英雄譚エルダー・エッダ
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10
次の日、ルーティーンのように朝の道で飯田に会い、昼はいつもの4人で食べて、一日が終わった。今日のなまえの夕食は、昨日の残りだ。そういうわけで、なまえは麗日と一緒には帰らず、玄関に向かう生徒の流れに逆らって、1人で更衣室に向かったのである。
体操着に着替えて、向かった先は武道館。中には、先客がいた。努力家の緑谷。なまえは少しためらいがちに、引き戸をあけた。すると、突然の訪問客に驚いた緑谷が、畳に寝そべったままの体勢でこちらを見上げた。
「みょうじさん?」
「私も、練習したくなって」
なまえが少し肩をすくめて見せると、緑谷はぱっと身を起こして、照れたように笑った。
本当に簡単なことだったのだ。なんて自分の頭は固いのか。コミュニケーションが下手すぎる。恥ずかしくなって、ごまかすために腕に爪を立てた。
なまえが準備運動をしていると、緑谷は受け身の練習を繰り返した。5回に1回くらいの割合で失敗している。それじゃ、腕をだめにするよ。なまえは思い切って、ねえ、と声をかけた。
「あのね、前にまわるときに腕が伸びっぱなしになってる。それだと痛いよ」
「えっ、ほんと?」
どうやら彼は、反復練習のし過ぎでゲシュタルト崩壊を起こしているようである。私が見てるからやってみて、と言うと、緑谷の悪癖は治っていた。
「ほんとだ。さっきより痛くない」
「うん。よかった」
なまえは言いたいことがようやく言えて、ほっとした。このままだと、彼の体にガタがきていた。未来のヒーローをそんな目に合わせるわけにはいかない。それに、彼に教えたのは自分である。緑谷がこの練習中に怪我をしたら、それは自分のせいだ。
「指摘してもらわないとわかんないね。ありがとう、みょうじさん」
緑谷は、さわやかに笑う。なまえもつられて笑った。
「そうだね。カメラかなんかまわしとけるといいんだけどね」
「持ってないなー」
それから緑谷は一通り受け身の練習をなまえに見てもらった。緑谷はずいぶん素直で、先生が気をつけろと言ったところは非常にきれいにできていた。なまえが指摘するようなところは、1,2か所だけだった。
せっかく2人いるから、となまえは緑谷に組み手を提案した。なまえが技をかけるので、緑谷は受け身をとる。どうせ最後に柔道の試験として課されるのは、こういう形式だろう。今からその対策をしてもいいと思う。それに、柔道はヒーローを目指すうえでの一種の手段で、そればかり極めても仕方ない。柔道実習の意義は、相手からのダメージを最小限に抑えることにある。
緑谷がお願いします、と言ったので、なまえは緑谷の前に立った。ちょうど腕の長さ分の距離だ。ジャージの襟元と腕をお互いにつかみあう。緑谷は真剣な面持ちである。
「いくよ」
「うん」
なまえは緑谷が落ち着いたのを確認して、自分も一呼吸置いた。緑谷の重心の足をみてとると、その足首に自分の足を添えた。緑谷が反応しきる前に、素早く緑谷の体をつりあげ、緑谷の足首にあてた自分の足を軸に、彼の体をくるりとまわした。
ばんっ! 強烈な音が武道館に響く。緑谷は不格好ながらも、無事に受け身をとれたのだった。緑谷はかたい表情のまま、肩で息をしている。なまえは緑谷を畳に押し付けたままの体勢で、にっと笑った。
「できてたよ」
「やっ、やった!」
緑谷の表情が崩れた。と思ったら、すぐにまたかたくなって、次第に血色がよくなった。顔を赤くしているのか、となまえが気づくころには、湯気でも出そうなくらい真っ赤になっていて、なまえはごめん、と謝りながら、ぱっと身を起こした。
「ごめんね、立てる?」
「う、うん……こっちこそ、真剣に指導してくれてるのにごめん……」
緑谷は起き上がると、腕でごしごしと自分の顔をこすった。すれて赤くなった頬をかばうことなく、真剣な表情に戻って、組み手の構えをした。
「自分の練習が形になったのが、気持ちよかった。だから、もう一回お願いします!」
なまえもきゅっと唇を引き結び、お願いします、と張りつめた声で応えた。
何度か技をかけ、ついでに受け身だけでは退屈するであろう緑谷に技を教え、気づいたら1時間過ぎていた。動きっぱなしで軽く汗をかいたなまえは、ジャージの襟を引っ張って首をぬぐった。曇りガラスの外側で夜が訪れるのをちらと見て、今日はこのくらいでいいんじゃないか、と言おうとしたときだった。
「ここにいたのか、なまえ君……」
がらり、と武道館の扉を開けて入ってきたのは、筋骨隆々のスーパーヒーロー。なまえの姿を見て困ったような顔をしたが、隣にいる緑谷を見て、さらに参ったような顔をした。
「おっ、オールマイト!? 今日は“ヨルネルラジオ”にゲストとして出演するはずじゃ……」
「ンンンンよく知ってるね、緑谷少年。そんなローカル放送までおさえているとは」
なまえは、携帯端末を更衣室に置いてきたことを思い出して、心の中でオールマイトに謝った。オールマイトはどう切り出そうか迷っているようで、なまえはちらっと緑谷を見やった。緑谷の表情からはさきほどまでの疲れは吹っ飛んでおり、見たことのないような、それはもう嬉しそうな顔だった。何ならエフェクトでキラキラがついていてもおかしくない。
「すいません、オールマイト。職員室からの呼び出しがあったの、すっかり忘れてました」
「そ、そうそう。それではみょうじ少女、行こうか」
すまないね、緑谷少年。とオールマイトが声をかけると、緑谷は姿勢を正して、はいっと威勢よく言った。
「ごめん、緑谷くん。最後までいられなくて」
「ううん。こっちこそ、つきあってくれてありがとうね」
いいよ、となまえは笑顔で言ったあと、少し思案して、声を落として緑谷のすぐ横までよった。
「あっ、みょうじさん?」
「緑谷くん、オールマイトのファン?」
すると、緑谷は激しく首を上下に振った。その様子がおかしくて、なまえはふふっと笑った。彼が雄英を志した理由がわかった気がする。ゆっくりと緑谷から離れると、彼は思った通り、顔をかすかに赤くしていた。
ばいばい、となまえが手を振ると、緑谷もちらちらとオールマイトを気にしながら、手を振り返してくれた。
なまえはオールマイトに従い、武道館を出て、廊下を歩く。帰り支度をしてからでいい、とオールマイトに言われたので、オールマイトには仮眠室に先に行っていてもらい、なまえは更衣室に寄った。手早く着替えて保健室横の仮眠室に入ると、中にはガリガリの男がいて、ソファに腰かけてあたたかいお茶をすすっていた。
「オールマイト、ごめんなさい。私、携帯を更衣室に置いていってしまったようで」
「まあそういうこともあるよ。はい、キミのお茶。……ところで先週、大変だったね。行けなくてごめん」
なまえはオールマイトの向かいのスツールにこしかけ、テーブルに用意されていたお茶を飲んだ。湯気が上がるお茶をぐいっと飲むと、するする入ってくる。思った以上にのどが渇いていたみたいだった。
「大丈夫ですよ。私もう小さい子供じゃないんだし」
オールマイトには、あまり心配かけたくなかった。ただでさえ秘密の多いオールマイトだ。これ以上平和の象徴の心に負担をかけたら、バチか何か当たりそうである。
オールマイトは少し悲しそうな顔をして、何かあったらすぐ言うんだよ、となまえの頭を撫でた。骨ばった指は、幼いころ握っていたものより細い。
気恥ずかしさを紛らわすためにぐいっと湯飲みを傾けた。苦味が強めで、なまえの好きな味だった。
「なまえ君、やけどしない?」
「猫舌じゃないですし平気です。それよりさっき、武道館に私しかいないと思ってましたよね」
「そうだね……。緑谷少年、聞こえちゃったよなあ」
「忘れてくれてるといいですけど」
なまえはまた一口、お茶を飲んだ。ほとんど空っぽだったので、あきらめてテーブルの上に戻した。
オールマイトと相澤がなまえの保護者なのは、クラスメイトには秘密だ。裏口や不正が疑われても困る。オールマイトが私を名前で呼んだから、となまえは思うが、端末を更衣室に忘れたのは自分なので、そこはオールマイトを責められない。緑谷はオールマイトに気を取られて「なまえ君」呼びに気付いていないのかとは思った。期待通りであってほしい。
「それで、用事ってなんですか?」
「実習始まっただろ? それの記録の同意書。これよく読んで、捺印してほしいんだ」
「明日でいいですか? 印鑑は家なので」
「うん。もちろん」
こういうことは学校でするべきではないのだろう。しかし、オールマイトは忙しいし、なまえのアパートにトゥルーフォルムで来てもらっても、いい身なりの男がさびれたアパートに通っていたら、それはそれで妙なものである。
なまえはカバンに数枚の書類をつっこんで、それでは、と席を立とうとした。
「ところで、君が人と一緒に練習するなんて珍しいね。緑谷少年と仲いいのかい?」
楽し気にオールマイトは聞いてきた。ずずっとお茶をすすって、にこにこしている。
少し考えて、なまえは席に戻った。
「私が練習したい気分だったんですよ。それだけです」
「……ふうん。そうなのかい」
オールマイトはつまらなそうな顔をした。なまえは目ざとくそれを観察していて、もしや、と思い、話を続けてみた。
「オールマイトって緑谷くんがお気に入りなんですか?」
「そっ、その言い方はよくないよ!」
ぶっとオールマイトは茶を吹き出した。なまえが無表情のまま肩をすくめると、オールマイトは突然声を落としてなまえのほうに身を寄せた。
「君にはそう見えるかい?」
「気づいてないとは言わせません」
がっくりとオールマイトはうなだれた。
まさか、あれでかわいがっていないという方がびっくりだ。オールマイトはこっそり見ていただけかもしれないが、入学初日の“個性”把握テストのとき、オールマイトの視線が緑谷に注がれていたのは、きっとなまえだけではなく相澤も気付いただろう。
そして、緑谷の“個性”は、オールマイトのものに似ていた。強力な身体強化である、“ワン・フォー・オール”。オールマイト、いや俊典を近くで見てきたなまえにはわかる。
緑谷の“個性”、あれはワン・フォー・オールだ。
じっとオールマイトの顔を覗き込む。オールマイトはちょっとだけ身を引いた。
「な、なんだい」
「緑谷くんって、オールマイトの次の……」
「しーっ!」
なまえが思った以上にオールマイトは慌てた。
「次のなに、とは言ってませんけど」
「あ」
オールマイトは、やってしまったとばかり頭を抱えた。いつか彼女には話す気だったしこの流れなら切り出せると思ってはいたが、こんなふうに聞かれると、なんだか敗北感を覚えずにはいられない。
「……まあ、言うつもりではあったけど、こんな形で言うのは私の本意じゃないなあ」
「“ワン・フォー・オール”の事情を知ってる人ならわかっちゃいますよ」
「内緒にしといてね。緑谷少年にも、君が知ってるってこと教えないでよ。私から言うから。あの子ナイーブなんだ」
「はい」
オールマイトは、“ワン・フォー・オール”の秘密を外に出したがらない。“ワン・フォー・オール”は受け継がれる力。それを初めて知ったとき、幼いころのなまえは何も感じなかった。オールマイトが選ばれて、聖火リレーのように力を継ぐんだなと思った。それが、緑谷に渡されたのだ。それだけだ。
オールマイトの受けた傷を、なまえは見ていた。あの傷が、オールマイトの輝かしい笑顔を一晩でも奪っていったことを思い出しただけだった。