英雄譚エルダー・エッダ
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20
体育祭まで、あと2週間。その期間をフルにトレーニングに充てられるかと言えばそうでもなく、授業はいつも通り行われる。一方で、クラスの中の雰囲気はそうもいかず、ただ机に座っているだけだと体がうずく人も何人もいる。“個性”の特訓もしたいし、単純に体力アップも図りたい。その空気が教室中に満ち溢れている。
しかし、その緊張した空気も、ヒーロー基礎学担当のミッドナイトの鞭の一振りで払われた。というか、払われなかった生徒はそのまま彼女の鞭を受けそうな勢いだった。まさかそんなことは実際に起きまいが、それを生徒たちの脳裏にちらつかせることができるのは、彼女から湧き出るサディスト感のせいである。
ミッドナイトは授業の終了間際、肩をすくめてこう言った。
「まあ、焦る気持ちもわかるわよ。けど常識ができてないヒーローはどの事務所だって相棒にしてくれないわ。事務所によっては学力を見る試験を課すこともあるのよ」
ええっと小さい悲鳴をあげたのは上鳴だ。
ミッドナイトはそれを見逃さず、じろりと上鳴を睨みつけた。そして目が合ったついでにと手元のプリントを配るように言う。上鳴はそれに従って、教卓の上にあったプリントを、前から回していくように、列の先頭の人に人数分数えて渡す。
「今日でヒーロー黎明期の話はおしまい。ヒーロー基礎学は定期試験とレポートで最終成績をつけるから、レポートは来週の月曜日に提出すること。テーマは“黎明期のヒーローと現代のヒーローの比較”。今配った紙にまとめてもいいし、パソコンで書いてそれを印刷するのでもいいわよ」
これまた時間のとられる課題である。生徒たちの顔にありありと“嫌だ”と浮かんでいるのを見て、ミッドナイトは鞭を一振りした。
「定期試験の問題数を増やさないために頑張りなさいよ。それじゃ……月曜日の朝がいいわね、今日の日直の人、レポート集めて職員室まで持ってきてくれる? みょうじさんね」
「あ、はい」
たまたま日直だったなまえは、突然ミッドナイトに名前を呼ばれて一瞬うろたえた。ミッドナイトのマスクの奥の瞳がいたずらっぽく光った。
ミッドナイトこと香山睡は、幼いころからなまえと面識のあるヒーローの1人である。なんだかんだで彼女にはたいそう可愛がってもらった。先ほどの視線は、そういう意味なのだろう。
配布されたレポート用紙はやたら大きく、大量に書いてこいという意図がにじんでいた。
課題は真っ先に終わらせるタイプと、そうでないタイプの学生がいる。なまえは前者だった。勉強が得意なわけでも好きなわけでもなく、むしろ体を動かすほうが好きななまえにとっては、レポートは正直苦痛だ。しかも、文献を調べたうえで参考文献として記してこいとのことだったので、適当に済ませるわけにもいかない。その日の放課後のうちに片付けることにした。
図書館に行って、近現代の棚をあさる。麗日は、滑り止めの学校を受験するときに面接対策として読んだ本が家にあるとかで、それで資料は間に合いそうだとのこと。なまえは“個性”推薦だったためそんな参考書は一切持っておらず、おとなしく雄英の図書を利用することにした。
静かな図書館で、本を出し入れする音だけが響く。こんな時期に図書館を利用しているのは、単なる本好きたちである。試験も近くなければ、そうそう図書館なんて来る理由がないという人も多いのだ。
黎明期のヒーローと現代のヒーローの比較というのは、かなり多くの書籍で扱われている。それは法律や経済、国際防衛にも食い込むテーマであり、今でも様々な作家がこぞって書いている。その証拠に、そのブースは棚がまるまる1つ使われていた。
なまえはとある本に目を止めた。どこかで見たことがあるような、ないような。それは、ヒーローに関する法律が制定される以前の自警団がテーマの書籍だった。
どうやらこの本は、自警団のなりたちとその性質、更にそれが現在の形として整備されるまでを扱った本で、表紙にはオールマイトが写っている。どうやらオールマイトを引き合いに出しているらしい。もしかして、既視感はオールマイトの写真のせいだろうか。
「みょうじさん?」
聞き覚えのある声に振り返ると、緑谷だった。彼の視線はなまえの顔から、すぐに手元に移る。なまえが持っている本へ。
「あ、それ、みょうじさんも借りるの?」
「これ?」
「うん。僕それ持ってなくて……」
緑谷は本棚に近寄ってきたが、あいにくなまえの持っている本は一冊限りのようだった。
目に見えて肩を落とす緑谷に、なまえは本を差し出した。
「ええっ、君が先だったでしょ?」
「たまたまオールマイトが出てたから見てただけ」
なまえはその本を緑谷の腕に押し付けると、その隣の本をとった。その本のタイトルは“ヒーロー黎明期にみる正義の在り方”だ。
「こっちの方が書きやすそう」
ね、となまえが笑いかけると、緑谷はわかりやすく顔を真っ赤にして、蚊の鳴くような声で「ありがとう……」と言った。
これで本を借りたら、自習室にでも行こう。そして今日中にレポートを終わらせてしまおう。そう思って緑谷に別れを告げると、なんと彼もそうしようと思っていたという。そういう次第で2人で1年生用の自習室へ行ったが、そこには誰もいなかった。
なまえが適当に窓際のテーブルを選んで座ると、緑谷はぎこちなくなまえの対面に座った。どことなく顔が赤くて、そんなに照れられると逆に笑えてくる。かわいい女の子を目の前にしたような反応を、きっと彼はどんな女の子にもしてしまうのだろう。それだけ彼は照れ屋で初心なのだ。
なまえは本を読みながら、使えそうな場所に付箋を貼った。緑谷もその作業をしている。なまえはただ読んでいるのに飽きて、ちらっと緑谷のほうを見た。すると彼は首をひねりながら読み進めている。
一瞬だけ視線をあげた緑谷と、目が合う。緑谷の顔がじわじわと赤くなっていく様に、ふっとなまえは笑みをこぼした。
「どうしたの?」
「あ、いや……ここのデータなんだけど、別の資料だと違っていたような……」
さすがヒーローオタクだ。
なまえは本を読んで初めて知った知識が多いのに、彼は予備知識のみでレポートくらいはすいすい書けてしまうのではないだろうか。
緑谷が引っかかった場所が気になって身を乗り出すと、彼は親切になまえの方にページを見せ、指をさしてくれた。
その場所は、オールマイトが登場する前と後での犯罪件数の推移、そして法律が制定されてからの犯罪の内訳、起こった場所、などなど統計データがまとまっているページである。
なんか、このページも見たことある気がする。なまえは既視感に首を傾げ、緑谷の指が示す先を見た。犯罪件数の内訳の移り変わりを、棒グラフで示したものである。
「これだと重要犯罪検挙数の増加率と合わないよな……うーん……あっち少し古いし更新されたのかな……いやでも年度同じだしな……」
そんな細かい数字まで覚えているのは驚きだ。彼のヒーロー愛、というかオールマイト愛は賞賛に値する。
ふと、なまえは思い出した。このページ、自分のアパートの部屋で、しかも居間で見たことある。ぼんやりと浮かんでくる過去の記憶を、懸命に思い出そうとした。しかしなかなか出てこない。
「これ何年前の本?」
「これ? 2年前くらいの。このデータは最新だから、3年前くらいのかなあ。まだ統計って更新されてないはずだし」
2年前。なまえが中学2年生のとき。
関数の問題で躓いていたころ。
グラフを思い出した。
「これ、多分警察単独での検挙数が抜かれてるデータだった気がする」
「え?」
緑谷は呆気に取られて、言っている意味がわからないとでも言うように、なまえの方を見た。
思い出した。あれは確か、関数グラフが読めなくて、たまたま来ていたオールマイトが息抜きがてらその本のページを開いて、いろんなグラフを見せてくれた。彼は様々なものを見て数学は楽しいよと伝えたかったそうだが、話が長くなってしまって相澤に宿題をやる時間がなくなると切り上げられた。
けれど、その1週間後のテストでは、関数の問題ではなかったが、オールマイトが教えてくれたグラフと似た資料の読み取りが出て、なまえはそこで満点をとったのだった。
「オールマイトがね、この著者は分析は正しいんだけど、警察への批判がすごいって言ってた。それで大体のデータで警察のみのものは全部抜いて、しかもそれを自分で計算しなおしてるんだって」
そこまですると正確なデータではなくなると彼は嘆いていたが、一方で、純粋にヒーローの活動成績を見るのには適している。なまえは、オールマイトが警察庁から出されているデータも載せれば完璧なのにと言っていたことまで思い出した。
ここのページに嘘は書いていない。グラフのタイトルは、“ヒーロー数とそれに対する犯罪検挙数の内訳と推移”だ。ただ、わかりにくい。この書き方だと、どちらの意味にもとらえられる。
ついつい必要でないことまで話してしまったかもしれない。オールマイトとの思い出が懐かしすぎて。そう思って緑谷の方を見ると、彼は羨望のまなざしを100倍にも強くしたような目で、なまえを見つめていた。
「みょうじさんいいなあ……! オールマイトとそんな話してるの……!?」
そんなキラキラの視線を向けられても、困る。
緑谷の中ではオールマイトはスーパーヒーローで、なまえの中では、家族に似た親しい人だ。緑谷がオールマイトを尊敬するのもわかるし、わからないというのはそれこそこの時代に育った人間ではないだろう。それでも、なまえは羨ましがられても、反応に困ってしまう。
「時間があるときオールマイトに聞いてみたらいいよ。緑谷くんになら教えてくれると思うよ」
そう返すのが精いっぱいで、乗り出した身をもとに戻した。
緑谷はというと、にやにやしながらページを眺めていた。なまえの視線に気付くとはっと表情を引き締めたが、すぐに崩れる。くすくすとなまえが笑うと、決まり悪そうに緑谷は本で顔を隠した。
そのまま本を読みレポートを書き始めたが、どうやら一朝一夕で終わる代物ではなかった。考えていた以上にレポート用紙の空白が埋まらない。なまえだけでなく、あれほどヒーローに詳しい緑谷も同様だ。ミッドナイトの課題は、この時期には著しく不適切だというほかない。
日が暮れて窓からオレンジの光がさしかかったころに、2人ともようやく諦めがついた。明日もレポートの時間をとろう。仕方ない。そのままなまえと緑谷は、一緒に玄関に向かった。窓越しにグラウンドの様子が見える。爆風や何か巨大生物の体の一部、更に宙を飛んでいる学生が見える。1年生は利用を制限されているが、それは3年生のためだ。ならば、あの人たちは上学年だろう。
適当な雑談をしながら階段を下りると、職員室がある。どこの学校も、玄関と職員室は近い位置にあるのだ。そこからがらりと大きな音を立てて、1人の教師が出てきた。
ブラドキングだった。
「お、丁度いい。お前らA組だよな?」
「はい」
「ヒーロー実習の実技試験の日程が決まったから、これ教室に貼っといてくれ」
ブラドキングはA4サイズの紙をなまえに渡すと、頼んだ、と言って職員室の中へ戻っていった。
「あ……忘れてた……しかも明後日」
緑谷は焦った表情で、なまえの持つプリントを覗き込む。そこには端的に、「今週の金曜日に実技試験を行う。落第者は放課後に補修」と印刷されていた。お題などは一切書かれていない。
なまえとしては、ずっと習っていた柔道なので、あまり緊張はしない。しかし緑谷は格闘技自体が初めてだった。試験、と言われて、緊張するのも無理はない。それに彼は組み手があまり得意ではないのだった。
「貼ってくるね。緑谷くん先帰ってていいよ」
「え、僕も行くよ。一緒に帰ろう」
そう言ってから、彼は顔をかすかに赤くした。
「ありがと。じゃあ行こ」
嬉しい申し出をしてくれたので、なまえの口元は緩んだだけだ。
人気のない教室に、オレンジの光が差し込む。卒業、というタイトルで写真に撮ったらぴったりだ。なまえは掲示板のところの画鋲を2つ使って、プリントを貼った。
「……あ、あのさ」
すると、緑谷がもごもごと口ごもる。しばらく待っていると伺うようにこちらに視線を投げかけてきたので、なまえは首をかしげて見せた。そうしたらぱっと目線を逸らされたので、どうやら彼はいろいろ考え事をしているらしい。
「どうしたの?」
「えっと、あのー、その……帰りながらでも……」
尻すぼみになっていく声に、なまえは不審がる。性格がねじ曲がっていない彼のことだ、何か頼み事があるに違いない。そのまま緑谷は本題に移ろうとはせず、とうとう学校のゲートをくぐってしまった。
いよいよ春も終わりをつげ、初夏に向かおうとしている。爽やかな風がなまえと緑谷の横を通りすがって、木々の枝葉を揺らした。東の空は、遠くの建物の輪郭に沿ってうっすら暗みを帯びている。
「……あの、お願い事があります」
「うん、いいよ。私はいつでも」
「何も言ってないよ!」
なまえはくすくす笑って、肩をすぼめた。
「実技試験の前日に一緒に練習しようってことでしょ」
「……ソウデス……」
申し訳なさそうに緑谷は呻いて、真っ赤な顔を隠した。
「いいよ、やろう。私も最近走り込みと筋トレだけだったし流石に飽きた」
「あの……いいの? 体育祭に向けて、とか……」
「いつもとやることあんまり変わんないし。実習の時間も準備に割けるしね。ていうか、実習の時間に柔道できないなら試験は体育祭終わってからでもいいじゃん」
なまえが不満を口にすると、緑谷の表情はちょっとだけほぐれた。
「そんなに気にしなくても大丈夫。1時間くらいでしょ、復習するって言ったって」
「女神……!」
ぶわわっと緑谷の両目から涙が湧き出た。それがおかしくて、しばらくなまえは緑谷が涙をぬぐうのを眺めていたが、思っていたより乱暴に目元を拭っているので、ついハンカチを差し出した。それにも彼はこちらの考えをはるかに超えて喜んだ。
「大げさだなあ。そんなに私のことヤなヤツだと思ってた?」
「あ、いやそうじゃなくて……その、僕、“無個性”だったし、気が弱かったし……あのー、なんていうか……僕なんかに優しくしても何のうまみもないっていうか……かっちゃんの方が輝いてたし、その、ええと」
かっちゃんのほうが。緑谷の台詞は、頼み事をしたときよりも小さく、そして尻すぼみになっていって、最後は何も言い切ることはなかった。けれどそれに対して、なまえの耳にはっきり残る。
緑谷はなまえから受け取ったハンカチを、宝石か何かのように掌に載せている。なまえがそれで目を拭くように言うと、彼はそうっと涙をぬぐった。それでいいのだ、そうしないと明日の朝に目が腫れて、大変なことになる。
「かっちゃん……爆豪くんか。幼馴染なんだっけ」
「うん。何でもできるすごいヤツ。ガキ大将だったよ」
「うわ、すんごいの想像できる」
洗って返すね、緑谷は鞄の中になまえの紺色のハンカチをしまった。いいのに、と言ったが、それでも彼は真面目で、使ったのにそのまま返すことはできないという。なまえが負けて、ハンカチは明日返却という運びになった。
駅が近い。駅の周りは学生向けの安価な食堂が並び、その間にたまにコンビニが見える。疲れた背中のサラリーマンや雄英以外の制服の学生、そしてもちろん雄英の学生が歩いているが、見知った顔はいない。
「緑谷くん、“個性”が発現してなかったんだもんね。でもそんなに喜ばれると、私普段は鬼みたいじゃん」
意味ありげに緑谷に片目をつむって見せた。力を譲渡だとか、そういうワードは人が多い中では禁句である。口元で人差し指を立てると、緑谷は面食らったように顔を赤くして、しかしすぐ正気に戻り、うん、と頷いた。
「鬼だなんて思ってないって!」
「ほんと?」
「ほんとだよ! 体力測定でハンカチ貸してくれたときから優しいなあって思ってたよ!」
「あはは、ありがと」
緑谷は、珍しい人種である。悪意が一切感じられない。ただ胸の中に憧れがあって、こうなりたいという人物が実際にいて、それに向かってわき目もふらず突き進んでいる。けれど、彼は“無個性”だった。ならば、彼はオールマイトに会わなければ、その憧れは夢で終わるものだったのだ。
かっちゃんの方が、輝いてたし。
それは、きっとそういうことなのだ。爆豪のような派手な“個性”は、いわゆる“ヒーロー向き”というやつだ。そしてあふれて余るほどの戦闘センス。輝かしくないわけがない。緑谷はきっと、それをどれも持っていなかった。持っていたのは、熱意と、憧れと、固い意思だったのだ。
そこまで考えいたって、不意になまえは緑谷の顔を見られなくなった。見てはいけないものから顔をそむけるようにして、反対側に視線を逸らした。そこには背の高い街路樹がある。
「? どうかしたの?」
緑谷が尋ねてきても、大丈夫、としか答えられなかった。
どうしても、彼の目を見ることができない。視線を少し落として緑谷の襟元を見るようにしたら、何とか落ち着いた。それでも、体の奥から湧き出す飲み下せない感触の何かは消えない。
前と同じだ。オールマイトに、彼を後継者にした理由を聞いたときと同じ。まったく同じだ。このおもりを抱えるような不快感。
ごまかすようになまえは無理やり微笑んでみた。
「相澤先生、緑谷くんを除籍しなくてほんとよかったよね。未来のスーパーヒーローの実力を見誤るなんてさー」
スーパーヒーロー。それはオールマイトにメディアが好んで使う形容詞だ。そのことを知らない緑谷でもなまえでもない。なまえは今、間違いなく、意図的に緑谷のことを“スーパーヒーロー”と呼んだ。
「あの、いつも思うんだけど、みょうじさん僕のこと持ち上げすぎじゃない……?」
「持ち上げてない。率直な感想」
「余計たち悪い……!」
私は、こうやって、彼と面と向かったときに、ごまかす癖がある。彼がほめられ慣れていないと知っていて、こうやって煙に巻く癖が。
何でだろう。初対面のときも、こんな感じだった。どうしてだろう? 緑谷の顔を見ると胸の中がざわめく。嵐の前の、不吉な強風のように。視界の中にかろうじて入る彼の頬が赤くなっていることはわかるが、それ以上は見られない。
その答えは自分の心の内をどう探しても見つけることができなかった。
そのまま2人はなんでもない会話をしながら電車に乗り、緑谷は別の路線に乗り継ぎだということで、電車の出口付近で別れた。そのころにはなまえは緑谷の顔を見られるようになっていた。結局先ほどの、言い知れない感情は発作的で、出所もよくわからない。
そのことをぐるぐると考えていたからか、なまえは普段は絶対しないような、聞き漏らしをした。
「秘密……」
緑谷が、電車のドアが閉まる直前に、耐えかねたようにぼろっとこぼしてしまったその言葉は、むなしく自動扉の開閉音にかき消され、なまえの耳に届くことはなかった。
試しに緑谷はドア越しになまえに手を振ってみた。そうしたらなまえもふり返してきたので、いつまでも熱い耳は、更に熱くなる。なまえの乗った電車は、徐々に速度をあげ、彼女の姿はすぐに見えなくなった。
緑谷は何かを隠すように、その場を急いで走り去った。誰も見ていないことはわかっている。隠したいものがあったわけでもない。はたから見たら、何か違法なものでも運んでいそうな動きであっただけ。
見とがめるものも、ことも、やましいことなんて何もないはずなのに。
