英雄譚エルダー・エッダ
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9
今週は、実習はもうない。翌日以降の3限と4限はヒーロー基礎学に割り振られた。ヒーローという職業が成立してきた歴史、現代においてヒーローとは何か。中学校の社会で勉強してきたことよりも深く掘り下げられた内容で、そのぶん話も長ければ中身も難しく、なまえは体を動かしたくて仕方なかった。
隣の緑谷は爛々と目を輝かせていて、しっかりノートもとっていた。盗み見てみると、非常に綺麗なノートである。彼に比べたら書き込み量が少ない自分のノートを見て、恥ずかしくなって、担当教諭のミッドナイトの言葉を書き加えた。
1日の授業が終わると、もう夕方である。ヒーロー科以外のクラスは6限で終了なので、7限まであるヒーロー科は他のクラスの人に遭遇することは殆どない。
ばらばらと教室からクラスメイトが帰っていく。家に帰っても、なまえにはすることがない。今日の夕食は、昨日の残りで足りる。消太さんこないし。なまえは麗日の一緒に帰ろうという誘いを断った。彼女は残念そうにしていた。2日連続で、帰宅がばらばらなのである。また今度ね、となまえも少し残念だったが、振り切った。
雄英には、設備のしっかりしたジムがある。さすが天下のヒーロー校、設備は伊達じゃない。運動着に着替えていくと、何人か先着がいたが、いずれもなまえは見たことがなかった。なまえはあいている懸垂器を使うことにした。なまえのアパートは小さいし、器具は値段がはるので、無料で使えるのはありがたい。
1時間ほどジムに籠って、汗をかいた。ジムにはシャワーも完備されており、至れり尽くせりだ。なまえはぬるい湯で汗を流し、帰路につくことにした。
水が滴る髪を自前のタオルで拭きながら、更衣室に向かう。廊下を歩いていたら、武道館の窓に明かりが点いているのが見えた。
なまえは、緑谷を思い浮かべた。一人で練習しているのだろうか。もう、なまえがいなくても大丈夫、と言ったから。昨日の眩しい笑顔が頭をよぎる。気になりだしたら、とまらない。
少し覗くだけ。
足音をひそめて、なまえは暗くて肌寒い渡り廊下を通り抜けて、戸の隙間から中を見た。
畳の中央で、緑谷が1人で受け身の練習をしていた。ばん、という大きな音が、武道館を突き抜け、がらんどうな廊下まで響いた。なまえは耳も目もいい。ぶつぶつと呟くのがほんの少しだけ聞こえ、彼が険しい表情をしているのが何となくわかった。
ああ、違う、そうすると体を痛めるよ。戸をあけようとして、慌てて思いとどまる。からり、と少し引き戸が動いたが、そんな物音は耳に入らないくらい緑谷は集中しているようだった。
もう大丈夫だよ、と言ったのは、自分だ。今出ていって、自分からそれを撤回してどうしようというのだ。次の授業かどこかで、どうせ誰かが指摘する。だから、自分じゃなくてもいい。
なまえは物音をさせないように、そっとその場を離れた。ただ、自分が物音を立てたとして、あんなに周りが見えていない人が気付くかはわからない。なまえが向かうのは、更衣室である。
次の日の朝、なまえはいつも通りの電車に乗って、雄英高校前駅で降りた。今日は誰からも注目されなかった。それもそのはず。ヒーローが活躍する事件は多いのだ。今朝は、昨日の夜中にオールマイトが銀行強盗をコテンパンにした上で20人以上にもなる人質を無傷で取り返し、ついでに強盗仲間も捕らえたというニュースでもちきりだった。
同じ時間に飯田も登校していて、2人はいつも通り駅の改札で顔を合わせた。おはよ、となまえが声をかけると、飯田は以前のような爽やかさで、おはよう、と返してくれた。
飯田となまえが歩いていると、後ろから、おーい、と呼ぶ声がした。振り返ると、こちらに走ってくる緑谷だった。飯田となまえが足を止めると、彼はすぐに追いついてきた。
「おはよ、2人とも。いつもこの時間なの?」
「うん」
「そうだよ」
「へえええ。早いねえ」
歩きながら、緑谷はリュックを背負い直した。そのとき、少し顔をしかめたのをなまえは見逃さなかった。きっと昨日の練習のせいだろう。だが練習を盗み見ていたとは言えず、なまえは前を向いていた。
緑谷の変化を見逃さなかったのは、なまえだけではなかったようだった。
「緑谷君、どうしたんだい? どこか痛むのかい?」
「えっ、えっと、実は昨日柔道の練習をしてたんだけど、そのせいかな」
あはは、と恥ずかしそうに頭をかく緑谷に、飯田は眼鏡を押し上げながら、苦言を呈した。
「無理なトレーニングは体に悪い。本末転倒になる。気をつけて」
ロボットのような身振りで、飯田はジェスチャーした。彼は過負荷のトレーニングを続けて、体を壊したことがあるそうだ。高校は忙しいので俺の二の舞にならないように、と飯田は緑谷を心配しているのだった。
「気を付けてね」
なまえはそれしか言えなかった。
その日、なまえは麗日と帰ることにした。今日は夕食を1からつくる日だからである。少し勇気を出して「一緒に帰ろ」と誘ってみたら、麗日はにまにま緩み切った表情で、OKしてくれた。
麗日となまえは、何でもない話をした。授業のこと。先生のこと。趣味のこと。流行りのもののこと。麗日は餅が好きらしい。学食には現れてくれないことを悲しんでいた。
「麗日とみょうじじゃん」
駅近くの繁華街を歩いていると、コンビニから丁度出てきた上鳴とあった。チキン片手に口をもぐもぐと動かしている。麗日となまえは、軽く手を振った。
「上鳴くん1人なん?」
「そ。充電コード買いに行こうと思って」
俺1人の買い物にダチ付き合わせんの悪いしな、といいつつ、上鳴は歩く女子二人の横に並んだ。
「2人は? このまま帰んの?」
麗日は頷いた。なまえもこっくりと頷いた。
上鳴はチキンの最後のひとかけらを吸い込むように食べてしまうと、包み紙を握りつぶしスラックスのポケットに突っ込んだ。
「麗日とみょうじってさ、だいたいいつも緑谷と飯田と4人でいるじゃん?」
「うん」
「どっちかがどっちかと付き合ってたりしないん?」
上鳴は、軽い調子で聞いた。麗日は首を左右に強く振った。
「つきあってないー。付き合うにしては会ってからの日にち浅すぎだよ」
「恋って時間は関係ないだろぉ」
「そういう上鳴くんは彼女いないの?」
「悲しいことにいないんだなこれが」
なまえとしては、上鳴が自分の隣に来たことが悲しいことである。麗日と盛り上がっている間に挟まれるのは、なかなか居心地が悪い。なんかごめん。
もともとなまえは他人と話すのが得意ではないのだ。1対1がせいぜい。ぽかんと宙を見上げながら、夕食のメニューを考えていた。今日は肉の気分である。安い鶏肉なんてどうだろう。とりささみは特に脂身が少なくて良いタンパク質源だ。
「みょうじはどう思うよ?」
突然上鳴から話を振られて、とりささみの影はぱちんと弾けた。なまえは戸惑って、隣の麗日に何の話? と聞いてしまった。
「最近さあ、フルバットとクリーン・ビーの熱愛報道! ってよくやってるしょ? それがホントかどうかって話」
なるほど、という顔を見せるだけ見せた。ノルンはその2人のヒーローこそ知っていたが、そういう関係であるというのは初耳だった。正直にそう話すと、上鳴と麗日は驚いていた。
「みょうじ、ネットニュース見ねえの? そのテの記事ばっかだぜ」
ほら、と上鳴は端末の画面を見せてくれた。確かに、その2人のヒーローの話ばかりだ。そのゴシップ記事に溢れていた。なまえはあまり端末を見ない。それに、家にあるテレビは国営放送しか映らないのだ。プロヒーローの恋愛沙汰なんて、知る由もない。そのことは言わなかったが、そうだったんだ、となまえは言葉を添えた。
なまえは何となく相槌をうちながら会話に溶け込んだ。そのうち駅に着いて、麗日とは反対のホームに降りる。相変わらず麗日は、別れ際に全力で手を振ってくれた。
なまえの隣には、上鳴がいた。
飯田とは違い、何となく気まずい。それは単純に、会話した回数によるのだと思う。んなことは気にせず上鳴は話しかけてくれるが、なまえは頷いて、軽くリアクションをとるだけだった。
上鳴には、会話の引き出しがたくさんあった。先ほどのゴシップだけではない。ファッションの話、グルメの話、音楽の話、まだまだ色々。素直にすごいと思った。なまえは、せめて最近のヒーローの相関図は頭に入れておくべきかもしれない、と思う。
上鳴はつり革に半分ぶら下がったような恰好で、ミントのタブレットを噛み砕いた。それからしばらく視線を彷徨わせて、躊躇いがちに、なあ、と言った。
「みょうじさ、もしかして、俺のこと嫌い?」
「え?」
思っていたより素っ頓狂な声が出た。首を横に振ると、上鳴は肩の力を抜いた。
そんなに素っ気ない態度だっただろうか。たぶん素っ気なかっただろう。相槌しかうたない自分を振り返って、なまえは反省した。首を上下に振るからくり人形と話しても、仕方あるまい。
「ごめんね。あんまり最近の話詳しくなくて」
「マジかぁ。じゃ今度いっしょにこの映画いく? こないだ公開されて、ベストヒットらしいぜ。去年の本屋大賞が映画化したやつ」
これこれ、と電子画面を見せてくる上鳴は、人懐っこく笑っていて、さぞや人気者だろう。考えとく、となまえは自然と笑顔になれた。
なまえが降りる駅と上鳴が降りる駅は、同じだった。なまえが驚いていると、上鳴はにかっと笑って、行こうぜ、と言ってなまえの先を人混みかき分けながら進んだ。
今日の夕食は、とりむねのトマト煮込みの予定でいた。ミネストローネをつくるときにまとめ買いしたトマト缶が家に残っているからである。肉を買うためになまえはスーパーへ行こうとしたのだが、方向が上鳴と同じなのである。幸いにもなまえの目的地のほうが手前にあったので、それで別れることになるかと思われた。
「なあなあみょうじ。ちょっと俺に付き合わねえ?」
先ほど彼に気持ちのよくない思いをさせたことを思い出すと、断る気になれない。謝罪の意味も込めて、なまえは承諾した。
なまえはスーパーで安いとり肉を買い、上鳴はそこから15分歩いたさきにある大きな電気屋で端末の充電器を購入した。更にそこから5分も歩くと、大きな複合ショッピング施設がある。暗くなりかけの街に街灯がともり、行く人の姿を照らす。もう春であるが、日が沈むとそれなりに寒く、制服のみのなまえと上鳴は少し腕をさすった。
こっちこっち、と大きな複合施設に上鳴はなまえを手招きした。大きな店内に入ると、高い天井と幾重にも層になった各階の廊下が、黄色く光った。なまえは、この近くに住んでいて、1回しか来たことがない。なまえの雄英合格祝いだ。あのとき食べた寿司はおいしかった。
店内はそこそこ混んでおり、入り口の階にあるファッションコーナーのレジには小さい列ができていた。60代のマダムから、高校生や中学生まで、色んな年齢層の人がいる。
「ここ最近できたんだよな」
「うん。つい1年前くらい」
上鳴はなまえを先導し、地下へ下りた。下りのエスカレーターも少し混む。なまえは誰かに鞄をぶつけないように、ぐっと引き寄せた。
地下はフードコートのようになっていた。上鳴に従うままに行くと、フードコートの隅にシャッターが下りている店があった。それを見て上鳴は、あちゃーと額に手をやった。
「もう終わりかー……まだやってると思ってたんだけどなー」
「ここ?」
「そうそう」
上鳴は気まずそうにあたりをきょろきょろ見回して、すぐ隣のドーナツ屋を指し示した。
「誘っといて何もないのはあれだからさ、今日のところはドーナツにしていい?」
そこのドーナツ屋には、期間限定のサクラドーナツのポスターが貼られていた。ここの、と上鳴は端末を出して、SNSで勧められている様子を見せてくれた。
なまえは特に何も言うことなく頷いた。上鳴は店に入ると、愛想のいい店員に注文をした。ポスターにあったサクラドーナツを2つ、それから上鳴は限定のピーチ&チェリーソーダ、なまえは上鳴に期間限定を勧められてホットチェリーティーを頼んだ。上鳴はトレーを持ち、空いた店内で隅のテーブルを選ぶと、そこに座った。
「みょうじさ、流行り知らないって言ってたじゃん。だから流行ど真ん中! みたいなやつ食おうと思ったんだけどさ」
「あのお店?」
「そ。めっちゃ美味いワッフルなんだって。俺も食いたかった」
上鳴はピンクに色づけられたソーダを飲んで、ドーナツをかじった。ソーダには花の形のゼリーが浮いていた。なまえもココア生地のドーナツを食べた。上にかけられたピンク色のコーティングは、ほんのり桜の香りがした。フィリングはホワイトチョコクリームで、ココア生地のほろ苦さとよく合った。チェリーティーは微かに甘く、微かに酸っぱく、何より香りがいい。
「うめーな。俺実はあんま桜味好きじゃないんだけど、これならイケる」
なまえは頷いた。あたたかい生地のあいだでチョコレートフィリングがとろけて、本当に美味しいからである。普段なまえは甘いものは食べないが、これは買いに来てしまいそうだ。
上鳴はドーナツを食べ終わると、満足そうにソーダを飲んだ。
「どう? 流行りのって結構いいっしょ? 評判通りだろ?」
「うん。おいしかった。連れてきてくれてありがと」
なまえも冷めないうちにチェリーティーを飲み切った。鼻に抜ける香りが心地いい。少し食休みして、2,3くだらない話をして、店を出た。
「次はぜってーあのワッフル連れてくかんなー」
「楽しみにしてる」
なまえは少し微笑んだ。上鳴はそれを見て、うんうんと頷いた。上鳴は端末を取り出して画面を見ると、うお、と声を上げて、鞄の中から数本の充電器を取り出す。何をしているのかと思っていると、そのうちの1本の充電器のプラグ部分からコードだけ抜き、その抜いた部分を口にくわえてもう片方を端末に差し込んだ。
「わり、充電やべーんだ」
これ、と上鳴は端末を振った。
「充電器たくさんだね」
「体の調子で使い分けてんの。いいコードは電気流すのラクだし。あと口に入れっからダメになんのも早いんだよな」
上鳴はさっと電車の時刻を調べて、端末をポケットに入れた。
「連れ回したし、送ってこか?」
「大丈夫だよ。近くだから」
なまえが曖昧に笑って断ると、上鳴は残念そうに、じゃあまた今度、と言って、かり、とコードの接続部分を噛んだ。
「みょうじって一人暮らし?」
「うん、まあ。上鳴くんは?」
「1人。実家埼玉なんだよ。自炊してる?」
「そこそこ」
「さっすが女子。俺つくれねえ」
「簡単なものしかできないよ」
なまえは肩をすくめた。
上鳴は少しためらって、気を抜いたようにへらっと笑う。
「1人暮らしってさあ、案外つまんねえよなあ」
かりかり、と上鳴はコードの先端をかじっていた。
「最初は親から離れて自由ーって思ってたけど、自分の世話すんの大変だし。1人で電気貯めてっとぼーっとしちゃって溢れるしさ」
上鳴の言い方がおかしくて、なまえはちょっと笑ってしまった。上鳴も大きな身振りで話すので、それがなお面白い。
「だからさ、学校に長くいて、ダチとだべったり体動かしたりしてんのが楽しいんだ」
みょうじと一緒で楽しかったぜ、と上鳴は笑顔になった。なまえも少し微笑んで、私も楽しかったしおいしかったよ、と伝えた。
駅前の信号で、なまえと上鳴はわかれた。上鳴はばいばい、とコードをくわえたまま大きく手を振って、なまえもそれにこたえて手を振り返した。少し細い道に入って、その先をしばらく行くとなまえの住むアパートだ。駅が視界から消える瞬間、なまえは軽い足取りで駅に入っていく上鳴の背を見た。
アパートへの道のりは大通りに比べると暗く、人通りも減ってくる。家々のあいだの、ぽっかりあいた空間に遠慮がちにたたずむアパートの2階が、なまえの部屋だ。存在感のないアパートは、人気がない。
なまえは真っ暗な部屋にただいま、と小声を投げかけた。誰もいないのはわかっているので、制服から部屋着に着替えて夕飯の準備を始めた。小学生のころから家事の手伝いをしているだけあって、手際がいい。とりささみをトマト缶でことこと煮込みながら、なまえは上鳴の言っていたことを思い出した。
緑谷に声をかける理由が、見つかった気がする。それも、かなり単純な。なんでこんなことを思いつけなかったのだというほどに。