英雄譚エルダー・エッダ
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22
緑谷に連れていかれたのは、緑地の中にある小さなベンチだった。その途中で緑谷の腹の虫が盛大に鳴ったので、2人の手にはコンビニで買ったホットスナックが握られている。緑地の中は人気がなく、若緑を広げた木々が林立し、生垣は緑地を道路から切り離していた。
なまえは何も言えず、手元の梅ささみフライをかじった。いつもより梅の酸味を強く感じる。肉の味がよくわからない。
沈黙を、なまえは破れないでいる。破らなくたっていいと、思っている。
「……どうして、泣いてたの?」
緑谷が神妙な表情で、なまえを横目にじっと見つめた。気遣うような目だ。気遣うなら、放っといてくれまいか。なまえはそう口に出しかけたが、それはただの八つ当たりだ。
「僕、やっと気付いた。みょうじさんが僕のこと褒めてくれるのは、逃げて、ごまかすためなんだって。何をごまかしてるかはわからない。けど、本当のことを教えてほしい」
彼は優しさの権化である。なまえがこれまで出会ってきた誰よりも優しいし、それと同じくらい自信がなくて、卑屈で、努力家。それは一重に、彼にオールマイトのようになるという目標があるから。だから、彼は雄英に入学した。最高峰にふさわしい資質を備えているから。
私には、実力がある。逆に言えば、それだけしかない。
「……本当のことって、私が何を隠してるっていうの?」
なまえは乾いた口で返事をしたが、自分で思っていた以上に棘を含んでいた。
緑谷を困らせたくない。そう思っているのは確かなのに。
「わかんないけど、みょうじさんが泣いてたから。……友達が悲しい顔してるのは、嫌なんだ」
緑谷はうつむいた。
友達、だって。なまえはその言葉を噛み締めた。
「……緑谷くんの勘違いじゃないかな。緑谷くんのことは本心で褒めてるよ。すごいなって思うから。それ以上はなにもない」
「じゃあ、それはそれでいいよ」
緑谷はかすかに口ごもりながら、一気に牛肉コロッケを食べてしまった。なまえの手元のささみフライはすっかり冷えている。緑谷は残った包み紙を、握りつぶして、そして親指で押し広げて。言葉を探して迷っている。上目遣いで、なまえの表情を伺っている。
何も言わずにこの場を切り抜けられるなら、よかったのに。彼は優しさの権化だ。それゆえに、この場から逃がしてくれそうにない。
「そんなに、ヒーローになりたい理由、言いたくなかった?」
「……私は、」
手元の包み紙を、フライごと握りしめた。
オールマイトを見るたび、あの夜のことを思い出す。血だらけの八木俊典。数日後には、もう笑っていた。
2度と俊典に会えなくなるのは、想像しただけで、足がすくんで、手が震えて、死にそうになるくらい、怖い。凍えるような恐ろしさが、言葉を押し出す。
「本当は、ヒーローなんて、好きじゃない。憧れても、ない」
緑谷が息をのむ。彼の中では、決して芽生えることのない感情だろう。けれど、これでいいと思った。さっさと話して、もう触れないでもらう。そうしたら、雄英生にあるまじき恥部を、これ以上さらさずに済む。
「それは、なぜ?」
緑谷が振り絞るように、尋ねた。深堀してほしくない、とここで断っても、彼は追求してくるだろう。なまえは自分の足を見ている。地面には青草が、その間には黒アリが。暮れるオレンジの日が、細い葉の間を通り抜ける。
「俊典さんが、」
突然吃音になったかのように、なまえの喉に言葉がつかえた。注射器から無理やり薬剤を押し出すように、息を吐きだした。血の塊を舐めているかのように口の中が苦くなる。
「俊典さんが、死にかけて帰ってきたのを見た。6年前」
思い出すと、背筋が凍る。一命をとりとめたオールマイト。少しでも傷が深ければ、オールマイトはこの世にいなかった。この間のように、一緒に夕食をとることもかなわなかった。2度と名前を呼んでもらえなかった。
今、彼が、血の通った体で雄英に籍を置いているのは、奇跡という言葉だけでは表しきれない。あの惨状を見たなまえからしたら、まさに神様の所業と言ってもいいくらいなのだ。
緑谷がうつむいて、唇を噛んだ。緑谷はよく知っているはずだ。オールマイトが後継を探さなくてはならなくなったきっかけだ。なまえより詳しく知っていてもおかしくない。
過呼吸になったなまえを、夕暮れの風が冷ました。
「俊典さんのことは好きだよ。でも、私は……大切な人に、死ぬほど怖い思いをさせる人には、なりたくない」
きっぱりと言い切る。緑谷が、膝の上で拳を握っている。なまえを伺う目と、なまえが緑谷を伺う目が、合った。緑谷の緑色の目は、真っすぐとなまえを見つめていた。見咎めるように。
「けど、……けど、みょうじさんは、敵がいる前に飛び出して、オールマイトを守ろうとしたじゃないか」
「……だって、俊典さんは、大切な人だから。俊典さんが、見ず知らずの人を助けて、大怪我をするのとは違う」
「違わないよ。人を守りたいって思うのは、どんなヒーローだって思ってて……」
「違う!」
なまえは、聞いていられなくなって、大声で遮った。緑谷は驚いて口をつぐむが、なまえの手が震えているのが見える。
なまえは緑谷の言葉に対して、反論しなければならないという義務感にせきたてられ、つるりと言葉が頭の中から直接口へ、滑り落ちた。
「俊典さんだって、消太さんだって……いつだって、私のこと置いて、知らない誰かを助けに行っちゃう……そんで、大怪我して帰ってくる……!」
だから、好きじゃない。
口に出していると、思考が整理されるというのは、ままあることだ。なまえは、緑谷相手に、それをしてしまったのだと気付いた。
そういえば、相澤やオールマイトに、悩み事を相談することなんてなかった。全部自分で考えて、閉じ込めてきた。相談するまでもなく、自分のことは自分が一番分かっていると思っていたから。
しかも口に出して、ようやく理解できた。己の本音は、ヒーローの存在意義そのものを無視する、子どもの駄々だ。
ヒーロー科に何となく入って、目標もなくて、なあなあに過ごした結果が、これ。馬鹿みたいだ。同級生に迷惑かけて。
自分なんか、ヒーロー科に相応しくない。大学付属の教育機関にすればよかった。軽い気持ちで“個性”推薦なんて受けなければよかった。
なまえは、呆然とこちらを見つめている緑谷の視線に、ようやく意識が戻っていった。みっともなく喚いて、しかも心に秘めていたことが、園児のわがままレベルだなんて。寂しがりの自己中心的な主張を、16歳にもなって同級生に話しているなんて、顔から火が噴き出てそのまま地中深くに潜ってしまいたいくらい、情けない。
それ以上に、ヒーローになりたくない理由があるなんて、緑谷に知られたくなかった。緑谷には、一番、秘密にしておきたかった。その、別次元の生物を見るような目が、なまえの恐れていたものだった。
振り切ろうと思った。これで話しきったのだと告げ、結論を濁して逃げて、明日は何事もなかったかのように、“おはよう”と言えばいいと思った。咄嗟に、彼は動かないだろうと。もう、彼が大好きな“ヒーロー”の悪口は聞きたくないだろうと、だから逃げられると思った。
「待って!」
立ち上がりかけたなまえの肩を、緑谷はつかんだ。なまえは、緑谷の手首を握って、放そうとした。
「……もういいでしょ。話した。ヒーローになりたくない理由」
緑谷の手には、力がこもるきりだ。なまえの鎖骨と肩甲骨のつなぎ目に指が食い込み、痛いくらい。緑谷の視線から、なまえはわざと逃れた。その真剣な目を、見ていられない。
「よくない。そんな顔のみょうじさんは、ほっとけない」
「やめて。そういうこと言うの……」
なまえは、緑谷の手と自分の骨の間に、無理やり指をねじ込んだ。指を1本はがして、もう1本はがせば、最初にはがした緑谷の太い指が、さらに強くなまえの肩を握り締める。絶対逃がさない、とでも言うように。
そういうところが、いけないと思う。目と行動が一致していない。引き留めるくせに、蛾かなにかを見る目を向けるのは。
「お願い、はなして」
「だっ、だめだ。だってはなしたらみょうじさん……」
「これ以上緑谷くんに嫌われたくないんだってば……!」
覆水盆に返らずという言葉の通り、放ってしまった言葉は宙を漂うか、地面に落ちるか、他人の耳に入るしか道がない。言葉は、緑谷の耳の奥に入って、鼓膜を揺らし、蝸牛を通り、その意味のままで脳の聴覚野に到達したのである。
ひるんだか、緑谷の手が緩む。なまえは間違ってくっつけてしまった絆創膏のように緑谷の手を引きはがし、跳ねるように立ち上がった。そのまま走り出そうとする。
「待ってって言ってるだろ!」
緑谷はなまえの腕に飛びついた。なまえは緑谷につかまった衝撃で背中から倒れそうになるが、何とか踏ん張った。緑谷の声に込められた剣幕は、なまえが聞いてきた中でもすさまじく、恐る恐る振り返ってみると、緑谷は半分怒って、もう半分は悲しんでいるようだった。しかめられ、垂れた眉が、泣きそうな様相を訴えていた。
「なんで嫌いだって決めつけるんだよ……」
なまえの前腕を握り締める彼の指、その隙間にうっ血した静脈が浮き上がるほど、圧力がかかっている。
「みょうじさんを泣かしたのは、僕だけど……。なんで嫌いだって話が飛躍するんだ」
緑谷は、自分の顔の自覚はないらしい。鏡を出して、その目を見せてやりたいくらいだった。当たり前だ。原因はなまえにある。緑谷を責められない。
なまえは緑谷の手の中から腕を引き抜こうとしたが、彼は空いた片手も添えて、その場になまえを縛り付けた。
「みょうじさんは、優しいんだね。優しくて、真面目なんだね」
「は?」
優しくて真面目なのは、緑谷の方だ。なまえは彼の言っている意味が理解できなくて、思わず眉間にしわを寄せた。緑谷は、なまえの顔を見つめて、目を逸らさない。
「ヒーローは、怪我せざるを得ない職業だと思う。だから、みょうじさんみたいに、怪我したら悲しんでくれる人は必要なんだ。必要なんだと、今思った。それで、怪我したら悲しむ人がいるんだって、気付くことも大事なんだ」
なんの話をしているんだ、と思った。なまえは、緑谷の、必死な形相を、他人のような気持ちで眺めていた。前腕を握り締める彼の手に、徐々に力がこもっていくのを、分かっていながら。
「みょうじさんの気持ちを否定しないで。僕は嫌いにならない。だってそれは、みょうじさんなりの、“ヒーロー”との……いや、オールマイトとの向き合い方なんでしょ?」
心が浮いた気がした。肺の血管に詰まった細かいゴミが、急に消えたような。
「皆が皆、ヒーローに憧れてるわけじゃないのは知ってるよ。珍しいと思うけど。でも、みょうじさんには、実力がある。きっかけは何であれ、ヒーロー科に入れる実力だ。僕はすごいと思ってるし__誇ればいいんじゃないかな。みょうじなまえは、強いんだぞって」
泣き笑いのような表情で、気付けば、彼の目には薄っすら涙の膜が張っていた。泣くほどのことが、何かあったのだろうか。自分はどうなのだといえば、呆けた顔をしている自覚はある。
緑谷は、あっ、と気付いたように、笑みを引っ込めた。なまえの顔から眼は背けずに、もごもごと口ごもり、なまえの微妙な表情を読み取ったのか、遠慮がちにどもって、再び口を開けた。真剣な表情に戻っていた。
かと思えば、考え込んだかと思うと、一瞬にして顔を真っ赤にした。意を決したように、大きく呼吸しながら、どもりながらも、言葉を続けた。
「大切な人が傷つくのが怖いなら、みょうじさんが守ったらいいと思うんだ。強さは、守る力だから。USJで、僕らを助けてくれたみたいに」
緑谷は、言葉にしなくても気付いたのだった。なまえが抱いたわだかまりに。それを助けようとしてくれている。なまえは逃げようとしていた力を、足から抜いた。
「……それで、その……自惚れてもいい、なら……」
そこで口ごもる意味は分からないが、ここで初めて、緑谷の目がなまえから逸れた。少しの間、斜め下を見て、頬を赤くして、もごもごと言葉を含んだ末、再び彼の手に力がこもった。向けられた表情は、あの、武道館で見た真剣な表情。
「みょうじさんが困ってたら、僕が助ける。その代わり、僕のことは、みょうじさんが守って。僕のこと、見てて」
なまえは、頷けず、軽く首を傾げた。緑谷はまくし立てた。
「助けて、助けられて、またヒーローについて、いろいろ考えてみてほしい。みょうじさんは、憧れ一辺倒じゃない、ヒーローの負の面も知ってるから、いっぱい、色んなこと考えて、僕に教えて」
緑谷の目は、熱っぽい。前のめりになって、緑谷の目に、なまえの顔が映っていた。
「そんで、ヒーローのこと、ちょっとずつでいいから、好きになっていってほしい……僕が、みょうじさんにそうなってほしいと思ってる。都合のいいように僕を使ってよ。一種の布教だと思って」
「布教?」
「そう」
そこで初めてなまえの口をはさむ余地ができた。緑谷はなまえの表情を伺うように、照れ笑いしている。
「みょうじさんは、“ヒーロー”に対してすごく真摯だから。そんな人がヒーローを嫌いになるだなんて、ヒーローオタクとして黙ってられない。それに……」
緑谷は、一瞬口を閉じて、じいっとなまえを見つめた。慎重に言葉を選んでいるようだった。
「みょうじさんがヒーロー科に相応しくないなんて、あり得ないし、思ってほしくないんだ」
その言葉が、欲しかったのかもしれない。なまえは、自分の体が浮くかと思うほど、胸の重みが消えたのがわかった。
みょうじさんは自覚ないかもしれないけど格闘技術も“個性”の使い方もすごく器用で洗練されてて流石だよね遠近両方カバーできる特技があるのはかなりの強みだしみょうじさんの“個性”は広範囲妨害とかもできそうだからどんなサイドキックと組んでもそれなりに相性良いし都市郊外山間部どこでも活躍できそうだからオールマイティで特に高層建築物が多い地域がいいんじゃないかな物を崩せるってことは逆もできるってことだから建築物崩壊事件とか多数の犠牲者が出るしどう対応するか最近議論になってるからみょうじさんの“個性”ってぴったりだと思うんだ
緑谷は夢中になっていたようで、はっと気付いてぶつぶつ言うのをやめた。つい癖で……と気まずそうになまえの反応を伺っている様子が、緑谷の言葉が嘘ではないことを際立たせている。
なまえが、震える唇で、ありがとう、とどうにか口にできたときに、緑谷は全身の緊張が抜けたようだった。それまでの真剣な表情が、一転して緩んだ笑顔になる。なまえの腕をつかんだまま、へろへろと椅子に座り込んだ。
