月を見ていた
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「だっ……だだっ、だ……」
眼前でぷるぷると震えながら、一人の青年を指さす女性は、遂に耐えきれなくなり、その言葉を発した。
「誰よその男ーー!!!??」
けたたましい女性の声が、さくら荘204号室の前に響き渡る。
目の前には怪我をして顔にガーゼや絆創膏を貼った赤木と、利き手に包帯を巻いて、右目に眼帯を着けた美月が並んで立っていた。
何故、こんな状況になったのか、少々時間を遡る事になる──。
それは、昨日の夜の事。
木枯らしがそよそよと吹く10月中旬の夜。
肌寒くなってきたこの季節に赤木は、博奕の旅を一度終えて、また東京へと帰ってきていた
装いも秋らしく、厚手の黒い長袖シャツに、胸ポケットに愛煙しているハイライトを入れている。
彼が向かう先は、美月がいるさくら荘。近道をすべく歓楽街を通り、ネオンに照らされている大通りから、暗い裏通りに入ったその時だった。
「おいっ!お前!」
ゆったり振り返る赤木。視線の先には見知らぬ男が数人おり、一人は角材を、一人は鉄パイプを持っている。
「お前、赤木だな?あの時は世話になったなぁ、お礼参りに来たぜ」
「……誰だ?」
赤木は少し首を傾げてそう言うと、男は歯ぎしりを立て、目を血走らせ赤木を見る。
「俺を覚えてねえのか……!?雀荘であんだけ好きな様に毟っといて……!!」
「覚えてねえな」
「テメェッ!!殺す!!」
男の怒号と共に、路地裏で喧嘩が始まる。赤木はボストンバッグをその場に置くと、拳を作って男達に突っ込んでいった。
3対1では武器を持っていても赤木に適うはずも無く、男達はその場に伸びて、喧嘩はあっさり終わった。
しかし、赤木も数発顔や腕を殴られてしまい、無傷という訳では無い。幸い出血はあまりしておらず、服の袖で傷口から微かに出る血を拭うと、地面に置いたボストンバッグを手に持ち、路地裏を後にした。
静かな住宅街を歩いていると、見慣れたアパートが見えてきた。桜の木が植えてある、美月の住まうアパート。
時刻は夜の9時を少し過ぎた頃、204号室の部屋の明かりはついており、赤木は表情にこそ出さないものの、先程とは打って変わって気持ちが弾む。
鉄製の階段を上がっていき、204号室の鍵を取り出すと、赤木はドアノブに差し込み回して、玄関ドアを開いた。
「ただいま、美月さん」
「あら、赤木さん、おかえりなさい」
赤木を出迎える美月の優しい声が部屋に響く。しかし、目の前の彼女は異様な姿をしていた。
秋用の長袖の可愛らしいパジャマ姿なのだが、右目には眼帯を着けており、利き手の手首には包帯を巻いていた。
赤木はそんな姿の美月を見て一瞬目を見開くと、ボストンバッグを床に置いて靴をサッと脱ぐと、少し焦った様子で美月の肩に優しく手を置く。
「どうしたの、それ?」
「こ、これには色々ありまして……。じゃなくて!赤木さんこそ怪我してるじゃないですか!?大丈夫ですか?!」
「ああ、ちょっとね。大した怪我じゃないよ」
「待っててくださいね、今薬箱を持ってきますから」
「いいよ、これくらい自分でやる。それに、その手じゃあ絆創膏貼るのも大変でしょ?」
「……あっ」
美月は自分の包帯の巻かれた手を見ると、申し訳なさそうに俯いた。
「怪我してるんだから安静にしなよ。悪いんだけど、先に風呂借りてもいい?」
「あ、はい、どうぞ」
「寝巻きってどこにある?」
「寝巻きはそこの棚の上から3段目の所にあります」
赤木は美月が指さす棚の3段目を開けると、いつも借りている洋服が入っていた。それを脱衣場に持っていくと、軽くシャワーを浴びて風呂場から出てきた。
着替えて居間に戻ると、美月は薬箱を用意していた。
絆創膏とガーゼを怪我した患部に貼り付けると、赤木は腰を落ち着けて美月に問いかける。
「で、君はどうしてそんな怪我したの?」
美月は少し俯き、それからその時の出来事を思い出しながら話をした。
「それが、一昨日の事なのですが……アルバイトの帰りに歩道橋を渡っていたら、階段から誰かに突き落とされてしまって、その拍子に目と手首に怪我を……」
そう話している美月の目の前に、ずいっと赤木がやってきた。
彼は少し不機嫌そうな、そんな雰囲気を漂わせていたものの、美月にはいつもの様に少し穏やかな声色で話しかける。
「そいつの顔は見た?」
「いいえ、夜だったのではっきりとは見えなくて……でも、男の人でした」
「警察には?」
「はい、相談しました。パトロールを強化してくれるみたいです」
「……そっか」
赤木は内心、穏やかでは無かった。自分の好きな女性がこんな目に遭っているのだ。痛々しい彼女の姿を見た時は驚いたが、今は犯人に憤りすら感じている。
しかしその憤りを隠しつつ、赤木は美月にまた問いかける。
「怪我の具合はどう?」
「手首は捻挫をしてしまって。目は階段から落ちた拍子に瞼の上を強くぶつけて……治るのには少し時間がかかるそうです」
「そっか、災難だったね」
「赤木さんこそ……お怪我して帰ってきて、また喧嘩ですか?」
「まあ、ちょっとね。君ほどじゃあないし、大した事ないから。……ねえ、美月さん」
一拍置くと、赤木は言葉を紡ぐ。
「君の怪我が治る間、ここに居るよ。困った事があったら言って」
「……え」
予想外の赤木の言葉に、美月は拍子抜けしたような声をあげた。
「そ、そんな……ご迷惑では……」
「いつも世話になってるんだし、迷惑じゃあないさ。これくらいさせてよ」
「……あ、ありがとうございます。では、お言葉に甘えさせていただきますね」
実の所、怪我をしてから美月は心細く、寂しさを感じていた。片手、片目での生活は思ったよりも不便で、慣れないものだった。
密かに赤木に会いたい、と思っていたところにやってきてくれて、怪我が治るまでここに居てくれるのは、美月にとっては僥倖だった。
「赤木さん、ご飯は食べましたか?」
「ああ、外で済ませてきた。君は?」
「私も買ったお弁当を食べました」
その手では料理は作れるはずもなく、ここ数日美月は弁当生活を余儀なくされている。
──明日、出前で美月さんの好きな物食べさせてやろう。
と赤木は思うのだった。
旅の疲れもあり、赤木は小さく欠伸をすると、美月の部屋の押し入れから布団を取り出そうと立ち上がる。
「布団、ここだよね。出していい?」
「はい、押し入れの上の段にあります」
勝手知った美月の部屋だが、物色する前に本人に尋ねるのは赤木の気遣いからだ。
赤木は布団を敷くと、もう寝ようと布団の中に潜り込む。それを見た美月も寝ようと照明を落とし、床に就いた。
「おやすみなさい、赤木さん」
「ああ、おやすみ」
次の日、美月は目を覚まして起き上がり、寝癖を直そうと片手でブラシを持ち、髪を梳かしていると赤木がやってきた。
「おはよう、美月さん」
「おはようございます、赤木さん」
片手で髪を整える美月を見て、赤木は声をかける。
「美月さん、それ俺に手伝わせてよ」
「え?」
「というか、やってみたい」
少し美月は困惑しつつも、赤木がやってみたいのならと思い、その言葉に甘える事にした。
「……では、お願いしてもいいですか?」
「うん」
赤木にブラシを渡し、美月はまた前を向く。
小さな旋毛と頭が赤木の目の前にあって、言い出したはいいものの、女性の髪を梳かした事のない赤木は少しばかり固まり、どうしようかと思案する。
髪は女の命とも言う、丁寧に扱うに越した事はないだろうと考え、赤木は美月の髪を梳かしていく。
さらりとした、指通りの良い美月の黒髪は自分の髪とは違って柔らかく、艶々と輝いている。絡まっている部分は優しく解き、寝癖は髪を梳かすと直っていく。
それに、目の錯覚なのは分かっているのだが、自分がこうして手入れしているからなのか、いつもより美月の髪が赤木には美しく見えていた。
──美月さん可愛い。それにしても頭小さいな。髪の毛もなんか凄く綺麗に見える。
悶々と赤木が美月への思いを募らせている時だった。
「赤木さん、もう大丈夫ですよ。ありがとうございます」
「ああ、うん」
彼女が振り返ってそう言ってきた。赤木は髪を梳かすのをやめて、美月が居間へ戻っていく姿を見つめてから、顔を洗って自分の寝癖を整えた。
さて、この部屋の家主の美月が朝食を作れない状態にあり、まだ朝の9時ともなると店もやっていない。
必然的に赤木が朝食を作る事になったのだが、台所に立つ赤木の隣には美月も立っていた。
「美月さん、待ってて大丈夫だよ」
「その、赤木さんのお料理する所が見たくて……お隣、いいですか?」
「……うん」
そう言われては断る事もできず、赤木は美月の隣で料理を始める。まずは美月が片手でも食べ易いようにとおにぎりから作る事にした。
「美月さん、海苔ってどこ?」
「はい、海苔はここです」
海苔の入った缶を下の戸棚から取り出し、美月は赤木に差し出す。それを受け取ると、赤木はおにぎりを作り始めた。
味付けはシンプルに塩、白米を3回ほど優しく握り、綺麗な三角形になったら海苔を巻く。
そんな赤木の様子を、美月は楽しそうに見つめていた。
おにぎりを4つほど作ったら手を洗い、味噌汁を作り、漬物を冷蔵庫から取り出し、皿に盛り付けたら朝食の完成だ。
「ありがとうございます、赤木さん、いただきます」
「大したものじゃないけど……どうぞ」
美月はぺこりをお辞儀をすると、まずはおにぎりから食べていく。一口食べると、丁度良い塩加減とパリッとした海苔の風味が口の中に広がる。
「美味しいです、赤木さんが作ってくれたおにぎり」
「そう?」
「はいっ!とっても!」
美月は嬉しそうにニコニコ笑いながら言う。
何がそんなに嬉しいのか、赤木にはよく分からないが、彼女が美味しそうに食事をして、嬉しそうに笑ってくれるのなら良しとした。
お互いおにぎりを食べ終わると、赤木が美月の隣に腰を下ろしてきた。どうしたのだろうと彼を見つめていると、赤木は美月の箸を手に取ると漬物を取り、美月の口元へ運んでいく。
「……あ、あの〜?」
「? ほら、口開けて」
「いえ、あの……えぇ……」
美月はしどろもどろになりながら、赤木と運ばれる漬物を交互に見つめる。
「利き手がそれじゃあ食べられないでしょ?ほら」
「うぅ……わ、分かりました」
美月は髪を耳に掛けると、赤木が差し出す漬物を食べる。コリコリと美月の微かな咀嚼音が聞こえて、飲み込んだ様子を見て、赤木はまた漬物を口元へ運んでいく。
目を伏せ、気恥しそうに食べている美月とは対照的に、赤木は雛鳥に餌をやる親鳥とはこんな気持ちなのかと考えていた。
そして暫くして、これは少々良くない状況なのではと赤木は気がつく。彼女の薄い桃色の唇が、覗く白い小粒な歯と赤い舌が、赤木の下心を擽る。
しかし赤木、そんな雑念を一瞬にして振り払い、美月に食事を与える事だけを考えた。
「ご馳走様でした、美味しかったです」
美月がそう言うと、赤木は「お粗末さまでした」と淡々と答えた。使った食器を台所へと運び、洗い物を済ませる。
ふと、お茶が飲みたくなったので赤木は振り返り美月に尋ねる。
「美月さん、お茶飲む?」
「あ、飲みたいです。お願いします」
赤木はヤカンに火をかけて、湯呑みと急須を用意する。しばらくしてヤカンからピィイーッと音が鳴り、急須に茶葉を入れると湯を淹れ、少し蒸らして湯呑みに茶を注ぐ。
盆に湯呑みと急須を乗せて、卓袱台に居る美月の前に湯呑みを置いた。
「ありがとうございます。いただきます」
互いに湯呑みに口をつける。ほっと一息、同じタイミングでつくと赤木は美月に向き直る。
「美月さん、他にやる事はある?」
「いいえ、今は特には……本当に、色々とありがとうございます」
「いいさ、好きでやってるんだし」
そう言ってまた湯呑みに口をつける赤木を見て、美月はふと微笑む。
──やっぱり、赤木さんって優しいなぁ。
彼を見て、美月は思う。そして、その恋心を悟られぬようにと話をする。
「赤木さん、よろしければ旅のお話を聞かせてくれませんか?」
赤木が帰ってきたら、その時の旅の話を聞くのが美月の楽しみの一つになっていた。
赤木の話は、いつ聞いても自分では到底踏み入る事のない世界の話。
それはまるで、御伽噺やファンタジー小説を読んでいる時のような緊張感と、現地の小話だったり、その地元の人からの豆知識だったり、その土地の美味しいものの話だったり、美月はその話に笑い、驚嘆し、時には赤木の身を心配しながら彼の話を聞いていた。
「そう言えば、話変わるけど、昼飯は出前取ろうと思ってるんだ。君の好きなもの頼みなよ」
「え、あの……いいんですか?」
「いいよ、何食べたい?」
美月はうーんと少し悩むと、とある食べたいものが思い浮かび、それを口にした。
「では、お寿司が食べたいです」
「寿司ね、分かった。電話借りるよ」
赤木は立ち上がると、電話の置いてある玄関先へと向かうと、知っている寿司屋に電話をかけ、注文すると戻ってきた。
「30分くらいしたら来るってさ」
「ありがとうございます。お寿司なんて久しぶりです」
寿司が来るまで二人は穏やかに時間を過ごし、美月は最近大学であった出来事だったりを赤木に話した。
「そうそう、最近インカレサークルにお友達と入ったんです」
「インカレサークル?」
聞き慣れない言葉に赤木は少し首を傾げる。
「あ、インカレサークルというのは、色んな大学の方々が集まってできたサークルの事です。私達の入ったサークルは経済研究会というサークルなのですが──」
その時、美月の部屋の呼び鈴が鳴り響く。
「あら、お寿司が届いたみたいです」
出前を受け取ろうと美月は立ち上がる。赤木はボストンバッグから雑に2000円(現在の貨幣価値に換算すると2万円)を取り出し、二人は玄関に向かった。
ガチャリとドアノブを開くと、そこには寿司屋の出前の男性──ではなく、一人の女性が紙袋を持って立っていた。
身長は美月より少し高いくらいで、歳も同じくらいだろうか。
ピンク色のカーディガンを羽織り、ベージュのワイドパンツを履いた彼女は美月を見ると心配そうに声をかけた。
「美月っ……!急に来てごめんなさい、貴女が怪我をしたって聞いて、いてもたってもいられなくて……!」
「か、佳代子……!?」
急な来客に美月は少々驚きながら、目の前の彼女の名前を呼んだ。
そんな美月の後ろから、ぬるりと白髪の青年が姿を現す。
「美月さん?……その人、誰?」
美月の背後に立つ、傷だらけの白髪の青年を見て、佳代子と呼ばれた女性は目を見開き硬直し、震えながら指をさす。
「だっ……だだっ、だ……」
そして、佳代子の叫び声が木霊する。
時は冒頭へと戻るのであった。
「えっと、佳代子……こちらは赤木しげるさん、去年色々あった私を助けてくれて、今はお友達なの」
──お友達……。
赤木は内心微妙な気持ちになりながら思う。この感情は友達に向けるものではないだろう。
「赤木さん、この子は岡田佳代子です。中学生からのお友達で、学部は違いますけれど大学も一緒なんです」
「……どうも、岡田佳代子です」
「どうも」
佳代子と呼ばれた女性は赤木に軽く挨拶を済ませる。三人の間には微妙な空気が流れた。特に、佳代子が赤木に対して警戒心を強めているのが雰囲気で分かるせいだろう。
そのなんとも言えない雰囲気を壊すかの様に、また呼び鈴が鳴り響いた。
「俺が行くよ、美月さん」
「ありがとうございます」
赤木が立ち上がったのを見計らい、佳代子は美月へと声をかけた。
「美月、あの人何者なの?明らかにソッチの人よね?!」
「うーん、普通の人だけど普通の人じゃないって言うか、旅人さん、みたいな?」
「何よ、それ」
歯切れの悪い美月に、少々怪訝な表情を見せる佳代子。すると、赤木が寿司桶を片手に戻ってきた。
「寿司届いたよ。……岡田さんだっけ、アンタも食べる?」
「えっ、い、いや……私は……」
「一緒に食べようよ、佳代子。私、今日はそんなに食べれそうにないから、一緒に食べてくれると嬉しいな」
美月が笑顔で言うと、佳代子の訝しげな表情が少し柔らいだ。
「美月が言うなら……いただきます」
赤木が醤油とお皿、箸を持ってきてくれて、三人は食卓を囲んだ。寿司ならば手でも食べられるため、美月は頼んだのだが──。
「はい、美月、あーん」
「あ、あー……」
結局美月は佳代子に食べさせてもらう事になった。
それは俺がやりたかったのだが、と赤木は内心思いつつも寿司を黙々と食べる。
談笑しながら食事をする美月は、友達とはこんなにも砕けた口調になり、意外にも友人の名前は呼び捨てにするタイプなのかと、新しい一面を見た。
「美月、後で包帯替えましょう。私がやってあげるわ」
「ありがとう、佳代子、ごめんね」
「いいのよこれくらい。それにしても突き落としたヤツが許せないわ……!捕まえないと気が済まない!」
そう言う佳代子に赤木は心の中でうんうん、と頷く。
食事を終えて三人がひと息ついていると、美月の包帯を巻きながら佳代子が話を振ってきた。
「そう言えば話変わるけど、赤木さんと美月は去年のいつ頃からお友達なの?」
急に話題に巻き込まれた赤木は視線を佳代子に向ける。佳代子の警戒心は解けたのか、先程よりも雰囲気が柔らかいものになっている。
「えっと、秋頃かな。私がお父さんの……借金のトラブルになってた所を助けてくれたの」
美月は借金を巡っての麻雀勝負の事は伏せて話す。嘘は言っていない。
「そう、だったのね……そんな事が。意外と親切な人なのね、貴方」
「フフ、どうも」
そう言うと赤木は窓を開け、美月が自分の為にと用意してくれた灰皿を出し、煙草に火をつける。
そんな勝手知ったような赤木の行動を、佳代子は少し目を見開きながら見ていた。
──……え??この人さっき灰皿……美月は煙草吸わないから灰皿は無いはず……この人、いつから美月の部屋に居座ってるの??いや、そんな、美月が男の人と生活なんて……いやいやいや。
「……ねえ、美月、赤木さんとは何時から一緒に生活を?」
「い、一緒に生活してないよ……!」
慌てながら両手を横に振って佳代子の言葉を否定する美月に、彼女はホッと胸を撫で下ろした。
「そ、そうよね」
「時々、お泊まりに来るだけだよ」
笑顔でそう答える美月に、佳代子の安堵感は秒で崩れ去った。
「へ、へぇ〜……そ、そうなの」
震える声で佳代子は言うと、一服している赤木を何やら厳しい表情で見つめた。先程解けた警戒レベルはまた上がってしまったようだ。
赤木はそんな佳代子の雰囲気を感じ取りつつも、彼女がどうして自分に対してこんなに敵意を向けてくるのかが理解できずにいた。
しかし、自分が居る事で空気が良くないのも事実だ。赤木は佳代子が帰るまで外に行こうと思い、立ち上がる。
「赤木さん、何処へ行くんですか?」
「ああ、ちょっと煙草買いに行ってくるよ」
美月がいってらっしゃい、と言おうとしたその時だった。
「ねえ美月、何か買ってきてほしい物はないかしら?」
「え?」
「その手じゃ荷物持てないでしょう?私が代わりに行ってくるわ」
「それじゃあ、お願いしようかな。買ってきてほしいものはね……」
美月が佳代子に買ってきて欲しい物を伝えると、佳代子はメモを取りリストにした。そしてお金を渡すと、赤木と共に佳代子は部屋を出ていった。
「いってらっしゃい、気をつけてね」
二人に手を振ると、アパートの部屋のドアは閉ざされる。赤木と佳代子は鉄製の階段を降りると同じ方向へと歩いた。
何故、彼女が自分についてくるのかが赤木は分からず頭の上にハテナを浮かべる。
「赤木さん、幾つかお聞きしたい事があるのですがよろしいでしょうか?」
丁寧な口調で話す彼女だが、その態度は毅然としており、赤木への警戒心は解かれていない。
「どうぞ」
佳代子は赤木を見ると、口を開く。
「美月の事、何処まで知ってるんですか?」
質問の意図が分からず、赤木は佳代子を見つめる。
「答えて」
厳しい口調で催促され、赤木は淡々と美月について知っている事を話した。
「親父さんが自殺して、一人暮らししてる大学生の女の子だろ。……あと、なんかお嬢様らしいな、美月さん」
「……本当にそれしか知らないの?」
「知らねえし、あの人の家柄に興味は無いんでね」
そう言うと赤木は煙草に火をつける。
そんな彼の様子を、拍子抜けしたように佳代子は見た。赤木と視線が交わると、佳代子は彼が本当に美月の家柄に興味が無い事を感じて、釣り上げていた瞳を少し丸くした。
「そう、なの。ごめんなさい、てっきりあの子の家柄を狙って居座ってる、ろくでもない男だと思っていたわ」
「クク、ろくでもないのは否定しないさ」
そう言って煙を吐く赤木を見てから、佳代子は少し俯いて話をした。
「あの子の家は、ちょっと特別な家柄なの。それこそ、苗字を聞いたら分かる人は分かるくらいにね」
「ふーん」
──やっぱり、何処ぞの名家のお嬢様だったか。まあ、薄々分かってはいたが。
「貴方と美月がどんな関係なのか詮索するつもりはないけれど……美月の事、雑に扱ったり酷いことしたら許さないわ」
佳代子は毅然と言葉を紡いだ。
赤木は吸い終わった煙草を捨てて、靴の裏でグリグリと潰すと佳代子を見る。
「雑になんてしねえさ。大切に、大切にするよ」
そう答える赤木に対し、一拍置いて佳代子は鼻をフンと鳴らす。
「ふん、どうかしら。男の人の言う事なんて信用なりませんから」
「あらら、嫌われちまったか」
「貴方の事は嫌いじゃないけど好きでもないわ。ほら、煙草早く買って、それから買い物も付き合って」
煙草屋の前を指さし、催促する佳代子に少しタジタジになりつつも、赤木は煙草を買いに行き、荷物持ちをするのであった。
二人が帰ってきたのは30分後で、赤木が合鍵を使ってドアを開けると、美月が居間から歩いてきた。
「おかえりなさい」
「ただいま、美月」
「おかえり、佳代子」
「ただいま、美月さん」
「おかえりなさい、赤木さん」
赤木に対してそう言葉を交わす美月を見て、佳代子の中でまさかと思っていた事が確信に変わる。そして、少し俯くと佳代子は笑顔を向けて美月に言う。
「美月、今日はもうお暇するわ」
「え、もう?」
「ええ、急に押しかけてごめんなさいね。それから、早く治るといいわね」
「こっちこそ、来てくれてありがとう。凄く助かったよ。また遊びに来てね」
「ええ、また来るわ。それじゃあ、お邪魔しました」
「また学校で会おうね〜」
美月が手を振って佳代子を送り出す。佳代子も手を振り、玄関ドアを閉じた。
先程登った鉄の階段を少し早足で降り、佳代子は道路に出ると大きく溜息をついた。
「……はぁ〜〜〜」
──絶対好きじゃない、美月……あの人の事。あんな美月の柔らかい表情、見た事ないもの。
赤木に向けた美月の柔らかく、安心しきった表情が、佳代子の脳裏に浮かぶ。
美月が、親友が自分の知らない男に盗られてしまったような、何処か遠くへ行ってしまったような感覚が佳代子を苛んだ。
苦虫を噛み潰したような表情をして、それが通行人に見られないように俯いて歩く。
──何よ、私の方が美月の事を知ってるし、7年の仲なのよ。お風呂も一緒に入った事あるし、お泊まりだってした事があるわ。
佳代子は歯を食いしばると、ぐっと握り拳を作る。
──なのに、あんなポッと出の男なんかに……男なんかにぃ……!盗られるなんて、なんか嫌…っ!
美月が恋をしている事は喜ばしい事なのだが──それはそれとして、釈然としないモヤモヤとした感情を一人胸に、佳代子は昼の少し賑やかな街を歩いた。
その頃、赤木は美月の部屋で煙草を吸いながら佳代子の話をしていた。
「あの岡田って人、いい人だね。友達思いで」
「はいっ!佳代子はとってもいい子なんですよ。私が困っている時、いつも助けてくれて、しっかり者で、頼れる親友です」
佳代子が巻き直してくれた包帯を擦りながら美月は語る。
「赤木さんは佳代子と仲良くなれましたか?」
「どうだろう、分からないな」
「ふふ、仲良くなってくれたら嬉しいです」
──仲良く……なれるかね。
あの警戒心丸出しの佳代子の表情を思い浮かべながら、赤木は紫煙を吐いた。
ふと、赤木は美月を見る。痛々しい包帯と眼帯は平穏な世界で生きる彼女には不釣り合いで、早く彼女が治るようにと柄にもなく祈る。
そして、美月にこんな事をした奴は何者なのだろうと赤木は考えた。美月の目撃証言では男なのは確実らしいが、見た目や特徴が無ければ犯人は分からない。
できる事をやろうと思い、赤木は美月が大学に行っている間は雀荘で少しでも情報でも集めようと考える。
ただ、今は愛しい、恋しい彼女との時間を大切に過ごそうと煙草の火を消し、美月の隣に座った。
「美月さん、今日は何して過ごそうか」
穏やかな彼の問いかけに、彼女は笑顔で答えるのだった。
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