悪魔と吸血鬼
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「俺、好きな人ができたんだよね」
「……………は?」
雀卓で洗牌しながら告げると、対面に座る老人、鷲巣巌は訝しげな表情でこちらを見つめてきた。
ここは鷲巣の家で、街でフラフラしていたら鷲巣の部下達に掴まり、ここまで運ばれてきたので、丁度いいと思い立ち俺はこうして恋愛相談に乗って貰おうと話をしている。
「で、鷲巣……どうアプローチすればいいと思う?」
「知るかッ!お前の恋愛事情など!」
「そっか、人生経験豊富な鷲巣なら教えてくれると思ったんだけど……あっ、もしかして鷲巣って恋愛した事ねえのか?」
その刹那、鷲巣の額に青筋が浮いた。
「あるわッ!こんのガキぃ〜〜〜!人をおちょくりよって!」
「そんなに怒ると血圧上がるぜ…!鷲巣巌…!」
「がっ…!がっ…!」
鷲巣は杖を振り回そうと腕を上げたところを部下達に諌められている。
「まあタダで聞けとは言わねえよ。俺との麻雀勝負に負けたら……聞いてもらおうか、恋愛相談…!」
「フン、お前のような狂人の恋愛相談など死んでも聞きたくないわっ…!」
そして数時間後、俺は鷲巣に1000点差で勝ち、鷲巣に相談を聞いてもらう権利を得た。
初めての出会いは、彼女の働いている雀荘だった。何となく立ち寄った雀荘で、最低限の生活費を稼ごうと打っている時に彼女は俺の目の前に現れた。
「コーヒーお持ちしました」
注文したコーヒーを運んできた彼女から感じた異様な雰囲気に、俺は一目惚れだった。
いくつもの修羅場を潜り抜けてきた人間が纏う雰囲気が、彼女にはあった。
彼女は上手く取り繕ってるつもりだが、俺には分かった。只者じゃあないってな。
「これが初めての出会いで、これからお近づきになりたいんだけど、どうすればいい?」
鷲巣は大きくため息をつくと一言。
「あー、その雀荘に通えばいいんじゃね?」
「なるほど、地道に行くしかねえか。ありがとな、鷲巣」
じゃ、と一言短い別れの挨拶を告げて、俺は椅子から立ち上がると部屋を出た。後ろから「何なのアイツ」と聞こえたが特に気にせず、鷲巣の家を出る。
俺は鷲巣に言われた通り雀荘に通い、客や雀荘メンバー達からついでに毟れるだけ毟り、彼女とお近づきになれる機会を伺った。
そして雀荘に通い詰めて数日後、遂に俺は彼女と対局するにまでなったワケだが、俺は彼女の名前も知らねえ。まあこの勝負でこの人が負けたら、ここは毟らずに名前を教えて貰おうと思っていたのだが──。
彼女は中々のやり手だった。俺が考えうる捨て牌を全て読み切ってくる。そして他家にも振り込まず、堅実に立ち回るその打ち方は──まるで彼女には、牌が透けて見えているようだ。
倍プッシュでもう半荘一回戦を申し込まれ、手を替え品を替えるも、やはり彼女は振り込まない。これはおかしい、どうなっている?
彼女には、何が見えているんだ──?
そうこう考えながら打っていると、俺は他家の奴に大差をつけて圧勝し、男達は捨て台詞を吐いて店を出ていってしまった。2位に何とか収まった彼女はふぅ、とため息をついている。
俺は彼女の打ち方が気になり、席から立ち上がると声をかけた。
「ねえ……今の、何?」
新しいイカサマか、それとも彼女の持つ運なのか──それを確かめたかった。
しかし、彼女の反応からするとイカサマはやっておらず、ただただ麻雀を打っていただけの様子だった。
「あの、もうそろそ閉店時間ですのでいいですか?閉店準備しないとなので」
時計をちらりと見ると、もう夜の1時を過ぎた頃だ。
「ああ、悪いね」
この人に迷惑をかけるわけにはいかないので、俺は引く事にした。
しかし、名前を聞くチャンスを逃してしまった。ここからどうするか、今この雀荘には俺と彼女の二人きりだが、どのタイミングで動こうかと思案していた時だった。
唸り声と共にドサリと重い音が部屋に響く。それからカランカランと箒が床に落ちる乾いた音。ソファーから体を起こして見ると、彼女が倒れていた。
「おい、おい、アンタ」
彼女に近寄り、声を掛けてから俺は驚愕した。
耳が異様に尖っている──その姿はまるで、西洋のファンタジー小説に出てくる吸血鬼のようだった。
「おいアンタ、耳が尖ってるぞ?大丈夫か?」
そう声をかけると、何やら気まずそうに彼女は声を漏らす。
「立てるか?」
俺の問いに対して、彼女は小さく首を横に振った。何かしらの体調不良になってしまったのだろう。取り敢えずソファーにでも運んで横にしてやろうと思ったその時だった。
「……あ、の、お願いが……あります」
「なに?」
「血を、血をほんの少しでいいので……飲ませてください」
薄く開かれた彼女の瞳は真紅に染まっていた。そして口の端からは鋭い牙が見える。
俺は取り敢えず彼女の指示に従おうと思い、ボストンバッグの中から鋏を取り出し、掌に小さく傷をつけた。
「これでいい?」
彼女の口元に掌を差し出すと、柔らかい唇が俺の掌に吸い付く。ちゅ、ちゅ、と何度も、何度も。
今、俺は好きな人にキスされてる──掌だけど。
懸命に血を吸う彼女の姿に、俺はときめいてしまった。心臓が止まるんじゃないかと思うほどに。
彼女の唇が離れると、すっと何事も無かったかのように立ち上がり、彼女はお礼を言うと酷く落ち込んでいるようだった。
そして話をすると、やはり彼女は吸血鬼という存在らしく、正体がバレたら姿を晦ますのだと言う。
それは何としてでも阻止せねばと思い、俺は彼女に正体を誰にも言わないという事を約束し、そこでやっと名前が聞けた。
「ねえアンタ、名前は?」
「……名前」
それから名前さんから色々と聞いた。名前さんは700年以上生きた吸血鬼な事、血を飲むのは嫌いな事、考え方はとても人間的な事。
麻雀中は吸血鬼の力で透視能力を使っていたから、あんな打ち方ができた事。成程と納得した。
「それから何やかんやあって、俺はあの雀荘に通い詰めて、名前さんと同居する事になったってワケ」
場面は変わり、また鷲巣の家になる。対局を進めながら対面に座る鷲巣は今にもはぁ??と言いたげな顔でこちらを見て──。
「いやっ!お前……同居って、早っ!?」
鷲巣には名前さんが吸血鬼の部分は伏せて俺達の逢瀬を語ったが、そんなに驚く事かと俺は首を傾げる。
「いや、首を傾げるな!相手の女性……その、名前君と言ったか。その人は了承したのか?!」
「したぜ、俺との麻雀勝負で負けたら同居させてって事でな。ちなみに相手はイカサマ有りのハンデ付きだ。それで負けちまったんだからしょうがねえ」
しかも、吸血鬼の透視能力ありというとんでもなく譲歩したハンデだ。それで負けたのだからしょうがないだろう。
「まあ、そこまでのハンデをやって勝てなかったのならしょうがないが……いや、相手の女性は嫌がっておらんのか?」
「勝負の時は嫌がってたけど、今は全然」
「そうか……。まあ、その女性もちとばかし変わっておるな。何歳くらいの女性なんじゃ?」
「歳は知らねえが、年上だ」
「年上か、お前のような落ち着きのない奴には年上が良いじゃろうな」
まあ、年上と言っても鷲巣よりも遥かに年上で、そのうえ死なない吸血鬼ときた。鷲巣が知ったら死なないと言う点で羨むだろうな。
「でさ、鷲巣。今度名前さんとデートしたいんだけど、どうすればいいかな?」
「知るかッ!それくらい自分で考えろ!」
「ククク、この半荘三回戦……負けたらデートプランを考えてもらうぜ…!鷲巣巌…!」
「嫌じゃけど……」
俺は鷲巣に400点差で勝ち、名前さんとのデートプランを一緒に考えてもらう権利を得た。
「東京タワーにでもいって、美味い飯食って、ちょっとその辺車でフラフラしてって感じでええじゃろ」
「なるほど、東京タワー付近はアリだな。車は組のやつから借りればいいか」
「服装もしっかりするんじゃぞ、お前のそのだらしない格好じゃあ女性の方がガッカリするじゃろ」
「……デートの服とか持ってねえな」
そう呟くと、はぁ〜と鷲巣はため息をつき、部下を呼ぶととあるものを持ってこさせた。
部下から受け取ったものは、銀座の住所と知らない人物の名前が書かれた洋服屋の名刺だった。
「そこに行けばいい服を見繕ってくれるじゃろう。暇な時に行ってこい」
「……ありがとな、鷲巣…!デート終わったら報告するぜ…!」
「ええい!報告せんでいい!」
そんなこんなで俺は鷲巣が教えてくれた洋服屋に行って服を見繕ってもらい、代打ちでデート代を用意して、そして名前さんをデートに誘う事に成功した。
車と服装の準備があったので、俺は一足先に名前さんの家を出て、車はヤーさんから借りて、服装もそこで着替えた。さて、名前さんを迎えに行こうと俺は車を発信させる。
銀座駅に到着して、車を駐めると名前さんはいた。綺麗な黒いワンピースに、ふんわりと巻いた髪、化粧をした彼女はいつもより綺麗で、本日の太陽よりも眩しく見えた。
名前さんと合流して、俺は彼女を助手席に乗せると東京タワーへと向かう。
初めて来た東京タワーは近くで見るとそれはそれは大きく、平日だと言うのに大勢の人で賑わっていた。ヤーさんから持っていけと言われたカメラで名前さんを撮ると、綺麗に撮ってと可愛らしい文句を言われ、少し離れて東京タワーと名前さんを撮影する。
名前さんが戻ってきて、俺を撮ると言ってきたが、俺は名前さんが撮りたかったので遠慮していると、男女のカップルが声をかけてきた。
何でも俺達二人を撮ってくれるとの事で、それなら良いと思い了承した。女性の方がカメラに詳しいのか撮影できるとの事だったので、カメラを手渡し、先程名前さんの立っていた位置へ向かう。
女性がもう少し寄って欲しいとジェスチャーを出してきたので、俺は名前さんの肩を抱き寄せた。
シャッターが切られる音がして、もう一枚撮るとの事なのでそのままの姿勢で撮影してもらった。
「撮れました〜!うふふ、お二人ともお似合いですね。それでは」
「あっ……!あぁ……!」
名前さんがえもいえぬ声をあげている隣で、俺は女性が撮影してくれた写真を見る。俺と名前さんが並んでいるこの写真は家宝にしようと決めた。
東京タワーの展望台に到着すると、名前さんは目を輝かせて東京の街を見ていた。景色を眺める名前さんの大人びているのに、何処か子供っぽい無邪気な表情が可愛くて、綺麗で、俺は景色そっちのけで名前さんを見ていた。
「綺麗ですね」
「ああ、綺麗だ」
名前さんを見て言うと、不服そうな表情をしてじとっと俺を見つめる。
「赤木さん、景色見て言わないと説得力ないですよ?」
「いや、アンタが綺麗だ」
ストレートに思った事を伝えると、名前さんは顔を赤くして素っ頓狂な声を出した。そんな年頃の少女のような反応が返ってくるとは思わず、俺も少し気恥しくなる。
「けっ、景色見て言ってくださいよ!もう!……でも、ありがとうございます」
こうして結局礼を言う所が、この人の義理堅さというか、吸血鬼らしくないなと思わせる。
「歩いて回ろうか」
「は、はい」
歩いて回りながら、東京の景色を共に眺める。彼女はあそこは何処だとか、家の方角はあっちだとか、あの建設中のビルはなんだろうだとか、子供のようにはしゃいでいた。
そして一周した頃に、彼女はまた窓から景色を見る。その瞳がとても慈しみに満ちていて──俺は名前さんのこういう所が好きなのだと改めて思った。
愛しいものを見るその目が、とても綺麗だったから。
「名前さん、楽しい?」
そう尋ねると、彼女は花が咲いたように満面の笑みで答えた。
「はいっ!とっても!」
あまりこういう人が大勢いる場所は好かないが、名前さんが楽しそうなら良かった。その後は別のフロアに行って土産屋で名前さんの働いている雀荘スタッフ達へのお土産を買ったり、アイスクリーム屋に入って食べたりして歩いていた。
洋服屋の前に差し掛かった時、名前さんがショーウィンドウに並んでいる服を歩きながら見つめていた。
白い、真っ白な綺麗なワンピース。脳内で名前さんがこれを着た姿を想像し、似合うと思った。俺の前で、着てほしいと思った。
しかし、名前さんは興味深そうに見つめていたのに、歩みを止める事無く進んでいく。
このままでは後悔すると確信した俺は名前さんを呼び止め、手を取ってやや強引に店の中に入った。
「名前さん、あの服着て」
俺がショーウィンドウに飾られていた服を指差すと、名前さんは遠慮がちに両手を横に振りながら拒否するが、どうしても着てほしくて俺は押し通す。
「着て」
「……はい」
ここ最近分かった事だが、名前さんは押しに弱い。
店員がやってきて服と靴を用意してくれて、名前さんは試着室に案内された。
「お客様、よろしければこちらに腰掛けて彼女さんをお待ちください」
「……どうも」
店員が気を利かせてくれて丸い小さなソファを持ってきてくれた。そして今、あの店員は彼女さんと言ったか?先程、写真を撮影してくれた人といい、この店員といい、俺達ははたから見たら恋人に見えるのだろうか。
恋人に見えるのなら嬉しいが、生憎まだお付き合いはしていない。
それどころか相手は年上で、俺より何百年と生きている人だ。落とすには時間がかかるだろう。
「赤木さん、着ましたよ〜」
試着室のカーテンが開かれると、白いワンピースを纏い、白いヒールを履いた名前さんが現れる。
俺は名前さんを見て──見惚れてしまった。想像以上に似合っていて、可愛らしくて、そこに天使が舞い降りたようだった。あまりの衝撃で無言になり、名前さんを凝視して俺は彼女の言葉を遮って言った。
「似合ってる」
「──えっ?」
俺はソファから立ち上がると彼女の手を取り、もう一度言う。
「すげぇ似合ってる、可愛い。……正直、見惚れた」
ストレートに想いを伝えると、彼女は頬を赤く染めて俯いてしまう。照れ隠しの仕草まで可愛らしくて、俺は内心浮かれていた。
店員に話しかけられ、これはもう洋服を買うしかないと思い、購入する旨を伝えた。驚く名前さんを他所に会計を済ませた。
正直、俺はそのままその服を着てほしかったのだが、彼女は脱いで元の黒いワンピースになってしまった。こちらも似合っているが、やはり彼女には白が似合う。
「俺はあそこであの服に着替えてほしかったんだけど。可愛いし、似合ってたし」
「……そ、それはダメっ」
彼女は頬を赤くしながら首を横に振って答える。
「どうして?」
そう尋ねると、少し間を置いて、彼女は恥ずかしがりながらも答えてくれた。
「……この服は、次のデートの時に……着たいから、です」
本日二度目の衝撃が走った。聞き間違いではないか自分の耳を疑ってしまい、俺はこう質問する。
「それって、俺とのデート?」
コクコクと彼女は頷き、俺は嬉しさのあまり彼女の小さな手を握る。彼女の照れたような、驚いたような表情が愛らしくて、嬉しくて、俺は珍しく笑う。
「クククッ、またデートしような」
彼女は笑って「はい」と答えた。心の底から嬉しくて、幸せな時間だった。
それから飯を食べに行って、初めて食べるフグに名前さんは舌鼓を打ち、帰り道でフラリと寄った公園で、彼女自身の話を聞いた。
その歴史や行いが、たとえ褒められたものではないとしても、彼女は人々の善性を信じ、人々の営みを見守り、愛していると──限られた時間の中で、より良い未来を築こうとする人間が好きだと、夕日の中で語ってくれた。
公園を歩きながら、俺は彼女の事がもっと知りたくなって色々と尋ねた。
彼女は楽しそうに、何処でどんな時代を、どう生きて、暮らしてきたかを語ってくれた。
それはまるで、御伽噺でも聞いているかのような、遠い遠い昔の話。だが、名前さんの語る事は真実なのだと俺は思った。
帰りの車の中でも、彼女とたくさんの事を話した。
俺の事、名前さんの事、明日の事。そんな何気ない、他愛のない話をして、くだらない話に花を咲かせ、今日のデートは終わりを迎えた。
車をヤーさんに返し終えて、名前さんのアパート前に着くと、そこには名前さんの履いていた黒いヒールが片方、無造作に転がっていた。その傍らには──血溜まりがあった。
嫌な予感がする。
──大怪我をして生命源である血を流し過ぎてしまった時、あまりにも長く活動し過ぎて体が摩耗したりすると、私達は眠りにつくんです。
名前さんが語っていたその言葉が、俺の脳内を過ぎった。
しかし、それでも俺は嫌に冷静だったが──同時にそれと相反する感情が、腹の底からふつふつと湧き上がってくる感覚がした。
「おい、お前……赤木しげるだな?」
振り返ると、恰幅のいい男が下卑た笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「お前の探しもの、返して欲しければ取り返してみろってボスが──」
その刹那、俺はその男と距離を詰め、蹴りを顔面に向かってお見舞いした。男は宙を舞うと電柱に後頭部をぶつけて、低い唸り声をあげる。
男の胸ぐらを掴み、片手で持ち上げる。足をばたつかせて離れようと藻掻くが、そんなのは許さない。男を睨みつけ、俺は問うた。
「あの人は……何処だ?」
「ふっ、埠頭の倉庫だ……!5番の倉庫!そこに俺達の仲間といるっ!」
「相手は何人だ?」
「ごっ、5人……!本当だ!嘘じゃねえッ!」
その情報を聞き出すと、俺は男を解放し、一発殴って気絶させると埠頭にある倉庫へ向かった。
急がないと、あの人が長い眠りについてしまう。
✽
意識はあった、意思もあった、思考も持っていた。視覚も、触覚も、嗅覚も、聴覚もあった。
ただ、それらの器官がないだけで機能はしていた。
私という存在が発生した時──私は、醜い肉塊だった。
暗い鬱蒼とした森の奥で、土と草と木の匂いに囲まれた肉塊 は、花を摘みにきた一人の美しい少女を見た。
少女は肉塊 を見ると、恐る恐る手を伸ばし、触れる。そして醜い肉塊 を、優しく撫でた。
その少女のようになりたいと、強く願った。
あんなふうに、綺麗になれたのなら、美しいものになれたのなら──そう願うと、私は人のかたちになった。
それから人に成った私は、優しい老夫婦に拾われ、人という生き物を学び、理解した。
老夫婦の優しさや、温かみに触れた。老夫婦は私の事を愛してくれた。
しかし悲しいかな、生まれたばかりの私は──吸血衝動に耐えきれず、老夫婦の血を吸い尽くしてしまった。
老夫婦の最期の表情は──今でもよく覚えている。絶望と、恐怖と、畏怖と、困惑。それらが入り雑じった表情。
止められなかった、血を吸う事が、血肉を食べる事が。美味しかった、どんなものよりも美味しかった。
そして騒ぎを聞きつけた村の男に見つかり、彼は言った。
「ばっ、化物っ……!!」
私は逃げた。何処までも走って、遠くへ、遠くへと。そして湖を覗き込み、自分を見て思った。
嗚呼、化物がいる──。
口元と、白い服を真っ赤に染め上げた吸血鬼がそこにいた。耳は尖り、目は真紅に、そして歯は牙になっていた。人の姿とはかけ離れた──醜い化物だ。
私は、あの時触れてくれた少女のように美しく、綺麗になりたいと願った。
しかし、それとはかけ離れた存在なのだと、私はどこまでも醜い化物なのだとその時理解し、絶望した。
私は、人間に生まれたかった。そう思った途端、涙が溢れて止まらなかった。
羨ましいと思った。綺麗だと思った。美しいと思った。輝いて見えた。
私はそれ以来、人間として振る舞い、生きる事にした。自分を偽り、姿を変えて、名前を変えて。
時には猫や犬になって、別の視点で人間と生活したりもした。
そうして共に暮らして、もちろん楽しい事ばかりではなかった。
酷い事もされたし、酷い事を言ったり、したり。戦乱に巻き込まれたり、飢饉に苦しんだり、犯罪に巻き込まれたり、理不尽に殺されたりした事もあった。
人間を憎らしいと思う事も、バカバカしいと思う事もあった。呆れることも、くだらないと思う事も。
それでも、私は人間が愛おしいと思った。それでも、綺麗だと思ったから──。
目を覚ますと、私は手足を縛られ冷たいコンクリートの上に寝かされていた。後頭部からは相変わらず鈍痛がする。
それにしても、夢なんて何百年ぶりに見た。見るにしても、全くもって酷い夢だ。
「……ここ、は?」
ぼやけた視界がだんだんはっきりしてくる。埃っぽい空気に、雑多に置かれた資材や木箱、所々錆びたトタンの壁には亀裂が走り、隙間風が吹き込む。
どうやらここは何処かの倉庫のようだ。
「おい!こいつ、目を覚ましたぞ!」
「へへっ、悪いな姉ちゃん。これ以上痛い思いしたくなけりゃ大人しくしててくれ」
男が5人、私を取り囲んでいた。どうやら私を攫ったのはこの人達みたいだ。外見の指摘がない事から、変化はできているみたいだ。
ただ、先程の後頭部へのダメージが大きいみたいで、まだ血が流れているのか、生暖かい感触がする。このままでは吸血衝動が出てしまうのも時間の問題だ。
「にしても、赤木が来るまで暇だなァ〜」
私がここからどう切り抜けようか考えていると、一人の男が私の事を下卑た笑みを浮かべながら見つめてきた。
「おいおい、人質に手ェ出すのかよ」
もう一人の男も薄ら笑いをしながら他の男達と笑っている。
そんなことより今、彼は赤木と言ったか?そして私が人質?考えられる事は色々あるが、彼らは赤木さんに何かしらのギャンブルで毟られて逆恨みして、彼を呼び出す為に私を人質にとっているところだろうか。
今回も犯罪に巻き込まれてしまったのか。私はつくづく運がないと自嘲する。
男数人が私に迫ってくる。体を仰向けにさせられ、大きな手が伸びてくる。
まあ、仕方ない。こういう事もある。そう諦めて目を瞑った時、赤木さんの穏やかな表情が脳内を過ぎる。
「……赤木さん」
彼の事を考えると、心が暖かくなる。この気持ちは何度かあったけれど──吸血鬼として、化物 として受け入れてくれたのは、彼が初めてだった。
──会いたい、会いたいなぁ、赤木さん。
その刹那、手を伸ばしていた男が吹っ飛んだ。
周囲の男達が騒ぎ出し、皆同じ方向を見る。そこには──私の会いたい人がいた。
「あ、かぎ……さん……」
「赤木ッ!てめえこの野郎──ぐぉっ!!」
赤木さんは、見た事がないくらい怒っていた。いつも冷静で、落ち着いていて、ポーカーフェイスのあの彼が、こんなに怒りを顕にする事に私も少し驚いた。
「……その人は俺のモンだ、返せよ」
声色も何処か低くて、ドスが効いている。
そして、容赦なく私を攫った男達を殴り、蹴り飛ばしていく。
その拳には返り血が付いていて、手加減なんて一切していない事が分かった。
今の彼は、白い悪魔だと言われても信じる風貌だろう。
鈍い音が何度も響き、やがて静かになる。
男5人を全員気絶させると、彼は落ちていたナイフを拾ってこちらに駆け寄る。
「ごめん、名前さん、遅くなった」
「ううん、大丈夫です……ありがとうございます」
彼は私の手足を縛っているロープを切ると、優しく抱きかかえて倉庫を出た。
倉庫の外は静かで、暗くて、波の音だけが響いていた。
赤木さんは私をゆっくり座らせると、持っていたハンカチを破って頭に巻いていく。
「ありがとう、ございます」
「……ごめん、俺のゴタゴタに巻き込んで」
「ううん……いいんですよ、こういうの、慣れてますから」
私がゆっくり言うと、彼は少し苦虫を噛み潰したような表情をして私を見ると、赤木さんは上着を脱いで、シャツのボタンを二つ外すと首筋を晒した。
「名前さん、飲んで」
「……」
本当は、涎が出るほど血が飲みたい。けれど、血を飲む醜い姿を見られたくない。彼に牙を突き立てたくなくて、私は頭を横に振った。
「……分かった、じゃあ俺が今からこれで指三本切断する、そしたらアンタは飲んでくれる?」
しかし、そんな私の心も露知らず、彼はナイフを見せてきて私に迫る。本当に悪魔みたいな人だ、そんな事を言われたらもう選択肢は一つしかないじゃない。
「……痛いですからね?」
「名前さんがくれる痛みなら、喜んで。名前さんが棺桶で眠る姿なんて、見たくねえからよ」
そう言うと、彼は私を優しく、壊れ物を扱うように抱きしめた。その言葉に心臓が跳ねると同時に、優しく、じんわりと暖かい気持ちになった。
そして──私も彼を抱きしめて、その首筋に牙を突き立てる。
彼の体が痛みで震えたのが伝わってくる。赤木さんの体温が、心臓の鼓動が、血液の温度が、匂いが、全てが私を包み込む。
ああ、美味しい。好きな人の血って、こんなに美味しいものなんだ。──でも、これ以上は駄目。
まだ血は足りないけれど、私は赤木さんの首筋から口を離した。
「名前さん……?」
「これ以上飲んだら、赤木さん死んじゃうでしょう?だから、死なない私が眠る方が……いい……」
「名前さん!」
──赤木さん、好きです。大好き。
──もしも私の目が覚めて、赤木さんにお付き合いしてる人がいなかったら、その時は恋人になってほしいなぁ。
ぼやけ、落ちていく意識の中で、私は瞼を閉じた。
「……………は?」
雀卓で洗牌しながら告げると、対面に座る老人、鷲巣巌は訝しげな表情でこちらを見つめてきた。
ここは鷲巣の家で、街でフラフラしていたら鷲巣の部下達に掴まり、ここまで運ばれてきたので、丁度いいと思い立ち俺はこうして恋愛相談に乗って貰おうと話をしている。
「で、鷲巣……どうアプローチすればいいと思う?」
「知るかッ!お前の恋愛事情など!」
「そっか、人生経験豊富な鷲巣なら教えてくれると思ったんだけど……あっ、もしかして鷲巣って恋愛した事ねえのか?」
その刹那、鷲巣の額に青筋が浮いた。
「あるわッ!こんのガキぃ〜〜〜!人をおちょくりよって!」
「そんなに怒ると血圧上がるぜ…!鷲巣巌…!」
「がっ…!がっ…!」
鷲巣は杖を振り回そうと腕を上げたところを部下達に諌められている。
「まあタダで聞けとは言わねえよ。俺との麻雀勝負に負けたら……聞いてもらおうか、恋愛相談…!」
「フン、お前のような狂人の恋愛相談など死んでも聞きたくないわっ…!」
そして数時間後、俺は鷲巣に1000点差で勝ち、鷲巣に相談を聞いてもらう権利を得た。
初めての出会いは、彼女の働いている雀荘だった。何となく立ち寄った雀荘で、最低限の生活費を稼ごうと打っている時に彼女は俺の目の前に現れた。
「コーヒーお持ちしました」
注文したコーヒーを運んできた彼女から感じた異様な雰囲気に、俺は一目惚れだった。
いくつもの修羅場を潜り抜けてきた人間が纏う雰囲気が、彼女にはあった。
彼女は上手く取り繕ってるつもりだが、俺には分かった。只者じゃあないってな。
「これが初めての出会いで、これからお近づきになりたいんだけど、どうすればいい?」
鷲巣は大きくため息をつくと一言。
「あー、その雀荘に通えばいいんじゃね?」
「なるほど、地道に行くしかねえか。ありがとな、鷲巣」
じゃ、と一言短い別れの挨拶を告げて、俺は椅子から立ち上がると部屋を出た。後ろから「何なのアイツ」と聞こえたが特に気にせず、鷲巣の家を出る。
俺は鷲巣に言われた通り雀荘に通い、客や雀荘メンバー達からついでに毟れるだけ毟り、彼女とお近づきになれる機会を伺った。
そして雀荘に通い詰めて数日後、遂に俺は彼女と対局するにまでなったワケだが、俺は彼女の名前も知らねえ。まあこの勝負でこの人が負けたら、ここは毟らずに名前を教えて貰おうと思っていたのだが──。
彼女は中々のやり手だった。俺が考えうる捨て牌を全て読み切ってくる。そして他家にも振り込まず、堅実に立ち回るその打ち方は──まるで彼女には、牌が透けて見えているようだ。
倍プッシュでもう半荘一回戦を申し込まれ、手を替え品を替えるも、やはり彼女は振り込まない。これはおかしい、どうなっている?
彼女には、何が見えているんだ──?
そうこう考えながら打っていると、俺は他家の奴に大差をつけて圧勝し、男達は捨て台詞を吐いて店を出ていってしまった。2位に何とか収まった彼女はふぅ、とため息をついている。
俺は彼女の打ち方が気になり、席から立ち上がると声をかけた。
「ねえ……今の、何?」
新しいイカサマか、それとも彼女の持つ運なのか──それを確かめたかった。
しかし、彼女の反応からするとイカサマはやっておらず、ただただ麻雀を打っていただけの様子だった。
「あの、もうそろそ閉店時間ですのでいいですか?閉店準備しないとなので」
時計をちらりと見ると、もう夜の1時を過ぎた頃だ。
「ああ、悪いね」
この人に迷惑をかけるわけにはいかないので、俺は引く事にした。
しかし、名前を聞くチャンスを逃してしまった。ここからどうするか、今この雀荘には俺と彼女の二人きりだが、どのタイミングで動こうかと思案していた時だった。
唸り声と共にドサリと重い音が部屋に響く。それからカランカランと箒が床に落ちる乾いた音。ソファーから体を起こして見ると、彼女が倒れていた。
「おい、おい、アンタ」
彼女に近寄り、声を掛けてから俺は驚愕した。
耳が異様に尖っている──その姿はまるで、西洋のファンタジー小説に出てくる吸血鬼のようだった。
「おいアンタ、耳が尖ってるぞ?大丈夫か?」
そう声をかけると、何やら気まずそうに彼女は声を漏らす。
「立てるか?」
俺の問いに対して、彼女は小さく首を横に振った。何かしらの体調不良になってしまったのだろう。取り敢えずソファーにでも運んで横にしてやろうと思ったその時だった。
「……あ、の、お願いが……あります」
「なに?」
「血を、血をほんの少しでいいので……飲ませてください」
薄く開かれた彼女の瞳は真紅に染まっていた。そして口の端からは鋭い牙が見える。
俺は取り敢えず彼女の指示に従おうと思い、ボストンバッグの中から鋏を取り出し、掌に小さく傷をつけた。
「これでいい?」
彼女の口元に掌を差し出すと、柔らかい唇が俺の掌に吸い付く。ちゅ、ちゅ、と何度も、何度も。
今、俺は好きな人にキスされてる──掌だけど。
懸命に血を吸う彼女の姿に、俺はときめいてしまった。心臓が止まるんじゃないかと思うほどに。
彼女の唇が離れると、すっと何事も無かったかのように立ち上がり、彼女はお礼を言うと酷く落ち込んでいるようだった。
そして話をすると、やはり彼女は吸血鬼という存在らしく、正体がバレたら姿を晦ますのだと言う。
それは何としてでも阻止せねばと思い、俺は彼女に正体を誰にも言わないという事を約束し、そこでやっと名前が聞けた。
「ねえアンタ、名前は?」
「……名前」
それから名前さんから色々と聞いた。名前さんは700年以上生きた吸血鬼な事、血を飲むのは嫌いな事、考え方はとても人間的な事。
麻雀中は吸血鬼の力で透視能力を使っていたから、あんな打ち方ができた事。成程と納得した。
「それから何やかんやあって、俺はあの雀荘に通い詰めて、名前さんと同居する事になったってワケ」
場面は変わり、また鷲巣の家になる。対局を進めながら対面に座る鷲巣は今にもはぁ??と言いたげな顔でこちらを見て──。
「いやっ!お前……同居って、早っ!?」
鷲巣には名前さんが吸血鬼の部分は伏せて俺達の逢瀬を語ったが、そんなに驚く事かと俺は首を傾げる。
「いや、首を傾げるな!相手の女性……その、名前君と言ったか。その人は了承したのか?!」
「したぜ、俺との麻雀勝負で負けたら同居させてって事でな。ちなみに相手はイカサマ有りのハンデ付きだ。それで負けちまったんだからしょうがねえ」
しかも、吸血鬼の透視能力ありというとんでもなく譲歩したハンデだ。それで負けたのだからしょうがないだろう。
「まあ、そこまでのハンデをやって勝てなかったのならしょうがないが……いや、相手の女性は嫌がっておらんのか?」
「勝負の時は嫌がってたけど、今は全然」
「そうか……。まあ、その女性もちとばかし変わっておるな。何歳くらいの女性なんじゃ?」
「歳は知らねえが、年上だ」
「年上か、お前のような落ち着きのない奴には年上が良いじゃろうな」
まあ、年上と言っても鷲巣よりも遥かに年上で、そのうえ死なない吸血鬼ときた。鷲巣が知ったら死なないと言う点で羨むだろうな。
「でさ、鷲巣。今度名前さんとデートしたいんだけど、どうすればいいかな?」
「知るかッ!それくらい自分で考えろ!」
「ククク、この半荘三回戦……負けたらデートプランを考えてもらうぜ…!鷲巣巌…!」
「嫌じゃけど……」
俺は鷲巣に400点差で勝ち、名前さんとのデートプランを一緒に考えてもらう権利を得た。
「東京タワーにでもいって、美味い飯食って、ちょっとその辺車でフラフラしてって感じでええじゃろ」
「なるほど、東京タワー付近はアリだな。車は組のやつから借りればいいか」
「服装もしっかりするんじゃぞ、お前のそのだらしない格好じゃあ女性の方がガッカリするじゃろ」
「……デートの服とか持ってねえな」
そう呟くと、はぁ〜と鷲巣はため息をつき、部下を呼ぶととあるものを持ってこさせた。
部下から受け取ったものは、銀座の住所と知らない人物の名前が書かれた洋服屋の名刺だった。
「そこに行けばいい服を見繕ってくれるじゃろう。暇な時に行ってこい」
「……ありがとな、鷲巣…!デート終わったら報告するぜ…!」
「ええい!報告せんでいい!」
そんなこんなで俺は鷲巣が教えてくれた洋服屋に行って服を見繕ってもらい、代打ちでデート代を用意して、そして名前さんをデートに誘う事に成功した。
車と服装の準備があったので、俺は一足先に名前さんの家を出て、車はヤーさんから借りて、服装もそこで着替えた。さて、名前さんを迎えに行こうと俺は車を発信させる。
銀座駅に到着して、車を駐めると名前さんはいた。綺麗な黒いワンピースに、ふんわりと巻いた髪、化粧をした彼女はいつもより綺麗で、本日の太陽よりも眩しく見えた。
名前さんと合流して、俺は彼女を助手席に乗せると東京タワーへと向かう。
初めて来た東京タワーは近くで見るとそれはそれは大きく、平日だと言うのに大勢の人で賑わっていた。ヤーさんから持っていけと言われたカメラで名前さんを撮ると、綺麗に撮ってと可愛らしい文句を言われ、少し離れて東京タワーと名前さんを撮影する。
名前さんが戻ってきて、俺を撮ると言ってきたが、俺は名前さんが撮りたかったので遠慮していると、男女のカップルが声をかけてきた。
何でも俺達二人を撮ってくれるとの事で、それなら良いと思い了承した。女性の方がカメラに詳しいのか撮影できるとの事だったので、カメラを手渡し、先程名前さんの立っていた位置へ向かう。
女性がもう少し寄って欲しいとジェスチャーを出してきたので、俺は名前さんの肩を抱き寄せた。
シャッターが切られる音がして、もう一枚撮るとの事なのでそのままの姿勢で撮影してもらった。
「撮れました〜!うふふ、お二人ともお似合いですね。それでは」
「あっ……!あぁ……!」
名前さんがえもいえぬ声をあげている隣で、俺は女性が撮影してくれた写真を見る。俺と名前さんが並んでいるこの写真は家宝にしようと決めた。
東京タワーの展望台に到着すると、名前さんは目を輝かせて東京の街を見ていた。景色を眺める名前さんの大人びているのに、何処か子供っぽい無邪気な表情が可愛くて、綺麗で、俺は景色そっちのけで名前さんを見ていた。
「綺麗ですね」
「ああ、綺麗だ」
名前さんを見て言うと、不服そうな表情をしてじとっと俺を見つめる。
「赤木さん、景色見て言わないと説得力ないですよ?」
「いや、アンタが綺麗だ」
ストレートに思った事を伝えると、名前さんは顔を赤くして素っ頓狂な声を出した。そんな年頃の少女のような反応が返ってくるとは思わず、俺も少し気恥しくなる。
「けっ、景色見て言ってくださいよ!もう!……でも、ありがとうございます」
こうして結局礼を言う所が、この人の義理堅さというか、吸血鬼らしくないなと思わせる。
「歩いて回ろうか」
「は、はい」
歩いて回りながら、東京の景色を共に眺める。彼女はあそこは何処だとか、家の方角はあっちだとか、あの建設中のビルはなんだろうだとか、子供のようにはしゃいでいた。
そして一周した頃に、彼女はまた窓から景色を見る。その瞳がとても慈しみに満ちていて──俺は名前さんのこういう所が好きなのだと改めて思った。
愛しいものを見るその目が、とても綺麗だったから。
「名前さん、楽しい?」
そう尋ねると、彼女は花が咲いたように満面の笑みで答えた。
「はいっ!とっても!」
あまりこういう人が大勢いる場所は好かないが、名前さんが楽しそうなら良かった。その後は別のフロアに行って土産屋で名前さんの働いている雀荘スタッフ達へのお土産を買ったり、アイスクリーム屋に入って食べたりして歩いていた。
洋服屋の前に差し掛かった時、名前さんがショーウィンドウに並んでいる服を歩きながら見つめていた。
白い、真っ白な綺麗なワンピース。脳内で名前さんがこれを着た姿を想像し、似合うと思った。俺の前で、着てほしいと思った。
しかし、名前さんは興味深そうに見つめていたのに、歩みを止める事無く進んでいく。
このままでは後悔すると確信した俺は名前さんを呼び止め、手を取ってやや強引に店の中に入った。
「名前さん、あの服着て」
俺がショーウィンドウに飾られていた服を指差すと、名前さんは遠慮がちに両手を横に振りながら拒否するが、どうしても着てほしくて俺は押し通す。
「着て」
「……はい」
ここ最近分かった事だが、名前さんは押しに弱い。
店員がやってきて服と靴を用意してくれて、名前さんは試着室に案内された。
「お客様、よろしければこちらに腰掛けて彼女さんをお待ちください」
「……どうも」
店員が気を利かせてくれて丸い小さなソファを持ってきてくれた。そして今、あの店員は彼女さんと言ったか?先程、写真を撮影してくれた人といい、この店員といい、俺達ははたから見たら恋人に見えるのだろうか。
恋人に見えるのなら嬉しいが、生憎まだお付き合いはしていない。
それどころか相手は年上で、俺より何百年と生きている人だ。落とすには時間がかかるだろう。
「赤木さん、着ましたよ〜」
試着室のカーテンが開かれると、白いワンピースを纏い、白いヒールを履いた名前さんが現れる。
俺は名前さんを見て──見惚れてしまった。想像以上に似合っていて、可愛らしくて、そこに天使が舞い降りたようだった。あまりの衝撃で無言になり、名前さんを凝視して俺は彼女の言葉を遮って言った。
「似合ってる」
「──えっ?」
俺はソファから立ち上がると彼女の手を取り、もう一度言う。
「すげぇ似合ってる、可愛い。……正直、見惚れた」
ストレートに想いを伝えると、彼女は頬を赤く染めて俯いてしまう。照れ隠しの仕草まで可愛らしくて、俺は内心浮かれていた。
店員に話しかけられ、これはもう洋服を買うしかないと思い、購入する旨を伝えた。驚く名前さんを他所に会計を済ませた。
正直、俺はそのままその服を着てほしかったのだが、彼女は脱いで元の黒いワンピースになってしまった。こちらも似合っているが、やはり彼女には白が似合う。
「俺はあそこであの服に着替えてほしかったんだけど。可愛いし、似合ってたし」
「……そ、それはダメっ」
彼女は頬を赤くしながら首を横に振って答える。
「どうして?」
そう尋ねると、少し間を置いて、彼女は恥ずかしがりながらも答えてくれた。
「……この服は、次のデートの時に……着たいから、です」
本日二度目の衝撃が走った。聞き間違いではないか自分の耳を疑ってしまい、俺はこう質問する。
「それって、俺とのデート?」
コクコクと彼女は頷き、俺は嬉しさのあまり彼女の小さな手を握る。彼女の照れたような、驚いたような表情が愛らしくて、嬉しくて、俺は珍しく笑う。
「クククッ、またデートしような」
彼女は笑って「はい」と答えた。心の底から嬉しくて、幸せな時間だった。
それから飯を食べに行って、初めて食べるフグに名前さんは舌鼓を打ち、帰り道でフラリと寄った公園で、彼女自身の話を聞いた。
その歴史や行いが、たとえ褒められたものではないとしても、彼女は人々の善性を信じ、人々の営みを見守り、愛していると──限られた時間の中で、より良い未来を築こうとする人間が好きだと、夕日の中で語ってくれた。
公園を歩きながら、俺は彼女の事がもっと知りたくなって色々と尋ねた。
彼女は楽しそうに、何処でどんな時代を、どう生きて、暮らしてきたかを語ってくれた。
それはまるで、御伽噺でも聞いているかのような、遠い遠い昔の話。だが、名前さんの語る事は真実なのだと俺は思った。
帰りの車の中でも、彼女とたくさんの事を話した。
俺の事、名前さんの事、明日の事。そんな何気ない、他愛のない話をして、くだらない話に花を咲かせ、今日のデートは終わりを迎えた。
車をヤーさんに返し終えて、名前さんのアパート前に着くと、そこには名前さんの履いていた黒いヒールが片方、無造作に転がっていた。その傍らには──血溜まりがあった。
嫌な予感がする。
──大怪我をして生命源である血を流し過ぎてしまった時、あまりにも長く活動し過ぎて体が摩耗したりすると、私達は眠りにつくんです。
名前さんが語っていたその言葉が、俺の脳内を過ぎった。
しかし、それでも俺は嫌に冷静だったが──同時にそれと相反する感情が、腹の底からふつふつと湧き上がってくる感覚がした。
「おい、お前……赤木しげるだな?」
振り返ると、恰幅のいい男が下卑た笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「お前の探しもの、返して欲しければ取り返してみろってボスが──」
その刹那、俺はその男と距離を詰め、蹴りを顔面に向かってお見舞いした。男は宙を舞うと電柱に後頭部をぶつけて、低い唸り声をあげる。
男の胸ぐらを掴み、片手で持ち上げる。足をばたつかせて離れようと藻掻くが、そんなのは許さない。男を睨みつけ、俺は問うた。
「あの人は……何処だ?」
「ふっ、埠頭の倉庫だ……!5番の倉庫!そこに俺達の仲間といるっ!」
「相手は何人だ?」
「ごっ、5人……!本当だ!嘘じゃねえッ!」
その情報を聞き出すと、俺は男を解放し、一発殴って気絶させると埠頭にある倉庫へ向かった。
急がないと、あの人が長い眠りについてしまう。
✽
意識はあった、意思もあった、思考も持っていた。視覚も、触覚も、嗅覚も、聴覚もあった。
ただ、それらの器官がないだけで機能はしていた。
私という存在が発生した時──私は、醜い肉塊だった。
暗い鬱蒼とした森の奥で、土と草と木の匂いに囲まれた
少女は
その少女のようになりたいと、強く願った。
あんなふうに、綺麗になれたのなら、美しいものになれたのなら──そう願うと、私は人のかたちになった。
それから人に成った私は、優しい老夫婦に拾われ、人という生き物を学び、理解した。
老夫婦の優しさや、温かみに触れた。老夫婦は私の事を愛してくれた。
しかし悲しいかな、生まれたばかりの私は──吸血衝動に耐えきれず、老夫婦の血を吸い尽くしてしまった。
老夫婦の最期の表情は──今でもよく覚えている。絶望と、恐怖と、畏怖と、困惑。それらが入り雑じった表情。
止められなかった、血を吸う事が、血肉を食べる事が。美味しかった、どんなものよりも美味しかった。
そして騒ぎを聞きつけた村の男に見つかり、彼は言った。
「ばっ、化物っ……!!」
私は逃げた。何処までも走って、遠くへ、遠くへと。そして湖を覗き込み、自分を見て思った。
嗚呼、化物がいる──。
口元と、白い服を真っ赤に染め上げた吸血鬼がそこにいた。耳は尖り、目は真紅に、そして歯は牙になっていた。人の姿とはかけ離れた──醜い化物だ。
私は、あの時触れてくれた少女のように美しく、綺麗になりたいと願った。
しかし、それとはかけ離れた存在なのだと、私はどこまでも醜い化物なのだとその時理解し、絶望した。
私は、人間に生まれたかった。そう思った途端、涙が溢れて止まらなかった。
羨ましいと思った。綺麗だと思った。美しいと思った。輝いて見えた。
私はそれ以来、人間として振る舞い、生きる事にした。自分を偽り、姿を変えて、名前を変えて。
時には猫や犬になって、別の視点で人間と生活したりもした。
そうして共に暮らして、もちろん楽しい事ばかりではなかった。
酷い事もされたし、酷い事を言ったり、したり。戦乱に巻き込まれたり、飢饉に苦しんだり、犯罪に巻き込まれたり、理不尽に殺されたりした事もあった。
人間を憎らしいと思う事も、バカバカしいと思う事もあった。呆れることも、くだらないと思う事も。
それでも、私は人間が愛おしいと思った。それでも、綺麗だと思ったから──。
目を覚ますと、私は手足を縛られ冷たいコンクリートの上に寝かされていた。後頭部からは相変わらず鈍痛がする。
それにしても、夢なんて何百年ぶりに見た。見るにしても、全くもって酷い夢だ。
「……ここ、は?」
ぼやけた視界がだんだんはっきりしてくる。埃っぽい空気に、雑多に置かれた資材や木箱、所々錆びたトタンの壁には亀裂が走り、隙間風が吹き込む。
どうやらここは何処かの倉庫のようだ。
「おい!こいつ、目を覚ましたぞ!」
「へへっ、悪いな姉ちゃん。これ以上痛い思いしたくなけりゃ大人しくしててくれ」
男が5人、私を取り囲んでいた。どうやら私を攫ったのはこの人達みたいだ。外見の指摘がない事から、変化はできているみたいだ。
ただ、先程の後頭部へのダメージが大きいみたいで、まだ血が流れているのか、生暖かい感触がする。このままでは吸血衝動が出てしまうのも時間の問題だ。
「にしても、赤木が来るまで暇だなァ〜」
私がここからどう切り抜けようか考えていると、一人の男が私の事を下卑た笑みを浮かべながら見つめてきた。
「おいおい、人質に手ェ出すのかよ」
もう一人の男も薄ら笑いをしながら他の男達と笑っている。
そんなことより今、彼は赤木と言ったか?そして私が人質?考えられる事は色々あるが、彼らは赤木さんに何かしらのギャンブルで毟られて逆恨みして、彼を呼び出す為に私を人質にとっているところだろうか。
今回も犯罪に巻き込まれてしまったのか。私はつくづく運がないと自嘲する。
男数人が私に迫ってくる。体を仰向けにさせられ、大きな手が伸びてくる。
まあ、仕方ない。こういう事もある。そう諦めて目を瞑った時、赤木さんの穏やかな表情が脳内を過ぎる。
「……赤木さん」
彼の事を考えると、心が暖かくなる。この気持ちは何度かあったけれど──吸血鬼として、
──会いたい、会いたいなぁ、赤木さん。
その刹那、手を伸ばしていた男が吹っ飛んだ。
周囲の男達が騒ぎ出し、皆同じ方向を見る。そこには──私の会いたい人がいた。
「あ、かぎ……さん……」
「赤木ッ!てめえこの野郎──ぐぉっ!!」
赤木さんは、見た事がないくらい怒っていた。いつも冷静で、落ち着いていて、ポーカーフェイスのあの彼が、こんなに怒りを顕にする事に私も少し驚いた。
「……その人は俺のモンだ、返せよ」
声色も何処か低くて、ドスが効いている。
そして、容赦なく私を攫った男達を殴り、蹴り飛ばしていく。
その拳には返り血が付いていて、手加減なんて一切していない事が分かった。
今の彼は、白い悪魔だと言われても信じる風貌だろう。
鈍い音が何度も響き、やがて静かになる。
男5人を全員気絶させると、彼は落ちていたナイフを拾ってこちらに駆け寄る。
「ごめん、名前さん、遅くなった」
「ううん、大丈夫です……ありがとうございます」
彼は私の手足を縛っているロープを切ると、優しく抱きかかえて倉庫を出た。
倉庫の外は静かで、暗くて、波の音だけが響いていた。
赤木さんは私をゆっくり座らせると、持っていたハンカチを破って頭に巻いていく。
「ありがとう、ございます」
「……ごめん、俺のゴタゴタに巻き込んで」
「ううん……いいんですよ、こういうの、慣れてますから」
私がゆっくり言うと、彼は少し苦虫を噛み潰したような表情をして私を見ると、赤木さんは上着を脱いで、シャツのボタンを二つ外すと首筋を晒した。
「名前さん、飲んで」
「……」
本当は、涎が出るほど血が飲みたい。けれど、血を飲む醜い姿を見られたくない。彼に牙を突き立てたくなくて、私は頭を横に振った。
「……分かった、じゃあ俺が今からこれで指三本切断する、そしたらアンタは飲んでくれる?」
しかし、そんな私の心も露知らず、彼はナイフを見せてきて私に迫る。本当に悪魔みたいな人だ、そんな事を言われたらもう選択肢は一つしかないじゃない。
「……痛いですからね?」
「名前さんがくれる痛みなら、喜んで。名前さんが棺桶で眠る姿なんて、見たくねえからよ」
そう言うと、彼は私を優しく、壊れ物を扱うように抱きしめた。その言葉に心臓が跳ねると同時に、優しく、じんわりと暖かい気持ちになった。
そして──私も彼を抱きしめて、その首筋に牙を突き立てる。
彼の体が痛みで震えたのが伝わってくる。赤木さんの体温が、心臓の鼓動が、血液の温度が、匂いが、全てが私を包み込む。
ああ、美味しい。好きな人の血って、こんなに美味しいものなんだ。──でも、これ以上は駄目。
まだ血は足りないけれど、私は赤木さんの首筋から口を離した。
「名前さん……?」
「これ以上飲んだら、赤木さん死んじゃうでしょう?だから、死なない私が眠る方が……いい……」
「名前さん!」
──赤木さん、好きです。大好き。
──もしも私の目が覚めて、赤木さんにお付き合いしてる人がいなかったら、その時は恋人になってほしいなぁ。
ぼやけ、落ちていく意識の中で、私は瞼を閉じた。