月を見ていた
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昭和 三十九年 秋頃
その日は夜が静かで、月が綺麗な夜だった。
白髪の青年はふぅーと紫煙を吹かしながら歩いていると、とある雀荘の前を通る。
分厚いカーテンで窓を覆われた雀荘 アオヤマはこの界隈ではあまりいい噂を聴かない。
いつか気が向いたら入ってみようか、と白髪の青年がじっと雀荘の窓を見つめながら歩みを進めていくと、どこからかすすり泣く女の声が聞こえた。
泣いている声はこのすぐ近くだ。青年はここかと路地裏を覗き込む。
雀荘アオヤマにある路地裏で、セーラー服を着た少女が膝を抱えて泣いている。
「……」
──女の子……?
周囲に人はおらず、見かけてしまった手前、面倒だが声をかけようと路地裏へ歩を進めると、それに気がついた少女はひっ!と小さな声をあげて青年を見つめる。
「あらら、ごめん。脅かすつもりはなかったんだけど……」
少女は涙目になりながらも青年を見つてると、少しだけほっとしたのかハンカチで涙を拭う。
「こんな所で何してるの?」
「……」
何かを言おうと口を開きかけた少女だったが、閉ざしてしまう。
「家出?」
少女は首を横に振る。
またハンカチで涙を拭うと、何か意志を固めたように前を見て少女は立ち上がった。
「すみません、大丈夫です……心配してくださってありがとうございます」
「……そう、なら良かった」
ぺこりと頭を下げ、少女は暗い路地裏から月明かりが照らす通りへ向かって歩いていく。青年も少女の後ろを歩いて路地裏を出た。
そこで、青年は少女が雀荘の階段を上がり入っていくのを見た。
──女の子が雀荘……?
しかも、その界隈ではあまりいい噂を聴かない雀荘へ一人で入って行ったのだ。青年は好奇心からその少女を追うように雀荘アオヤマへ続く階段を昇った。
雀荘のドアを開けると、卓には既に男三人と先程の少女が座っていた。今はまだ理牌している所のようだった。
青年に気がついたのか黒服を着たヤクザが声をかけてくる。
「兄ちゃん、すまないが今日ここは貸切だ。雀荘なら他を当たってくれ」
「いやなに、そこの子の親戚でね。心配になって見に来たんだ」
青年が見つめるその先には、セーラー服を来た少女。
「えっ?」
男が声を上げながら少女を見る。
「そうなのか?」
「え、えぇと……」
青年が少女に視線を送ると、少女はそれを察したのか不安そうな表情ながら頷いた。
「……はい、そうです。私が呼びました。一人では心配なので……」
おずおずと少女は答える。
すると、黒服の男が答えるより先に少女の対面に座っているガラの悪い細身の男が答える。
「……まあいい。永代さんとこの親戚なら変なことはしないだろうしな。そこの兄ちゃん、名前は?」
「赤木、赤木しげるだ」
細身の男はタバコに火を付ける。
「そうか、まあ永代さんの立会人って事でよろしくな。それじゃ、始めるぞ」
牌を揃え、永代と呼ばれた少女は慣れない手つきで少し遅れて揃い終える様子を赤木はみつめる。
その手つきは正に素人。麻雀なんてやったことも無い人間の仕草だった。
ただ、手牌は悪くない。素人でもこれなら良い手に持ち込めるだろうと赤木は思う。
「ねえアンタ」
「ん?」
赤木はメモ帳に点数をつけている黒服の男に声をかける。
「今、どんな状況なの?」
「ああ、さっき東風一回戦が終わってこれが二回戦だ。一回戦はまあ、あの子が最下位だ」
「ふぅん」
「どちらかが二回勝てばこの勝負は終わりだ。まあ、あの子にゃ気の毒だが」
点数表をこっそり見ると、永代 美月と書かれた欄の横には四位 6000点と書かれている。一位は対面のヤクザ 高島 勇 40800点。
一回戦はしてやられたようだ。
東一局 29巡目 ドラ 6索
「リーチ」
美月の対面 親の高島のリーチ。しかし美月の手も揃った。メンタンピンドラ3。跳満確定のこの手を永代はリーチせず見送り、手を入れ替えドラ2にはなってしまったがリーチを警戒して6索を切る。
22巡目 美月は西をツモ切りすると下家が鳴き、3萬子を捨てる。
そして対面、高島。
「ツモ」
親の高島の手が明かされる。リーチ、平和、断幺九、メンツモ、一盃口、そこに裏ドラが1枚乗り跳満18000点。永代はその半分である6000点を支払わなければならない。
「すまんな、永代さん」
「いえ…」
消えそうな声で少女は答える。
「まあ、勝負受けたのはアンタだ。せいぜい頑張りな」
対面のヤクザがこの場を仕切っているのか、よく美月に話している。
「…、……せん」
「あ?」
美月は再び口を開く。
「負けません……」
周りのヤクザはクスクスと笑う。しかし、赤木はタバコを吸う手を止めて美月という少女の背中に釘付けになっていた。
この闇の世界で、震えながらヤクザ相手に啖呵を切り、この勝負を諦めていないという強い意志、覚悟、そしてその瞳が、赤木にとっては酷く輝いて見えた。
そしてその背中からほんの僅かだが、彼女の中にある″なにか″が見えた。
すると、対面の高嶋が立ち上がると笑っていたヤクザの1人を殴った。
「ぐぁっ!あっ、兄貴!?」
「テメェコラ何笑ってんだ?お前がこのお嬢さん笑えたクチか?あ?」
胸ぐらを掴み、高島は男を片手で投げつける。
美月はその光景を見て悲鳴を上げそうな口を必死に抑えていた。
「下手なイカサマしやがって!」
「ぐっ!す、すみませんっ!がはっ!」
人が殴られ、蹴られる光景。闇の世界の光景に美月は小さな悲鳴をあげて怯えた。
怖い、怖いが彼を止めなければと思い、美月は椅子から立ち上がり、声を上げた。
「や、やめてください……!もう、やめましょ、うよ……その人、痛がって……うっ、ぐすっ……」
やはり恐怖心もあり美月は泣きながら高島を止めるかたちになった。泣きながら静止を促す堅気の少女を無視して殴り続けるほど、高島は鬼ではなかった。
しかし、大きなため息をつく。
「……はぁ、永代さんに感謝するんだな。二度とバレるようなサマするんじゃあねえ」
「は、はいっ!」
泣き出してしまった美月を見て、これではしばらく麻雀ができないだろうと思い、高島はまたため息を漏らすと美月に声をかける。
「はぁ…… 永代さん、見苦しいモン見せてすまねえな。取り敢えず落ち着くまで親戚の兄ちゃんのそばにいな」
「うっ、ぐすっ、す、すみません……ひぐっ……」
泣きじゃくる美月は赤木が腰掛けるソファに黒服に連れられてやってきた。
「おい兄ちゃん、面倒見てやってくれ」
「あ、あぁ」
また泣いてる、と赤木は思いながら隣に座る美月を見る。セーラー服を着たこの少女は、先程ヤクザ相手に負けないと啖呵をきったが、目の前で暴力沙汰が起きると泣きながら制止する、度胸はあるが甘い子だと思った。
しばらくして少し落ち着いてきたのか、ハンカチで涙を拭い終えると美月は赤木を見た。
「ありがとうございます……ぐすっ、すみません、先程声をかけてくださった方ですよね?」
「ああ」
「私、永代美月と言います。先程といい今といいありがとうございます……あの、もし良かったら貴方のお名前を聞いてもよろしいでしょうか?」
礼儀正しい自己紹介、尋ね方に、赤木はタバコの火を消しながら答えた。
「赤木しげる、赤木でいい」
「赤木さん……あの、どうしてあんな嘘をついてまでここに来たんですか?」
「この雀荘、界隈ではあんまりいい噂聞かない雀荘でね、前から興味はあったんだ。でも、まさか女の子がヤクザと麻雀打ってるとは思わなかったけど」
「……」
「俺からも質問いい?」
「は、はい」
「君みたいな育ちの良さそうな子が、どうしてこんなところにいるんだ?何かのっぴきならねえ事情でもあるのか?」
美月は少し黙ると、ポツポツと話をしてくれた。
「私の父の借金を……この麻雀で勝負して勝てば無かった事にしてくれるとヤクザの方から言われてここに来ました。その父は、1か月前に自殺してもういません」
「母親は?」
「母は私が幼い頃に病気で他界しています。他に兄妹もいないですし、頼れる親戚はいないので……私が勝負を受ける事にしました」
赤木はタバコに火をつける。
「そうか……もし、負けたら?」
少し黙ってから美月は続ける。
「風呂に沈めるとの事でした。……殺されてしまうみたいです」
赤木は目をわずかに細め、タバコの煙を吐いた。それはそういう意味じゃないんだけど……と思いつつ聞いていた。
「もう一ついい?」
「は、はい」
「さっきあのヤクザが言ってた事は本当?君がイカサマを見破ったって」
「見破ったと言いますか、聞こえてしまったので……」
「聞こえた?」
美月は頷く。
「前にやった東風一回戦で上家、下家の方がこうやってモールス信号でやり取りをしていたんです」
そう言うと美月は貧乏揺すりのように足を動かしてみせた。
「それで、お二方のやり取りが聞こえてしまって……一応言った方がいいのかなって思って指摘しました」
「………なんで?」
「だって、二人で会話してるのに私が盗み聞きしてるみたいで失礼じゃないですか」
甘い、甘すぎる。
あまりの甘すぎる彼女の返答に、赤木は思わず笑ってしまう。
「ククク…ククククク……!」
「?」
「ククク……君、モールス信号を盗み聞きしてれば自分が有利に動けるとか考えなかったの?」
少し美月は目を伏せて答える。
「……正直、考えました。でも、勝負事においてそれは対等じゃないと思いましたから」
「そう……君のそういうところ、大切にしていきなよ。大人は汚いからね」
「は、はい……」
この闇の世界にありながら、正々堂々を往く美月を赤木はこの時──とても気に入った。
初心者ながらイカサマを見破る観察力もだが、先程リーチを一度見送ったあの判断力もだ。
あの手は対面だけでなく、鳴いた下家も恐らく聴牌っていただろうと赤木は考える。
しかし、そうは言っても美月は初心者だ。もしかしたら立直をできないと思い見送ってしまった可能性も考えられる。
「ところで君、麻雀は分かるの?」
「いえ、あんまり……幼い頃に数回やったのと、3日前に本を買って勉強したくらいで」
「へえ、こりゃ驚いた。その割には上手く立ち回れてるように見えたからね」
「あ、ありがとうございます……」
「立直する時とか、鳴きのタイミングとか分かる?」
「正直、あまり分からないです……」
すると、黒服の男の一人が声をかけてきた。
「永代さん、落ち着きましたか?」
「は、はいっ!大丈夫です!今行きます」
美月が雀卓に着くと、スっと背後から気配を感じた。振り返るとタバコを持った赤木がいる。
「赤木さん……?」
「おい兄ちゃん、何のつもりだ?」
高島が赤木を睨みつけると、クククと赤木は低く笑った。
「この子、鳴きとか立直もよく分かんないみたいじゃない。そんなの勝負事においてフェアじゃねえ。……鳴きと立直ができるタイミングだけ俺が合図を送る。やるかはこの子次第だ。アンタたちの手も煩わせないし、いいだろ?」
「……いいだろう」
「あ、兄貴!いいんですか!?」
「ただし合図は鳴きと立直の時だけだ。それ以外の合図は認めないぞ」
高島、赤木の提案を意外にもあっさり認め、東二局が始まった。
ドラは南 親は美月の上家だ。
赤木からの合図を受け始める美月は3巡目、早速發をポンする。
「ポン」
美月の手牌は今、三色同順が狙えるかたちとなっている。
4.5.6萬 4筒 西が3枚、雀頭は9索、6筒、5筒が来れば完成だ。
良い手牌。だがそれを崩すように19巡目、6筒が全て河へ。
和了るべく手を変えようと美月は6萬を切った。
ただし、この美月の待ち方は麻雀上級者であれば河を見れば容易く見抜かれてしまう可能性がある。
「立直」
高島の立直。美月は目を見張った。
──高島さんの立直、河を見れば切っていい牌が分かるって本にはあったけど……私の手にある切って安全と言える牌はない。特に萬子は危ない……でも手はこれ以上崩せないし……ううん、通す。通してみせる。
美月は危険牌の6萬に指を伸ばした。そして川へ捨てる。
──ここで引いたら、勝てない!
願うように、祈るように捨てた。しかし高島からのロンはない。通ったのだ。
高島の待ちは北単騎だ。
それから8巡目して、美月の手牌に3萬がくる。
「ツモ」
美月、ツモ和了り。發、西、三色同順。ポンした事で1翻下がり、2600点だ。
しかし、まだ高島には届かない。これではまだだ。
次の東3局 ドラは2索 親は美月だ。美月の手配は、とても偏っていた。しかし、これはチャンスでもあった。
──索子ばっかり……これからどうしていけば……あ、確か本にあったはず。一色で作る役。
美月、早速手配の北を切る。次の巡でもツモした北を捨て、7索子をキープ。ドラの2索も2枚あるため、この時点で高得点だ。
赤木も美月が何をしたいのか察し、その手配を見守った。
美月の河には北2枚、白、發、9萬子とある。そして次に美月はなんと4索を切った。赤木もこれには少し驚くが、次にまたしても切ったのは1索だった。
──1索、4索を切ったのは清一色狙いだと言うことを悟られない為?もしそう考えていたのだとしたらとんだ賭けに出たな……面白いじゃない。
そして、時はきた。
「永代さん、これで立直できるよ」
赤木が6索を指さす。美月は頷いた。
「立直」
点棒をそっと卓に置いた。美月の待ちは5索か8索のシャボ待ちだ。そして下家、赤ドラの5索を捨てた。
「ロン」
宣言すると美月、手配を見せた。
立直、一発、平和、一盃口、清一色、ドラ2、赤ドラ1
「数え役満、親だから48000点だ」
美月の後ろにいる赤木は点数を言うと
「なっ、なぁ!?」
ロンされた下家は美月の和了に狼狽える。
下家はこれで点棒を失う事となり、マイナスになる。この対局ではハコテン(点数が割れた時点で対局が終了するルール)のためこの局はこれで終わり。美月、一位に踊り出て勝利となった。
「やるなあ永代さん。だが麻雀ってのはここからが勝負だ」
美月は生唾を飲んだ。
そこからまた東一局が始まるも、[#da=2#]は何とか点数は守っていくものの少しずつ点数を奪われてしまい、東4局に入る頃には12800点になってしまった。
怒涛の高島の攻めに圧倒されていたのだ。高島は47700点と1位だ。
だが、美月は諦めていない。まだだ、とその目で高島をまっすぐ見据えている。
そして東四局、親は美月。
美月は自分の手配を見て驚愕した。それは美月だけではなく、赤木もだった。
──これ、知ってる。国士無双!しかも十三面待ち!ツモか相手が捨てれば私が和了!こんな事って…こんな事ってあるんだ……!
手配に驚き、それを悟られないように美月は山に手を伸ばし、その牌を見て目を見開いた。そして、宣言する。
「ツモです……!」
美月のツモった牌は中。それを卓に置く。
そして、赤木は声を漏らして笑った。ヤクザたちの突き刺さるような視線が、赤木と美月に集まる。
「ククク…クククククッ……!どうやら勝利の女神はこのお嬢さんの事を相当好いてるみたいだな」
「あの、赤木さん……これって……」
動揺する美月。それに対して赤木は愉快そうだった。
「永代さん、もう和了だ。手を見せてやりなよ」
美月は赤木に言われた通りに手牌を見せる。
「なっ!?うっ、嘘だ!!こんな事有り得るか!」
上家のヤクザが声を荒らげる。
「天和、国士無双13面待ち。三倍役満……!」
赤木がそう言うと高島は静かにタバコを吸い始める。そして煙を深く吐くと、高嶋はスッキリした面持ちで言った。
「なるほど、負けだ」
「あ、兄貴!」
「いいんですか!?」
「騒ぐな。負けは負けだ、いいに決まってんだろ」
席から立ち上がると、高島は呆然とする[#da=2#]の元へやってきた。
「永代さん、約束通りアンタの親父さんの借金はチャラだ。こっちからもうアンタに接触する事はねえよ」
「は、はい……色々と……あ、ありがとう、ございます」
まだ現実が受け入れられていないのか、緊張の糸が切れたからなのか、美月はぼーっとしているのだが、少し様子がおかしい。
赤木は美月の顔を覗き込むと、目が潤み、ほのかに顔が赤くなっている。
「永代さん?」
「あ、す、すみません。私ったらぼーっとしちゃって……」
その瞬間、赤木の手が美月の額に伸びてきた。
「……風邪だな」
赤木がそう言うと、先程までの張り詰めた空気が緩んだ。
「おい、車回せ」
「はい!」
高島が命令すると下っ端は慌ただしく雀荘を出て下へ向かった。
「兄ちゃん親戚だろ、悪いがこの子の面倒見てやってくれ。俺はまた後日伺う」
「あ、いや……」
「兄貴!車回してきました!」
「おう、じゃあ行くぞ」
赤木と美月は高島に連れてかれ高級車に乗せられる。
体調が悪そうな美月は未だぼーっとしており、今どんな状況なのかをやっと理解できたのかハッとしていた。
「あ、あの、高島さん……ここは……」
「病人がいちいち気にするな。アンタは今日帰って休んで大人しくしてな」
「す、すみません……ご迷惑をおかけして……」
「フン」
少し不機嫌そうに高島は鼻を鳴らす。暫くすると疲れからか美月は眠ってしまった。
車を走らせていると住宅街に到着し、とある木造アパートの前に車は停まった。
「ついたぞ。じゃあ兄ちゃん、あとは頼んだわ」
「……」
そう言うと車は去っていき、赤木と美月はアパートの前に残された。立っているのもやっとの美月に赤木は声をかける。
「大丈夫?歩けそう?」
「は、はい……大丈夫……」
その刹那、美月はフラついてしまい赤木に支えられる。
「おっと」
──こりゃ大丈夫じゃなさそうだ。
「取り敢えず部屋に行こうか。すまんね、鞄から鍵出すから」
「はい……」
赤木は美月の学生鞄を開き、部屋の鍵を取り出す。204と刻印された鍵にある通り、アパートの204号室に向かい、その鍵を使ってドアを開けた。
嗅ぎなれない他人の部屋の匂いがふわりと赤木を包み込む。
暗い部屋の電気をつけると、靴を脱いで部屋に上がる。美月もローファーを脱いで部屋に入るが、部屋に入った途端彼女の体力が尽きたのかガクッと膝から倒れ込んだ。
間一髪で赤木は支えるものの、美月の呼吸は荒く、大分苦しそうだ。
美月を寝室まで運ぼうと抱き起こし、布団に彼女を下ろした。
「大丈夫?」
「すみません、私の事は……大丈夫、ですから」
どう見ても大丈夫ではない。気丈に振舞おうとするたびに、その姿が痛々しく思えた。
「永代さん、薬箱はある?」
「はい、学習机の1番下の引き出しに」
「分かった」
赤木は言われた通り学習机の1番下の引き出しを開ける。そこには木製の薬箱が入っており、中を開けるとそれなりに薬やガーゼ、絆創膏等が揃っていた。解熱剤を見つけ、赤木はキッチンへ向かって適当なコップを手に取り水を入れる。
「永代さん、薬飲める?」
「は、はい。すみません……」
弱々しくコップと薬を受け取り、美月は解熱剤を飲んだ。
「タオルってどこにある?」
「タオルは……洗面所のカゴの中にあります」
「分かった、ちょっと借りるよ」
赤木は洗面所に行くとカゴに入っていたタオルを見つけ、冷水で濡らし綺麗に畳むと、美月の部屋に戻り濡れタオルを彼女の額に置いた。
「朝になったら氷嚢買いに行ってくるから、それまではこれで」
「……それって」
「?」
「それって、朝までここに居てくれるって……事ですか?」
「まあ、そうなるね」
そう答えると、彼女はくすんとまた泣きはじめた。
「……え?」
流石に見知らぬ男と一緒に居るのは嫌だったか、と赤木は思ったが美月から出た言葉はそれとは正反対のものだった。
「うっ、ありがとう……ございますっ……嬉しい、です……優しいですね、赤木さんは」
初めて貰ったその言葉に面食らいつつも嫌な気分ではなく、でも少し複雑な気持ちもあり少し黙ってしまった。
「……寝なよ、永代さん。もう疲れただろ?」
「はい……おやすみ、なさい……」
美月は目を瞑るとあっという間に眠りについてしまった。電気を消し、部屋の窓際に背を預けて赤木は座る。
ふと窓を見ると、満月が窓から覗いていた。
秋風が涼しくなり、少し冷えるようになってきた夜の月は一層光り輝き、夜の街を照らしている。
──今日の月は……なんだか一段と大きいもんだ。
二人が初めて出会った運命の夜。
その日は夜が静かで、月が綺麗な日だった。
その日は夜が静かで、月が綺麗な夜だった。
白髪の青年はふぅーと紫煙を吹かしながら歩いていると、とある雀荘の前を通る。
分厚いカーテンで窓を覆われた雀荘 アオヤマはこの界隈ではあまりいい噂を聴かない。
いつか気が向いたら入ってみようか、と白髪の青年がじっと雀荘の窓を見つめながら歩みを進めていくと、どこからかすすり泣く女の声が聞こえた。
泣いている声はこのすぐ近くだ。青年はここかと路地裏を覗き込む。
雀荘アオヤマにある路地裏で、セーラー服を着た少女が膝を抱えて泣いている。
「……」
──女の子……?
周囲に人はおらず、見かけてしまった手前、面倒だが声をかけようと路地裏へ歩を進めると、それに気がついた少女はひっ!と小さな声をあげて青年を見つめる。
「あらら、ごめん。脅かすつもりはなかったんだけど……」
少女は涙目になりながらも青年を見つてると、少しだけほっとしたのかハンカチで涙を拭う。
「こんな所で何してるの?」
「……」
何かを言おうと口を開きかけた少女だったが、閉ざしてしまう。
「家出?」
少女は首を横に振る。
またハンカチで涙を拭うと、何か意志を固めたように前を見て少女は立ち上がった。
「すみません、大丈夫です……心配してくださってありがとうございます」
「……そう、なら良かった」
ぺこりと頭を下げ、少女は暗い路地裏から月明かりが照らす通りへ向かって歩いていく。青年も少女の後ろを歩いて路地裏を出た。
そこで、青年は少女が雀荘の階段を上がり入っていくのを見た。
──女の子が雀荘……?
しかも、その界隈ではあまりいい噂を聴かない雀荘へ一人で入って行ったのだ。青年は好奇心からその少女を追うように雀荘アオヤマへ続く階段を昇った。
雀荘のドアを開けると、卓には既に男三人と先程の少女が座っていた。今はまだ理牌している所のようだった。
青年に気がついたのか黒服を着たヤクザが声をかけてくる。
「兄ちゃん、すまないが今日ここは貸切だ。雀荘なら他を当たってくれ」
「いやなに、そこの子の親戚でね。心配になって見に来たんだ」
青年が見つめるその先には、セーラー服を来た少女。
「えっ?」
男が声を上げながら少女を見る。
「そうなのか?」
「え、えぇと……」
青年が少女に視線を送ると、少女はそれを察したのか不安そうな表情ながら頷いた。
「……はい、そうです。私が呼びました。一人では心配なので……」
おずおずと少女は答える。
すると、黒服の男が答えるより先に少女の対面に座っているガラの悪い細身の男が答える。
「……まあいい。永代さんとこの親戚なら変なことはしないだろうしな。そこの兄ちゃん、名前は?」
「赤木、赤木しげるだ」
細身の男はタバコに火を付ける。
「そうか、まあ永代さんの立会人って事でよろしくな。それじゃ、始めるぞ」
牌を揃え、永代と呼ばれた少女は慣れない手つきで少し遅れて揃い終える様子を赤木はみつめる。
その手つきは正に素人。麻雀なんてやったことも無い人間の仕草だった。
ただ、手牌は悪くない。素人でもこれなら良い手に持ち込めるだろうと赤木は思う。
「ねえアンタ」
「ん?」
赤木はメモ帳に点数をつけている黒服の男に声をかける。
「今、どんな状況なの?」
「ああ、さっき東風一回戦が終わってこれが二回戦だ。一回戦はまあ、あの子が最下位だ」
「ふぅん」
「どちらかが二回勝てばこの勝負は終わりだ。まあ、あの子にゃ気の毒だが」
点数表をこっそり見ると、永代 美月と書かれた欄の横には四位 6000点と書かれている。一位は対面のヤクザ 高島 勇 40800点。
一回戦はしてやられたようだ。
東一局 29巡目 ドラ 6索
「リーチ」
美月の対面 親の高島のリーチ。しかし美月の手も揃った。メンタンピンドラ3。跳満確定のこの手を永代はリーチせず見送り、手を入れ替えドラ2にはなってしまったがリーチを警戒して6索を切る。
22巡目 美月は西をツモ切りすると下家が鳴き、3萬子を捨てる。
そして対面、高島。
「ツモ」
親の高島の手が明かされる。リーチ、平和、断幺九、メンツモ、一盃口、そこに裏ドラが1枚乗り跳満18000点。永代はその半分である6000点を支払わなければならない。
「すまんな、永代さん」
「いえ…」
消えそうな声で少女は答える。
「まあ、勝負受けたのはアンタだ。せいぜい頑張りな」
対面のヤクザがこの場を仕切っているのか、よく美月に話している。
「…、……せん」
「あ?」
美月は再び口を開く。
「負けません……」
周りのヤクザはクスクスと笑う。しかし、赤木はタバコを吸う手を止めて美月という少女の背中に釘付けになっていた。
この闇の世界で、震えながらヤクザ相手に啖呵を切り、この勝負を諦めていないという強い意志、覚悟、そしてその瞳が、赤木にとっては酷く輝いて見えた。
そしてその背中からほんの僅かだが、彼女の中にある″なにか″が見えた。
すると、対面の高嶋が立ち上がると笑っていたヤクザの1人を殴った。
「ぐぁっ!あっ、兄貴!?」
「テメェコラ何笑ってんだ?お前がこのお嬢さん笑えたクチか?あ?」
胸ぐらを掴み、高島は男を片手で投げつける。
美月はその光景を見て悲鳴を上げそうな口を必死に抑えていた。
「下手なイカサマしやがって!」
「ぐっ!す、すみませんっ!がはっ!」
人が殴られ、蹴られる光景。闇の世界の光景に美月は小さな悲鳴をあげて怯えた。
怖い、怖いが彼を止めなければと思い、美月は椅子から立ち上がり、声を上げた。
「や、やめてください……!もう、やめましょ、うよ……その人、痛がって……うっ、ぐすっ……」
やはり恐怖心もあり美月は泣きながら高島を止めるかたちになった。泣きながら静止を促す堅気の少女を無視して殴り続けるほど、高島は鬼ではなかった。
しかし、大きなため息をつく。
「……はぁ、永代さんに感謝するんだな。二度とバレるようなサマするんじゃあねえ」
「は、はいっ!」
泣き出してしまった美月を見て、これではしばらく麻雀ができないだろうと思い、高島はまたため息を漏らすと美月に声をかける。
「はぁ…… 永代さん、見苦しいモン見せてすまねえな。取り敢えず落ち着くまで親戚の兄ちゃんのそばにいな」
「うっ、ぐすっ、す、すみません……ひぐっ……」
泣きじゃくる美月は赤木が腰掛けるソファに黒服に連れられてやってきた。
「おい兄ちゃん、面倒見てやってくれ」
「あ、あぁ」
また泣いてる、と赤木は思いながら隣に座る美月を見る。セーラー服を着たこの少女は、先程ヤクザ相手に負けないと啖呵をきったが、目の前で暴力沙汰が起きると泣きながら制止する、度胸はあるが甘い子だと思った。
しばらくして少し落ち着いてきたのか、ハンカチで涙を拭い終えると美月は赤木を見た。
「ありがとうございます……ぐすっ、すみません、先程声をかけてくださった方ですよね?」
「ああ」
「私、永代美月と言います。先程といい今といいありがとうございます……あの、もし良かったら貴方のお名前を聞いてもよろしいでしょうか?」
礼儀正しい自己紹介、尋ね方に、赤木はタバコの火を消しながら答えた。
「赤木しげる、赤木でいい」
「赤木さん……あの、どうしてあんな嘘をついてまでここに来たんですか?」
「この雀荘、界隈ではあんまりいい噂聞かない雀荘でね、前から興味はあったんだ。でも、まさか女の子がヤクザと麻雀打ってるとは思わなかったけど」
「……」
「俺からも質問いい?」
「は、はい」
「君みたいな育ちの良さそうな子が、どうしてこんなところにいるんだ?何かのっぴきならねえ事情でもあるのか?」
美月は少し黙ると、ポツポツと話をしてくれた。
「私の父の借金を……この麻雀で勝負して勝てば無かった事にしてくれるとヤクザの方から言われてここに来ました。その父は、1か月前に自殺してもういません」
「母親は?」
「母は私が幼い頃に病気で他界しています。他に兄妹もいないですし、頼れる親戚はいないので……私が勝負を受ける事にしました」
赤木はタバコに火をつける。
「そうか……もし、負けたら?」
少し黙ってから美月は続ける。
「風呂に沈めるとの事でした。……殺されてしまうみたいです」
赤木は目をわずかに細め、タバコの煙を吐いた。それはそういう意味じゃないんだけど……と思いつつ聞いていた。
「もう一ついい?」
「は、はい」
「さっきあのヤクザが言ってた事は本当?君がイカサマを見破ったって」
「見破ったと言いますか、聞こえてしまったので……」
「聞こえた?」
美月は頷く。
「前にやった東風一回戦で上家、下家の方がこうやってモールス信号でやり取りをしていたんです」
そう言うと美月は貧乏揺すりのように足を動かしてみせた。
「それで、お二方のやり取りが聞こえてしまって……一応言った方がいいのかなって思って指摘しました」
「………なんで?」
「だって、二人で会話してるのに私が盗み聞きしてるみたいで失礼じゃないですか」
甘い、甘すぎる。
あまりの甘すぎる彼女の返答に、赤木は思わず笑ってしまう。
「ククク…ククククク……!」
「?」
「ククク……君、モールス信号を盗み聞きしてれば自分が有利に動けるとか考えなかったの?」
少し美月は目を伏せて答える。
「……正直、考えました。でも、勝負事においてそれは対等じゃないと思いましたから」
「そう……君のそういうところ、大切にしていきなよ。大人は汚いからね」
「は、はい……」
この闇の世界にありながら、正々堂々を往く美月を赤木はこの時──とても気に入った。
初心者ながらイカサマを見破る観察力もだが、先程リーチを一度見送ったあの判断力もだ。
あの手は対面だけでなく、鳴いた下家も恐らく聴牌っていただろうと赤木は考える。
しかし、そうは言っても美月は初心者だ。もしかしたら立直をできないと思い見送ってしまった可能性も考えられる。
「ところで君、麻雀は分かるの?」
「いえ、あんまり……幼い頃に数回やったのと、3日前に本を買って勉強したくらいで」
「へえ、こりゃ驚いた。その割には上手く立ち回れてるように見えたからね」
「あ、ありがとうございます……」
「立直する時とか、鳴きのタイミングとか分かる?」
「正直、あまり分からないです……」
すると、黒服の男の一人が声をかけてきた。
「永代さん、落ち着きましたか?」
「は、はいっ!大丈夫です!今行きます」
美月が雀卓に着くと、スっと背後から気配を感じた。振り返るとタバコを持った赤木がいる。
「赤木さん……?」
「おい兄ちゃん、何のつもりだ?」
高島が赤木を睨みつけると、クククと赤木は低く笑った。
「この子、鳴きとか立直もよく分かんないみたいじゃない。そんなの勝負事においてフェアじゃねえ。……鳴きと立直ができるタイミングだけ俺が合図を送る。やるかはこの子次第だ。アンタたちの手も煩わせないし、いいだろ?」
「……いいだろう」
「あ、兄貴!いいんですか!?」
「ただし合図は鳴きと立直の時だけだ。それ以外の合図は認めないぞ」
高島、赤木の提案を意外にもあっさり認め、東二局が始まった。
ドラは南 親は美月の上家だ。
赤木からの合図を受け始める美月は3巡目、早速發をポンする。
「ポン」
美月の手牌は今、三色同順が狙えるかたちとなっている。
4.5.6萬 4筒 西が3枚、雀頭は9索、6筒、5筒が来れば完成だ。
良い手牌。だがそれを崩すように19巡目、6筒が全て河へ。
和了るべく手を変えようと美月は6萬を切った。
ただし、この美月の待ち方は麻雀上級者であれば河を見れば容易く見抜かれてしまう可能性がある。
「立直」
高島の立直。美月は目を見張った。
──高島さんの立直、河を見れば切っていい牌が分かるって本にはあったけど……私の手にある切って安全と言える牌はない。特に萬子は危ない……でも手はこれ以上崩せないし……ううん、通す。通してみせる。
美月は危険牌の6萬に指を伸ばした。そして川へ捨てる。
──ここで引いたら、勝てない!
願うように、祈るように捨てた。しかし高島からのロンはない。通ったのだ。
高島の待ちは北単騎だ。
それから8巡目して、美月の手牌に3萬がくる。
「ツモ」
美月、ツモ和了り。發、西、三色同順。ポンした事で1翻下がり、2600点だ。
しかし、まだ高島には届かない。これではまだだ。
次の東3局 ドラは2索 親は美月だ。美月の手配は、とても偏っていた。しかし、これはチャンスでもあった。
──索子ばっかり……これからどうしていけば……あ、確か本にあったはず。一色で作る役。
美月、早速手配の北を切る。次の巡でもツモした北を捨て、7索子をキープ。ドラの2索も2枚あるため、この時点で高得点だ。
赤木も美月が何をしたいのか察し、その手配を見守った。
美月の河には北2枚、白、發、9萬子とある。そして次に美月はなんと4索を切った。赤木もこれには少し驚くが、次にまたしても切ったのは1索だった。
──1索、4索を切ったのは清一色狙いだと言うことを悟られない為?もしそう考えていたのだとしたらとんだ賭けに出たな……面白いじゃない。
そして、時はきた。
「永代さん、これで立直できるよ」
赤木が6索を指さす。美月は頷いた。
「立直」
点棒をそっと卓に置いた。美月の待ちは5索か8索のシャボ待ちだ。そして下家、赤ドラの5索を捨てた。
「ロン」
宣言すると美月、手配を見せた。
立直、一発、平和、一盃口、清一色、ドラ2、赤ドラ1
「数え役満、親だから48000点だ」
美月の後ろにいる赤木は点数を言うと
「なっ、なぁ!?」
ロンされた下家は美月の和了に狼狽える。
下家はこれで点棒を失う事となり、マイナスになる。この対局ではハコテン(点数が割れた時点で対局が終了するルール)のためこの局はこれで終わり。美月、一位に踊り出て勝利となった。
「やるなあ永代さん。だが麻雀ってのはここからが勝負だ」
美月は生唾を飲んだ。
そこからまた東一局が始まるも、[#da=2#]は何とか点数は守っていくものの少しずつ点数を奪われてしまい、東4局に入る頃には12800点になってしまった。
怒涛の高島の攻めに圧倒されていたのだ。高島は47700点と1位だ。
だが、美月は諦めていない。まだだ、とその目で高島をまっすぐ見据えている。
そして東四局、親は美月。
美月は自分の手配を見て驚愕した。それは美月だけではなく、赤木もだった。
──これ、知ってる。国士無双!しかも十三面待ち!ツモか相手が捨てれば私が和了!こんな事って…こんな事ってあるんだ……!
手配に驚き、それを悟られないように美月は山に手を伸ばし、その牌を見て目を見開いた。そして、宣言する。
「ツモです……!」
美月のツモった牌は中。それを卓に置く。
そして、赤木は声を漏らして笑った。ヤクザたちの突き刺さるような視線が、赤木と美月に集まる。
「ククク…クククククッ……!どうやら勝利の女神はこのお嬢さんの事を相当好いてるみたいだな」
「あの、赤木さん……これって……」
動揺する美月。それに対して赤木は愉快そうだった。
「永代さん、もう和了だ。手を見せてやりなよ」
美月は赤木に言われた通りに手牌を見せる。
「なっ!?うっ、嘘だ!!こんな事有り得るか!」
上家のヤクザが声を荒らげる。
「天和、国士無双13面待ち。三倍役満……!」
赤木がそう言うと高島は静かにタバコを吸い始める。そして煙を深く吐くと、高嶋はスッキリした面持ちで言った。
「なるほど、負けだ」
「あ、兄貴!」
「いいんですか!?」
「騒ぐな。負けは負けだ、いいに決まってんだろ」
席から立ち上がると、高島は呆然とする[#da=2#]の元へやってきた。
「永代さん、約束通りアンタの親父さんの借金はチャラだ。こっちからもうアンタに接触する事はねえよ」
「は、はい……色々と……あ、ありがとう、ございます」
まだ現実が受け入れられていないのか、緊張の糸が切れたからなのか、美月はぼーっとしているのだが、少し様子がおかしい。
赤木は美月の顔を覗き込むと、目が潤み、ほのかに顔が赤くなっている。
「永代さん?」
「あ、す、すみません。私ったらぼーっとしちゃって……」
その瞬間、赤木の手が美月の額に伸びてきた。
「……風邪だな」
赤木がそう言うと、先程までの張り詰めた空気が緩んだ。
「おい、車回せ」
「はい!」
高島が命令すると下っ端は慌ただしく雀荘を出て下へ向かった。
「兄ちゃん親戚だろ、悪いがこの子の面倒見てやってくれ。俺はまた後日伺う」
「あ、いや……」
「兄貴!車回してきました!」
「おう、じゃあ行くぞ」
赤木と美月は高島に連れてかれ高級車に乗せられる。
体調が悪そうな美月は未だぼーっとしており、今どんな状況なのかをやっと理解できたのかハッとしていた。
「あ、あの、高島さん……ここは……」
「病人がいちいち気にするな。アンタは今日帰って休んで大人しくしてな」
「す、すみません……ご迷惑をおかけして……」
「フン」
少し不機嫌そうに高島は鼻を鳴らす。暫くすると疲れからか美月は眠ってしまった。
車を走らせていると住宅街に到着し、とある木造アパートの前に車は停まった。
「ついたぞ。じゃあ兄ちゃん、あとは頼んだわ」
「……」
そう言うと車は去っていき、赤木と美月はアパートの前に残された。立っているのもやっとの美月に赤木は声をかける。
「大丈夫?歩けそう?」
「は、はい……大丈夫……」
その刹那、美月はフラついてしまい赤木に支えられる。
「おっと」
──こりゃ大丈夫じゃなさそうだ。
「取り敢えず部屋に行こうか。すまんね、鞄から鍵出すから」
「はい……」
赤木は美月の学生鞄を開き、部屋の鍵を取り出す。204と刻印された鍵にある通り、アパートの204号室に向かい、その鍵を使ってドアを開けた。
嗅ぎなれない他人の部屋の匂いがふわりと赤木を包み込む。
暗い部屋の電気をつけると、靴を脱いで部屋に上がる。美月もローファーを脱いで部屋に入るが、部屋に入った途端彼女の体力が尽きたのかガクッと膝から倒れ込んだ。
間一髪で赤木は支えるものの、美月の呼吸は荒く、大分苦しそうだ。
美月を寝室まで運ぼうと抱き起こし、布団に彼女を下ろした。
「大丈夫?」
「すみません、私の事は……大丈夫、ですから」
どう見ても大丈夫ではない。気丈に振舞おうとするたびに、その姿が痛々しく思えた。
「永代さん、薬箱はある?」
「はい、学習机の1番下の引き出しに」
「分かった」
赤木は言われた通り学習机の1番下の引き出しを開ける。そこには木製の薬箱が入っており、中を開けるとそれなりに薬やガーゼ、絆創膏等が揃っていた。解熱剤を見つけ、赤木はキッチンへ向かって適当なコップを手に取り水を入れる。
「永代さん、薬飲める?」
「は、はい。すみません……」
弱々しくコップと薬を受け取り、美月は解熱剤を飲んだ。
「タオルってどこにある?」
「タオルは……洗面所のカゴの中にあります」
「分かった、ちょっと借りるよ」
赤木は洗面所に行くとカゴに入っていたタオルを見つけ、冷水で濡らし綺麗に畳むと、美月の部屋に戻り濡れタオルを彼女の額に置いた。
「朝になったら氷嚢買いに行ってくるから、それまではこれで」
「……それって」
「?」
「それって、朝までここに居てくれるって……事ですか?」
「まあ、そうなるね」
そう答えると、彼女はくすんとまた泣きはじめた。
「……え?」
流石に見知らぬ男と一緒に居るのは嫌だったか、と赤木は思ったが美月から出た言葉はそれとは正反対のものだった。
「うっ、ありがとう……ございますっ……嬉しい、です……優しいですね、赤木さんは」
初めて貰ったその言葉に面食らいつつも嫌な気分ではなく、でも少し複雑な気持ちもあり少し黙ってしまった。
「……寝なよ、永代さん。もう疲れただろ?」
「はい……おやすみ、なさい……」
美月は目を瞑るとあっという間に眠りについてしまった。電気を消し、部屋の窓際に背を預けて赤木は座る。
ふと窓を見ると、満月が窓から覗いていた。
秋風が涼しくなり、少し冷えるようになってきた夜の月は一層光り輝き、夜の街を照らしている。
──今日の月は……なんだか一段と大きいもんだ。
二人が初めて出会った運命の夜。
その日は夜が静かで、月が綺麗な日だった。