月を見ていた
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「申し訳ありません、私、このお金は受け取れません」
場が静寂に包まれる。石川も赤木も、川田組組長に面と向かって伝える美月をただただ見つめる。
そして、その静寂を破ったのは川田組組長だった。
「はははっ、謙虚なお嬢さんだ。だが遠慮する事はない、これは君への正当な報酬だ。この勝負を受け、かつあの榊に勝ったのだから」
「……」
豪快に笑う川田組組長、しかし美月はまだ思い詰めたような、申し訳ないような表情だ。
美月への報酬は70万円、現在の貨幣価値に換算すると700万円。普通の高校生には過ぎた報酬だろう。ましてやこの大金だ、逆に恐怖すら覚えてしまう。
そう、美月は勝負に勝った。しかし金が欲しかったわけではない。
それに使い道もなく、自分は金に困っている訳では無い。
「……組長さん、申し訳ありません。不躾ですがそれでもやっぱりそのお金は受け取れません。私のような高校生には過ぎた金額です。それに、その、私はお金が欲しくてここに来たわけではありません。持っていても宝の持ち腐れだと思うので」
「ほう」
「なので、そのお金は組長さん達で使ってください」
美月は再び申し訳ありませんと言うと深々と頭を下げて受け取る事を断った。
「そうか、そこまで言うのならこの金はこちらで使わせて貰おう。……本当にいいのかね?」
「はい」
凡人だ、どこまでも凡人だと赤木は思った。先程の狂気はすっかり消え去り、美月は報酬を受け取らずに帰り支度をしている。
あの榊相手に勝負に出て、打ち込んでいた美月はもういない。
赤木はそんな美月を見て一瞬だけ小さく微笑むと、バッグの中に金を詰め込み美月に近寄った。
「永代さん、本当にいいの?」
「はい、お金の怖さは重々承知していますし……」
思えばこの子の父親は借金が返済できずに自殺したのだと赤木は思い出す。
「そう……じゃあ行こうか、永代さん」
「はい。では組長さん、今日はありがとうございました。私達はそろそろお暇しますね」
「ああ。赤木、また世話になるかもしれん、その時は宜しく頼む」
「ええ」
短く赤木は返事をすると、部屋を出る。その後を追うように美月も部屋を出た。
料亭の外に出ると高級車が停まっていた。2人は車に乗ると、石川が美月の家の傍まで送っていくと言って発進した。
「……榊さん、大丈夫でしょうか」
ぽつりと美月が呟く。美月は負けた榊がどのような処遇を受けるのか、その身を案じていた。
美月もまるっきり世間知らずという訳では無い。この様な勝負の場で、しかも裏社会の勝負となるとその罰も生半可なものではないのは想像にかたくない。
──大甘だな、この人。
心配そうに俯く美月を見て、赤木は思う。しかし、榊の処遇はそこまで酷いものにはならないだろうと赤木は分かっていた。
「大丈夫だよ、美月さん。君が思ってるような事にはならないさ。あの組は代打ちとはいえカタギには酷いことしないし。まあ、榊は負債を抱えることになるけど」
「そう、ですか……良かった」
美月はほっと胸を撫で下ろした。
赤木は窓を少し開けるとタバコに火をつけると、煙草の煙をふーっと吐いて一服する。
ふと美月を見ると、ぼーっと窓の外を眺めていた。こうしていると本当にどこにでもいる普通の女の子だ。
しかし彼女の根底にあるものは狂気なのだと確信した。死を恐れないどころか気持ちいいほどに潔く、死の淵へ躊躇いなく歩を進める狂気が。
「でも、勝てて……赤木さんが無事で良かったです」
こちらを見て優しく微笑んで彼女は言う。その時、赤木は彼女の中の狂気が何なのか分かった気がした。
人間には2種類いる。榊のような狂人のフリをした人間と、その狂気を奥底にしまって過ごしている人間だ。
美月は勿論後者だが、その狂気性がありながら彼女はあの榊の身を案じていた。慈愛と狂気が両立しているのだ。
あの勝負で賭けていたもの、美月は人生を。赤木は命を賭けていた。
美月は恐らくあの勝負、最悪どうなっても良かったのだと赤木は思う。
ただ、赤木だけはトップになるようにして助けようとしていた。
その証拠があの満貫振り込みだ。
人はそれを自己犠牲と呼ぶのだろうが、赤木は美月のそれは少々自分本位なように感じた。
──この人も大概狂ってるのは理解できたが……まだ分からねえ、ぼやけてやがる。
少し疲れているのか、車の中で眠そうに目を擦る美月。自分の考えに対して無防備な彼女に、赤木は少し頬が緩むが、その笑顔は優しいものではなく、まるで新しい玩具を見つけた子供のように無邪気で、好奇心に満ち溢れていた。
「着いたぞお二人さん」
車は美月の住んでいるさくら荘の近くにある人気のない路地に到着した。
美月と赤木はそこで車から降り、石川を見送った。
「赤木さんってこの辺りに住んでるんですか?」
「いや、今は根無し草なもんでね、今日もどこか適当な宿に泊まろうと思ってる」
「この辺り宿屋ってないですよ、それに今の時間からだと満室な気が……」
「じゃあその辺の公園で寝るよ」
「えぇ!?あ、危ないですよ!そんな大金持ってるのに……。そうだ!赤木さん、良ければうちに泊まっていきませんか?」
予想外の返答に赤木の咥えていた煙草の灰が地面に落ちる。
「あー……いいの?」
少し考えてから赤木は聞いた。
「はい、お布団もう一枚ありますし、大丈夫です」
そういう問題ではないのだが…と赤木は思いながらも、彼女の根底を知りたいと思っているのも本心だ。
もしかしたら彼女は、自分と同類の人間なのかもしれないという微かな期待があった。
「じゃ、遠慮なく。……でも永代さん」
「はい?」
「人を気軽に部屋にあげるのは今後やめな。特に男」
彼女のあまりの無防備さが心配になり、念の為忠告をしておく。これでもし悪い男にあがり込まれでもしたら気の毒どころの騒ぎではない。
「分かりました。でも、赤木さんは私の命の恩人ですから部屋にあげてるんですよ。それ以外の男の人は親戚じゃないとあげませんから大丈夫です」
家までの歩みを進めながら彼女は言う。その言葉が心を擽るようで、赤木はそれを誤魔化すようにタバコを吸う。
「分かってるならいいんだけど」
そして美月の住む木造アパート、さくら荘に到着した。部屋の鍵を開けると、美月の部屋の香りが赤木の鼻腔を擽る。甘い、それでいて爽やかな香りだ。
「ただいまー」
誰もいない部屋に向かって美月は言う。習慣なのだろう。
「赤木さんは部屋で寛いでいてください。私は夕食の支度をしますね。好き嫌いとかありますか?」
「特にねえな、永代さんの好きな物作ってよ」
そう言うと美月は少し嬉しそうに笑って答える。
「分かりました!それでは唐揚げにしますね!ちょっと待っててください」
「うん、待ってるよ」
──唐揚げ、意外だな。もっとお嬢様みたいな飯が好きだと思ってた。
赤木は座布団に座って寛いでいると、純白のエプロンを身につけた美月がお茶を持ってきてくれた。
「粗茶ですがどうぞ。何も無い部屋ですみません、そこの本棚の本ならお好きに読んで大丈夫ですから」
美月が見た方に目をやると学習机の横に本棚があった。
「それではもう少し待っていてください」
「ああ」
美月は台所に戻ると料理を再開した。赤木は早速本でも読もうかと本棚を見る。
純文学、海外の小説、参考書、哲学書、経済学の論文、そして一番隅っこに1冊麻雀の本が置いてある。
赤木は美月が普段どんなものを見ているのか興味を持ち、檸檬とある背表紙のタイトルの本を手に取って読んだ。
赤木はこの檸檬という作品に少しだけ興味を持ち、ページを捲っていく。
パラ、パラ、というページを捲る音と共に台所からトントントン…という包丁の規則的な音に、鍋のグツグツと煮える音がする。
ふと本から台所に目をやると、髪を縛った美月の後ろ姿が映った。赤木は暫く料理をする美月の後ろ姿を見て、また本の続きを読み始めた。
唐揚げの揚がるぱちぱちと軽やかな音と、白米の炊けた香りが鼻を掠める。そこに味噌汁の香りもしてきて、夕食の完成が近いことを知る。
赤木は本を棚に戻すと、美月がお盆を両手で持ってやってきた。
「お待たせしました、どうぞ」
「ありがとう」
お盆に乗ってやってきたのは唐揚げと千切りキャベツ、味噌汁、白米にヒジキだ。美月も赤木の正面に座り、嬉しそうに笑っている。
「それではいただきましょうか」
「……いただきます」
「いただきます」
手を合わせ、お互いに言うと食卓に箸を伸ばしていく。
「うん、美味いよ」
「あ、ありがとうございます。良かった……」
安堵した表情から、美月は嬉しそうに微笑む。
「おかわりありますから、遠慮なく言ってくださいね」
「ありがとう」
それから二人は静かに食事をした。お互い、食事中にはあまり話さないタイプだったようで、黙々と食事をする。
食事を終えると美月は食器を下げて洗い物を始めるべく立ち上がった。
何か手伝うかと赤木は声をかける。
「永代さん、何か手伝おうか?」
「そんな、大丈夫ですよ。赤木さんはお客様なんですからゆっくりしていてください。もうすぐお風呂も入れますから」
至れり尽くせり、と言った感じで赤木は何もする事がなく座布団に座る。煙草を吸おうかと1本出すが、ここは美月の部屋だ。未成年かつ真面目な彼女が煙草など吸うはずがないので灰皿はない。
外で一服しようと立ち上がり、洗い物をしている美月にまた声をかける。
「永代さん、煙草吸ってくる」
「はい、いってらっしゃい」
洗い物をしながら甲斐甲斐しく答える美月。赤木は玄関ドアを開けて外へ出た。少し寒くなってきた秋空の下、月明かりに照らされた紫煙が空へと登っていく。
ボーッとしながら煙草を吸っていると、玄関ドアが開く音がした。
「赤木さん、お風呂が沸きましたよ。良ければお先にどうぞ」
「いや、俺はもう少し吸ってたいんでね……永代さん先入っちゃってよ」
流石に男の自分が入った後の風呂に年頃の女の子を入れる訳にはいかないと思い、赤木は気を利かせ、かつ上手い言い訳もした。
「分かりました、ではお言葉に甘えさせていただきます」
ペコっと会釈をして美月は玄関ドアを閉める。暫くするとシャワーの音が微かに聞こえてきた。それに合わせて美月の鼻歌が聞こえてくる。なんの曲かは分からないが、可愛らしい間の抜けた鼻歌に喉の奥で小さく笑う。
そしてシャワーの音が止まり、また暫くしてドライヤーの音が聞こえてきた。そろそろ戻ろうと赤木は部屋の中へ入った。
部屋の鍵をかけ、座布団に座って先程の小説の続きを読んでいると美月が風呂から出てきた。
「赤木さん、お待たせしました。お風呂どうぞ」
「ありがとう、じゃあ行ってくる」
一人残された美月は卓袱台を部屋の隅へ移動させる為に机の上に置かれた檸檬を手に取ると、美月は本を一旦学習机の上に置く。卓袱台を部屋の隅に置くと押し入れから布団を引っ張り出して自分の布団の隣に敷いた。
そして箪笥から男物のスウェットとシャツを出すと、赤木が風呂に入っている間に脱衣所の籠の中の入れた。
その頃、赤木は風呂を済ませると脱衣所の籠の中に男物のスウエットとシャツが置かれているのに気がついた。これを着ろという事は理解したが、何故一人暮らしの美月が男物の服を持っているのかと疑問に思うと共に、赤木はまさか……と思ったがあまりその可能性については考えないようにした。
──亡くなった親父さんの服……か、これ?
「あ、おかえりなさい」
「お風呂ありがとう」
時刻は22時を少し過ぎたくらいだ。美月の隣に敷かれた布団に赤木は座る。美月は元々布団の上に座っていた。
「そうだ、寝る前に永代さん、聞きたいことがあるんだけど良い?」
「はい、何でしょうか?」
日常に戻ってきた美月はいつも通りの笑みを浮かべ、快諾する。
少し悪いな、と思いながらも赤木はその好奇心を止められず──彼女を言葉で暴くのだ。
「君、死ぬのが怖くないでしょ?」
ストレートな赤木の問い掛けに、美月の笑顔がピシャリと強ばった。
「なっ、え……?」
「初めて会ったあの夜から薄々感じてたんだ。君は死ぬのが怖くない人間なんだって。だから死線を往くのを躊躇わないし、危機的状況でも進み続けられる。最悪死んでも良いと思ってるから……それが君の本質だ、違う?」
薄く笑いながら赤木は投げかける。
「ど、どうしてそう思うんですか……?どうして…そんな……」
美月震える声で尋ねる。心臓の鼓動が嫌に早くなり、無意識に胸の辺りを両手で抑えた。
「榊に殺されるかもって俺が言ったとき、普通の人ならそこで怯えたり恐怖するものだけど──君は怯えも恐怖もなかった。あの場の空気やヤーさんたちには怯えていたけど、死に対しては一度も怯えていなかった」
「……」
「それから榊との麻雀をしている時にも感じた。俺に満貫を振り込んで、次局へ賭けた時──君はあの時、倍満の手になって逆転はしたが、手牌が良くなければそこで終わってもいいと思ってたんじゃないか。そうじゃなきゃあんな風に人は潔く突き進めない」
赤木は真っ直ぐに美月を見た。
「それで突き進めるのは──死にたがりの人間だけだ」
美月は少し黙り込むと、言葉を紡いだ。
「凄いですね、赤木さん……榊さんの時もそうでしたけど、人の本質を見抜くその目……ちょっと怖いです」
そして美月は観念したように答える。赤木の視線に射抜かれそうで、美月は目を伏せる。
「赤木さんの言う通り……私、死ぬのは怖くないんです。……昔からそうなんです」
「昔から?」
美月は頷く。
「気持ち悪いって思うかもしれませんが……私、幼い頃から死んだら人はどうなるんだろうって事に興味があったんです。ただ、それを他人や他のものでやっても意味がないんです。自分で死地に行かないと……今は無いんですが昔はそれは酷くて……自殺未遂な事ばかりしてました」
ぽつぽつと話す美月を、赤木はただ静かに、黙って聞いていた。
「ただ、母が病で伏してからはそういう自殺行為はやめようって決めました。母の死を看取って、決めたんです。私は死ぬとしても、無念や後悔を残さないように生きてから死のうと思いました。でも、父が死んで……一人になって……」
美月はふと、窓の方を見てから言葉を紡いだ。窓からは半分欠けた月が見える。
「胸の奥にしまっていた死への興味が一気に出てきたんです」
父が死んだ時の事を思い出させてしまった上に彼女を無理矢理暴くような事をしているのを赤木は自覚していた。
しかし、彼女の狂気の核心に赤木は触れたかった。触れて、確かめたかったのだ。自分の同類を──求めていた。
「……でも、やっぱりそれでも生きないとって気持ちもあるんです。凄く矛盾してますよね……いつ死んでもいいのに、無念なく生きたいなんて」
赤木は、美月の事を自分と同類の人間かもしれないと思っていたが──どうやら少し違った。
彼女は狂気と正気の境界線をおっかなびっくり歩く半端者だ。
人間とは普通どちらかに傾くものだ。大抵の人間は正気の方に傾く。考えを改めて、普通を、平凡を、安定を選択するものだ。
しかし美月は違う。
正気を選択したのに狂気を手放せないでいる。それは彼女自身の本質が、根っこの部分が狂気だからだ。
そんな彼女が酷く歪だ。歪だが、悪くないと赤木は思った。
「いいんじゃない、それでも」
「……えっ?」
「生きたいと思う意思も、死への興味を持つ気持ちも抱えて何が悪い。確かに普通ならおかしいと思うかもしれないが……生憎ここにいるのはおかしい方が好きな俺だけだからね。俺は君のその生き方、いいと思うよ。榊の身を心配する大甘な君らしくてね」
ふっと赤木は笑ってを美月見た。
「……」
美月は暫く赤木を見つめ、呆然としながら答える。
「そ、そんな風に私の考えを肯定してくれる人……初めてです」
「だろうね。そうさな……俺は自分の生き死に興味がない。ただ博打で人が死んだり不幸になったりする、俺はそっちの方が望ましい。死にたがりって言われる点では君と同じかもね」
「そう、ですね……うーん、でもやっぱり私と赤木さんはちょっと違うような……それに、どうであれ他の人が死んだり、不幸になったりするのは私は嫌です……」
「……心底大甘だね、君って」
そう赤木が言うと、お互いに小さく笑った。
「あの、赤木さん。おかしいかもしれませんが……ありがとうございます、こんな私を肯定してくれて」
「……ククク、ホント、おかしいな」
「ふふふっ、そうですね。そろそろ寝ましょうか、電気消しますね」
美月が電気を消す。部屋は真っ暗になり、窓からの月明かりだけが部屋を照らした。
「今日は付き合ってくれてありがとう、永代さん」
「どういたしまして、私もお役に立てて良かったです。それじゃあおやすみなさい」
「おやすみ」
次の日、美月は少し早く起きると静かに上体を起こして隣で眠る白髪の青年に目を向けた。
美月の命の恩人である赤木しげるがそこで眠っている。自分よりもひとつ上の彼の寝顔は、昨日の麻雀をしている時のようなギラついた表情とは程遠い。年相応の安らかな表情をしていた。
──昨日の表情が嘘みたい。
「赤木さん、おはようございます」
「……ん、永代さん……今何時?」
掠れた声で赤木は尋ねてくる。
「7時ですよ」
「……」
赤木、無言で上体を起こす。
お互い寝癖でボサボサになった頭、赤木はまだ眠いのか目は半開きでボーッとしている。
「朝ごはんにしましょうか」
「………うん、洗面所貸して」
「どうぞ」
素直に赤木は頷いて起き上がり、ふらふらとしながらも洗面所へと向かった。その間に美月は布団を畳むとちゃぶ台を出し、目玉焼きを作って昨日の残りの白米と味噌汁を温める。それから作り置きしておいた漬物を小皿にのせて朝食のできあがりだ。
丁度赤木も顔を洗い終えて出てきた。
「赤木さん、朝食できてますよ」
「ありがとう。いただきます」
「いただきます」
朝食を二人で囲み、昨日の夜のように静かに食べる。朝食を食べ終えると赤木は着替えを。美月は台所で洗い物をする。
手をタオルで拭いて部屋へ戻ると、赤木は窓からの景色を眺めていた。
窓からはアパートの庭が見えて、そこには桜の木が2本植えてあり、その葉は赤や黄色に色付いている。
風に揺られ、葉が落ちて、地面を僅かに赤や黄色に染め上げていた。
そろそろ行くか、と赤木はバッグを持って座布団から立ち上がる。
「世話になったね、永代さん。はいこれ」
美月に差し出されたのは10万円、現在の貨幣価値に換算すると100万円だった。
「あ、赤木さん……?これは?」
「宿代、それからヤクザのゴタゴタに巻き込んじまった迷惑料みたいなもんさ、これくらい払わせてよ」
まさか榊が美月を巻き込んでくるとは赤木は思ってもいなかった。しかも本当に惚れ込んでいるときたもんだ。虚しくも美月にフられていたが。
「い、いけませんっ!そんな大金!それに泊まらないか提案したのは私の方ですし、私が好きでやったんですから、それは受け取れません」
そう来ると赤木は思っていた。しかし女子高校生の一人暮らしの部屋に泊まり何の礼も無しとは人間としてどうかと思うものだ。
「そうだな。じゃあ永代さん、賭けをしよう」
「賭け?」
「君がこの賭けに勝ったら宿代は受け取らなくていい。でも負けたら宿代を受け取って貰おうか」
赤木も引くつもりはない。それを察した美月はその勝負を受ける事にした。
「わ、分かりました。でも賭けって何をするんですか?」
すると、赤木はズボンのポケットから小銭を一枚出す。
「コイントスでどう?宣言は永代さんからでいいよ」
「はい、ではお願いします」
赤木が親指でコインをピンッと宙へ弾く。コインが軌道を描いて上へ向かうその時、美月は答えた。
「表!」
そしてコインは赤木の手の甲へ落ちてきた。そのコインを掌で上から抑えると、ゆっくりと退けた。
「残念、裏だ」
「うぅ……」
どうやら今回、運は赤木に味方をしたようだ。美月は悔しそうに肩を落としている。
「君は賭けに負けたんだ、大人しく受け取りな」
「は、はい……うぅ……」
まだ悔しそうに、そして釈然としない面持ちで美月は受け取った。
「じゃ、そろそろ行くよ」
赤木は金を美月に渡すと玄関に向かい、靴を履く。その後ろを美月がついてくる気配を感じていた。
振り返ると美月が見送りをしてくれている。
「世話になったね、それじゃ」
短い挨拶を済ませると赤木は玄関のドアノブに手をかける。
「あの……!いってらっしゃい、赤木さん」
赤木は玄関ドアを少し開けると、また振り返った。赤木は別れの挨拶を送られるものだと思っていたからだ。
しかし、彼女から出た言葉は見送りの言葉だった。優しく純粋な言葉だった。
いってらっしゃいなんて何時ぶりに言われただろうか。
「ああ、いってくる」
柄ではないが赤木もそう答える。
ふわりと優しく微笑む彼女を最後に、玄関ドアを閉める。
少し冷たい秋風がそよそよと吹いていた。
数日後、代打ちの為に赤木は車に乗り信号待ちをしていた。時間は夕方の4時頃で、横断歩道をセーラー服の少女達が歩いている。先程通り過ぎた学校の学生だろうと思い、赤木はその光景をボーッと見ていた。
ふとあの夜出会った永代 美月という少女を思い出す。出会った時も彼女はセーラー服を着ていたな、と赤木は思った。
そして、彼女の狂気を思い出す。狂気の面を剥き出しにした彼女の打ち筋は、榊の偽りの狂気を飲み込んだ。
──あの人と本気の勝負しておけばよかったな。またいつか会いに行こうかな。
ボーッと見ていると、横断歩道を渡るセーラー服の群衆の中に、見慣れた少女を見つける。
黒い髪に、あの夜身に着けていたセーラー服を纏った少女が友人と思われる少女達と談笑しながらかしましく歩いている。
その光景を見て、赤木は小さく微笑み考えを改めた。
──……やっぱり駄目だ、あの人大甘だし。それに、あの人には暗闇 よりも日向の方が似合う。
もう永代美月という少女とは二度と会わないだろうと赤木はこの時思っていた。
しかし運命とは数奇なもので、二人が再会するのはまた少し先の話……。
場が静寂に包まれる。石川も赤木も、川田組組長に面と向かって伝える美月をただただ見つめる。
そして、その静寂を破ったのは川田組組長だった。
「はははっ、謙虚なお嬢さんだ。だが遠慮する事はない、これは君への正当な報酬だ。この勝負を受け、かつあの榊に勝ったのだから」
「……」
豪快に笑う川田組組長、しかし美月はまだ思い詰めたような、申し訳ないような表情だ。
美月への報酬は70万円、現在の貨幣価値に換算すると700万円。普通の高校生には過ぎた報酬だろう。ましてやこの大金だ、逆に恐怖すら覚えてしまう。
そう、美月は勝負に勝った。しかし金が欲しかったわけではない。
それに使い道もなく、自分は金に困っている訳では無い。
「……組長さん、申し訳ありません。不躾ですがそれでもやっぱりそのお金は受け取れません。私のような高校生には過ぎた金額です。それに、その、私はお金が欲しくてここに来たわけではありません。持っていても宝の持ち腐れだと思うので」
「ほう」
「なので、そのお金は組長さん達で使ってください」
美月は再び申し訳ありませんと言うと深々と頭を下げて受け取る事を断った。
「そうか、そこまで言うのならこの金はこちらで使わせて貰おう。……本当にいいのかね?」
「はい」
凡人だ、どこまでも凡人だと赤木は思った。先程の狂気はすっかり消え去り、美月は報酬を受け取らずに帰り支度をしている。
あの榊相手に勝負に出て、打ち込んでいた美月はもういない。
赤木はそんな美月を見て一瞬だけ小さく微笑むと、バッグの中に金を詰め込み美月に近寄った。
「永代さん、本当にいいの?」
「はい、お金の怖さは重々承知していますし……」
思えばこの子の父親は借金が返済できずに自殺したのだと赤木は思い出す。
「そう……じゃあ行こうか、永代さん」
「はい。では組長さん、今日はありがとうございました。私達はそろそろお暇しますね」
「ああ。赤木、また世話になるかもしれん、その時は宜しく頼む」
「ええ」
短く赤木は返事をすると、部屋を出る。その後を追うように美月も部屋を出た。
料亭の外に出ると高級車が停まっていた。2人は車に乗ると、石川が美月の家の傍まで送っていくと言って発進した。
「……榊さん、大丈夫でしょうか」
ぽつりと美月が呟く。美月は負けた榊がどのような処遇を受けるのか、その身を案じていた。
美月もまるっきり世間知らずという訳では無い。この様な勝負の場で、しかも裏社会の勝負となるとその罰も生半可なものではないのは想像にかたくない。
──大甘だな、この人。
心配そうに俯く美月を見て、赤木は思う。しかし、榊の処遇はそこまで酷いものにはならないだろうと赤木は分かっていた。
「大丈夫だよ、美月さん。君が思ってるような事にはならないさ。あの組は代打ちとはいえカタギには酷いことしないし。まあ、榊は負債を抱えることになるけど」
「そう、ですか……良かった」
美月はほっと胸を撫で下ろした。
赤木は窓を少し開けるとタバコに火をつけると、煙草の煙をふーっと吐いて一服する。
ふと美月を見ると、ぼーっと窓の外を眺めていた。こうしていると本当にどこにでもいる普通の女の子だ。
しかし彼女の根底にあるものは狂気なのだと確信した。死を恐れないどころか気持ちいいほどに潔く、死の淵へ躊躇いなく歩を進める狂気が。
「でも、勝てて……赤木さんが無事で良かったです」
こちらを見て優しく微笑んで彼女は言う。その時、赤木は彼女の中の狂気が何なのか分かった気がした。
人間には2種類いる。榊のような狂人のフリをした人間と、その狂気を奥底にしまって過ごしている人間だ。
美月は勿論後者だが、その狂気性がありながら彼女はあの榊の身を案じていた。慈愛と狂気が両立しているのだ。
あの勝負で賭けていたもの、美月は人生を。赤木は命を賭けていた。
美月は恐らくあの勝負、最悪どうなっても良かったのだと赤木は思う。
ただ、赤木だけはトップになるようにして助けようとしていた。
その証拠があの満貫振り込みだ。
人はそれを自己犠牲と呼ぶのだろうが、赤木は美月のそれは少々自分本位なように感じた。
──この人も大概狂ってるのは理解できたが……まだ分からねえ、ぼやけてやがる。
少し疲れているのか、車の中で眠そうに目を擦る美月。自分の考えに対して無防備な彼女に、赤木は少し頬が緩むが、その笑顔は優しいものではなく、まるで新しい玩具を見つけた子供のように無邪気で、好奇心に満ち溢れていた。
「着いたぞお二人さん」
車は美月の住んでいるさくら荘の近くにある人気のない路地に到着した。
美月と赤木はそこで車から降り、石川を見送った。
「赤木さんってこの辺りに住んでるんですか?」
「いや、今は根無し草なもんでね、今日もどこか適当な宿に泊まろうと思ってる」
「この辺り宿屋ってないですよ、それに今の時間からだと満室な気が……」
「じゃあその辺の公園で寝るよ」
「えぇ!?あ、危ないですよ!そんな大金持ってるのに……。そうだ!赤木さん、良ければうちに泊まっていきませんか?」
予想外の返答に赤木の咥えていた煙草の灰が地面に落ちる。
「あー……いいの?」
少し考えてから赤木は聞いた。
「はい、お布団もう一枚ありますし、大丈夫です」
そういう問題ではないのだが…と赤木は思いながらも、彼女の根底を知りたいと思っているのも本心だ。
もしかしたら彼女は、自分と同類の人間なのかもしれないという微かな期待があった。
「じゃ、遠慮なく。……でも永代さん」
「はい?」
「人を気軽に部屋にあげるのは今後やめな。特に男」
彼女のあまりの無防備さが心配になり、念の為忠告をしておく。これでもし悪い男にあがり込まれでもしたら気の毒どころの騒ぎではない。
「分かりました。でも、赤木さんは私の命の恩人ですから部屋にあげてるんですよ。それ以外の男の人は親戚じゃないとあげませんから大丈夫です」
家までの歩みを進めながら彼女は言う。その言葉が心を擽るようで、赤木はそれを誤魔化すようにタバコを吸う。
「分かってるならいいんだけど」
そして美月の住む木造アパート、さくら荘に到着した。部屋の鍵を開けると、美月の部屋の香りが赤木の鼻腔を擽る。甘い、それでいて爽やかな香りだ。
「ただいまー」
誰もいない部屋に向かって美月は言う。習慣なのだろう。
「赤木さんは部屋で寛いでいてください。私は夕食の支度をしますね。好き嫌いとかありますか?」
「特にねえな、永代さんの好きな物作ってよ」
そう言うと美月は少し嬉しそうに笑って答える。
「分かりました!それでは唐揚げにしますね!ちょっと待っててください」
「うん、待ってるよ」
──唐揚げ、意外だな。もっとお嬢様みたいな飯が好きだと思ってた。
赤木は座布団に座って寛いでいると、純白のエプロンを身につけた美月がお茶を持ってきてくれた。
「粗茶ですがどうぞ。何も無い部屋ですみません、そこの本棚の本ならお好きに読んで大丈夫ですから」
美月が見た方に目をやると学習机の横に本棚があった。
「それではもう少し待っていてください」
「ああ」
美月は台所に戻ると料理を再開した。赤木は早速本でも読もうかと本棚を見る。
純文学、海外の小説、参考書、哲学書、経済学の論文、そして一番隅っこに1冊麻雀の本が置いてある。
赤木は美月が普段どんなものを見ているのか興味を持ち、檸檬とある背表紙のタイトルの本を手に取って読んだ。
赤木はこの檸檬という作品に少しだけ興味を持ち、ページを捲っていく。
パラ、パラ、というページを捲る音と共に台所からトントントン…という包丁の規則的な音に、鍋のグツグツと煮える音がする。
ふと本から台所に目をやると、髪を縛った美月の後ろ姿が映った。赤木は暫く料理をする美月の後ろ姿を見て、また本の続きを読み始めた。
唐揚げの揚がるぱちぱちと軽やかな音と、白米の炊けた香りが鼻を掠める。そこに味噌汁の香りもしてきて、夕食の完成が近いことを知る。
赤木は本を棚に戻すと、美月がお盆を両手で持ってやってきた。
「お待たせしました、どうぞ」
「ありがとう」
お盆に乗ってやってきたのは唐揚げと千切りキャベツ、味噌汁、白米にヒジキだ。美月も赤木の正面に座り、嬉しそうに笑っている。
「それではいただきましょうか」
「……いただきます」
「いただきます」
手を合わせ、お互いに言うと食卓に箸を伸ばしていく。
「うん、美味いよ」
「あ、ありがとうございます。良かった……」
安堵した表情から、美月は嬉しそうに微笑む。
「おかわりありますから、遠慮なく言ってくださいね」
「ありがとう」
それから二人は静かに食事をした。お互い、食事中にはあまり話さないタイプだったようで、黙々と食事をする。
食事を終えると美月は食器を下げて洗い物を始めるべく立ち上がった。
何か手伝うかと赤木は声をかける。
「永代さん、何か手伝おうか?」
「そんな、大丈夫ですよ。赤木さんはお客様なんですからゆっくりしていてください。もうすぐお風呂も入れますから」
至れり尽くせり、と言った感じで赤木は何もする事がなく座布団に座る。煙草を吸おうかと1本出すが、ここは美月の部屋だ。未成年かつ真面目な彼女が煙草など吸うはずがないので灰皿はない。
外で一服しようと立ち上がり、洗い物をしている美月にまた声をかける。
「永代さん、煙草吸ってくる」
「はい、いってらっしゃい」
洗い物をしながら甲斐甲斐しく答える美月。赤木は玄関ドアを開けて外へ出た。少し寒くなってきた秋空の下、月明かりに照らされた紫煙が空へと登っていく。
ボーッとしながら煙草を吸っていると、玄関ドアが開く音がした。
「赤木さん、お風呂が沸きましたよ。良ければお先にどうぞ」
「いや、俺はもう少し吸ってたいんでね……永代さん先入っちゃってよ」
流石に男の自分が入った後の風呂に年頃の女の子を入れる訳にはいかないと思い、赤木は気を利かせ、かつ上手い言い訳もした。
「分かりました、ではお言葉に甘えさせていただきます」
ペコっと会釈をして美月は玄関ドアを閉める。暫くするとシャワーの音が微かに聞こえてきた。それに合わせて美月の鼻歌が聞こえてくる。なんの曲かは分からないが、可愛らしい間の抜けた鼻歌に喉の奥で小さく笑う。
そしてシャワーの音が止まり、また暫くしてドライヤーの音が聞こえてきた。そろそろ戻ろうと赤木は部屋の中へ入った。
部屋の鍵をかけ、座布団に座って先程の小説の続きを読んでいると美月が風呂から出てきた。
「赤木さん、お待たせしました。お風呂どうぞ」
「ありがとう、じゃあ行ってくる」
一人残された美月は卓袱台を部屋の隅へ移動させる為に机の上に置かれた檸檬を手に取ると、美月は本を一旦学習机の上に置く。卓袱台を部屋の隅に置くと押し入れから布団を引っ張り出して自分の布団の隣に敷いた。
そして箪笥から男物のスウェットとシャツを出すと、赤木が風呂に入っている間に脱衣所の籠の中の入れた。
その頃、赤木は風呂を済ませると脱衣所の籠の中に男物のスウエットとシャツが置かれているのに気がついた。これを着ろという事は理解したが、何故一人暮らしの美月が男物の服を持っているのかと疑問に思うと共に、赤木はまさか……と思ったがあまりその可能性については考えないようにした。
──亡くなった親父さんの服……か、これ?
「あ、おかえりなさい」
「お風呂ありがとう」
時刻は22時を少し過ぎたくらいだ。美月の隣に敷かれた布団に赤木は座る。美月は元々布団の上に座っていた。
「そうだ、寝る前に永代さん、聞きたいことがあるんだけど良い?」
「はい、何でしょうか?」
日常に戻ってきた美月はいつも通りの笑みを浮かべ、快諾する。
少し悪いな、と思いながらも赤木はその好奇心を止められず──彼女を言葉で暴くのだ。
「君、死ぬのが怖くないでしょ?」
ストレートな赤木の問い掛けに、美月の笑顔がピシャリと強ばった。
「なっ、え……?」
「初めて会ったあの夜から薄々感じてたんだ。君は死ぬのが怖くない人間なんだって。だから死線を往くのを躊躇わないし、危機的状況でも進み続けられる。最悪死んでも良いと思ってるから……それが君の本質だ、違う?」
薄く笑いながら赤木は投げかける。
「ど、どうしてそう思うんですか……?どうして…そんな……」
美月震える声で尋ねる。心臓の鼓動が嫌に早くなり、無意識に胸の辺りを両手で抑えた。
「榊に殺されるかもって俺が言ったとき、普通の人ならそこで怯えたり恐怖するものだけど──君は怯えも恐怖もなかった。あの場の空気やヤーさんたちには怯えていたけど、死に対しては一度も怯えていなかった」
「……」
「それから榊との麻雀をしている時にも感じた。俺に満貫を振り込んで、次局へ賭けた時──君はあの時、倍満の手になって逆転はしたが、手牌が良くなければそこで終わってもいいと思ってたんじゃないか。そうじゃなきゃあんな風に人は潔く突き進めない」
赤木は真っ直ぐに美月を見た。
「それで突き進めるのは──死にたがりの人間だけだ」
美月は少し黙り込むと、言葉を紡いだ。
「凄いですね、赤木さん……榊さんの時もそうでしたけど、人の本質を見抜くその目……ちょっと怖いです」
そして美月は観念したように答える。赤木の視線に射抜かれそうで、美月は目を伏せる。
「赤木さんの言う通り……私、死ぬのは怖くないんです。……昔からそうなんです」
「昔から?」
美月は頷く。
「気持ち悪いって思うかもしれませんが……私、幼い頃から死んだら人はどうなるんだろうって事に興味があったんです。ただ、それを他人や他のものでやっても意味がないんです。自分で死地に行かないと……今は無いんですが昔はそれは酷くて……自殺未遂な事ばかりしてました」
ぽつぽつと話す美月を、赤木はただ静かに、黙って聞いていた。
「ただ、母が病で伏してからはそういう自殺行為はやめようって決めました。母の死を看取って、決めたんです。私は死ぬとしても、無念や後悔を残さないように生きてから死のうと思いました。でも、父が死んで……一人になって……」
美月はふと、窓の方を見てから言葉を紡いだ。窓からは半分欠けた月が見える。
「胸の奥にしまっていた死への興味が一気に出てきたんです」
父が死んだ時の事を思い出させてしまった上に彼女を無理矢理暴くような事をしているのを赤木は自覚していた。
しかし、彼女の狂気の核心に赤木は触れたかった。触れて、確かめたかったのだ。自分の同類を──求めていた。
「……でも、やっぱりそれでも生きないとって気持ちもあるんです。凄く矛盾してますよね……いつ死んでもいいのに、無念なく生きたいなんて」
赤木は、美月の事を自分と同類の人間かもしれないと思っていたが──どうやら少し違った。
彼女は狂気と正気の境界線をおっかなびっくり歩く半端者だ。
人間とは普通どちらかに傾くものだ。大抵の人間は正気の方に傾く。考えを改めて、普通を、平凡を、安定を選択するものだ。
しかし美月は違う。
正気を選択したのに狂気を手放せないでいる。それは彼女自身の本質が、根っこの部分が狂気だからだ。
そんな彼女が酷く歪だ。歪だが、悪くないと赤木は思った。
「いいんじゃない、それでも」
「……えっ?」
「生きたいと思う意思も、死への興味を持つ気持ちも抱えて何が悪い。確かに普通ならおかしいと思うかもしれないが……生憎ここにいるのはおかしい方が好きな俺だけだからね。俺は君のその生き方、いいと思うよ。榊の身を心配する大甘な君らしくてね」
ふっと赤木は笑ってを美月見た。
「……」
美月は暫く赤木を見つめ、呆然としながら答える。
「そ、そんな風に私の考えを肯定してくれる人……初めてです」
「だろうね。そうさな……俺は自分の生き死に興味がない。ただ博打で人が死んだり不幸になったりする、俺はそっちの方が望ましい。死にたがりって言われる点では君と同じかもね」
「そう、ですね……うーん、でもやっぱり私と赤木さんはちょっと違うような……それに、どうであれ他の人が死んだり、不幸になったりするのは私は嫌です……」
「……心底大甘だね、君って」
そう赤木が言うと、お互いに小さく笑った。
「あの、赤木さん。おかしいかもしれませんが……ありがとうございます、こんな私を肯定してくれて」
「……ククク、ホント、おかしいな」
「ふふふっ、そうですね。そろそろ寝ましょうか、電気消しますね」
美月が電気を消す。部屋は真っ暗になり、窓からの月明かりだけが部屋を照らした。
「今日は付き合ってくれてありがとう、永代さん」
「どういたしまして、私もお役に立てて良かったです。それじゃあおやすみなさい」
「おやすみ」
次の日、美月は少し早く起きると静かに上体を起こして隣で眠る白髪の青年に目を向けた。
美月の命の恩人である赤木しげるがそこで眠っている。自分よりもひとつ上の彼の寝顔は、昨日の麻雀をしている時のようなギラついた表情とは程遠い。年相応の安らかな表情をしていた。
──昨日の表情が嘘みたい。
「赤木さん、おはようございます」
「……ん、永代さん……今何時?」
掠れた声で赤木は尋ねてくる。
「7時ですよ」
「……」
赤木、無言で上体を起こす。
お互い寝癖でボサボサになった頭、赤木はまだ眠いのか目は半開きでボーッとしている。
「朝ごはんにしましょうか」
「………うん、洗面所貸して」
「どうぞ」
素直に赤木は頷いて起き上がり、ふらふらとしながらも洗面所へと向かった。その間に美月は布団を畳むとちゃぶ台を出し、目玉焼きを作って昨日の残りの白米と味噌汁を温める。それから作り置きしておいた漬物を小皿にのせて朝食のできあがりだ。
丁度赤木も顔を洗い終えて出てきた。
「赤木さん、朝食できてますよ」
「ありがとう。いただきます」
「いただきます」
朝食を二人で囲み、昨日の夜のように静かに食べる。朝食を食べ終えると赤木は着替えを。美月は台所で洗い物をする。
手をタオルで拭いて部屋へ戻ると、赤木は窓からの景色を眺めていた。
窓からはアパートの庭が見えて、そこには桜の木が2本植えてあり、その葉は赤や黄色に色付いている。
風に揺られ、葉が落ちて、地面を僅かに赤や黄色に染め上げていた。
そろそろ行くか、と赤木はバッグを持って座布団から立ち上がる。
「世話になったね、永代さん。はいこれ」
美月に差し出されたのは10万円、現在の貨幣価値に換算すると100万円だった。
「あ、赤木さん……?これは?」
「宿代、それからヤクザのゴタゴタに巻き込んじまった迷惑料みたいなもんさ、これくらい払わせてよ」
まさか榊が美月を巻き込んでくるとは赤木は思ってもいなかった。しかも本当に惚れ込んでいるときたもんだ。虚しくも美月にフられていたが。
「い、いけませんっ!そんな大金!それに泊まらないか提案したのは私の方ですし、私が好きでやったんですから、それは受け取れません」
そう来ると赤木は思っていた。しかし女子高校生の一人暮らしの部屋に泊まり何の礼も無しとは人間としてどうかと思うものだ。
「そうだな。じゃあ永代さん、賭けをしよう」
「賭け?」
「君がこの賭けに勝ったら宿代は受け取らなくていい。でも負けたら宿代を受け取って貰おうか」
赤木も引くつもりはない。それを察した美月はその勝負を受ける事にした。
「わ、分かりました。でも賭けって何をするんですか?」
すると、赤木はズボンのポケットから小銭を一枚出す。
「コイントスでどう?宣言は永代さんからでいいよ」
「はい、ではお願いします」
赤木が親指でコインをピンッと宙へ弾く。コインが軌道を描いて上へ向かうその時、美月は答えた。
「表!」
そしてコインは赤木の手の甲へ落ちてきた。そのコインを掌で上から抑えると、ゆっくりと退けた。
「残念、裏だ」
「うぅ……」
どうやら今回、運は赤木に味方をしたようだ。美月は悔しそうに肩を落としている。
「君は賭けに負けたんだ、大人しく受け取りな」
「は、はい……うぅ……」
まだ悔しそうに、そして釈然としない面持ちで美月は受け取った。
「じゃ、そろそろ行くよ」
赤木は金を美月に渡すと玄関に向かい、靴を履く。その後ろを美月がついてくる気配を感じていた。
振り返ると美月が見送りをしてくれている。
「世話になったね、それじゃ」
短い挨拶を済ませると赤木は玄関のドアノブに手をかける。
「あの……!いってらっしゃい、赤木さん」
赤木は玄関ドアを少し開けると、また振り返った。赤木は別れの挨拶を送られるものだと思っていたからだ。
しかし、彼女から出た言葉は見送りの言葉だった。優しく純粋な言葉だった。
いってらっしゃいなんて何時ぶりに言われただろうか。
「ああ、いってくる」
柄ではないが赤木もそう答える。
ふわりと優しく微笑む彼女を最後に、玄関ドアを閉める。
少し冷たい秋風がそよそよと吹いていた。
数日後、代打ちの為に赤木は車に乗り信号待ちをしていた。時間は夕方の4時頃で、横断歩道をセーラー服の少女達が歩いている。先程通り過ぎた学校の学生だろうと思い、赤木はその光景をボーッと見ていた。
ふとあの夜出会った永代 美月という少女を思い出す。出会った時も彼女はセーラー服を着ていたな、と赤木は思った。
そして、彼女の狂気を思い出す。狂気の面を剥き出しにした彼女の打ち筋は、榊の偽りの狂気を飲み込んだ。
──あの人と本気の勝負しておけばよかったな。またいつか会いに行こうかな。
ボーッと見ていると、横断歩道を渡るセーラー服の群衆の中に、見慣れた少女を見つける。
黒い髪に、あの夜身に着けていたセーラー服を纏った少女が友人と思われる少女達と談笑しながらかしましく歩いている。
その光景を見て、赤木は小さく微笑み考えを改めた。
──……やっぱり駄目だ、あの人大甘だし。それに、あの人には
もう永代美月という少女とは二度と会わないだろうと赤木はこの時思っていた。
しかし運命とは数奇なもので、二人が再会するのはまた少し先の話……。