英雄譚エルダー・エッダ
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15
なまえの体が吹き飛ばされたのだった。
重い痛みが、半身からぶわっと体中を覆う。先ほど空から落下した速度とは比べ物にならないほど、なまえの顔を鋭い風が切り裂き、低空で体が滑空する。考える間もなく、コンクリートの硬さがダイレクトに体を貫き、呼吸が止まった。背骨を伝って、頭蓋骨が震え、その中の脳を揺らす。背中の激痛が腹部までも伝導した。ずるずるずる、と衝突した壁をずり落ちて、地面に横たわる。なまえは痛みに耐えるために体を丸めてしまった。
「なまえ!」
遠くのどこかで、相澤の声がする。
……追撃はこない。
それに気付いたのは、痛みが多少過ぎ去って、耐えられる程になってからだった。手をついてなんとか上半身を起こすと、遠くに不気味な怪物の横顔がまず目に入る。得体のしれないそれが乗っているのは、黒い服の人、相澤だ。太くて黒い腕から、別の腕がぷらんとぶら下がっている。そして、相澤の頭を、怪物はコンクリートに打ちつける。
「しょ、た、さん、」
口の端から、熱い液体がこぼれた。
初めて経験する類の感情。それだけで痛みをうち消せるほど。なまえは体が軋む感触もわからなくなり、ゆらりと立ち上がった。走り出そうとしたが、前に躓く。
もう痛くないのに、なんで、まっすぐがわからないの。
再び立ち上がろうとするとき、黒い姿が横切る。動くものになまえは視線を奪われた。不思議と注目を集める存在の、恐怖。
手男が、池にいるクラスメイトの頭を、つかんでいる。それとは別に、ごづん、とコンクリートと骨がぶつかる音がする。
「だ、め」
襲いかかられる峰田。蛙吹。緑谷。彼らと言葉を交わした瞬間が、脳裏に蘇った。握手を求めてくれた峰田。大丈夫? と話しかけてくれた蛙吹。自分を真っ直ぐ見つめて、笑ってくれた緑谷。次に、何故だろう、彼ら3人の死に顔が、ぼんやりと目の裏で形になっていく。
相澤から黒い怪物が離れ、それは巨体からは考えられない速度で、クラスメイトの3人に迫る。
「だめ、だめだ」
独り言だった。
なまえは、手をコンクリートにつけた。ひやり、とした温度が、熱を持った体にしみた。
ばきん、と音を立てて、コンクリートが左右に割れる。大きな裂け目だ。裂け目の縁がとがって、まるで大自然にそびえる岩である。
ばきんばきんばきん!
裂け目は、目にも止まらぬ速さで成長した。その端が、クラスメイトと敵の間に割り込む。がこん! と最後の威嚇を終えたなまえの“個性”は、今まで緑谷たちがいた池を、岸から大きく切り離していた。水が滝のように裂け目に流れていく。
怪物が、なまえのほうを向いた。そのまま、黒い足が、コンクリートを離れ、まっすぐこちらにむかって__
「私が来た!」
その声は、出口のないトンネルから見えた、太陽の光のようだった。
なまえは、ようやく自分の足で立てた。その状態で見たのは、異次元のスピードで敵の間を駆け抜けるヒーロー。なまえは頭がぐらっと揺れるのを感じ、唇をかんで耐える。怪物が弱っていたなまえをしとめるより先に、なまえの体は筋骨たくましい腕に抱きとめられた。
「オールマイト……」
「君も相澤くんもなんて怪我だ……!」
なまえは、相澤の隣にやさしく下ろされた。前には、オールマイトの広い背中。なんとか自分1人で座れたが、背中に優しく手を添えてくれる誰かがいた。懸命に振り返ると、蛙吹だった。
「皆、入口へ」
オールマイトの声は、優しくて、たくましくて、そして余裕がない。なまえの視界はまだ回転している。
「相澤くんを頼んだ。意識がない、早く!」
その声を聴くと、不思議となまえの頭の中は少しだけ晴れる。そのまま横たわっている相澤の肩をつかもうとしたが、うまく手が伸ばせない。何度か空をかすっていると、ぱっと横から手をつかまれた。
「先生は息があるわ。大丈夫よ」
優しく諭されるような声だ。立てる? と聞かれてなまえは頷く。蛙吹はなまえの肩に自分の腕を回し、更に腕を自分の肩にひっかけた。蛙吹はなまえが思いの外しっかり歩けているのに驚いたようで、逆に心配される。
そう。私は丈夫。実力はヒーローには決して及ばないけれど、少なくとも体は頑丈。
だから、大丈夫。
背後では、オールマイトが脳男と殴り合い、それから上手に立ち回ってその太い胴を抱えて、そのままうしろへ上半身を反り返らせた。大きな衝撃がUSJの床を貫く。オールマイトの途方もないパワーは敵を圧倒するに違いない。けれど、敵は彼を殺しに来ている。相澤はターゲットではないのに殺されかけた。
オールマイト。死なないで。
あんな顔を見るなんて、二度とごめんだ。
またご飯食べに来て。
なまえは蛙吹の手を振り払った。立てる。走れる。大丈夫。まだ視界は回転しているが、方向がわからないわけじゃない。
砂埃が晴れると、オールマイトが反り返る格好で、わき腹を刺されていた。わき腹を刺していたのは、黒い脳男の爪。
「としのりさん……!」
彼の本名は、八木俊典。このあいだ家に来たとき、なぜなのかはわからないが、名前で呼んでほしそうだった。彼は、自分のことを家族のように思ってくれているのだ。血なんか、繋がっていないのに。家族が、家の中で、ヒーローネームを呼ぶのはおかしいだろう。
目の前にぶわっと大きな黒いもやが広がった。同じ手は食うもんか。なまえは急ブレーキをかけて、後ろに跳ぶ、ふりをした。もやはなまえの動きに騙され、宙にごぅっと勢いよく突き抜ける。なまえはもやの下を潜り抜け、オールマイトの位置を確かめた。自分の“個性”の発動範囲にいる。地に手をついた。
『脳無にダメージを与えたいなら、ゆうっくりと肉をえぐり取るとかが効果的だね……』
主犯の手男の声は小さい。けれど、さきほどの高ぶったような声は、なまえには聞き取れた。おそらく、なまえも興奮して五感が過敏になっている。目の前で保護者がなぶられて、冷静でいられるわけがない。今の自分はきっと超音波も聞き分けられる。そんな気がする。
すぐ後ろで爆風が吹き荒れた。体が前に放り出されそうだったが、根性で耐える。それと同時になまえの“個性”が発生した。
がっこん。鈍い音がして、ゆるゆるとUSJのコンクリートの床が溶けていく。脳男のすぐ横の床だ。たぷたぷと灰色の液体が揺れたかと思うと、まるで意思をもっているかのようにぐわりと脳男の腕を覆う。腕に噛みついた液状のコンクリートは徐々に固まっていき、みちみちと気味の悪い音を立て始めた。ぷしゅっと黒い腕から真っ赤な血が噴き出る。
コンクリートは、ほぼ無尽蔵だ。脳男の腕を締め付けてへし折るのには、十分すぎる。
なまえと反対側で、ぱきぱきと聞き覚えのある音がする。脳男の半身が白い氷に覆われていった。
なまえのコンクリートはさらに怪物の腕に食い込み、ほとんど半周を押し潰している。ぶしゅっと血が何本も噴水のように噴出し、もう少しで骨に届くはずだ。みしみしと固いものが歪んでいく音がする。ある程度までダメージを与えられれば、なまえでもその腕をへし折れる。もしくは、オールマイトが脱出できる。
脳男の手が緩まった。凍った腕も、折られる寸前の腕も。その隙をついてオールマイトは怪物の拘束から逃れた。
オールマイトは刺されたわき腹をかばいながら、なまえの目の前に立っていた。
「まったく……脳震盪だろうに無理をして」
「……人のこと言えますか?」
なまえはほんの小声で言いかえすと、オールマイトの背中から出た。爆豪は黒霧と名乗ったもや男を拘束したままだ。
「脳無、爆発小僧をやっつけろ。出入り口の奪還だ」
主犯格の男が脳無と呼ばれた怪物に指示を出すと、怪物は凍った体とちぎれかけた腕をものともせず、起き上がった。もはや血の通わない体を崩し、コンクリートにつぶされた腕を食いちぎり、その傷からはもこもこと筋組織が盛り上がっている。
「みんな下がれ! なんだ!? ショック吸収の“個性”じゃないのか!?」
オールマイトが焦ったようになまえたちをかばう。親玉はそれを楽しんでいるかのようにせせら笑い、自慢げに脳無の能力を話した。
「別にそれだけとは言ってないだろう。これは“超再生”だな」
そうこうしているうちに、脳無の体は腕の形に筋肉が再生し、その上を黒い皮膚が覆っていく。回復しきらないうちに脳無は床を蹴った。
目では何とか追えた。けれど、目から神経信号が脳に伝わり、そこから体が動くまでに、脳無は爆豪に迫る。
がっくん、となまえの体が激しく揺れて、次の瞬間には床に下ろされていた。衝撃で再び頭がぐるぐると揺れている。ぐわんぐわんと回る光景の中、オールマイトが脳無にパンチを食らわせているのがおぼろげに見えた。
オールマイトが死んじゃう。助けなきゃ。
そう思っても、今度こそなまえの体は動かなかった。脳無の攻撃で吹き飛ばされないように守ってくれたとき、彼はよほど余裕がなかったのだ。相澤と一緒に助けられたときは、まだ怪我を負っていなかったから、脳震盪を悪化させないように運んでくれただけで。
オールマイトは、もう限界が近い。
巨体同士がぶつかり合うと、凄まじい爆風が吹きあがって、なまえの体が浮いた。ぱしっとスーツの腰のパーツを掴んでくれたのは誰だろう。なまえは確認する時間も惜しく、オールマイトから目が離せない。
オールマイトのスーパーパワーは、脳無のショック吸収に打ち勝った。脳無が腹に強烈な一撃を食らって、彗星のようにUSJの天井を突き破って巨体は飛んでいった。もうもうと砂埃が舞い上がるが、よく見るとオールマイトの体からも煙のようなものが出ている。
脳無が負けても、親玉たちは諦めなかった。その場を立ち去ろうとしなかった。
オールマイトは限界なのに。
なまえは立ち上がろうとしたが、まったく力が入らない。こんなときに、なんて都合の悪い体だ。戻ってこい、さっきの力。まだ私は限界じゃない。黙ってオールマイトがやられるのを見てろっていうのか。
「死なせない……!」
多分、言葉に出していた。それをただひたすら思っていたのは間違いない。でも、もう遂行する力がない。腕で必死に上半身を持ち上げるが、すぐに関節が折れる。膝が立たない。頭があげられない。目に入った地面がぐるぐると回りだす。
次の瞬間、なまえの隣で、つむじ風が巻き起こった。
ぐるぐる揺れる視界に突然飛び込んできたのは、青と白と赤、三色の雄英ジャージ。緑谷だ。その雄姿にも、無慈悲に手男の血色の悪い手が、ワープゲートを通じて迫る。
しかし、悲劇は起こらなかった。崩壊の呪いを持つ手に、鮮やかに弾丸が食い込んだのだ。
「1-Aクラス委員長飯田天哉!! ただいま戻りました!!」
その一言で、USJ内の空気が一変した。声のした方には、飯田がいて、その後ろには、雄英の教師が勢ぞろいしていたのである。
プロヒーローたちの一斉攻撃に作戦失敗を悟った黒霧とその親玉は、現れたときと同じように、その場にブラックホールをつくり、中へ掻き消えるように入っていった。残ったのは、黒いもやの残渣と、ぼろぼろに壊されたUSJ。それに、生きたオールマイト。
1拍置いて、生徒たちは状況を飲み込んだ。もう敵のボスはいない。安堵で一瞬呆けたが、次々と我に返る。真っ先に動き出したのは、傷ついた仲間や教師の安否を確認するため。
なまえはというと、集中がきれ、頭痛と激しいめまいに襲われた。無理が祟ったのかもしれない。しかし、最後の仕事が残っている。
「緑谷ぁ! 大丈夫か!?」
緑谷のほうへ駆け寄ろうとする切島。その心意気は素晴らしいし、思いやり深い。だが今はそちらに行ってはいけないのだ。その証拠に、セメントスの“個性”で、オールマイトと緑谷のいるところに大きな壁ができた。
なまえはうずくまったまま、切島のブーツを捕まえる。
「うおっ! みょうじ!?」
「ご、めん、切島くん、たて、ない」
切島は前につんのめりそうだったが別段怒ることもなく、なまえの前にかがみこんだ。
「おいみょうじ、よく見たら顔色やべーじゃねえか。運んで……いや、支えてやるから立てるか?」
「ありがと……」
切島はなまえの肩に手を回すと、慎重に立ち上がった。なんとか立てたなまえは、切島の誘導に従い、ゆっくりゲートまで歩いていく。足取りがふらふらとおぼつかなかったが、轟や爆豪は先にさっさと行ってしまい、結局切島1人がなまえを運んでくれたのだった。
ぼやける視界の隅で、セメントスが深い微笑みでこちらにわかりづらくサムズアップをしていたのを、なまえはしっかり見ていた。
その後、救急車の対応をしてくれたのもセメントスで、そのときも「さすがの機転だったね」と褒められた上で無理しすぎだと散々叱られたのは、言うまでもない。
