーが滑り出てくる。
「ドレディア?」
「あーん」
ドレディアはその小さい2体の背を押した。その子らはおずおずとなまえに歩み寄り、チュリネはなまえの足にすがりついた。なまえがしゃがむと、チュリネは膝によじ登ろうとした。トゲピーもその後ろについてくる。
「チュリネ? トゲピー?」
「でぃーぁ」
それに満足そうにドレディアは頷くと、長い脚で地面を蹴った。太陽にかぶさるようにして飛び上がる姿は、生き生きとしていて、そのまま躍るようにしてくるっと1回転した。ついついそれに見とれていると、ドレディアは着地して、アマリを見つめて目を細めた。頭についている桃色の花が、朝露に濡れている。
「どれでぃー」
ドレディアは再び近付いてきて、チュリネとトゲピーの頭を、薄く柔らかな手でひと撫でした。そして、なまえが、ドレディア、と呼びかける前に、舞台上の役者のようなお辞儀をして、大きく跳んだ。今度は、降りてこなかった。どこに行ったんだと周りを見渡してみれば、随分離れたところへすでに去ってしまっていて、追いかけることもできず、ドレディアはそのまま崖の裏に姿を消した。
残されたのは、アマリの膝に乗り込んでくるチュリネとトゲピー。
「……一緒に来たいの?」
「ねー!」
「ちょげー!」
なまえがそう言うと、2体は一斉に返事をした。チュリネの頭の3枚の葉が、頷くように縦に揺れた。
「ドレディアの仲間かな? これからよろしくね」
なまえはチュリネとトゲピーを抱き上げると、そのまま立ち上がった。
目指すはコトブキムラ。とりあえず団長に任務の完遂を報告して、それから、他の仲間たちと顔合わせして、宿舎の中を案内してあげるのだ。