英雄譚エルダー・エッダ
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
13
__久しぶりに、嫌な夢を見た。
理由は分からない。しいて言えば、この間、オールマイトと一緒に夕ご飯を食べたから。
ずっと前のことだと思っていたのに、夢だというのに、妙に生々しかった。
もう、6年も前のことなのに。
手の中に甦ってくる、あの冷たい感触。飲み込まれるような恐怖。オールマイトがいなくなってしまうという、事実。
普段よりも早く目が覚めてしまって、薄い夜明けが、かろうじて、あれは過去なのだと教えてくれるようだった。涼しいを通り越して、部屋の気温は寒かった。
オールマイトは生きている。それが事実だ。
あんなことがあっても、今、あの人は生きている。それでいいじゃないか。
それでいいはずなのに、胸がしくしく痛くて、安全地帯のはずの自分の布団から抜け出したくなった。
これが週の始まりなんて、最悪だ。
*
曇りの夜だ。居間の窓のカーテンを閉めるのを忘れていて、座布団に座って本を読んでいたら、暗くなっていた。ふっと時計を見たら、夜中の11時。そう言えば、何となくまぶたが重い気がする。ごしごしと目を擦って、体を持ち上げた。部屋の中から夜空を見上げても、何も光っていなかったから、どんよりとした灰色雲が凝縮したような濃紺に紛れて漂っているのだと思った。
あまりいい気分になれる日ではない。
なまえは伸びをして、カーテンを雑にしゃっと閉めると、座布団の上に置いた布団を持って寝室に向かう。寝室にはあらかじめ布団を敷いておいたので、あとは寝るだけ。明日は土曜日だ。図書館に行ってから散歩をする予定を立てていたので、これ以上夜更かしは止めることにする。
電気を消そうと手を上に伸ばした時だった。外から、人の話し声のような音が聞こえる。低い声と、高い声がそれぞれいくつか。一人ではなさそうだった。壁の薄っぺらい築数十年のアパートだ。奥の寝室にいても外の音は伝わってくる。
なまえが相澤と住んでいるアパートはヒーロー専用無料宿泊施設だから誰が来てもおかしくはないが、ここのボロさと管理の甘さに、半年に一度誰か来るかどうかの場所だ。第一、ヒーローは宿泊先をあらかじめ決めておくことが多いのだ。ここに来るのは、全く無名の貧乏ヒーローかすさまじい節約家ヒーロー、もしくは何かしら重大な事情を抱えるヒーローの三つの場合が多い。なまえは全てのパターンに遭遇したことがある.
どれも自分には直接関係しない話だ。なまえは蛍光灯の紐を引っ張って、電気を完全に消した。手探りで掛布団をめくり、中にもぐりこむ。なまえは丸まって寝るのが好きだった。膝を折って、目を閉じる。
外の声が段々大きくなってくる。保護者の相澤は、仕事で今日は来られないと言っていた。その友人も相澤が何か言わないと来ないし、なまえには前もって誰かしらは何か言う。だったら、この大所帯っぽい人たちは誰なのだろう。このボロアパートにとっては珍客だ。
視界が遮られると聴覚が敏感になる。それまではただのもやだったのが、浮き出るように、少しずつ形がはっきりしていく。次第に、音ではなくて、言葉に変わっていく。不鮮明だった声音も、特徴が見えてくる。
重たく落ちたうなり。静かに沸騰した叫び。ずるずると何かを引きずるような音と、それに覆われている弱った低い声。
ぱっとなまえは目を開けた。知らない声たちの奥に微かに聞こえた、記憶にある声。それが、ほふく前進でもしているかのように、ゆっくりと、低く、聞こえた。
普段、そんな声を出す人ではない。だが、声色と、呻きを一旦切るときの音の特徴、すべてその人のものだ。
しばしなまえの頭に、様々な思考が行きかう。もしも不審者だったら、だが、本当に自分が知っているあの人だったら。聞いて聞かぬふりをするか、勇気を出して真相を確かめに行くか。
なまえは起き上がった。ドアには、郵便入れがある。そこから外を覗こう。知らない人なら、そっと戻ってこよう。知っている人なら、その時考えよう。
足音をひそめて部屋から出る。ひやりと板張りの廊下が足の裏に冷たい。さらに、切れ切れに外の会話が聞こえた。
「はやく! ……!」
「うっ……!」
なまえの体は反応した。その声は、間違いない。郵便受けから外を覗くこともなく、そして靴も履かずに、玄関に急いで下りて鍵を開け、ドアを乱暴に押し開けた。
「オールマイト……?」
その場にいた人は、5人。うち一人は大けがをしていて、左右から支えられていた。その大怪我をしている人は、まぎれもなく、なまえがドア越しに聞いた声の持ち主だった。
金髪と、普段よりも縮んだ体。筋骨隆々の体躯は、なまえの記憶にあるものより小さい。その胴体は血まみれで、逞しい笑顔が消え去った口元からは赤黒い血がどろどろと垂れていた。その目は閉じられていて、彼の動いているところと言えば、呼吸に合わせてほんの少しだけ上下する胸だけだった。拍動とともに、どくどくと血が滴り落ちている。
「ゆきさん、」
相澤の先輩。自分の面倒を見に来てくれるお姉さん。優しくて、ちょっと怖くて、ちょっとワガママな。なまえの家の玄関の明かりが、こうこうと彼らを照らす。水滴が落ちるような、そして乾いたような音が、由希の舌打ちだと気付いたのは、もう少しあとだった。
「仕方ない。なまえちゃん、家借りるわよ」
「でっ、ですが……!」
「いいから。なまえちゃん。オールマイトは死なないわ。私が助けるもの。だから、大声出さないで」
初めて、そんな厳しい由希の顔を見た。彼女の白衣はどす黒かった。顔中に切り傷があった。よく見たら、オールマイトの他にも、足を引きずっていたり、腕を押さえていたり、皆どこかしら怪我を負っているようだった。血まみれの彼らは、必死になまえの家の中に入ってきて、玄関の僅かな段差でさえも断崖絶壁を上るかのように苦しみ、よたよたと居間に入っていった。
なまえは、動けなかった。よろよろと廊下の端によって、壁にもたれかかって、そのままずるずると下に落ちた。居間のほうからは、切羽詰まった由希の声が聞こえた。その意味は、なまえには聞き取れなかった。玄関には、血の跡が残った。居間から差す明かりに薄っすら浮かぶ、暗い暗い、模様。
そのうちがくがくと体が震え出し、目の奥からじわじわと涙が染み出て来た。その場から動けずにいると、正面から毛布を掛けられ、ぎゅっと抱きしめられた。
「……ごめんね、巻き込んで。怖いよね。でも、お願い、泣かないで」
なまえとは初対面の声だった。なまえは僅かに首を縦に振った。
オールマイトは、なまえを見てくれなかった。落ちくぼんだ目が、虚ろで、体の力が完全に抜けていた。
これが、“死”だ。本でしか読んだことがない。初めてなのに、なまえはそれを悟った。人が消えゆく寸前の姿だ。2度と会話はできない。2度と笑いかけてくれない。もう会えない。涙があふれて止まらない。こんなのひどい。オールマイトを奪うの、最低だ。
オールマイト、死なないで。
なまえは抱きしめる女の人の腕を抜け、制止を振り切って居間に飛び込んだ。ちゃぶ台が隅にどかされて、テレビの前にオールマイトが横たわっている。その隣で由希が手袋をして、注射針をオールマイトの腕に刺していた。オールマイトを挟んで反対に膝立ちしている男性が、点滴バッグを持っている。
男性が、由希より先になまえに気付いて、突進さながらに迫ってくる小さな体を遮った。
「こらっ……」
「オールマイト!」
「なまえちゃん?」
由希はオールマイトの前腕に針を刺し終わると、なまえの方を振り返った。なまえは由希にかまわないで、オールマイトのそばに寄ろうとした。しかし、太い腕に制止され、それ以上近付けない。
「オールマイト、死なないで……!」
意図的に声が小さくなったわけではない。泣きながらしゃべると、声が上ずって、消えてしまうのだ。
「死なないでっ……!」
オールマイトの腹部は、黒々と固まっている。それが血であることは、なまえには分からなかった。でも、名前を呼んで返事もしない彼が、なまえに絶望を突き付けた。ぴくり、と震える細い腕は、なまえの知らないオールマイトだ。
このまま、オールマイトが消えてしまうなんて、信じられなかった。嘘だと思った。
いつでも笑顔で家にやってきて、抱き上げてくれると思った。優しい声で“いい子だね”と言ってくれると思った。オールマイトが、なまえの日常から消えてしまうなんて、あり得ないと思った。
けれど、それは違う。オールマイトは、命を投げ出して戦うヒーローだった。それを、こんな形で顔面に叩きつけられるとは思っていなかった。
「オールマイト!!」
由希は、半狂乱になっているなまえの肩に手を置いた。
「救急車がもうすぐ来る。大丈夫だから、落ち着きなさい」
こんな状態で、何が大丈夫なの? なまえはそのようなことを訴えた気がするが、由希はそれ以上言葉を続けず、過呼吸を起こしかけるなまえの背中をさすった。そして由希の言った通り、数分後に救急隊員が到着した。なまえは泣きじゃくりながら、自分も連れてって、と救急隊員が憐れむほどにお願いしたが、由希は頑として頷かず、なまえを1人残して部屋を引き上げていった。
暗くなった部屋に、ぽつり、と1人残されたなまえ。
オールマイトが、この世界からいなくなってしまうのが、怖い。家に来てくれなくなるのが、怖い。遊べなくなるのが、怖い。話せなくなってしまうのが、怖い。
怖くてたまらない。
翌日、なまえは一睡もできずに、居間で朝を迎えた。そして、顔にばんそうこうをたくさん貼り付けた由希が、昼過ぎにやってきた。彼女から、“オールマイトは一命をとりとめた”と聞いた。会いに行きたいと騒いだが、由希は首を横に振るばかりだった。
その日の夜、相澤が来た。由希から話を聞いたのだという。なまえは、相澤に無理やり食事を食べさせられて、無理やり風呂に突っ込まれ、無理やり布団に押し込まれた。
次の日、日曜日。なまえは居間から離れられなかった。相澤の姿が見えなくなると、耐えがたい不安に襲われた。
その次の日、月曜日。体を引きずって学校へ行った。相澤に心配をかけないように。心配をかけていると、オールマイトの容態を教えてくれないと思った。
週末、オールマイトが無事に退院したと、由希が電話で教えてくれた。ようやく、生きた心地がした。
その日の夕方、オールマイトはなまえの家を訪ねてきてくれた。なまえはやせ細ったオールマイトの胸に飛び込んで、震えて泣いた。
失うのは、嫌だと思った。この人は、なんで大怪我しなくてはいけないのだろうと考えた。テレビでオールマイトを見かけたときに、結論が出た。
オールマイトが、ヒーローだからだと。
14/14ページ