第一章・江戸編
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第三話 試衛館
「で、総司とそれなりにやり合える程の実力者がわざわざ矢部道場の門下生と偽ってまで、何しにここに来たんだ?」
美形が睨んでくるとこんなに迫力があるのかと、やや場違いな事を考えながら千織はぼんやりと男を眺めた。黒い艶のある髪を高い位置で結い、役者顔負けの美丈夫だが、その表情は武人を思わせる鋭利さがあり、細身の体躯に少しくたびれた黒い着物を纏っている。だが、一番、目を引くのは紫色に光る冴え渡った双眸だった。
「ああーー!」
依頼主の男が大口を開けて美丈夫を指差している。皆、何事かと男と美丈夫を交互に見る。
「土方ァ!てめぇ、のこのこ現れやがって!!俺を侮辱してんのかッ!」
唾を飛ばして叫ぶ依頼主の男を土方は鬱陶しそうに見やった。
「土方さん、また行商の合間に道場破りでもしたんですか」
「あ?…まあな。多磨では昔、それなりに名の通った道場と聞いていたから腕試しをと思ったんだが、見ての通り大したことなくてな」
「なんだとお…!?」
土方の言葉で頭に血が上ったのか依頼主の男は顔を真っ赤にさせて土方を睨み付けている。ブルブルと握った手を震わせて、よほど勘に障ったようだ。
「ハァ。この間も言ったと思うが。道場は金でチンピラ集めてりゃ、形としては成り立つかもしれねぇがそれまでだ。その程度の志ならいつまで経っても試衛館 には勝てねえよ」
「ハッ!そんなことはどうだっていい!俺が頭に来てんのはよぉ、お前がこの俺を!見下してるってぇことだわ」
途端に依頼主の男の瞳に黒い影が下りる。瞳の焦点はもう誰にも合っておらず、どこでもない場所を見ているようだった。「俺は出来る奴なんだ」「道場を大きくしたらアイツらだって」「寄ってたかって俺を馬鹿にしやがって」ブツブツブツブツ。男の言葉は止まらない。そのまま、ふらふらとこちらに身体を向けたかと思えば、ふっと私に焦点が定まったのが分かった。
「…そもそも、橋であんな大太刀回りしてるから多少使えるかと思ったのに、お前もあっさり負けやがって…。まあ、でもいいか。試衛館はこれから、交流試合で挑んできた若い女をボッコボコに痛めつけたっていう不道徳な噂を背負うことになる訳だからな~ハハッ。俺はな、最初 から女ごときに期待なんかしてなかったんだよ!!」
依頼主の男は私にも敵意を剥き出しにしていた。なるほど、この男は女相手なら試合に勝っても負けても試衛館にとって良くない噂を流せると目論んでいて、私の剣術の実力なぞどうでも良かったという事だ。便利屋という仕事に自負があるかと言えば、そこまででもない筈なのに、こんな扱われ方をしたのは久し振りで怒りよりも悲しみが胸中をじわじわと渦巻き始めた。普段なら、こんな事で感情を動かされたりしないのに……一体、どうしてしまったんだろう。
私が自身の感情に追いつけずぴくりとも動けないでいる間に、頭を掻きむしった依頼主の男は「くそっ!」と叫んだかと思うと、くるりと背を向けて道場の出入り口にドシドシと歩いて行った。すると、
「でやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
床に転がっていた木刀を拾って、矢部道場のあの頼りなさげな男が駆け出した。依頼主の男がのろのろと振り返った先には、高く飛び上がった男が木刀を大きく振りかぶっていた。そして吸い込まれるように依頼主の男の額に木刀の切っ先が振り下ろされた。
ードサッ
声も上げず気を失った依頼主の男は支えを失った人形のように床に倒れ伏した。鮮やかに面 を撃った男は依頼主の男が倒れるのと同時に着地して立ち上がった。肩で息をするかのように身体を震わせる様はまだ頼りないが、確かに芯のある姿だった。胸に手を当てた男は大きく深呼吸をするとこちらに向き直り、膝をついた。
「この度は、当道場の者が試衛館の皆様、そして水瀬様にご無礼を働き誠に申し訳ございませんッ!矢部道場の道場主・矢部信之丞 としてここに謝罪いたしますッ」
と一息に言い切り、深々と頭を下げた。
「私に道場を継ぐ覚悟がなく、従兄弟であるこの者に流されるまま、ここまで来てしまいました。強い矢部道場にしたいという目的は同じだと思っておりましたので…。ですが、今日見聞きしたこの者の言葉で分かりました。それは間違っていたと。この者は自分の力量を誇示したいが為に道場を利用していたのだと思います。そして、私もまた、そんな従兄弟が為した事を自分が成した事として利用していただけで、己では何も出来ず……」
信之丞は思い余って言葉が続かないようでぐっと唇を噛みしめていた。そんな信之丞をじっと見つめていた土方は大きく溜息を吐き、頭を搔いた。
「まだ何も成せてねぇんなら、こっから成せばいい。それだけの話だ」
「…!……はい!」
土方の短くも力強い言葉に叱咤された信之丞は強く頷いた。真っ直ぐな信之丞の返事に毒気を抜かれたのか土方の瞳は幾分か和らいでいた。他の試衛館の二人もやれやれといった風で道場に穏やかな空気が戻ってきたのだった。
「あのさ、君の反省とか正直どうでもいいんだけど。試衛館や近藤さんに迷惑が掛かるような事、その人にやらせないようにしてよね」
沖田がわざと冷ややかに返すと信之丞はぶんぶんと首を縦に振った。
「も、勿論です!従兄弟 にはよく言い聞かせます。後日、改めて謝罪にまいります。本日はこれにて失礼を…あ、水瀬様!こちら本日の謝礼です。お納めください」
信之丞は懐から包み紙を取り出し渡してきた。
「ですが、試合には…」
「勝っても負けても従兄弟 には黙ってお渡しするつもりでした。寧ろこんな事に巻き込んで、従兄弟 が無礼な事を申して、足りないぐらいかと存じますが…」
信之丞は申し訳なさそうに眉を下げた。苛烈な従兄弟の傍にいると、どうしても頼りなさげな印象が強く、この男の生来ある人の良さが見えてこなかったが、何て事ない、自分で生きようともがく優しい青年の姿があった。
「私も便利屋なのにご期待に添えず、申し訳ないです。こちら有り難く頂戴します」
「はい、是非。それと、世辞などではなく水瀬様の太刀筋が本当に美しく、私もこんな風に刀を振るえるようになりたいと強く思いました。あなたのような剣士になりたいと…!」
やや前のめりな信之丞にどうすればいいかと困惑する千織だったが悪い気はしなかった。渦巻いて沈んだ心が浮上してくるのが分かった。
「…お互い精進しましょう。先程のあなたの太刀筋も真っ直ぐで見事でした」
「あ、ありがとうございます!それでは失礼いたします」
信之丞は一同に頭を下げるとまだ伸びている依頼主の男の肩を抱き上げてずるずると引きずりながら試衛館を去って行った。
「たっく。人騒がせな奴らだ。勝手に来て勝手に帰っていきやがった」
土方がぼやくように言うと、すっと斎藤が土方の傍に寄った。
「土方さん、申し訳ございません。お留守の間とは言え、俺と総司で交流試合を受けてしまいました」
「あぁ、構わねえよ。俺の蒔いた種だったしな。…まぁなんだ、手間を取らせたな」
「ほんとですよ~。あーあ、これは土方さんに何かしてもらわないと」
ニマニマと笑む沖田を土方は苦々しそうに見た。しっしと沖田に手を振ると、気を取り直すように土方が一歩、こちらに歩み寄ってきた。
「アンタも災難だったな。事情は何となく察した」
「いえ、依頼でしたから。それに、試合させていただけて有り難かったです。沖田さんも斎藤さんもありがとうございました。私もこれで失礼します」
千織は三人に頭を下げ道場を出る。そういえば、沖田から手拭いを借りたままだった。手拭いを手にして振り返ると、
「あの…「あぁ、その手拭い気に入ってたから洗って今度、返しに来てくれる?よろしくね」……分かりました。手拭い、お借りします」
沖田の有無を言わせぬ物言いに気圧され、そのまま懐に手拭いをしまった。
「では…失礼します」
今度こそ、試衛館の門をくぐった千織は足取り軽やかに人波に紛れていったのだった。
「で、総司とそれなりにやり合える程の実力者がわざわざ矢部道場の門下生と偽ってまで、何しにここに来たんだ?」
美形が睨んでくるとこんなに迫力があるのかと、やや場違いな事を考えながら千織はぼんやりと男を眺めた。黒い艶のある髪を高い位置で結い、役者顔負けの美丈夫だが、その表情は武人を思わせる鋭利さがあり、細身の体躯に少しくたびれた黒い着物を纏っている。だが、一番、目を引くのは紫色に光る冴え渡った双眸だった。
「ああーー!」
依頼主の男が大口を開けて美丈夫を指差している。皆、何事かと男と美丈夫を交互に見る。
「土方ァ!てめぇ、のこのこ現れやがって!!俺を侮辱してんのかッ!」
唾を飛ばして叫ぶ依頼主の男を土方は鬱陶しそうに見やった。
「土方さん、また行商の合間に道場破りでもしたんですか」
「あ?…まあな。多磨では昔、それなりに名の通った道場と聞いていたから腕試しをと思ったんだが、見ての通り大したことなくてな」
「なんだとお…!?」
土方の言葉で頭に血が上ったのか依頼主の男は顔を真っ赤にさせて土方を睨み付けている。ブルブルと握った手を震わせて、よほど勘に障ったようだ。
「ハァ。この間も言ったと思うが。道場は金でチンピラ集めてりゃ、形としては成り立つかもしれねぇがそれまでだ。その程度の志ならいつまで経っても
「ハッ!そんなことはどうだっていい!俺が頭に来てんのはよぉ、お前がこの俺を!見下してるってぇことだわ」
途端に依頼主の男の瞳に黒い影が下りる。瞳の焦点はもう誰にも合っておらず、どこでもない場所を見ているようだった。「俺は出来る奴なんだ」「道場を大きくしたらアイツらだって」「寄ってたかって俺を馬鹿にしやがって」ブツブツブツブツ。男の言葉は止まらない。そのまま、ふらふらとこちらに身体を向けたかと思えば、ふっと私に焦点が定まったのが分かった。
「…そもそも、橋であんな大太刀回りしてるから多少使えるかと思ったのに、お前もあっさり負けやがって…。まあ、でもいいか。試衛館はこれから、交流試合で挑んできた若い女をボッコボコに痛めつけたっていう不道徳な噂を背負うことになる訳だからな~ハハッ。俺はな、
依頼主の男は私にも敵意を剥き出しにしていた。なるほど、この男は女相手なら試合に勝っても負けても試衛館にとって良くない噂を流せると目論んでいて、私の剣術の実力なぞどうでも良かったという事だ。便利屋という仕事に自負があるかと言えば、そこまででもない筈なのに、こんな扱われ方をしたのは久し振りで怒りよりも悲しみが胸中をじわじわと渦巻き始めた。普段なら、こんな事で感情を動かされたりしないのに……一体、どうしてしまったんだろう。
私が自身の感情に追いつけずぴくりとも動けないでいる間に、頭を掻きむしった依頼主の男は「くそっ!」と叫んだかと思うと、くるりと背を向けて道場の出入り口にドシドシと歩いて行った。すると、
「でやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
床に転がっていた木刀を拾って、矢部道場のあの頼りなさげな男が駆け出した。依頼主の男がのろのろと振り返った先には、高く飛び上がった男が木刀を大きく振りかぶっていた。そして吸い込まれるように依頼主の男の額に木刀の切っ先が振り下ろされた。
ードサッ
声も上げず気を失った依頼主の男は支えを失った人形のように床に倒れ伏した。鮮やかに
「この度は、当道場の者が試衛館の皆様、そして水瀬様にご無礼を働き誠に申し訳ございませんッ!矢部道場の道場主・矢部
と一息に言い切り、深々と頭を下げた。
「私に道場を継ぐ覚悟がなく、従兄弟であるこの者に流されるまま、ここまで来てしまいました。強い矢部道場にしたいという目的は同じだと思っておりましたので…。ですが、今日見聞きしたこの者の言葉で分かりました。それは間違っていたと。この者は自分の力量を誇示したいが為に道場を利用していたのだと思います。そして、私もまた、そんな従兄弟が為した事を自分が成した事として利用していただけで、己では何も出来ず……」
信之丞は思い余って言葉が続かないようでぐっと唇を噛みしめていた。そんな信之丞をじっと見つめていた土方は大きく溜息を吐き、頭を搔いた。
「まだ何も成せてねぇんなら、こっから成せばいい。それだけの話だ」
「…!……はい!」
土方の短くも力強い言葉に叱咤された信之丞は強く頷いた。真っ直ぐな信之丞の返事に毒気を抜かれたのか土方の瞳は幾分か和らいでいた。他の試衛館の二人もやれやれといった風で道場に穏やかな空気が戻ってきたのだった。
「あのさ、君の反省とか正直どうでもいいんだけど。試衛館や近藤さんに迷惑が掛かるような事、その人にやらせないようにしてよね」
沖田がわざと冷ややかに返すと信之丞はぶんぶんと首を縦に振った。
「も、勿論です!
信之丞は懐から包み紙を取り出し渡してきた。
「ですが、試合には…」
「勝っても負けても
信之丞は申し訳なさそうに眉を下げた。苛烈な従兄弟の傍にいると、どうしても頼りなさげな印象が強く、この男の生来ある人の良さが見えてこなかったが、何て事ない、自分で生きようともがく優しい青年の姿があった。
「私も便利屋なのにご期待に添えず、申し訳ないです。こちら有り難く頂戴します」
「はい、是非。それと、世辞などではなく水瀬様の太刀筋が本当に美しく、私もこんな風に刀を振るえるようになりたいと強く思いました。あなたのような剣士になりたいと…!」
やや前のめりな信之丞にどうすればいいかと困惑する千織だったが悪い気はしなかった。渦巻いて沈んだ心が浮上してくるのが分かった。
「…お互い精進しましょう。先程のあなたの太刀筋も真っ直ぐで見事でした」
「あ、ありがとうございます!それでは失礼いたします」
信之丞は一同に頭を下げるとまだ伸びている依頼主の男の肩を抱き上げてずるずると引きずりながら試衛館を去って行った。
「たっく。人騒がせな奴らだ。勝手に来て勝手に帰っていきやがった」
土方がぼやくように言うと、すっと斎藤が土方の傍に寄った。
「土方さん、申し訳ございません。お留守の間とは言え、俺と総司で交流試合を受けてしまいました」
「あぁ、構わねえよ。俺の蒔いた種だったしな。…まぁなんだ、手間を取らせたな」
「ほんとですよ~。あーあ、これは土方さんに何かしてもらわないと」
ニマニマと笑む沖田を土方は苦々しそうに見た。しっしと沖田に手を振ると、気を取り直すように土方が一歩、こちらに歩み寄ってきた。
「アンタも災難だったな。事情は何となく察した」
「いえ、依頼でしたから。それに、試合させていただけて有り難かったです。沖田さんも斎藤さんもありがとうございました。私もこれで失礼します」
千織は三人に頭を下げ道場を出る。そういえば、沖田から手拭いを借りたままだった。手拭いを手にして振り返ると、
「あの…「あぁ、その手拭い気に入ってたから洗って今度、返しに来てくれる?よろしくね」……分かりました。手拭い、お借りします」
沖田の有無を言わせぬ物言いに気圧され、そのまま懐に手拭いをしまった。
「では…失礼します」
今度こそ、試衛館の門をくぐった千織は足取り軽やかに人波に紛れていったのだった。