第一章・江戸編
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第六話 調査依頼
試衛館での奇妙な宴から数ヶ月後、すっかり冬の装いになった江戸。道中の人々も衿を掴んで縮こまるほどの寒さで、ここ数日は雪がちらつく日もあった。雪を見ると心がざわつく。ふとした瞬間にあのとき へと心が引き戻されるからだ。千織はこめかみを抑える事でその感覚を逃がした。
「ふぅ…」
「お、千織さん、おはよう!なんだい、風邪かい?」
「亀助 さん。おはようございます。いえ、体質みたいなものなのですぐ治まるかと…。お気遣いありがとうございます」
「そーかい。なら良かったが、風邪もそうだがこの時期は火事も起きやすいから火の元にも気を付けるんだぞ。この間みたいに俺がすぐ駆け付けられるとも限らねえからな」
「えぇ。その節はありがとうございました。火事にも気を付けますね」
「おう!今日も道場に行くのかい?」
「え、えぇ。そうなんです、大家さんから聞いたんですか」
「まあな、精が出るな」
「ありがとうございます。では、そろそろ行きますね」
千織が頭を下げると亀助はひらひらと手を振りながら家に帰っていった。少し前に千織が火事の現場に居合わせてしまったのだが、火の勢いが強くなる中で逃げ遅れた千織をこの長屋の隣の隣に住む大工の亀助が抱えて救出してくれたのだ。そこから長屋や近所で出会うと二、三言話すようになり、今では立派なご近所さんの関係が築けている、と千織は思っている。そう言えば、うちの長屋で独り身なのは千織と亀助だけなこともあり、二人で話すようになった様が長屋の奥方達のお節介心をくすぐってしまったようで、やたらと千織と亀助をくっつけようと企てが行われているのには少し困っていた。今の千織には自身が誰かと所帯を持つということが想像もつかなかったからだ。何かしら仕事をして金を得て、衣食住を賄う。そんな日々を繰り返し、寿命でこの生を終える。そんな感じなんだろうか…それも想像できない。日々ただ生きているだけで精一杯で、でも、そんな生に意味はあるのだろうか……。
千織は人がまばらな通りを抜けて試衛館の外門の横にある小さなくぐり戸から中に入った。そのまま慣れた足取りで道場まで向かうと先に来ていたらしい斎藤が水を張った桶に雑巾を浸していた。最近はこうして早朝に試衛館を訪れ道場の一画を借りて稽古をするのが日課となっていた。
「おはようございます、斎藤さん」
「あぁ、水瀬か。今日も早いな」
斎藤は白い襟巻きをいつもより深く被っていて口元は見えないが、彼が言葉を紡ぐ度に白い息が宙へ消えていった。
「斎藤さんの方が早いじゃないですか」
「俺は昨夜、泊まったからな」
「そうでしたか。もしかして…また宴会をされたんですか?」
千織は少し揶揄いの気持ちを込めて聞いた。試衛館に出入りする回数を重ねていくうちに彼らの懐事情は千織も知るところとなったからだ。
「まぁ、そんな所だ。近藤さんの講武所教授方の話が現実味を帯びてきたから、皆浮き足立っている」
と、まるで他人事のように言う斎藤だが、その表情は柔らかく、いつもより口角が少し上がっているのが分かった。
「斎藤さんも嬉しそうですね」
「…あぁ、そう、だな。近藤さんの剣術が日の目を見るのは俺も嬉しく思う」
「そうですね。これで試衛館も盛り上がればいいですね。近藤さんのお子さんももうすぐ生まれますし」
「あぁ」
そうして掃除を終え、素振り、斎藤との打ち合いを終えた千織は汗を拭ってから帰り支度を整えていた。
「今日は朝餉は食べて行かないのか」
斎藤は涼しげな顔で汗を拭いながら聞いてきた。
「はい。今日はこれから依頼の約束があるのでこのまま出ようかと。すみません、もしかして私の分の朝餉も用意してくださっていました?」
「一応だがな。まあ、新八や平助辺りが食べるだろうから問題ない」
「すみません、いつも甘えてしまって。今度から先にお伝えしますね」
「あぁ。では、俺は朝餉の準備に向かう」
「はい。稽古、ありがとうございました」
斎藤と別れた千織は試衛館から少し歩いた先にある小料理屋を訪れた。今日はこの店の女将から依頼があったのだ。
「御免ください」
「…はーい!あ、便利屋さん?いらっしゃい!さっ、入っとくれ」
「失礼します」
「すまないね、朝早くから」
「いえ、それで、早速なのですが依頼内容を伺ってもよいでしょうか」
「そうだね、あなたに頼みたいのはボヤの調査なんだ」
「ボヤですか?」
「あぁ、実は数日前に店の裏口でボヤ騒ぎがあってね。幸い、すぐに気が付いて鎮火したから大事には至らなかったんだけど…」
それまでハキハキと話していた女将は突然、歯切れが悪くなり、言おうか言わまいか迷っているような素振りを見せた。
「何か気になる点でも…?」
千織が促すと、少し自信なさげに答えた。
「あぁ。確かに魚を七輪で焼いたり、裏口で火を扱うことはあるんだけどここ最近は裏口で火を使っていなったから、ボヤが起きる原因が分からないんだ。それであたしは…誰かが…その、放火したんじゃないかって思ってしまって」
「失礼ですが、誰かに恨まれているなど何か心当たりをお持ちなのですか?」
「いや、これと言ってはないよ。だから余計に怖くてね、誰かに恨まれているかもと考えたら…。それで調査して欲しくて……旦那には心配しすぎだって笑われたんだけどね。こんな依頼でも受けてくれるかい?」
「勿論です。火事に詳しい訳ではないのですが、手を尽くします」
女将は引き受けてもらえると安心したのか強張っていた肩を緩めた。
「ありがとう。よろしく頼むよ」
「では、裏口と普段使われている七輪を見せていただけますか?」
「あぁ。こっちだよ」
女将と一緒に裏口と七輪を確認したが特に気になる点はなかった。裏口側は細い道と建物に囲まれていて人目に付きにくい場所ではあったので、目撃者は期待できなさそうだ。
「手掛かりになりそうな物はないですね…」
「…やっぱり、あたしが心配しすぎなだけかねぇ」
「暫くの間、見張りと聞き込みをして情報を集めますね」
「あぁ。頼んだわね」
先日のボヤは早朝に起きたということだったので千織は午前中に裏口が見える場所で張り込みをし、午後から周辺で聞き込みをすることにした。
「……何か手掛かりが見つかればいいのだけれど」
千織の首筋を冷たい風が一筋、撫でていった。
試衛館での奇妙な宴から数ヶ月後、すっかり冬の装いになった江戸。道中の人々も衿を掴んで縮こまるほどの寒さで、ここ数日は雪がちらつく日もあった。雪を見ると心がざわつく。ふとした瞬間に
「ふぅ…」
「お、千織さん、おはよう!なんだい、風邪かい?」
「
「そーかい。なら良かったが、風邪もそうだがこの時期は火事も起きやすいから火の元にも気を付けるんだぞ。この間みたいに俺がすぐ駆け付けられるとも限らねえからな」
「えぇ。その節はありがとうございました。火事にも気を付けますね」
「おう!今日も道場に行くのかい?」
「え、えぇ。そうなんです、大家さんから聞いたんですか」
「まあな、精が出るな」
「ありがとうございます。では、そろそろ行きますね」
千織が頭を下げると亀助はひらひらと手を振りながら家に帰っていった。少し前に千織が火事の現場に居合わせてしまったのだが、火の勢いが強くなる中で逃げ遅れた千織をこの長屋の隣の隣に住む大工の亀助が抱えて救出してくれたのだ。そこから長屋や近所で出会うと二、三言話すようになり、今では立派なご近所さんの関係が築けている、と千織は思っている。そう言えば、うちの長屋で独り身なのは千織と亀助だけなこともあり、二人で話すようになった様が長屋の奥方達のお節介心をくすぐってしまったようで、やたらと千織と亀助をくっつけようと企てが行われているのには少し困っていた。今の千織には自身が誰かと所帯を持つということが想像もつかなかったからだ。何かしら仕事をして金を得て、衣食住を賄う。そんな日々を繰り返し、寿命でこの生を終える。そんな感じなんだろうか…それも想像できない。日々ただ生きているだけで精一杯で、でも、そんな生に意味はあるのだろうか……。
千織は人がまばらな通りを抜けて試衛館の外門の横にある小さなくぐり戸から中に入った。そのまま慣れた足取りで道場まで向かうと先に来ていたらしい斎藤が水を張った桶に雑巾を浸していた。最近はこうして早朝に試衛館を訪れ道場の一画を借りて稽古をするのが日課となっていた。
「おはようございます、斎藤さん」
「あぁ、水瀬か。今日も早いな」
斎藤は白い襟巻きをいつもより深く被っていて口元は見えないが、彼が言葉を紡ぐ度に白い息が宙へ消えていった。
「斎藤さんの方が早いじゃないですか」
「俺は昨夜、泊まったからな」
「そうでしたか。もしかして…また宴会をされたんですか?」
千織は少し揶揄いの気持ちを込めて聞いた。試衛館に出入りする回数を重ねていくうちに彼らの懐事情は千織も知るところとなったからだ。
「まぁ、そんな所だ。近藤さんの講武所教授方の話が現実味を帯びてきたから、皆浮き足立っている」
と、まるで他人事のように言う斎藤だが、その表情は柔らかく、いつもより口角が少し上がっているのが分かった。
「斎藤さんも嬉しそうですね」
「…あぁ、そう、だな。近藤さんの剣術が日の目を見るのは俺も嬉しく思う」
「そうですね。これで試衛館も盛り上がればいいですね。近藤さんのお子さんももうすぐ生まれますし」
「あぁ」
そうして掃除を終え、素振り、斎藤との打ち合いを終えた千織は汗を拭ってから帰り支度を整えていた。
「今日は朝餉は食べて行かないのか」
斎藤は涼しげな顔で汗を拭いながら聞いてきた。
「はい。今日はこれから依頼の約束があるのでこのまま出ようかと。すみません、もしかして私の分の朝餉も用意してくださっていました?」
「一応だがな。まあ、新八や平助辺りが食べるだろうから問題ない」
「すみません、いつも甘えてしまって。今度から先にお伝えしますね」
「あぁ。では、俺は朝餉の準備に向かう」
「はい。稽古、ありがとうございました」
斎藤と別れた千織は試衛館から少し歩いた先にある小料理屋を訪れた。今日はこの店の女将から依頼があったのだ。
「御免ください」
「…はーい!あ、便利屋さん?いらっしゃい!さっ、入っとくれ」
「失礼します」
「すまないね、朝早くから」
「いえ、それで、早速なのですが依頼内容を伺ってもよいでしょうか」
「そうだね、あなたに頼みたいのはボヤの調査なんだ」
「ボヤですか?」
「あぁ、実は数日前に店の裏口でボヤ騒ぎがあってね。幸い、すぐに気が付いて鎮火したから大事には至らなかったんだけど…」
それまでハキハキと話していた女将は突然、歯切れが悪くなり、言おうか言わまいか迷っているような素振りを見せた。
「何か気になる点でも…?」
千織が促すと、少し自信なさげに答えた。
「あぁ。確かに魚を七輪で焼いたり、裏口で火を扱うことはあるんだけどここ最近は裏口で火を使っていなったから、ボヤが起きる原因が分からないんだ。それであたしは…誰かが…その、放火したんじゃないかって思ってしまって」
「失礼ですが、誰かに恨まれているなど何か心当たりをお持ちなのですか?」
「いや、これと言ってはないよ。だから余計に怖くてね、誰かに恨まれているかもと考えたら…。それで調査して欲しくて……旦那には心配しすぎだって笑われたんだけどね。こんな依頼でも受けてくれるかい?」
「勿論です。火事に詳しい訳ではないのですが、手を尽くします」
女将は引き受けてもらえると安心したのか強張っていた肩を緩めた。
「ありがとう。よろしく頼むよ」
「では、裏口と普段使われている七輪を見せていただけますか?」
「あぁ。こっちだよ」
女将と一緒に裏口と七輪を確認したが特に気になる点はなかった。裏口側は細い道と建物に囲まれていて人目に付きにくい場所ではあったので、目撃者は期待できなさそうだ。
「手掛かりになりそうな物はないですね…」
「…やっぱり、あたしが心配しすぎなだけかねぇ」
「暫くの間、見張りと聞き込みをして情報を集めますね」
「あぁ。頼んだわね」
先日のボヤは早朝に起きたということだったので千織は午前中に裏口が見える場所で張り込みをし、午後から周辺で聞き込みをすることにした。
「……何か手掛かりが見つかればいいのだけれど」
千織の首筋を冷たい風が一筋、撫でていった。
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