月を見ていた
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眠れるわけがなかった。
卒業アルバムを取ろうと俺に倒れてきた美月さんの体温が、匂いが、表情が、柔らかい感覚が、今でも焼き付いている。
どうしてこうも彼女からはいい匂いがするのだろうか。それとも、美月さんだかそう感じるのか、はたまた別の要因か。
隣で規則正しい呼吸をして、眠る美月さんの顔を覗き込む。
月明かりが仄かに照らす彼女の表情は、安らぎに満ちている。無防備な美月さんの寝巻きから見える首筋、鎖骨、胸元を、思わず凝視してしまう。
夜這い、という単語が頭を過ぎるが駄目だろうと良心と理性が待ったをかけた。
それに、そんな事をすれば彼女は怯えてしまうのが目に見えている。この穏やかな関係を自ら壊すなど愚の骨頂だ。
しかし、事故とはいえ美月さんからあんなに至近距離で迫ってくるのは予想外だった。
照れたような、恥じらいでいっぱいになった彼女は、とても可愛らしいものだった。思い出すだけで頬が緩んでしまうほどに。
ここ最近、美月さんとの距離を意図的に縮めて思った事がある。
彼女は恐らく、その事に気が付いてはいる。しかし照れたり、恥ずかしがるだけで俺の事を拒みはしない。
最初こそ拒まないのなら良しと考えていたが、先程の卒業アルバムを見てその考えは変わった。
彼女は小学校を卒業してからずっと、女子校に通っていたのだ。
家庭の方針なのか、彼女の意思なのかは分からないが、兎にも角にも彼女は異性とほとんど接触してこなかった事が分かった。
距離感が分からないから拒まないのか──それとも、俺だから許しているのかは知る由もない。
後者だったらどれほど嬉しい事か。とはいえ俺は美月さんの交友関係を把握しているわけではない。
今のところ男の影は微塵もないが、彼女がこれからの学生生活で、友人伝いで異性を紹介されたり、飲み会に誘われ、そこで出会いがあるかもしれない。
もしも、そこで美月さんに好きな人ができたなら、俺はスッパリ諦めよう。こんなフーテンよりも、普通の人と共に過ごした方が幸せだ。
しかし、彼女に好きな異性がいない今は──俺のものにしようと躍起になっても、バチは当たらないだろう。
そっと、彼女の黒い髪の先を弄る。柔らかくて、指通りの良い、シルクのような艶やかな髪に、キスを落とす。
彼女が気が付く事の無い思慕のキス。
積もる想いを闇夜に溶かして布団に戻り、明日の代打ちに備えて眠る事にした。
朝起きて、いつもの様に朝食を共に食べ、大学へ向かう美月さんを見送ると、座布団の上で寛いで、窓を開けて煙草を吸う。
代打ちの待ち合わせ場所に行くまでにまだ時間はある。本でも読んで時間を潰そうと思い、俺は本棚を見た。
昨日読んだ三四郎という本の続きでも読もうかと手に取る。
彼女の本棚には純文学、海外文学に論文、参考書、経済学に関する論文、そして最近の小説が数冊並んでいる。傾向としては純文学や海外文学が好きなようだ。
件の三四郎を手に取った。場面は主人公の三四郎が友人らと菊人形を見に街へ繰り出すシーンだ。
暫く読んでいると、ヒロインの美禰子が体調が悪いと言い出して、三四郎と一行から離れる。彼女は三四郎に「迷子」の英訳は「stay sheep」であると話し出す。
stay sheep──。俺は脳内でその言葉を繰り返す。
その刹那、カコンとポストの中に手紙が投函される音が部屋に響く。美月さん宛の手紙が届いたようだ。
家を出る前に俺はポストから手紙を取り出すと、彼女が帰宅後に分かりやすいように卓袱台の上に置く。
ボストンバッグを手に持ち、スニーカーを履くと、俺は迎えが来る予定の喫茶店へと足を運んだ。
喫茶店の重いガラス扉を開けると、カランカランと子気味のいいベルが鳴る。
そこに座っているヤーさんに声を掛けると、その男は俺を見るなりギョッとした。
「お前……!何時ぞやのガキ!」
「?」
俺が首を傾げると、男は「マジか」とでも言いたげな表情で見つめる。
「アンタ、誰?」
「覚えてねえのかよ……去年の今頃くらいに、永代のお嬢さんと打ってた高島ってモンだ」
「………ああ」
思い出した。初めて美月さんに出会った日、雀荘で美月さんと対局をしていた男だ。細身で柄の悪いあのヤーさんか。
「まさか、お前がうちの組の代打ちとはなぁ。数奇な事もあるモンだ」
そう言うと高島は座れ、と着席を促す。俺は席に座ると高島はメニューを見せ、好きなものを頼めと勧めてきたので、俺はウエイターを呼び止めてコーヒーを頼んだ。
「本題に入るが、今回はお前と相手の組の代打ち、どちらかがハコワレになるまでの勝負だ。800万の大勝負がお前にかかってるんだ、頼んだぞ」
「分かりましたよ」
それからお互い無言になり、煙草を吸って喫茶店で少しゆっくりする。店内は落ち着いたクラシック音楽が流れ、カウンター席では新聞を読んだり、コーヒーを楽しむ客とそれぞれだ。
そんな静寂の火蓋を切ったのは、高島だった。
「永代のお嬢さんは、元気か?」
「……ええ、まあ」
「そうか、なら良い。親戚のアンタが言うなら本当なんだろうな」
その時に思い出した。あの時、俺はこいつに美月さんの親戚だとホラを吹いてあの雀荘に乗り込んだのだ。
「にしても、永代のお嬢さんも大変だな。本家の人間だったってのに、父親が本家出ていっちまって、暫くは事業も軌道に乗って調子良かったが……あんな最期とはなぁ」
そう話す高島には、やや悲壮感が漂っていた。
「……本家?」
高島から出てくる、俺の知らない美月さんの事に、俺は少し複雑な心境になりつつ尋ねる。
「あ?お前永代家の関係者なんだから知ってるだろ」
「いや、実は……」
俺はあの時の経緯を高島に説明した。すると、高島は紫煙を押し出すようにため息をついた。
「マジか……あのお嬢さん、あの土壇場でとんでもねえな。お前もお前だ、赤木」
「フフ、そりゃどうも」
「まあいい。迎えが来た、行くぞ」
高島が窓の方を見ると、黒塗りの高級車が停まっていた。俺と高島は立ち上がると会計を済ませて喫茶店を出て、その車に乗り込んだ。
暫く車を走らせていると、組の所有する屋敷に到着した。
屋敷に通され、部屋で暫く待機しているように言われ、俺は置いてあった座布団を枕にして寝転び、煙草に火をつける。
時刻は16時で、8月に比べて少し暗くなってきた。美月さんは今、何をしているだろうかとぼんやり考える。
そう言えば、今日は大学が終わったらアルバイトに行くと言っていた。
彼女は喫茶店でウエイターをしているそうで、彼女のウエイター姿を想像して胸の奥が甘く刺激されるような感覚になる。
コーヒーを運ぶ、いつもと違った姿の美月さん。──絶対可愛い。
今度、彼女のバイト先を聞いて行ってみようと決意した。
美月さんの事を色々と考えていると、俺を呼ぶ声が障子越しに聞こえてきた。返事をすると、黒服のヤーさんがやってきた。
「赤木さん、お食事何か取りましょうか」
「何でもいいですよ」
「そうですか。なら、寿司はいかがでしょうか?」
「じゃ、それで」
「かしこまりました。すぐにお取りします」
暫くボーッと待っていると、頼んだ寿司が来た。腹が減ったので食べるが、そもそもこんなに量は要らないのと、ふと美月さんは今日何を食べるのだろうかと考える。
この特上寿司も悪くない。悪くないのだが──俺はあの人が作った飯を、あの人と一緒に食べたいと思った。
「赤木さん、失礼します」
寿司を食べ終えると、黒服がやってきた。
「そろそろです、ご案内します」
黒服の後を、小さな日本庭園を見ながら歩く。
藍色に染まった空を見上げると、半分に欠けた月が東の空に浮かんでいる。
「こちらです」
襖が開き、対戦相手と対峙する。そこにはスーツを着た初老の男が椅子に座っていた。周りには高島や他の組員もいるが、その男の気配は──他の誰とも違う。
そこだけ温度が下がったような気配。これはきっと、面白い対局ができると確信し、口角が上がる。
「お前が……赤木か」
「ああ、宜しく頼むよ」
卓に着き、改めて今回の麻雀の取り決めを説明して貰う。レートは800万、どちらかがハコワレになるまでの勝負。
「クククッ、そう笑うなよ。悪魔みてえだぞ」
「フッ、酷い言い様だな」
卓に着き、男を見据えると視線がかち合う。勝負が始まる前の、導火線に火がついたような感覚が体を支配し、俺の意識は目の前の男に向けられる。
さて、この男はどんな勝負をするのか?この男の在り方は?どう考え、どう動き、どう打つのか──楽しみで仕方ない。
洗牌が始まり、ジャラジャラと牌の混ぜられる男が部屋に響く。牌山から牌を取っていき、理牌した手配は悪くない。
東一局 親は上家のヤーさんになった。まずは見に回り相手の様子を伺う。
東一局で分かった事は、相手は守備重視の慎重な打ち手だという事。しかし、勝機やチャンスは逃さない。
「ロン、3900点だ」
相手の男の手牌が明かされる。俺を的確に狙った手牌、やはりやり手だ。クセも無く、洗礼された打ち方をする。
点棒を相手に支払い、俺はここからどう動くか思案する。まだ相手の核心には触れられていない。
──見せてくれよ、お前の本質を。
その日の代打ちは俺も相手も競り合い、点棒は互いに奪い奪われ、点差はマイナス6000になった所で朝を迎えた。ぶっ続けで対局をしていた為、休憩を挟んで今日の15時からまた再開となった。
勝負の熱が引かず、眠れずに縁側で煙草を吸って日本酒を飲んでいると、高島と黒い和服を着たタッパの良い初老の男性がやってきた。
「ご苦労だったな、赤木よ。眠れないのか?」
漆黒の和服を着た恰幅の良い男性が声をかけてきた。恐らく、この組の組長だろう。
その男の纏う雰囲気が、そう物語っていた。
「ええ、勝負の熱が引かなくてね」
「ふむ、それならば女でもどうだ?」
女、と言われて真っ先に思い浮かんだのは美月さんだった。
こういう場所で勝負の熱を冷ます為に女を抱く機会は何度かあったし、気まぐれでキャバレーの姉さんを抱く事もあった。
しかし、今はそうではない 。
「いえ、気分じゃないんで。遠慮しときます」
「そうか。まあ、困った事があったらうちの高島に何なりと言いつけてくれ」
「お気遣いどうも」
そう言うと高島と組長は去っていく。白み始めた朝の空を見上げ、また酒を飲む。
組長にはああ言ったが、こういう場で気が向いたら相手して貰うし、気紛れや発散の為に女を抱くことはあった。
しかし、今は気が向かないと言うよりも、美月さん以外どうでもいいという気持ちの方が強かった。
いつの間にか、美月さんじゃないと駄目になってしまうほど、俺はあの人の事を想っている。
まさか自分がこんなにも、一人の人間に執着するとは思わなかった。
美月さんを思い浮かべると、自分の中で様々な感情が渦巻く。
会って顔を見たい、名前を呼びたい、同じ時間を過ごしたい。
そんな、美月さんを想う取り止めもない感情が、自分の隙間どころか全てを覆っていく。
気がつくと星々は消えて、月もその顔を隠し、朝日が登り始めていた。
日本酒を煽り、そろそろ寝ようかと思い俺は用意された部屋へ戻り、床に就く。瞼を閉じると、酒のお陰なのか、俺はあさっりと入眠した。
「ロン。立直、ツモ、平和 、一気通貫 、ドラ3、倍満だ」
対戦相手へ直取りの倍満。男の顔が絶望の色に染まっていく。残り8000の点棒を失い、相手はハコワレだ。
15時から再開した対局は夜の0時まで続き、800万の大勝負は此処に終わった。
組の者は大いに喜び、祝勝会だと言って酒や豪勢な料理を持って来させ、広間で酒盛りが始まる。
最初の方は俺も参加していたが、今日は大勢の場所で飲む気分では無かった為、頃合いを見て適当な理由をつけて祝勝会から抜け出し、静かな日本庭園を見ながら、月を肴に日本酒を呑んでいると、高島がやってきた。
「よお赤木、今日はありがとうよ。組長も喜んでたよ」
「どうも。高島さん、組長の傍に居なくていいんですか?」
「大丈夫だ、俺の部下が何人かついてる。それに……ああいう騒がしい場所はあまり好かん」
高島は懐から煙草とライターを取り出すと、慣れた手つきで火をつける
俺も煙草を吸いたくなり、一本取り出すと高島が俺の咥えている煙草の先端にライターを差し出し、火をつけた。
「……どうも」
高島のライターに少し顔を寄せて、煙草の先端に火を当てる。薫る二つの紫煙が、夜空に登っていく。
「お前の闘牌、見事なモンだったよ。まるで手品でも見てるようだった」
「フフ、それはどうも」
そう言葉を交わすと、俺も高島も静かに煙草を一口二口吸うと、クリスタルガラスの灰皿に煙草を置いて、トントンと灰を落とす。
ふと、俺は高島にある事を確かめたくなり、質問した。
「そう言えば、俺は立ち合ってねえから知らないんだけど、美月さんの借金ちゃんとチャラにしてくれた?」
「当たり前だ、永代さんが風邪が治ったタイミングで伺って、書類にサインしてもらった。しかし、あのお嬢さん……変わっててよ」
「?」
「借金チャラになるってのに、あの勝利は偶然みたいなものだから、あの晩の勝負を無かった事にして、自分の内臓なり何なりを売って返しますって言い出してよ」
「……フッ」
俺は少し笑ってしまった。美月さんらしいと言えば、とてもらしいのだが。
「流石にそれは遠慮したよ。それに、あのお嬢さんが負けても、うちで借金は負担する手筈になってたんだ」
「え?」
意外な言葉に俺は耳を疑った。
「うちの組長 が、永代さんの親父と旧友でよ。永代さんの親父には恩があるから、それくらいの金は負担するってうちの組長 がな。まあ、うちにもメンツがあるから、麻雀っちゅう形で勝負はしないといけなかったが……あのお嬢さん、勝っちまうんだからよ、ハハッ」
そう言って笑いながら高島は口から紫煙を吐き出す。少し黄ばんだ歯が覗いて見えた。
それと同時に、美月さんの親父も、美月さんも何者なのだという疑問が俺の頭に浮かぶ。
「美月さんも、美月さんの親父も何者なんだ?」
それを尋ねると、高島は煙草を灰皿に押し付ける。
「それは言えんな。永代のお嬢さんのプライバシーに関わる問題だ」
「……」
俺の咥えていた煙草の灰が、地面にはらりと落ちる。
「さて、俺はそろそろ戻るわ。お前は?」
「俺はもう少しここに居ます」
「そうか、まあゆっくりしていってくれ」
そう言うと高島は煙草をジャケットの胸ポケットにしまうと立ち上がり、去っていった。
一人、静かになった日本庭園。空を見上げると美しい三日月が浮かんでいる。
美月さんは恐らく、良い家の生まれなのだろう事は想像に容易かった。
それは彼女から感じる雰囲気だったり、所作だったり、言葉遣いから汲み取れた。
昨日の高島の本家がどうたらという発言からして、もしかしたら名家だったり、有名な家柄の生まれなのかもしれないが、俺にとってそれは些事に過ぎない。
どうあれ、彼女は彼女なのだから。
朝になり、俺は早々に屋敷を出て、高級車に乗って立ち去った。
さくら荘から少し離れた静かな住宅街で停めてもらい、俺は高級車が見えなくなるまで見送ると、歩いてさくら荘へと向かう。
朝靄のかかった秋の静かな朝は嫌いじゃない。重くなったボストンバッグを手に持ち歩くと、さくら荘が見えてきた。
美月さんから預かったアパートの鍵をバッグから取り出す。白い猫のマスコットストラップが着いた鍵を差し込み、回す。
「おかえりなさい……!赤木さん」
ドアを開けると、春の陽射しのような笑みを浮かべて美月さんは言う。
「うん、ただいま」
「ご無事で何よりです。朝ご飯できてますよ」
「ありがとう」
履き慣れたスニーカーを脱いで、部屋に上がる。卓袱台の上にはお茶漬けと漬物が用意されていた。
「すみません、昨日おかずを買い忘れてしまって。お茶漬けになってしまうのですが」
「いいや、すげえ助かる、ありがとう」
そう答えると、彼女は安堵したように微笑んだ。
実際、昨日の祝勝会で酒を飲み、つまみだの、若いんだから食えだの言われて味の濃いものを食べてきたので、お茶漬けはベストだ。
梅干しに海苔、胡麻がふりかけられており、白だしのいい匂いがする。
一口食べると、心がじんわりと温まるような感覚になった。
「ああ、美味い……」
そう言うと、彼女はホッとしたように胸を撫で下ろした。
「良かったです、余りもので作ったのでお口に合わなかったらと思うと……」
「君の作る飯は、何だって美味いよ」
「そ、そんな……あ、ありがとうございます……嬉しい、です」
ふと美月さんを見ると、顔を少し赤くして、俯き加減で視線を逸らしていた。
初々しいその反応に、俺は心底彼女に恋をしていると改めて思う。ああ、可愛すぎて今すぐにでも抱きしめたい。
しかしその衝動を抑えるべく、俺は箸を持つ手に少しばかり力を入れつつ、漬物を口に運んだ。
本日は午後からの授業との事で、美月さんは午前中は洗濯物や縫い物をして過ごしていた。
座布団に座り、新しく買ったであろうエプロンに刺繍を入れている美月さんを見つめる。
昨日の炎のような博奕が嘘のように、この空間は穏やかで心地良い。
「赤木さん、昨日は楽しめましたか?」
「まあね、そこそこ強い相手だったよ」
しかし、鷲巣巌ほどでは無かった。問うてきた美月さんは刺繍を終えて、ソーイングセットを片付けている。
「でも、あの夜ほどではないなぁって思ってませんか?」
あの夜とはきっと、鷲巣巌との闘いの夜を言っているのだろう。俺の考えている事が分かるのか、不思議な人だ。
「へぇ、よく分かったね。俺の考えてる事」
「赤木さんのお顔や雰囲気で、何となく分かります。ご飯美味しいんだなぁとか、今日の対局はつまらなかったなぁ、とか」
「……俺ってわかり易い?」
そう尋ねると、彼女は少し言い淀みつつも答える。
「えぇっと、どちらかと言うと……その、わかり難いです。でも、赤木さんと過ごしてちょっとだけですけど、分かるようになってきたんです」
そう言って片手で″ちょっと″のハンドジェスチャーをして、美月さんは言った。なるほど、彼女は人をよく見ている。
「ねえ、美月さん。じゃあ俺は今、何を考えてると思う?」
卓袱台に肘を立て、頬杖をついて彼女を見る。小首を傾げる彼女の黒い髪が、肩からさらりと垂れた。
じっと、俺を見つめる彼女の丸い瞳が、硝子玉の様に綺麗で──俺もじっと美月さんを見つめる。
「うーん……赤木さんは今……」
「うん」
「私のやっていた刺繍が、気になってます……か?」
「ククク、残念、違うな」
「ですよね。ちなみに、正解はなんですか?」
正解は、美月さんが好きだなって顔だ。だが、これはまだだ。まだ言わない。
「美月さんの事、考えてた」
「わ、私の事……ですか?」
「うん」
「え、えぇっと……それは良い意味でしょうか?それとも、悪い意味でしょうか?」
「もちろん、いい意味で」
そう答えると、彼女はまた笑って「それなら良かったです」と言う。
時計に目をやると、もうすぐ美月さんが大学に行く時間だ。彼女はバッグに筆記用具やノートを入れて準備を始めている。
「お昼ご飯、台所に置いてありますから」
「うん」
「それじゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい」
スニーカーを履いて、彼女は笑顔で玄関を出ていく。小さな美月さんの背中が見えなくなるまで、俺は煙草を吸いながら見送った。
✽
「さて、俺はそろそろ行くよ」
美月の家に滞在して1週間ほどで、赤木はまた博奕旅に出るべく玄関で靴を履いていた。
夜の19時を少し過ぎた頃、美月はそんな赤木の背中を見つめていた。
「ありがとう、美月さん。世話になったね」
「いえ、こちらこそ。家事を手伝っていただいてありがとうございます」
美月はぺこりと頭を下げる。そんな美月を見て赤木は珍しく柔らかい笑みを浮かべた。
赤木は靴紐を結ぶと、大分小さくなったボストンバッグを片手に持つ。
「そろそろ行くよ。また来るから」
じゃあ、と短く別れの挨拶を告げようとした刹那──美月が名前を呼んだ。
「あ、赤木さんっ!」
振り返ると、美月が何かを手渡してきた。赤木の掌には柔からかい感覚と、冷たくゴツゴツした硬い感覚の二つを感じる。
掌を広げてみると、美月のアパートの合鍵だった。柔らかい感触は、猫のマスコットストラップの感触だったようだ。
赤木は少し目を見開きつつも、美月を見る。
「あ、あのっ……!いつでもいらしてください。いつでも帰ってきて、いいです……から」
そう彼女は言い終わると、少し恥ずかしそうに髪をいじる。
そんないじらしい美月を見て、愛おしいと思うと反射的に体が動いていた。目の前にいる美月を抱きしめ、彼女の全てを感じる。
「……え?」
「帰ってくるよ、必ず」
耳元でそう告げると、赤木の体が離れていく。
「じゃ、いってくる」
「い、いってらっしゃい……」
赤木を見送り、玄関のドアがバタンと閉まる。その刹那、美月はその場にへたり込み、壁に体を預けて自分自身を抱いた。
「だ、抱きしめ……られた……?」
理解が追いつかず、美月はうわ言のように呟いた。
顔は赤くなっていて、今にも火が出そうな程に熱い。もう涼しい秋だと言うのに。
「な、何だったんでしょう……今の……」
まだ混乱している美月は玄関ドアを見つめながら呟いた。
その頃、赤木はと言うと赤面した、恋する乙女のような表情の美月を見て機嫌を良くし、軽い足取りで駅へと向かうのであった。
澄んだ秋空だけが、その旅の行方を見送った。
卒業アルバムを取ろうと俺に倒れてきた美月さんの体温が、匂いが、表情が、柔らかい感覚が、今でも焼き付いている。
どうしてこうも彼女からはいい匂いがするのだろうか。それとも、美月さんだかそう感じるのか、はたまた別の要因か。
隣で規則正しい呼吸をして、眠る美月さんの顔を覗き込む。
月明かりが仄かに照らす彼女の表情は、安らぎに満ちている。無防備な美月さんの寝巻きから見える首筋、鎖骨、胸元を、思わず凝視してしまう。
夜這い、という単語が頭を過ぎるが駄目だろうと良心と理性が待ったをかけた。
それに、そんな事をすれば彼女は怯えてしまうのが目に見えている。この穏やかな関係を自ら壊すなど愚の骨頂だ。
しかし、事故とはいえ美月さんからあんなに至近距離で迫ってくるのは予想外だった。
照れたような、恥じらいでいっぱいになった彼女は、とても可愛らしいものだった。思い出すだけで頬が緩んでしまうほどに。
ここ最近、美月さんとの距離を意図的に縮めて思った事がある。
彼女は恐らく、その事に気が付いてはいる。しかし照れたり、恥ずかしがるだけで俺の事を拒みはしない。
最初こそ拒まないのなら良しと考えていたが、先程の卒業アルバムを見てその考えは変わった。
彼女は小学校を卒業してからずっと、女子校に通っていたのだ。
家庭の方針なのか、彼女の意思なのかは分からないが、兎にも角にも彼女は異性とほとんど接触してこなかった事が分かった。
距離感が分からないから拒まないのか──それとも、俺だから許しているのかは知る由もない。
後者だったらどれほど嬉しい事か。とはいえ俺は美月さんの交友関係を把握しているわけではない。
今のところ男の影は微塵もないが、彼女がこれからの学生生活で、友人伝いで異性を紹介されたり、飲み会に誘われ、そこで出会いがあるかもしれない。
もしも、そこで美月さんに好きな人ができたなら、俺はスッパリ諦めよう。こんなフーテンよりも、普通の人と共に過ごした方が幸せだ。
しかし、彼女に好きな異性がいない今は──俺のものにしようと躍起になっても、バチは当たらないだろう。
そっと、彼女の黒い髪の先を弄る。柔らかくて、指通りの良い、シルクのような艶やかな髪に、キスを落とす。
彼女が気が付く事の無い思慕のキス。
積もる想いを闇夜に溶かして布団に戻り、明日の代打ちに備えて眠る事にした。
朝起きて、いつもの様に朝食を共に食べ、大学へ向かう美月さんを見送ると、座布団の上で寛いで、窓を開けて煙草を吸う。
代打ちの待ち合わせ場所に行くまでにまだ時間はある。本でも読んで時間を潰そうと思い、俺は本棚を見た。
昨日読んだ三四郎という本の続きでも読もうかと手に取る。
彼女の本棚には純文学、海外文学に論文、参考書、経済学に関する論文、そして最近の小説が数冊並んでいる。傾向としては純文学や海外文学が好きなようだ。
件の三四郎を手に取った。場面は主人公の三四郎が友人らと菊人形を見に街へ繰り出すシーンだ。
暫く読んでいると、ヒロインの美禰子が体調が悪いと言い出して、三四郎と一行から離れる。彼女は三四郎に「迷子」の英訳は「stay sheep」であると話し出す。
stay sheep──。俺は脳内でその言葉を繰り返す。
その刹那、カコンとポストの中に手紙が投函される音が部屋に響く。美月さん宛の手紙が届いたようだ。
家を出る前に俺はポストから手紙を取り出すと、彼女が帰宅後に分かりやすいように卓袱台の上に置く。
ボストンバッグを手に持ち、スニーカーを履くと、俺は迎えが来る予定の喫茶店へと足を運んだ。
喫茶店の重いガラス扉を開けると、カランカランと子気味のいいベルが鳴る。
そこに座っているヤーさんに声を掛けると、その男は俺を見るなりギョッとした。
「お前……!何時ぞやのガキ!」
「?」
俺が首を傾げると、男は「マジか」とでも言いたげな表情で見つめる。
「アンタ、誰?」
「覚えてねえのかよ……去年の今頃くらいに、永代のお嬢さんと打ってた高島ってモンだ」
「………ああ」
思い出した。初めて美月さんに出会った日、雀荘で美月さんと対局をしていた男だ。細身で柄の悪いあのヤーさんか。
「まさか、お前がうちの組の代打ちとはなぁ。数奇な事もあるモンだ」
そう言うと高島は座れ、と着席を促す。俺は席に座ると高島はメニューを見せ、好きなものを頼めと勧めてきたので、俺はウエイターを呼び止めてコーヒーを頼んだ。
「本題に入るが、今回はお前と相手の組の代打ち、どちらかがハコワレになるまでの勝負だ。800万の大勝負がお前にかかってるんだ、頼んだぞ」
「分かりましたよ」
それからお互い無言になり、煙草を吸って喫茶店で少しゆっくりする。店内は落ち着いたクラシック音楽が流れ、カウンター席では新聞を読んだり、コーヒーを楽しむ客とそれぞれだ。
そんな静寂の火蓋を切ったのは、高島だった。
「永代のお嬢さんは、元気か?」
「……ええ、まあ」
「そうか、なら良い。親戚のアンタが言うなら本当なんだろうな」
その時に思い出した。あの時、俺はこいつに美月さんの親戚だとホラを吹いてあの雀荘に乗り込んだのだ。
「にしても、永代のお嬢さんも大変だな。本家の人間だったってのに、父親が本家出ていっちまって、暫くは事業も軌道に乗って調子良かったが……あんな最期とはなぁ」
そう話す高島には、やや悲壮感が漂っていた。
「……本家?」
高島から出てくる、俺の知らない美月さんの事に、俺は少し複雑な心境になりつつ尋ねる。
「あ?お前永代家の関係者なんだから知ってるだろ」
「いや、実は……」
俺はあの時の経緯を高島に説明した。すると、高島は紫煙を押し出すようにため息をついた。
「マジか……あのお嬢さん、あの土壇場でとんでもねえな。お前もお前だ、赤木」
「フフ、そりゃどうも」
「まあいい。迎えが来た、行くぞ」
高島が窓の方を見ると、黒塗りの高級車が停まっていた。俺と高島は立ち上がると会計を済ませて喫茶店を出て、その車に乗り込んだ。
暫く車を走らせていると、組の所有する屋敷に到着した。
屋敷に通され、部屋で暫く待機しているように言われ、俺は置いてあった座布団を枕にして寝転び、煙草に火をつける。
時刻は16時で、8月に比べて少し暗くなってきた。美月さんは今、何をしているだろうかとぼんやり考える。
そう言えば、今日は大学が終わったらアルバイトに行くと言っていた。
彼女は喫茶店でウエイターをしているそうで、彼女のウエイター姿を想像して胸の奥が甘く刺激されるような感覚になる。
コーヒーを運ぶ、いつもと違った姿の美月さん。──絶対可愛い。
今度、彼女のバイト先を聞いて行ってみようと決意した。
美月さんの事を色々と考えていると、俺を呼ぶ声が障子越しに聞こえてきた。返事をすると、黒服のヤーさんがやってきた。
「赤木さん、お食事何か取りましょうか」
「何でもいいですよ」
「そうですか。なら、寿司はいかがでしょうか?」
「じゃ、それで」
「かしこまりました。すぐにお取りします」
暫くボーッと待っていると、頼んだ寿司が来た。腹が減ったので食べるが、そもそもこんなに量は要らないのと、ふと美月さんは今日何を食べるのだろうかと考える。
この特上寿司も悪くない。悪くないのだが──俺はあの人が作った飯を、あの人と一緒に食べたいと思った。
「赤木さん、失礼します」
寿司を食べ終えると、黒服がやってきた。
「そろそろです、ご案内します」
黒服の後を、小さな日本庭園を見ながら歩く。
藍色に染まった空を見上げると、半分に欠けた月が東の空に浮かんでいる。
「こちらです」
襖が開き、対戦相手と対峙する。そこにはスーツを着た初老の男が椅子に座っていた。周りには高島や他の組員もいるが、その男の気配は──他の誰とも違う。
そこだけ温度が下がったような気配。これはきっと、面白い対局ができると確信し、口角が上がる。
「お前が……赤木か」
「ああ、宜しく頼むよ」
卓に着き、改めて今回の麻雀の取り決めを説明して貰う。レートは800万、どちらかがハコワレになるまでの勝負。
「クククッ、そう笑うなよ。悪魔みてえだぞ」
「フッ、酷い言い様だな」
卓に着き、男を見据えると視線がかち合う。勝負が始まる前の、導火線に火がついたような感覚が体を支配し、俺の意識は目の前の男に向けられる。
さて、この男はどんな勝負をするのか?この男の在り方は?どう考え、どう動き、どう打つのか──楽しみで仕方ない。
洗牌が始まり、ジャラジャラと牌の混ぜられる男が部屋に響く。牌山から牌を取っていき、理牌した手配は悪くない。
東一局 親は上家のヤーさんになった。まずは見に回り相手の様子を伺う。
東一局で分かった事は、相手は守備重視の慎重な打ち手だという事。しかし、勝機やチャンスは逃さない。
「ロン、3900点だ」
相手の男の手牌が明かされる。俺を的確に狙った手牌、やはりやり手だ。クセも無く、洗礼された打ち方をする。
点棒を相手に支払い、俺はここからどう動くか思案する。まだ相手の核心には触れられていない。
──見せてくれよ、お前の本質を。
その日の代打ちは俺も相手も競り合い、点棒は互いに奪い奪われ、点差はマイナス6000になった所で朝を迎えた。ぶっ続けで対局をしていた為、休憩を挟んで今日の15時からまた再開となった。
勝負の熱が引かず、眠れずに縁側で煙草を吸って日本酒を飲んでいると、高島と黒い和服を着たタッパの良い初老の男性がやってきた。
「ご苦労だったな、赤木よ。眠れないのか?」
漆黒の和服を着た恰幅の良い男性が声をかけてきた。恐らく、この組の組長だろう。
その男の纏う雰囲気が、そう物語っていた。
「ええ、勝負の熱が引かなくてね」
「ふむ、それならば女でもどうだ?」
女、と言われて真っ先に思い浮かんだのは美月さんだった。
こういう場所で勝負の熱を冷ます為に女を抱く機会は何度かあったし、気まぐれでキャバレーの姉さんを抱く事もあった。
しかし、今は
「いえ、気分じゃないんで。遠慮しときます」
「そうか。まあ、困った事があったらうちの高島に何なりと言いつけてくれ」
「お気遣いどうも」
そう言うと高島と組長は去っていく。白み始めた朝の空を見上げ、また酒を飲む。
組長にはああ言ったが、こういう場で気が向いたら相手して貰うし、気紛れや発散の為に女を抱くことはあった。
しかし、今は気が向かないと言うよりも、美月さん以外どうでもいいという気持ちの方が強かった。
いつの間にか、美月さんじゃないと駄目になってしまうほど、俺はあの人の事を想っている。
まさか自分がこんなにも、一人の人間に執着するとは思わなかった。
美月さんを思い浮かべると、自分の中で様々な感情が渦巻く。
会って顔を見たい、名前を呼びたい、同じ時間を過ごしたい。
そんな、美月さんを想う取り止めもない感情が、自分の隙間どころか全てを覆っていく。
気がつくと星々は消えて、月もその顔を隠し、朝日が登り始めていた。
日本酒を煽り、そろそろ寝ようかと思い俺は用意された部屋へ戻り、床に就く。瞼を閉じると、酒のお陰なのか、俺はあさっりと入眠した。
「ロン。立直、ツモ、
対戦相手へ直取りの倍満。男の顔が絶望の色に染まっていく。残り8000の点棒を失い、相手はハコワレだ。
15時から再開した対局は夜の0時まで続き、800万の大勝負は此処に終わった。
組の者は大いに喜び、祝勝会だと言って酒や豪勢な料理を持って来させ、広間で酒盛りが始まる。
最初の方は俺も参加していたが、今日は大勢の場所で飲む気分では無かった為、頃合いを見て適当な理由をつけて祝勝会から抜け出し、静かな日本庭園を見ながら、月を肴に日本酒を呑んでいると、高島がやってきた。
「よお赤木、今日はありがとうよ。組長も喜んでたよ」
「どうも。高島さん、組長の傍に居なくていいんですか?」
「大丈夫だ、俺の部下が何人かついてる。それに……ああいう騒がしい場所はあまり好かん」
高島は懐から煙草とライターを取り出すと、慣れた手つきで火をつける
俺も煙草を吸いたくなり、一本取り出すと高島が俺の咥えている煙草の先端にライターを差し出し、火をつけた。
「……どうも」
高島のライターに少し顔を寄せて、煙草の先端に火を当てる。薫る二つの紫煙が、夜空に登っていく。
「お前の闘牌、見事なモンだったよ。まるで手品でも見てるようだった」
「フフ、それはどうも」
そう言葉を交わすと、俺も高島も静かに煙草を一口二口吸うと、クリスタルガラスの灰皿に煙草を置いて、トントンと灰を落とす。
ふと、俺は高島にある事を確かめたくなり、質問した。
「そう言えば、俺は立ち合ってねえから知らないんだけど、美月さんの借金ちゃんとチャラにしてくれた?」
「当たり前だ、永代さんが風邪が治ったタイミングで伺って、書類にサインしてもらった。しかし、あのお嬢さん……変わっててよ」
「?」
「借金チャラになるってのに、あの勝利は偶然みたいなものだから、あの晩の勝負を無かった事にして、自分の内臓なり何なりを売って返しますって言い出してよ」
「……フッ」
俺は少し笑ってしまった。美月さんらしいと言えば、とてもらしいのだが。
「流石にそれは遠慮したよ。それに、あのお嬢さんが負けても、うちで借金は負担する手筈になってたんだ」
「え?」
意外な言葉に俺は耳を疑った。
「うちの
そう言って笑いながら高島は口から紫煙を吐き出す。少し黄ばんだ歯が覗いて見えた。
それと同時に、美月さんの親父も、美月さんも何者なのだという疑問が俺の頭に浮かぶ。
「美月さんも、美月さんの親父も何者なんだ?」
それを尋ねると、高島は煙草を灰皿に押し付ける。
「それは言えんな。永代のお嬢さんのプライバシーに関わる問題だ」
「……」
俺の咥えていた煙草の灰が、地面にはらりと落ちる。
「さて、俺はそろそろ戻るわ。お前は?」
「俺はもう少しここに居ます」
「そうか、まあゆっくりしていってくれ」
そう言うと高島は煙草をジャケットの胸ポケットにしまうと立ち上がり、去っていった。
一人、静かになった日本庭園。空を見上げると美しい三日月が浮かんでいる。
美月さんは恐らく、良い家の生まれなのだろう事は想像に容易かった。
それは彼女から感じる雰囲気だったり、所作だったり、言葉遣いから汲み取れた。
昨日の高島の本家がどうたらという発言からして、もしかしたら名家だったり、有名な家柄の生まれなのかもしれないが、俺にとってそれは些事に過ぎない。
どうあれ、彼女は彼女なのだから。
朝になり、俺は早々に屋敷を出て、高級車に乗って立ち去った。
さくら荘から少し離れた静かな住宅街で停めてもらい、俺は高級車が見えなくなるまで見送ると、歩いてさくら荘へと向かう。
朝靄のかかった秋の静かな朝は嫌いじゃない。重くなったボストンバッグを手に持ち歩くと、さくら荘が見えてきた。
美月さんから預かったアパートの鍵をバッグから取り出す。白い猫のマスコットストラップが着いた鍵を差し込み、回す。
「おかえりなさい……!赤木さん」
ドアを開けると、春の陽射しのような笑みを浮かべて美月さんは言う。
「うん、ただいま」
「ご無事で何よりです。朝ご飯できてますよ」
「ありがとう」
履き慣れたスニーカーを脱いで、部屋に上がる。卓袱台の上にはお茶漬けと漬物が用意されていた。
「すみません、昨日おかずを買い忘れてしまって。お茶漬けになってしまうのですが」
「いいや、すげえ助かる、ありがとう」
そう答えると、彼女は安堵したように微笑んだ。
実際、昨日の祝勝会で酒を飲み、つまみだの、若いんだから食えだの言われて味の濃いものを食べてきたので、お茶漬けはベストだ。
梅干しに海苔、胡麻がふりかけられており、白だしのいい匂いがする。
一口食べると、心がじんわりと温まるような感覚になった。
「ああ、美味い……」
そう言うと、彼女はホッとしたように胸を撫で下ろした。
「良かったです、余りもので作ったのでお口に合わなかったらと思うと……」
「君の作る飯は、何だって美味いよ」
「そ、そんな……あ、ありがとうございます……嬉しい、です」
ふと美月さんを見ると、顔を少し赤くして、俯き加減で視線を逸らしていた。
初々しいその反応に、俺は心底彼女に恋をしていると改めて思う。ああ、可愛すぎて今すぐにでも抱きしめたい。
しかしその衝動を抑えるべく、俺は箸を持つ手に少しばかり力を入れつつ、漬物を口に運んだ。
本日は午後からの授業との事で、美月さんは午前中は洗濯物や縫い物をして過ごしていた。
座布団に座り、新しく買ったであろうエプロンに刺繍を入れている美月さんを見つめる。
昨日の炎のような博奕が嘘のように、この空間は穏やかで心地良い。
「赤木さん、昨日は楽しめましたか?」
「まあね、そこそこ強い相手だったよ」
しかし、鷲巣巌ほどでは無かった。問うてきた美月さんは刺繍を終えて、ソーイングセットを片付けている。
「でも、あの夜ほどではないなぁって思ってませんか?」
あの夜とはきっと、鷲巣巌との闘いの夜を言っているのだろう。俺の考えている事が分かるのか、不思議な人だ。
「へぇ、よく分かったね。俺の考えてる事」
「赤木さんのお顔や雰囲気で、何となく分かります。ご飯美味しいんだなぁとか、今日の対局はつまらなかったなぁ、とか」
「……俺ってわかり易い?」
そう尋ねると、彼女は少し言い淀みつつも答える。
「えぇっと、どちらかと言うと……その、わかり難いです。でも、赤木さんと過ごしてちょっとだけですけど、分かるようになってきたんです」
そう言って片手で″ちょっと″のハンドジェスチャーをして、美月さんは言った。なるほど、彼女は人をよく見ている。
「ねえ、美月さん。じゃあ俺は今、何を考えてると思う?」
卓袱台に肘を立て、頬杖をついて彼女を見る。小首を傾げる彼女の黒い髪が、肩からさらりと垂れた。
じっと、俺を見つめる彼女の丸い瞳が、硝子玉の様に綺麗で──俺もじっと美月さんを見つめる。
「うーん……赤木さんは今……」
「うん」
「私のやっていた刺繍が、気になってます……か?」
「ククク、残念、違うな」
「ですよね。ちなみに、正解はなんですか?」
正解は、美月さんが好きだなって顔だ。だが、これはまだだ。まだ言わない。
「美月さんの事、考えてた」
「わ、私の事……ですか?」
「うん」
「え、えぇっと……それは良い意味でしょうか?それとも、悪い意味でしょうか?」
「もちろん、いい意味で」
そう答えると、彼女はまた笑って「それなら良かったです」と言う。
時計に目をやると、もうすぐ美月さんが大学に行く時間だ。彼女はバッグに筆記用具やノートを入れて準備を始めている。
「お昼ご飯、台所に置いてありますから」
「うん」
「それじゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい」
スニーカーを履いて、彼女は笑顔で玄関を出ていく。小さな美月さんの背中が見えなくなるまで、俺は煙草を吸いながら見送った。
✽
「さて、俺はそろそろ行くよ」
美月の家に滞在して1週間ほどで、赤木はまた博奕旅に出るべく玄関で靴を履いていた。
夜の19時を少し過ぎた頃、美月はそんな赤木の背中を見つめていた。
「ありがとう、美月さん。世話になったね」
「いえ、こちらこそ。家事を手伝っていただいてありがとうございます」
美月はぺこりと頭を下げる。そんな美月を見て赤木は珍しく柔らかい笑みを浮かべた。
赤木は靴紐を結ぶと、大分小さくなったボストンバッグを片手に持つ。
「そろそろ行くよ。また来るから」
じゃあ、と短く別れの挨拶を告げようとした刹那──美月が名前を呼んだ。
「あ、赤木さんっ!」
振り返ると、美月が何かを手渡してきた。赤木の掌には柔からかい感覚と、冷たくゴツゴツした硬い感覚の二つを感じる。
掌を広げてみると、美月のアパートの合鍵だった。柔らかい感触は、猫のマスコットストラップの感触だったようだ。
赤木は少し目を見開きつつも、美月を見る。
「あ、あのっ……!いつでもいらしてください。いつでも帰ってきて、いいです……から」
そう彼女は言い終わると、少し恥ずかしそうに髪をいじる。
そんないじらしい美月を見て、愛おしいと思うと反射的に体が動いていた。目の前にいる美月を抱きしめ、彼女の全てを感じる。
「……え?」
「帰ってくるよ、必ず」
耳元でそう告げると、赤木の体が離れていく。
「じゃ、いってくる」
「い、いってらっしゃい……」
赤木を見送り、玄関のドアがバタンと閉まる。その刹那、美月はその場にへたり込み、壁に体を預けて自分自身を抱いた。
「だ、抱きしめ……られた……?」
理解が追いつかず、美月はうわ言のように呟いた。
顔は赤くなっていて、今にも火が出そうな程に熱い。もう涼しい秋だと言うのに。
「な、何だったんでしょう……今の……」
まだ混乱している美月は玄関ドアを見つめながら呟いた。
その頃、赤木はと言うと赤面した、恋する乙女のような表情の美月を見て機嫌を良くし、軽い足取りで駅へと向かうのであった。
澄んだ秋空だけが、その旅の行方を見送った。
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