月を見ていた
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「っ───!?」
ざぁざぁ、ざぁざぁと耳に入ってくる春の嵐の雨音。目が覚めて広がる暗闇と絶望感。上体を起こして、呼吸を整える。
「ハァ…ハァ……ハァ、はぁ…うぅっ……お父さん……ごめんなさい…ごめっ……」
呼吸を整え、思考がまとまってくると涙が出てきた。
あの日、どうして気のせいだと思って父に何も声をかけなかったのか。家族なのに、どうして父を支えてあげなかったんだ。
もっと気にかけていたら、もっと色々してあげられたら──私も、あの後を追っていたら良かったのに。後悔ばかりが積もり、涙が止まらない。
「永代さん?」
その声にはっと顔を上げる。視界が暗闇に慣れてきて、見ると赤木さんが起きていた。
「あ…赤木さん……ごめんなさい、起こしてしまいましたね」
じっと無表情で見てくる赤木さん。泣いている私をどうしたのかと思っているのだろう。
「す、すみません……怖い夢を……見て、しまって……あはは、もう子供じゃないのに、なに泣いてるんだか」
しどろもどろになりながら言っていると、いつの間にか目の前に赤木さんがいた。私の近くに寄ってくると掛け布団を掴み、もう片方の手で私の上体をそっと倒すと、赤木さんも横になり、一緒の布団で寝るかたちとなった。
驚いて何も言えないでいると、赤木さんが目を細めて言う。
「そっか、そういう時は楽しかった事を思い出すといいらしいぜ?君ならたくさんあるだろ?」
「……」
父との楽しかった時間を思い出す。暖かくて、春の木漏れ日のような時間を。
「一緒に……一緒に釣りに行った時、父がうっかり釣竿を忘れて、そしたらそばに居た釣り人さんが丁度あるからって釣竿を2本貸してくれたんです」
「うん」
「そしたら私の釣竿に真鯛がかかって、父に助けられながら釣れて……その後、真鯛を近くのお店に持っていって捌いていただいてご馳走になったんです。あの真鯛はとても美味しかったです」
赤木さんはうん、と優しく返事をして、私の話をただ聞いてくれた。
「それから、小さい頃に父の愛煙していた煙草が販売終了してしまって……煙草なんて分からないのに、お小遣いで煙草屋さんに行って買ってきてプレゼントしたんです。それからずっと、父はその銘柄の煙草を吸ってました。確か、赤木さんと同じものです」
「ククク、小さい頃の君可愛いな」
「ふふっ、あの頃はちょっとお転婆でした。あとは……」
父との楽しかった思い出を話していくと、不思議と先程までの絶望感や喪失感は無くなっていった。
父との思い出はたくさんある。お祭りに行った事、ピアノの発表会で優秀賞をとって褒められた事、お弁当をうっかり忘れて職場まで届けに行った事──赤木さんはその話をずっと聞いていてくれた。
隣にいる赤木さんの温もりが心地よくて、少し眠くなってくる。
「あの、赤木さん」
「ん?」
「……怖いの、無くなりました。もう大丈夫です、ありがとうございます」
「良かった、眠れそう?」
私が頷くと、赤木さんは眠るのを促すように掛布団の上からぽん、ぽんと優しく体を叩く。こんな風にされるのは子供の時以来で、微睡みの中、人の優しさに触れて私は少しだけ泣きそうになった。
「こうして………」
──誰かと一緒にいるって、幸せな事ですね。
その言葉が出てくる前に、私は口を噤む。
赤木さんはここに留まらない人、残らないものなのだから。分かっているのにこんな事を口にしそうになるなんて、どうかしてる。
彼とこうして親睦を深めているけれど、私は彼の事をあまり知らないし、深く詮索はしない。
けれど、赤木さんは優しい人だという事は分かる。
彼の優しさに甘えてはいけない。
赤木さんを見ると、言葉の続きを待っているようで、私は頭を横に振って目を伏せる。
「いいえ、いいえ……なんでもありません。おやすみなさい、赤木さん」
「ああ……おやすみ」
微睡む意識に任せて私は目を閉じる。だんだんと意識は優しい温もりの中に溶けていき、やがて眠りへとついた。
ざぁざぁと耳障りな雨音は、いつの間にか気にならなくなっていた。
*
目が覚めたのは、酷く泣いている永代さんの声が聞こえたから。
顔を手で覆って、小さい背中を震わせて、亡き父親に謝っていた。
「お父さん……ごめんなさい……」
泣いてる君を見ていたら、何故かは分からないが放っておくことも、見て見ぬフリもできなくて、つい声をかけた。
起こした事を謝ると、永代さんは怖い夢を見たと言って、拭っても拭っても溢れてくる涙を止めようとしている。
大体想像はつく。父親の夢を見ていたのだろう──父親が死んだ時の夢を。
自殺と言っていたから永代さんも死体を見たのだろう。いや、もしかしたら発見者だった可能性もある。後者だったら尚のこと気の毒だ。
泣いている彼女を見て、気紛れとは少し違うが、無性にこの人の悲しみ、寂しさだったり、そういうものを全部、払い除けてやりたいと思った。
永代さんの布団に入り、横にすると驚いたような表情をして俺を見る。取り敢えず涙は引っ込んだようだ。
確かこういう時は、楽しい事を思い浮かべるといいって昔ラジオか何かで聞いた事がある。
きっとこの人なら──たくさんあるだろう。
それから永代さんはぽつぽつと楽しかった思い出を話してくれた。
一緒に釣りに行った事、親父さんの為に新しく煙草を買いに行った事、夏の祭りに行った事、ピアノの発表会で優秀賞をとって褒められた事、親父さんが弁当を忘れて職場まで届けに行った事。
この人は、たくさんの愛情を注がれて育ったのだと感じた。
「あの、赤木さん」
小さな頭がこちらを上目遣いで見上げる。
「ん?」
「……怖いの、無くなりました。もう大丈夫です、ありがとうございます」
「良かった、眠れそう?」
そう尋ねると彼女は頷いた。
「こうして………」
そう言いかけるが、永代さんは少しだけはっとすると、その唇を閉じてしまった。
少し押し黙ると、永代さんは微笑んで言う。
「いいえ、いいえ……なんでもありません。おやすみなさい、赤木さん」
「ああ……おやすみ」
寝息を立てて、安らかな面持ちで眠る永代さん。そんな彼女の髪を優しく撫でる。
この人は馬鹿じゃない。俺がここに残らないものだって事が分かっている──分かっているから、先程何かを言いかけて、その言葉を飲み込んだ。
いいや、俺が飲み込ませたようなものか。
「悪いね、永代さん」
彼女を起こさぬように呟く。
確かに俺はここに残らないし、留まるつもりもない。
結局のところ、俺は俺でありたいのだ。赤木しげるでありたいから、残らない。
けれど──それでも、君の傍は存外心地よくて、気に入ってるからついつい足を運んでしまう。
笑って迎えて、送り出してくれるから。
いっそここから連れて行ってしまおうかとも思ったが──それは、この人の望む人生じゃないだろう。
そうすれば、永代さんは永代さんじゃあ無くなってしまう。それは俺も望まない。
雨音が止んで、春の嵐がおさまった。
それと同時に、この人に向けているこの何とも言えない感情も少しずつ収まっていく。
君が幸せに居られる事を──少しだけ祈っておこう。柄でもないけれど。
隣で眠る永代さんの幸せを漠然と祈りながら、俺も眠りについた。
窓からは満月にほど近い月が静かに照らしている。