英雄譚エルダー・エッダ
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7
「ただい、」
「怪我は……!」
なまえが玄関の扉を開けると、ほとんど表情が変わらないくせに、転ぶ勢いで保護者が出て来た。なまえが首を左右に振ると、相澤はほっと胸を撫で下ろして、眉尻をわずかに下げた。
来なくていいって言ったのに。
無表情ながらも、彼は自分のことをとても心配しているのだ。なまえは、怪我もないし、相澤に事件のことを報告する気はなかったが、警察が勝手に学校へ連絡してしまって、そこから保護者に電話がつながった。
迎えには来なくていい、いや迎えに行く、と散々電話口で言いあって、ついに頑固ななまえに相澤が根負けして、家には行くからな、と食い下がられた。
なまえは薄く笑おうとするが、顔は凍りついたままだった。
「仕事は終わってた。迎えに行けたのに」
「いいんですよ、来なくて。教師が生徒の保護者って知られちゃ問題でしょ」
「そんなの気にしてる場合か。車の方が速い」
「……心配かけました。ごめんなさい」
「謝るところじゃない。早く飯食って、寝ろ。疲れただろう」
相澤はわしわしとなまえの頭を撫でた。珍しいこともあったものだ。なまえは少し笑って、しかし表情はすぐ消えた。
飯にしよう、と相澤はなまえを手招きして、リビングに戻った。なまえはあとに続く。春先でまだ寒くて、家の中は暖房をかけている。歩いてきたなまえにとっては暑くて、着替えてくる、となまえは洗面所に入った。
リビングからは食事を温めなおす音が聞こえた。今日の相澤がつくってくれたのだ。なまえがジャージに着替えて戻ってくると、白米に白身魚の西京焼きに青菜の和え物、味噌汁、そしてぱりぱりに揚げられた春巻き。普段は片づけが大変だし油を大量に使うからとあまり相澤は揚げ物をつくらない。そしてなまえも、体づくりのために揚げ物は摂らないようにしている。
春巻きだけ揚げたてのような香りがした。なまえは、揚げ物が好きだった。
心配をかけてしまった。ごめんなさい、と再び呟いたら、相澤はそれをちゃんと聞いていて、また頭を撫でてきた。
その日の食事は、味がして美味しく食べられるときと、そうでないときがあった。こんなにおいしいのに、こんなにあたたかいのに、どうしてもなまえの意識は過去に飛ぶ。直前の過去へ。ぱりっと春巻きをかじったその時は、香ばしいにおいとほどよく香辛料がきいた具が舌にのって美味だと思うのに、次の瞬間には炎と韋駄天が脳裏に浮かんで味を消す。
お腹いっぱいになるまで食べた。満足感と不安感が交互になまえに訪れる。相澤はなまえに片付けはいいからもう寝ろといい、なまえはそれに従った。
なまえの住むアパートには、玄関から歩いて部屋が二つある。玄関に近い方は、相澤の部屋。玄関から遠い方は、なまえの部屋だ。まだなまえが小さい頃は、奥の部屋で二人で寝ていたらしい。なまえが物心ついてすぐ、寝室は別になった。だから、なまえは保護者の相澤と一緒に寝た記憶はない。
風呂からあがって、自分の部屋に入ると、部屋の中は真っ暗だった。それは当たり前だ。入り口の近くに乱雑に鞄が投げてある。相澤は昔、もう早々に部屋を分けてしまうと、なまえの部屋に干渉してくることはなくなった。それは、彼なりの気遣いなのだろうと思う。
襖を閉めると、とたんになまえの部屋は隔離される。襖を通して相澤が家事をする音が聞こえる。洗濯機の音、水の音、掃除機の音。控えめな生活音が、ふすまのせいで、遠くの世界のものだと錯覚する。暗闇に慣れた目で、ゆっくりと冷たい布団にもぐりこんだ。なまえは、あたたかい布団を知らない。記憶にある布団は、すべて自分の体温であたためていた。
目を閉じると、今日の事件が再生される。燃え盛る炎、悪意にぎらつく目、じりじりと感じた殺意。そう。殺意。炎に焼かれたら、どれほどの苦痛が体を襲うだろう。あの、被害者の女性の、白化した足のように。それはなまえの想像では、まったくイメージができなかった。ただ、足がじわじわと冷えてきて、まるで自分の足が欠けたような気になってくる。
簡単に、炭になるのだ。あの悪意に晒されて。殺意に焼かれて。火は、足に蛇のようにまとわりつき、じりじりと焦がしていく。皮膚を焼き、筋肉を食い破り、神経を侵し、骨を溶かし、自分の全てから生を奪う。残るのは、黒い炭だ。触ったら、崩れてしまう、脆い炭。指先でつつくだけで、ぼろぼろ、ぼろぼろ、ぼろぼろ。
「っ!」
はっと目が覚めて、自分の足をおさえた。自分の掌の下には、血の通った足が二本、感覚はあるし、動かせる、馴染みのある太さの足がちゃんとあった。
何という気分だ。なまえは冷や汗を伝う首筋を枕で拭って、うつぶせになった。シーツを握ると、すぐに手汗で湿っていく。
飯田を助けようと思えたのは、昨日と今日、彼と言葉を交わしたから。彼が、自分を認めてくれたから。自分と飯田と、2人が助かればいいと思った。あの火男がほかの乗客を襲っていたら、恐らく私は、あの人たちを見殺しにしていた。そんな自分に、ヒーローなんかできない。見ず知らずの人を助ける仕事なんか、できない。
好きなものだけ守りたい、なんて。そんなのは、ヒーローの皮を被った一般人だ。
自分は、赤の他人の安全より、自分と関わりある人の方が、そして自分の身の方が、大切だった。そんな自分に、誰でも平等に救う誇り高いヒーローなんて、務まるわけがないのだ。そんなの、そんなもの、自分の肩には重すぎる。
なんで、ヒーロー科に進学しようと思ってしまったのか。どうして合格できてしまったんだろう。自分の力を試せて楽しいだなんて、よくもそんなことが。
脳裏に、なまえの面倒をよく見てくれたあの人の、いつも白い歯を見せて眩しく笑う姿と、いつかの夜血だらけでこの家に帰ってきた姿を思いだして、なまえは震えた。
翌日、なまえは何事もなかったかのように起きた。相澤は珍しく泊まっていったようで、朝食を用意してくれた。相澤は、なまえの様子をみて一安心したようだった。
なまえは日課のランニングをこなして、相澤に見送られて朝早く家を出た。彼はいつもの電車で行くので、なまえより遅い時間に出発することになる。彼曰く、早く行っても仕事がないという。教員の仕事は山積みかと思っていたのだが、彼のデスクはどうなっているのだろう。
朝早い電車は、多少空いている。本当に多少だが、始発駅ではないなまえにとってはありがたいことだ。誰かがこちらを見て、ひそひそとその友人らしき人と話していたが、自分には関係ない話だと思いたかった。
駅を経るごとに乗客は増える。雄英高校前駅が、この辺りで最も大きな駅だからだ。だんだんなまえに注目する人が増えてきた気がする。「ねえ、昨日の子じゃない?」と比較的大きな声を発されたので、なまえはたまらず高校前駅の1つ前で降車した。背後から、えー違うって、と甲高い声を聞く。ドアが閉まったあと振り返ってみたら、ここら辺の公立高校の制服だった。
隣駅から歩いて、雄英高校は30分。早足で行くと、見知った背中を歩道で見つけた。飯田だ。彼も、自分と同じような理由で、今朝は長距離を歩いているのだろうか。
でも彼は、まぶしい理由があって、雄英に入学してきた。だから、絶対違うと言い切れる。こんな自己中心的な自分と、自己犠牲の結晶であるヒーローが、同じものであるはずがない。なまえは、飯田に声をかけられなかった。
なまえが飯田に挨拶したのは、それから30分後、つまり雄英に着いたあとだった。飯田は少し疲れたように笑い、自分もきっとそれに似た笑みを浮かべているのだろうとなまえは思った。
今日の一番乗りは誰だったのだろうか。教室には、尾白と蛙吹、切島と轟がいた。轟は自分の机で船を漕いでおり、蛙吹は1人本を読んでいた。切島は尾白と談笑していて、切島は飯田を会話に巻き込んだ。
なまえはそそくさと教室を出た。図書館に行こうと思ったのだ。雄英のいいところは、図書館が開校と同時に開くことである。
*
「なあなあ飯田」
尾白は端末を開いて、画面を飯田に見せた。そこにはネットニュースで、昨日の火男のことが書かれていた。そして、どこから知りえたのか、飯田となまえのことまで隅っこに書いてあった。これ、飯田とみょうじだよな、と一般人が隠し撮りした写真を見せられた。それは、身構えたなまえと飯田の後姿だった。
どうやら同級生たちは、制服のスラックスのふくらはぎのところが不自然に出っぱっていたから飯田だと分かったらしい。
「飯田、すっげえじゃん。 学生ながらもヒーローの気風をまとう、だって」
「あ、ああ、それは……」
飯田は息を一つはいた。違う。あのときの自分は、そんな勇敢なものじゃなかったんだ。兄は母と一緒に、自分の様子を見に来る予定だったようで、兄弟で家に帰ると、夕飯をつくって待っていた母に大いに心配された。兄のようになりたいと願っていた飯田は、兄を隣にして、心がしおれる音を聞いた。
「確かに僕は犯罪者には立ち向かったかもしれない。けれど、何もできなかった。みょうじくんを守ることもできなくて、逆に助けられた。情けないことだ」
尾白は端末の画面を閉じて、気まずそうな表情をした。
「飯田は悪くないよ。偶然出くわしただけだし、怖くて当然だ」
慰めるように、尾白は飯田の腕を叩いた。
切島は押し黙っている。飯田が不意にそちらを見ると、切島は思いつめたような表情をしてから、飯田にむかってぱっと笑いかけた。
「これから変わってこーぜ。次にみょうじのこと助けられりゃいいじゃん」
もちろん、ほかの人もさ。な? 切島は明るく笑う。ぽんぽんと飯田の肩を叩いた。尾白も切島の言葉にうんうんと頷く。
飯田は少し励まされた気がした。切島の言葉は、慰めにも、逃げにも感じない。これからヒーローになるんだ、という彼の意志を感じる。寝たら治ったはずのしおれた心は、その意志を受けて、もっと長く葉を伸ばしたような気がした。
同じことを繰り返さなければいい。次、もし、何か悪を孕んだものと相対するとき、兄のように立ち向かえるように。次に足が竦んだのなら、そのとき自分を意気地なしと呼ぼう。
飯田はようやく、少し笑った。
*
ホームルーム直前に、なまえは図書館から戻ってきた。クラスメイトたちに火男の事件のことを問われたが、ノルンは曖昧に笑ってはぐらかした。
今日のホームルームでは、学級委員を決めるようだ。皆こぞって手を挙げたが、なまえは挙げようとは思わなかった。隣を見ると、緑谷も小さく手を挙げている。ヒーロー育成最高峰の生徒たちは、資質も最高峰にふさわしい。
一方緑谷は、学級委員決めにあまり関心がないように頬杖をつくなまえを見ていた。なんで立候補しないんだろう、と思って、彼女を凝視してしまっていたので、なまえに気付かれ、微笑まれた。どっきり、と驚きで緑谷の心臓がはねる。なまえは肩をすくめ、前を向いた。
その後、飯田の発案により学級委員は投票により決定されることになった。なまえは深く考えず、飯田に票を入れた。
昨日の彼の判断は、きっと正しかったと思うから。飯田は、全員を助ける、という判断を下せる人だから。
飯田は他の人に投票したらしく、自分に票が入っていることをいぶかしんでいた。