月を見ていた
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君の笑う顔が好きだ。
君の何もかもが──好きだ。
秋の陽射しの中で、真剣な表情をして勉強に取り組むその姿も。
酔うと少し眠くなって、のんびりとした口調になるところも。
友達と話すときは少し砕けた口調になるところも。
頑張り屋で、悲しい過去があっても気丈に明るく振る舞うところも。
全部、全部が好きだ。初めて出会ったその時から──。
美月さん、どうすれば俺のことを好きになってくれる?
君に恋をしてから、君のことしか考えられないんだ。
君以外、何も要らないくらいに君が好きなんだ。
*
赤木が怪我をした美月を介抱する日々を送って2日が経った。まだ片目、片手の生活を余儀なくされる美月は、今日も赤木を頼るしかない。
「美月さん、髪梳かすよ」
「あ、ありがとうございます……」
朝起きたら美月の髪を丁寧に梳かし──。
「はい、美月さん、口開けて」
「はい……」
聞き手が使えない美月に代わって朝食を作り、食べさせるまでがセットになっている。
「美月さん、階段気をつけてね」
階段を降りる時は赤木が美月の手を取り、駅まで送るのが最近の朝の日課となっている。
赤木との距離が物理的に近くなり、美月は繋がれている手をチラリと見ると、赤くなった顔を隠すように俯いた。
「じゃ、気をつけていってらっしゃい」
「は、はいっ!いってきます!」
小さな美月の後ろ姿が電車に乗っていく。彼女は座席に座りひと息つくと、片手で熱くなった頬を抑えた。
──赤木さんとの距離が物理的に近くて、ドキドキして体が持たない……っ!
朝のような送りの時だけはなく、赤木は美月の目が覚めてからずっと、献身的に世話をしている。
朝は髪を梳かし、朝食を食べさせ、駅まで送り、帰りも駅まで迎えに来る。そして家に到着すれば夕飯は何がいいかと尋ねて出前を取り、包帯を取り替えてくれる。
そんな生活が2日続き、美月は恋愛感情を整理しきれず、赤木の前で顔を赤くしたり青くしたり、初恋の人にこんなに献身的にして貰えるとは夢にも思っていなかったため、美月は心臓の鼓動で今にも爆発してしまいそうな勢いなのだ。
そんなにしなくても大丈夫、と一言彼に伝えたのだが──彼には「片腕、片目じゃ不便で危ないでしょ?」と正論を言われてしまい、それに不謹慎ながらこの生活に少し喜んでいる自分に、罪悪感も覚えていた。
それに、以前の別れ際に抱きしめられた理由も美月は分かっていない。
その時の事を思い出す度に、美月の胸は鷲掴みされたように苦しくなる。
「……はぁ」
場面は変わり、大学のキャンパス内で美月はため息をついた。キャンパスの中に併設された喫茶店で、サンドウィッチを少しずつ齧っていると、美月の名前を呼ぶ声が聞こえる。
「あ、美月じゃん!」
二人の女子が美月に笑顔で声をかける。それに応えて美月も小さく手を振ると、一人の女子がまた尋ねてくる。
「明日のサークル活動どうする?」
「うーん……怪我してるし今回は遠慮しとく。ごめんね」
「分かった、サークルの皆にそう伝えとくね!」
「早く良くなるといいね!」
「ありがとう」
そんなやり取りをすると、女子二人組は講義があるため喫茶店を後にした。残った美月は、喫茶店の静けさと共にまたサンドウィッチを口にした。
本日の講義を終えて、美月は自宅からの最寄り駅に到着する。電車を降りて切符を車掌に回収して貰おうと改札に向かう途中の事だった。
「あ、永代さん?」
振り返ると、そこには一人の青年が立っていた。黒髪に細身で、口元にホクロのある彼に美月は見覚えがあった。
「あら、紺野先輩。お久しぶりです」
「久しぶりだね。……サークルの人達から聞いたよ、怪我は大丈夫なの?」
「はい、見た目は少し酷いですけど……大した事ありませんよ」
美月はあはは、と困ったような笑顔で利き手の包帯を摩る。
「そっか……災難だったね。サークルの子から聞いたよ、歩道橋から突き落とされたんだろう?可哀想に」
紺野と呼ばれた青年は労しそうに美月を見る。
「そうだ、良かったら君の住まいまで送っていくよ。片目だと何かと不便だろう?」
「い、いえ!そんな!紺野先輩にご迷惑をおかけする訳にはいきません!それに──」
チラリと、美月の視界に見慣れた白が映る。
「すみません、待ち合わせをしているので失礼しますね。また怪我が治りましたらサークル活動にご参加させていただきます。それでは」
「あ、うん、それじゃあ……」
美月は軽く紺野に会釈をしてから改札を出ると、見慣れた白髪の青年が紫煙を燻らせながら待っていた。
「美月さん、おかえり」
「はい、ただいま帰りました」
お互い顔を合わせると、表情を和らげる。赤木は美月の荷物を慣れた手つきで持つと、美月のペースに合わせて、さくら荘へと歩みを進めた。
その二人の後ろ姿を、紺野は憎悪と嫉妬が混ざったような、じっとりとした表情で見つめていた。
「赤木さん、今日は何してたんですか?」
「適当な雀荘行って打ってた。美月さん、今日は何食べたい?」
「うーん……今日は……」
自分の片手で食べられる物を模索するも、そういったものでも赤木が食べさせてくるだろう事は安易に想像できる。
なので、いっそ赤木が食べたい物を美月は何となく聞いてみた。
「逆に、赤木さんが食べたいものはありますか?」
「俺?俺は……そうだな、カレー」
「カレー、いいですね!家に帰ったらカレーを出前でやってるお店を探しましょう」
赤木はうん、と頷くと美月の手をそっと繋いだ。あまりにも自然な動作に美月はドキッとして、赤木を思わず見つめる。
「あ、あの……」
「ん?どうかした?」
赤木は顔色を変えず小首を傾げると美月を見た。対する美月は顔を赤くして、少し俯き加減だ。
「な、なんでもない……です……」
すると、赤木は繋いだ手を見て理解したように答える。
「片目だと平衡感覚が弱くなって、転んだり躓き易くなるんだって雀荘で聞いてさ。また転んだりして怪我したら危ないでしょ?」
「そ、そうなんですね!なるほど、あはは……」
──そ、そうだよね!なに期待してるんだか、私ったら。
美月は赤木と手を繋ぎ、歩みを進める。
──ああ、このまま……時間が止まらないかな。
繋いだ手の温度を感じながら、美月は目を伏せて思った。
帰宅すると美月は早めにシャワーを浴びると、赤木に髪を拭いてもらい、ドライヤーで乾かしてもらっている真っ最中だ。
艶やかな髪を赤木は旋毛から毛先まで丁寧に扱う。髪が絡まないようにブラシを通し、熱で髪が痛まぬように少し遠くからドライヤーをかける。
──赤木さん、髪の毛扱うの上手だなぁ。まるで美容師さんみたい。手先が器用だし、そういう事やってたのかな?いや、赤木さんが美容師さんをやってたって話は聞いた事ないし、それはないか。じゃあ……。
髪を乾かして貰っている時、美月の脳裏に浮かんだ″元交際相手″という存在。
赤木は美月から見ても、誰が見ても格好よくて素敵な人物だ。己を貫き、風来坊ながら我が道を往くその立ち振る舞い。勝負をしている時の圧倒的な強さ、華のある打ち方はその筋の人々を魅了している。
そんな、人々を魅了する赤木の事だ。元交際相手の一人や二人いてもおかしくないだろうと美月は考える。
──まあ、いるよね……こんなにかっこよくて、優しい人だもの。
「……さん、美月さん?」
「はっ、はいっ!?」
「終わったよ」
「あっ、ありがとうございます!」
脱衣所から二人は出ると、カレーの出前を取り、お互い今日あった出来事を話した。
「そう言えば、駅で話しかけてきた人は誰?」
「ああ、あの方は経済研究会というサークルの紺野先輩です。サークルに入ったばかりの私たちに親切にしてくれて、良い先輩なんですよ」
「ふーん。……その先輩、この辺りに住んでるの?」
「いいえ、確か上野方面にお住いと仰ってました」
「そう、どうして正反対のこっち方面にいたの?」
「そこまでは分かりませんけれど……たまたまこっちに用事があったのではないでしょうか?」
そんな会話をしていると、部屋の呼び鈴が鳴る。赤木は立ち上がると玄関へと向かい、カレーを受け取って戻ってきた。
「美月さん、カレーきたよ」
「わぁ、いい匂いです……!」
「さて、食べようか」
「はいっ!いただきます」
「いただきます」
赤木はスプーンを持つとカレーを掬い、少し冷ましてから美月の口へとゆっくり運んだ。
小さな口が少し恥ずかしそうに開き、カレーを食む。時折、髪を耳にかける仕草がどうも赤木の目には可愛らしくも色っぽく見えてしまい、悶々とした感情を募らせる。
──この人、自分が可愛いって自覚ねえのかな……。
可愛らしい美月を見つめつつ、赤木は先程、美月と駅で親しげに話していた紺野という男を思い出す。
優男という出で立ちの青年で、美月の怪我を心配していた。
そして、美月と共に歩く自分達を恨めしそうに見つめるその眼差しを、赤木は見逃していなかった。
「美月さん、最近入ったサークルって奴はどんな感じなの?」
「ええっと、活動内容のお話でしょうか。活動内容は経済に関する勉強会や討論会が主ですね。年に一度経済学の全国討論大会があって、選ばれたメンバーはその大会に出たりするんです」
活動内容は至って真面目だ。赤木はあまり大学生の事情に詳しくはないが、雀荘で打っていて小耳に挟んだ事がある。
大学のサークルとやらの中には、あまりよろしくないものもあるそうだ。
その様なサークルではないことに赤木は取り敢えず安心した。
「そっか。あの紺野って人とは仲良いの?」
「仲が良いかは分かりませんが……分からないことがあると色々と教えてくれて、頼れる先輩だと思ってます」
「ふーん」
赤木はそれを聞いて少しホッとした。美月が紺野という男に対して好意は持っていないのと、恐らく最低限の付き合いであろう事がその発言から伺える。
それに、先日やってきた岡田佳代子が言っていた、美月は名の知れた何処ぞの令嬢な事もあって赤木は美月の事を心配していたのだ。
「美月さん、寄ってくる男には気をつけなよ、男なんて皆ロクでもないんだ、警戒するに越したことはないよ」
「あ、赤木さんも男の人じゃないですか」
美月がそう言うと、赤木は彼女を見て優しく、しかし何処か自嘲するように微笑む。
「ククク、そうだね……俺もロクでもない男さ」
──君が好きで、どうしたら心ごと手に入れられるか、俺のものになってくれるか、そんな事ばっかり考えちまう。
そんな風に笑う赤木を、美月は目を丸くして見つめる。そして、美月も釣られて微笑んだ。
「ロクでもない人は、人にこんなに優しくしませんよ」
「……優しい、ねぇ」
赤木は思うところがあり呟く。
自分の様なギャンブルジャンキーは優しくなどない。寧ろ苛烈で、破滅を求めて鉄火場に往き、相手を追い詰めるような人間は優しさとは程遠い。
美月が運ばれてきたカレーを食べる。それを飲み込むと、彼女は優しく微笑んだ。
「誰が何と言おうと、赤木さんは優しい人です」
「……ククッ、そっか、ありがとう」
彼女の瞳には、自分はどうやら優しい人だと映っているようだ。
この優しさが自分の下心と、彼女への愛しさで作られていることが赤木自身なんだかむず痒く、それと同時にこれが人を好きになることなのかと不思議と府に落ちた。
食事を終えて、洗った皿を玄関の前に置くと赤木はふと視線を感じて顔を上げる。
さくら荘の玄関から見える道の電柱の影から、何者かがこちらを見つめている。背格好からして男性のようだが、顔は帽子を深く被っているため見えずらい。
そしてあちらも、赤木の視線を感じ取ったのか帽子のつばを軽く下げると、ゆったりとした足取りでその場から立ち去った。
「……」
赤木はそんな男性を一瞥すると、部屋に戻り美月と少しばかり談笑すると、明日は朝早くから夕方頃まで大学にいるとの事で早めの就寝になった。
✽
「知り合いが付き纏われてる?」
薄暗いバーのカウンター席の端の方で、ウイスキーを傾ける格子模様の入ったジャケットを着た大柄な男は怪訝そうな表情を浮かべながら言う。
「ああ、知り合いが最近見知らぬ男に突き落とされうえに、恐らく付き纏われてる。だから安岡さんにその子の家の周りを警備してほしいんだ。今度、デカい勝負があったら引き受ける。それでどう?」
紫煙を燻らせ、淡々と赤木は言葉を紡ぐ。安岡はその言葉を聞くとニヤリと悪い笑みを浮かべる。
「……いいだろう、引き受けよう。で、そのお前の知り合いの住所は?」
赤木はポケットからメモを取り出し、安岡にそれを渡した。
「そこに書いてある。暫く俺もそこにいるけど、いつも一緒にいてやれるわけじゃあない。頼んだよ、安岡さん」
「任せとけ、不審な人物がいたら片っ端からお縄にしてやる」
「ククク、頼もしいね。それじゃ、俺はこれで」
赤木は2000円をカウンターテーブルに無造作に置くと、早々に席を立つ。
「ん?もう行くのか」
「ああ、知り合いを迎えに行かなきゃいけないんでね。それじゃ」
淡々とそう言うと、赤木はバーを出て真っ直ぐ美月と待ち合わせている駅前へと向かった。
駅の改札口を見渡すも、今日は紺野の姿は見当たらない。暫く煙草を吸って待っていると、改札口から手首に包帯を巻き、眼帯を着けた女性が現れる。
「赤木さん……!」
小さく手を振り、笑顔で駆け寄る姿は赤木の心を甘く締め付ける。
「ただいま帰りました!」
「うん、おかえり。今日は買い物はする?」
「はい、石鹸と洗剤と……あとちり紙が少なくなってきたので買いに行きましょう」
うん、と赤木は返事をすると美月の手を優しく取る。
秋の夕暮れの中、二人は手を繋いで歩く。美月の顔が赤く染まっていたのは、夕日に照らされているからなのか、それとも手を繋いでいるからなのか──赤木にはまだ分からなかった。
雑貨屋に立ち寄り、石鹸と洗剤、ちり紙を買って帰宅する。今日は寿司が食べたいと美月のリクエストがあったので寿司を取ることにした。
届いた寿司を二人で食べ、寿司桶を外に出すべく赤木は玄関を開けて、また道を見る。
今日もその男は、表情こそ窺え知れないがこちらを見つめていた。赤木の視線に気がつくと、男は帽子を深く被り直して、昨日のようにゆったりと歩いて去っていく。
何をする訳でもなく、ただ見つめるだけなのが返って不気味に感じる。赤木はまたその男を一瞥すると部屋に戻った。
──昨日、飯食って皿を玄関に置いた時間が大体6時くらいで、今日寿司桶を外に置いた時間が8時。あいつが今日何時からいるかは分からねえが、6時からいたと仮定すると2時間あそこに突っ立ってる事になる。
赤木はシャワーを浴びながら、このさくら荘を張っている男の事を考えた。
──俺が目的なら、雀荘なりに行く時に声をかけるはずだ。あのナリからしてヤーさんじゃあ無さそうだ。と、すると必然的に美月さんが目的って事になる。
最近、美月の身の回りで起きた突き落とし事件もあり、赤木は美月の環境の変化に対して敏感になっている。
しかし、彼女から話を聞く限りトラブルも無く、友人たちやサークル仲間たちとの関係は良好そのものだ。
そうなると赤木の中で考えられたのは、バイト先での客か、あるいはサークル仲間内での付き纏いの可能性が高い。
しかし何をする訳でもなく、男はこちらを見るだけで、発見されたら立ち去っていく。勘違いの可能性もあるが、用心するに越したことはない。
──見てくるだけってのも不気味だな……。安岡さんが早く動いてくれるのを今は願うしかねえか。
ひとしきり考えて風呂場から出ると、赤木は身体を拭いてドライヤーで髪を乾かすと脱衣所から出る。
「あ、おかえりなさい」
美月は恋愛小説を机で寛ぎながら読んでいた。
赤木はお風呂ありがとう、と一言言うと彼女の隣に座る。
「何読んでるの?」
「樋口一葉のにごりえ・たけくらべです。ご存知ですか?」
「いいや、知らねえな」
「私も高校生になって読み始めたのですが、この作品が好きなんです。特にたけくらべの、少年少女の淡い恋愛描写が素敵なんですよ」
「へえ、今度俺も読んでみようかな」
「是非!オススメですよ!」
ふと赤木は思った。彼女の本棚には最近恋愛小説が増えている、と。
「ねえ、美月さん」
「はい?」
「最近、恋愛小説ハマってるの?」
そう尋ねると、彼女は少し考えるようにうーん、と唸った後に答える。
「そうなのかもしれません。赤木さんに言われて気が付きました、確かに最近買った本は恋愛小説が多い……です、ね……」
本棚に視線を移してから、美月は段々と歯切れが悪くなり、遂には本で顔を隠してしまう。
「美月さん?」
「あ……その、元々恋愛小説は好きなので、それで多くなったのかもしれませんね、あはは」
元々恋愛小説はジャンルとしては好きだが、最近の美月は恋愛というものを知るべく、流行りの恋愛小説だったり、名作と呼ばれる恋愛小説を数冊購入したのだった。
そこを見られているとは思ってもおらず、かつ想い人に指摘されてしまい、ちゃんと自分を見てくれている嬉しさと恥ずかしさで、美月は目を伏せる。
「ねえ、美月さん」
赤木は美月の手に持っていた本の背表紙に、人差し指を優しく引っ掛けると傾けて、彼女の顔を覗いた。
「顔、赤いね。どうしたの?」
じっと、何を考えているのか分からない無表情で赤木は美月を見つめて尋ねる。
赤木との距離が縮まり、美月はかっと頬が熱くなるのを感じた。
「っ──!?な、なんでもありません……から。……あの、そんなに見ないでください……」
弱々しく、観念したように言うと赤木は機嫌が良さそうに笑う。
「ククク、ごめんごめん。君があんまりにも可愛いからさ」
「っ──!?」
可愛い、その言葉に美月は丸い目を見開き、顔を更に赤くすると本を閉じ、立ち上がると赤木に抗議するように言った。
「かっ……からかうのはやめてください……!わ、私は……可愛くなんて……ないです」
細々と、そして弱々しいその声を発する美月は、赤木には可愛らしい子猫が鳴いているようにしか見えない。
彼女は自分のことを可愛くないと否定するが、赤木からしたらそうは見えず、照れる彼女がただただ何処までも愛おしい。
「可愛いよ」
「かわいくない、です……」
「そんな事ないのに」
赤木も立ち上がり、美月を見る。視線がかち合うと、美月は照れているのか頬を赤く染め、へにゃりと眉を八の字に曲げて困ったような表情を浮かべている。
そんな美月の表情に呆気を取られて見つめていると、彼女はふいっと視線を逸らして逃げるように布団の中へ入っていってしまった。
「も、もう寝ますからっ……!おやすみなさい」
珍しく顔まで掛け布団を覆い、電気を消さずに赤木を放置して美月は照れを隠す。
先程の困ったような表情も、今の言動も、赤木の心を擽り、想いを溢れさせるには十分だった。
美月に聞こえないように深くため息をつき、赤木はニヤけた口元を隠すように手を当てる。
──……可愛い。こんな可愛い人がいたら、悪い虫の1匹や2匹寄ってきちまうかもしれねえな……。
こんもりとした布団を愛おしそうに見つめて、赤木はおやすみと言うと電気を消すのだった。
*
それから数日後、ある日の薄暗いバーで赤木はとある人物をテーブル席で待っていた。
カランカランと音を立ててドアベルが鳴り響く。
「すまんアカギ、遅くなった」
「構いませんよ、安岡さん。で、頼んだもの持ってきてくれましたか?」
安岡が席に座るのを確認すると、赤木は用意しておいたグラスにビールを注ぎ、安岡に差し出す。
「ああ、持ってきたぞ。ほらよ」
A4サイズの茶封筒を受け取ると、赤木は封筒の中身を確認した。中身は調書だった。
赤木は調書に目を通すと、冷たくスッとその瞳を細める。
「こいつが……付き纏ってたやつ?」
「証拠がないから何とも言えないが、赤木の言われた通りアパートを見つめていた男はこいつだ。午後6時から9時頃までずっと見ていたぞ」
「……そう、ありがとう」
そう一言告げると赤木は煙草を胸ポケットから取り出し、マッチで火をつけた。昇りゆく煙がゆらゆらと薄暗い店内を揺れる。
「まあ、件の奴にはあの周辺にもう近寄らないようにキツく言っといたし、不審者ってことで誓約書にもサインさせた。また何かすれば確実にお縄だ」
「助かったよ、安岡さん。じゃ、俺はこれで。代打ちの日取りが決まったら連絡よろしく」
「なんだよ、飲んでかねえのか?」
「悪いね、今日はちょっと寄るところがあるからさ。お先に」
そう言うと赤木は薄く笑い、ポケットからまた適当な金額の札を取り出すと安岡に渡し、バーを去っていった。
夜の10時半頃、赤木はとある喫茶店の前にいた。
煙草を吸ってしばらく待っていると、お疲れ様でしたと聞き慣れた声が聞こえる。
「あ、赤木さん……!ごめんなさい、待ちましたか?」
「いいや、今着いたところ。……おかえり、美月さん。バイトお疲れ様」
「ありがとうございます、すみません、お迎えにきてもらって」
「俺がやりたくてやってるんだし、構わないさ。さあ、帰ろう」
「はいっ!」
あれから一週間が経過し、目と手首の怪我がすっかり治った美月はアルバイトに復帰した。
しかし、まだ美月を突き落とした犯人は分かっておらず、かつ付き纏いの件もあるので、赤木はもう少し美月のそばに居る事を決めたのだ。
「今日は店長から鶏の胸肉にネギ、生姜を貰いました。帰ったらこれ使ってご飯作りますね」
「うん、楽しみにしてるよ。バイトはどうだった?」
「今日は忙しかったですね。とあるお客様が団体でやってこられて……」
他愛のない話をしながら二人は夜の道を歩く。件の歩道橋に差し掛かったその時、美月は反対車線の歩道を見つめると、赤木の服の袖をきゅっと掴んだ。
「どうしたの?美月さん」
「あそこに立ってる人、見えますか?」
美月が視線を向けるその先には、美月のアパートの周りを彷徨いていた男が立っていた。
「同じです……」
「え?」
「あの時、私を歩道橋から突き落とした人と、服装が同じなんです……」
その言葉を聞いた刹那、赤木の鋭い視線が男を確実に捉える。
「…………美月さん、この通路を真っ直ぐ進んで、なるべく早く帰って」
「あ、赤木さん……?」
「少し……用事ができたからさ。いい?早く家に帰って戸締りしっかりね。俺が帰ってくるまで誰が来てもドアは開けちゃダメだよ」
それだけ伝えると、赤木は歩道橋を渡り男の元へと走っていく。美月もただ事ではないと思い、赤木の言われた通り道路を早足で歩くのだった。
*
君のことが好きだ。
君のことが好きだから、いつだって見守っていたい。
君の全てが、欲しくて、欲しくて──堪らないんだ。
こんな気持ちは初めてで、どう抑えたらいいか分からなくて──思考と鼓動を心地良くかき乱される。
君の嫋やかな微笑みも、綺麗な濡鴉色の髪も、爽やかな春のような香りも──全部、俺だけのものにしたい。
俺以外見ないで、美月さん。
だから──その白髪の男から、今すぐ離れてくれないか、美月さん。
「よお、不審者さんよ」
歩道橋から降りてきたその白髪の男──赤木しげるはその男に声をかける。飄々とした口調だが、その声色には明確に怒気が含まれていた。
そして彼から漂う異様な雰囲気に気圧され、その男は脱兎の如く走り出す。
息を切らし、路地裏に駆け込んだ男は振り返る。
──追ってこない……?撒けた、のか?
そう思った刹那、背後から力強く肩を掴まれる。
そして頭部と背中に鈍い痛みが走る。壁にぶつかり、押し付けられたのだと自覚した。
目の前には、怒りを顕にする白髪の男が手を伸ばし、男の顔を隠していた帽子を剥ぎ取る。
「まさか、歩道橋から突き落としたものアンタだったとはな………紺野さん」
「ぐっ……!さ、さぁ?なんのことだか。俺は今日、たまたま通りかかっただけだ」
「へえ、たまたま通りかかったのか。ならどうして顔を隠す必要がある?」
「フン!いちいち人の服装にケチをつけるな!こういう服装の時もあるだろ」
ああ言えばこう言う紺野を赤木はぶん殴りたくなったが、今は我慢だ。
「美月さん、言ってたぜ。自分を突き落とした奴と服装が同じだってな。……どういうつもりであの人を傷つけた??目的は何だ??」
赤木の掴む力が強くなる。服の繊維がギリギリと音を立て、紺野は足が浮いてくのを感じた。
「うぐぅっ!お、お前こそ何なんだ!美月さんに近寄りやがって……!お前みたいなよく分からない男が!」
赤木は紺野の問いかけに応える。
「俺はあの人の恋人だ」
「は………はぁっ!?」
「それはどうでもいいとして、この前調書取られたのに繰り返すってことは、アンタ相当馬鹿なんだな」
「な、何を──!?」
「もう黙ってくれ、五月蝿いんだよ」
そう言うと赤木は一発、重い拳を紺野にお見舞いする。紺野はその一発で気を失ってしまい、その場に伸びてしまった。
侮蔑の眼差しを紺野に向けると、赤木は近くのスナックに入り電話を借り、安岡に繋いだ。
「安岡さん、赤木しげるだけど……今大丈夫?」
数分後、パトカーで駆けつけた安岡が目にしたのは路地裏で伸びている紺野を煙草を吸いながらロープで巻き上げている赤木しげるの姿だった。
「赤木、お前なぁ……」
「別にいいでしょ、危害加えてきたのはこいつが先だ」
人使いが荒いぞ、そこまでやらなくても、安岡は色々と言いたいことがあったが、それらをため息と共に無かったことにした。
「またそいつか、この前キツいお灸を据えたばっかりだってのに」
呆れたように安岡は紺野を見ると、部下に指示をして紺野を担がせるとパトカーの中に乱雑に押し込む。
「今度はもう少しキツめの尋問で頼むよ、安岡さん。そいつ、美月さんを突き落とした犯人みたいだからさ」
「……貸し二つな」
「ああ、頼む」
「また色々分かったら連絡する。じゃあな」
手短に別れの挨拶を済ませると、赤木はもう一本煙草に火をつけ一服する。
一先ずこれで美月を取り巻く厄介事は片付いた。あの紺野という男の行動原理は赤木には理解不能だが、今はただ帰ろうと思い、赤木は足を進める。
アパートに戻ってきたのは23時を少し過ぎた頃。美月の部屋の鍵を開けると、彼女の鈴の音のような声が赤木を出迎えた。
「赤木さん……っ!おかえりなさい、何があったんですか?お怪我はありませんか?どこか痛いところは?」
心配そうにこちらを見つめる美月を安心させようと、赤木は微笑む。
「ククク、大丈夫大丈夫。ちょっと野暮用ができただけだからさ」
「……赤木さん」
美月は赤木が自分の為に、あそこにいた男性に何かしらの制裁を下してきたであろう事は察していた。
美月は少し赤く腫れている赤木の右手をそっと包み込む。
「あんまり、無茶しないでください」
「……」
「でも……ありがとうございます」
優しく微笑む彼女を見て、赤木は一瞬時間が止まったような感覚に陥る。
このまま彼女を抱きしめてしまいたいという衝動に駆られるが、彼女の手が離れていく。
「ご飯の準備できてますから、食べましょう」
「うん」
無邪気な笑みを浮かべる美月の後ろを、赤木はついていく。
──そういえば、勝手に美月さんの恋人名乗っちまった。
卓袱台の前に座り、いただきますと食事前の挨拶をすると、赤木と美月は食事をする。
その平穏で、彼女との何気ない時間が愛しく、何事にも変えがたく、赤木はまた美月を見る。
──……まあ、あいつには恋人ってことでいいか。
美月の作ったカレーを赤木は口に運ぶ。
今日は少しだけ甘いような気がした。
君の何もかもが──好きだ。
秋の陽射しの中で、真剣な表情をして勉強に取り組むその姿も。
酔うと少し眠くなって、のんびりとした口調になるところも。
友達と話すときは少し砕けた口調になるところも。
頑張り屋で、悲しい過去があっても気丈に明るく振る舞うところも。
全部、全部が好きだ。初めて出会ったその時から──。
美月さん、どうすれば俺のことを好きになってくれる?
君に恋をしてから、君のことしか考えられないんだ。
君以外、何も要らないくらいに君が好きなんだ。
*
赤木が怪我をした美月を介抱する日々を送って2日が経った。まだ片目、片手の生活を余儀なくされる美月は、今日も赤木を頼るしかない。
「美月さん、髪梳かすよ」
「あ、ありがとうございます……」
朝起きたら美月の髪を丁寧に梳かし──。
「はい、美月さん、口開けて」
「はい……」
聞き手が使えない美月に代わって朝食を作り、食べさせるまでがセットになっている。
「美月さん、階段気をつけてね」
階段を降りる時は赤木が美月の手を取り、駅まで送るのが最近の朝の日課となっている。
赤木との距離が物理的に近くなり、美月は繋がれている手をチラリと見ると、赤くなった顔を隠すように俯いた。
「じゃ、気をつけていってらっしゃい」
「は、はいっ!いってきます!」
小さな美月の後ろ姿が電車に乗っていく。彼女は座席に座りひと息つくと、片手で熱くなった頬を抑えた。
──赤木さんとの距離が物理的に近くて、ドキドキして体が持たない……っ!
朝のような送りの時だけはなく、赤木は美月の目が覚めてからずっと、献身的に世話をしている。
朝は髪を梳かし、朝食を食べさせ、駅まで送り、帰りも駅まで迎えに来る。そして家に到着すれば夕飯は何がいいかと尋ねて出前を取り、包帯を取り替えてくれる。
そんな生活が2日続き、美月は恋愛感情を整理しきれず、赤木の前で顔を赤くしたり青くしたり、初恋の人にこんなに献身的にして貰えるとは夢にも思っていなかったため、美月は心臓の鼓動で今にも爆発してしまいそうな勢いなのだ。
そんなにしなくても大丈夫、と一言彼に伝えたのだが──彼には「片腕、片目じゃ不便で危ないでしょ?」と正論を言われてしまい、それに不謹慎ながらこの生活に少し喜んでいる自分に、罪悪感も覚えていた。
それに、以前の別れ際に抱きしめられた理由も美月は分かっていない。
その時の事を思い出す度に、美月の胸は鷲掴みされたように苦しくなる。
「……はぁ」
場面は変わり、大学のキャンパス内で美月はため息をついた。キャンパスの中に併設された喫茶店で、サンドウィッチを少しずつ齧っていると、美月の名前を呼ぶ声が聞こえる。
「あ、美月じゃん!」
二人の女子が美月に笑顔で声をかける。それに応えて美月も小さく手を振ると、一人の女子がまた尋ねてくる。
「明日のサークル活動どうする?」
「うーん……怪我してるし今回は遠慮しとく。ごめんね」
「分かった、サークルの皆にそう伝えとくね!」
「早く良くなるといいね!」
「ありがとう」
そんなやり取りをすると、女子二人組は講義があるため喫茶店を後にした。残った美月は、喫茶店の静けさと共にまたサンドウィッチを口にした。
本日の講義を終えて、美月は自宅からの最寄り駅に到着する。電車を降りて切符を車掌に回収して貰おうと改札に向かう途中の事だった。
「あ、永代さん?」
振り返ると、そこには一人の青年が立っていた。黒髪に細身で、口元にホクロのある彼に美月は見覚えがあった。
「あら、紺野先輩。お久しぶりです」
「久しぶりだね。……サークルの人達から聞いたよ、怪我は大丈夫なの?」
「はい、見た目は少し酷いですけど……大した事ありませんよ」
美月はあはは、と困ったような笑顔で利き手の包帯を摩る。
「そっか……災難だったね。サークルの子から聞いたよ、歩道橋から突き落とされたんだろう?可哀想に」
紺野と呼ばれた青年は労しそうに美月を見る。
「そうだ、良かったら君の住まいまで送っていくよ。片目だと何かと不便だろう?」
「い、いえ!そんな!紺野先輩にご迷惑をおかけする訳にはいきません!それに──」
チラリと、美月の視界に見慣れた白が映る。
「すみません、待ち合わせをしているので失礼しますね。また怪我が治りましたらサークル活動にご参加させていただきます。それでは」
「あ、うん、それじゃあ……」
美月は軽く紺野に会釈をしてから改札を出ると、見慣れた白髪の青年が紫煙を燻らせながら待っていた。
「美月さん、おかえり」
「はい、ただいま帰りました」
お互い顔を合わせると、表情を和らげる。赤木は美月の荷物を慣れた手つきで持つと、美月のペースに合わせて、さくら荘へと歩みを進めた。
その二人の後ろ姿を、紺野は憎悪と嫉妬が混ざったような、じっとりとした表情で見つめていた。
「赤木さん、今日は何してたんですか?」
「適当な雀荘行って打ってた。美月さん、今日は何食べたい?」
「うーん……今日は……」
自分の片手で食べられる物を模索するも、そういったものでも赤木が食べさせてくるだろう事は安易に想像できる。
なので、いっそ赤木が食べたい物を美月は何となく聞いてみた。
「逆に、赤木さんが食べたいものはありますか?」
「俺?俺は……そうだな、カレー」
「カレー、いいですね!家に帰ったらカレーを出前でやってるお店を探しましょう」
赤木はうん、と頷くと美月の手をそっと繋いだ。あまりにも自然な動作に美月はドキッとして、赤木を思わず見つめる。
「あ、あの……」
「ん?どうかした?」
赤木は顔色を変えず小首を傾げると美月を見た。対する美月は顔を赤くして、少し俯き加減だ。
「な、なんでもない……です……」
すると、赤木は繋いだ手を見て理解したように答える。
「片目だと平衡感覚が弱くなって、転んだり躓き易くなるんだって雀荘で聞いてさ。また転んだりして怪我したら危ないでしょ?」
「そ、そうなんですね!なるほど、あはは……」
──そ、そうだよね!なに期待してるんだか、私ったら。
美月は赤木と手を繋ぎ、歩みを進める。
──ああ、このまま……時間が止まらないかな。
繋いだ手の温度を感じながら、美月は目を伏せて思った。
帰宅すると美月は早めにシャワーを浴びると、赤木に髪を拭いてもらい、ドライヤーで乾かしてもらっている真っ最中だ。
艶やかな髪を赤木は旋毛から毛先まで丁寧に扱う。髪が絡まないようにブラシを通し、熱で髪が痛まぬように少し遠くからドライヤーをかける。
──赤木さん、髪の毛扱うの上手だなぁ。まるで美容師さんみたい。手先が器用だし、そういう事やってたのかな?いや、赤木さんが美容師さんをやってたって話は聞いた事ないし、それはないか。じゃあ……。
髪を乾かして貰っている時、美月の脳裏に浮かんだ″元交際相手″という存在。
赤木は美月から見ても、誰が見ても格好よくて素敵な人物だ。己を貫き、風来坊ながら我が道を往くその立ち振る舞い。勝負をしている時の圧倒的な強さ、華のある打ち方はその筋の人々を魅了している。
そんな、人々を魅了する赤木の事だ。元交際相手の一人や二人いてもおかしくないだろうと美月は考える。
──まあ、いるよね……こんなにかっこよくて、優しい人だもの。
「……さん、美月さん?」
「はっ、はいっ!?」
「終わったよ」
「あっ、ありがとうございます!」
脱衣所から二人は出ると、カレーの出前を取り、お互い今日あった出来事を話した。
「そう言えば、駅で話しかけてきた人は誰?」
「ああ、あの方は経済研究会というサークルの紺野先輩です。サークルに入ったばかりの私たちに親切にしてくれて、良い先輩なんですよ」
「ふーん。……その先輩、この辺りに住んでるの?」
「いいえ、確か上野方面にお住いと仰ってました」
「そう、どうして正反対のこっち方面にいたの?」
「そこまでは分かりませんけれど……たまたまこっちに用事があったのではないでしょうか?」
そんな会話をしていると、部屋の呼び鈴が鳴る。赤木は立ち上がると玄関へと向かい、カレーを受け取って戻ってきた。
「美月さん、カレーきたよ」
「わぁ、いい匂いです……!」
「さて、食べようか」
「はいっ!いただきます」
「いただきます」
赤木はスプーンを持つとカレーを掬い、少し冷ましてから美月の口へとゆっくり運んだ。
小さな口が少し恥ずかしそうに開き、カレーを食む。時折、髪を耳にかける仕草がどうも赤木の目には可愛らしくも色っぽく見えてしまい、悶々とした感情を募らせる。
──この人、自分が可愛いって自覚ねえのかな……。
可愛らしい美月を見つめつつ、赤木は先程、美月と駅で親しげに話していた紺野という男を思い出す。
優男という出で立ちの青年で、美月の怪我を心配していた。
そして、美月と共に歩く自分達を恨めしそうに見つめるその眼差しを、赤木は見逃していなかった。
「美月さん、最近入ったサークルって奴はどんな感じなの?」
「ええっと、活動内容のお話でしょうか。活動内容は経済に関する勉強会や討論会が主ですね。年に一度経済学の全国討論大会があって、選ばれたメンバーはその大会に出たりするんです」
活動内容は至って真面目だ。赤木はあまり大学生の事情に詳しくはないが、雀荘で打っていて小耳に挟んだ事がある。
大学のサークルとやらの中には、あまりよろしくないものもあるそうだ。
その様なサークルではないことに赤木は取り敢えず安心した。
「そっか。あの紺野って人とは仲良いの?」
「仲が良いかは分かりませんが……分からないことがあると色々と教えてくれて、頼れる先輩だと思ってます」
「ふーん」
赤木はそれを聞いて少しホッとした。美月が紺野という男に対して好意は持っていないのと、恐らく最低限の付き合いであろう事がその発言から伺える。
それに、先日やってきた岡田佳代子が言っていた、美月は名の知れた何処ぞの令嬢な事もあって赤木は美月の事を心配していたのだ。
「美月さん、寄ってくる男には気をつけなよ、男なんて皆ロクでもないんだ、警戒するに越したことはないよ」
「あ、赤木さんも男の人じゃないですか」
美月がそう言うと、赤木は彼女を見て優しく、しかし何処か自嘲するように微笑む。
「ククク、そうだね……俺もロクでもない男さ」
──君が好きで、どうしたら心ごと手に入れられるか、俺のものになってくれるか、そんな事ばっかり考えちまう。
そんな風に笑う赤木を、美月は目を丸くして見つめる。そして、美月も釣られて微笑んだ。
「ロクでもない人は、人にこんなに優しくしませんよ」
「……優しい、ねぇ」
赤木は思うところがあり呟く。
自分の様なギャンブルジャンキーは優しくなどない。寧ろ苛烈で、破滅を求めて鉄火場に往き、相手を追い詰めるような人間は優しさとは程遠い。
美月が運ばれてきたカレーを食べる。それを飲み込むと、彼女は優しく微笑んだ。
「誰が何と言おうと、赤木さんは優しい人です」
「……ククッ、そっか、ありがとう」
彼女の瞳には、自分はどうやら優しい人だと映っているようだ。
この優しさが自分の下心と、彼女への愛しさで作られていることが赤木自身なんだかむず痒く、それと同時にこれが人を好きになることなのかと不思議と府に落ちた。
食事を終えて、洗った皿を玄関の前に置くと赤木はふと視線を感じて顔を上げる。
さくら荘の玄関から見える道の電柱の影から、何者かがこちらを見つめている。背格好からして男性のようだが、顔は帽子を深く被っているため見えずらい。
そしてあちらも、赤木の視線を感じ取ったのか帽子のつばを軽く下げると、ゆったりとした足取りでその場から立ち去った。
「……」
赤木はそんな男性を一瞥すると、部屋に戻り美月と少しばかり談笑すると、明日は朝早くから夕方頃まで大学にいるとの事で早めの就寝になった。
✽
「知り合いが付き纏われてる?」
薄暗いバーのカウンター席の端の方で、ウイスキーを傾ける格子模様の入ったジャケットを着た大柄な男は怪訝そうな表情を浮かべながら言う。
「ああ、知り合いが最近見知らぬ男に突き落とされうえに、恐らく付き纏われてる。だから安岡さんにその子の家の周りを警備してほしいんだ。今度、デカい勝負があったら引き受ける。それでどう?」
紫煙を燻らせ、淡々と赤木は言葉を紡ぐ。安岡はその言葉を聞くとニヤリと悪い笑みを浮かべる。
「……いいだろう、引き受けよう。で、そのお前の知り合いの住所は?」
赤木はポケットからメモを取り出し、安岡にそれを渡した。
「そこに書いてある。暫く俺もそこにいるけど、いつも一緒にいてやれるわけじゃあない。頼んだよ、安岡さん」
「任せとけ、不審な人物がいたら片っ端からお縄にしてやる」
「ククク、頼もしいね。それじゃ、俺はこれで」
赤木は2000円をカウンターテーブルに無造作に置くと、早々に席を立つ。
「ん?もう行くのか」
「ああ、知り合いを迎えに行かなきゃいけないんでね。それじゃ」
淡々とそう言うと、赤木はバーを出て真っ直ぐ美月と待ち合わせている駅前へと向かった。
駅の改札口を見渡すも、今日は紺野の姿は見当たらない。暫く煙草を吸って待っていると、改札口から手首に包帯を巻き、眼帯を着けた女性が現れる。
「赤木さん……!」
小さく手を振り、笑顔で駆け寄る姿は赤木の心を甘く締め付ける。
「ただいま帰りました!」
「うん、おかえり。今日は買い物はする?」
「はい、石鹸と洗剤と……あとちり紙が少なくなってきたので買いに行きましょう」
うん、と赤木は返事をすると美月の手を優しく取る。
秋の夕暮れの中、二人は手を繋いで歩く。美月の顔が赤く染まっていたのは、夕日に照らされているからなのか、それとも手を繋いでいるからなのか──赤木にはまだ分からなかった。
雑貨屋に立ち寄り、石鹸と洗剤、ちり紙を買って帰宅する。今日は寿司が食べたいと美月のリクエストがあったので寿司を取ることにした。
届いた寿司を二人で食べ、寿司桶を外に出すべく赤木は玄関を開けて、また道を見る。
今日もその男は、表情こそ窺え知れないがこちらを見つめていた。赤木の視線に気がつくと、男は帽子を深く被り直して、昨日のようにゆったりと歩いて去っていく。
何をする訳でもなく、ただ見つめるだけなのが返って不気味に感じる。赤木はまたその男を一瞥すると部屋に戻った。
──昨日、飯食って皿を玄関に置いた時間が大体6時くらいで、今日寿司桶を外に置いた時間が8時。あいつが今日何時からいるかは分からねえが、6時からいたと仮定すると2時間あそこに突っ立ってる事になる。
赤木はシャワーを浴びながら、このさくら荘を張っている男の事を考えた。
──俺が目的なら、雀荘なりに行く時に声をかけるはずだ。あのナリからしてヤーさんじゃあ無さそうだ。と、すると必然的に美月さんが目的って事になる。
最近、美月の身の回りで起きた突き落とし事件もあり、赤木は美月の環境の変化に対して敏感になっている。
しかし、彼女から話を聞く限りトラブルも無く、友人たちやサークル仲間たちとの関係は良好そのものだ。
そうなると赤木の中で考えられたのは、バイト先での客か、あるいはサークル仲間内での付き纏いの可能性が高い。
しかし何をする訳でもなく、男はこちらを見るだけで、発見されたら立ち去っていく。勘違いの可能性もあるが、用心するに越したことはない。
──見てくるだけってのも不気味だな……。安岡さんが早く動いてくれるのを今は願うしかねえか。
ひとしきり考えて風呂場から出ると、赤木は身体を拭いてドライヤーで髪を乾かすと脱衣所から出る。
「あ、おかえりなさい」
美月は恋愛小説を机で寛ぎながら読んでいた。
赤木はお風呂ありがとう、と一言言うと彼女の隣に座る。
「何読んでるの?」
「樋口一葉のにごりえ・たけくらべです。ご存知ですか?」
「いいや、知らねえな」
「私も高校生になって読み始めたのですが、この作品が好きなんです。特にたけくらべの、少年少女の淡い恋愛描写が素敵なんですよ」
「へえ、今度俺も読んでみようかな」
「是非!オススメですよ!」
ふと赤木は思った。彼女の本棚には最近恋愛小説が増えている、と。
「ねえ、美月さん」
「はい?」
「最近、恋愛小説ハマってるの?」
そう尋ねると、彼女は少し考えるようにうーん、と唸った後に答える。
「そうなのかもしれません。赤木さんに言われて気が付きました、確かに最近買った本は恋愛小説が多い……です、ね……」
本棚に視線を移してから、美月は段々と歯切れが悪くなり、遂には本で顔を隠してしまう。
「美月さん?」
「あ……その、元々恋愛小説は好きなので、それで多くなったのかもしれませんね、あはは」
元々恋愛小説はジャンルとしては好きだが、最近の美月は恋愛というものを知るべく、流行りの恋愛小説だったり、名作と呼ばれる恋愛小説を数冊購入したのだった。
そこを見られているとは思ってもおらず、かつ想い人に指摘されてしまい、ちゃんと自分を見てくれている嬉しさと恥ずかしさで、美月は目を伏せる。
「ねえ、美月さん」
赤木は美月の手に持っていた本の背表紙に、人差し指を優しく引っ掛けると傾けて、彼女の顔を覗いた。
「顔、赤いね。どうしたの?」
じっと、何を考えているのか分からない無表情で赤木は美月を見つめて尋ねる。
赤木との距離が縮まり、美月はかっと頬が熱くなるのを感じた。
「っ──!?な、なんでもありません……から。……あの、そんなに見ないでください……」
弱々しく、観念したように言うと赤木は機嫌が良さそうに笑う。
「ククク、ごめんごめん。君があんまりにも可愛いからさ」
「っ──!?」
可愛い、その言葉に美月は丸い目を見開き、顔を更に赤くすると本を閉じ、立ち上がると赤木に抗議するように言った。
「かっ……からかうのはやめてください……!わ、私は……可愛くなんて……ないです」
細々と、そして弱々しいその声を発する美月は、赤木には可愛らしい子猫が鳴いているようにしか見えない。
彼女は自分のことを可愛くないと否定するが、赤木からしたらそうは見えず、照れる彼女がただただ何処までも愛おしい。
「可愛いよ」
「かわいくない、です……」
「そんな事ないのに」
赤木も立ち上がり、美月を見る。視線がかち合うと、美月は照れているのか頬を赤く染め、へにゃりと眉を八の字に曲げて困ったような表情を浮かべている。
そんな美月の表情に呆気を取られて見つめていると、彼女はふいっと視線を逸らして逃げるように布団の中へ入っていってしまった。
「も、もう寝ますからっ……!おやすみなさい」
珍しく顔まで掛け布団を覆い、電気を消さずに赤木を放置して美月は照れを隠す。
先程の困ったような表情も、今の言動も、赤木の心を擽り、想いを溢れさせるには十分だった。
美月に聞こえないように深くため息をつき、赤木はニヤけた口元を隠すように手を当てる。
──……可愛い。こんな可愛い人がいたら、悪い虫の1匹や2匹寄ってきちまうかもしれねえな……。
こんもりとした布団を愛おしそうに見つめて、赤木はおやすみと言うと電気を消すのだった。
*
それから数日後、ある日の薄暗いバーで赤木はとある人物をテーブル席で待っていた。
カランカランと音を立ててドアベルが鳴り響く。
「すまんアカギ、遅くなった」
「構いませんよ、安岡さん。で、頼んだもの持ってきてくれましたか?」
安岡が席に座るのを確認すると、赤木は用意しておいたグラスにビールを注ぎ、安岡に差し出す。
「ああ、持ってきたぞ。ほらよ」
A4サイズの茶封筒を受け取ると、赤木は封筒の中身を確認した。中身は調書だった。
赤木は調書に目を通すと、冷たくスッとその瞳を細める。
「こいつが……付き纏ってたやつ?」
「証拠がないから何とも言えないが、赤木の言われた通りアパートを見つめていた男はこいつだ。午後6時から9時頃までずっと見ていたぞ」
「……そう、ありがとう」
そう一言告げると赤木は煙草を胸ポケットから取り出し、マッチで火をつけた。昇りゆく煙がゆらゆらと薄暗い店内を揺れる。
「まあ、件の奴にはあの周辺にもう近寄らないようにキツく言っといたし、不審者ってことで誓約書にもサインさせた。また何かすれば確実にお縄だ」
「助かったよ、安岡さん。じゃ、俺はこれで。代打ちの日取りが決まったら連絡よろしく」
「なんだよ、飲んでかねえのか?」
「悪いね、今日はちょっと寄るところがあるからさ。お先に」
そう言うと赤木は薄く笑い、ポケットからまた適当な金額の札を取り出すと安岡に渡し、バーを去っていった。
夜の10時半頃、赤木はとある喫茶店の前にいた。
煙草を吸ってしばらく待っていると、お疲れ様でしたと聞き慣れた声が聞こえる。
「あ、赤木さん……!ごめんなさい、待ちましたか?」
「いいや、今着いたところ。……おかえり、美月さん。バイトお疲れ様」
「ありがとうございます、すみません、お迎えにきてもらって」
「俺がやりたくてやってるんだし、構わないさ。さあ、帰ろう」
「はいっ!」
あれから一週間が経過し、目と手首の怪我がすっかり治った美月はアルバイトに復帰した。
しかし、まだ美月を突き落とした犯人は分かっておらず、かつ付き纏いの件もあるので、赤木はもう少し美月のそばに居る事を決めたのだ。
「今日は店長から鶏の胸肉にネギ、生姜を貰いました。帰ったらこれ使ってご飯作りますね」
「うん、楽しみにしてるよ。バイトはどうだった?」
「今日は忙しかったですね。とあるお客様が団体でやってこられて……」
他愛のない話をしながら二人は夜の道を歩く。件の歩道橋に差し掛かったその時、美月は反対車線の歩道を見つめると、赤木の服の袖をきゅっと掴んだ。
「どうしたの?美月さん」
「あそこに立ってる人、見えますか?」
美月が視線を向けるその先には、美月のアパートの周りを彷徨いていた男が立っていた。
「同じです……」
「え?」
「あの時、私を歩道橋から突き落とした人と、服装が同じなんです……」
その言葉を聞いた刹那、赤木の鋭い視線が男を確実に捉える。
「…………美月さん、この通路を真っ直ぐ進んで、なるべく早く帰って」
「あ、赤木さん……?」
「少し……用事ができたからさ。いい?早く家に帰って戸締りしっかりね。俺が帰ってくるまで誰が来てもドアは開けちゃダメだよ」
それだけ伝えると、赤木は歩道橋を渡り男の元へと走っていく。美月もただ事ではないと思い、赤木の言われた通り道路を早足で歩くのだった。
*
君のことが好きだ。
君のことが好きだから、いつだって見守っていたい。
君の全てが、欲しくて、欲しくて──堪らないんだ。
こんな気持ちは初めてで、どう抑えたらいいか分からなくて──思考と鼓動を心地良くかき乱される。
君の嫋やかな微笑みも、綺麗な濡鴉色の髪も、爽やかな春のような香りも──全部、俺だけのものにしたい。
俺以外見ないで、美月さん。
だから──その白髪の男から、今すぐ離れてくれないか、美月さん。
「よお、不審者さんよ」
歩道橋から降りてきたその白髪の男──赤木しげるはその男に声をかける。飄々とした口調だが、その声色には明確に怒気が含まれていた。
そして彼から漂う異様な雰囲気に気圧され、その男は脱兎の如く走り出す。
息を切らし、路地裏に駆け込んだ男は振り返る。
──追ってこない……?撒けた、のか?
そう思った刹那、背後から力強く肩を掴まれる。
そして頭部と背中に鈍い痛みが走る。壁にぶつかり、押し付けられたのだと自覚した。
目の前には、怒りを顕にする白髪の男が手を伸ばし、男の顔を隠していた帽子を剥ぎ取る。
「まさか、歩道橋から突き落としたものアンタだったとはな………紺野さん」
「ぐっ……!さ、さぁ?なんのことだか。俺は今日、たまたま通りかかっただけだ」
「へえ、たまたま通りかかったのか。ならどうして顔を隠す必要がある?」
「フン!いちいち人の服装にケチをつけるな!こういう服装の時もあるだろ」
ああ言えばこう言う紺野を赤木はぶん殴りたくなったが、今は我慢だ。
「美月さん、言ってたぜ。自分を突き落とした奴と服装が同じだってな。……どういうつもりであの人を傷つけた??目的は何だ??」
赤木の掴む力が強くなる。服の繊維がギリギリと音を立て、紺野は足が浮いてくのを感じた。
「うぐぅっ!お、お前こそ何なんだ!美月さんに近寄りやがって……!お前みたいなよく分からない男が!」
赤木は紺野の問いかけに応える。
「俺はあの人の恋人だ」
「は………はぁっ!?」
「それはどうでもいいとして、この前調書取られたのに繰り返すってことは、アンタ相当馬鹿なんだな」
「な、何を──!?」
「もう黙ってくれ、五月蝿いんだよ」
そう言うと赤木は一発、重い拳を紺野にお見舞いする。紺野はその一発で気を失ってしまい、その場に伸びてしまった。
侮蔑の眼差しを紺野に向けると、赤木は近くのスナックに入り電話を借り、安岡に繋いだ。
「安岡さん、赤木しげるだけど……今大丈夫?」
数分後、パトカーで駆けつけた安岡が目にしたのは路地裏で伸びている紺野を煙草を吸いながらロープで巻き上げている赤木しげるの姿だった。
「赤木、お前なぁ……」
「別にいいでしょ、危害加えてきたのはこいつが先だ」
人使いが荒いぞ、そこまでやらなくても、安岡は色々と言いたいことがあったが、それらをため息と共に無かったことにした。
「またそいつか、この前キツいお灸を据えたばっかりだってのに」
呆れたように安岡は紺野を見ると、部下に指示をして紺野を担がせるとパトカーの中に乱雑に押し込む。
「今度はもう少しキツめの尋問で頼むよ、安岡さん。そいつ、美月さんを突き落とした犯人みたいだからさ」
「……貸し二つな」
「ああ、頼む」
「また色々分かったら連絡する。じゃあな」
手短に別れの挨拶を済ませると、赤木はもう一本煙草に火をつけ一服する。
一先ずこれで美月を取り巻く厄介事は片付いた。あの紺野という男の行動原理は赤木には理解不能だが、今はただ帰ろうと思い、赤木は足を進める。
アパートに戻ってきたのは23時を少し過ぎた頃。美月の部屋の鍵を開けると、彼女の鈴の音のような声が赤木を出迎えた。
「赤木さん……っ!おかえりなさい、何があったんですか?お怪我はありませんか?どこか痛いところは?」
心配そうにこちらを見つめる美月を安心させようと、赤木は微笑む。
「ククク、大丈夫大丈夫。ちょっと野暮用ができただけだからさ」
「……赤木さん」
美月は赤木が自分の為に、あそこにいた男性に何かしらの制裁を下してきたであろう事は察していた。
美月は少し赤く腫れている赤木の右手をそっと包み込む。
「あんまり、無茶しないでください」
「……」
「でも……ありがとうございます」
優しく微笑む彼女を見て、赤木は一瞬時間が止まったような感覚に陥る。
このまま彼女を抱きしめてしまいたいという衝動に駆られるが、彼女の手が離れていく。
「ご飯の準備できてますから、食べましょう」
「うん」
無邪気な笑みを浮かべる美月の後ろを、赤木はついていく。
──そういえば、勝手に美月さんの恋人名乗っちまった。
卓袱台の前に座り、いただきますと食事前の挨拶をすると、赤木と美月は食事をする。
その平穏で、彼女との何気ない時間が愛しく、何事にも変えがたく、赤木はまた美月を見る。
──……まあ、あいつには恋人ってことでいいか。
美月の作ったカレーを赤木は口に運ぶ。
今日は少しだけ甘いような気がした。