英雄譚エルダー・エッダ
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18
その夜、白いベッドの上で、夢を見た。昔の話だ。夢と言うより、過去に起きたことと言った方が正しい。どうして最近、こんなに昔のことを思い出すのだろう。
病室の外で、誰かの声と、何かの機械音が聞こえてきて、廊下から蛍光灯の灯が入り込んできて、がらがら、と何かが移動する音が、眠りの直前の現実だった。
眠りが浅くなったのは、昨日よりも体が回復したからだと思う。
*
「おかえり……」
玄関の扉が開いた音がして、なまえは振り返った。宿題は居間でする習慣がついている。このぼろアパートは、冬の寒さが堪える。居間は家の中で一番暖房器具がそろっている場所だ。今日の宿題は難航していた。小学5年生、終盤の宿題。困る人は困る、“将来の夢”。普通の子は、“ヒーロー”の一言で済むのだろうけど。
オールマイトのことを思い出すと、書く気にはなれなかった。
居間と廊下を分けるドアが、きいっと音を立てて開く。ひゅうっと外気と同じ気温の空気が入り込んできた。その冷えた空気を気持ちいいと感じたら部屋を暖めすぎだが、なまえの神経はそんなところへ反応しなかった。目の前の事実が衝撃的だと、それ以外のことには反応が鈍るいい例である。
「ただいま。悪いな、こんな格好で」
「……え、いや、あ、あの、病院行かなきゃ……!」
「もう行ってきたから」
バランスを崩しながらよろよろと駆けよってくるなまえ。相澤はその頭を、動く方の左手で撫でる。
普段より遅い帰宅の相澤は、頭に包帯ぐるぐる巻き、その上右手を三角巾で吊って帰ってきた。左目がガーゼで覆われている。
こんなの大怪我だ。入院はしないくていいのだろうか。
「おい。宿題は終わってるのか。夕飯は買ってきたから__」
「なんでこんなに怪我してるの!?」
なまえは身を乗り出して、相澤の言葉を遮った。がさ、と相澤は腕にかけたビニール袋を落とす。無事な右目が見開かれている。
なまえは、自分が泣きそうな自覚があった。必死で涙をこらえている。ただでさえ、相澤は全身に怪我を負っている。これ以上、相澤に負担はかけたくない。だから、泣きそうだけど、泣きたくない。
「……どうした」
いつも通りの声、普段通りの頭の撫で方。それがなまえの不安をあおる。
2年前、オールマイトが大怪我を負って、この家に逃げ込んできた。そのときオールマイトは、ただただ痛みに呻いていて、今の相澤とは全然違う。あの死のにおい立ち上る体とは、現状はだいぶかけ離れていたが、それだけではなまえの安心材料にはならなかった。
なんでこんなにひどい状態なのに、相澤は変わらないんだろう。この怪我が、普段と変わらないからだろうか。
ぽんぽん、と相澤はなまえの頭をやさしく撫でながら、居間のソファへ引っ張った。なまえは泣くまいと唇を噛んでいた。相澤はどっしりとソファに座り込み、隣をとんとんと叩く。なまえは大人しく相澤の横に腰を下ろした。こういうときに意地を張っても、相澤は何も教えてくれない。
「これでも、ヒーローなんでな」
「……知ってるよ。イレイザーヘッド」
「相手する人数が多かったんだ」
ぽんぽん、とまた相澤はなまえの頭を撫でる。
なまえは顔を見られたくなくてうつむく。
「俺の“抹消”はもともと体に変化がある“個性”には効かないだろ。そういう敵ばっかりだったんだ。だから、こうなったわけだな」
「こう、って」
「要するに、適材適所の間違い。俺の判断ミスだよ」
そんなこと言ったって、なまえの涙は引っ込まない。頭にのる相澤の手は、慰めるようになまえから離れなくて、じんわりあたたかい。でもきっと、その手も傷だらけなのだ。
「飯食えるか」
「……消太さんは」
「腹減ったよ。用意するから、一緒に食おう」
「はい」
聞き分けよくなまえは頷いた。
これ以上相澤を問い詰めても、これ以上の真実は出てこない。淡々と話した相澤が、嘘をついているとは思えなかった。既に病院で治療済みで、そこで入院にならなくて、家に帰ってきているのだ。相澤は無事に帰ってきた。それだけのことだ。怪我の原因も教えてくれた。買い物できるくらいの元気もある。なまえが何を言っても、それが現実で、相澤のヒーロー業の結果に過ぎない。
しかし、ずしんと重い不安がなまえの胸を渦巻く。頭では分かっているのに。
消太さんが、怪我をした。
それ以上の恐怖がある。怪我とは、死に連なるものである。そこからくる恐怖だ。
消太さんが死んじゃったら、どうしよう。
自分が暗闇に吸い込まれていくような不安。かつて、オールマイトが大怪我を負ったときに全身を飲み込んだ予感と似ている。人は、死んだらいなくなってしまう。当たり前の事実が、ただなまえは怖かった。
ローテーブル上の宿題、“将来の夢”を、相澤に見られないうちにひっくり返した。利き手の使えない相澤に夕食の準備を任せるわけにはいかない。相澤が左手だけでビニール袋の中身を出している。なまえは背中を追って、キッチンに入り込んだ。
相澤は、またなまえの頭を撫でてくれた。
*
余りにもはっきりと目が覚めて、朝かと思ったが、カーテンの向こうはまだ暗い。携帯端末の画面を開くと眩しさに目がくらんだ。薄目でようやく待ち受けを表示させると、03:29だった。まだ夜、寝ないと、明日起きられない。
目を閉じても、なんだかふわふわする。
夢の中で相澤に撫でられた感触が、なんだか生々しかった。恋しいのかな、と独り言ちて、寝返りを打つ。窓側を見つめて、白い壁と、薄いカーテン、備え付けの茶色の棚を最後に暗闇の世界へ戻る。
もう怪我してこないでほしい、と願ったのは、いつぶりだろうか。
