第一章・江戸編
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第一話 便利屋
まるで雪がこの場で起こった惨劇を隠そうとするかのように、しんしんと降り積もっていく。
私はただ一人、立ち尽くし慟哭する。
それでも雪はやまない……
「いた」
黒い艶やかな髪を一つに束ね、腰に短めの刀を携えた女が静かに木を見上げている。その視線の先にはゆらゆらと尻尾を揺らした、茶色い毛並みの猫が挑発的な表情で女を見下ろしている。女は手近な枝を掴み、幹の窪みに足をかけたかと思うと一塵の風が吹いて、一瞬のうちに猫を見下ろしていた。猫が身体を屈めて逃げようとする前に首根っこをひょいと掴み上げその胸に抱く。
「にゃーん…」
先程の余裕の表情はどこへやら、猫は降参とでも言うようにか細く鳴いた。
「あぁ!小太郎!良かった、無事で…」
依頼主の女は猫に顔を擦りつけるようにぐりぐりと搔き抱いた。
「う、うにゃ…」
猫の苦しそうな声もそこそこに依頼主はその勢いのまま女の手を握った。
「本当にありがとうね~便利屋さん!はい、これ依頼料!また何かあったら頼むわね」
「えぇ、どうぞご贔屓に」
女は金を懐にしまい、ぺこりと頭を下げた。
今月初の依頼はこうして幕を閉じた。
ドクダミが生い茂った少し傾いた長屋の奥の一画が私の家だ。ここに住んで三年になるが、初めて今月の店賃 が払えないかもしれないという危機に瀕している。
「ひい、ふう、みい……」
何度、数えても足りないものは足りない。どうしたものか、ここの大家には何かとお世話になっているから迷惑は掛けたくない。店賃の支払いまであと三日。ただ、依頼を待つには心許ない日数だった。
「おぉ、便利屋さん!その節はどうも!え?何か困ってること?今は特にねぇなぁ〜」
次。
「あら、千織ちゃん。今日は大根が美味しいわよ〜!はい、毎度!……依頼してあげたいけど、困ったことがなくてねぇ。また、何かあればお願いするわね」
次……。
「今月はうちも客入りが悪くてねぇ。また人手が足りなくなった時にお願いするよ!」
自分から売り込もうと知り合いを訪ねるも、こんなに依頼がないなんて……。
肩を落とし帰ろうとしたところ、少し離れた橋に人だかりができていた。同心を呼んでくると男がバタバタと横を通り過ぎていく。人の間から覗くと小さな橋のど真ん中で浪人風の男が二人、真剣を構えて睨み合っている。どちらも酔っているのか顔が紅潮し、手元が揺れている。やれ!やれ!と煽る者、迷惑そうに遠くから見る者、危なそうだと逃げる者。三者三様の人だかりがだんだんと大きくなっていく。黒船来航以来、どこかピリピリとした空気が漂い続けている今の江戸でこうしたいざこざは何も珍しいことではないため、普段だったら素通りするのだが、如何せん、いざこざの舞台となっている橋が私の帰り道なのである。依頼も得られず帰り道も塞がれ、踏んだり蹴ったりな状況に何かが切れた。
「…失礼」
人並みを割くようにゆったりと、だがどこか有無を言わせぬ迫力をともなって女は橋の中央へ向かっていく。ざわめきがだんだんとその矛先を変えていく。いまだ向き合ったまま、その刀を今すぐ振りかぶってもおかしくはない程の高まりに包まれている男達だけがその変化に気付けずにいた。
震える切っ先を相手の鼻っ面に向けて刀を構えようとするが、これがなかなか合わない。自分の中にあった苛立ちの原因も覚えていないが、高まる熱はこの刀を振るわないと治まらねえ。合え、合え、合え…切っ先が合えばこいつを斬れる。自分から発せられる熱がだんだんと周りにまで浸透していくような感覚を抱いた男の、真っ赤な視界の中にふと音もなく冷たい青が入り込んできた。
「双方、刀を納めてください」
静かだがどこか反抗できない気迫のある声だった。先程より明瞭になった視界で、刀の切っ先の傍に女が立っているのが見えた。もう陽も落ちかけて薄闇がにじり寄る中でも、女にはどこか圧倒させられる存在感がある。刀を見つめていた深い茶色の双眸がふっと持ち上げられて視線が交わった。ぞわり…。
「なん…なんだ……」
知らずに自分の口から発せられる言葉。この女は危険、そう何故か頭に浮かんだ。柄を握る手のひらに汗が滲む。危険、斬る、怖い、逃げる、こわい、斬、る、……斬る!
「…てりゃぁぁぁぁぁぁぁァァァ!」
本能的な恐怖に急かされた男は突然現れた女にそのまま力いっぱい刀を振り下ろした。
―ガキンッ
一塵の風が吹いた。
この場の誰もが固唾を飲む中、女はいつの間にか鞘から少し抜いた刀の峰で男の刀を受け止めていた。十数人がいて誰も女の動きを目で追えない程の早業だった。女は振り下ろされた勢いを受け流して、腕を少し前に出すようにして刀を弾き返した。女の束ねられた髪が揺れて肩に流れた。男はその力に抗えず、刀と共にひっくり返り頭を打ったのかガクリと気を失った。男と対峙していた浪人も「ひぃっ」と腰を抜かし刀も放り出して人だかりをかき分けて逃げていった。女は引き抜いた刀をそっと鞘に収め、その鍔を親指で撫でた。
ーパチ、パチ、パチ…
さざ波のように人だかりから拍手が起こり、どこか興奮した視線が女に向けられた。江戸の人間はどんなものでも騒いでしまう性 なのだろう。野次も飛んで浪人達の時と変わらない喧噪が再び橋を包んだ。
「よっ、女剣士!」
「格好良かったぜ~」
「大したもんだァ」
女は居心地悪そうに軽く頭を下げると、そそくさと橋を渡っていった。
同心が収めるのを待てば良かった、そう後悔しても後の祭り。私は無闇に人前で刀を振るうべきではない。幕府や為政者達に目を付けられるきっかけがどこにあるか分からないのだから騒ぎは避けなければ…目立たず、人に紛れて生きていくことが今の私の、生き方なのだ。
便利屋を生業にできてきて、家があって、知り合いもできて…
「少し、気が緩んでいるのかも…」
「…待ってくれぇ、女剣士さん!!」
振り返ると上質そうだが少し趣味の悪い着物を着た男が駆け寄ってきた。
「…何かご用ですか」
「ハァ、ハァ。アンタに頼みてえことがあんだ!明日、道場の交流試合にウチの門下生として出てくれ!謝礼はちゃんと払う!これでどうだ?」
男が手で金額を示す。それは目下の悩みであった店賃を優に支払える額であった。ごくりと喉が鳴る。
「分かりました。お受けします」
「本当か!いやあ~助かる!さっきの橋でのアンタの大立ち回り見てよ、ピーンと来たんだ。頼めるのはアンタしかいねえって――」
引き受けてもらって安心したのか男はペラペラと話し出した。
「ただ、私の剣術はほとんど独学で幼い頃に道場で作法を少し習った程度ですが…」
「あァ、作法だとかは全然へーきだ。なにせ、相手は江戸屈指の貧乏道場だからな~そんなお上品なモノ分からないやつらばかりだろう」
男は集合場所と時間を早口に捲し立てると、さっさと背を向けて歩き出そうとしている。あっ、そう言えば、
「あの、その道場の名は何というところですか?」
「あれ?言ってませんでしたかい?名前はーー」
行灯を消し夜具に包まる。何だかんだあったが、依頼を得られて店賃の支払いに目途がついたので安心して眠れるはず、だったのだが、明日の試合が思いのほか楽しみで目が冴えてしまった。こんな気持ちになるのは久し振りだった。剣術を修めようとする者として、道場という場所は私にとって昔から憧れであった。
一体、どんな人達がいるのだろう…。
「試衛館…か…」
良い試合ができればと思いながら、私はようやく眠りにつくのだった。
まるで雪がこの場で起こった惨劇を隠そうとするかのように、しんしんと降り積もっていく。
私はただ一人、立ち尽くし慟哭する。
それでも雪はやまない……
「いた」
黒い艶やかな髪を一つに束ね、腰に短めの刀を携えた女が静かに木を見上げている。その視線の先にはゆらゆらと尻尾を揺らした、茶色い毛並みの猫が挑発的な表情で女を見下ろしている。女は手近な枝を掴み、幹の窪みに足をかけたかと思うと一塵の風が吹いて、一瞬のうちに猫を見下ろしていた。猫が身体を屈めて逃げようとする前に首根っこをひょいと掴み上げその胸に抱く。
「にゃーん…」
先程の余裕の表情はどこへやら、猫は降参とでも言うようにか細く鳴いた。
「あぁ!小太郎!良かった、無事で…」
依頼主の女は猫に顔を擦りつけるようにぐりぐりと搔き抱いた。
「う、うにゃ…」
猫の苦しそうな声もそこそこに依頼主はその勢いのまま女の手を握った。
「本当にありがとうね~便利屋さん!はい、これ依頼料!また何かあったら頼むわね」
「えぇ、どうぞご贔屓に」
女は金を懐にしまい、ぺこりと頭を下げた。
今月初の依頼はこうして幕を閉じた。
ドクダミが生い茂った少し傾いた長屋の奥の一画が私の家だ。ここに住んで三年になるが、初めて今月の
「ひい、ふう、みい……」
何度、数えても足りないものは足りない。どうしたものか、ここの大家には何かとお世話になっているから迷惑は掛けたくない。店賃の支払いまであと三日。ただ、依頼を待つには心許ない日数だった。
「おぉ、便利屋さん!その節はどうも!え?何か困ってること?今は特にねぇなぁ〜」
次。
「あら、千織ちゃん。今日は大根が美味しいわよ〜!はい、毎度!……依頼してあげたいけど、困ったことがなくてねぇ。また、何かあればお願いするわね」
次……。
「今月はうちも客入りが悪くてねぇ。また人手が足りなくなった時にお願いするよ!」
自分から売り込もうと知り合いを訪ねるも、こんなに依頼がないなんて……。
肩を落とし帰ろうとしたところ、少し離れた橋に人だかりができていた。同心を呼んでくると男がバタバタと横を通り過ぎていく。人の間から覗くと小さな橋のど真ん中で浪人風の男が二人、真剣を構えて睨み合っている。どちらも酔っているのか顔が紅潮し、手元が揺れている。やれ!やれ!と煽る者、迷惑そうに遠くから見る者、危なそうだと逃げる者。三者三様の人だかりがだんだんと大きくなっていく。黒船来航以来、どこかピリピリとした空気が漂い続けている今の江戸でこうしたいざこざは何も珍しいことではないため、普段だったら素通りするのだが、如何せん、いざこざの舞台となっている橋が私の帰り道なのである。依頼も得られず帰り道も塞がれ、踏んだり蹴ったりな状況に何かが切れた。
「…失礼」
人並みを割くようにゆったりと、だがどこか有無を言わせぬ迫力をともなって女は橋の中央へ向かっていく。ざわめきがだんだんとその矛先を変えていく。いまだ向き合ったまま、その刀を今すぐ振りかぶってもおかしくはない程の高まりに包まれている男達だけがその変化に気付けずにいた。
震える切っ先を相手の鼻っ面に向けて刀を構えようとするが、これがなかなか合わない。自分の中にあった苛立ちの原因も覚えていないが、高まる熱はこの刀を振るわないと治まらねえ。合え、合え、合え…切っ先が合えばこいつを斬れる。自分から発せられる熱がだんだんと周りにまで浸透していくような感覚を抱いた男の、真っ赤な視界の中にふと音もなく冷たい青が入り込んできた。
「双方、刀を納めてください」
静かだがどこか反抗できない気迫のある声だった。先程より明瞭になった視界で、刀の切っ先の傍に女が立っているのが見えた。もう陽も落ちかけて薄闇がにじり寄る中でも、女にはどこか圧倒させられる存在感がある。刀を見つめていた深い茶色の双眸がふっと持ち上げられて視線が交わった。ぞわり…。
「なん…なんだ……」
知らずに自分の口から発せられる言葉。この女は危険、そう何故か頭に浮かんだ。柄を握る手のひらに汗が滲む。危険、斬る、怖い、逃げる、こわい、斬、る、……斬る!
「…てりゃぁぁぁぁぁぁぁァァァ!」
本能的な恐怖に急かされた男は突然現れた女にそのまま力いっぱい刀を振り下ろした。
―ガキンッ
一塵の風が吹いた。
この場の誰もが固唾を飲む中、女はいつの間にか鞘から少し抜いた刀の峰で男の刀を受け止めていた。十数人がいて誰も女の動きを目で追えない程の早業だった。女は振り下ろされた勢いを受け流して、腕を少し前に出すようにして刀を弾き返した。女の束ねられた髪が揺れて肩に流れた。男はその力に抗えず、刀と共にひっくり返り頭を打ったのかガクリと気を失った。男と対峙していた浪人も「ひぃっ」と腰を抜かし刀も放り出して人だかりをかき分けて逃げていった。女は引き抜いた刀をそっと鞘に収め、その鍔を親指で撫でた。
ーパチ、パチ、パチ…
さざ波のように人だかりから拍手が起こり、どこか興奮した視線が女に向けられた。江戸の人間はどんなものでも騒いでしまう
「よっ、女剣士!」
「格好良かったぜ~」
「大したもんだァ」
女は居心地悪そうに軽く頭を下げると、そそくさと橋を渡っていった。
同心が収めるのを待てば良かった、そう後悔しても後の祭り。私は無闇に人前で刀を振るうべきではない。幕府や為政者達に目を付けられるきっかけがどこにあるか分からないのだから騒ぎは避けなければ…目立たず、人に紛れて生きていくことが今の私の、生き方なのだ。
便利屋を生業にできてきて、家があって、知り合いもできて…
「少し、気が緩んでいるのかも…」
「…待ってくれぇ、女剣士さん!!」
振り返ると上質そうだが少し趣味の悪い着物を着た男が駆け寄ってきた。
「…何かご用ですか」
「ハァ、ハァ。アンタに頼みてえことがあんだ!明日、道場の交流試合にウチの門下生として出てくれ!謝礼はちゃんと払う!これでどうだ?」
男が手で金額を示す。それは目下の悩みであった店賃を優に支払える額であった。ごくりと喉が鳴る。
「分かりました。お受けします」
「本当か!いやあ~助かる!さっきの橋でのアンタの大立ち回り見てよ、ピーンと来たんだ。頼めるのはアンタしかいねえって――」
引き受けてもらって安心したのか男はペラペラと話し出した。
「ただ、私の剣術はほとんど独学で幼い頃に道場で作法を少し習った程度ですが…」
「あァ、作法だとかは全然へーきだ。なにせ、相手は江戸屈指の貧乏道場だからな~そんなお上品なモノ分からないやつらばかりだろう」
男は集合場所と時間を早口に捲し立てると、さっさと背を向けて歩き出そうとしている。あっ、そう言えば、
「あの、その道場の名は何というところですか?」
「あれ?言ってませんでしたかい?名前はーー」
行灯を消し夜具に包まる。何だかんだあったが、依頼を得られて店賃の支払いに目途がついたので安心して眠れるはず、だったのだが、明日の試合が思いのほか楽しみで目が冴えてしまった。こんな気持ちになるのは久し振りだった。剣術を修めようとする者として、道場という場所は私にとって昔から憧れであった。
一体、どんな人達がいるのだろう…。
「試衛館…か…」
良い試合ができればと思いながら、私はようやく眠りにつくのだった。