夜空の下、君と笑おう
カシャ、カシャとシャッター音が鳴り響く。ライトの下で、隼は微笑みながらポケットに手を入れた。
カメラマンはまたシャッターを切る。
「以上で撮影終わりです! お疲れ様でした!」
写真を確認していたスタッフからそんな言葉が発せられた。他のスタッフからも口々に労いの言葉がかけられる。隼は笑顔で声をかけてくれた一人一人に返事をした。
ファッション雑誌の撮影は滞りなく終了した。隼自身は撮られることが得意な方だし、何度か顔を合わせているスタッフの中で十分に自分の魅力を発揮できたように思う。
隼が満足した思いでスタジオを出ると、海のロケに同行しているはずの黒月から着信が入った。
『っ、隼か?!』
繋がってすぐに、慌てた様子の黒月の声が聞こえる。ぞわりと嫌な悪寒が隼を襲う。
「うん。どうしたの? 大」
『っと、落ち着いて、聞いてくれ』
落ち着いて、は自分自身に向けたものだろうか。そんなことを考えながら隼は黒月の言葉を待った。
『海が、事故に遭った』
低い黒月の声は、隼の耳にもしっかりと届く。けれども、現実味を帯びてはいない。
スマートフォンを握りしめたまま、隼はただ固まっていた。
『……おい、隼? 聞こえてたか?』
「うん、聞こえた」
『それで、今から言う病院まで来てくれないか。他の奴らも来るように連絡するから』
黒月は必要事項を伝えた後、すぐに電話を切った。隼はしばらく物言わぬスマートフォンを持ったまま、放心状態で虚空を見つめる。
「……行かなきゃ」
誰に言うでもなく、自分自身に言い聞かせるように小さく呟いて隼は走り出す。
パニック状態ではあったものの、隼はタクシーを捕まえて病院の住所を運転手にきちんと伝えた。走り出すタクシーは隼の焦る心に反比例して遅く感じる。車内でずっと、隼は海の無事を祈り続けた。
やっと病院に到着し、隼は黒月から告げられた病室へと向かう。隼の視界には病室への道しか映らない。
「……ここだ」
真っ白な扉に部屋番号が書いてあり、それは電話で聞いた番号と一致した。
隼は一つ大きく息を吸って、扉に手をかけゆっくりとスライドさせた。
「っ、あ、隼か」
「大。皆はまだ?」
「ああ。もう少ししたら来ると思うが」
隼の登場に、黒月はほっと安堵の息をつく。張りつめていた緊張が、少し緩んだようだ。
隼はすぐ、個室のベッドへと目を向ける。そこには包帯を頭に巻いた海が、静かに眠っていた。
「……海の容態は?」
「山道で足を滑らせて、運悪く大きな木に頭を打った。体のケガはほとんど無いんだが、頭を打って昏睡状態だ」
「意識はまだ?」
「ああ、一度も戻っていない」
「そう」
隼は混乱を表に出さぬよう、落ち着いた声で返答する。そのおかげか、黒月も緊張から解き放たれ冷静さを取り戻してきていた。
「俺、ちょっと仕事の電話してくるから、海の様子見ててくれるか?」
「もちろんだよ。任せておいて」
黒月は携帯電話を持ったまま病室から出て行く。
その姿を見送った隼は、ベッドの横にある小さな椅子に腰かけた。
「……海……」
眠る海の頭に巻かれた包帯を隼はそっとなぞる。ぴくりとも動かない海に、ついて出そうになるため息をこらえて無理矢理に口角を上げた。
「君が無事で、よかった」
隼の言葉にも海が反応する様子は見られない。
「……早く、目を覚ましてほしいな」
そう言って隼は海の方へ顔を寄せ、海の唇に自身の唇を重ねた。キスの感触はいつもと変わらない。
黒月が戻ってくる気配がするまで、隼はずっと海のぬくもりを確かめていた。ドアの開く音をきっかけに、ゆっくりと海から離れる。
黒月の方に振り向いた隼の耳に声が聞こえたのは、まさしくその時だった。
「ん、」
ひどく小さな、けれど確かに紛れもなく海の声だ。
すぐに海の方へ体を向けた隼に、黒月も何かを感じ取り海の方へ走り寄る。
「海、海っ!」
「意識が戻ったのか?!」
二人からの呼びかけに海は僅かに眉間にしわを寄せる。そして再度息のような声を漏らす。
「お、俺、先生呼んでくる」
衝撃でナースコールの事が頭から抜けてしまった黒月は、慌てた様子で病室を飛び出していった。
隼とて、そんな黒月を落ち着かせるほどの余裕は無かった。ただひたすらに海の名前を呼んでは思いが伝わるように手を握る。
願いが神に伝わったのか、海の目がスローモーション映像のようにじわじわと開いていく。
「海っ!」
隼は自分でも思っていなかったほど大きな声で海の名前を呼んだ。
開かれた目が隼の方へと動く。全く濁りの無い、美しい青い海のような瞳が隼の姿を捉えた。
「海……」
握っていた手をさらに強く握ろうとした隼に、ほんの少し違和感が生じる。
海はまるで生まれたばかりで何も知らない赤子のような、そんな目で隼を見つめている。どうしてなのか隼が疑問に思ってすぐ、その問いに答えるように海の口が開いた。
「……どちらさま、ですか」
拙い口調が、真っすぐな目が、隼を貫く。瞬間、離してしまった手から体中が冷えていくような気がした。
隼が固まってからそう時間の経たないうちに、医者を連れて黒月が病室に戻ってきた。
ドアの開く音に海の視線もそちらへと移る。
「あ、黒月さん」
「海! 意識戻ったのか!」
名前を呼ばれた黒月は心底嬉しそうに海の元へ寄って行く。医者も海の容態を確かめるために海にいくつか質問をしていた。ただ隼だけが現状を理解できないまま立ち尽くしている。
海は意識が戻ってすぐ冗談が言えるような男ではない。それにあの目は嘘をついているようには見えなかった。
しかし、記憶喪失と言うには海は自分の名前も職業も答えられているし、何より黒月の名前をきちんと呼んでいた。
隼は一つ、最悪の答えに辿り着いて頭を振った。不確定な事を鵜呑みにするのは良くない。
「先生」
「はい?」
「少し、お話があるのですが」
*****
海の担当医の診察室に通され、隼は海と二人きりの間に起きた出来事を話した。隼の隣に居る黒月は信じられないといった表情で話を聞いていたが、医者は重々しく自分の考えを話し始めた。
「それは……霜月さんの事だけ、記憶喪失になっているのかもしれません」
医者の言葉は、隼が辿り着いた最悪の答えと一致していた。
医者はなおも重々しい喋り方で説明をする。
「これはあくまでも可能性の一つですが、文月さんが事故に遭った際、強く霜月さんの事を考えていたのかもしれません。それで、事故に遭った衝撃で記憶障害が起きてしまったのかと……」
「そんな事あるんですか……?」
静かに話を聞いていた黒月が、耐え切れずに口を挟む。医者はゆっくりと首を縦に振った。
「人の脳はまだ解明されていない部分も多くあります。どんなことが起きても不思議ではありません」
「っ、そんな……っ」
「今後記憶を取り戻す可能性もありますし、一生戻らない可能性もあります。これからテストする必要がありますが、霜月さんの事以外記憶障害が起きていなければ、怪我が治り次第退院できますよ」
当事者であるはずの隼は、どこか他人事のように話を聞いていた。出来れば現実だと思いたくなくて、けれど震える手が何よりも現実だということを自身に分からせようとしている。
その震えを振り切るようにして、隼は深く息を吸った。
「大」
「何だ?」
「僕と海の仕事はしばらく控えよう。勿論きちんと説明はするけど、すぐに前のように戻れるとは思えないから」
「……ああ、そうだな。社長には俺から説明しておく」
「それと、プロセラとグラビの皆には言っておいた方がいいと思うんだ。逆にそれ以外の人たちには言わない方がいい。無駄に心配させてしまうからね」
隼の冷静な対応に、黒月もようやく落ち着きを取り戻す。
医者は今後の流れを簡単に説明した後で、隼を元気づけるように微笑みを見せた。
「記憶を失くされるというのは大変だと思いますが、何かの拍子に戻ったというケースはいくらでもあります。根気強くいきましょう」
「……はい」
隼も同じように微笑んで、けれどやはり手は震えたままだった。
診察室を出て、隼と黒月が再度病室に戻るとそこには、他のプロセラメンバーと海が楽し気に談笑している姿があった。
いつも通りの風景に、隼の奥から熱いものが込み上げてくる。
「あ、隼!」
「黒月さん!」
「おう、お前ら来てたんだな。見ての通り、海の意識が戻ったよ」
黒月が隼の前に立ち今までの出来事を説明する。海が隼の事だけ覚えていないのを隠して。
隼は扉の方で立ち止まったまま、遠巻きにその様子を見ていた。
そんな隼の所へ、涙が徐に近づいてくる。
「隼」
「ん? どうしたの? 涙」
「どうして、そんなに悲しそうな顔してるの」
涙の指摘に隼は驚き固まる。そして何でもないように、ふわり微笑んだ。
「悲しそうに見える?」
「うん。悲しそうというか、寂しそうというか」
「ふふふ、すごいね涙。正解だよ」
今度は涙が驚く番だ。感覚で言ったことが当たり、しかもこの場にそぐわない答えだったから涙自身も半信半疑だった。
「どうして?」と涙が問いかけるのには答えず、隼は黒月の名前を呼ぶ。
「ひとまず、皆を連れて寮に帰るからこの場は大に任せていいかな?」
「分かった」
「え、何で? 俺らまだ来たばっか「いいから。行くよ」
有無を言わさず隼は病室から出て行く。他の四人も戸惑いながら、海に一言ずつ言葉を残して病室を後にした。
「どうしたんだよ、隼?」
タクシーで寮に戻って早々、陽は隼を問い詰める。
隼は困ったように笑って、共有ルームのソファに腰掛けた。
「今から、大事な話をするよ。信じられないかもしれないけど、本当のことだから」
隼の意味深な前置きに、只事ではないと四人は静かに隼の方に向いた。アニマルズのいない共有ルームはそれだけでとても静かに感じる。
隼は一つ深呼吸をして、わざと明るい調子で声を出した。
「海は、僕の事だけ忘れてる」
「……へ? それはどういう意味……」
「そのままだよ。海は僕という存在の記憶をすべて失くしてる」
「そんな……」
驚きで腰を抜かす夜を陽と郁が支える。涙は「そういうことだったんだね」と呟いて頷いた。
「そう。でも安心して。それ以外は記憶喪失になってないから」
「安心って……そんなもん出来るわけないだろ」
「そうですよ! 隼さんこれからどうするんですか……?」
郁の発言に同意するように全員が頷き隼の方を見つめる。
四人の心配は二人が年長組として活動しているからだけではない。隼と海が恋人関係にあることをプロセラ、そしてグラビも知っている。そんな唯一無二の存在から、完璧に忘れ去られてしまった隼の心境を四人は慮っていた。
隼もそれは理解していて、だからこそ心配をかけないように無理矢理に笑顔を作った。
「大丈夫。初めましての時に戻っただけだから。一からやり直すだけだよ」
隼は自分自身にも言い聞かせるようにそう言った。四人はそれ以上何も言えずに押し黙る。
「……分かった。隼がそう言うなら、僕たちも協力する。もう一度、海が全部を思い出すまで」
「涙……」
「涙の言う通りです。隼さん、困った時は俺たちの事頼ってください!」
「皆で頑張りましょう、隼さん」
「だな。俺たちは六人でプロセラルムだ」
「……本当頼りになるね、皆。ありがとう」
今度は作り笑顔ではない、心からの笑顔で隼は笑った。そしていつも通り振舞うために、夜に紅茶を頼んでソファの背にもたれかかった。
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