10日目:僕らにとっての世界の終わり(隼海)
早朝の城内に足音が響く。あくびをしながらベッドから降りた陽は、微かに聞こえるその足音に首を傾げながら自室の扉を開けた。
足音はだんだん近づいてくる。そちらの方を見ていると、栗色の髪を持つ兎が曲がり角から現れた。
「っ、陽っ」
息を切らして郁は陽の名前を呼び、走る足を止めた。
「お前、どうしたの? こんな朝っぱらから全力疾走って」
普段から涙の護衛官として、体を鍛えている郁は少し走ったくらいで息切れしたりしない。その郁が話すのもままならないほどの息切れを起こしているということは、何か緊急事態なのだろう。
陽が郁の言葉を待っていると、何度か深呼吸をした郁がようやく言葉を発した。
「あのね、海さんが、いなくなってた」
その言葉に陽の思考回路が止まる。聞き間違いであってほしいと思ったが、郁の目を見ていればそんなことは言えなかった。
「なん、で」
「わからない……っ、どうしよう」
「待て。落ち着け郁」
陽は自分にも言い聞かせるようにそう言った。パニックになれば見えるものも見えなくなってしまう。
少しの時間黙り込み、努めて冷静に陽は自分の考えを述べた。
「とりあえず俺は隼のところに行ってくる。郁は何か手掛かりがないか、もう一度海の部屋に戻って探してきてくれないか?」
「わかった」
陽の言葉を聞いた郁はすぐに今来た道を戻って行く。陽は郁が向かったのとは反対の道を走り始めた。
鼓動が早まる。海がいなくなった今、不本意だが隼に頼るしかない。でも何故だろう、その隼も姿を消している予感が陽にはあった。
辿り着いた部屋の扉を乱暴に開ける。ノックをしている余裕は無かった。
「隼っ」
奥の寝室にある大きなベッドの上はもぬけの殻だ。彼が普段からくつろいでいるソファの上にもその姿は無い。
「っ、くそ……」
部屋中を探したが、隼がいる形跡は無かった。つまり、隼も海と同じように姿を消したということだ。
それが自ら望んでなのか、それとも望まぬまま連れていかれたのかは定かではない。ただ、陽は何となく前者だろうと思った。不思議な力を持った魔王様はそんな簡単に連れて行けるようなやつではない。
陽がしばらく茫然としていると、向こうの方から二つの足音が聞こえてきた。二つの足音は真っすぐにこちらに向かってくる。
「陽」
その声は聞きなれた、幼馴染の声だった。陽は金縛りから解けたようにゆっくりとそちらの方を向く。
「夜。涙も」
走ってきたからなのか、夜は苦しそうにしながら陽の方に紙きれを差し出してきた。
陽は夜に近づきそれを受け取る。開いたその紙に書かれた文字は、今はいないこの部屋の主のものだ。
「これ、どうしたんだ?」
「図書室、の、扉に、挟んで、あった」
「それを夜が見つけて、たまたま近くにいた僕に話してくれたの」
「それで、陽に話さなきゃって思って部屋行ったけどいなくて」
「悪い。俺もさっき郁から海がいなくなったって聞いて、慌てて隼の部屋に来たんだ」
そう言って陽は再び紙に視線を落とす。『海を探してきます』たったそれだけしか書かれていない手紙は、陽の予感を確かにするものだった。
どうでもいい時には鈴を鳴らすくせに、隼は大事な時に陽を呼びつけたりしない。陽からすればそれはとても腹立たしいことなのだが、今この場で怒っても仕方がない。隼と海を見つけて、本人の前で説教しなくては。
陽は小さく息を吐いて、夜と涙のほうを見た。二人の目は不安に揺れていた。
「涙。郁が海の部屋にいるから呼んできてくれないか?」
「う、うん」
「夜と俺はこの部屋で待ってるから」
涙は頷いて、走って隼の部屋を出て行く。本当は王子様をパシリのように使うのは許されないことだが、足をさする幼馴染を放っておくことは出来なかった。
夜の不安を助長させないように陽は笑顔を見せる。
「夜、大丈夫か?」
「平気。もう落ち着いたから……ねぇ、陽」
「ん?」
「隼さんと海さん、大丈夫だよね……?」
夜の目に陰りが宿る。陽は「当たり前だろ」と言ったが、その声は少し震えていた。
白兎王国を作り上げたのは海、それを支えたのは隼だ。二人がいなければこの平穏な世界は存在しなかった。その二人がいなくなってしまったのだから、夜じゃなくても不安に思うのは当然だった。
無言のままの陽と夜の元に、郁と涙が戻ってきた。四人の中で一番年上の陽が真っ先に口を開く。
「とりあえず、二人がいなくなったことは俺らだけの秘密にするぞ。で、すぐにあいつらを見つける」
他の三人も頷く。不安そうながらもその顔は正義感に満ち溢れていた。
*****
海は最悪の気分で目を覚ました。ずっと誰かに殴られているような頭の痛みとぼんやりとした視界、口を開けば嘔吐してしまいそうな気持ち悪さが全身を襲う。
いつもとは違う空気と向こうの方から聞こえる聞きなれない声は、ここが自室ではないことを海にわからせる。
「っ、」
「よぉ、起きたか。“王様”」
ぼんやりとした視界で男がこちらを見ているのが分かる。生えている耳は何の種族と特定できないが、少なくとも白兎でないことは明確だ。
攻撃しようと足をあげるが、枷がついているようでぴくりとも動かない。手も同様だった。
「誰だ」
「誰でもいいだろ。……俺はな、お前が嫌いなんだ。お前さえいなければ兎なんて全て奴隷に出来るのに」
下卑た笑いを浮かべる男は一人ではないらしく、複数の笑い声が海の耳に届く。本能的に危機感を持ったが、薬を飲まされたか嗅がされたか、とにかく思考がまとまらない。
海が睨み付けるのを意に介さず、男は海の耳に厭らしく触れる。
「っあ」
体中にぞくぞくと気持ち悪い衝撃が走る。海が唯一動かせる頭を使って男に頭突きをしようとするが、上手く届かずに男は高笑いした。
別のところから手が伸びてくる。いいように弄ばれるのかと海の目が絶望に染まった瞬間、
「な、なんだ」
爆発音がして、鉄の扉が崩壊するのが海にも見えた。光の中出てきたのは、海をいつも救ってくれる存在だった。
「海っ」
散らばった鉄の破片が宙に浮き、男たちの体に次々と刺さる。うめき声をあげる男たちには目もくれず、隼はまっすぐに海の元にやってくる。
「大丈夫? 何かされた?」
「いや、耳触られたぐらいだな……あと、たぶん薬飲まされた」
「薬?」
「うん。だから視界もはっきりしないし、頭もぼんやりしてる」
海が素直に体の不調を訴えると、隼は少し考えた後海の額に触れた。
「ちょっとじっとしててね」
隼が触れたところから、海の頭にあたたかい何かが入ってくる。先程の気持ち悪さは無くなり、気持ちのいい感覚が海を塗り替えていった。
海の意識が段々とはっきりしてくる。クリアになった視界に映ったのは、真面目な顔をした隼の姿だった。
「ありがとう、隼。またお前に助けられたな」
「どういたしまして。でも、いいんだよ。海にはやってもらわなきゃいけないことがあるから」
「それ、前も言ってたな」
ふふふと隼は愉快そうに笑う。海の額から手を離し、代わりにキスを額ではなく鼻の先に落とした。くすぐったい感覚に海の表情は和らぐ。
続いて隼は海に付けられた枷をすべて外した。ようやく自由になった海が起き上がると、気絶している男が五人ほど転がっていた。
「隼、これ死んでないよな?」
「殺してもいいけれど……一応息はあるよ」
「じゃあ、殺さないでくれ。このままにして帰ろう」
「そう言うと思ってたよ」
海は優しい。隼が初めて海を見つけた時からずっと抱いていた感想だ。海の透明な心は何をしても染まることは無い。
だから隼はあの時も海を助けたのだ。海と一緒に居れば『世界の終わり』を知ることが出来ると。
それは決して悲しいことではない。この世界が終わるということは、また新しい世界が始まるということだ。
「……僕は、それが見てみたい」
「え? 隼何か言ったか?」
「ううん。なんにも」
不思議そうな表情を見せる海に、隼は首を横に振って笑う。そうして二人で、薄暗い地下室から抜け出した。
地上に出た後、隼が思い出したように鈴を出して、一度軽く振った。綺麗な音色はよく聞く音で、海は心地いいと思うと同時に隼の意図が分からず首を傾げる。
「それ、何で今鳴らしたんだ?」
「ふふふ。心配かけちゃったから、お詫びにね」
隼は笑って歩き出す。海も慌ててその背中を追いかけた。
五分後、汗だくの陽と郁が二人を見つけ説教をし、さらに後からやって来た夜と涙が安心して泣き始めることをまだ海は知らない。
足音はだんだん近づいてくる。そちらの方を見ていると、栗色の髪を持つ兎が曲がり角から現れた。
「っ、陽っ」
息を切らして郁は陽の名前を呼び、走る足を止めた。
「お前、どうしたの? こんな朝っぱらから全力疾走って」
普段から涙の護衛官として、体を鍛えている郁は少し走ったくらいで息切れしたりしない。その郁が話すのもままならないほどの息切れを起こしているということは、何か緊急事態なのだろう。
陽が郁の言葉を待っていると、何度か深呼吸をした郁がようやく言葉を発した。
「あのね、海さんが、いなくなってた」
その言葉に陽の思考回路が止まる。聞き間違いであってほしいと思ったが、郁の目を見ていればそんなことは言えなかった。
「なん、で」
「わからない……っ、どうしよう」
「待て。落ち着け郁」
陽は自分にも言い聞かせるようにそう言った。パニックになれば見えるものも見えなくなってしまう。
少しの時間黙り込み、努めて冷静に陽は自分の考えを述べた。
「とりあえず俺は隼のところに行ってくる。郁は何か手掛かりがないか、もう一度海の部屋に戻って探してきてくれないか?」
「わかった」
陽の言葉を聞いた郁はすぐに今来た道を戻って行く。陽は郁が向かったのとは反対の道を走り始めた。
鼓動が早まる。海がいなくなった今、不本意だが隼に頼るしかない。でも何故だろう、その隼も姿を消している予感が陽にはあった。
辿り着いた部屋の扉を乱暴に開ける。ノックをしている余裕は無かった。
「隼っ」
奥の寝室にある大きなベッドの上はもぬけの殻だ。彼が普段からくつろいでいるソファの上にもその姿は無い。
「っ、くそ……」
部屋中を探したが、隼がいる形跡は無かった。つまり、隼も海と同じように姿を消したということだ。
それが自ら望んでなのか、それとも望まぬまま連れていかれたのかは定かではない。ただ、陽は何となく前者だろうと思った。不思議な力を持った魔王様はそんな簡単に連れて行けるようなやつではない。
陽がしばらく茫然としていると、向こうの方から二つの足音が聞こえてきた。二つの足音は真っすぐにこちらに向かってくる。
「陽」
その声は聞きなれた、幼馴染の声だった。陽は金縛りから解けたようにゆっくりとそちらの方を向く。
「夜。涙も」
走ってきたからなのか、夜は苦しそうにしながら陽の方に紙きれを差し出してきた。
陽は夜に近づきそれを受け取る。開いたその紙に書かれた文字は、今はいないこの部屋の主のものだ。
「これ、どうしたんだ?」
「図書室、の、扉に、挟んで、あった」
「それを夜が見つけて、たまたま近くにいた僕に話してくれたの」
「それで、陽に話さなきゃって思って部屋行ったけどいなくて」
「悪い。俺もさっき郁から海がいなくなったって聞いて、慌てて隼の部屋に来たんだ」
そう言って陽は再び紙に視線を落とす。『海を探してきます』たったそれだけしか書かれていない手紙は、陽の予感を確かにするものだった。
どうでもいい時には鈴を鳴らすくせに、隼は大事な時に陽を呼びつけたりしない。陽からすればそれはとても腹立たしいことなのだが、今この場で怒っても仕方がない。隼と海を見つけて、本人の前で説教しなくては。
陽は小さく息を吐いて、夜と涙のほうを見た。二人の目は不安に揺れていた。
「涙。郁が海の部屋にいるから呼んできてくれないか?」
「う、うん」
「夜と俺はこの部屋で待ってるから」
涙は頷いて、走って隼の部屋を出て行く。本当は王子様をパシリのように使うのは許されないことだが、足をさする幼馴染を放っておくことは出来なかった。
夜の不安を助長させないように陽は笑顔を見せる。
「夜、大丈夫か?」
「平気。もう落ち着いたから……ねぇ、陽」
「ん?」
「隼さんと海さん、大丈夫だよね……?」
夜の目に陰りが宿る。陽は「当たり前だろ」と言ったが、その声は少し震えていた。
白兎王国を作り上げたのは海、それを支えたのは隼だ。二人がいなければこの平穏な世界は存在しなかった。その二人がいなくなってしまったのだから、夜じゃなくても不安に思うのは当然だった。
無言のままの陽と夜の元に、郁と涙が戻ってきた。四人の中で一番年上の陽が真っ先に口を開く。
「とりあえず、二人がいなくなったことは俺らだけの秘密にするぞ。で、すぐにあいつらを見つける」
他の三人も頷く。不安そうながらもその顔は正義感に満ち溢れていた。
*****
海は最悪の気分で目を覚ました。ずっと誰かに殴られているような頭の痛みとぼんやりとした視界、口を開けば嘔吐してしまいそうな気持ち悪さが全身を襲う。
いつもとは違う空気と向こうの方から聞こえる聞きなれない声は、ここが自室ではないことを海にわからせる。
「っ、」
「よぉ、起きたか。“王様”」
ぼんやりとした視界で男がこちらを見ているのが分かる。生えている耳は何の種族と特定できないが、少なくとも白兎でないことは明確だ。
攻撃しようと足をあげるが、枷がついているようでぴくりとも動かない。手も同様だった。
「誰だ」
「誰でもいいだろ。……俺はな、お前が嫌いなんだ。お前さえいなければ兎なんて全て奴隷に出来るのに」
下卑た笑いを浮かべる男は一人ではないらしく、複数の笑い声が海の耳に届く。本能的に危機感を持ったが、薬を飲まされたか嗅がされたか、とにかく思考がまとまらない。
海が睨み付けるのを意に介さず、男は海の耳に厭らしく触れる。
「っあ」
体中にぞくぞくと気持ち悪い衝撃が走る。海が唯一動かせる頭を使って男に頭突きをしようとするが、上手く届かずに男は高笑いした。
別のところから手が伸びてくる。いいように弄ばれるのかと海の目が絶望に染まった瞬間、
「な、なんだ」
爆発音がして、鉄の扉が崩壊するのが海にも見えた。光の中出てきたのは、海をいつも救ってくれる存在だった。
「海っ」
散らばった鉄の破片が宙に浮き、男たちの体に次々と刺さる。うめき声をあげる男たちには目もくれず、隼はまっすぐに海の元にやってくる。
「大丈夫? 何かされた?」
「いや、耳触られたぐらいだな……あと、たぶん薬飲まされた」
「薬?」
「うん。だから視界もはっきりしないし、頭もぼんやりしてる」
海が素直に体の不調を訴えると、隼は少し考えた後海の額に触れた。
「ちょっとじっとしててね」
隼が触れたところから、海の頭にあたたかい何かが入ってくる。先程の気持ち悪さは無くなり、気持ちのいい感覚が海を塗り替えていった。
海の意識が段々とはっきりしてくる。クリアになった視界に映ったのは、真面目な顔をした隼の姿だった。
「ありがとう、隼。またお前に助けられたな」
「どういたしまして。でも、いいんだよ。海にはやってもらわなきゃいけないことがあるから」
「それ、前も言ってたな」
ふふふと隼は愉快そうに笑う。海の額から手を離し、代わりにキスを額ではなく鼻の先に落とした。くすぐったい感覚に海の表情は和らぐ。
続いて隼は海に付けられた枷をすべて外した。ようやく自由になった海が起き上がると、気絶している男が五人ほど転がっていた。
「隼、これ死んでないよな?」
「殺してもいいけれど……一応息はあるよ」
「じゃあ、殺さないでくれ。このままにして帰ろう」
「そう言うと思ってたよ」
海は優しい。隼が初めて海を見つけた時からずっと抱いていた感想だ。海の透明な心は何をしても染まることは無い。
だから隼はあの時も海を助けたのだ。海と一緒に居れば『世界の終わり』を知ることが出来ると。
それは決して悲しいことではない。この世界が終わるということは、また新しい世界が始まるということだ。
「……僕は、それが見てみたい」
「え? 隼何か言ったか?」
「ううん。なんにも」
不思議そうな表情を見せる海に、隼は首を横に振って笑う。そうして二人で、薄暗い地下室から抜け出した。
地上に出た後、隼が思い出したように鈴を出して、一度軽く振った。綺麗な音色はよく聞く音で、海は心地いいと思うと同時に隼の意図が分からず首を傾げる。
「それ、何で今鳴らしたんだ?」
「ふふふ。心配かけちゃったから、お詫びにね」
隼は笑って歩き出す。海も慌ててその背中を追いかけた。
五分後、汗だくの陽と郁が二人を見つけ説教をし、さらに後からやって来た夜と涙が安心して泣き始めることをまだ海は知らない。