英雄譚エルダー・エッダ
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8
眠くなってくる英語と数学が終了すると、お待ちかねの3限目だ。今日の3限目と4限目は、週に2日の実習・演習日なのだ。座学より、やはりヒーローの訓練の方が、皆やる気は出る様子。
なまえは皆とテンションを合わせて運動着に着替え、体育館に行った。
珍しく、相澤は運動着だった。髪は後ろに一つに束ねている。
「対人格闘の訓練を行う」
だが、相変わらず覇気はない。相澤は手元のバインダーを見ながら、抑揚のない声で説明を始めた。
「今日は柔道だ。“個性”は使用厳禁。質問がある者は?」
「はい」
すると飯田が手を上げる。相澤に指名されると、飯田はよく反響する声で簡潔に尋ねた。
「現代では、“個性”を持たない人は少ないです。逆に言えば、非行に走る人のほとんどは個性”を持っています。“個性”を用いないで敵を倒すことは、実践ではほとんどないのではないでしょうか」
「そうだな」
相澤はバインダーに出席を書き込みながら、答えた。
「それでも、柔術の心得があるヤツとないヤツでは怪我の度合いが変わってくる。身を守る術として身につけておいて損はない。ほかにも役立つことはあるが、それは自分で気付け」
それで飯田は納得したようだ。ありがとうございました、と頭を下げてから、顎に手をやっていた。
「オレは柔道の専門家じゃない。ほかの教師に来てもらってる」
そのタイミングで、体育館にB組担任のブラドキングが入ってきた。プロヒーローだ。生徒がどよめく。なまえの隣の隣くらいから、ぶつぶつぶつと何か呟く声が聞こえた。
それを見てブラドキングは喝を入れる。大きな声は体育館に反響し、数十秒間のエコーを残した。生徒はみな口をつぐんだ。
「ブラドは雄英きっての武闘派だ。じゃ、よろしく」
壁側に下がっていく相澤を見て、ブラドはため息を一つ。しかし、学生たちを見る否や、目が光った。
「オレは奴のように甘くないぞ! まずこの中で柔道経験者の者は____」
相澤だって十分甘くない。そうクラス中が思った。
なまえは柔道経験者だったので、挙手した。他に挙手したのは、尾白と砂糖。それを見て、うん、とブラドキングは頷いた。
ブラドキングはまず準備運動をするように言った。体育館5周と、ストレッチ。準備運動が終わったら、体育館から出てすぐ隣の畳のある部屋へ移動した。武道館である。そこで、柔道経験者の3人は受け身の実演を要求された。3人が3人とも上手に決まり、ブラドキングは悔しそうに褒めた。
今日は受け身に専念するようだ。ここから1カ月、柔道を学習する。一通り、このクラス内で試合が成立する程度には仕上げて、次の一ヶ月で剣道、次に空手……と目まぐるしく続いていくそうだ。ブラドキングは、柔道はそんな短時間で身につくものではないからなとしつこく口にした。尾白が大きく頷いていた。
皆実践に入った。筋のいい生徒はいるもので、ブラドキングに合格を言い渡され次の段階に入ったのは、3限目終了前には半分にのぼった。
他の人が受け身の練習をしている間、経験者の3人は相澤と混ざって実戦形式で技のやり取りをした。なまえが砂糖の巨体を上手く投げ飛ばすと、尾白が拍手して、砂糖も負けてらんねーな! と爽やかに笑った。体を動かすと、煩わしい気分から解放される。なまえはその解放感で満たされた。
尾白は尻尾でバランスをとりながら相澤と対戦したが、相澤と五分五分だった。肉弾戦は相澤の得意分野ではないが、プロヒーロー相手に戦えるのは、尾白の大きな自信になったようだった。
4限目が終了する頃には、複数の生徒が立ち技に入っていた。2人一組になって、危ない崩れ方をする生徒はブラドキングの“個性”の血液に受け止められた。なまえ達3人は、誰が誰から一本取ったかを表にして、ひたすら実践の腕を磨いた。何だか、楽しかった。終了の礼をするたび、終わってしまって少し残念な気分に駆られるほど。
爽やかな汗を軽く拭いながらブラドキングの号令で集まると、なまえは女子生徒のいる集団の近くまで戻った。慣れない柔道は女子にとってはつらいものなのか、女子6人は疲れた表情で、運動着で自分の体を煽いでいた。
「うーわー、青泉、涼しそうな顔して……」
「得意分野だから」
芦戸が、だったらもっと疲れろー、となまえの肩を揺すった。ノルンは困ったように眉尻を下げ、ゆっさゆっさと芦戸の腕に合わせて前後に揺れていた。
「いや、それは気持ち悪くなるやつだろ」
「芦戸さんも十分元気ではないですか……」
「梅雨ちゃんも疲れてなさそうだね」
「これでも疲れてるわ。喉渇いちゃった」
「やー、けど普段使わないとこ使ったーって感じ」
麗日が、ぐぐっと腰を伸ばしている。ふとなまえが麗日の方を見ると、彼女の丸い目と視線がぶつかった。途端に麗日の柔らかそうな頬が、ちょっと照れたように色が濃くなって、えへへ、と眉尻を下げて笑った。
「どうしたの、麗日さん」
「へへ、何でもない。目ぇ合っちゃったね」
麗日はなおも緩まった表情で笑っていたので、それがなんだかなまえには新鮮で、可愛いな、と思ってしまった。
ブラドキングが号令をかけたらその場はあっという間に静まり返ってしまったが、こういうやり取りも、楽しい。
4限目の後は着替えたら昼食で、騒がしい廊下を、更衣室から教室に向かって歩いてゆく。他の人より先に、なまえは更衣室を出てきてしまった。一番仲の良い麗日が葉隠と盛り上がっていたので、昼食はあとで合流すればいいや、と思ったのだった。
ぱたぱた、と後ろから、軽快な足音が近づいてくる。誰だろうか。よけようとして、壁際にそっと体を寄せる。
「いた! みょうじさーん!」
他の生徒で騒がしい廊下では埋もれがちだ。だが、耳のいいなまえははっきりと聞き分けた。隣の席の、男子生徒の声。なまえは足を止めて首だけで振り返った。
「緑谷くん?」
「追いついたー。麗日さんに聞いたらもう行っちゃったって言われて……」
言いたいことがあるんだ、と緑谷は、走ってくる途中で腕まで下がってしまった運動着袋を肩にかけ直す。
「あの、時間があるときでいいんです。僕に柔道教えてもらえませんか……?」
それは彼にしては珍しく、固い面持ちだった。妙に、敬語に違和感があって、それに反して対人の緊張などは全くない。真剣過ぎて、どこか使命めいたものを感じる。
なまえはいいよ、と頷いていた。自分の返事の意味が、最初は分からなくて、一瞬言葉を失う。しかしそれは緑谷に勘付かれない程度で、すぐになまえはこの場にそぐったものを捻り出すことができた。
「私自身未熟だけど、それでも構わないなら」
「ううん! 僕の方こそありがとう!」
ぱぁあっと効果音でもつきそうなくらい、それはもう嬉しそうに言った。なんだか、これを見られただけでもOKした価値はあったかもしれない、と思えるくらい、純粋な感謝がその目に浮かんでいる。
正直に言えば、了承する気はなかった。緑谷が嫌い、というわけではなく、教えるならほかに適任がいるだろうと考えてのこと。けれど緑谷の真っすぐな目は、不思議となまえの思考を停止させ、ただ首を縦に振るよう促す力があった。少なくとも、なまえにはそう感じられた。
ふと、小学生時代、ベランダで朝顔を育てていたことを思い出した。学校の授業の一環だったと思う。ある朝、薄い赤紫の蕾が出来ているのを見かけて、浮き立つ心持のまま、相澤を半ば無理矢理ベランダに引っ張っていったのを覚えている。
彼は、今日言ったばかりでから付き合ってもらうのは悪いから、と、明日に約束を提案したが、緑谷はどうにも落ち着かないように見えたので、今日でもいいよ、と言ってみたら、なまえは純度100%の笑顔を見ることができた。
その後麗日と飯田と合流し、4人で昼食を食べた。昼休みに雄英の校舎内にマスコミが侵入したらしく、騒ぎになったが、飯田の機転で収まった。
教室に戻って席に着くと、緑谷は何が何でもなまえの方を向かないように、顔をなまえの席とは反対に向けていた。
緑谷は食堂にいるときから口数が少なく、何度もなまえの方を見ては、目が合う瞬間にそっぽを向かれた。そんな挙動不審に気付いたのはなまえだけだったので、彼の面目は保たれているだろう。
そんな彼は、教卓の横で飯田に学級委員長を譲った。自分の選択に自信をもって、堂々としている様子は、なまえに対する態度とはまったく違って、少しだけなまえは笑ってしまった。
*
「あ、あのさ」
「なに?」
「昨日の火男事件、みょうじさんも現場にいたんだよね」
「……うん、まあ」
夕日が落ちかける武道館で、緑谷は恐々となまえに尋ねた。
放課後、真っ赤な顔をした緑谷と、畳の上で、お茶を飲む。なんだかなまえは不思議な心持だった。
学級委員の役を飯田に渡してすっきりした表情だった緑谷と、柔道の練習を続けて、およそ1時間。緑谷は受け身をなんとか習得し、立ち技に入った。そろそろ暗くなってくるので、武道館の明かりはこうこうと光っている。曇りガラスの窓の向こうは、微妙な青だ。
「あ、あのね、飯田くんが言ってたよ。みょうじさんのおかげで怪我しなかったって」
「……それは、どうだろう」
なまえがそう返すと、緑谷はしゅん、と沈んだ。不安そうにこちらを見てくる彼に、少し申し訳ない気持ちになる。怒っているわけではないのだ。あのとき、間違いなく自分はヒーローではないと思ってしまったから。
なまえが曖昧に笑いかけると、今度は緑谷の顔から湯気が出た。目まぐるしい人だ。
「飯田くんはさ、自分から火男に立ちむかったんだよ。乗客を守るために。すごいよね」
なまえは少し自嘲気味に言った。緑谷はそれを見て、黙った。それから少し考えて、あのね、と言葉を始めた。
「みょうじさん、闘うのすごく上手だよね。僕なんか、その、あんまり、体の使い方が下手っていうか、ええと、」
緑谷はもごもごと口ごもって、なまえの方を見た。なまえは、彼が何を言わんとしているのかよく分からず、首を傾げた。慰めてくれようとでもしているのだろうか。
「今日の授業でさ、僕だけ遅れてたんだ。言い訳するわけじゃないけど、武道やったことなくて、けどみんなはやったことなくてもできて、焦って、失敗した」
なまえは、授業を思い出してみた。ずっと尾白や砂糖と乱取りをしていたが、その間気付いたこと。ブラドキングがやたら怒鳴っていた時間がある。それかな、となまえは思った。
「たまたま、みょうじさんが砂糖くんを背負い投げしているところが見えたんだ。体格差のある相手に勝ってたみょうじさんは、かっこよくて、すごいなって思った」
緑谷の目は、真剣だった。なまえはこそばゆくなった。こんな目を向けられたことは過去一度もない。同時に、こんな目ができる緑谷が、うらやましくなった。
「僕焦ってたから、気付いたらみょうじさんのこと追ってて、お願いしたんだ。青泉さん優しいし、僕ちょっと浮かれてたかもしれないけど、いいよって言ってくれる気がしたから」
恥ずかしそうに緑谷は頬をひっかいた。
「みょうじさんのお陰で、みんなに追いつけたよ!」
その笑顔は、眩しかった。思わず笑ってしまうほどに。そんなにうれしかったのだろうか。なまえはよかった、と心から言った。
「たぶんコツは掴んだと思うから、もう大丈夫なんじゃないかな」
「ありがとう、みょうじさん」
そう言っておいて、なまえは自分が少し苦しかった。大丈夫、ということは、自分に教わらなくて大丈夫、という意味だ。彼と話す時間が減るのは、なんだか寂しいことだったし、この笑顔が見られなくなるのは、何とも言えず嫌だった。自分は、こんなに絆されやすかっただろうか。
「時間とらせちゃってごめんね、みょうじさん。今日は本当にありがとうございました」
律儀に緑谷が頭を下げたので、なまえもつられていいえこちらこそと礼を返した。顔を上げたとき、なまえは自分の表情がいつも通りの薄笑いに戻っていることに気付いた。
遅いから、もう帰ろっか。なまえはそう言った。緑谷も頷いた。世間話をしながら薄暗い廊下を歩く。更衣室へ向かう分岐点にさしかかると、なまえはそれじゃ、と緑谷に手を振った。緑谷も恥ずかしそうに、ばいばい、と手を振った。
なまえは一人で着替えて、鞄を持って、玄関へ向かった。その間、誰とも会わなかった。ガラスの向こうで、1日の最後の光が街並みに消えていく。とっぷりと暗くなった空気に押し出されるように、なまえは足早に玄関を出た。
道でちらほら見たのは、帰宅途中のサラリーマンだった。なまえはその日、1人で帰宅した。