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あれは、夏が見せたひと時の夢、或いは幻だったのかと───今でも思う。
目を閉じれば今でも思い出せるし、覚えている。
その目、その髪、その声、その言葉、その仕草、その笑顔、その香り、その約束。
何もかも、全部、全部。
夜道を歩き、目印のように薄暗く佇んでいる電話ボックスの中に入ると、俺は上着のポケットからあるものを取り出す。
ハートのシールがついた白いポケベル。俺のモノではない。昔出会った──初恋の人が忘れていったもの。
受話器を取り、ポケットの中から10円玉を取り出すとコイン投入口に入れる。ガチャリ、というコインが落ちる音と共に、受話器から流れる無機質な「番号をどうぞ」という音声案内。
ふと見上げると、硝子越しに見える月は見事な満月だった。
──あの人に会った時も、こんな夜だった。願わくば、もう一度だけ……。
柄にもないが、月に願いを込めてその数字を入力する。
11124112
出会いは夏の夜だった。日中と比べて湿気も失せ、過ごしやすい夜道を月を見ながら何となく立ち寄った公園で、その人と出会った。
その人はベンチで途方に暮れたような顔をしていた。終わった…とでも言いたげなその表情。何があったか分からないが俺は関わる気なんてなかった。
素通りしようとしたそのその時、声をかけられた。
「ねえ、君」
「?」
振り返ると、その人がいた。20代前半くらいの女性が疲れきった顔をしているが、こちらを心配するように見つめている。
「こんな時間に何してるの?ダメよ、早くお家に帰りなさい」
「……そう言うアンタこそ、こんな時間にこんな所で何してるの?」
時刻は深夜2時くらいだ。お互い様だろうと思い質問に質問で返してやった。
「うっ…そ、それは……」
その人は目を逸らし、手をもじとじと動かすと俯いて、そして──。
「うっ、うぅう…ひっぐ…」
泣き出した。ぽろぽろと大粒の涙を流して、しゃくりあげている。
「!?」
「うぅ、ごめん……ぐすっ、何でもないから……」
なんでもあるだろう、と内心思いながらも、もうこの人と関わるのはやめようと思い立ち去ろうとした時だった。
カシャリ、と何かが落ちる音がした。その人の足元に転がっている見慣れない白くて四角い機械のようなものを拾う。それにはピンク色のハートマークのシールがついていて、その人に差し出すとあっと声をあげた。
「ごめんね、ありがとう……」
「それ、何?」
「ぐすっ、これはね、ポケットベル。略してポケベルって言うんだよ……あ、ねぇ君、この辺りに公衆電話ない?」
「公衆電話?それならその辺の喫茶店に行けばあるよ」
「ううん、喫茶店のピンクのやつじゃなくて緑のやつ。ほら、街中とかに置いてある」
「緑?……そんな公衆電話ないけど」
すると、その人はまた泣き出してしまい、しまいにはその場にしゃがみ込んだ。
「うえぇ〜!もうダメだぁ〜!もう一生帰れないよぉお〜!うわああああん!」
「ちょ、ちょっと?なんなのさ……」
その人がほんの少しだけ可哀想に思い、俺は取り敢えずその人をベンチに座らせて落ち着くまで一緒にいる事にした。
少し落ち着いてきたのか、ぽつぽつとその人は話しをし始める。
「うっ、ぐすっ…うえぇ……わっ、私ね……」
「……うん」
「みっ、未来から……来たの……」
その人──名前さんは昭和64年、つまり今から大体30年後の未来からやってきたという。
その証拠として見せてくれたのがさっき俺が拾ったポケベルだ。これは未来で使えるものらしく、最新型の公衆電話があれば文字での通信が可能な受信専用の機械なのだと名前さんは言った。確かに見た事のない物で、俺は適当にボタンを押してみる。
カチカチと無機質な音がするだけで、特に反応はない。
「で、名前さんはこれからどうするの?」
「どうしよっか……あはは……」
乾いた笑いを出すと、名前さんは深くため息をついて項垂れてしまった。
名前さん曰く、いつの間にかこの昭和33年の世界にタイムスリップしていたと言う。元の時代に戻る方法も分からず、ここがどこだかも分からず、途方に暮れていたそうだ。
ちなみにここが過去だと確信したのはこの公園に落ちていた新聞紙の西暦を見たからだそうだ。
「じゃあ、うち来る?」
「えっ……」
目をぱちぱちと瞬きさせる名前さん。少し驚いたような表情で名前は遠慮がちに尋ねた。
「……いいの?」
「うん、アンタ面白そうだし、嘘ついてるようにも見えないしね。戻れるまで俺のところに居ていいよ」
そう言うと、名前さんは泣きながら俺の手を握る。
「ありがとう…!ありがとう本当に…!ううっ……。あ、君のお名前は?」
「俺は赤木しげる」
「しげる君、本当にありがとう!こんな得体の知れない私だけど…早く帰れるように努力するから!」
それから、俺と未来人の名前さんの不思議な同居生活が始まった。
名前さんは未来では大学生をしているそうで、大学を卒業したら自分の会社を持って経営するのだと夢を語ってくれた。
俺のアパートには布団は一つしかないから、名前さんと一緒に布団に入り共に夜を過ごした。
「ごめんねしげる君……布団、狭くなっちゃって」
「しょうがないよ。そのうちもう一つ買いに行こう」
「うん……って私お金持ってない!どうしよう!?」
「大丈夫、俺のあるから」
「うぅっ、申し訳ない……帰る前には返すからね」
「ククク、いいよ別に。金には困ってねえし」
翌日、名前さんの布団や身の回りの物を買いに街へと出かけた。俺がバッグから札束を取り出すと、名前さんはギョッとしていたが金の出処は聞かず、こちらを詮索する事もしなかった。きっと、敢えて聞かないのだろう。
「しげる君荷物重くない?大丈夫?」
「これくらい平気だよ、それより名前さんはこれからどうするの?」
「取り敢えず図書館に行ってタイムスリップを取り扱ってる本や論文から方法を探ろうかなって思ってるよ」
「ふぅん、なんだか理論的なんだね、名前さんって」
「こんな状況だし、理論に頼るしかないよ。はぁ、私と同じ経験をした人がいてくれれば一番いいんだけど」
「そんな人いないでしょ」
「だよね〜」
そんな会話をしながら歩いていると、アパートに到着した。俺はポケットから鍵を取り出すとドアを開けて名前さんと共に部屋に入っていく。
買った荷物を整理していると、ふと名前さんが今日の晩御飯はどうしようかと呟いた。
「外食でいいでしょ」
「ダメよ、朝も昼も外食だったでしょ?ちゃんとバランスを考えたご飯食べないと。冷蔵庫は……」
名前さんが冷蔵庫を開けるも普段飲料水くらいしか入れないので空っぽだ。
「近くのお店に買い物に行こう。しげる君の好きなもの作ってあげる」
俺は少し考えると、今日食べたいものの気分を名前さんに言う。
「じゃあ、ハンバーグ」
「うん!美味しいの作るからね!」
笑顔で言う名前さん。その表情を見て少しだけ安堵した。無理もないけど昨日からずっと不安そうな顔をしていたから。
それから名前さんと近くの商店街に行って食材や調味料を買ってアパートへと戻った。
名前さんと暮らして変わった事は、部屋に物が増えた事だった。
それから外食が減って、名前さんの作る食事が食卓に並んだ。一番好きなのは名前さんのカレーだ。丁度いい辛さと、少し奥に甘さも感じられて、隠し味は何かと聞いたら秘密と言われてしまった。
次の日から、名前さんと一緒に図書館を巡る日々が続いた。一緒にタイムトラベルだったり、パラドックスだったり、量子力学という理論の本だったり、とにかく名前さんは難しい本を片っ端から読み漁り、ノートに纏めていった。
難しい事をブツブツ呟いたり、あーでもないこーでもないと頭を抱えてノートにペンを走らせる。
「……ごめんね、しげる君、付き合わせて」
「ううん、俺も図書館なんて来ないから楽しいよ」
「そ、そう?なら良かった」
それに、本や論文と格闘している名前さんは見ていて面白い。俺の周りにはいないタイプの人間だ。真っ直ぐで、純粋で、素直な人だと思った。
「そういえばしげる君は夏休み中なんだよね?」
「うん」
「学校の宿題はやってる?」
「いや、全然」
そう言うと名前さんはこら、と口を尖らせて言う。
「宿題はちゃんとやらないとダメよ?」
「……気分じゃないんで」
「そう言わないの。……そうだ、明日から図書館に来る時しげる君も宿題持ってきて一緒にやろう、分からない所があったら教えてあげるから」
「……」
「こら、ムッとしないの」
名前さんに強引に勧められて、俺はこの夏だけ夏休みの宿題をやる事となった。でも流石は大学生の名前さんで、分からないところを聞くと、とても分かり易く教えてくれた。そのお陰で宿題はあっという間に終わってしまった。
図書館を巡り尽くし、本屋に寄って一週間、名前さんが過去に戻る方法は理論的に導き出せても、宇宙規模で起こす事象だったり、マッハ以上の速度で移動する事だったり、謎の力で謎の空間を作り出す事だったりと、およそ俺達だけの力では無理なものばかりだった。
「うわぁあ〜ん!どおしよぉおお〜!」
俺に泣きつく名前さん。これが大人の姿かと思いながらも、こんなに調べても元の時代に帰る方法が分からないのは少し不憫に思えたので、名前さんの腕から逃れようとは思わなかった。
ベタベタされるのは嫌いだが、この人だけは何故か別だった。
名前さんは涙腺が脆いのかよく泣く。
この前も涼しくなろうと思って適当に思いついた怪談話をしたらぐずりだして、眠れなくなったと言うので久しぶりに一緒の布団で寝た。
「名前さん、理論じゃなくてその時の状況を再現したらいいんじゃない?」
「状況?」
俺は頷く。
「そう、名前さんがこの時代に来る前に起こった事象。何でもいいから変わった事とかなかった?」
「変わった事……変わった事かぁ、う〜ん」
名前さんは唸ると、あ!と声をあげた。
「月が綺麗だったかな」
「……それだけ?」
「うん、満月が綺麗でね、ラジオでも今夜はお月見日和ですって言ってたの」
「他には?」
「他は特になかったなあ。大学行って、バイトして、勉強して、いつも通り」
この人は本当に元の時代に戻れるのだろうか、と俺も少し心配になってきた。
ある日、久しぶりに雀荘へ行こうと思い名前さんに少し出掛けてくる旨を伝えると、笑顔で送り出してくれた。
「いってらっしゃい、夜の7時には帰ってきてね」
「うん、分かった」
しかしその日の帰り、毟った雀ゴロ二人に囲まれ、なんとか撃退はしたものの頭を角材で殴られ血が出てしまった。さっさと帰って止血しようと思い、服の裾で血を拭い帰路についた。
アパートの近くまでやってくると、料理を作る時のいい匂いが外からもした。きっと今頃、名前さんが料理を終えて机の上に並べているのだろうと思いながら、俺は部屋の鍵を差し込み、ガチャリとドアを開ける。
「………ただいま」
「おかえりしげるく、ん……なっ、うわぁあああ!?ど、ど、どうしたの!?!?」
慌てふためく名前さん、このリアクションは想像通りだ。
「ああ、ちょっと絡まれてね。大した事ないよ、止血すれば大丈夫」
「大丈夫じゃないでしょー!?ああ、血が……!とにかく止血しないと……!」
部屋に上がると名前さんは救急箱を取り出し、まずは消毒から始める。
「少し痛むからね」
「ん…」
俺はされるがままに名前さんの手当を受ける。その時、ずび…と鼻を啜る音が聞こえた。
名前さんが泣いていた。自分が痛いわけじゃねえのに、なんで名前さんが泣いているんだろうと思うと共に、罪悪感が湧いてきた。
名前さんを悲しませてしまった、泣かせてしまったという罪悪感。
「名前さん」
「……」
「……名前さん」
「……ぐすっ」
「…………ごめん」
血を拭いて、包帯を優しく巻いていく名前さんは静かに泣いていた。包帯を巻き終えると、薬箱をパタンと閉じる。
「………しげる君」
「?」
怒られるかな、と思い名前さんを見る。名前さんは怒ってなどいなくて、眉を八の字にして悲しそうな表情をしていた。
「しげる君がちょっとやんちゃで、無茶をしそうだなってのは分かってた。きっとしげる君は、どこまでも突っ走ってしまうんだなって」
「……うん」
「しげる君は、そういう性分なんだよね」
「…………うん」
諭すように、悲しそうだけど、でも名前さんの声は優しかった。
「それをやめろとも、そんな事するなとも私は言わないよ……でも」
そう言うと、名前さんは優しくそっと抱きしめてきた。柔らかくて、ふんわりとした匂いが俺の鼻を擽る。
「しげる君の事を大切に思ってる人がいるってのは、忘れないで」
「………うん、分かった。分かったよ、名前さん」
俺も名前さんを抱きしめ返した。すると名前さんの身体が離れて、俺の目を見る。
「どこも痛くない?」
「うん」
「具合悪くない?」
「うん」
「ご飯、食べれそう?」
「うん」
そう答えると名前さんは笑った。
「今日はオムライスだからね」
「うん、ありがとう名前さん」
温い、あまりにも温すぎる日常。
──けど、それでも……この人と一緒なら。
──名前さんと一緒なら、そんな温い日々も悪くないと思った。こんな日が、ずっと続けばいいのにと……。
ある日、名前さんが買い物に行っている間、俺はボーッと窓から外を眺めていた。
道行く人々、見慣れた街並み、チャンバラごっこではしゃぐ子供たち。
いつもと変わらぬ光景を見ていた刹那──それは鳴った。
──ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ
背後からした聞き慣れない機械音に俺は振り返る。
卓袱台の上に置いてある名前さんのポケベルが鳴っていた。今まで鳴った事など一度も無かったのに。
卓袱台のそばに寄り、名前さんの白いポケベルを手にする。画面には数字が表示されていたが、俺には解読不可能──しかし、俺は直感的に、名前さんはもう未来に帰るのだと、そう予感していた。
「ただいまー!しげる君、今日のお昼はチャーハンにしよっか」
「……おかえり、名前さん」
玄関まで迎えに行くと、俺は座って靴を脱ぐ名前さんを後ろから抱きしめた。
「?、しげる君?」
「名前さん。……今日は一日、名前さんと一緒にいたい」
少し驚いたように目を見開くも、すぐに名前さんは優しく笑った。
「うん、一緒にいよう」
俺は頷くと、更に名前さんを抱きしめる。
「うっ、しげる君ちょっと苦しい」
「今日はずっとこのままだから」
「えぇ…」
名前さんが危ないから離れろとチャーハンを作っている時も抱きついていた。食事をする時も隣に座った。
名前さんが本を読んでいる時、腰に抱きついていると頭を優しく撫でてくる。目が合うと、名前さんはいつも通りにっこりと笑って、この時間が永遠に続いてくれと願った。
「今日は随分と甘えたさんだね、どうしたの?」
「………別に、気分なだけ」
「そっか」
それ以上、名前さんは何も聞かなかった。
夜になり、名前さんが夕飯を作っている時も、食べる時も一緒にいた。
流石に風呂は本気で嫌がられたので、先に風呂に入った俺は脱衣所の戸の前で待つことにした。
「わっ、ビックリした」
戸を開けて俺がすぐそこにいる事に驚く名前さん。風呂上がりの名前さんの手を取ると、ほかほかと心地よい温もりを感じる。
「待ってたよ、名前さん。本当はずっと離したくなかったんだけど」
「さ、流石に一緒にお風呂はダメよ!私二十歳越えてるし、犯罪になっちゃう…!」
「別に誰も通報しねえのに」
「とにかくダメよ、もう」
俺は名前さんの手を取ると居間へと向かって、名前さんを布団の上に座らせ、そのまま抱きしめて横になる。
「わっ!」
枕に頭をぼふっとぶつけた名前さんは驚きの声をあげる。この人の声が、体温が、全て恋しくてたまらない。
「……なんか、今日のしげる君変だよ?どうしちゃったの?」
「別に」
そうぶっきらぼうに答えても、アンタは優しく笑って、俺の頭をまた優しく撫でる。
「……ふふっ、可愛い」
「男に使う言葉じゃないでしょ、それ」
「まだまだ甘えん坊なしげる君は可愛いよ」
別に甘えたいわけじゃない。名前さんを離したくだけだ。アンタは知らないし、分からないかもしれないけれど、俺は感じているんだ。今にも居なくなるんじゃないかって。
離したくないんだ、離れたくないんだ──居なくならないでくれよ、名前さん。こんな気持ち初めてなんだ。
──アンタだけなんだよ、名前さん。こんなに一緒にいたいって思った人は。
ぎゅっと、俺は名前さんを抱きしめる。ガキの俺にできる、見えない力への精一杯の抵抗。
消えないように、居なくならないように、この人とまだ一緒にいれるようにと、祈る。
ちらりと窓から見える月を見ると、美しい満月がこちらを覗いている。
「しげるくん」
一層優しい名前さんの声が月明かりの照らす部屋に響いた。
「大丈夫、一緒にいるからね。約束だよ」
少し眠たそうな名前さんの声。名前さんも俺を抱きしめてくれる。
「……うん」
名前さんが眠ろうと目を閉じる。俺もその言葉に安堵して、いつの間にか眠っていた。
次の日の朝、目を開く前に腕の中のぬくもりが消えている事に気がついた。心臓を鷲掴みされたような嫌な感覚がして、俺は勢いよく体を起こす。
「…………名前さん?」
呼びかけても声は無い。セミの鳴き声と夏の蒸し暑さだけが、この空虚な部屋中に広がっている。
名前さんは部屋のどこにも居なかった。
どれだけ探しても、どれだけ待っていても、名前さんは帰って来なかった。
名前さんの眠っていた布団、使っていた筆記用具、ノート、着ていた服、食器、調理器具。あの人がいた痕跡は残っているというのに──あの人はもう居ない。
心臓が張り裂けそうな苦しさと、行き場のない感情が溢れ出しそうになり、俺は心臓の辺りをぎゅっと抑えた。
──ああ、俺はきっと名前さんが好きだったんだ。恋をしていたんだ。
こんな感情を、こんな気持ちを俺に押し付けて、アンタだけ未来に帰っちまうなんて。
「………酷い人だよ、名前さん」
机の上にある名前さんのポケベルを握り、名前さんと一緒に眠っていた布団に入り、身を丸め、俺は眠りについた。
「………会いたいな、名前さん」
*
公衆電話の受話器を置いて、ガラスの重いスライドドアを開けると、タバコに火をつけ紫煙を吐く。
何やってんだか、こんな月を見ていたら昔の事を思い出してしまった。
気まぐれに公園でも散歩するかと思い立ち、ポケベルをポケットに入れてブラブラと歩く。
夜の公園には人気はなく、静かで虫の鳴き声だけが響いている。
名前さんが居なくなった後は博打に明け暮れ、命懸けの麻雀をしたり、日本各地を点々としたりしていたら、いつの間にかこんな歳になってしまった。
あの人が置いていったポケベルだけは肌身離さず持ち歩いている。
──こんな歳になってもアンタの事が好きだなんて言ったら、あの人が聞いたら笑うだろうなぁ。
ふと名前さんの笑顔を思い出し、俺も思わず頬が緩む。
公園を一周した頃、先程まで無人だったベンチに人が座っていた。服装や背格好からして若い嬢ちゃんで、項垂れて哀しさに暮れている人間特有のオーラを醸し出していた。
その嬢ちゃんが、名前さんと重なって、放っておけずに俺は声をかける。
「こんな時間に若いお嬢さんがどうしたんだ?」
「……」
その嬢ちゃんは俯いていて顔は見えない。
「………約束を、破ってしまったんです」
「ほぉ」
その嬢ちゃんの隣に俺は座る。
「ずっと……ずっと、一緒だよって言ったのに……私、私……」
その嬢ちゃんの涙が地面にぽたぽたと落ちていく。
「もう……あの子に会えないと思うと、悲しくて……ううっ……」
「それなら会いに行けばいいだろ」
嬢ちゃんは頭を横に振った。
「もう……もう二度と会えないんです、会いたくても、会えないん、ですっ……うぅっ、ひっぐ、うぅぅううう…」
大粒の涙を手で拭い、肩を震わせて泣いている。この嬢ちゃんが気の毒に思い、俺はたまたま持っていたハンカチを差し出した。
「使いな」
「うぅっ、ひうっ、すみません……ありがとうございます」
こちらを向いたその嬢ちゃんの──その人の顔を見て、俺は目を見張った。
「名前、さん……?」
咥えていたタバコが地面に落ちる。
止まっていた時が動き出すような感覚がした。
「え……?」
名前さんと目が合う。ああ、相変わらずアンタは泣いてばっかりなんだな。何も変わってないな。ずっと会いたかった──言いたいことは山ほどあったが、ただ、再会できた喜びに打ち震え、言葉が何も出てこなかった。
「あの、どこかでお会い…しましたか……?」
その言葉に、俺は呆然とするも、そうだよなと納得した。あれから30年ちょっとが経って、俺はこの通りジジイになってしまった。中坊の頃の俺しか知らない名前さんが、分かるわけがない。
再会できただけでも御の字だ。それに──俺に関わってもロクな事が起きない。とばっちりを食らうだけだ。もう──いいだろう。
「……いや、昔アンタによく似た人が居てな。
悪いな、嬢ちゃん。もう泣き止んだか?」
「は、はい……あの、ハンカチ洗ってお返します。貴方のお名前を聞いても……」
名前が話している途中で、俺はベンチから立ち上がり背を向ける。
「それはやる、早く家に帰るんだぞ」
「あ、あの……!」
歩き出すと、ポケットからカシャリと音を当ててポケベルが落ちてしまった。それが何の因果か、元の主の元へ帰りたかったのか、名前さんの近くへと落ちた。
「っ!?」
「……これ、私のポケベル?どうして?あの頃に忘れちゃったはずなのに………」
驚きの瞳で手にしたポケベルを見つめてから、はっと俺に視線を向けた。
「…………しげる、君?貴方、しげる君だよね?これを持ってるのは……しげる君しかいないもの」
震える声で俺に問い、こちらに歩み寄る。
「……久しぶり、名前さん」
ああ、嬉しくて、報われた気持ちで、胸が張り裂けそうで、泣きそうだ。俺は、笑えているだろうか。
「っ──!!しげる君……!」
名前さんを抱きしめると、俺の胸の中でまた泣いてしまった。そんな名前さんを見て、思わず笑みがこぼれてしまう。
「やれやれ、アンタは相変わらず泣き虫だな。こんなに小さかったっけか?」
「しげる君が…大きくなったんだよ。……ごめんね、一緒に居てあげられなくて」
名前さんは悪くない。名前さんは元の時代に戻っただけで、それはごく自然で当たり前の事だから。でも、泣きじゃくる名前さんが可愛くて、愛しくて、俺は少し意地悪をしてみたくなった。
「……俺、あの後すっごく寂しかったんだぜ?」
「うっ、うぅ……ごめんね、ごめんねぇ……いっぱい寂しい思いさせて、長い間一人にして」
背伸びをして俺の頭に手を伸ばし、名前さんは優しく頭を撫でた。ああ、この優しい白い手が俺は好きだった。いや、今でも好きだ。
「じゃあ、今度からはずっと一緒に居てくれるか?こんなジジイになっちまったけどよ」
「うん、一緒にいよう。これからはずっと一緒だよ」
月明かりに照らされた、眩しいくらいの愛しい人の笑顔を見て、もう一度抱きしめる。
そう、もうこの人が消えてしまうなんて事はない。
──これからはずっと一緒だ。