月を見ていた
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金木犀の香りがする10月が過ぎ、紅葉が美しい11月も過ぎた。
そして、冬の気配漂う12月になる。
美月の部屋には灯油ストーブが置かれ、布団もふかふかの冬仕様になっている。
彼女は部屋着に桜色の半纏を着て、美月は机の上に山のように積まれている雑誌に目を通していた。
その雑誌はどれも女性向けの雑誌で、流行りのファッションや髪型から生活に役立つ知恵、更には恋愛相談コーナーといったページがあり、美月はそれらを読み、赤木とのデートに備えていた。
特に恋愛相談コーナーでは美月と同じような初恋の悩み、初デートの悩みを抱えた女性がおり、勝手に仲間意識が芽ばえると共にそれらの回答になるほどと頷いた。
特にデートではどのような服装で行こうか迷っているという回答は大いに参考になった。
化粧や服装はあまり派手すぎず、しかし地味すぎず。ほどほどに動きやすい格好の方が吉との事だ。
ワンピースにヒールの低いブーツやパンプスがオススメと載っており、美月はその欄に付箋を貼った。
早速、今ある洋服でどんなものが良いかを鏡の前で合わせながら悩みに悩む。
──このワンピースは、ちょっと可愛すぎるかな。これは普段着っぽいし……あ、これとこれいいかも。
美月はベストな服装を見つけると、試しに着てみる。これなら動きやすいし、派手過ぎずに良いだろうと納得し、鏡の前でクルクルと回って確認をすると、その服をハンガーに吊るして壁に掛ける。
赤木とのデートが楽しみで、いつ連絡が来るのかと黒電話の呼び鈴が鳴るのが楽しみで心が踊るような反面、初めてのデートで少し緊張もしていた。
ふと、窓の外から見える半分になった月を見る。彼女は眩しそうに目を細め、なんとなく月に手を伸ばす。
その刹那、部屋の電話が鳴り響いた。
はっとした美月は振り向くと、いつもより早足で電話へ駆け寄り、受話器を取ると耳に当てた。
「はい、もしもし?」
『ああ、美月さん。赤木です』
聞きたくて、待ち望んでいた声が美月の耳に木霊する。
「赤木さんっ!お久しぶりです、お元気でしたか?」
美月の表情は夜だというのに、その場を照らすほどにぱぁっと晴れやかになり、赤木からの電話に嬉しさで胸がいっぱいになった。
『うん、元気にやってる。今福島にいてさ、こっちすげえ寒いんだ』
「福島ですか、私が想像できないくらい寒そうです」
黒電話のカールコードを美月は落ち着きなく人差し指に絡め、くるくると巻いている。そんな他愛のない話をしていると、件の話を振ってきたのは赤木からだった。
『なあ、美月さん。8日後って空いてる?』
「ええ、空いてますよ」
『良かった、その時には東京に帰ってるから、デートしよう』
デート、その甘やかな響きは胸をきゅっと抑えた。
「……はい、8日後ですね。あ、何処に集合しますか?」
『そうだな、新宿の百貨店の前に11時にどう?』
「百貨店前に11時ですね、分かりました」
お互い、少しの沈黙。しかしその火蓋を切ったのは美月からだった。
「あの、8日後……楽しみにしてます」
『うん、俺も。……そろそろ電話が切れそうだ、それじゃあまた会おう。おやすみ』
「はい、おやすみなさい」
無機質な機械音が子機の向こうから響く。美月は子機を戻すと両手を頬に当てて、赤くなった顔の熱を抑えようとするが、それは無駄に終わりそうだ。
胸の高鳴りが、ときめきが、ドキドキが止まらない。8日後にはデートなのだと思うと、その期間の難しい講義や辛い提出物も乗り切れそうだ。
カレンダーにデートの日に花丸をつけた時、美月はふと気がついた。8日後は満月ではないか。
「満月の日……」
上弦の美しい月を見上げ、美月は微笑んだ。
それから時間は過ぎ、日付は変わり、あっという間に8日後になった。
一段と冷え込む今日、10時45分には美月は百貨店の前で待っていた。
白いマフラーに黒い手袋、ブラウンのコートを着ており、その下もブラウンのチェック柄のマキシ丈ワンピースに、黒いブーツと少し背伸びをした装いだ。
髪型もいつものとは違い、三つ編みにしている。化粧は崩れていないか、前髪は変ではないか、小さな手鏡でチェックをすると、美月は腕時計に目を向ける。
──赤木さん、何処にいるかな?ああ、どうしよう……楽しみでどうにかなっちゃいそう。
ついソワソワしてしまい、美月は所在なさげにマフラーをいじっていると、一人の男が声をかけてきた。
「あの、お嬢さん……すみません」
見知らぬ男性が美月に声をかけてきた。歳は美月よりも上であろう、短髪の男性はつま先から頭まで美月を見ると、咳払いをして話し出す。
「あの、どなたかと待ち合わせですか?もしそうでなければ自分とお茶でも──」
その刹那、男性の肩にポンと手が置かれる。男性の背後から見えたのは美月の待ち焦がれた人、赤木しげるその人だった。
「悪いな、その人は俺のツレだ」
「赤木さんっ……!」
美月の表情が綻ぶと、それを見た赤木はさりげなく彼女に歩み寄る。
そして赤木は無言で男を睨むと、狼狽えた様子で赤木に謝罪をしてそそくさとその場から姿を消した。
「すまねえ、美月さん。大丈夫?何かされてない?」
「私は大丈夫です、声をかけられただけですから」
ふと美月は赤木を見る。黒いジャケットにチノパン、赤いハイネックを着こなしたカジュアルだが洒落た装いに、美月は新鮮な気持ちになりつつ、こんなにジロジロ見ていてはいけないと思い視線を下に移す。
「あ、あのっ……!今日は、よろしくお願いします……!」
「ククク、こちらこそよろしく。あっちに車停めてあるから行こうか」
「はいっ!」
少し歩くと赤木は何かを思い出したかのように立ち止まると、美月を見る。そんな赤木に美月は小首を傾げた。
「今日の服も可愛いね、似合ってるよ」
「あっ……あ、ありがとうございます……!赤木さんも、その、一段と素敵です」
一段と素敵、その言葉に赤木は無表情ながら心を踊らせた。心の内ではガッツポーズを決めるほどに。
停めてある白いルノーに赤木は案内すると、助手席のドアを開けて美月をエスコートする。美月が座席に座ると、ほんのりと煙草の匂いがした。
間もなく赤木が運転席に座り、車を発進させる。
「赤木さん、今日はどちらへ行かれるのですか?」
「最初は映画館に行こうと思っててね。浅草の新しいところ」
「あ、知ってます、浅草新座ですね!いつか行きたいって思ってたんです」
赤木の予想は的中していた。美月が映画が好きなことは彼女が読む本から大体察しがついたいた。つい先日、浅草にできた新しい映画館に加えて美月が読んでいた恋愛小説が映像化したのだ。
「とても楽しみです、赤木さんは映画はお好きですか?」
「映画か……最後に見たのはガキの頃で、よく覚えてねえが任侠映画を見たな」
「任侠映画ですか、あれも良いですよね、義理人情やロマンがあって」
カチカチと無機質はウインカーの点滅音が車内に響く。車は左折するとそのまま道路を進んだ。
「君、そういうのも見るんだね。親父さんそういうの厳しそうだけど」
「はい、厳しかったです。でも実は、父に秘密でこっそりそういう映画を嗜んでまして……」
彼女は悪戯がバレた子供のように笑う。意外と好奇心旺盛なんだな、と赤木は美月の新しい一面を垣間見てなんだか親近感を覚えた。
「そういえば、赤木さんって運転免許をお持ちなんですね。いつ取られたんですか?」
「…………まあ、少し前にね」
「……そうなのですね!もし運転に疲れたら遠慮なく仰ってください、私も免許を持ってますから」
美月は赤木の言葉の不自然な間で察した。実は美月は持っているのだ、運転免許を。
もしも警察が見回りをしているエリアが近くなったら、自分が運転しようと心に決めた。
──赤木さん、いつかちゃんと免許取ってくださいね……。
そうこうしているうちに映画館へと到着した。赤木は上手に車を駐車場へ停めると、美月と共に映画館へ入る。
鼻腔を優しく刺激するポップコーンと、甘いジュースの匂い。この映画館独特の雰囲気が美月はとても好きだ。
「赤木さん、何を見ましょうか?」
「美月さんの見たいものでいいよ」
映画館内にある額縁に飾られ、並べられたポスターを美月は右から左へと見つめる。任侠映画、恋愛映画、怪獣映画、プロレタリア映画に時代劇。
前売り券を買うのもありかと思ったが、映画が好きな美月がポスターを見たら気が変わるかもしれないと思い、赤木は敢えて買わずにいた。
「赤木さん、この映画が見たいです」
彼女が指さしたポスターは実写化した小説作品──ではなく、もう1本ある別の恋愛映画だった。
大正ロマン恋愛映画らしきそれは、2人の男性と1人の女性がポスターに描かれている。
「うん、それにしよう。すみません、チケット2枚」
「はいよ」
自然に会計を済ませてしまう赤木を美月は少し申し訳なさそうに見つめる。
こういったデートの際は男性を立てるために奢られるべき、と雑誌には書いてはあったのだが、初デートの美月はまだ奢られるという事に慣れないのだ。
「美月さん、行こうか」
「あ、はい!……あの、ありがとうございます」
会釈をする美月を見て、赤木は小さく微笑んだ。彼女の誠実で、純粋なこの心を好きになったのだと赤木は改めて思い馳せる。
「どういたしまして。スクリーンに行こうぜ」
「はい、映画とっても楽しみです」
そしてもう1つ、このふんわりとした優しい笑顔に弱いと赤木は確信した。
赤いベロア生地の椅子に2人は腰掛け、少し話していると開演のブザーが鳴り響いた。
館内が闇と静寂に包まれると、カラカラカラとフィルムの巻取られる音が響き、音楽と共に映像がスクリーンに流れる。
大正時代、第一次世界大戦が始まる前の年代の話。主人公の紗栄子は大手工場会社の社長令嬢で、財閥の嫡男である清一と許嫁の関係にあった。
しかし、ひょんな事から町で出会った海軍下士官の博と恋に落ちてしまう。
清一か、博か、紗栄子の恋の行方はどうなるのか──映画も中盤になった頃、美月の手を握ろうと赤木はふと彼女を見る。彼女は肘掛けには手を置いておらず、膝の上にその手は置かれていた。
そして、彼女は真剣に映画を見ていた。その眼差しは何処までも真っ直ぐで、美月がこの作品に集中し、惹き込まれているのが分かった。
それほど楽しんでくれているのなら良かったと思い、赤木もスクリーンに再び目を向ける。
映画はクライマックスに向けて、映像も音楽も、演出も迫力あるものになっていった。
そして映画は終わり、エンドロールが壮大な音楽と共に流れる。
館内が明るくなり、映画の世界から現実に引き戻される二人。赤木は美月と共に館内を出ると、近くの小洒落た喫茶店に入り映画の感想を楽しく話す。
あのシーンがよかったとか、音楽に力が入っていて素晴らしかったとか、そんな会話をしているとふと赤木は映画の登場人物の関係性に触れる。
「しかし、主人公は海軍の男を選ぶと思っていたから、少し意外だったな」
「私も……主人公は海軍の方と結ばれてほしかったです。でも、お家の決まり事というのはそう簡単に解消できるものでもありませんから、難しいですよね」
美月はティーカップの中の紅茶に映る自分を見つめながら、ふとそんな事を漏らした。
家の決まり事、そう聞いて赤木は美月が良い家柄の人間だった事を思い出す。もうその家とは関係は切れているらしいのだが、関係を切るにあたって色々あったのだろうと察した。
「もし、赤木さんがあの海軍さんの立場だったら……赤木さんはどうしますか?」
「……そうだな」
ふと、そんなことを美月は質問してきたので赤木は少し考える。良家の娘に恋をして、その娘には既に許嫁がいる。
自分のようないい加減な男よりも、許嫁と結ばれた方が圧倒的に良いだろう。
しかし、互いに惹かれ合い、好きになったのなら、赤木はあらゆる手段を尽くして結ばれたいと思う。
現に、目の前の女性がもしそんな立場だったとしたら、赤木ならそうする。この感情が理屈ではないと分かっているから。
「俺なら掻っ攫っちまうかな」
そう答えると、美月は瞳を丸くしてキョトンとした表情をした後、どこか嬉しそうに笑った。
「ふふふっ、赤木さんらしいですね」
「美月さんは?」
「え?」
「美月さんが主人公の立場だったら、どっちを選ぶ?」
1拍呼吸を置いた後、美月は答えた。
「私は……好きになった人と一緒にいたいです」
少し恥ずかしそうに言葉にする彼女を、赤木は表情こそ一切変えないが余りにも愛らしく、尊く思えて、美月に穴が空いてしまうのではないかと思うほど見つめた。
こういう時、カメラでもあればこの瞬間を切り取って永遠のものにできるのか、と思いながら赤木はコーヒーを口にする。
──カメラ、いつか買うか。
喫茶店で二人、軽く昼食を済ませると浅草の街を散策した。
ここの洋食屋が美味しかったとか、ここの雀荘で打ったことがあるなど、お互いの話をしたり、赤木の旅の土産話を聞き入ったり、雑貨屋へ入ったり、街を散策しているうちに二人は隅田川へと出ていた。
「大分歩いたね」
「そうですね、でもこうやって街をお散歩するのも好きです」
隅田川を見つめながら、美月は手袋にはぁっと白い息を吐くと、手を擦り合わせる。
「さむい……」
冬の冷たい風が、美月の黒く嫋やかな髪を揺らす。寒さのせいかほんのりと頬が赤くなっていて、彼女の全てが赤木の胸に甘い矢が刺さったような感覚にさせる。
「寒いね」
そう言うと赤木は彼女の手を優しく包んだ。
「……赤木さんの方が、寒そうです」
手袋をしていない赤木の手を見て美月は言う。
「そうでもないさ、こう見えて手は温かい方なんだぜ」
そう言って赤木は自分よりも小さく細い美月の手を優しく握った。すると美月は顔を赤くさせ、先程まで合っていた目を恥ずかしそうに逸らしてしまう。
しかし、赤木の手のぬくもりが伝わってきて、確かに美月よりも温かい。その感覚に安堵感と、目の前の人が好きだという感情が溢れて、美月は少し照れながらも微笑む。
「温かいです、赤木さんの手」
「ね、言ったでしょ」
「はい」
二人の間に冬の風が吹くと、お互いそのまま何を言うわけでもなく手を繋いで歩いた。
──また、赤木さんと手を繋いじゃった……デートってこういうものなのかな?
胸の鼓動を抑えるように、美月は空いている片方の手でマフラーを所在なさげにいじる。
「そろそろ車に戻ろうか」
「はい、戻りましょう」
二人は駐車場に向かい、車に乗る為に手を離す。助手席に座った美月は、手を繋いだあの瞬間で時が止まってしまえばいいのにと、名残り惜しく思う。
時刻は17時、空は深い紺色に染まり、月が顔を出している。
「さて、晩飯でも食べに行こうか」
「そうですね、どちらへ行かれるんですか?」
「ククク……それは着いてからのお楽しみだ」
そう言って赤木は車を出す。美月はどんな場所なのだろうと期待に胸を膨らませながら、車窓から何となく月をみていた。
そして、冬の気配漂う12月になる。
美月の部屋には灯油ストーブが置かれ、布団もふかふかの冬仕様になっている。
彼女は部屋着に桜色の半纏を着て、美月は机の上に山のように積まれている雑誌に目を通していた。
その雑誌はどれも女性向けの雑誌で、流行りのファッションや髪型から生活に役立つ知恵、更には恋愛相談コーナーといったページがあり、美月はそれらを読み、赤木とのデートに備えていた。
特に恋愛相談コーナーでは美月と同じような初恋の悩み、初デートの悩みを抱えた女性がおり、勝手に仲間意識が芽ばえると共にそれらの回答になるほどと頷いた。
特にデートではどのような服装で行こうか迷っているという回答は大いに参考になった。
化粧や服装はあまり派手すぎず、しかし地味すぎず。ほどほどに動きやすい格好の方が吉との事だ。
ワンピースにヒールの低いブーツやパンプスがオススメと載っており、美月はその欄に付箋を貼った。
早速、今ある洋服でどんなものが良いかを鏡の前で合わせながら悩みに悩む。
──このワンピースは、ちょっと可愛すぎるかな。これは普段着っぽいし……あ、これとこれいいかも。
美月はベストな服装を見つけると、試しに着てみる。これなら動きやすいし、派手過ぎずに良いだろうと納得し、鏡の前でクルクルと回って確認をすると、その服をハンガーに吊るして壁に掛ける。
赤木とのデートが楽しみで、いつ連絡が来るのかと黒電話の呼び鈴が鳴るのが楽しみで心が踊るような反面、初めてのデートで少し緊張もしていた。
ふと、窓の外から見える半分になった月を見る。彼女は眩しそうに目を細め、なんとなく月に手を伸ばす。
その刹那、部屋の電話が鳴り響いた。
はっとした美月は振り向くと、いつもより早足で電話へ駆け寄り、受話器を取ると耳に当てた。
「はい、もしもし?」
『ああ、美月さん。赤木です』
聞きたくて、待ち望んでいた声が美月の耳に木霊する。
「赤木さんっ!お久しぶりです、お元気でしたか?」
美月の表情は夜だというのに、その場を照らすほどにぱぁっと晴れやかになり、赤木からの電話に嬉しさで胸がいっぱいになった。
『うん、元気にやってる。今福島にいてさ、こっちすげえ寒いんだ』
「福島ですか、私が想像できないくらい寒そうです」
黒電話のカールコードを美月は落ち着きなく人差し指に絡め、くるくると巻いている。そんな他愛のない話をしていると、件の話を振ってきたのは赤木からだった。
『なあ、美月さん。8日後って空いてる?』
「ええ、空いてますよ」
『良かった、その時には東京に帰ってるから、デートしよう』
デート、その甘やかな響きは胸をきゅっと抑えた。
「……はい、8日後ですね。あ、何処に集合しますか?」
『そうだな、新宿の百貨店の前に11時にどう?』
「百貨店前に11時ですね、分かりました」
お互い、少しの沈黙。しかしその火蓋を切ったのは美月からだった。
「あの、8日後……楽しみにしてます」
『うん、俺も。……そろそろ電話が切れそうだ、それじゃあまた会おう。おやすみ』
「はい、おやすみなさい」
無機質な機械音が子機の向こうから響く。美月は子機を戻すと両手を頬に当てて、赤くなった顔の熱を抑えようとするが、それは無駄に終わりそうだ。
胸の高鳴りが、ときめきが、ドキドキが止まらない。8日後にはデートなのだと思うと、その期間の難しい講義や辛い提出物も乗り切れそうだ。
カレンダーにデートの日に花丸をつけた時、美月はふと気がついた。8日後は満月ではないか。
「満月の日……」
上弦の美しい月を見上げ、美月は微笑んだ。
それから時間は過ぎ、日付は変わり、あっという間に8日後になった。
一段と冷え込む今日、10時45分には美月は百貨店の前で待っていた。
白いマフラーに黒い手袋、ブラウンのコートを着ており、その下もブラウンのチェック柄のマキシ丈ワンピースに、黒いブーツと少し背伸びをした装いだ。
髪型もいつものとは違い、三つ編みにしている。化粧は崩れていないか、前髪は変ではないか、小さな手鏡でチェックをすると、美月は腕時計に目を向ける。
──赤木さん、何処にいるかな?ああ、どうしよう……楽しみでどうにかなっちゃいそう。
ついソワソワしてしまい、美月は所在なさげにマフラーをいじっていると、一人の男が声をかけてきた。
「あの、お嬢さん……すみません」
見知らぬ男性が美月に声をかけてきた。歳は美月よりも上であろう、短髪の男性はつま先から頭まで美月を見ると、咳払いをして話し出す。
「あの、どなたかと待ち合わせですか?もしそうでなければ自分とお茶でも──」
その刹那、男性の肩にポンと手が置かれる。男性の背後から見えたのは美月の待ち焦がれた人、赤木しげるその人だった。
「悪いな、その人は俺のツレだ」
「赤木さんっ……!」
美月の表情が綻ぶと、それを見た赤木はさりげなく彼女に歩み寄る。
そして赤木は無言で男を睨むと、狼狽えた様子で赤木に謝罪をしてそそくさとその場から姿を消した。
「すまねえ、美月さん。大丈夫?何かされてない?」
「私は大丈夫です、声をかけられただけですから」
ふと美月は赤木を見る。黒いジャケットにチノパン、赤いハイネックを着こなしたカジュアルだが洒落た装いに、美月は新鮮な気持ちになりつつ、こんなにジロジロ見ていてはいけないと思い視線を下に移す。
「あ、あのっ……!今日は、よろしくお願いします……!」
「ククク、こちらこそよろしく。あっちに車停めてあるから行こうか」
「はいっ!」
少し歩くと赤木は何かを思い出したかのように立ち止まると、美月を見る。そんな赤木に美月は小首を傾げた。
「今日の服も可愛いね、似合ってるよ」
「あっ……あ、ありがとうございます……!赤木さんも、その、一段と素敵です」
一段と素敵、その言葉に赤木は無表情ながら心を踊らせた。心の内ではガッツポーズを決めるほどに。
停めてある白いルノーに赤木は案内すると、助手席のドアを開けて美月をエスコートする。美月が座席に座ると、ほんのりと煙草の匂いがした。
間もなく赤木が運転席に座り、車を発進させる。
「赤木さん、今日はどちらへ行かれるのですか?」
「最初は映画館に行こうと思っててね。浅草の新しいところ」
「あ、知ってます、浅草新座ですね!いつか行きたいって思ってたんです」
赤木の予想は的中していた。美月が映画が好きなことは彼女が読む本から大体察しがついたいた。つい先日、浅草にできた新しい映画館に加えて美月が読んでいた恋愛小説が映像化したのだ。
「とても楽しみです、赤木さんは映画はお好きですか?」
「映画か……最後に見たのはガキの頃で、よく覚えてねえが任侠映画を見たな」
「任侠映画ですか、あれも良いですよね、義理人情やロマンがあって」
カチカチと無機質はウインカーの点滅音が車内に響く。車は左折するとそのまま道路を進んだ。
「君、そういうのも見るんだね。親父さんそういうの厳しそうだけど」
「はい、厳しかったです。でも実は、父に秘密でこっそりそういう映画を嗜んでまして……」
彼女は悪戯がバレた子供のように笑う。意外と好奇心旺盛なんだな、と赤木は美月の新しい一面を垣間見てなんだか親近感を覚えた。
「そういえば、赤木さんって運転免許をお持ちなんですね。いつ取られたんですか?」
「…………まあ、少し前にね」
「……そうなのですね!もし運転に疲れたら遠慮なく仰ってください、私も免許を持ってますから」
美月は赤木の言葉の不自然な間で察した。実は美月は持っているのだ、運転免許を。
もしも警察が見回りをしているエリアが近くなったら、自分が運転しようと心に決めた。
──赤木さん、いつかちゃんと免許取ってくださいね……。
そうこうしているうちに映画館へと到着した。赤木は上手に車を駐車場へ停めると、美月と共に映画館へ入る。
鼻腔を優しく刺激するポップコーンと、甘いジュースの匂い。この映画館独特の雰囲気が美月はとても好きだ。
「赤木さん、何を見ましょうか?」
「美月さんの見たいものでいいよ」
映画館内にある額縁に飾られ、並べられたポスターを美月は右から左へと見つめる。任侠映画、恋愛映画、怪獣映画、プロレタリア映画に時代劇。
前売り券を買うのもありかと思ったが、映画が好きな美月がポスターを見たら気が変わるかもしれないと思い、赤木は敢えて買わずにいた。
「赤木さん、この映画が見たいです」
彼女が指さしたポスターは実写化した小説作品──ではなく、もう1本ある別の恋愛映画だった。
大正ロマン恋愛映画らしきそれは、2人の男性と1人の女性がポスターに描かれている。
「うん、それにしよう。すみません、チケット2枚」
「はいよ」
自然に会計を済ませてしまう赤木を美月は少し申し訳なさそうに見つめる。
こういったデートの際は男性を立てるために奢られるべき、と雑誌には書いてはあったのだが、初デートの美月はまだ奢られるという事に慣れないのだ。
「美月さん、行こうか」
「あ、はい!……あの、ありがとうございます」
会釈をする美月を見て、赤木は小さく微笑んだ。彼女の誠実で、純粋なこの心を好きになったのだと赤木は改めて思い馳せる。
「どういたしまして。スクリーンに行こうぜ」
「はい、映画とっても楽しみです」
そしてもう1つ、このふんわりとした優しい笑顔に弱いと赤木は確信した。
赤いベロア生地の椅子に2人は腰掛け、少し話していると開演のブザーが鳴り響いた。
館内が闇と静寂に包まれると、カラカラカラとフィルムの巻取られる音が響き、音楽と共に映像がスクリーンに流れる。
大正時代、第一次世界大戦が始まる前の年代の話。主人公の紗栄子は大手工場会社の社長令嬢で、財閥の嫡男である清一と許嫁の関係にあった。
しかし、ひょんな事から町で出会った海軍下士官の博と恋に落ちてしまう。
清一か、博か、紗栄子の恋の行方はどうなるのか──映画も中盤になった頃、美月の手を握ろうと赤木はふと彼女を見る。彼女は肘掛けには手を置いておらず、膝の上にその手は置かれていた。
そして、彼女は真剣に映画を見ていた。その眼差しは何処までも真っ直ぐで、美月がこの作品に集中し、惹き込まれているのが分かった。
それほど楽しんでくれているのなら良かったと思い、赤木もスクリーンに再び目を向ける。
映画はクライマックスに向けて、映像も音楽も、演出も迫力あるものになっていった。
そして映画は終わり、エンドロールが壮大な音楽と共に流れる。
館内が明るくなり、映画の世界から現実に引き戻される二人。赤木は美月と共に館内を出ると、近くの小洒落た喫茶店に入り映画の感想を楽しく話す。
あのシーンがよかったとか、音楽に力が入っていて素晴らしかったとか、そんな会話をしているとふと赤木は映画の登場人物の関係性に触れる。
「しかし、主人公は海軍の男を選ぶと思っていたから、少し意外だったな」
「私も……主人公は海軍の方と結ばれてほしかったです。でも、お家の決まり事というのはそう簡単に解消できるものでもありませんから、難しいですよね」
美月はティーカップの中の紅茶に映る自分を見つめながら、ふとそんな事を漏らした。
家の決まり事、そう聞いて赤木は美月が良い家柄の人間だった事を思い出す。もうその家とは関係は切れているらしいのだが、関係を切るにあたって色々あったのだろうと察した。
「もし、赤木さんがあの海軍さんの立場だったら……赤木さんはどうしますか?」
「……そうだな」
ふと、そんなことを美月は質問してきたので赤木は少し考える。良家の娘に恋をして、その娘には既に許嫁がいる。
自分のようないい加減な男よりも、許嫁と結ばれた方が圧倒的に良いだろう。
しかし、互いに惹かれ合い、好きになったのなら、赤木はあらゆる手段を尽くして結ばれたいと思う。
現に、目の前の女性がもしそんな立場だったとしたら、赤木ならそうする。この感情が理屈ではないと分かっているから。
「俺なら掻っ攫っちまうかな」
そう答えると、美月は瞳を丸くしてキョトンとした表情をした後、どこか嬉しそうに笑った。
「ふふふっ、赤木さんらしいですね」
「美月さんは?」
「え?」
「美月さんが主人公の立場だったら、どっちを選ぶ?」
1拍呼吸を置いた後、美月は答えた。
「私は……好きになった人と一緒にいたいです」
少し恥ずかしそうに言葉にする彼女を、赤木は表情こそ一切変えないが余りにも愛らしく、尊く思えて、美月に穴が空いてしまうのではないかと思うほど見つめた。
こういう時、カメラでもあればこの瞬間を切り取って永遠のものにできるのか、と思いながら赤木はコーヒーを口にする。
──カメラ、いつか買うか。
喫茶店で二人、軽く昼食を済ませると浅草の街を散策した。
ここの洋食屋が美味しかったとか、ここの雀荘で打ったことがあるなど、お互いの話をしたり、赤木の旅の土産話を聞き入ったり、雑貨屋へ入ったり、街を散策しているうちに二人は隅田川へと出ていた。
「大分歩いたね」
「そうですね、でもこうやって街をお散歩するのも好きです」
隅田川を見つめながら、美月は手袋にはぁっと白い息を吐くと、手を擦り合わせる。
「さむい……」
冬の冷たい風が、美月の黒く嫋やかな髪を揺らす。寒さのせいかほんのりと頬が赤くなっていて、彼女の全てが赤木の胸に甘い矢が刺さったような感覚にさせる。
「寒いね」
そう言うと赤木は彼女の手を優しく包んだ。
「……赤木さんの方が、寒そうです」
手袋をしていない赤木の手を見て美月は言う。
「そうでもないさ、こう見えて手は温かい方なんだぜ」
そう言って赤木は自分よりも小さく細い美月の手を優しく握った。すると美月は顔を赤くさせ、先程まで合っていた目を恥ずかしそうに逸らしてしまう。
しかし、赤木の手のぬくもりが伝わってきて、確かに美月よりも温かい。その感覚に安堵感と、目の前の人が好きだという感情が溢れて、美月は少し照れながらも微笑む。
「温かいです、赤木さんの手」
「ね、言ったでしょ」
「はい」
二人の間に冬の風が吹くと、お互いそのまま何を言うわけでもなく手を繋いで歩いた。
──また、赤木さんと手を繋いじゃった……デートってこういうものなのかな?
胸の鼓動を抑えるように、美月は空いている片方の手でマフラーを所在なさげにいじる。
「そろそろ車に戻ろうか」
「はい、戻りましょう」
二人は駐車場に向かい、車に乗る為に手を離す。助手席に座った美月は、手を繋いだあの瞬間で時が止まってしまえばいいのにと、名残り惜しく思う。
時刻は17時、空は深い紺色に染まり、月が顔を出している。
「さて、晩飯でも食べに行こうか」
「そうですね、どちらへ行かれるんですか?」
「ククク……それは着いてからのお楽しみだ」
そう言って赤木は車を出す。美月はどんな場所なのだろうと期待に胸を膨らませながら、車窓から何となく月をみていた。
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