short
name change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
──自分、名前さんの事が好きです。だから……自分と、一緒に居てください。
少し照れくさそうに、でも真っ直ぐ私を見つめて、貴方は言う。その言葉が、どれほど嬉しくて、幸福な瞬間だった事か。
──名前さんを一人にしません。必ず帰ってきますから。
泣きじゃくる私を宥めるように、貴方は優しい口調で語りかける。
手に持った赤い紙が、あまりにも無常で、残酷で、ただただ、どうしようもなかった。
──それじゃあ、いってきます。
愛しい彼が茶色の軍服に身を包み、背を向けて歩いていってしまう。
遠く、遠くへ──彼は真っ白な光の中へと消えていく。
逆光が眩しくて、思わず目を瞑りそうになるのを我慢して、私は手を伸ばす。
「行かないでっ!!!清史郎さんっ!!」
──目が覚める。
いつもの木の天井が視界に広がり、外からはパラパラと雨音が響いていた。
身体を起こし、着替えて食事を取り、今日も女性は仕事へと向かう。
その背に、消えることのない悲しみを負って。
ネペンテスの子供
家に帰ったら、部屋の前で知らない子供が血を流して倒れていた。
夜も更けてきた頃、パラパラとトタンの屋根に雨粒がぶつかる無機質な音が響く。
雨が降りしきる、まだ少し寒い梅雨の日。白い半袖のワイシャツは泥で汚れていて、黒いスラックスを身に着けた白髪の少年。
年齢は中学生くらいだろうか。そんな少年を目にして、放っておけるわけもなく、彼に声をかける。
「……大丈夫?」
そう呼びかけるも、彼は意識を失っているのか、何も答えない。
「……」
傘を片手に持ち替え、よいしょと少年を担ぐと平屋の鍵を取り出し、玄関のドアを開ける。
気を失った少年の靴を脱がせ、服を脱がせてタオルで濡れた体を拭いていく。自分の服を適当に着せて、傷口にガーゼを当てると、取り敢えず布団へ運んで様子を見る事にした。
少年の服を洗濯機の中に入れて、キッチンに立ち、今日の夕餉を作っている時だった。
「……なあ、アンタ」
「うわっ!お、起きたんだ……お、おはよう」
背後から聞こえてきた声に驚きながらも、取り敢えず挨拶をする。
「ここは?」
「私の部屋だよ。君、アパートの前で倒れてたから運んだの」
「ふぅん……」
無関心そうに彼は返事をする。
ガスコンロの火を止めて、この少年から事情を聞こうと彼に向き直った。
「君、名前は?」
「赤木しげる」
「しげる君ね、お家は?御家族の方はどうしたの?」
「家族はいない」
戦災孤児、という言葉が頭を過ぎる。
戦争から十何年経ったとはいえ、こういう子供はまだまだ多いものだ。
「そっか。……喧嘩でもしたの?」
怪我をした頭部に視線を向けると、彼はそれに気が付き頭を触る。
「まあ、そんなところ。アンタの名前は?」
「私は名前、好きに呼んで。そうだ、しげる君お風呂入ってらっしゃい。その間にご飯作っちゃうから」
「いいの?」
「いいよ。ほら、入ってらっしゃい。着替えはそれ着てていいから」
「……ありがとう」
そう小さく彼は言うと、風呂場へ入って行った。
煮物を引き続き作っていると、お米の炊けた良い香りが鼻をつく。
味噌汁に根菜の煮物、そして白米と質素だが、こういうものが一番好きだ。
「風呂、ありがとう」
「おかえり。ご飯できてるから、良かったら食べる?」
彼は少し躊躇うように名前を見てから、窓の外を見る。雨は先程よりも勢いを増して、今から外に出るのは良い選択とはいえないだろう。
「泊まっていいよ、外はこんな雨だもの」
「悪いね、名前さん。それじゃ、いただきます」
「いただきます」
食卓をこんな風に誰かと囲んで食べるのは久しぶりで、名前は何だか嬉しくて思わず頬が緩む。
育ち盛りの少年に、この食事の量は足りないだろうに、彼は文句一つ言わずに作った食事を食べ、美味しかったと言ってくれた。
「美味しかったよ、ご馳走様」
「お粗末さまでした。そこに敷いてある布団に入って寝ていいよ。私はまだやる事があるから」
「……分かった、じゃ、おやすみなさい」
「おやすみ」
しげる少年は布団に入ると、すぐに寝息を立てて眠りについた。食器を片付けて風呂に入ると、卓上の机のランタンだけをつけて紙に筆を走らせる。
神村 清史郎
所属 帝国海軍 第16駆逐隊
駆逐艦 時津風乗組員
身長 170ほど
特徴 面長で糸目、色白、口の下にホクロあり
覚えのある方はこちらまでお願いします
下に自分の住所を書き終え、筆を置く。その紙を何枚か書いていると、ごそごそと布の擦れる音が耳についた。
「あ、ごめんね、起こしちゃった?」
「いや、便所。……何書いてるの?」
「ああ、これ……?尋ね人の貼り紙を書いてるの」
そう言って名前は彼に書いた紙と、写真を一枚渡す。
「神村清史郎さんっていうの。私の……婚約者なの。しげる君、知らない?」
彼は写真と貼り紙を交互にゆっくり見ると、頭を横に振った。
「いや、知らない」
「……そっか、ありがとう。ほら、お手洗いいってらっしゃい」
そう言うと彼は頷き、お手洗いへと向かう。名前は清史郎と写った写真をただ見つめた。
「……清史郎さん」
愛しい、恋しい人の名前をぽつりと呟いた。
次の日も雨は降りしきり、厚い灰色の雲で覆われた一日だった。それでも仕事というのはやってくるもので、名前は着替えて今日も職場へと向かう。
「しげる君、お家には帰れそう?」
「いや、帰れそうにないな。……今、怖い人達に追われててさ。名前さんがよければ、少しだけここに居させてほしい」
自分より年下の少年にそう言われ、名前は少し考えるとそれを了承した。
「いいよ、ここに居ても。私仕事があるから、ご飯は適当に作って食べちゃって」
「わかった」
「それじゃ、いってきます」
「いってらっしゃい」
一人残された赤木しげるは、この部屋の家主である名前の部屋を見渡した。そして、机の上に飾られた数枚のセピア色の写真が目に入った。
そこには名前と、名前の婚約者が仲睦まじく並んで写っている写真があった。
写真からも伝わってくる。二人は互いに愛し合っていたのだろう。
しかし、そんな二人を時代と戦争が引き裂いた。
そして名前は戦争未亡人になり、生死不明の神村を戦後からずっと探しているのだろう。
赤木しげるは写真を見てから窓の外を見る。外は暗く、冷たい雨が降っている。
冷めた瞳の奥には何かを決めたように、強い意思が宿っていた。
そして名前が書いた貼り紙を一枚持つと、赤木しげるは靴を履いて傘を拝借し、玄関のドアを開けて外へ出る。
梅雨の冷たい雨が、赤木しげるの服を微かに濡らした。
それから、赤木しげるが帰ってきたのは夜の九時頃だった。
コンコンと戸を叩く音を聞いて、名前が訝しげに戸を開けると、ずぶ濡れになっている赤木しげるがいた。
「ただいま」
名前は驚きで目を見開くも、すぐに仕方ないと呆れ顔になり、小さくため息をついて少年を見た。
「……もう、どこいってたの?」
「ちょっと雀荘に」
「雀荘って……もう、危ない人達に追われてるのにそんなところ行って!」
「フフ、大丈夫大丈夫」
飄々と言うと赤木しげるは傘を畳むと靴を脱ぎ、名前の部屋へと入っていく。
「こら、しげる君」
「?」
「ただいま、は?」
赤木しげるは少し目を見開くと、少しだけ笑みを浮かべて言う。
「ただいま」
「うん、おかえり。お風呂入っちゃいなさい。ご飯できてるから」
そう言って名前も笑顔になり、赤木しげるを風呂場へと送ると作った夕餉を温めた。
赤木が風呂からあがり、卓袱台に置かれた夕餉を見てまた驚いた。昨日よりもご飯やおかずの量が、全体的に多くなっているのだ。
こんな得体の知れない自分に気を利かせてくれたのかと思うと、鬼の子と呼ばれた赤木しげるの中にある良心が痛む。
名前の生活を見ている限り、あまり良い生活を送っているとは言えない。古びた平屋に女一人での生活だ、稼ぎもそう多くはないのだろう。
「育ち盛りなんだから、いっぱい食べなさい」
「……うん、いただきます」
赤木しげるは箸を持つと、両手を合わせて心から感謝をし、名前の作った料理を平らげた。その様子を、名前は心底嬉しそうに眺めていた。
「なに?」
赤木しげるがそんな名前の視線に気が付き、声をかける。
「ううん、なんでもない。いっぱい食べてね」
優しく微笑み、そう言う彼女を一瞥してから、赤木しげるはまた箸を進めた。
夜も更けた頃に二人は床に就く。名前も赤木も眠る時、互いに無言だったが今日は違った。
「ねえ、名前さん」
「ん?」
「……アンタが探してるその人、生きてると思う?」
率直に赤木は尋ねる。名前は少し無言になると、言葉を紡いだ。
「……分からない。でもね、どういうかたちであっても……私は清史郎さんに帰ってきてほしいだけ。あの人は、帰ってくるって約束してくれたから」
どこか遠くに語りかけるその声色は、まるで今はここに居ない清史郎に伝えているようだった。
次の日も雨が降っており、名前が仕事へと向かった少し後に、赤木しげるは件の貼り紙を持って雀荘へと向かう。
今日は昨日とは違う、人の出入りの多い雀荘で麻雀を趣味としてやっている人間達から情報を集めようと赤木しげるは考えた。
雀荘に入り、適当な卓に着いてしばらく牌をつまむと、赤木はその話題を出した。
「ねえ、この人知ってる?」
赤木は名前の書いた貼り紙を卓の男達に見せた。男達はその紙を覗き見る。
「なんだァ、こりゃ、尋ね人か?」
「神村清史郎、駆逐艦時津風の元乗組員ねぇ……生存は絶望的だな、こりゃ」
一人の男が顎髭を撫でながらそう答える。
「そうなの?」
「ああ、おめえは若いから大戦の事は知らねえだろうな。その時津風って駆逐艦は輸送作戦中に米軍の空襲に遭ってな、乗組員はたったの20人しか助からなかった」
「へえ、おじさん詳しいね」
「俺も元駆逐艦乗りだ、その辺の事情は知ってる」
「……ねえ、その助かった時津風の乗組員にはどうやったら会える?」
顎髭を生やした男ははぁ?と声をあげてから赤木しげるを見た。
「この神村清史郎って男の帰りを待ってる人がいるんだ」
「待ってる人ねえ……。その待ってる人ってのに、何か恩でもあるのかい?」
すると、赤木しげるはクククと喉の奥で笑うと答える。
「ああ、俺なんかを匿ってくれた恩さ」
✽
赤木しげるが家を出て、数日が経った。
今日も名前は街の掲示板や電柱に、自身で書いた神村清史郎の貼り紙を貼っていく。
「おはよう、名前さん」
「おはようございます、大家さん」
朗らかな笑みを浮かべる名前とは対照的に、大家は哀れみを帯びた表情で名前を見る。
「名前さん……清史郎さん、まだ見つからないの?」
「……はい。でも、あの人はきっと帰ってきてくれます」
そう言葉を紡ぐ名前の瞳にも、少し悲しみが宿っていた。
雨は昨日よりも弱くなり、曇天も薄くなっていた。
明日は久しぶりに晴れるだろうと名前は空を仰ぎ見る。明日はもう少し遠くの方へ行って清史郎を探そうと考えた名前は、自分の住む部屋へと戻って行った。
そして次の日、青空と太陽が輝く梅雨明けに──赤木しげるが見知らぬ人と帰ってきた。
「しげる、くん……?その人は?」
赤木しげるは無言のままで、それに対して後ろにいる男が帽子をとる。
「初めまして、名前さん。自分は、駆逐艦時津風元乗組員の
そう言って叶が差し出したのは、名前と神村清史郎が写った、くしゃくしゃになった写真と手紙が一通だった。
「……神村特務士官は……ご立派な最期を遂げられました……」
震える声で彼が伝える。名前はその手紙と写真を受け取ると、ぽろぽろと涙を零した。
「そう、ですか……そうですか……」
名前は手紙と写真を握り締め、叶の瞳を見て伝える。
「ありがとう、叶さん……ありがとう……」
その涙が、赤木しげるには──とても哀しくも、美しいものに見えた。
叶が去ってから、赤木しげるは泣きじゃくる名前の傍に寄り添っていた。
涙が枯れるほど泣いた名前は少し落ち着いたのか、ハンカチで顔を拭うと赤木しげるを見やる。
「しげる君が……あの人を見つけてくれたの?」
赤木しげるは無言で頷いた。
「そう……ありがとう、本当にありがとう。清史郎さんを見つけてくれて」
優しく微笑むと、名前は赤木しげるを優しく抱擁した。彼は目を見開いて少し驚きつつも、その優しく、温かく、慈愛に満ちた抱擁を受け入れる。
その後、二人で神村清史郎からの手紙を読み、また名前は涙を流した。
──名前さんを一人、置いていってしまう事を許してほしい。
──平和な時代になったら、自分の事は忘れて名前さんは幸せになるべきだ。
──本当は自分が貴女を幸せにしたかった。一緒に未来を生きたかった。
神村清史郎の想い、願い、祈りが綴られた手紙を名前は抱きしめ、空を見上げる。
「……おかえりなさい、清史郎さん」
空は雲ひとつ無く青々としていて、夏の訪れを感じさせる風が吹いた。
その風が、優しく名前の頬を撫でる。その温度は、愛しい彼の掌のようだった。
「もう行っちゃうの?」
スニーカーを履き、靴紐を結ぶ赤木しげるに名前は尋ねる。
「うん、もうこの町に用は無い。世話になったね」
それじゃあと別れの挨拶を告げようとしたその刹那、名前は彼を呼び止めた。
「最後に……教えてほしいの。どうしてしげる君は、清史郎さんを探してくれたの?」
赤木しげるは静かに振り返ると、悪戯っぽく微笑んだ。
「なぁに、得体の知れない俺なんかを匿ってくれた恩返しだよ」
飄々と言葉を紡ぐ彼を、名前は優しく微笑んで見つめる。
「……本当に、本当にありがとう、しげる君」
「いいよ、大したことはしてない。……それじゃあ名前さん、お元気で」
「ええ、しげる君こそお元気で」
太陽が登る青空の下、赤木しげるは名前の部屋を後にした。
その小さな背が見えなくなるまで、名前は赤木しげるを見送った。
「不思議な子だったなぁ。私の哀しみを消し去ってくれて、背中を押してくれて……君の旅路に、幸運がありますように」
名前は手を合わせ、赤木しげるの幸運を祈る。
夏の風が二人の髪を揺らし、蝉の鳴き声が聞こえてきた。
名前の心からは、もう哀しみは消えていた。
5/5ページ