月を見ていた
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冬休みが過ぎて、あっという間に受験当日。
勉強してきた事を全てぶつけてきた。手応えはそれなりにある、あとは結果を待つだけだった。
合否発表日、友人とその親御さんと共に大学へ向かい、自分の受験番号を血眼になって探した。
「美月!あった!あったよ!!」
「あっ……!」
237番、私の受験番号がそこには書かれていた。
「やったー!!一緒の大学だぁー!」
友人が勢いよく抱きついてきて、私は少しよろけるも友人をそっと抱きしめ返す。
「や、やった…!良かった……!」
私は安堵で少し涙が出てしまった。
友人の親御さん達も喜んでくれて、そのまま私達は友達の親御さんが予約していてくれたレストランへ向かい、お祝いのパーティをした。
大学生活はどんなものになるのかを話ながら食事をして、自宅に帰ってきたのは19時頃だった。
それからは大学入学の為の書類を書き、一人暮らしを始める友人たちは物件探しだったりとそれぞれ大忙しだ。
そして卒業式が終わり、春休みはバイトと大学に向けての勉強、時々友人達と遊ぶなどをして過ごしていた。
大学入学式当日、スーツに袖を通し、ピンク色のブラウスのリボンを結ぶ。バッグと大学入学の為の資料を持ち、私は部屋を出た。
「いってきます」
今日から新生活がスタートする。電車で4駅の所に星稜女子大学はある。私は友人と合流すると、入学式と書かれた看板の前で写真を撮り、キャンパス内へと入った。
理事長、校長先生の話を聞き、それから大学案内が始まって資料を読み合わせた。
全てが終わる頃には夕方の5時になっており、私は帰りにスーパーで食材を買って帰路につく。
ふと空を見上げると、少し欠けた月が見えた。今日は小望月だろうか。
そして桜の花びらが目の前を横切り、春の訪れを感じさせる。
春は好きだ。花の香りを肺いっぱいに感じられて、綺麗な桜が咲き、街や人の色彩が一段と鮮やかに見える。
──今日のご飯はブリの照り焼きにしよう
見えてきた私の住むアパート さくら荘の庭にある桜の木も鮮やかに色づいている。今日は窓から桜と月を眺めてみようか、なんて考えながら歩いていると、アパートの私の部屋の前に見慣れた人影があった。
白髪の男性、見慣れた後ろ姿、暫く見なかったあの人。
「赤木さん!」
私は下から声をかけると、赤木さんは振り向き私に軽く手を振った。私も手を振り返すと小走りで鉄製の階段を上がっていく。
嗅ぎなれたタバコの匂いと、彼の纏う独特の雰囲気が近くなっていく。
「お久しぶりです、お元気でしたか?」
「うん、永代さんも元気そうで何より。……入学、おめでとう」
赤木さんはスーツ姿の私を見るとお祝いの言葉をくれた。
「ありがとうございます。今日はどうしたんですか?」
「いやなに、永代さんの飯が食べたくてきた。迷惑だった?」
「いいえ、そんな!今日はブリの照り焼きにしようと思っていたんです。ちょっと待ってくださいね」
私はカバンから鍵を取り出すとドアを開けた。
「どうぞ」
「お邪魔します」
赤木さんを部屋へ招く。彼はスニーカーを脱ぐと居間へ真っ直ぐ向かい、ボストンバッグをその辺に置くと座布団に座って寛ぎはじめた。私は水の入ったやかんを温めてスーツの上着を脱ぐと、エプロンを身に着ける。
「今から作りますから、待っててください」
「うん、待ってる」
お茶を急須にいれて、赤木さんの元へ運び終えると料理開始。サラダは余っているきんぴらごぼうにしよう。
今日のメインデッシュのブリの照り焼きを作っていく。ブリの両面に塩を少し振って30分放置。その間に味噌汁を作ってしまおう。味噌汁は大根と豆腐と長ネギの味噌汁。ベタだけど私はこれが一番好き。
ブリの塩気を洗って落とし、小麦粉を満遍なく薄く振る。そしてフライパンに油を敷いて香り付けのシシトウガラシと一緒にブリを焼く。
それから火を中火にしてこんがり焼いて、ブリから出た余分な油をキッチンペーパーで拭き取ると、作っておいた照り焼きのタレを入れて少し焼けば完成だ。
「お待たせしました」
「ありがとう。これはまた美味そうだね」
「ふふっ、今日は自信作です。さあ、食べましょうか」
私は赤木さんの正面に座ると、二人で手を合わせて言う。いただきます、と。
「赤木さん、しばらく見ませんでしたけど……どちらに行かれてたんですか?」
「ああ、この街を離れて愛知の賭場に行ってた」
「そうだったんですね。愛知はどうでした?楽しかったですか?」
「まあまあ楽しめたよ。骨のある奴もいてね──」
赤木さんは愛知であった博打の事を話してくれた。チンチロをやってそこで相手のイカサマを利用して大勝した事や、ヤクザの仕切る賭場で腕一本を賭けた花札で勝った事。雀荘のおじさんから教えて貰った変な豆知識だったり、その帰りに食べた屋台そばが美味しかった事、その他にも色々なお話を聞いて、私の知らない世界の事だらけで楽しかった。
「赤木さん、相変わらず凄いですけど……あんまり無茶しないでくださいね」
「ククク…それは保証できねえな」
「もう、心配してるんですよ」
愉快そうに赤木さんは笑って、いつぞやもこんなやり取りをしたな、と言う。
でも、きっとこの人は止めても聞かないんだろうなと思う。そういう性なのだろう。
「そうだ、永代さん。今日泊まってもいい?」
「はい、大丈夫ですよ」
「ありがとう、悪いね」
食事を終えると私は食器を洗い、赤木さんは外へ煙草を吸いに出ていた。またお風呂は私が先に入っていいとの事だったので、洗い物を終えると入浴する。
「ふふんふふん、ふふ〜ん」
最近流行りの曲を鼻歌で歌いながらお風呂に浸かり、今日の疲れを癒す。
体を拭いて髪を乾かし終える頃に赤木さんが部屋に戻ってきた。
「赤木さん、お待たせしました。お風呂どうぞ」
「うん、ありがとう」
そう言って赤木さんは風呂場へ向かっていった。
自分が男の人を泊めるとは一昔前は思ってもおらず、しかし父の遺品としてとっておいた洋服がこんな時に役に立つとは思わなかった。
父が死んでからもう半年近く経つ。父が死ぬ前日、私は父がどこか遠くへ行ってしまうような感覚がしていた。
この感覚は初めてではなくて、母が病死した時もこの感覚はあった。虫の知らせ、とでも言うのだろうか。
胸がざわつき、落ち着かない、嫌な感覚。なのに私は──父を止めることができなかった。相談に乗ったり、話を聞いたり、気が利いたことを言ったり、もっとああしていればと後悔ばかりが積もっていく。
それと同時に、どうして私を置いていってしまったの、と思う。いっそ一緒に死んでしまえばどれだけ良かった事かと。
父の遺影を少し憎らしく思い、それと同時に悲しくなった。
「お父さん……」
窓から見える夜空を見る。どこまでも澄んだ夜色を、月と星の白と、桜が彩って今日は一段と綺麗だ。
あまりネガティブな事は考えてはいけないと頭を横に振り、私は赤木さんの分の布団を取り出し寝床の準備をした。
それからバイト先で貰ったリンゴがある事を思い出し、赤木さんと一緒に食べようと思い、私はリンゴの皮をウサギの形にして剥いていく。
「永代さん、風呂ありがとう。何してるの?」
「リンゴを剥いてるんです。デザートにでもと思って」
「へぇ」
すると、赤木さんはお皿に置いてあったウサギのリンゴを一つ摘み、少し見たかと思うとパクリと食べてしまった。
「あ〜!つまみ食いはいけません!」
「ん、美味い」
つまみ食いを注意するも赤木さんは何処吹く風で、そのまま居間へ向かうと寛いで読みかけの本を読んでいた。リンゴの乗ったお皿を持って机の上に置くと、私もリンゴを食べながら大学のパンフレットを読み返した。
「女子大なんだ、永代さんの行ってる大学」
赤木さんが私の読むパンフレットを見つめて言う。
「はい、そうですよ」
「まあ、女の子で一人暮らしなら女子大の方が安全だろうな」
赤木さんはまたひとつリンゴを口に運ぶ。
「大学って何勉強するの?」
「学部によりますけど、私は経済学部なので主に経済の事を勉強します」
私の行く大学の経済学部は医学部などに比べたら入りやすい方だ。正直言ってしまうと入試の問題をやり直したら結構間違いも多かったし、奨励金の合格ギリギリの点数だった。
「ふぅん」
じっと私を見る赤木さん。もしかして大学のパンフレットが気になるのだろうか。
「パンフレット、良ければご一緒に見ますか?」
「うん」
頷くと赤木さんは私の隣に座り、一緒にパンフレットを見る事になる。
ページを捲る音だけが部屋に響く。赤木さんはただじっとパンフレットを見ているだけで何も言わない。
パンフレットの裏表紙を閉じて、あっという間に読み終えてしまう。すると、赤木さんの視線は私に向けられた。
相変わらず何を考えているか読み取れないポーカーフェイスだ。
「永代さん」
赤木さんの淡々とした声が、私の名前を呼ぶ。
「何ですか?」
赤木さんは少し黙ってから私を見つめてから言う。
「暫く君の家に居てもいい?金は出す」
「はい、大丈夫ですよ……お金も大丈夫ですから」
「ん、ありがとう……くぁ」
赤木さんが猫のように欠伸をする。時計を見ると夜の11時、もう寝る時間だろう。
「そろそろ寝ましょうか。私、明日大学があるので日中いませんけど、大丈夫ですか?」
「うん、日中は雀荘行くから。夕方頃には帰るよ」
「分かりました。明かり消しますね」
赤木さんが布団に入ったのを確認すると私は部屋の明かりを落とす。暗くなった部屋を壁伝いに歩き、私も布団へ入る。今日は色々あって疲れているみたいで、ものの数分で眠りに落ちた。
*
朝、カチャカチャという食器の音と何かを焼くいい匂いで目が覚めた。視線を横に移すと、学習机と参考書、ハンガーにかかった白いワンピースがここが永代さんの部屋だと認識させる。
まだ眠く重い体を起こし、料理をしている永代さんに挨拶をする。
「………おはよう」
「おはようございます、赤木さん」
エプロンを身に着けて笑顔で挨拶をしてくれる永代さん。髪をひとつに結んでいて、その姿が何故だか心にくるものがあった。
「洗面所借りる……」
「はい、どうぞ」
洗面所で顔を洗い、寝癖を直して今に戻ると綺麗に布団が畳まれ、卓袱台の上には今日の朝食が並んでいた。
目玉焼きに焼き鮭、白米とヒジキの煮物だ。
『本日、東京日中は晴れですが夜からは雨模様です。傘を忘れず……』
ラジオからは天気予報が流れていて、永代さんはそれに耳を傾けながら朝食をとっている。
こうして見ると永代さんは少し見ないうちに大人っぽくなった。初めて会った時は制服で、まだあどけないように見えた。
それが昨日はスーツになっていて、改めて大学生になったんだと実感した。
朝食を食べ終え、洗い物を済ませると彼女はカバンの中に参考書やノート、筆記用具を入れると大学へ行く準備を済ませたようだ。
「赤木さんはどれくらいに雀荘へ行くんですか?」
「10時頃かな」
「分かりました、これ部屋の合鍵です。出る時は戸締りお願いしますね」
そう言うと永代さんは俺の掌に白い猫のマスコットストラップがついた鍵を渡してきた。
「うん、わかった」
「それじゃあ、いってきます!」
「いってらっしゃい」
そう言って彼女に軽く手を振ると、また嬉しそうに笑って手を振り返した。
大学へ向かう永代さんを見送り、雀荘が開く時間までここで時間を潰そうと永代さんのものだが本を読む。
タイトルは「魂の存在定義について」という本だ。内容はとても哲学的なもので、魂は死後何処へいくのか、どうなるのかが昔の哲学者の考えと現代の哲学者の考えを織り交ぜて考察した論文のような本だった。
あの人が読みそうな本だと思いながらページを捲っていく。
この本の考察からすると、魂とは巡り巡るもので、命あるものは何度も転生を繰り返すというものだった。
それが人間になったり、動物になったりするのだと。
暇つぶしには丁度いい本だったと思い本棚に戻す。そろそろ雀荘へ行く時間だ。
俺は彼女から預かった部屋の鍵を手に取ると部屋を出た。
雀荘で適当に毟り、そろそろ昼飯を食べるかと雀荘でカレーを頼んで食べる。先程まで打っていた面子は皆帰ってしまい、卓には俺1人だ。雀荘は平日の昼間だからか客の人数は少なく、閑散としている。
カレーを食べ終えたら場所を変えようかと思案していると客がやってきた。
「兄ちゃんフリーかい?半荘どうよ」
「ええ、構いませんよ」
柄の悪そうな如何にも雀ゴロという風貌の男たち二人。俺から金を毟ろうとニヤニヤを下卑た笑みを浮かべている。しばらくしてももう一人が来ないため、雀荘の店員がそこに加わり半荘が始まった。
半荘が終わるも、それから雀ゴロは金を巻き返そうと躍起になり、もう一回戦、もう一回戦と挑んでくるが
結果は俺のトップで終わり、つまらねえ勝負だったと煙草を吹かす。店内の時計を見るともうすぐ夕方で、永代さんも帰ってくる頃だ。
──そろそろ永代さんとこ帰らねえとな。
「じゃ、俺はこれで」
「おいおい兄ちゃん、勝ち逃げかよ」
無視してその場を立ち去ろうとしたその時だった。
「そう言えば兄ちゃん、見た事あるぜ。冬頃の夜に✕✕通りを制服の女の子と歩いてたな。ありゃ妹か?可愛い顔してたよなぁ〜。どうだ、一晩貸してくれねえか?5万出すぜ」
「あの人を………?」
脳裏に過ぎるセーラー服の少女の像。優しく微笑む、桜の花のような彼女。
その彼女がこんな男に″貸される″と思った瞬間、裡の内で静かに、冷たく、仄暗く揺らめいていた炎の温度が更に下がるような感覚がする。
その発言をした男を見つめると、ひっと情けない悲鳴をあげた。
「じょ、冗談だっ!冗談!だから……そんな顔するなって」
男は震え、肩を竦めている。そんな顔とはどういう事だろう、俺はいつも通りのつもりだが。
「す、すまねえなあ兄ちゃん!こいつ負けるとすぐこういう事言うんだ。まじで冗談だから!」
「…………そう。じゃあ、今度こそこれで」
俺は金を受け取ると適当にバッグに詰め、雀荘を後にした。
午後4時、永代さんの住むさくら荘までの道のりを煙草を咥えながら歩く。気分はあの雀ゴロ達のせいで最悪だ。
その上ぬるい勝負でとことんつまらないと来る。ため息と共に紫煙を吐くと、ふと桜の花びらが視界を横切る。
さくら荘の桜の木が見えてきた。204号室の明かりはついている。
ふと路駐してあった車のサイドミラーに自分の姿が写る。顔を見ると、無意識に眉間にシワが寄っていた。
自分でも気が付かないくらい気が立っていた事をそこで自覚し、今の顔では永代さんを怖がらせるかもしれないと思い、落ち着くために一度深呼吸をしてから、猫のストラップのついた鍵を取り出すと解錠し、玄関ドアを開ける。
「……ただいま」
部屋の明かりはついてはいるが返事がない。どうしたものかと思いスニーカーを脱ぎ、居間に入ると永代さんは座布団の上で春の暖かな陽気に包まれ、体を猫のように丸めて眠っていた。
卓袱台の上には永代さんの父の写真があった。寝る前までこれを見ていたのだろう。
そんな彼女を見ると、先程までのフツフツと湧き上がっていた黒い感情が溶けるように無くなっていく。
無防備な永代さんの寝顔をしゃがんで暫く見つめ、思えば彼女の寝顔を見るのは初めて出会った時ぶりだと思い返す。
あの時は風邪をひいていて苦しそうな表情をしていたが、今はすぅすぅと規則正しい寝息を立てている。
──不思議なモンだ、君のそばにいると。
眠る彼女の頭を優しく撫でる。絹糸のように柔らかく、指通りの良い永代さんの髪を数回撫でると、彼女の瞼がゆっくりと開く。
「お…とう、さん……?」
掠れた声でポツリと呟く。そして視界に俺を捉えると、永代さんは勢いよく上体を起こした。
「あ、赤木さん!?すみません、寝てました!」
「いや、いいけど」
撫でていた手を退けて、やや動揺している永代さんを俺も少し驚いた表情で見つめる。そんなに勢いよく起きるとは思わなかったので。
すると、永代さんはあっと何かを思い出したような表情をすると優しく笑う。
「おかえりなさい、赤木さん」
「うん、ただいま」
「これからご飯作りますね。今日は何にしましょう」
永代さんは立ち上がると冷蔵庫の前にしゃがみ、食材と睨めっこをして今日の献立を考える。
そんな彼女の小さい背中を見てから、卓袱台の上の彼女の父親の写真をみる。
永代さんは父親に似たのか、タレ目は父親譲りだ。写真の中の彼もとても穏やかな面持ちをしている。
「赤木さん、今日は肉じゃがでもいいですか?」
「ああ、任せるよ」
そう言うと分かりました、と答えて純白のエプロンを身につけて永代さんは台所に立つ。
包丁とまな板のぶつかる規則正しい音、コトコトと煮込む音、野菜を洗う音。全てが耳心地良く、俺はそれらに耳を傾けながら部屋の窓から見える桜を眺める。
満開の桜は散り始め、ひらひらとその花弁を少しずつ散らしている。また卓袱台の上の永代さんの父親の写真に目を向ける。
永代さんと出会い、そして永代さんの父親が死んで半年ほど経つのかと俺は何気なく考えた。
この人は悲しいとか、寂しいという素振りは俺の前では全然見せない。
しかし、先程の起きる間際の台詞からして、吹っ切れているワケではなさそうだ。気丈に振舞っているのか、人に弱い所を見せるのが嫌なタイプなのだろう。
ただ、再会すればいつも嬉しそうに微笑んで、優しく出迎えてくれる。俺の人生の中で女の部屋に転がり込むというはこれが初めてなわけではない。
ただ、彼女の傍は特別居心地が良い。俺の事を深く詮索するわけでもなく、恐怖するわけでもない。崇めたり、持ち上げたりもしない。この人は俺をどこまでも俺として受け入れてくれる。だから心地良いんだ。
それに心臓がこそばゆいような、甘く締め付けられるような、初めての感覚がして、それはそれで悪くないので受け入れる。
これはなんと言うのだろうか、と彼女の後ろ姿を見る。
俺は立ち上がり、永代さんが夕餉を盛り付けてくれた食器を運んでいく。
「永代さん、運ぶよ」
「そんな、悪いですよ」
「世話になってるんだ、これくらいさせてよ」
そう言うと俺は盆に乗せられた夕餉を運んだ。永代さんが写真を学習机の上に移動させ、軽く卓袱台を布巾で拭くと俺はその上に盆を乗せる。
肉じゃがのいい匂いが空腹を刺激する。俺と永代さんは向かい合うと、いただきますと手を合わせて食事をした、
「赤木さん、今日の麻雀はどうでした?」
「勝ったけどまあ、つまらなかったな」
それに今日の雀ゴロ達は最悪だった、あいつらは次会ったら毟れるだけ毟ると決めた。
「あらまあ…それは残念でしたね。でも、無事に帰ってきてくれて安心しました」
「永代さんこそ、大学はどうだった?」
「今日は教授の自己紹介と授業って感じでした。あとは先輩たちにキャンパスを案内して貰って楽しかったです」
永代さんも肉じゃがを口に運んでいく。俺たちはポツポツと今日の近況を話ながら食事をした。
食事を終え、永代さんが食器を洗い、俺何か手伝う事はないかと聞くと、食器を拭いてほしいと頼まれたので布巾で食器を拭いているとパラ…パラ…と屋根に雨粒が当たる音が部屋に響く。
「あら、雨が降ってきましたね」
「そうだね」
洗濯物は明日晴れてからの方がいいですね、と永代さんは呟く。それから俺は食器を拭き終えて外で煙草を吸っていると、入浴中の永代さんの鼻歌が聞こえてきた。
ゆったりとした曲調の鼻歌と雨音に耳を傾けて紫煙を吹かす。雨はだんだんと強くなっていき、春の嵐が来たようだ。
タバコの火を消すと少し肌寒くなってきたので部屋に戻った。
「赤木さん、お風呂どうぞ」
「ありがとう」
「籠の中に寝間着を入れておいたので、そちらを使ってくださいね」
「分かった」
風呂をいつも通り手短に済ませ、洗面所のドライヤーで髪を乾かすと、永代さんの用意してくれた寝間着を着る。
脱衣所を出て居間を覗くと、永代さんは写真を少し悲しそうな面持ちで見つめていた。
恐らく、亡くなった両親の写真。彼女の見た事のない表情と寂しそうな雰囲気。今は少しそっとしておこうと思い、俺は戸の影に身を潜めた。
*
赤木さんがお風呂に行ってから、ふと机の上に置いてある両親の写真に目がいく。
亡くなってしまった父と母。写真の中の2人は笑顔でいる。
「お父さん……」
半年前亡くなった父が昼寝の時に夢に出てきた。
夢の中の父はその面持ちに似合わず無口で寡黙だったけれど、大丈夫か?と尋ねてきて──不器用なりに自分のことを愛しているのだと分かった。
「私は、大丈夫だよ……」
夢で伝えられなかった事を呟く。この声が届いているかは定かではないけれど。
写真をしまい、押し入れから布団を出すと、卓袱台を退けて布団を敷いた。布団からは押し入れ特有の独特な匂いがする。
外の雨音は先程よりも強くなり、風が吹き始めていた。何気なく雨音に耳を傾ける。
──ああ、お父さんが死んだときも……こんな嵐の日だった。
「永代さん?」
「あっ、赤木さん。おかえりなさい」
「どうしたの?ボーッとして」
「いえ、ちょっと考え事してて……もう寝ますか?」
赤木がチラリと時計に目をやると、夜の11時になっていた。
「そうだね、もう寝るよ」
そう言うと赤木さんは布団に入っていく。私は電気を消すために豆電球に手を伸ばし、おやすみなさいと言うと電球のヒモを引っ張った。
暗闇の中、赤さんを踏まないように移動して私も布団の中に入る。
ざぁざぁと、春の嵐の雨音だけがこの部屋に響いた。
*
「美月、今日も学校か?」
夏の朝の陽射しが差し込む、外からは蝉の忙しない鳴き声が聞こえた。
リビングで老眼鏡をかけ、気難しそうに新聞を読む父が声をかけてくる。
「うん、今日は夏期講習。お父さん、ここにお弁当あるから忘れないでね」
「ああ。……美月」
「なに?」
「……いつも弁当、本当にありがとう」
「……ふふっ、どうしたの急に」
いつも無口で寡黙な父が急にそんな事を言ってきて、私は嬉しくて笑ってしまう。
そんな私を見て、父も少し笑っていた。
「いいだろう。それより学校に行くんだろう、いってらっしゃい」
「うん!いってきます!」
これが、父と交わした最後の会話。父に向けた最後の言葉だった。
8月の夕方、夏休み終盤の事だった。
大学受験に向けた夏期講習を終えて学校を後にする頃には曇天の空が広がり、雨が降っていた。
その日は一日中、胸がざわついて勉強に集中できなかった。家に帰ったら予習に力を入れなければと思うものの、やはりこの胸のざわつきは収まらない。
通学路を少し早足で歩く。
傘の奏でる雨音さえも、今の私には焦燥感を植え付けるものでしかなかった。
夏の17時とは思えないほど暗くて、まるで夜みたいだった。通学路の街灯が点滅して、私の不安をさらに煽る。
早く帰ろう。帰ったら家事を少しして、お父さんが帰ってきたらお風呂に入っている間に温かい料理を作って、いつものように何とない会話をして、勉強をしたらベッドで眠りについて、そしてまた朝を迎えよう。
それでも、家に近づけば近づくほどに胸のざわめきは悪化していく。
この感覚ははじめてではないけれど──この直感的に感じる嫌な予感を、胸のざわめきを、否定したかった。
気のせいであってほしい、何も起こらないで。
気がつけば早足になっていて、体が濡れるのも構わず遂に走り出した。
家に着くと鍵を取り出して急いで玄関ドアを開ける。いつもは揃えるローファーを放り出して家にあがる。
明かりのついてない暗い家はいつもの温かな雰囲気はなく、まるで異界のようだ。
「……ただいま」
恐る恐る帰ってきた事を告げ、私は部屋の明かりをつけた。明かりをつけてもなお、この空間の不気味な雰囲気は拭えなくて、重い足取りでリビングへ向かった。
雨音が先程よりも強くなって──ざぁざぁ、ざぁざぁとラジオのノイズのように聞こえる。
リビングのドアを開けると──そこに父はいた。
最初に視界に入ってきたのは足だった。
暗い部屋の中で、宙に浮かんでいた。
ぽた、ぽた、と床に液体が垂れていて
ゆっくり、ゆっくり、回る父。
視界を徐々にあげて──そして、目が合った。
──どうして、お前は生きている?
──死にたがりのくせに、死への好奇心しかないくせに。
「………お父さん」
何が起こっているのか、分からなかった。父が宙にいて、回っている。
そしてそれを頭で理解すると、私はその場に膝をつき、泣き崩れる事しかできなかった。
ざぁざぁ、ざぁざぁと雨音が窓を叩きつける音がする。
もう一度父だったソレを見ると、その目はもう虚ろで──これが、父の選択した死なのだと、私はただただその光景を見つめる事しかできなかった。
勉強してきた事を全てぶつけてきた。手応えはそれなりにある、あとは結果を待つだけだった。
合否発表日、友人とその親御さんと共に大学へ向かい、自分の受験番号を血眼になって探した。
「美月!あった!あったよ!!」
「あっ……!」
237番、私の受験番号がそこには書かれていた。
「やったー!!一緒の大学だぁー!」
友人が勢いよく抱きついてきて、私は少しよろけるも友人をそっと抱きしめ返す。
「や、やった…!良かった……!」
私は安堵で少し涙が出てしまった。
友人の親御さん達も喜んでくれて、そのまま私達は友達の親御さんが予約していてくれたレストランへ向かい、お祝いのパーティをした。
大学生活はどんなものになるのかを話ながら食事をして、自宅に帰ってきたのは19時頃だった。
それからは大学入学の為の書類を書き、一人暮らしを始める友人たちは物件探しだったりとそれぞれ大忙しだ。
そして卒業式が終わり、春休みはバイトと大学に向けての勉強、時々友人達と遊ぶなどをして過ごしていた。
大学入学式当日、スーツに袖を通し、ピンク色のブラウスのリボンを結ぶ。バッグと大学入学の為の資料を持ち、私は部屋を出た。
「いってきます」
今日から新生活がスタートする。電車で4駅の所に星稜女子大学はある。私は友人と合流すると、入学式と書かれた看板の前で写真を撮り、キャンパス内へと入った。
理事長、校長先生の話を聞き、それから大学案内が始まって資料を読み合わせた。
全てが終わる頃には夕方の5時になっており、私は帰りにスーパーで食材を買って帰路につく。
ふと空を見上げると、少し欠けた月が見えた。今日は小望月だろうか。
そして桜の花びらが目の前を横切り、春の訪れを感じさせる。
春は好きだ。花の香りを肺いっぱいに感じられて、綺麗な桜が咲き、街や人の色彩が一段と鮮やかに見える。
──今日のご飯はブリの照り焼きにしよう
見えてきた私の住むアパート さくら荘の庭にある桜の木も鮮やかに色づいている。今日は窓から桜と月を眺めてみようか、なんて考えながら歩いていると、アパートの私の部屋の前に見慣れた人影があった。
白髪の男性、見慣れた後ろ姿、暫く見なかったあの人。
「赤木さん!」
私は下から声をかけると、赤木さんは振り向き私に軽く手を振った。私も手を振り返すと小走りで鉄製の階段を上がっていく。
嗅ぎなれたタバコの匂いと、彼の纏う独特の雰囲気が近くなっていく。
「お久しぶりです、お元気でしたか?」
「うん、永代さんも元気そうで何より。……入学、おめでとう」
赤木さんはスーツ姿の私を見るとお祝いの言葉をくれた。
「ありがとうございます。今日はどうしたんですか?」
「いやなに、永代さんの飯が食べたくてきた。迷惑だった?」
「いいえ、そんな!今日はブリの照り焼きにしようと思っていたんです。ちょっと待ってくださいね」
私はカバンから鍵を取り出すとドアを開けた。
「どうぞ」
「お邪魔します」
赤木さんを部屋へ招く。彼はスニーカーを脱ぐと居間へ真っ直ぐ向かい、ボストンバッグをその辺に置くと座布団に座って寛ぎはじめた。私は水の入ったやかんを温めてスーツの上着を脱ぐと、エプロンを身に着ける。
「今から作りますから、待っててください」
「うん、待ってる」
お茶を急須にいれて、赤木さんの元へ運び終えると料理開始。サラダは余っているきんぴらごぼうにしよう。
今日のメインデッシュのブリの照り焼きを作っていく。ブリの両面に塩を少し振って30分放置。その間に味噌汁を作ってしまおう。味噌汁は大根と豆腐と長ネギの味噌汁。ベタだけど私はこれが一番好き。
ブリの塩気を洗って落とし、小麦粉を満遍なく薄く振る。そしてフライパンに油を敷いて香り付けのシシトウガラシと一緒にブリを焼く。
それから火を中火にしてこんがり焼いて、ブリから出た余分な油をキッチンペーパーで拭き取ると、作っておいた照り焼きのタレを入れて少し焼けば完成だ。
「お待たせしました」
「ありがとう。これはまた美味そうだね」
「ふふっ、今日は自信作です。さあ、食べましょうか」
私は赤木さんの正面に座ると、二人で手を合わせて言う。いただきます、と。
「赤木さん、しばらく見ませんでしたけど……どちらに行かれてたんですか?」
「ああ、この街を離れて愛知の賭場に行ってた」
「そうだったんですね。愛知はどうでした?楽しかったですか?」
「まあまあ楽しめたよ。骨のある奴もいてね──」
赤木さんは愛知であった博打の事を話してくれた。チンチロをやってそこで相手のイカサマを利用して大勝した事や、ヤクザの仕切る賭場で腕一本を賭けた花札で勝った事。雀荘のおじさんから教えて貰った変な豆知識だったり、その帰りに食べた屋台そばが美味しかった事、その他にも色々なお話を聞いて、私の知らない世界の事だらけで楽しかった。
「赤木さん、相変わらず凄いですけど……あんまり無茶しないでくださいね」
「ククク…それは保証できねえな」
「もう、心配してるんですよ」
愉快そうに赤木さんは笑って、いつぞやもこんなやり取りをしたな、と言う。
でも、きっとこの人は止めても聞かないんだろうなと思う。そういう性なのだろう。
「そうだ、永代さん。今日泊まってもいい?」
「はい、大丈夫ですよ」
「ありがとう、悪いね」
食事を終えると私は食器を洗い、赤木さんは外へ煙草を吸いに出ていた。またお風呂は私が先に入っていいとの事だったので、洗い物を終えると入浴する。
「ふふんふふん、ふふ〜ん」
最近流行りの曲を鼻歌で歌いながらお風呂に浸かり、今日の疲れを癒す。
体を拭いて髪を乾かし終える頃に赤木さんが部屋に戻ってきた。
「赤木さん、お待たせしました。お風呂どうぞ」
「うん、ありがとう」
そう言って赤木さんは風呂場へ向かっていった。
自分が男の人を泊めるとは一昔前は思ってもおらず、しかし父の遺品としてとっておいた洋服がこんな時に役に立つとは思わなかった。
父が死んでからもう半年近く経つ。父が死ぬ前日、私は父がどこか遠くへ行ってしまうような感覚がしていた。
この感覚は初めてではなくて、母が病死した時もこの感覚はあった。虫の知らせ、とでも言うのだろうか。
胸がざわつき、落ち着かない、嫌な感覚。なのに私は──父を止めることができなかった。相談に乗ったり、話を聞いたり、気が利いたことを言ったり、もっとああしていればと後悔ばかりが積もっていく。
それと同時に、どうして私を置いていってしまったの、と思う。いっそ一緒に死んでしまえばどれだけ良かった事かと。
父の遺影を少し憎らしく思い、それと同時に悲しくなった。
「お父さん……」
窓から見える夜空を見る。どこまでも澄んだ夜色を、月と星の白と、桜が彩って今日は一段と綺麗だ。
あまりネガティブな事は考えてはいけないと頭を横に振り、私は赤木さんの分の布団を取り出し寝床の準備をした。
それからバイト先で貰ったリンゴがある事を思い出し、赤木さんと一緒に食べようと思い、私はリンゴの皮をウサギの形にして剥いていく。
「永代さん、風呂ありがとう。何してるの?」
「リンゴを剥いてるんです。デザートにでもと思って」
「へぇ」
すると、赤木さんはお皿に置いてあったウサギのリンゴを一つ摘み、少し見たかと思うとパクリと食べてしまった。
「あ〜!つまみ食いはいけません!」
「ん、美味い」
つまみ食いを注意するも赤木さんは何処吹く風で、そのまま居間へ向かうと寛いで読みかけの本を読んでいた。リンゴの乗ったお皿を持って机の上に置くと、私もリンゴを食べながら大学のパンフレットを読み返した。
「女子大なんだ、永代さんの行ってる大学」
赤木さんが私の読むパンフレットを見つめて言う。
「はい、そうですよ」
「まあ、女の子で一人暮らしなら女子大の方が安全だろうな」
赤木さんはまたひとつリンゴを口に運ぶ。
「大学って何勉強するの?」
「学部によりますけど、私は経済学部なので主に経済の事を勉強します」
私の行く大学の経済学部は医学部などに比べたら入りやすい方だ。正直言ってしまうと入試の問題をやり直したら結構間違いも多かったし、奨励金の合格ギリギリの点数だった。
「ふぅん」
じっと私を見る赤木さん。もしかして大学のパンフレットが気になるのだろうか。
「パンフレット、良ければご一緒に見ますか?」
「うん」
頷くと赤木さんは私の隣に座り、一緒にパンフレットを見る事になる。
ページを捲る音だけが部屋に響く。赤木さんはただじっとパンフレットを見ているだけで何も言わない。
パンフレットの裏表紙を閉じて、あっという間に読み終えてしまう。すると、赤木さんの視線は私に向けられた。
相変わらず何を考えているか読み取れないポーカーフェイスだ。
「永代さん」
赤木さんの淡々とした声が、私の名前を呼ぶ。
「何ですか?」
赤木さんは少し黙ってから私を見つめてから言う。
「暫く君の家に居てもいい?金は出す」
「はい、大丈夫ですよ……お金も大丈夫ですから」
「ん、ありがとう……くぁ」
赤木さんが猫のように欠伸をする。時計を見ると夜の11時、もう寝る時間だろう。
「そろそろ寝ましょうか。私、明日大学があるので日中いませんけど、大丈夫ですか?」
「うん、日中は雀荘行くから。夕方頃には帰るよ」
「分かりました。明かり消しますね」
赤木さんが布団に入ったのを確認すると私は部屋の明かりを落とす。暗くなった部屋を壁伝いに歩き、私も布団へ入る。今日は色々あって疲れているみたいで、ものの数分で眠りに落ちた。
*
朝、カチャカチャという食器の音と何かを焼くいい匂いで目が覚めた。視線を横に移すと、学習机と参考書、ハンガーにかかった白いワンピースがここが永代さんの部屋だと認識させる。
まだ眠く重い体を起こし、料理をしている永代さんに挨拶をする。
「………おはよう」
「おはようございます、赤木さん」
エプロンを身に着けて笑顔で挨拶をしてくれる永代さん。髪をひとつに結んでいて、その姿が何故だか心にくるものがあった。
「洗面所借りる……」
「はい、どうぞ」
洗面所で顔を洗い、寝癖を直して今に戻ると綺麗に布団が畳まれ、卓袱台の上には今日の朝食が並んでいた。
目玉焼きに焼き鮭、白米とヒジキの煮物だ。
『本日、東京日中は晴れですが夜からは雨模様です。傘を忘れず……』
ラジオからは天気予報が流れていて、永代さんはそれに耳を傾けながら朝食をとっている。
こうして見ると永代さんは少し見ないうちに大人っぽくなった。初めて会った時は制服で、まだあどけないように見えた。
それが昨日はスーツになっていて、改めて大学生になったんだと実感した。
朝食を食べ終え、洗い物を済ませると彼女はカバンの中に参考書やノート、筆記用具を入れると大学へ行く準備を済ませたようだ。
「赤木さんはどれくらいに雀荘へ行くんですか?」
「10時頃かな」
「分かりました、これ部屋の合鍵です。出る時は戸締りお願いしますね」
そう言うと永代さんは俺の掌に白い猫のマスコットストラップがついた鍵を渡してきた。
「うん、わかった」
「それじゃあ、いってきます!」
「いってらっしゃい」
そう言って彼女に軽く手を振ると、また嬉しそうに笑って手を振り返した。
大学へ向かう永代さんを見送り、雀荘が開く時間までここで時間を潰そうと永代さんのものだが本を読む。
タイトルは「魂の存在定義について」という本だ。内容はとても哲学的なもので、魂は死後何処へいくのか、どうなるのかが昔の哲学者の考えと現代の哲学者の考えを織り交ぜて考察した論文のような本だった。
あの人が読みそうな本だと思いながらページを捲っていく。
この本の考察からすると、魂とは巡り巡るもので、命あるものは何度も転生を繰り返すというものだった。
それが人間になったり、動物になったりするのだと。
暇つぶしには丁度いい本だったと思い本棚に戻す。そろそろ雀荘へ行く時間だ。
俺は彼女から預かった部屋の鍵を手に取ると部屋を出た。
雀荘で適当に毟り、そろそろ昼飯を食べるかと雀荘でカレーを頼んで食べる。先程まで打っていた面子は皆帰ってしまい、卓には俺1人だ。雀荘は平日の昼間だからか客の人数は少なく、閑散としている。
カレーを食べ終えたら場所を変えようかと思案していると客がやってきた。
「兄ちゃんフリーかい?半荘どうよ」
「ええ、構いませんよ」
柄の悪そうな如何にも雀ゴロという風貌の男たち二人。俺から金を毟ろうとニヤニヤを下卑た笑みを浮かべている。しばらくしてももう一人が来ないため、雀荘の店員がそこに加わり半荘が始まった。
半荘が終わるも、それから雀ゴロは金を巻き返そうと躍起になり、もう一回戦、もう一回戦と挑んでくるが
結果は俺のトップで終わり、つまらねえ勝負だったと煙草を吹かす。店内の時計を見るともうすぐ夕方で、永代さんも帰ってくる頃だ。
──そろそろ永代さんとこ帰らねえとな。
「じゃ、俺はこれで」
「おいおい兄ちゃん、勝ち逃げかよ」
無視してその場を立ち去ろうとしたその時だった。
「そう言えば兄ちゃん、見た事あるぜ。冬頃の夜に✕✕通りを制服の女の子と歩いてたな。ありゃ妹か?可愛い顔してたよなぁ〜。どうだ、一晩貸してくれねえか?5万出すぜ」
「あの人を………?」
脳裏に過ぎるセーラー服の少女の像。優しく微笑む、桜の花のような彼女。
その彼女がこんな男に″貸される″と思った瞬間、裡の内で静かに、冷たく、仄暗く揺らめいていた炎の温度が更に下がるような感覚がする。
その発言をした男を見つめると、ひっと情けない悲鳴をあげた。
「じょ、冗談だっ!冗談!だから……そんな顔するなって」
男は震え、肩を竦めている。そんな顔とはどういう事だろう、俺はいつも通りのつもりだが。
「す、すまねえなあ兄ちゃん!こいつ負けるとすぐこういう事言うんだ。まじで冗談だから!」
「…………そう。じゃあ、今度こそこれで」
俺は金を受け取ると適当にバッグに詰め、雀荘を後にした。
午後4時、永代さんの住むさくら荘までの道のりを煙草を咥えながら歩く。気分はあの雀ゴロ達のせいで最悪だ。
その上ぬるい勝負でとことんつまらないと来る。ため息と共に紫煙を吐くと、ふと桜の花びらが視界を横切る。
さくら荘の桜の木が見えてきた。204号室の明かりはついている。
ふと路駐してあった車のサイドミラーに自分の姿が写る。顔を見ると、無意識に眉間にシワが寄っていた。
自分でも気が付かないくらい気が立っていた事をそこで自覚し、今の顔では永代さんを怖がらせるかもしれないと思い、落ち着くために一度深呼吸をしてから、猫のストラップのついた鍵を取り出すと解錠し、玄関ドアを開ける。
「……ただいま」
部屋の明かりはついてはいるが返事がない。どうしたものかと思いスニーカーを脱ぎ、居間に入ると永代さんは座布団の上で春の暖かな陽気に包まれ、体を猫のように丸めて眠っていた。
卓袱台の上には永代さんの父の写真があった。寝る前までこれを見ていたのだろう。
そんな彼女を見ると、先程までのフツフツと湧き上がっていた黒い感情が溶けるように無くなっていく。
無防備な永代さんの寝顔をしゃがんで暫く見つめ、思えば彼女の寝顔を見るのは初めて出会った時ぶりだと思い返す。
あの時は風邪をひいていて苦しそうな表情をしていたが、今はすぅすぅと規則正しい寝息を立てている。
──不思議なモンだ、君のそばにいると。
眠る彼女の頭を優しく撫でる。絹糸のように柔らかく、指通りの良い永代さんの髪を数回撫でると、彼女の瞼がゆっくりと開く。
「お…とう、さん……?」
掠れた声でポツリと呟く。そして視界に俺を捉えると、永代さんは勢いよく上体を起こした。
「あ、赤木さん!?すみません、寝てました!」
「いや、いいけど」
撫でていた手を退けて、やや動揺している永代さんを俺も少し驚いた表情で見つめる。そんなに勢いよく起きるとは思わなかったので。
すると、永代さんはあっと何かを思い出したような表情をすると優しく笑う。
「おかえりなさい、赤木さん」
「うん、ただいま」
「これからご飯作りますね。今日は何にしましょう」
永代さんは立ち上がると冷蔵庫の前にしゃがみ、食材と睨めっこをして今日の献立を考える。
そんな彼女の小さい背中を見てから、卓袱台の上の彼女の父親の写真をみる。
永代さんは父親に似たのか、タレ目は父親譲りだ。写真の中の彼もとても穏やかな面持ちをしている。
「赤木さん、今日は肉じゃがでもいいですか?」
「ああ、任せるよ」
そう言うと分かりました、と答えて純白のエプロンを身につけて永代さんは台所に立つ。
包丁とまな板のぶつかる規則正しい音、コトコトと煮込む音、野菜を洗う音。全てが耳心地良く、俺はそれらに耳を傾けながら部屋の窓から見える桜を眺める。
満開の桜は散り始め、ひらひらとその花弁を少しずつ散らしている。また卓袱台の上の永代さんの父親の写真に目を向ける。
永代さんと出会い、そして永代さんの父親が死んで半年ほど経つのかと俺は何気なく考えた。
この人は悲しいとか、寂しいという素振りは俺の前では全然見せない。
しかし、先程の起きる間際の台詞からして、吹っ切れているワケではなさそうだ。気丈に振舞っているのか、人に弱い所を見せるのが嫌なタイプなのだろう。
ただ、再会すればいつも嬉しそうに微笑んで、優しく出迎えてくれる。俺の人生の中で女の部屋に転がり込むというはこれが初めてなわけではない。
ただ、彼女の傍は特別居心地が良い。俺の事を深く詮索するわけでもなく、恐怖するわけでもない。崇めたり、持ち上げたりもしない。この人は俺をどこまでも俺として受け入れてくれる。だから心地良いんだ。
それに心臓がこそばゆいような、甘く締め付けられるような、初めての感覚がして、それはそれで悪くないので受け入れる。
これはなんと言うのだろうか、と彼女の後ろ姿を見る。
俺は立ち上がり、永代さんが夕餉を盛り付けてくれた食器を運んでいく。
「永代さん、運ぶよ」
「そんな、悪いですよ」
「世話になってるんだ、これくらいさせてよ」
そう言うと俺は盆に乗せられた夕餉を運んだ。永代さんが写真を学習机の上に移動させ、軽く卓袱台を布巾で拭くと俺はその上に盆を乗せる。
肉じゃがのいい匂いが空腹を刺激する。俺と永代さんは向かい合うと、いただきますと手を合わせて食事をした、
「赤木さん、今日の麻雀はどうでした?」
「勝ったけどまあ、つまらなかったな」
それに今日の雀ゴロ達は最悪だった、あいつらは次会ったら毟れるだけ毟ると決めた。
「あらまあ…それは残念でしたね。でも、無事に帰ってきてくれて安心しました」
「永代さんこそ、大学はどうだった?」
「今日は教授の自己紹介と授業って感じでした。あとは先輩たちにキャンパスを案内して貰って楽しかったです」
永代さんも肉じゃがを口に運んでいく。俺たちはポツポツと今日の近況を話ながら食事をした。
食事を終え、永代さんが食器を洗い、俺何か手伝う事はないかと聞くと、食器を拭いてほしいと頼まれたので布巾で食器を拭いているとパラ…パラ…と屋根に雨粒が当たる音が部屋に響く。
「あら、雨が降ってきましたね」
「そうだね」
洗濯物は明日晴れてからの方がいいですね、と永代さんは呟く。それから俺は食器を拭き終えて外で煙草を吸っていると、入浴中の永代さんの鼻歌が聞こえてきた。
ゆったりとした曲調の鼻歌と雨音に耳を傾けて紫煙を吹かす。雨はだんだんと強くなっていき、春の嵐が来たようだ。
タバコの火を消すと少し肌寒くなってきたので部屋に戻った。
「赤木さん、お風呂どうぞ」
「ありがとう」
「籠の中に寝間着を入れておいたので、そちらを使ってくださいね」
「分かった」
風呂をいつも通り手短に済ませ、洗面所のドライヤーで髪を乾かすと、永代さんの用意してくれた寝間着を着る。
脱衣所を出て居間を覗くと、永代さんは写真を少し悲しそうな面持ちで見つめていた。
恐らく、亡くなった両親の写真。彼女の見た事のない表情と寂しそうな雰囲気。今は少しそっとしておこうと思い、俺は戸の影に身を潜めた。
*
赤木さんがお風呂に行ってから、ふと机の上に置いてある両親の写真に目がいく。
亡くなってしまった父と母。写真の中の2人は笑顔でいる。
「お父さん……」
半年前亡くなった父が昼寝の時に夢に出てきた。
夢の中の父はその面持ちに似合わず無口で寡黙だったけれど、大丈夫か?と尋ねてきて──不器用なりに自分のことを愛しているのだと分かった。
「私は、大丈夫だよ……」
夢で伝えられなかった事を呟く。この声が届いているかは定かではないけれど。
写真をしまい、押し入れから布団を出すと、卓袱台を退けて布団を敷いた。布団からは押し入れ特有の独特な匂いがする。
外の雨音は先程よりも強くなり、風が吹き始めていた。何気なく雨音に耳を傾ける。
──ああ、お父さんが死んだときも……こんな嵐の日だった。
「永代さん?」
「あっ、赤木さん。おかえりなさい」
「どうしたの?ボーッとして」
「いえ、ちょっと考え事してて……もう寝ますか?」
赤木がチラリと時計に目をやると、夜の11時になっていた。
「そうだね、もう寝るよ」
そう言うと赤木さんは布団に入っていく。私は電気を消すために豆電球に手を伸ばし、おやすみなさいと言うと電球のヒモを引っ張った。
暗闇の中、赤さんを踏まないように移動して私も布団の中に入る。
ざぁざぁと、春の嵐の雨音だけがこの部屋に響いた。
*
「美月、今日も学校か?」
夏の朝の陽射しが差し込む、外からは蝉の忙しない鳴き声が聞こえた。
リビングで老眼鏡をかけ、気難しそうに新聞を読む父が声をかけてくる。
「うん、今日は夏期講習。お父さん、ここにお弁当あるから忘れないでね」
「ああ。……美月」
「なに?」
「……いつも弁当、本当にありがとう」
「……ふふっ、どうしたの急に」
いつも無口で寡黙な父が急にそんな事を言ってきて、私は嬉しくて笑ってしまう。
そんな私を見て、父も少し笑っていた。
「いいだろう。それより学校に行くんだろう、いってらっしゃい」
「うん!いってきます!」
これが、父と交わした最後の会話。父に向けた最後の言葉だった。
8月の夕方、夏休み終盤の事だった。
大学受験に向けた夏期講習を終えて学校を後にする頃には曇天の空が広がり、雨が降っていた。
その日は一日中、胸がざわついて勉強に集中できなかった。家に帰ったら予習に力を入れなければと思うものの、やはりこの胸のざわつきは収まらない。
通学路を少し早足で歩く。
傘の奏でる雨音さえも、今の私には焦燥感を植え付けるものでしかなかった。
夏の17時とは思えないほど暗くて、まるで夜みたいだった。通学路の街灯が点滅して、私の不安をさらに煽る。
早く帰ろう。帰ったら家事を少しして、お父さんが帰ってきたらお風呂に入っている間に温かい料理を作って、いつものように何とない会話をして、勉強をしたらベッドで眠りについて、そしてまた朝を迎えよう。
それでも、家に近づけば近づくほどに胸のざわめきは悪化していく。
この感覚ははじめてではないけれど──この直感的に感じる嫌な予感を、胸のざわめきを、否定したかった。
気のせいであってほしい、何も起こらないで。
気がつけば早足になっていて、体が濡れるのも構わず遂に走り出した。
家に着くと鍵を取り出して急いで玄関ドアを開ける。いつもは揃えるローファーを放り出して家にあがる。
明かりのついてない暗い家はいつもの温かな雰囲気はなく、まるで異界のようだ。
「……ただいま」
恐る恐る帰ってきた事を告げ、私は部屋の明かりをつけた。明かりをつけてもなお、この空間の不気味な雰囲気は拭えなくて、重い足取りでリビングへ向かった。
雨音が先程よりも強くなって──ざぁざぁ、ざぁざぁとラジオのノイズのように聞こえる。
リビングのドアを開けると──そこに父はいた。
最初に視界に入ってきたのは足だった。
暗い部屋の中で、宙に浮かんでいた。
ぽた、ぽた、と床に液体が垂れていて
ゆっくり、ゆっくり、回る父。
視界を徐々にあげて──そして、目が合った。
──どうして、お前は生きている?
──死にたがりのくせに、死への好奇心しかないくせに。
「………お父さん」
何が起こっているのか、分からなかった。父が宙にいて、回っている。
そしてそれを頭で理解すると、私はその場に膝をつき、泣き崩れる事しかできなかった。
ざぁざぁ、ざぁざぁと雨音が窓を叩きつける音がする。
もう一度父だったソレを見ると、その目はもう虚ろで──これが、父の選択した死なのだと、私はただただその光景を見つめる事しかできなかった。