第一章・江戸編
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第二話 試合
雪は止まない。少女の存在までも飲み込んでしまおうとするかのように…。
かじかむ指も構わず少女は土を掘り続ける。
少女の後ろには無数の盛り土が静かに並んでいる。どこまでも、どこまでも――。
いつもより少し早くに目が覚めた。白っぽい朝の光を浴びながら腕をぐっと伸ばす。うん、身体の調子も良さそうだ。寝間着を脱いで、サラシを胸から腹にかけて丁寧に巻く。着物、袴を身につけ、椿を象った櫛で髪を梳き一つに束ねる。大家からもらった赤い手鏡を見ながら、薬指で紅を少し取り唇に乗せて薄く伸ばしていく。唇が薄紅色から薄い紅色に染まるこの瞬間が好きだ。
私じゃない、強い私になれた気がするから。
交流試合というから大所帯で行くものと思っていたけれど、実際に集まっていたのは依頼してきた男と小柄でどことなく頼りなさげな男の二人だけだった。
「んじゃ、行きやしょうか!試衛館のやつらをコテンパンにしてやりましょうねえ」
男は相変わらず趣味の悪い着物で、笑い方までも趣味が悪かった。あまり良い依頼主とは言えなさそうだが、前金を受け取った上に店賃のこともある。門下生として試合に出て、さっさと離れよう。そう決めて私は男達のあとについていった。
「ここだな」
江戸一番の貧乏道場というから寂れた場所にあるのかと思えば、店々が建ち並ぶ活気のある場所にあった。喧噪を背に門をくぐると戸が開け放たれた、小さいがどこか威厳のある道場が出迎えてくれた。艶々とした木張りの床、奥には掛け軸のかかった床の間と壁に掛けられた何振りもの木刀が見えた。ここが試衛館…。人がいないからか、やけに広く見えた。
「誰かいねえのか~?土方ァ~わざわざ来てやったぞ」
男がズカズカと道場の方に近づいて不躾に覗き込む。私は少し離れた所からその様子をうかがった。奥から二人、こちらにやって来る気配がする。
「何の用だが知らないけど、土方さんならいないよ」
どこか飄々とした茶髪の青年が答えた。後ろには白い襟巻きをした青年が静かに立っている。
「あ?土方いねえのか。まあ、いいや、矢部道場として、ここの道場に試合を申し込む。土方がいないならお前らでもいいぜ」
「アッハハ。土方さんもまた失礼な人に目を付けられたみたいだね。尻拭いするのは癪だけど、まぁ暇だし。いいよ、やろっか」
「総司。道場同士のことは俺達の一存で決めるべきではない」
襟巻きの青年がたしなめるように言う。総司と呼ばれた青年はやれやれと肩をすくめてみせた。
「今は近藤さんも土方さんもいないんだから、仕方ないんじゃない?僕らで対処できるし、構わないでしょ」
試衛館の二人のやり取りを見ていた男は煩わしそうに頭を搔いて、縁側に腰掛けて草履を脱ぎ出した。
「さっさとやろうぜ。ほら、先生っ。お願いします!」
男はやけにイイ笑顔で私に手招きしてくる。先生って…。詳細に依頼内容を聞かなかった私が悪い。ここまで来てしまったのだ、なんだか面倒そうだが、やるしかないだろう…。私は試衛館の二人に会釈して草履を脱いだ。
「へえ、君がこの中で一番強いんだ。道場に関わる事だし女の子だろうと手加減はしないよ」
茶髪の青年は口元に笑みを浮かべるが、その目はどこか冷めていた。襟巻きの青年も観察するように蒼い瞳でこちらをじっと見ている。
「…ええ。試合、よろしくお願いいたします」
「うん、よろしく」
私は試衛館の二人にならって一礼をして道場に足を踏み入れた。
軋む木の感触、凜と冴えた空気、木と微かな汗の匂い。自然と背筋が伸びるが、それが嫌な感覚じゃない。
思わず緩んだ口角に触れる。私、今、笑えてた…?
刀と荷物を隅に置こうとすると頼りなさげな男が無言で手を差し出してきたのでそのまま預けた。
「君、防具は着ける?僕、竹刀より木刀の方がいいんだけど?」
「防具は必要ありません。木刀で大丈夫です」
「そ?ウチの木刀、普通より太いから扱いづらかったらごめんね」
全く申し訳なく無さそうな態度で茶髪の青年が木刀を渡してきた。
「ありがとうございます。私、矢部道場門下生の水瀬千織と申します」
「ああ、そういえば、まだ名乗ってなかったね。試衛館塾頭の沖田総司です。よろしくね。じゃ、やろうか。一君、審判お願い」
「あぁ」
一君と呼ばれた襟巻きの青年は道場の中心辺りに立つ。私と沖田は一礼し木刀を構えて対峙した。沖田の木刀の切っ先は私のそれより拳、数個分上にあった。襟巻きの青年が静かに右手を挙げ「始めッ」の声と共に振り下ろした。
「やっちまえ!先生!」
道場の隅で依頼主の男が騒いでいるが、それも気にならないくらい集中力が高まっていく。試合が始まると同時に沖田の気配が変わったからだ。飄々さは変わらないのに隙が見えない。ちょうど良い間合いを測りかねていると沖田が前に出てきた。
「来ないならこっちから行くね」
横になぐように木刀が振られる。私も動こう。半身で避けた足を半回転させ沖田の間合いに入り込む。そのまま下から切り上げるも返した木刀で受け止められる。下からだと力を込められない。すぐさま、競り合いを止め木刀を胸めがけて突く。沖田は少し目を見開いて、後ろに飛んで距離をあけた。
「…へぇ。いい動きだね」
ニヤリと笑った沖田は体勢を立て直したかと思うと、中段に木刀を構えて立て続けに打ち込んできた。木刀を持つ手がビリビリする程の力だ。一体、この細身の身体のどこからこんな力が湧くのだろう。
「くっ」
思うように木刀が振るえない、苦しい、重い。こんな相手は久々だった。でも、だからこそ楽しい。私も負けじと続けざまに木刀を打ち込む。
ーカン、カンカン
木のぶつかり合う高い音が響く道場で、誰もが固唾を飲んで試合を見つめていた。力と技量は沖田の方が優勢だが、素早さは水瀬が勝っていた。打ち合いの応酬が何百回目かに達した頃、沖田が動いた。
「君、よく動くね。じゃあ…これはどう、かなッ!」
沖田が平正眼の構えから一歩大きく踏み込んできた。私は顔めがけて突かれる木刀を頭を後方に反らすことで避けたが、息つく間もなく次の突きが喉に襲いかかってきた。太刀筋を喉から逸らそうとすぐさま木刀で受ける構えを取ったが、私が構えるより一瞬早く沖田の木刀が方向を変え、私の胸にその切っ先を運んでいた。一歩という刹那の間に三度の突きが繰り出されたのだ。なんとか沖田の動きを見切ったが、完全に防ぐには間に合わず、私は道場の壁際まで吹っ飛ばされた。
「一本、沖田総司」
襟巻きの青年の声により試合は終了した。受け身を取ったので派手な衝撃音の割には背中は痛くないが、これだけ長い打ち合いをしたのは久し振りで、程よい疲労感が身体を包みすぐには動けなかった。
「大丈夫か?」
審判をしていた襟巻きの青年が私の傍までやって来て声を掛けた。声色は相変わらず硬いが、先程より和らいだ瞳を見て、私を心配して声を掛けてくれたのだと伝わった。
「…ええ。少し疲れましたが」
「総司とこれだけ打ち合えば俺でもすぐには動けまい。女子の身ならば尚更だろう」
これは…労って、くれて…いる?
「へぇ、一君から声を掛けるなんて珍しいね。その子に興味持ったの?」
手拭いで汗を拭きながら沖田が悪い笑みを浮かべてやって来る。
「…俺は審判として彼女に怪我の有無を尋ねただけだ」
襟巻きの青年は沖田の挑発には乗らず、憮然と答える。
「なぁんだ、つまんないの。…ま、僕はちょっと興味あるけどね。女の子でこんな腕前の子、今まで見たことなかったから」
沖田はどこか意味ありげな表情で、はいともう一枚の手拭いを私に寄越してきた。
「あ、ありがとうございます…」
有り難く手拭いで汗を拭っていると、道場の奥、恐らく母屋と道場を繋ぐ渡り廊下への出入り口から見知らぬ声が発せられた。
「で、総司と渡り合える程の実力者がわざわざ矢部道場の門下生と偽ってまで、何しにここに来たんだ?」
そこには役者顔負けの美しい容姿をした男が壁を背に立っていた。
雪は止まない。少女の存在までも飲み込んでしまおうとするかのように…。
かじかむ指も構わず少女は土を掘り続ける。
少女の後ろには無数の盛り土が静かに並んでいる。どこまでも、どこまでも――。
いつもより少し早くに目が覚めた。白っぽい朝の光を浴びながら腕をぐっと伸ばす。うん、身体の調子も良さそうだ。寝間着を脱いで、サラシを胸から腹にかけて丁寧に巻く。着物、袴を身につけ、椿を象った櫛で髪を梳き一つに束ねる。大家からもらった赤い手鏡を見ながら、薬指で紅を少し取り唇に乗せて薄く伸ばしていく。唇が薄紅色から薄い紅色に染まるこの瞬間が好きだ。
私じゃない、強い私になれた気がするから。
交流試合というから大所帯で行くものと思っていたけれど、実際に集まっていたのは依頼してきた男と小柄でどことなく頼りなさげな男の二人だけだった。
「んじゃ、行きやしょうか!試衛館のやつらをコテンパンにしてやりましょうねえ」
男は相変わらず趣味の悪い着物で、笑い方までも趣味が悪かった。あまり良い依頼主とは言えなさそうだが、前金を受け取った上に店賃のこともある。門下生として試合に出て、さっさと離れよう。そう決めて私は男達のあとについていった。
「ここだな」
江戸一番の貧乏道場というから寂れた場所にあるのかと思えば、店々が建ち並ぶ活気のある場所にあった。喧噪を背に門をくぐると戸が開け放たれた、小さいがどこか威厳のある道場が出迎えてくれた。艶々とした木張りの床、奥には掛け軸のかかった床の間と壁に掛けられた何振りもの木刀が見えた。ここが試衛館…。人がいないからか、やけに広く見えた。
「誰かいねえのか~?土方ァ~わざわざ来てやったぞ」
男がズカズカと道場の方に近づいて不躾に覗き込む。私は少し離れた所からその様子をうかがった。奥から二人、こちらにやって来る気配がする。
「何の用だが知らないけど、土方さんならいないよ」
どこか飄々とした茶髪の青年が答えた。後ろには白い襟巻きをした青年が静かに立っている。
「あ?土方いねえのか。まあ、いいや、矢部道場として、ここの道場に試合を申し込む。土方がいないならお前らでもいいぜ」
「アッハハ。土方さんもまた失礼な人に目を付けられたみたいだね。尻拭いするのは癪だけど、まぁ暇だし。いいよ、やろっか」
「総司。道場同士のことは俺達の一存で決めるべきではない」
襟巻きの青年がたしなめるように言う。総司と呼ばれた青年はやれやれと肩をすくめてみせた。
「今は近藤さんも土方さんもいないんだから、仕方ないんじゃない?僕らで対処できるし、構わないでしょ」
試衛館の二人のやり取りを見ていた男は煩わしそうに頭を搔いて、縁側に腰掛けて草履を脱ぎ出した。
「さっさとやろうぜ。ほら、先生っ。お願いします!」
男はやけにイイ笑顔で私に手招きしてくる。先生って…。詳細に依頼内容を聞かなかった私が悪い。ここまで来てしまったのだ、なんだか面倒そうだが、やるしかないだろう…。私は試衛館の二人に会釈して草履を脱いだ。
「へえ、君がこの中で一番強いんだ。道場に関わる事だし女の子だろうと手加減はしないよ」
茶髪の青年は口元に笑みを浮かべるが、その目はどこか冷めていた。襟巻きの青年も観察するように蒼い瞳でこちらをじっと見ている。
「…ええ。試合、よろしくお願いいたします」
「うん、よろしく」
私は試衛館の二人にならって一礼をして道場に足を踏み入れた。
軋む木の感触、凜と冴えた空気、木と微かな汗の匂い。自然と背筋が伸びるが、それが嫌な感覚じゃない。
思わず緩んだ口角に触れる。私、今、笑えてた…?
刀と荷物を隅に置こうとすると頼りなさげな男が無言で手を差し出してきたのでそのまま預けた。
「君、防具は着ける?僕、竹刀より木刀の方がいいんだけど?」
「防具は必要ありません。木刀で大丈夫です」
「そ?ウチの木刀、普通より太いから扱いづらかったらごめんね」
全く申し訳なく無さそうな態度で茶髪の青年が木刀を渡してきた。
「ありがとうございます。私、矢部道場門下生の水瀬千織と申します」
「ああ、そういえば、まだ名乗ってなかったね。試衛館塾頭の沖田総司です。よろしくね。じゃ、やろうか。一君、審判お願い」
「あぁ」
一君と呼ばれた襟巻きの青年は道場の中心辺りに立つ。私と沖田は一礼し木刀を構えて対峙した。沖田の木刀の切っ先は私のそれより拳、数個分上にあった。襟巻きの青年が静かに右手を挙げ「始めッ」の声と共に振り下ろした。
「やっちまえ!先生!」
道場の隅で依頼主の男が騒いでいるが、それも気にならないくらい集中力が高まっていく。試合が始まると同時に沖田の気配が変わったからだ。飄々さは変わらないのに隙が見えない。ちょうど良い間合いを測りかねていると沖田が前に出てきた。
「来ないならこっちから行くね」
横になぐように木刀が振られる。私も動こう。半身で避けた足を半回転させ沖田の間合いに入り込む。そのまま下から切り上げるも返した木刀で受け止められる。下からだと力を込められない。すぐさま、競り合いを止め木刀を胸めがけて突く。沖田は少し目を見開いて、後ろに飛んで距離をあけた。
「…へぇ。いい動きだね」
ニヤリと笑った沖田は体勢を立て直したかと思うと、中段に木刀を構えて立て続けに打ち込んできた。木刀を持つ手がビリビリする程の力だ。一体、この細身の身体のどこからこんな力が湧くのだろう。
「くっ」
思うように木刀が振るえない、苦しい、重い。こんな相手は久々だった。でも、だからこそ楽しい。私も負けじと続けざまに木刀を打ち込む。
ーカン、カンカン
木のぶつかり合う高い音が響く道場で、誰もが固唾を飲んで試合を見つめていた。力と技量は沖田の方が優勢だが、素早さは水瀬が勝っていた。打ち合いの応酬が何百回目かに達した頃、沖田が動いた。
「君、よく動くね。じゃあ…これはどう、かなッ!」
沖田が平正眼の構えから一歩大きく踏み込んできた。私は顔めがけて突かれる木刀を頭を後方に反らすことで避けたが、息つく間もなく次の突きが喉に襲いかかってきた。太刀筋を喉から逸らそうとすぐさま木刀で受ける構えを取ったが、私が構えるより一瞬早く沖田の木刀が方向を変え、私の胸にその切っ先を運んでいた。一歩という刹那の間に三度の突きが繰り出されたのだ。なんとか沖田の動きを見切ったが、完全に防ぐには間に合わず、私は道場の壁際まで吹っ飛ばされた。
「一本、沖田総司」
襟巻きの青年の声により試合は終了した。受け身を取ったので派手な衝撃音の割には背中は痛くないが、これだけ長い打ち合いをしたのは久し振りで、程よい疲労感が身体を包みすぐには動けなかった。
「大丈夫か?」
審判をしていた襟巻きの青年が私の傍までやって来て声を掛けた。声色は相変わらず硬いが、先程より和らいだ瞳を見て、私を心配して声を掛けてくれたのだと伝わった。
「…ええ。少し疲れましたが」
「総司とこれだけ打ち合えば俺でもすぐには動けまい。女子の身ならば尚更だろう」
これは…労って、くれて…いる?
「へぇ、一君から声を掛けるなんて珍しいね。その子に興味持ったの?」
手拭いで汗を拭きながら沖田が悪い笑みを浮かべてやって来る。
「…俺は審判として彼女に怪我の有無を尋ねただけだ」
襟巻きの青年は沖田の挑発には乗らず、憮然と答える。
「なぁんだ、つまんないの。…ま、僕はちょっと興味あるけどね。女の子でこんな腕前の子、今まで見たことなかったから」
沖田はどこか意味ありげな表情で、はいともう一枚の手拭いを私に寄越してきた。
「あ、ありがとうございます…」
有り難く手拭いで汗を拭っていると、道場の奥、恐らく母屋と道場を繋ぐ渡り廊下への出入り口から見知らぬ声が発せられた。
「で、総司と渡り合える程の実力者がわざわざ矢部道場の門下生と偽ってまで、何しにここに来たんだ?」
そこには役者顔負けの美しい容姿をした男が壁を背に立っていた。
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