赤木しげる追悼小説
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カランカラン、とガラス製の風鈴が鳴る。
9月の始まりはその音で目が覚めた。
時刻は朝の9時を少し過ぎた頃。私は頬に違和感を感じて手を添える。
涙が流れていた。そして、昨日見た夢を思い出した。
そう、あれは昭和47年の夏──。
あの日は茹だるように、噎せ返るように暑かった。
そんな日に彼は現れた。
私の家は代々神職の家系で、必然的に私も家が管理している神社を引き継ぎ、神主になるという空気が家庭で流れていた。
しかし、遊び盛りで多感な16歳の私は、高校を卒業したら神主をやるなんて真っ平御免で、よく夜遅くまで遊んでは親に叱咤を受けていた。
家出をするように夜に家を抜け出したその日、社の裏を通ると──彼はいた。
白髪の青年が社の裏で、血を流して倒れていた。私は思わずぎゃーっ!と声をあげ、家に踵を返すと父に人が倒れていることを伝えた。
父と救急箱を持ってその青年の元へ駆け寄ると、意識はあるようで取り敢えず応急処置をする。
父の肩を借りて青年は家へとあがり、父に頼まれて私は清潔な手ぬぐいを二枚持ってきた。
「名前!お父さん包帯持ってくるからこの人の事を頼んだよ!」
ドタバタと父が居間から出ていく。私は青年の傷口を手ぬぐいで優しく拭いて、消毒液を染み込ませた脱脂綿をピンセットで掴むと、傷口に当てた。
「少し痛みますよ」
「悪いね……。っ!」
痛みを堪える彼に罪悪感を覚えつつ、私は消毒を続けた。消毒を終える頃には父が包帯を見つけて持ってきており、彼の傷に包帯を巻き、小さな傷には絆創膏を貼った。
「手際いいね」
「学校で保健委員会やってますから」
「へえ、ガッコーちゃんと通ってるんだ。偉いね」
「そうですか?……はい、終わりました」
私は救急箱に消毒液や包帯を仕舞うと、父と入れ替わるように居間を後にした。父があの人の対応をしてくれるようなので、私は今日は家出をせずに大人しく眠ることにした。
次の日、学校へ行くために制服に着替え、朝食を摂ろうと居間へ行くと──あの人がいた。
「ああ、おはよう名前。改めて紹介しよう、この人は赤木しげるさんと言って、なんでも今追われている身らしくてね、しばらくうちに居ることになったから」
「はっ……ハァ〜!?」
あまりにも急な展開に私は声をあげると、父が眉間に皺を寄せる。
「コラ!お客様に失礼だぞ!」
「ウチに居るのはいいよ!?だけど追われてるって……大丈夫なの!?その人犯罪者とか指名手配犯とかじゃないでしょーねぇ!?」
私がそう言うと、赤木しげると呼ばれた青年は何がおかしいのか小さく笑った。
「そんなんじゃねえよ、お嬢さん、安心してくれ」
赤木しげるのその笑みが、当時の私には不気味で、早くこの人を追手に引き渡して面倒事は避けたいと思っていた。
そして私は父と、赤木しげるが座る卓袱台に正座して、用意された朝食を摂る。
その日から、彼との数日間の数奇な同居生活が始まった。
今日はテストの日だったから、学校が早めに終わった。友人に遊びに行かないかと誘われたが、父と件の青年を二人きりにするのも何だか不安で、私は誘いを断り真っ直ぐ家に帰ることにした。
境内を通り過ぎ、少し離れた我が家に到着すると、赤木しげるが居間で寛いでいた。
「ああ、おかえり」
「あっ、えっと……ただいま」
まさかそう言われるとは思わず面食らってしまった。
「……あの、お父さんは?」
「蔵の整理するって言ってたな」
「そうですか、ありがとう……えっと」
「赤木でいい」
「赤木……さん、教えてくれてありがとう」
「こちらこそ、ありがとうよ。得体の知らない俺を匿ってくれて」
「あぁ〜、うちのお父さんお人好しでさ、困ってる人放っておけないんだって」
「ククク、そうみてえだな」
笑う赤木さんを私はムッと睨む。
「私、赤木さんを信用したワケじゃないから。追われてるとか絶対ヘンだし」
警戒心を剥き出しにしている私に対して、彼は何処吹く風で、何がおかしかったのかまた笑っている。
そんな赤木さんの態度に私は更にカチンときて、同じ場所に居たくなかったので珍しく父の手伝いをする事にした。
「ちょっとお父さん!あの人なんなの!?」
「ああ?赤木さんのことか?」
「早く追い出そうよ!人に追われてるとかおかしいし!なんかカタギな感じしないし、絶対ヤバい人だって!」
「そう言うな名前、どんな人であれ困っているのであれば手を差し伸べるのが人間だ。それに、あの人は大丈夫だ」
「その根拠は??」
私は父を問い詰める。変わらずぶっきらぼうに父は答えた。
「神職の勘だ、心配するな。それより社務所で巫女やってきてくれ」
私は取り敢えず父の勘を信じることにして、はいはいと返事をする。社務所へ向かい、巫女服に着替えて番台に座る。
まあ、こんな神社なのでお守りや御籤をしに来る人なんてこない。お祭りや初詣の日は人を雇うくらい忙しいが、普段は平和そのものだ。
社務所から見える辺り一面の田んぼと畑、そして山。自然豊かな田舎と言えば聞こえはいいが、逆に言ってしまえばここには何も無いのだ。
暇で暇で頬杖をつき、ため息をつく。
7月も下旬で、テストが終わったからこれから夏休みだ。祭りが終わったら友達と何処かへ遊びに行こうとか、宿題がめんどくさいなぁとか、ボーッと考えていると赤木さんがやってきた。
「よお、お嬢さん……いや、今は巫女さんか」
「どっちでもいいよ、どしたの?」
「いやなに、お守りが買いたくてね、ひとついいかい?」
「どーぞ」
お守りの並べられた木箱を私は赤木さんに見せる。彼は色とりどりのお守りを真剣な眼差しで見つめていた。
「……なんか、交通安全や旅のお守りが多いんだな」
「ああ、そう、神社 の祀ってる神様が旅の神様なんだって。確か、サルなんとかって神様で、他にも夫婦円満と学業成就もあるよ」
「へぇ、じゃあこれをひとつお願い」
赤木さんが手にしていたのは交通安全と旅行安全のお守りだった。
「はーい、300円です」
彼は財布を取り出すと、あ…と小さく声を漏らす。
「悪い、金がねえ」
赤木さんはバツが悪そうに私を見上げた。その表情がなんだか面白くて、私は思わず吹き出して笑ってしまった。
「……ぷっ!ふっははははは!!あっはははは!!」
「笑いすぎだろ」
「ごめんごめん、なんかおかしくって!あー、お金はいいよ、赤木さんにお守りあげる」
そう言って私は赤木さんにお守りを差し出した。赤木さんは少し目を見開いて、驚いたようだった。
「いいのかい?」
「いーよ、私の奢り!」
「……悪いね、この借りは必ず返すよ」
「別にいいって。あ、お客さんきたからまた後でね。……いらっしゃいませ〜」
社務所に一人できた老人に場所を譲り、赤木さんは小さく笑うと家の方へと戻っていった。
私はお守り代を自分のお小遣いから補填して、今日の精算を終えると巫女服を脱いで家へ戻りった。
父の勘は当たっていたのかもしれないと思った。
わざわざこんな寂れた神社のお守りを買おうとしてくれた彼は、案外悪い人ではないのかもしれない。
*
9月の中旬も、ガラスの風鈴の音で目が覚めた。この風鈴を見ると、あの人を思い出す。
つい数年前、自分でその生を終えたあの人は──死の間際、何を思ったのだろうか。
孤独と、剥がれ落ちていく記憶と戦った彼は、何を見たのだろうか。
カランカランと風鈴が鳴る。夏の終わりを告げる音が、またある日の思い出を呼び起こす──。
お祭りの日の朝は早い。舞踊の練習をしたら巫女服を着て化粧をし、髪を結んだら前天冠を頭に乗せる。
社務所を出ると、赤木さんがいた。
「よお、おはよう」
「おはよ、赤木さん。どしたの?」
「親父さんから伝言だ、先に車に乗ってろってさ」
「そっか、ありがと。私たちこれからお祭りで忙しくなっちゃうから、赤木さんは境内のお手伝いよろしくね」
「ああ、分かった」
私は風呂敷を持つと赤木さんに手を振って車が停めてある駐車場へ向かった。
これから私たちが行くのはこの神社の神様が歩いたと言われている旅の道だ。そこをお神輿と囃子人、そして父と私が神楽鈴を鳴らしながら歩く。
これは神様が歩いたときの再演とされている、父曰く「神歩き」というらしい。
毎年歩くこの道、普段は農家を営む人達がポツポツといるだけなのに、今日はお祭りなだけあってたくさんの人たちがこの神歩きを見ようと集まる。
午前10時、神歩きが始まる。約3キロを祭囃子の旋律と共にゆっくりと練り歩き、神楽鈴を鳴らす。
神社に到着して午前の祭事を終える頃には11時半頃で、汗だくになった私はお祭りに参加してくれた人たちに挨拶をすると、家に戻って一先ず寛いだ。
「あ゛ぁ゛〜疲れた〜」
「お疲れさま、名前」
そう言って赤木さんは氷の入った麦茶を私にくれた。
「ありがとう〜」
麦茶を飲むと生き返るようだ。いくら北の地方とはいえ、この暑さは体に堪える。
「お祭りの準備も終わったみたいだね。少し時間あるし、お祭り案内しよっか?」
「そうだな……折角だ、お願いしてもいいか?」
私は赤木さんと一緒に神社で開催しているお祭りを案内した。お祭りは夜に執り行われる舞踊がメインのため、屋台は少ないが地元の人たちで協力して運営しているお祭りだ。
「あそこで私が毎年神楽舞を踊るの」
本殿の前に今日のために建てられた舞庭を私は指さす。
「って、赤木さん舞庭建てるの協力してくれたから知ってるか」
「いや、巫女が踊るってのは聞いてたが名前が踊るとはな。楽しみにしてるよ」
そう言われ、何だか私は照れくさくて、でも嬉しくて赤木さんを肘でこずいた。
「楽しみにしててよね、えいえいっ」
「なんだよ……最近の若い奴は分からねえな」
「それよりお腹すいた、赤木さん屋台いこー」
「はいはい」
私は赤木さんと一緒に屋台を周りながら挨拶をした。屋台のおじさん達は赤木さんを見ると、皆彼に感謝していた。屋台の組み立てや設営を手伝ってくれたり、買い出しに付き合ってくれたそうだ。
そんな赤木さんの日頃の行いもあって、屋台の商品を皆がサービスしてくれた。赤木さんは何を考えてるか分からない人だけど、悪い人ではないと私もこの頃には信頼していた。
たこ焼きや焼きそば、かき氷を買ってお祭り満喫していると、あの音が聞こえた。
──カランカラン、カラン、カラン…
その音色に視線が導かれる。
そこには色とりどりのガラスでできた風鈴が風流な音色を鳴らして並んでいた。
赤、青、黄色、透明、金魚の絵が描かれた風鈴もある。
「……綺麗」
風に揺れる透明な風鈴たちが可愛らしく、しかしその音色はとても綺麗で、思わず見惚れてしまった。
しかし、今はこの後の神楽舞の為にお腹を満たそうと赤木さんと一緒に歩き、風鈴の屋台を後にした。
家に戻って屋台で買ったものを赤木さんと一緒に食べ終えて休憩していると、赤木さんが立ち上がる。
「ん?どこ行くの?」
「煙草吸ってくる」
「いってらっしゃーい」
窓から吹き込む夏の風が涼しく、私は麦茶を飲んで高い青空を見つめる。
「これからお供え物準備して、それから神楽舞の練習またして、7時に本番か……まだ時間あるし、ちょっとのんびりしよ」
私は巫女服だが座布団を枕代わりにして横になる。父が見たら絶対に怒るであろうこの姿。しかし、疲れたものは疲れたのだ。
涼風と草木の香りに包まれて、夢見心地の気分になっていると、遠くからあの澄んだ音色が聞こえてきた。
──カランカラン…カランカラン…
本当に良い音色だと耳を傾けていると、その音色は足音と共に近くなってくる。何だろうと思い私が体を起こすと、彼がガラスの風鈴を持って歩み寄ってきた。
「赤木さん……?」
「アンタにやるよ、これ」
差し出されたのは私が見惚れていたガラスの風鈴だった。何処までも透明で、色のないその風鈴は山から流れる水のように綺麗だった。
「い、いいの……?」
「いつも世話になってる礼だ」
「赤木さんありがとう!わぁ、すっごく綺麗!」
風鈴を空へ翳して見ていると、赤木さんがふと微笑んだ。
「夜の神楽舞、頑張りなよ」
「うん!頑張る!」
きっと赤木さんは私が風鈴に見惚れていたのを見て、これを買ってきてくれたのだろう。それに、応援されたら嫌いな祭事でも気合いが入るものだ。
そして迎えた夜の神楽舞。私は舞庭に立ち、静かに深呼吸をする。
瞬間、静寂に包まれる。囃子の人たちのすぅっと息を吸う音が聞こえると、私は舞を踊った。
鳴り響く太鼓と笛に合わせて、左手に持つ榊の枝葉に当たらないように神楽鈴を鳴らす。
畏敬と、敬愛と、尊敬の念を込めて、ここに宿る神様に舞を捧げる。
神楽舞を踊り、いよいよ終盤になってきた。私は魚や餅、野菜が供えられた神饌の前に正座をすると、最後に榊の枝葉を供えた。
そして深々と礼をすると、囃子の演奏が終わり、静寂に包まれる。一拍置いて拍手が巻き起こり、私は神楽舞を見てくれた人たちにも礼をした。
拍手を送る人々の中には赤木さんもいて、彼を見つけると私はほんの少しだけ微笑んだ。
舞庭を降りて社務所へ向かうと、いの一番に巫女服を脱いで化粧を落とし、今流行りのメイクとファッションに変身すると境内へ出た。
「ふぃ〜、終わった終わった」
「お疲れ様、名前」
「あ、赤木さん!見てくれてありがとう」
「名前は毎年あれ踊ってるの?」
「うん、他にも年末と年明けにも神楽舞があって、それも私が踊ってるよ」
「すげえな、毎年あんなふうに踊るなんて。アンタにしかできないことだ」
「……」
そんなふうに言われたのは初めてで、私は赤木さんを見つめて微笑む。
「ありがとう、そんなふうに褒められたの……はじめて」
「? 親父さんは褒めてくれねえの?」
「お父さんが神事で褒めてくれた事なんてないよ。いつもまだ未熟だって言われてばっかり……まあ、私だってやる気ないし別にいいけど」
そう、どんなに神事を頑張っても父が私を褒めてくれた事はない。別にべた褒めしろと言ってるわけではないのだが──少しくらい褒められたいのが、子供の言い分なのだ。
「さて、私の役目は後片付けまでないし、赤木さん、お祭り回ろうよ!」
私は赤木さんの手を取ると、オレンジ色の明かりに照らされた屋台通りを小走りで行く。
赤木さんは少し困ったような表情を浮かべた刹那、ふと微笑んで屋台巡りに付き合ってくれた。
綿あめ、水あめ、イカ焼き、水風船に金魚すくい、屋台を満喫していると祭りはあっという間に終わりを告げる花火があがる。
最後の一発があがると、拍手が巻き起こり、どことなく静けさを感じる。祭りの終わりだ。
「終わっちゃったね」
「そうだな……。名前」
「ん?」
「俺、明日ここを出るよ」
「え、えぇ……めっちゃ急だね、お金とか大丈夫なの?300円も持ってないのに」
「ククク、祭りの準備を手伝ったらバイト代だって幾らか貰ったんだ。まあ、そういう訳だから……ありがとうよ」
「……短い間だったけど、赤木さんと一緒に居れて楽しかったよ、それに私こそありがとう、風鈴買ってくれて。大切にするから」
そう告げると、彼はふっと微笑んで私を見る。祭りの後片付けを終えると、赤木さんはお父さんに明日家を出ていく事を伝えた。
父は少し寂しそうにしていたが、これもまた何かの縁、良かったらまた神社に顔を出してくれ、と赤木さんに言っていた。
次の日、赤木さんは少ない荷物を纏めて我が家を発った。二人で彼の背中を見送ると、父がコホンコホンと咳払いをする。
「……名前」
「なに?」
少し間が空いて、黙り込む。私はなんなのさと言って催促すると、意外な言葉が出てきた。
「…………神楽舞、悪くなかったぞ……よくやった」
「えっ、な、なに、急に……」
「……別に、褒めるときは褒めておこうと思っただけだ。ほら、さっさと境内を掃除に行ってこい!」
父は強引に私に箒を持たせ、境内に向かわせる。
でも、褒められたのは悪い気分ではなくて、寧ろ、欲しかった言葉だったから──嬉しかった。
少しだけ、神社の後を継ぐのも悪くないかもしれないと思った。
カランカランとガラスの風鈴が鳴る。
*
あれから不思議なことに、祭りの日と初詣の日に赤木さんは毎年神社に顔を出してくれるようになった。
そして毎年彼と顔を合わせること数年、お父さんが──父が寿命を迎えて亡くなった。
1972年の秋の頃だった。
葬儀を終えて、親戚たちに挨拶をして彼らを帰す。家にはただ一人、私だけになってしまった。
静かになった家で呆然としていると、玄関のチャイムが鳴る。誰かが忘れ物でもしたのだろうと思って、私は返事をして玄関の戸を開ける。
そこには──赤木さんがいた。
「赤木さん……」
「たまたまこの辺に立ち寄ってさ、アンタの親父さんが亡くなったって近所の人から聞いて……今、大丈夫かい?」
「大丈夫ですよ、どうぞ」
赤木さんを家へあげる。彼ももう30代後半になり、派手なスーツが似合う初老の男性へとなっていた。
私ももう大人になって、神社を正式に継いで神主となった。
赤木さんは仏壇に置いてある骨壷に手を合わせると、居間へと戻ってきた。
「お久しぶりです、赤木さん。最近お仕事の方はどうなんですか?」
「ま、ぼちぼちだな」
そう言って彼は湯のみに口をつける。これは赤木さんと数回会った後に知った事だが、彼はその世界では有名な人らしく、神威の男と呼ばれているんだそうだ。
そんな彼が、この寂れた神社の何が気に入ったのか、こうして顔を出してくれることが嬉しかった。
「今日は名前に報告があってよ」
「あら、なんですか?」
「……引退しようと思うんだ、あの世界を」
「そうですか……どうして?」
尋ねると、彼は湯のみの中のお茶を少し見つめてから答える。
「名声が邪魔になっちまってよ……。ああいうのを手に入れると、人はそれを保とうともがいて、もがいて──果てに動けなくなってしまう。俺にはそれが、どうにも窮屈でな」
なるほど、実に彼らしい理由だと思い私は微笑む。
自由気ままで、のらりくらりとした生活を好む彼に、その名声は確かに不要なものだろう。
「赤木さんは、なりたくて″神域の男″になったわけじゃないですもんね。私はいいと思いますよ」
「……そうか、ありがとうよ、名前」
そう言って赤木さんは煙草を吸い始める。私は前から疑問に思っている事を、ふと赤木さんに尋ねてみた。
「赤木さんは、どうして毎年マメに神社 に来てくれるんですか?」
「ん?」
「だって、気になって。赤木さんほどの人がどうしてこんな寂れた神社によく来るんだろうって。東京から離れてるし、東京の方が有名な神社がたくさんあるし」
赤木さんは紫煙をふーっと吐くと、窓から見上げる夜空を見ながら語ってくれた。
「ここはよ、落ち着くんだ。東京 にいると何かと声をかけられたり、急な仕事が舞い込んで来るしな。それに、神主さんからのありがたい言葉もある」
神域の男ともあろう人が、こんな神社の見習い神主の言葉をありがたいと言ってくれるのは、神主冥利に尽きるというものだ。
「神域の男が神主の言葉をアテにするなんて、皆さん知ったら驚くでしょうね」
「ハハハ、違いねえ」
そんなふうに談笑すること数時間、そろそろお暇すると言って赤木さんは立ち上がった。彼を見送るために玄関までいくと、ふと赤木さんが我が家の窓を見る。
「あれ、まだあったのか」
赤木さんが指さす方には、あの夏の日に貰った風鈴が静かに佇んでいた。
「勿論、赤木さんから貰った大切なものですから」
「あの安物のどこがいいんだか」
「貴方から貰ったからいいんですよ。……帰り道、暗いですから気をつけてくださいね」
「ああ、急に押しかけてすまねえな。また来るよ」
私は彼に手を振り、その背中が見えなくなるまで見送った。
ふとそよ風が吹き、カランカランと風鈴が鳴り響く。
それからまた何度か再会を交わし、また会えた日──彼はまた歳をとり、53歳になっていた。
1999年、桜が舞い散る春だった。
その日は祭事もなく、初詣といった大きなイベントもない、何の変哲もない日だった。
彼がやってきた。ガラスの風鈴の音色と共に。
「あら、赤木さん。こんにちは、今日は参拝ですか?それともなにかご用事で?」
彼に声をかけると、一瞬だけ驚いたように目を見開いてこちらを見る。それから思い出したように声を漏らし、彼の瞳から警戒の色は消える。
「ああ、アンタか。……大切なことを伝えにきたんだ」
「大切なこと……?」
──カランカラン…カランカラン…。
桜の舞う温かく、柔らかな季節。花びらと共に風鈴が揺れる。
家にあげようと思ったが、赤木さんはここでいいと言って本殿前の石段に座る。私はせめてお茶くらいは出そうと一旦家へ戻り、お茶とお菓子を持ってきた。
それに、彼が纏う雰囲気がいつもよりも何だか真剣で、私は隣に座るが何も声をかけられずにいた。
「……名前よ」
「はい」
「……俺、アルツハイマーになっちまってよ」
その言葉に、私は心臓を鷲掴みにされたような、胸が苦しくなる感覚と共に、嘘だ、嘘であってほしいと願う。
「ここへの道も少し分からなくなっちまって、迷っちまった。それに……お前の顔見ても、一瞬誰だか分からなかった」
風が強く吹いている。カラカラ、カラカラと風鈴がけたたましく鳴り響いた。私は千早の胸元を握り締める。
「……赤木さん──」
大丈夫です、もしお世話だと言うのなら私に任せてください──伝えようとした刹那、風が止んだ。
「だから、俺は俺の手でこの命を終えようと思う」
はっきりと、彼はそう告げる。
「………ぇ」
私は一瞬思考が止まった。彼は今、何と言ったのか理解できなかった。しかし時間差で彼の発言が理解できて、彼の言わんとすることも、彼の考えていることも分かって、私はただ黙っていることしかできなかった。
「俺は……俺であるうちにこの命を終わらせたい。赤木しげるとして生き、死にたいのだ」
そうだろうと思っていた。実に、実に彼らしい考え方だ。独特の美学を持っていて、それを貫き通す真っ直ぐさ。その鋭さはまるで透き通っていて透明で──ガラスのように綺麗だ。
私に彼を止めることはできないと、その時確信した。彼を見送ることしかできないのだと。
「そう、ですか……。貴方らしいですね」
「止めねえのか?」
私は静かに頷いた。
「止めても、聞かないでしょう?」
「まあな、決めたことだ」
「ふふっ……貴方のそういうところが、きっと人々に愛されるのでしょうね。私にこのお話をしにきたと言うことは、なにかお手伝いする事があるのでしょう?」
「ああ、頼めるか」
「……はい、やらせてください。でも、その前に私からも我儘があります」
赤木さんは首を傾げる。私は少し赤木さんに近寄ると、そのまま彼を抱擁した。
「……悲しいです」
「ああ」
「寂しいです、赤木さんが居なくなるのが」
「悪いな」
次第に声が震えて、私は彼を抱きしめたまま泣いてしまった。泣きたいのは彼の方かもしれないのに。
「ごめんなさい、大人気なかったですね……」
私は彼から離れるとハンカチを出して涙を拭った。
「ククク、子供の頃のアンタを思い出したよ」
「子供の頃赤木さんの前で泣いた覚えないですけどね」
「あれ?そうだったか?」
「もう……」
ふと、私はとある事を思いついた。彼が旅立つと言うのなら、私がやるべき事があるではないかと。
「赤木さん!そこで待っててください、すぐに戻ります!」
私は赤木さんを本殿前に残すと急いで社務所へと向かった。神楽舞用の巫女服と千早に着替え、髪を整える。
花のついた前天冠に、神楽鈴を手に持つと私は赤木さんの元へと戻った。
赤木さんは私を見ると、おっと言って声をあげる。
「なんだ、舞を踊ってくれるのか?」
「はい、ここは旅の神様が祀られている神社。赤木さんの死は──終わりじゃありません、きっと旅の始まりです。だから、貴方の旅路を祈って、この舞を捧げます」
私は本殿と赤木さんに深々と一礼をすると、舞を踊り始める。木々のざわめきと、桜の舞い散る音、そして風鈴の音色しかしないこの場所で踊るのは、彼に捧げる特別な舞。
嗚呼、どうか赤木さんに多くの時間が残されてくれますように。
どうか赤木さんが苦しまず、怖い思いをしないように。
彼の道行が、晴れやかで良いものでありますように。
祈りを込めて、鈴を鳴らす。
私は最後にまた深く一礼をすると、舞を終えた。彼は私の前まで歩いてくると、無邪気に笑った。
「いつ見ても綺麗な舞だな、ありがとうよ、名前」
「……赤木さんの旅が、良いものでありますように」
私も彼に微笑みかける。彼は私の肩にポンとその手を置くと、ひらひらと掌を振る。
「手伝いの件はまた連絡する、金光って坊主からそのうち手紙が届くはずだ」
「わかりました、赤木さん」
「ん?」
「……お元気で!」
「……ああ、名前もな」
それから少しして金光さんという方から手紙が届き、一緒に彼の葬儀の準備を始めた。
私は神式葬儀しかした事がないため、金光さんに寺院葬の色々教えてもらって準備を進める。
そして件の日を迎え、赤木さんの親しい人たちが集まった。彼らは赤木さんの説得を試みたが──彼の考えは変わらず、最期はたくさんの友人に見守られてこの世を去った。
1999年 9月26日の事だった。
「また小さくなっちゃってまぁ……」
私は赤木さんの墓の前に花を備えると、しゃがみこんで墓の下で寛ぐ猫を撫でた。
また一回り小さくなった墓石から哀愁が漂うも、たくさんのお供えものを見て、彼が今でも愛されているのだと実感する。
赤木さん、旅の方はどうですか?楽しんでいますか?
貴方の旅の道行が、どうかいつまでも楽しく、心ゆくままでいられますように。
貴方の旅の軌跡が、いつまでも人々に語られますように。
9月の始まりはその音で目が覚めた。
時刻は朝の9時を少し過ぎた頃。私は頬に違和感を感じて手を添える。
涙が流れていた。そして、昨日見た夢を思い出した。
そう、あれは昭和47年の夏──。
あの日は茹だるように、噎せ返るように暑かった。
そんな日に彼は現れた。
私の家は代々神職の家系で、必然的に私も家が管理している神社を引き継ぎ、神主になるという空気が家庭で流れていた。
しかし、遊び盛りで多感な16歳の私は、高校を卒業したら神主をやるなんて真っ平御免で、よく夜遅くまで遊んでは親に叱咤を受けていた。
家出をするように夜に家を抜け出したその日、社の裏を通ると──彼はいた。
白髪の青年が社の裏で、血を流して倒れていた。私は思わずぎゃーっ!と声をあげ、家に踵を返すと父に人が倒れていることを伝えた。
父と救急箱を持ってその青年の元へ駆け寄ると、意識はあるようで取り敢えず応急処置をする。
父の肩を借りて青年は家へとあがり、父に頼まれて私は清潔な手ぬぐいを二枚持ってきた。
「名前!お父さん包帯持ってくるからこの人の事を頼んだよ!」
ドタバタと父が居間から出ていく。私は青年の傷口を手ぬぐいで優しく拭いて、消毒液を染み込ませた脱脂綿をピンセットで掴むと、傷口に当てた。
「少し痛みますよ」
「悪いね……。っ!」
痛みを堪える彼に罪悪感を覚えつつ、私は消毒を続けた。消毒を終える頃には父が包帯を見つけて持ってきており、彼の傷に包帯を巻き、小さな傷には絆創膏を貼った。
「手際いいね」
「学校で保健委員会やってますから」
「へえ、ガッコーちゃんと通ってるんだ。偉いね」
「そうですか?……はい、終わりました」
私は救急箱に消毒液や包帯を仕舞うと、父と入れ替わるように居間を後にした。父があの人の対応をしてくれるようなので、私は今日は家出をせずに大人しく眠ることにした。
次の日、学校へ行くために制服に着替え、朝食を摂ろうと居間へ行くと──あの人がいた。
「ああ、おはよう名前。改めて紹介しよう、この人は赤木しげるさんと言って、なんでも今追われている身らしくてね、しばらくうちに居ることになったから」
「はっ……ハァ〜!?」
あまりにも急な展開に私は声をあげると、父が眉間に皺を寄せる。
「コラ!お客様に失礼だぞ!」
「ウチに居るのはいいよ!?だけど追われてるって……大丈夫なの!?その人犯罪者とか指名手配犯とかじゃないでしょーねぇ!?」
私がそう言うと、赤木しげると呼ばれた青年は何がおかしいのか小さく笑った。
「そんなんじゃねえよ、お嬢さん、安心してくれ」
赤木しげるのその笑みが、当時の私には不気味で、早くこの人を追手に引き渡して面倒事は避けたいと思っていた。
そして私は父と、赤木しげるが座る卓袱台に正座して、用意された朝食を摂る。
その日から、彼との数日間の数奇な同居生活が始まった。
今日はテストの日だったから、学校が早めに終わった。友人に遊びに行かないかと誘われたが、父と件の青年を二人きりにするのも何だか不安で、私は誘いを断り真っ直ぐ家に帰ることにした。
境内を通り過ぎ、少し離れた我が家に到着すると、赤木しげるが居間で寛いでいた。
「ああ、おかえり」
「あっ、えっと……ただいま」
まさかそう言われるとは思わず面食らってしまった。
「……あの、お父さんは?」
「蔵の整理するって言ってたな」
「そうですか、ありがとう……えっと」
「赤木でいい」
「赤木……さん、教えてくれてありがとう」
「こちらこそ、ありがとうよ。得体の知らない俺を匿ってくれて」
「あぁ〜、うちのお父さんお人好しでさ、困ってる人放っておけないんだって」
「ククク、そうみてえだな」
笑う赤木さんを私はムッと睨む。
「私、赤木さんを信用したワケじゃないから。追われてるとか絶対ヘンだし」
警戒心を剥き出しにしている私に対して、彼は何処吹く風で、何がおかしかったのかまた笑っている。
そんな赤木さんの態度に私は更にカチンときて、同じ場所に居たくなかったので珍しく父の手伝いをする事にした。
「ちょっとお父さん!あの人なんなの!?」
「ああ?赤木さんのことか?」
「早く追い出そうよ!人に追われてるとかおかしいし!なんかカタギな感じしないし、絶対ヤバい人だって!」
「そう言うな名前、どんな人であれ困っているのであれば手を差し伸べるのが人間だ。それに、あの人は大丈夫だ」
「その根拠は??」
私は父を問い詰める。変わらずぶっきらぼうに父は答えた。
「神職の勘だ、心配するな。それより社務所で巫女やってきてくれ」
私は取り敢えず父の勘を信じることにして、はいはいと返事をする。社務所へ向かい、巫女服に着替えて番台に座る。
まあ、こんな神社なのでお守りや御籤をしに来る人なんてこない。お祭りや初詣の日は人を雇うくらい忙しいが、普段は平和そのものだ。
社務所から見える辺り一面の田んぼと畑、そして山。自然豊かな田舎と言えば聞こえはいいが、逆に言ってしまえばここには何も無いのだ。
暇で暇で頬杖をつき、ため息をつく。
7月も下旬で、テストが終わったからこれから夏休みだ。祭りが終わったら友達と何処かへ遊びに行こうとか、宿題がめんどくさいなぁとか、ボーッと考えていると赤木さんがやってきた。
「よお、お嬢さん……いや、今は巫女さんか」
「どっちでもいいよ、どしたの?」
「いやなに、お守りが買いたくてね、ひとついいかい?」
「どーぞ」
お守りの並べられた木箱を私は赤木さんに見せる。彼は色とりどりのお守りを真剣な眼差しで見つめていた。
「……なんか、交通安全や旅のお守りが多いんだな」
「ああ、そう、
「へぇ、じゃあこれをひとつお願い」
赤木さんが手にしていたのは交通安全と旅行安全のお守りだった。
「はーい、300円です」
彼は財布を取り出すと、あ…と小さく声を漏らす。
「悪い、金がねえ」
赤木さんはバツが悪そうに私を見上げた。その表情がなんだか面白くて、私は思わず吹き出して笑ってしまった。
「……ぷっ!ふっははははは!!あっはははは!!」
「笑いすぎだろ」
「ごめんごめん、なんかおかしくって!あー、お金はいいよ、赤木さんにお守りあげる」
そう言って私は赤木さんにお守りを差し出した。赤木さんは少し目を見開いて、驚いたようだった。
「いいのかい?」
「いーよ、私の奢り!」
「……悪いね、この借りは必ず返すよ」
「別にいいって。あ、お客さんきたからまた後でね。……いらっしゃいませ〜」
社務所に一人できた老人に場所を譲り、赤木さんは小さく笑うと家の方へと戻っていった。
私はお守り代を自分のお小遣いから補填して、今日の精算を終えると巫女服を脱いで家へ戻りった。
父の勘は当たっていたのかもしれないと思った。
わざわざこんな寂れた神社のお守りを買おうとしてくれた彼は、案外悪い人ではないのかもしれない。
*
9月の中旬も、ガラスの風鈴の音で目が覚めた。この風鈴を見ると、あの人を思い出す。
つい数年前、自分でその生を終えたあの人は──死の間際、何を思ったのだろうか。
孤独と、剥がれ落ちていく記憶と戦った彼は、何を見たのだろうか。
カランカランと風鈴が鳴る。夏の終わりを告げる音が、またある日の思い出を呼び起こす──。
お祭りの日の朝は早い。舞踊の練習をしたら巫女服を着て化粧をし、髪を結んだら前天冠を頭に乗せる。
社務所を出ると、赤木さんがいた。
「よお、おはよう」
「おはよ、赤木さん。どしたの?」
「親父さんから伝言だ、先に車に乗ってろってさ」
「そっか、ありがと。私たちこれからお祭りで忙しくなっちゃうから、赤木さんは境内のお手伝いよろしくね」
「ああ、分かった」
私は風呂敷を持つと赤木さんに手を振って車が停めてある駐車場へ向かった。
これから私たちが行くのはこの神社の神様が歩いたと言われている旅の道だ。そこをお神輿と囃子人、そして父と私が神楽鈴を鳴らしながら歩く。
これは神様が歩いたときの再演とされている、父曰く「神歩き」というらしい。
毎年歩くこの道、普段は農家を営む人達がポツポツといるだけなのに、今日はお祭りなだけあってたくさんの人たちがこの神歩きを見ようと集まる。
午前10時、神歩きが始まる。約3キロを祭囃子の旋律と共にゆっくりと練り歩き、神楽鈴を鳴らす。
神社に到着して午前の祭事を終える頃には11時半頃で、汗だくになった私はお祭りに参加してくれた人たちに挨拶をすると、家に戻って一先ず寛いだ。
「あ゛ぁ゛〜疲れた〜」
「お疲れさま、名前」
そう言って赤木さんは氷の入った麦茶を私にくれた。
「ありがとう〜」
麦茶を飲むと生き返るようだ。いくら北の地方とはいえ、この暑さは体に堪える。
「お祭りの準備も終わったみたいだね。少し時間あるし、お祭り案内しよっか?」
「そうだな……折角だ、お願いしてもいいか?」
私は赤木さんと一緒に神社で開催しているお祭りを案内した。お祭りは夜に執り行われる舞踊がメインのため、屋台は少ないが地元の人たちで協力して運営しているお祭りだ。
「あそこで私が毎年神楽舞を踊るの」
本殿の前に今日のために建てられた舞庭を私は指さす。
「って、赤木さん舞庭建てるの協力してくれたから知ってるか」
「いや、巫女が踊るってのは聞いてたが名前が踊るとはな。楽しみにしてるよ」
そう言われ、何だか私は照れくさくて、でも嬉しくて赤木さんを肘でこずいた。
「楽しみにしててよね、えいえいっ」
「なんだよ……最近の若い奴は分からねえな」
「それよりお腹すいた、赤木さん屋台いこー」
「はいはい」
私は赤木さんと一緒に屋台を周りながら挨拶をした。屋台のおじさん達は赤木さんを見ると、皆彼に感謝していた。屋台の組み立てや設営を手伝ってくれたり、買い出しに付き合ってくれたそうだ。
そんな赤木さんの日頃の行いもあって、屋台の商品を皆がサービスしてくれた。赤木さんは何を考えてるか分からない人だけど、悪い人ではないと私もこの頃には信頼していた。
たこ焼きや焼きそば、かき氷を買ってお祭り満喫していると、あの音が聞こえた。
──カランカラン、カラン、カラン…
その音色に視線が導かれる。
そこには色とりどりのガラスでできた風鈴が風流な音色を鳴らして並んでいた。
赤、青、黄色、透明、金魚の絵が描かれた風鈴もある。
「……綺麗」
風に揺れる透明な風鈴たちが可愛らしく、しかしその音色はとても綺麗で、思わず見惚れてしまった。
しかし、今はこの後の神楽舞の為にお腹を満たそうと赤木さんと一緒に歩き、風鈴の屋台を後にした。
家に戻って屋台で買ったものを赤木さんと一緒に食べ終えて休憩していると、赤木さんが立ち上がる。
「ん?どこ行くの?」
「煙草吸ってくる」
「いってらっしゃーい」
窓から吹き込む夏の風が涼しく、私は麦茶を飲んで高い青空を見つめる。
「これからお供え物準備して、それから神楽舞の練習またして、7時に本番か……まだ時間あるし、ちょっとのんびりしよ」
私は巫女服だが座布団を枕代わりにして横になる。父が見たら絶対に怒るであろうこの姿。しかし、疲れたものは疲れたのだ。
涼風と草木の香りに包まれて、夢見心地の気分になっていると、遠くからあの澄んだ音色が聞こえてきた。
──カランカラン…カランカラン…
本当に良い音色だと耳を傾けていると、その音色は足音と共に近くなってくる。何だろうと思い私が体を起こすと、彼がガラスの風鈴を持って歩み寄ってきた。
「赤木さん……?」
「アンタにやるよ、これ」
差し出されたのは私が見惚れていたガラスの風鈴だった。何処までも透明で、色のないその風鈴は山から流れる水のように綺麗だった。
「い、いいの……?」
「いつも世話になってる礼だ」
「赤木さんありがとう!わぁ、すっごく綺麗!」
風鈴を空へ翳して見ていると、赤木さんがふと微笑んだ。
「夜の神楽舞、頑張りなよ」
「うん!頑張る!」
きっと赤木さんは私が風鈴に見惚れていたのを見て、これを買ってきてくれたのだろう。それに、応援されたら嫌いな祭事でも気合いが入るものだ。
そして迎えた夜の神楽舞。私は舞庭に立ち、静かに深呼吸をする。
瞬間、静寂に包まれる。囃子の人たちのすぅっと息を吸う音が聞こえると、私は舞を踊った。
鳴り響く太鼓と笛に合わせて、左手に持つ榊の枝葉に当たらないように神楽鈴を鳴らす。
畏敬と、敬愛と、尊敬の念を込めて、ここに宿る神様に舞を捧げる。
神楽舞を踊り、いよいよ終盤になってきた。私は魚や餅、野菜が供えられた神饌の前に正座をすると、最後に榊の枝葉を供えた。
そして深々と礼をすると、囃子の演奏が終わり、静寂に包まれる。一拍置いて拍手が巻き起こり、私は神楽舞を見てくれた人たちにも礼をした。
拍手を送る人々の中には赤木さんもいて、彼を見つけると私はほんの少しだけ微笑んだ。
舞庭を降りて社務所へ向かうと、いの一番に巫女服を脱いで化粧を落とし、今流行りのメイクとファッションに変身すると境内へ出た。
「ふぃ〜、終わった終わった」
「お疲れ様、名前」
「あ、赤木さん!見てくれてありがとう」
「名前は毎年あれ踊ってるの?」
「うん、他にも年末と年明けにも神楽舞があって、それも私が踊ってるよ」
「すげえな、毎年あんなふうに踊るなんて。アンタにしかできないことだ」
「……」
そんなふうに言われたのは初めてで、私は赤木さんを見つめて微笑む。
「ありがとう、そんなふうに褒められたの……はじめて」
「? 親父さんは褒めてくれねえの?」
「お父さんが神事で褒めてくれた事なんてないよ。いつもまだ未熟だって言われてばっかり……まあ、私だってやる気ないし別にいいけど」
そう、どんなに神事を頑張っても父が私を褒めてくれた事はない。別にべた褒めしろと言ってるわけではないのだが──少しくらい褒められたいのが、子供の言い分なのだ。
「さて、私の役目は後片付けまでないし、赤木さん、お祭り回ろうよ!」
私は赤木さんの手を取ると、オレンジ色の明かりに照らされた屋台通りを小走りで行く。
赤木さんは少し困ったような表情を浮かべた刹那、ふと微笑んで屋台巡りに付き合ってくれた。
綿あめ、水あめ、イカ焼き、水風船に金魚すくい、屋台を満喫していると祭りはあっという間に終わりを告げる花火があがる。
最後の一発があがると、拍手が巻き起こり、どことなく静けさを感じる。祭りの終わりだ。
「終わっちゃったね」
「そうだな……。名前」
「ん?」
「俺、明日ここを出るよ」
「え、えぇ……めっちゃ急だね、お金とか大丈夫なの?300円も持ってないのに」
「ククク、祭りの準備を手伝ったらバイト代だって幾らか貰ったんだ。まあ、そういう訳だから……ありがとうよ」
「……短い間だったけど、赤木さんと一緒に居れて楽しかったよ、それに私こそありがとう、風鈴買ってくれて。大切にするから」
そう告げると、彼はふっと微笑んで私を見る。祭りの後片付けを終えると、赤木さんはお父さんに明日家を出ていく事を伝えた。
父は少し寂しそうにしていたが、これもまた何かの縁、良かったらまた神社に顔を出してくれ、と赤木さんに言っていた。
次の日、赤木さんは少ない荷物を纏めて我が家を発った。二人で彼の背中を見送ると、父がコホンコホンと咳払いをする。
「……名前」
「なに?」
少し間が空いて、黙り込む。私はなんなのさと言って催促すると、意外な言葉が出てきた。
「…………神楽舞、悪くなかったぞ……よくやった」
「えっ、な、なに、急に……」
「……別に、褒めるときは褒めておこうと思っただけだ。ほら、さっさと境内を掃除に行ってこい!」
父は強引に私に箒を持たせ、境内に向かわせる。
でも、褒められたのは悪い気分ではなくて、寧ろ、欲しかった言葉だったから──嬉しかった。
少しだけ、神社の後を継ぐのも悪くないかもしれないと思った。
カランカランとガラスの風鈴が鳴る。
*
あれから不思議なことに、祭りの日と初詣の日に赤木さんは毎年神社に顔を出してくれるようになった。
そして毎年彼と顔を合わせること数年、お父さんが──父が寿命を迎えて亡くなった。
1972年の秋の頃だった。
葬儀を終えて、親戚たちに挨拶をして彼らを帰す。家にはただ一人、私だけになってしまった。
静かになった家で呆然としていると、玄関のチャイムが鳴る。誰かが忘れ物でもしたのだろうと思って、私は返事をして玄関の戸を開ける。
そこには──赤木さんがいた。
「赤木さん……」
「たまたまこの辺に立ち寄ってさ、アンタの親父さんが亡くなったって近所の人から聞いて……今、大丈夫かい?」
「大丈夫ですよ、どうぞ」
赤木さんを家へあげる。彼ももう30代後半になり、派手なスーツが似合う初老の男性へとなっていた。
私ももう大人になって、神社を正式に継いで神主となった。
赤木さんは仏壇に置いてある骨壷に手を合わせると、居間へと戻ってきた。
「お久しぶりです、赤木さん。最近お仕事の方はどうなんですか?」
「ま、ぼちぼちだな」
そう言って彼は湯のみに口をつける。これは赤木さんと数回会った後に知った事だが、彼はその世界では有名な人らしく、神威の男と呼ばれているんだそうだ。
そんな彼が、この寂れた神社の何が気に入ったのか、こうして顔を出してくれることが嬉しかった。
「今日は名前に報告があってよ」
「あら、なんですか?」
「……引退しようと思うんだ、あの世界を」
「そうですか……どうして?」
尋ねると、彼は湯のみの中のお茶を少し見つめてから答える。
「名声が邪魔になっちまってよ……。ああいうのを手に入れると、人はそれを保とうともがいて、もがいて──果てに動けなくなってしまう。俺にはそれが、どうにも窮屈でな」
なるほど、実に彼らしい理由だと思い私は微笑む。
自由気ままで、のらりくらりとした生活を好む彼に、その名声は確かに不要なものだろう。
「赤木さんは、なりたくて″神域の男″になったわけじゃないですもんね。私はいいと思いますよ」
「……そうか、ありがとうよ、名前」
そう言って赤木さんは煙草を吸い始める。私は前から疑問に思っている事を、ふと赤木さんに尋ねてみた。
「赤木さんは、どうして毎年マメに
「ん?」
「だって、気になって。赤木さんほどの人がどうしてこんな寂れた神社によく来るんだろうって。東京から離れてるし、東京の方が有名な神社がたくさんあるし」
赤木さんは紫煙をふーっと吐くと、窓から見上げる夜空を見ながら語ってくれた。
「ここはよ、落ち着くんだ。
神域の男ともあろう人が、こんな神社の見習い神主の言葉をありがたいと言ってくれるのは、神主冥利に尽きるというものだ。
「神域の男が神主の言葉をアテにするなんて、皆さん知ったら驚くでしょうね」
「ハハハ、違いねえ」
そんなふうに談笑すること数時間、そろそろお暇すると言って赤木さんは立ち上がった。彼を見送るために玄関までいくと、ふと赤木さんが我が家の窓を見る。
「あれ、まだあったのか」
赤木さんが指さす方には、あの夏の日に貰った風鈴が静かに佇んでいた。
「勿論、赤木さんから貰った大切なものですから」
「あの安物のどこがいいんだか」
「貴方から貰ったからいいんですよ。……帰り道、暗いですから気をつけてくださいね」
「ああ、急に押しかけてすまねえな。また来るよ」
私は彼に手を振り、その背中が見えなくなるまで見送った。
ふとそよ風が吹き、カランカランと風鈴が鳴り響く。
それからまた何度か再会を交わし、また会えた日──彼はまた歳をとり、53歳になっていた。
1999年、桜が舞い散る春だった。
その日は祭事もなく、初詣といった大きなイベントもない、何の変哲もない日だった。
彼がやってきた。ガラスの風鈴の音色と共に。
「あら、赤木さん。こんにちは、今日は参拝ですか?それともなにかご用事で?」
彼に声をかけると、一瞬だけ驚いたように目を見開いてこちらを見る。それから思い出したように声を漏らし、彼の瞳から警戒の色は消える。
「ああ、アンタか。……大切なことを伝えにきたんだ」
「大切なこと……?」
──カランカラン…カランカラン…。
桜の舞う温かく、柔らかな季節。花びらと共に風鈴が揺れる。
家にあげようと思ったが、赤木さんはここでいいと言って本殿前の石段に座る。私はせめてお茶くらいは出そうと一旦家へ戻り、お茶とお菓子を持ってきた。
それに、彼が纏う雰囲気がいつもよりも何だか真剣で、私は隣に座るが何も声をかけられずにいた。
「……名前よ」
「はい」
「……俺、アルツハイマーになっちまってよ」
その言葉に、私は心臓を鷲掴みにされたような、胸が苦しくなる感覚と共に、嘘だ、嘘であってほしいと願う。
「ここへの道も少し分からなくなっちまって、迷っちまった。それに……お前の顔見ても、一瞬誰だか分からなかった」
風が強く吹いている。カラカラ、カラカラと風鈴がけたたましく鳴り響いた。私は千早の胸元を握り締める。
「……赤木さん──」
大丈夫です、もしお世話だと言うのなら私に任せてください──伝えようとした刹那、風が止んだ。
「だから、俺は俺の手でこの命を終えようと思う」
はっきりと、彼はそう告げる。
「………ぇ」
私は一瞬思考が止まった。彼は今、何と言ったのか理解できなかった。しかし時間差で彼の発言が理解できて、彼の言わんとすることも、彼の考えていることも分かって、私はただ黙っていることしかできなかった。
「俺は……俺であるうちにこの命を終わらせたい。赤木しげるとして生き、死にたいのだ」
そうだろうと思っていた。実に、実に彼らしい考え方だ。独特の美学を持っていて、それを貫き通す真っ直ぐさ。その鋭さはまるで透き通っていて透明で──ガラスのように綺麗だ。
私に彼を止めることはできないと、その時確信した。彼を見送ることしかできないのだと。
「そう、ですか……。貴方らしいですね」
「止めねえのか?」
私は静かに頷いた。
「止めても、聞かないでしょう?」
「まあな、決めたことだ」
「ふふっ……貴方のそういうところが、きっと人々に愛されるのでしょうね。私にこのお話をしにきたと言うことは、なにかお手伝いする事があるのでしょう?」
「ああ、頼めるか」
「……はい、やらせてください。でも、その前に私からも我儘があります」
赤木さんは首を傾げる。私は少し赤木さんに近寄ると、そのまま彼を抱擁した。
「……悲しいです」
「ああ」
「寂しいです、赤木さんが居なくなるのが」
「悪いな」
次第に声が震えて、私は彼を抱きしめたまま泣いてしまった。泣きたいのは彼の方かもしれないのに。
「ごめんなさい、大人気なかったですね……」
私は彼から離れるとハンカチを出して涙を拭った。
「ククク、子供の頃のアンタを思い出したよ」
「子供の頃赤木さんの前で泣いた覚えないですけどね」
「あれ?そうだったか?」
「もう……」
ふと、私はとある事を思いついた。彼が旅立つと言うのなら、私がやるべき事があるではないかと。
「赤木さん!そこで待っててください、すぐに戻ります!」
私は赤木さんを本殿前に残すと急いで社務所へと向かった。神楽舞用の巫女服と千早に着替え、髪を整える。
花のついた前天冠に、神楽鈴を手に持つと私は赤木さんの元へと戻った。
赤木さんは私を見ると、おっと言って声をあげる。
「なんだ、舞を踊ってくれるのか?」
「はい、ここは旅の神様が祀られている神社。赤木さんの死は──終わりじゃありません、きっと旅の始まりです。だから、貴方の旅路を祈って、この舞を捧げます」
私は本殿と赤木さんに深々と一礼をすると、舞を踊り始める。木々のざわめきと、桜の舞い散る音、そして風鈴の音色しかしないこの場所で踊るのは、彼に捧げる特別な舞。
嗚呼、どうか赤木さんに多くの時間が残されてくれますように。
どうか赤木さんが苦しまず、怖い思いをしないように。
彼の道行が、晴れやかで良いものでありますように。
祈りを込めて、鈴を鳴らす。
私は最後にまた深く一礼をすると、舞を終えた。彼は私の前まで歩いてくると、無邪気に笑った。
「いつ見ても綺麗な舞だな、ありがとうよ、名前」
「……赤木さんの旅が、良いものでありますように」
私も彼に微笑みかける。彼は私の肩にポンとその手を置くと、ひらひらと掌を振る。
「手伝いの件はまた連絡する、金光って坊主からそのうち手紙が届くはずだ」
「わかりました、赤木さん」
「ん?」
「……お元気で!」
「……ああ、名前もな」
それから少しして金光さんという方から手紙が届き、一緒に彼の葬儀の準備を始めた。
私は神式葬儀しかした事がないため、金光さんに寺院葬の色々教えてもらって準備を進める。
そして件の日を迎え、赤木さんの親しい人たちが集まった。彼らは赤木さんの説得を試みたが──彼の考えは変わらず、最期はたくさんの友人に見守られてこの世を去った。
1999年 9月26日の事だった。
「また小さくなっちゃってまぁ……」
私は赤木さんの墓の前に花を備えると、しゃがみこんで墓の下で寛ぐ猫を撫でた。
また一回り小さくなった墓石から哀愁が漂うも、たくさんのお供えものを見て、彼が今でも愛されているのだと実感する。
赤木さん、旅の方はどうですか?楽しんでいますか?
貴方の旅の道行が、どうかいつまでも楽しく、心ゆくままでいられますように。
貴方の旅の軌跡が、いつまでも人々に語られますように。
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