月を見ていた
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朝7時、この起床時間が癖になっているから目覚まし時計がなくともその前後には起きられる体になっていた。
体を起こし、カーテンを開けて朝日を浴びれば完全に目が覚める。昨日作った晩御飯の残りと簡単にハムエッグを作れば朝食の完成だ。
ラジオをつけて朝のニュースを聴きながら私は食事を摂る。このアパートでの一人暮らしにまだ少し寂しさを覚えるが、仕方のないことだとその感情を朝食と共に飲み込んだ。
髪を整え、制服を着て、今日の授業の教科書やノートを鞄に入れる。
「いってきます」
父と母の写真に向かってそう言うと、私はアパートを出た。電車に乗って30分ほどの場所に私の通う女子校はある。3年生は受験シーズンで勉強の追い込みの真っ最中だ。
電車を降りて駅を出ると、改札口の前に友達が数人待っていた。おはようと挨拶をして彼女達と合流すると、他愛のない話をしながら学校までの道のりを歩く。
「そう言えば美月、アルバイト始める件どうなったの?」
「うん、バイト先決まったよ。時雨っていうカフェレストラン」
「えー!あそこ気になってたんだよね〜、美月が居るなら今度遊びに行こ〜!」
いつも通りの平和な日、通学路、何気ない会話、私は日常 に戻ってきたんだと実感した。
学校に着くと教室に向かい、おはようと言えば見慣れたクラスメイト達がおはようと返してくれる。着席すると一人のクラスメイトが話しかけてきた。
「永代さん、ノートありがとう!とってもわかり易かったわ!」
そう言って私が纏めた歴史のノートを彼女は手渡してきた。そう言えば3日前彼女は体調不良で休んでおり、その時の授業の進捗を知りたいと言ってたので私がノートを貸したことを思い出した。
「良かった、力になれて。また困った事があったら言ってね」
「ええ、本当にありがとう。今度何かお礼をさせてね」
ホームルーム5分前のチャイムが鳴り響く。彼女は改めてお礼を言うと着席していた。
担任の先生が教室にやってきて受験に向けて、就職に向けての心構えや自分なりの勉強方法を見つける事を説くと1時間目が始まった。
授業を受けて、友達とお昼ご飯を食べて、また授業を受けて、放課後は受験組と図書館で勉強会。下校時刻のチャイムが鳴ったらそれはおしまいで校舎を後にする。
一緒に勉強をしている友人が帰り道で談笑している時、少し心配そうな声色で話しかけてきた。
「ねえ美月、一人暮らししてて大丈夫?何か困ったこととかない?私やっぱり心配だよ」
中学時代からの友人が心配そうに私を見つめてくる。
「大丈夫だよ、大家さんも時間があれば顔を出してくれるし、お祖母様からの仕送りもあるし」
「でも……」
「本当に大丈夫だよ、ありがとう。でも何かあったら頼らせてくれる?」
そう言うと友人は少し仕方なさそうに笑った。
「……ちゃんと頼ってよね」
「ふふっ、その時はよろしくね」
秋風がスカートと髪を揺らす。日が落ちるのが早くなってきて、少し暗い夕暮れの通学路を友人と歩いた。
電車で最寄り駅に到着する頃にはもうすっかり暗くなっていた。私は駅前の八百屋で野菜を買うとアパートに向かって歩く。
今日はカレーにして作り置きしておこう、それから今後の献立を何となく考えていると今の住まい、さくら荘に着いた。
カン、カン、と音を立てて鉄の階段を登り、鞄から鍵を取り出し、鍵を開けた。
「ただいまー」
誰もいない部屋に私は挨拶をする。制服を脱いでシワにならないように丁寧にハンガーにかけると、着替えてからエプロンを身につけ、早速カレーを作っていく。
玉ねぎを飴色になるまで炒めて、人参とジャガイモを一口サイズに切っていく。それから鍋に水を入れて先程のカットした野菜を入れて煮込む。隠し味に砂糖を少々入れるのが我が家の味だ。
その間にスープを作り、余っていた豚肉を入れて灰汁を取り、そこにカレールーを入れてしばらく煮込む。
お皿に白米とカレーを盛り付けて、コンソメスープを器に入れれば今日の晩御飯の完成だ。
「いただきます」
一口食べる。美味しいのだが、何故だか何か足りないような気がして仕方ない。普段作っているレシピのはずなのに、家族で食べていた時の味がしない。
何故だろうと首を捻る。
「ご馳走様でした」
カレーとスープを食べ終わり、食器を洗ったら入浴を済ませ、私は学習机に向かって参考書、テキストを広げて勉強を始める。勉強は12時までと決めているのでなるべくテキパキ問題を解いていくのだ。
そして12時、時間になったので私は布団の中に入る。
ふと窓の方を見ると、綺麗な月がこちらを覗いていた。
赤木さんと出会ったあの日も、こんな月が綺麗な夜だったなと思い出す。
あの夜、私はヤクザの高島さんとも戦っていたが、もう一つ戦っていたものがあった。
それは、私の中の──死の先を思う意思、己の死への好奇心と戦っていた。
物心ついた時から私は己の死への関心が強い、歪んだ人間だった。頭ではそれは悪い事であり、世間一般では狂人と揶揄される事を理解していたが、それでも私の好奇心は死へと向いていた。
好奇心は猫をも殺すという言葉があるけれど、全くもってその通りだ。私の場合は自分から向かっていたけれど。
幼少期は自分の死が悪い事だと思っていなくて、危険な行動ばかりを取っていた。橋から川へ飛び降りる、頭に石を打ち付ける、その度に怪我をして父と母を心配させて、泣かせてばかりいた。
今思えば本当にとんでもない。そんなだから病院に連れて行かれてカウンセリングを受けたりしたが、その時の事はあまり覚えていない。
ただ、それからというものお付きの人がやってきて私の事を監視するようになった。
でも──母が病で亡くなり、無闇に死ぬ事はやめようと思ったが、それでも結局私の行き着く先は「死ぬこと」だった。母は死ぬ間際「ちゃんと生きて」と言った。私もそれを約束したし、死ぬとしても無念なく死のうと決めた。
なのにあの夜、あそこで死んでもいいと思っていた。普通は生きたいと思うのに、生きると母と約束したのに、好奇心で死を選択しそうになる自分があまりにも情けなくて──こんな自分が心底嫌で。
心は嵐のように荒れていて、不安定で──誰か、この嵐を止めてと狭い暗闇の路地裏で願っていた。
嵐の中から、足音が聞こえた。ザリ、ザリと砂利を踏む音。その気配に顔を上げると、月明かりに照らされた白髪の若い男性が私の前に現れた。
ヤクザの人かと思って悲鳴を上げてしまったけど、私はその人から目を離せないでいた。
その人が現れてから、私の中の嵐が──少しだけ静かになった。
月明かりを浴びて輝く白髪、綺麗な切れ長の瞳、くっきりとした目鼻立ち。そして、明らかに普通の人とは違う雰囲気を纏っていた。
月からの使者だ、と言われても信じてしまうくらいに。
赤木さんは最初は怖い人かと思ったけれど、優しかった。ヤクザと麻雀をしている私のことを案じてかどうかは分からないけれど、嘘をついてまで雀荘に来てくれた。
熱を出した得体の知れない私の事を看病してくれた。例えそれが赤木さんの好奇心から来る行動でも嬉しかった。
でも何より嬉しかったのは、こんな歪な私を肯定してくれた事だった。
『いいんじゃない、それでも』
あの夜、その言葉を聞いて私の中の嵐が止んだ。いつも五月蝿い心のざわめきが無くなって、凪いだ湖面のように静かで、穏やかになった。
不思議な人──私の事を暴いて、なのに欲しい言葉をくれて、肯定してくれた。
あの人は元気にしているだろうか、またどこかの組の代打ちをしたり、博奕をして勝っているのだろうと想像する。
麻雀の事は齧った程度の私から見ても、赤木さんの打ち方は凄まじいものだった。日本刀のように鋭くて、鮮烈で、人を魅了する麻雀だった。
それと同時に、住む世界が違う人なのだと理解した。この人は天の上で、私は地なのだと。
不思議な巡り合わせだったけれど、それでも赤木さんに出会えて良かったと思った。
もう二度と会うことはないだろうと思うけれど──赤木さんの往く道に幸運がありますように。
そう祈り、私は眠りにつく。優しい月の光が六畳一間の空間を包みこんで、夜と共に意識も溶けた。
それから2ヶ月が経ち、12月になった。
セーラー服の上から学校指定の黒いコートを纏い、マフラーを身につけても寒いものは寒い。
今年の冬は例年より冷え込むと朝のラジオが告げていた。
今日は日直なのでいつもよ少し早い時間に家を出て学校へ向かう。
部活動に勤しむ生徒を横目に私は正面玄関に向かい、下駄箱を開けて上履きを履いた。廊下を真っ直ぐ進んで突き当たりの職員室のドアをノックし、クラスと名前を名乗り、担任の先生に用事がある事を伝える。
「おお、今日は永代さんが日直だったな。そこのプリントを教室の机の上に、これは日誌ね」
「はい、分かりました先生。何か他に持っていくものはありますか?」
「いいや、それだけでいいよ。ありがとうね」
私はプリントと日誌を持つと、先生に軽く会釈をした。
「ああそうだ、永代さん」
先生に呼ばれ、私は顔を上げる。
「ホームルームでも伝えるけれど、君には先に伝えておくよ。永代さんのアルバイト先の街で最近辻斬り事件があってね。この大切な時期に君に何かあったら大変だ。帰りはなるべく人気の多いところを選んで帰りなさい」
「ご忠告痛み入ります、先生。プリント持っていきますね。それでは失礼します」
職員室を後にして、すれ違うクラスメイトや同級生、後輩たちと挨拶を交わし、教室へ入る。
サイド黒板に今日の提出物を書いて、教室の花に水をやる。
「あ、永代さんおはよう!遅くなってごめんなさい、あとの日直の仕事私がやっておくね」
「ありがとう、じゃあお願い」
もう一人の日直当番のクラスメイトがやってきて、日誌と号令、プリント配りを請け負ってくれた。
9時、いつもと同じ1日が始まる。ホームルームで先生がさっき教えてくれた辻斬りが出たので帰りは遅くならないようにと生徒たちに伝える。
それからは授業を受けて、休み時間になったら友達と雑談をして、日直の仕事を終えて、放課後になったら最近始めたアルバイト先へと向かうのが私の1日だ。
田舎の祖母からの仕送りはあって、大学の費用も奨励金が出る成績を修めていたから何とかなるものの、やっぱり自分の食い扶持くらいは稼がないと。
アルバイト先のカフェレストラン 時雨に到着する。裏口から店内に入ると、コーヒーのいい匂いが鼻を擽る。
「おはようございます、店長」
「おはよう、永代さん。今日も宜しくね」
「はい、よろしくお願いします!」
このカフェレストランは夫婦2人で経営している小さなお店だ。店長が奥さんで、マスターが旦那さんだ。
店内はマスターの趣味全開でバイクや車の模型が飾ってあり、子気味のいいジャズが流れている。
制服を脱いで喫茶店のバイト着に着替えると、タイムカードを押して私は店へと出た。
「おはようございますマスター、本日もよろしくお願いします」
「永代さん、今日も宜しくね。早速このナポリタンを6卓のお客様へお願い」
「はい!」
この喫茶店はマスターと同じ趣味のバイクや車好きのお客様が多く、常連さんは男性の方が多い。大抵はマスターと車、バイクについて語りたくて来るお客様だ。
最近漸く常連さんの顔を覚え始めたばかりで、仕事もなんとかこなしている。そんな私をマスターと店長は優しく見守ってくれて、新しい事を教えてくれる。
コーヒーの入れ方、軽食、洋食の作り方、ちょっとした料理の隠し味だったり、節約術だったり。
そうこうしていると退勤時間になり、私は二人に挨拶をするとバックヤードに戻り、制服に着替えた。
「永代さん、余りだけど持っていって」
そう言って店長はビニール袋に入ったパンの耳とパスタ、トマト缶、リンゴをくれた。
「いつもすみません、店長」
「いいのよ、若い子の一人暮らしは大変だろうから。それじゃお疲れ様。そうだ!この辺、最近物騒だから気をつけて帰るのよ」
「はい、お疲れ様でした。食材もありがとうございます。また明後日お願いします」
店長はにっこりと優しく笑って見送ってくれた。
先生も言っていたけど、最近この辺りで辻斬りが出たみたいだし、今日は繁華街の方を通って帰ろうと思い、そちらに足を進めた。
しかし、私は繁華街に入って後悔した。案の定酔っ払いに絡まれてしまったのだ。
「お嬢さんはさぁ〜〜、俺の娘にソックリでさぁ〜〜」
「や、やめてください……」
「なんでだよぉお〜〜、いいじゃねえか千代子〜〜」
私のことを完全に自分の娘と勘違いしているサラリーマンの男性を振り切ろうと、私は走り出し路地裏へと入る。
「あ、千代子ぉ〜!待ってくれ〜!」
酔っ払いの千鳥足では走っている人間に追いつく事ができるわけもなく、私は路地裏を抜けていつもの静かな通りへと結局行く事になってしまった。
やっぱり繁華街なんて学生一人で歩くものではないと思い、帰路につく。
ふと空を見上げると、冬の澄んだ空気の夜空が広がっていた。星々の中にある月を見る。今日は見事な弓張月だ。
綺麗だな、なんて思いながら歩いていると少し遠くから物騒な声が聞こえてきた。
「容赦しねぇぞ!」
「ぶっ殺してやる!」
「かかってこいや!」
少し遠くの空き地で、喧嘩をしているのか怒鳴り声が聞こえてきた。この周りは開発途中で空き地や工事途中の土地が多いため、夜は人気がほとんどない。
そんな中で喧嘩をして、もし人が怪我でもしたら大変だ。もしもその人が気を失ったりして、この寒い時期に朝まで見つけられなかったら、最悪死んでしまうかもしれない。
それは嫌だ。たとえ他人でも、それは放っておけない。
私は怒声のする方へと小走りで足を進める。冬の吐く息が白くて、ビニール袋がカサカサと音を立てる。
喧嘩の現場が見えるところまで来ると、5人ほどの男性が一人の男性を囲っている。そして既に二人が地面に伏している。シルエットしか見えないが、この人数相手ではあの人が危ないと思った。
今の私ができるのは、これくらいしかない。すぅーっと息を吸って、肺に目いっぱい入れると私は声を張り上げた。
「お、お巡りさん!こっちです!!こっちで喧嘩が起きてます!!」
震える声で、精一杯叫ぶ。
すると男性達は仲間であろう地面に伏した人を抱え、いそいそと捨て台詞を吐いて逃げて行く。
「覚えてろよ!鬼!悪魔め!!」
「クソっ!」
囲まれていた男性は逃げていく男達を突っ立ったまま見つめていた。私はその男性が心配になり駆け寄った。
「だ、大丈夫ですか!?お怪我はありませんか!?」
その男性は流れるような動作で煙草を取り出し、マッチに火をつけ、それを先端へと持っていき火種をつけるとフゥーっと紫煙を吐いてからこちらを見た。
「あ…………」
明かりは煙草の先の淡い橙だけ。それだけでもその人が誰だか分かった。少し前に嗅いだ匂い、その人が纏う独特の雰囲気で。
「赤木、さん……?」
「………あらら、永代さん。久しぶり」
こちらを見る赤木さんは髪や顔や服、手に血がついていた。
「あ、あああ赤木さん!!血、血が!」
衝撃の光景に私は思わず声を上げ、口を鯉のようにパクパクさせて赤木さんの手をとった。
「ああ、大した怪我じゃないから大丈夫。ほとんど返り血だし」
「大丈夫じゃないですよ!ああ、頭からも血が出てるじゃないですか…!」
私は赤木さんの頭の怪我を止血しようとカバンからハンカチを取り出した。
「ごめんなさい、綺麗なものじゃありませんが。少し失礼しますね」
背伸びをして赤木さんの額の怪我をそっと抑える。
「赤木さん、応急処置をするので取り敢えずうちに来てください。少し歩きますけど大丈夫ですか?」
「いや、大した怪我じゃないからいいよ」
「ダメですっ!どうせ赤木さん怪我ほったらかしにするでしょう?ほら、行きますよ!体調悪くなったりしたら言ってくださいね」
私は赤木さんの手を取ると家のある方角へと歩き出す。お互い無言のまま、ただひたすらに歩いた。
赤木さんの事だ、博奕の後にトラブルになってしまい、あそこで喧嘩をしていたのだろう。
ふと空を見ると、月と星空が広がっていた。月のかたちは違えど、赤木さんと出会う時はいつも綺麗な月が見える。
「永代さん、手はもういいよ」
「え?……あっ、あ!ご、ごめんなさい!」
赤木さんの手をずっと握っていた事に気が付き、私はその手を離した。
「安心しなよ、大人しくついてくから」
20分ほど歩いて私の住むアパートが見えてきた。鞄から鍵を取り出し、玄関を開けて赤木さんを招き入れる。
「座って待っていてください、今用意しますから」
学習机の一番下の段に入れてある救急箱を取り出し開く。薬特有の匂いと消毒液の匂いが鼻をついた。
赤木さんの前で膝をつき、まずは頭の傷を消毒する為に綿に消毒液をつけ、ピンセットでそれを摘むと優しくポンポンと触れていく。
「少し痛みますよ」
「ん…」
赤木さんは目を瞑り、少しだけ頭を前に出してきた。傷口を消毒し終え、手の甲の擦り傷、腕にも傷があるのを見つけてそこの消毒を行った。
ふと、喧嘩の去り際に男達が言っていたことを思い出す。
──鬼!悪魔め!
「……酷い人達です、赤木さんの事を悪魔なんて……赤木さんは優しいのに」
傷口に絆創膏を貼りながらそう呟くと、赤木さんの身体が小刻みに震えていた。はっと顔をあげると、赤木さんは笑っている。
「クックックッ…ククククク…!」
どうして彼が笑っているの分からず、私はただ首を傾げた。
彼は気が済むまで笑うと、私を見た。
「君、俺が優しい人間に見える?」
「他の人から見たらどうかはわかりません。でも少なくとも、私の目には優しい人に見えます」
「へぇ、どこら辺が?」
私は少し考える。赤木さんを優しい人だと思ったところを。
「初めて会った時、得体の知れない私に声をかけてくれて、嘘をついて雀荘で私と一緒に居てくれた事、看病してくれたところもですし、……あとは、こんな私の考えを肯定してくれたところ、です」
そう答えると、赤木さんは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。
「よくもまあそんなスルスルと……」
最後の絆創膏を貼り終えると、私はそんな赤木さんを見て笑った。
「ふふっ、誰がなんと言おうと私から見たら赤木さんは優しい人です。そうだ、バイト先の店長が食事の材料をくれたんです、良かったら晩御飯うちで食べませんか?」
「いいの?」
「はい、もちろん!」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
「では待っていてください。すぐに作りますから」
台所に立つとバイト先でもらったパスタ、トマト缶を出す。今日はトマトとツナのパスタにしよう。スープは昨日作ったコンソメスープの余りがあるのと、野菜もある。冷蔵庫にあるツナ缶、野菜を取り出し料理スタートだ。
パスタを茹でるべくお鍋に火をかけ、その間に簡単なサラダを作る。
サラダを作り終わったら次はパスタソースだ。トマト缶とツナ缶をフライパンに入れて熱して、味は調味料で調整したらソースもできあがり。あとはパスタを茹でて盛りつけ、ソースをかけたら完成だ。
料理を赤木さんのいる部屋に運び、いただきますと一緒に言うと食事をした。
不思議なもので、赤木さんとまた再会し食事をするなんて思ってもいなかった。何だかそれが嬉しくて、頬が綻んでしまう。
「どうかした?」
「いえ、その、誰かと食事をするのって……良いなって思って」
「そっか……。美味いね、永代さんの作る飯」
「あ、ありがとうございます。……嬉しいです」
静かな二人の食事。赤木さんは表情をあまり変えないけれど、なんとなく雰囲気で美味しく食べているのが伝わってくる。
今日の晩御飯は簡単なもののはずなのに、何故だかいつもより美味しく感じた。
食事を終えて食器を洗っていると、赤木さんは煙草を吸いに外へ出た。食器を洗い終えた頃になると赤木さんが戻ってくる。
12月の寒空の下で一服していたからか、赤木さんは寒そうに身体を縮めて仄かな煙草の匂いを纏って戻ってきた。
「赤木さん、寒いですし窓開けてお部屋の中で吸ってもいいんですよ?」
「未成年の君の部屋で吸うわけにはいかいでしょ」
「赤木さんだって未成年じゃないですか」
「俺はいいんだ」
「ふふふっ、なんですかそれ」
食器を拭いていると、赤木さんは靴を脱いで上がってくる。
「あ、そう言えば赤木さん。学校で先生が仰っていたのですがあの辺りで今辻斬りが出ているそうですよ。物騒ですし、赤木さんも気をつけて……」
そう言いかけた時、赤木さんが私の眼前に迫ってくる。さっきよりも濃いタバコの匂いが鼻をつく。
「その辻斬りが俺だったら?永代さんはどうする?」
赤木さんの切れ長の目が細くなり、悪い笑みを浮かべて私を見つめる。
赤木さんが先生の言っていた辻斬り?
確かに先程の喧嘩の雰囲気といい、赤木さんが先生の言っていた辻斬りなのかもしれない。
しかし、私の心には恐怖心や怯えとか、そういう感情は一切無かった。
だって、私の目の前にいる人は無愛想ではあるけど悪い人ではない。私を助けてくれた恩人である事に変わりないのだから。
「どうすると言われても……どうもしません」
「へえ、どうして?」
「……赤木さんは、私に乱暴したりしないって信じてますから」
思ったことを彼に伝えると、何が面白かったのか悪い笑みは消え、赤木さんはさっきのように無邪気そうに笑う。
「ククク、君はやっぱり変わってるね」
「それはお互い様ですよ。あ、今日は泊まっていきますか?」
「いいや、もう帰るよ。明日代打ちあるし。ありがとう」
私は赤木さんを見送るために食器を置いて手を拭いた。
「じゃあ永代さん、夜は戸締りしっかりね」
「はい!赤木さんもお気をつけて。喧嘩してまた怪我しないでくださいね」
「ククク、それは保証できねえな」
「もう、心配してるんですよ」
「じゃあね、永代さん。おやすみ」
「おやすみなさい、お気をつけて」
暗闇の中に溶け込む赤木さんの背中を見送り、部屋の中でまた私は一人になる。
シャワーを浴びてパジャマに着替えると、私は机の上に参考書とテキストを広げて勉強をする。鉛筆が紙の上を滑る音だけがこの空間に響いた。
また赤木さんに会えたのは翌日の事だった。
夜の9時、今日はそろそろ眠ろうかとパジャマに着替えて明かりを消そうとしていた時の事。ピンポンとチャイムの音が響いた。こんな夜遅くに尋ねてくるなんて、大家さんだろうかと思い私は返事をする。
「はーい」
ドアノブを回し、私は客人を見て驚いた。
「あ、赤木さん!?」
「こんばんは、永代さん。夜遅くにすまないね……これ」
赤木さんはそう言って紙袋を差し出す。
「これは……?」
「昨日ハンカチ汚しちまったからその詫びと、晩飯の礼」
昨日拭ったハンカチの事など洗濯をしてすっかり忘れていた。
紙袋の中身は桜色の可愛らしいハンカチと、百貨店に売っている人気のクッキーが入っていた。
このハンカチとクッキーを赤木さんがお店に行って選んでくれたのだと思うと、とても嬉しくて、心が暖まるような、くすぐったいような気持ちになる。
「ありがとうございます、大切にします」
「じゃあ、俺はこれで。……永代さん」
赤木さんは少し考えると、じっと私を見てから言う。
「?」
「気が向いたらまた来るから。その時はまた何か飯作ってほしい」
「……はいっ!いつでも来てください、ここで待ってますから」
「じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい、お気をつけて」
玄関ドアが締められる。赤木さんから貰った紙袋の中からハンカチとクッキーを取り出して、私は嬉しくて一人で微笑んでしまう。
「さて、そろそろ寝よう」
ハンカチを棚にしまい、クッキーは明日食べよう。今日はもう寝ようと私は電気を消して布団に入った。
チラリと窓を見ると、三日月がこちらを覗いている。今日の博奕も赤木さんが勝てますように、と小さく祈る。
結論から言うと、その後赤木さんは姿を現す事なく月日は過ぎていった。
体を起こし、カーテンを開けて朝日を浴びれば完全に目が覚める。昨日作った晩御飯の残りと簡単にハムエッグを作れば朝食の完成だ。
ラジオをつけて朝のニュースを聴きながら私は食事を摂る。このアパートでの一人暮らしにまだ少し寂しさを覚えるが、仕方のないことだとその感情を朝食と共に飲み込んだ。
髪を整え、制服を着て、今日の授業の教科書やノートを鞄に入れる。
「いってきます」
父と母の写真に向かってそう言うと、私はアパートを出た。電車に乗って30分ほどの場所に私の通う女子校はある。3年生は受験シーズンで勉強の追い込みの真っ最中だ。
電車を降りて駅を出ると、改札口の前に友達が数人待っていた。おはようと挨拶をして彼女達と合流すると、他愛のない話をしながら学校までの道のりを歩く。
「そう言えば美月、アルバイト始める件どうなったの?」
「うん、バイト先決まったよ。時雨っていうカフェレストラン」
「えー!あそこ気になってたんだよね〜、美月が居るなら今度遊びに行こ〜!」
いつも通りの平和な日、通学路、何気ない会話、私は
学校に着くと教室に向かい、おはようと言えば見慣れたクラスメイト達がおはようと返してくれる。着席すると一人のクラスメイトが話しかけてきた。
「永代さん、ノートありがとう!とってもわかり易かったわ!」
そう言って私が纏めた歴史のノートを彼女は手渡してきた。そう言えば3日前彼女は体調不良で休んでおり、その時の授業の進捗を知りたいと言ってたので私がノートを貸したことを思い出した。
「良かった、力になれて。また困った事があったら言ってね」
「ええ、本当にありがとう。今度何かお礼をさせてね」
ホームルーム5分前のチャイムが鳴り響く。彼女は改めてお礼を言うと着席していた。
担任の先生が教室にやってきて受験に向けて、就職に向けての心構えや自分なりの勉強方法を見つける事を説くと1時間目が始まった。
授業を受けて、友達とお昼ご飯を食べて、また授業を受けて、放課後は受験組と図書館で勉強会。下校時刻のチャイムが鳴ったらそれはおしまいで校舎を後にする。
一緒に勉強をしている友人が帰り道で談笑している時、少し心配そうな声色で話しかけてきた。
「ねえ美月、一人暮らししてて大丈夫?何か困ったこととかない?私やっぱり心配だよ」
中学時代からの友人が心配そうに私を見つめてくる。
「大丈夫だよ、大家さんも時間があれば顔を出してくれるし、お祖母様からの仕送りもあるし」
「でも……」
「本当に大丈夫だよ、ありがとう。でも何かあったら頼らせてくれる?」
そう言うと友人は少し仕方なさそうに笑った。
「……ちゃんと頼ってよね」
「ふふっ、その時はよろしくね」
秋風がスカートと髪を揺らす。日が落ちるのが早くなってきて、少し暗い夕暮れの通学路を友人と歩いた。
電車で最寄り駅に到着する頃にはもうすっかり暗くなっていた。私は駅前の八百屋で野菜を買うとアパートに向かって歩く。
今日はカレーにして作り置きしておこう、それから今後の献立を何となく考えていると今の住まい、さくら荘に着いた。
カン、カン、と音を立てて鉄の階段を登り、鞄から鍵を取り出し、鍵を開けた。
「ただいまー」
誰もいない部屋に私は挨拶をする。制服を脱いでシワにならないように丁寧にハンガーにかけると、着替えてからエプロンを身につけ、早速カレーを作っていく。
玉ねぎを飴色になるまで炒めて、人参とジャガイモを一口サイズに切っていく。それから鍋に水を入れて先程のカットした野菜を入れて煮込む。隠し味に砂糖を少々入れるのが我が家の味だ。
その間にスープを作り、余っていた豚肉を入れて灰汁を取り、そこにカレールーを入れてしばらく煮込む。
お皿に白米とカレーを盛り付けて、コンソメスープを器に入れれば今日の晩御飯の完成だ。
「いただきます」
一口食べる。美味しいのだが、何故だか何か足りないような気がして仕方ない。普段作っているレシピのはずなのに、家族で食べていた時の味がしない。
何故だろうと首を捻る。
「ご馳走様でした」
カレーとスープを食べ終わり、食器を洗ったら入浴を済ませ、私は学習机に向かって参考書、テキストを広げて勉強を始める。勉強は12時までと決めているのでなるべくテキパキ問題を解いていくのだ。
そして12時、時間になったので私は布団の中に入る。
ふと窓の方を見ると、綺麗な月がこちらを覗いていた。
赤木さんと出会ったあの日も、こんな月が綺麗な夜だったなと思い出す。
あの夜、私はヤクザの高島さんとも戦っていたが、もう一つ戦っていたものがあった。
それは、私の中の──死の先を思う意思、己の死への好奇心と戦っていた。
物心ついた時から私は己の死への関心が強い、歪んだ人間だった。頭ではそれは悪い事であり、世間一般では狂人と揶揄される事を理解していたが、それでも私の好奇心は死へと向いていた。
好奇心は猫をも殺すという言葉があるけれど、全くもってその通りだ。私の場合は自分から向かっていたけれど。
幼少期は自分の死が悪い事だと思っていなくて、危険な行動ばかりを取っていた。橋から川へ飛び降りる、頭に石を打ち付ける、その度に怪我をして父と母を心配させて、泣かせてばかりいた。
今思えば本当にとんでもない。そんなだから病院に連れて行かれてカウンセリングを受けたりしたが、その時の事はあまり覚えていない。
ただ、それからというものお付きの人がやってきて私の事を監視するようになった。
でも──母が病で亡くなり、無闇に死ぬ事はやめようと思ったが、それでも結局私の行き着く先は「死ぬこと」だった。母は死ぬ間際「ちゃんと生きて」と言った。私もそれを約束したし、死ぬとしても無念なく死のうと決めた。
なのにあの夜、あそこで死んでもいいと思っていた。普通は生きたいと思うのに、生きると母と約束したのに、好奇心で死を選択しそうになる自分があまりにも情けなくて──こんな自分が心底嫌で。
心は嵐のように荒れていて、不安定で──誰か、この嵐を止めてと狭い暗闇の路地裏で願っていた。
嵐の中から、足音が聞こえた。ザリ、ザリと砂利を踏む音。その気配に顔を上げると、月明かりに照らされた白髪の若い男性が私の前に現れた。
ヤクザの人かと思って悲鳴を上げてしまったけど、私はその人から目を離せないでいた。
その人が現れてから、私の中の嵐が──少しだけ静かになった。
月明かりを浴びて輝く白髪、綺麗な切れ長の瞳、くっきりとした目鼻立ち。そして、明らかに普通の人とは違う雰囲気を纏っていた。
月からの使者だ、と言われても信じてしまうくらいに。
赤木さんは最初は怖い人かと思ったけれど、優しかった。ヤクザと麻雀をしている私のことを案じてかどうかは分からないけれど、嘘をついてまで雀荘に来てくれた。
熱を出した得体の知れない私の事を看病してくれた。例えそれが赤木さんの好奇心から来る行動でも嬉しかった。
でも何より嬉しかったのは、こんな歪な私を肯定してくれた事だった。
『いいんじゃない、それでも』
あの夜、その言葉を聞いて私の中の嵐が止んだ。いつも五月蝿い心のざわめきが無くなって、凪いだ湖面のように静かで、穏やかになった。
不思議な人──私の事を暴いて、なのに欲しい言葉をくれて、肯定してくれた。
あの人は元気にしているだろうか、またどこかの組の代打ちをしたり、博奕をして勝っているのだろうと想像する。
麻雀の事は齧った程度の私から見ても、赤木さんの打ち方は凄まじいものだった。日本刀のように鋭くて、鮮烈で、人を魅了する麻雀だった。
それと同時に、住む世界が違う人なのだと理解した。この人は天の上で、私は地なのだと。
不思議な巡り合わせだったけれど、それでも赤木さんに出会えて良かったと思った。
もう二度と会うことはないだろうと思うけれど──赤木さんの往く道に幸運がありますように。
そう祈り、私は眠りにつく。優しい月の光が六畳一間の空間を包みこんで、夜と共に意識も溶けた。
それから2ヶ月が経ち、12月になった。
セーラー服の上から学校指定の黒いコートを纏い、マフラーを身につけても寒いものは寒い。
今年の冬は例年より冷え込むと朝のラジオが告げていた。
今日は日直なのでいつもよ少し早い時間に家を出て学校へ向かう。
部活動に勤しむ生徒を横目に私は正面玄関に向かい、下駄箱を開けて上履きを履いた。廊下を真っ直ぐ進んで突き当たりの職員室のドアをノックし、クラスと名前を名乗り、担任の先生に用事がある事を伝える。
「おお、今日は永代さんが日直だったな。そこのプリントを教室の机の上に、これは日誌ね」
「はい、分かりました先生。何か他に持っていくものはありますか?」
「いいや、それだけでいいよ。ありがとうね」
私はプリントと日誌を持つと、先生に軽く会釈をした。
「ああそうだ、永代さん」
先生に呼ばれ、私は顔を上げる。
「ホームルームでも伝えるけれど、君には先に伝えておくよ。永代さんのアルバイト先の街で最近辻斬り事件があってね。この大切な時期に君に何かあったら大変だ。帰りはなるべく人気の多いところを選んで帰りなさい」
「ご忠告痛み入ります、先生。プリント持っていきますね。それでは失礼します」
職員室を後にして、すれ違うクラスメイトや同級生、後輩たちと挨拶を交わし、教室へ入る。
サイド黒板に今日の提出物を書いて、教室の花に水をやる。
「あ、永代さんおはよう!遅くなってごめんなさい、あとの日直の仕事私がやっておくね」
「ありがとう、じゃあお願い」
もう一人の日直当番のクラスメイトがやってきて、日誌と号令、プリント配りを請け負ってくれた。
9時、いつもと同じ1日が始まる。ホームルームで先生がさっき教えてくれた辻斬りが出たので帰りは遅くならないようにと生徒たちに伝える。
それからは授業を受けて、休み時間になったら友達と雑談をして、日直の仕事を終えて、放課後になったら最近始めたアルバイト先へと向かうのが私の1日だ。
田舎の祖母からの仕送りはあって、大学の費用も奨励金が出る成績を修めていたから何とかなるものの、やっぱり自分の食い扶持くらいは稼がないと。
アルバイト先のカフェレストラン 時雨に到着する。裏口から店内に入ると、コーヒーのいい匂いが鼻を擽る。
「おはようございます、店長」
「おはよう、永代さん。今日も宜しくね」
「はい、よろしくお願いします!」
このカフェレストランは夫婦2人で経営している小さなお店だ。店長が奥さんで、マスターが旦那さんだ。
店内はマスターの趣味全開でバイクや車の模型が飾ってあり、子気味のいいジャズが流れている。
制服を脱いで喫茶店のバイト着に着替えると、タイムカードを押して私は店へと出た。
「おはようございますマスター、本日もよろしくお願いします」
「永代さん、今日も宜しくね。早速このナポリタンを6卓のお客様へお願い」
「はい!」
この喫茶店はマスターと同じ趣味のバイクや車好きのお客様が多く、常連さんは男性の方が多い。大抵はマスターと車、バイクについて語りたくて来るお客様だ。
最近漸く常連さんの顔を覚え始めたばかりで、仕事もなんとかこなしている。そんな私をマスターと店長は優しく見守ってくれて、新しい事を教えてくれる。
コーヒーの入れ方、軽食、洋食の作り方、ちょっとした料理の隠し味だったり、節約術だったり。
そうこうしていると退勤時間になり、私は二人に挨拶をするとバックヤードに戻り、制服に着替えた。
「永代さん、余りだけど持っていって」
そう言って店長はビニール袋に入ったパンの耳とパスタ、トマト缶、リンゴをくれた。
「いつもすみません、店長」
「いいのよ、若い子の一人暮らしは大変だろうから。それじゃお疲れ様。そうだ!この辺、最近物騒だから気をつけて帰るのよ」
「はい、お疲れ様でした。食材もありがとうございます。また明後日お願いします」
店長はにっこりと優しく笑って見送ってくれた。
先生も言っていたけど、最近この辺りで辻斬りが出たみたいだし、今日は繁華街の方を通って帰ろうと思い、そちらに足を進めた。
しかし、私は繁華街に入って後悔した。案の定酔っ払いに絡まれてしまったのだ。
「お嬢さんはさぁ〜〜、俺の娘にソックリでさぁ〜〜」
「や、やめてください……」
「なんでだよぉお〜〜、いいじゃねえか千代子〜〜」
私のことを完全に自分の娘と勘違いしているサラリーマンの男性を振り切ろうと、私は走り出し路地裏へと入る。
「あ、千代子ぉ〜!待ってくれ〜!」
酔っ払いの千鳥足では走っている人間に追いつく事ができるわけもなく、私は路地裏を抜けていつもの静かな通りへと結局行く事になってしまった。
やっぱり繁華街なんて学生一人で歩くものではないと思い、帰路につく。
ふと空を見上げると、冬の澄んだ空気の夜空が広がっていた。星々の中にある月を見る。今日は見事な弓張月だ。
綺麗だな、なんて思いながら歩いていると少し遠くから物騒な声が聞こえてきた。
「容赦しねぇぞ!」
「ぶっ殺してやる!」
「かかってこいや!」
少し遠くの空き地で、喧嘩をしているのか怒鳴り声が聞こえてきた。この周りは開発途中で空き地や工事途中の土地が多いため、夜は人気がほとんどない。
そんな中で喧嘩をして、もし人が怪我でもしたら大変だ。もしもその人が気を失ったりして、この寒い時期に朝まで見つけられなかったら、最悪死んでしまうかもしれない。
それは嫌だ。たとえ他人でも、それは放っておけない。
私は怒声のする方へと小走りで足を進める。冬の吐く息が白くて、ビニール袋がカサカサと音を立てる。
喧嘩の現場が見えるところまで来ると、5人ほどの男性が一人の男性を囲っている。そして既に二人が地面に伏している。シルエットしか見えないが、この人数相手ではあの人が危ないと思った。
今の私ができるのは、これくらいしかない。すぅーっと息を吸って、肺に目いっぱい入れると私は声を張り上げた。
「お、お巡りさん!こっちです!!こっちで喧嘩が起きてます!!」
震える声で、精一杯叫ぶ。
すると男性達は仲間であろう地面に伏した人を抱え、いそいそと捨て台詞を吐いて逃げて行く。
「覚えてろよ!鬼!悪魔め!!」
「クソっ!」
囲まれていた男性は逃げていく男達を突っ立ったまま見つめていた。私はその男性が心配になり駆け寄った。
「だ、大丈夫ですか!?お怪我はありませんか!?」
その男性は流れるような動作で煙草を取り出し、マッチに火をつけ、それを先端へと持っていき火種をつけるとフゥーっと紫煙を吐いてからこちらを見た。
「あ…………」
明かりは煙草の先の淡い橙だけ。それだけでもその人が誰だか分かった。少し前に嗅いだ匂い、その人が纏う独特の雰囲気で。
「赤木、さん……?」
「………あらら、永代さん。久しぶり」
こちらを見る赤木さんは髪や顔や服、手に血がついていた。
「あ、あああ赤木さん!!血、血が!」
衝撃の光景に私は思わず声を上げ、口を鯉のようにパクパクさせて赤木さんの手をとった。
「ああ、大した怪我じゃないから大丈夫。ほとんど返り血だし」
「大丈夫じゃないですよ!ああ、頭からも血が出てるじゃないですか…!」
私は赤木さんの頭の怪我を止血しようとカバンからハンカチを取り出した。
「ごめんなさい、綺麗なものじゃありませんが。少し失礼しますね」
背伸びをして赤木さんの額の怪我をそっと抑える。
「赤木さん、応急処置をするので取り敢えずうちに来てください。少し歩きますけど大丈夫ですか?」
「いや、大した怪我じゃないからいいよ」
「ダメですっ!どうせ赤木さん怪我ほったらかしにするでしょう?ほら、行きますよ!体調悪くなったりしたら言ってくださいね」
私は赤木さんの手を取ると家のある方角へと歩き出す。お互い無言のまま、ただひたすらに歩いた。
赤木さんの事だ、博奕の後にトラブルになってしまい、あそこで喧嘩をしていたのだろう。
ふと空を見ると、月と星空が広がっていた。月のかたちは違えど、赤木さんと出会う時はいつも綺麗な月が見える。
「永代さん、手はもういいよ」
「え?……あっ、あ!ご、ごめんなさい!」
赤木さんの手をずっと握っていた事に気が付き、私はその手を離した。
「安心しなよ、大人しくついてくから」
20分ほど歩いて私の住むアパートが見えてきた。鞄から鍵を取り出し、玄関を開けて赤木さんを招き入れる。
「座って待っていてください、今用意しますから」
学習机の一番下の段に入れてある救急箱を取り出し開く。薬特有の匂いと消毒液の匂いが鼻をついた。
赤木さんの前で膝をつき、まずは頭の傷を消毒する為に綿に消毒液をつけ、ピンセットでそれを摘むと優しくポンポンと触れていく。
「少し痛みますよ」
「ん…」
赤木さんは目を瞑り、少しだけ頭を前に出してきた。傷口を消毒し終え、手の甲の擦り傷、腕にも傷があるのを見つけてそこの消毒を行った。
ふと、喧嘩の去り際に男達が言っていたことを思い出す。
──鬼!悪魔め!
「……酷い人達です、赤木さんの事を悪魔なんて……赤木さんは優しいのに」
傷口に絆創膏を貼りながらそう呟くと、赤木さんの身体が小刻みに震えていた。はっと顔をあげると、赤木さんは笑っている。
「クックックッ…ククククク…!」
どうして彼が笑っているの分からず、私はただ首を傾げた。
彼は気が済むまで笑うと、私を見た。
「君、俺が優しい人間に見える?」
「他の人から見たらどうかはわかりません。でも少なくとも、私の目には優しい人に見えます」
「へぇ、どこら辺が?」
私は少し考える。赤木さんを優しい人だと思ったところを。
「初めて会った時、得体の知れない私に声をかけてくれて、嘘をついて雀荘で私と一緒に居てくれた事、看病してくれたところもですし、……あとは、こんな私の考えを肯定してくれたところ、です」
そう答えると、赤木さんは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。
「よくもまあそんなスルスルと……」
最後の絆創膏を貼り終えると、私はそんな赤木さんを見て笑った。
「ふふっ、誰がなんと言おうと私から見たら赤木さんは優しい人です。そうだ、バイト先の店長が食事の材料をくれたんです、良かったら晩御飯うちで食べませんか?」
「いいの?」
「はい、もちろん!」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
「では待っていてください。すぐに作りますから」
台所に立つとバイト先でもらったパスタ、トマト缶を出す。今日はトマトとツナのパスタにしよう。スープは昨日作ったコンソメスープの余りがあるのと、野菜もある。冷蔵庫にあるツナ缶、野菜を取り出し料理スタートだ。
パスタを茹でるべくお鍋に火をかけ、その間に簡単なサラダを作る。
サラダを作り終わったら次はパスタソースだ。トマト缶とツナ缶をフライパンに入れて熱して、味は調味料で調整したらソースもできあがり。あとはパスタを茹でて盛りつけ、ソースをかけたら完成だ。
料理を赤木さんのいる部屋に運び、いただきますと一緒に言うと食事をした。
不思議なもので、赤木さんとまた再会し食事をするなんて思ってもいなかった。何だかそれが嬉しくて、頬が綻んでしまう。
「どうかした?」
「いえ、その、誰かと食事をするのって……良いなって思って」
「そっか……。美味いね、永代さんの作る飯」
「あ、ありがとうございます。……嬉しいです」
静かな二人の食事。赤木さんは表情をあまり変えないけれど、なんとなく雰囲気で美味しく食べているのが伝わってくる。
今日の晩御飯は簡単なもののはずなのに、何故だかいつもより美味しく感じた。
食事を終えて食器を洗っていると、赤木さんは煙草を吸いに外へ出た。食器を洗い終えた頃になると赤木さんが戻ってくる。
12月の寒空の下で一服していたからか、赤木さんは寒そうに身体を縮めて仄かな煙草の匂いを纏って戻ってきた。
「赤木さん、寒いですし窓開けてお部屋の中で吸ってもいいんですよ?」
「未成年の君の部屋で吸うわけにはいかいでしょ」
「赤木さんだって未成年じゃないですか」
「俺はいいんだ」
「ふふふっ、なんですかそれ」
食器を拭いていると、赤木さんは靴を脱いで上がってくる。
「あ、そう言えば赤木さん。学校で先生が仰っていたのですがあの辺りで今辻斬りが出ているそうですよ。物騒ですし、赤木さんも気をつけて……」
そう言いかけた時、赤木さんが私の眼前に迫ってくる。さっきよりも濃いタバコの匂いが鼻をつく。
「その辻斬りが俺だったら?永代さんはどうする?」
赤木さんの切れ長の目が細くなり、悪い笑みを浮かべて私を見つめる。
赤木さんが先生の言っていた辻斬り?
確かに先程の喧嘩の雰囲気といい、赤木さんが先生の言っていた辻斬りなのかもしれない。
しかし、私の心には恐怖心や怯えとか、そういう感情は一切無かった。
だって、私の目の前にいる人は無愛想ではあるけど悪い人ではない。私を助けてくれた恩人である事に変わりないのだから。
「どうすると言われても……どうもしません」
「へえ、どうして?」
「……赤木さんは、私に乱暴したりしないって信じてますから」
思ったことを彼に伝えると、何が面白かったのか悪い笑みは消え、赤木さんはさっきのように無邪気そうに笑う。
「ククク、君はやっぱり変わってるね」
「それはお互い様ですよ。あ、今日は泊まっていきますか?」
「いいや、もう帰るよ。明日代打ちあるし。ありがとう」
私は赤木さんを見送るために食器を置いて手を拭いた。
「じゃあ永代さん、夜は戸締りしっかりね」
「はい!赤木さんもお気をつけて。喧嘩してまた怪我しないでくださいね」
「ククク、それは保証できねえな」
「もう、心配してるんですよ」
「じゃあね、永代さん。おやすみ」
「おやすみなさい、お気をつけて」
暗闇の中に溶け込む赤木さんの背中を見送り、部屋の中でまた私は一人になる。
シャワーを浴びてパジャマに着替えると、私は机の上に参考書とテキストを広げて勉強をする。鉛筆が紙の上を滑る音だけがこの空間に響いた。
また赤木さんに会えたのは翌日の事だった。
夜の9時、今日はそろそろ眠ろうかとパジャマに着替えて明かりを消そうとしていた時の事。ピンポンとチャイムの音が響いた。こんな夜遅くに尋ねてくるなんて、大家さんだろうかと思い私は返事をする。
「はーい」
ドアノブを回し、私は客人を見て驚いた。
「あ、赤木さん!?」
「こんばんは、永代さん。夜遅くにすまないね……これ」
赤木さんはそう言って紙袋を差し出す。
「これは……?」
「昨日ハンカチ汚しちまったからその詫びと、晩飯の礼」
昨日拭ったハンカチの事など洗濯をしてすっかり忘れていた。
紙袋の中身は桜色の可愛らしいハンカチと、百貨店に売っている人気のクッキーが入っていた。
このハンカチとクッキーを赤木さんがお店に行って選んでくれたのだと思うと、とても嬉しくて、心が暖まるような、くすぐったいような気持ちになる。
「ありがとうございます、大切にします」
「じゃあ、俺はこれで。……永代さん」
赤木さんは少し考えると、じっと私を見てから言う。
「?」
「気が向いたらまた来るから。その時はまた何か飯作ってほしい」
「……はいっ!いつでも来てください、ここで待ってますから」
「じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい、お気をつけて」
玄関ドアが締められる。赤木さんから貰った紙袋の中からハンカチとクッキーを取り出して、私は嬉しくて一人で微笑んでしまう。
「さて、そろそろ寝よう」
ハンカチを棚にしまい、クッキーは明日食べよう。今日はもう寝ようと私は電気を消して布団に入った。
チラリと窓を見ると、三日月がこちらを覗いている。今日の博奕も赤木さんが勝てますように、と小さく祈る。
結論から言うと、その後赤木さんは姿を現す事なく月日は過ぎていった。