月を見ていた
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9月1日の夕方、俺は美月さんと一緒に商店街に来ていた。
たっぷり睡眠をとったおかげで朝の倦怠感は無くなり、こうして彼女と一緒に歩いている。
「赤木さんはレバーを使ったお料理なら何が好きですか?」
「……レバニラ」
「じゃあ今夜はレバニラにしますね。他にも何かありますか?」
「味噌汁の具はアサリがいいな」
「アサリ、いいですね。私もアサリのお味噌汁がいいと思っていたんです」
美月さんが作る飯はなんだって美味いから、正直何でもいいのだが──俺はこの時無性に食べたいものをリクエストしたくなった。
まずは野菜を買うべく美月さんと俺は八百屋に入る。ここはいつぞやも一緒に来た八百屋だ。
「お、美月ちゃんいらっしゃい」
「こんにちは」
「ん?そこのあんちゃん、久しぶりだな!4月以来か!」
「……どうも」
ここの八百屋の店主であろう男は俺を見るなりニカッと笑って欠けている前歯を見せた。どうやら店主は俺の事を覚えていたようだ。
そして美月さんはこの八百屋をよく使うのか、店主と顔馴染みのようだ。
美月さんはどの野菜が良いかを吟味しており、ピーマンともやし、ナスは決まったようだ。キュウリはどれがいいかと悩んでいるようで、しばらく考えると決まったのかキュウリを2本手に取ると、レジへと持っていく。
「すみません、お願いします」
「あいよー!えーっと、55円と80銭ね!」
「はい、丁度でお願いします」
「まいどありー!」
野菜を籠に入れて、美月さんと一緒に歩く。
「次はお魚屋さんですね、行きましょう」
美月さんはいつもより嬉しそうに笑うってこちらを見た。俺よりも小さい歩幅の彼女に合わせて歩く。
「いらっしゃい!」
「すみません、アサリをください。150グラムで」
「はいよ」
アサリがビニール袋に入れられ、測りにかけられる。151グラムと表示されて、美月さんは代金を支払うとアサリの入ったビニール袋を受け取った。
「毎度あり〜!」
魚屋の店主の快活な声が響く。美月さんは店主に会釈をすると帰路についた。
その途中、美月さんが陶器屋の前で足を止める。
「すみません、少し寄っていってもいいですか?」
「うん」
陶器屋の中に入ると、奥には婆さんが一人いる。いらっしゃい、とゆったりとした口調で俺たちを迎えた。
美月さんは笑顔で「こんにちは」というと湯のみを見定めている。
気に入った湯のみがあったのか、美月さんは淡い桃色の花が描かれた湯のみを手に取った。
「実はちょっと前に湯のみを落としてしまって……新しいのが欲しかったんです」
「そっか。……怪我、なかった?」
「はい、大丈夫です。心配してくださってありがとうございます。あ、あとこれ」
そう言って美月さんはもう一つ、あるものを手に取った。白い陶器でできた灰皿だった。
「灰皿?」
「はい、赤木さん用に。いつもお外でお煙草吸われてますから。これから寒くなってきますし、お部屋で吸った方がいいと思って」
煙草を吸わない美月さんが俺用にと灰皿を買おうとしてくれるその心遣いが愛おしい反面、何だか悪いなという気持ちもある。今更、禁煙はできないが。
「あ、でもお部屋で吸う時は窓を開けてくださいね」
「うん、分かった。ありがとう、美月さん」
彼女は柔らかく微笑むと、灰皿と湯のみを持って婆さんの座っている所へ向かって会計を済ませた。
「お待たせしました、それでは帰りましょう」
そしてまた、帰路につく。明日もよく晴れるのか、空は赤く染まっていた。
帰宅すると美月さんは早速料理をするべくエプロンを着ると、髪をひとつに束ねて手を洗う。
その様子を見て、俺はいつものように美月さんの隣に立ち、料理をしているところを眺める。
レバーの下処理をして、食べやすいサイズに切っていく。そしたら氷水に入れてレバーを洗い、水をザルで切るという作業を何回かしたら、別のボウルにレバーを移し、塩を入れて揉むと冷蔵庫に入れた。
その間に美月さんは今日のサラダともう一品おかずを作り終え、鍋に水を入れて味噌汁を作る用意を済ませている。
手際よく、滞りなく進んでいく美月さんの調理する様子は見ていて楽しいし、エプロン姿の美月さんはいつ見ても可愛らしい。見ていて何かくるものがある。
白いうなじに、細い手首、料理をする横顔──全てが無防備で、愛しいという感情と共に、滅茶苦茶にしたいという相反した感情に襲われる。
そのうなじに歯を立て、力任せに抱きしめたい。白い肌に触れたい、そして──
「……さん?赤木さん?」
彼女の呼びかける声で、ハッと我に返る。美月さんがこちらを不思議そうに見つめていた。
「あの、どうかしましたか?」
「?」
気がつくと、俺は彼女に手を伸ばして触れる寸前のところだった。無意識のうちにやっていた行動のようで、俺は何も言えずに美月さんを見る。
「あ、もしかして紐を直そうとしてくれたんですか?」
「紐……?」
美月さんが振り向いている視線の先を見ると、エプロンの紐が解けていた。どうやらこれの事を言っているようだ。
「ああ、うん」
「すみません、今手が離せなくて……結んでいただいてもいいですか?」
流しでアサリの入ったバットを手に持っている美月さんの後ろに周り、腰紐に手をかけた。
ちょうちょ結びにしてやると、彼女の洋服がエプロンと共に引き締まり、細い腰のラインが目立ち、思わず凝視してしまった。
「ありがとうございます」
振り返る彼女の笑顔が愛しくて、邪な心が浄化されるような感覚がした。
自分はこんなに理性のない、弱い人間だっただろうかと考える。
この人に恋をしてから、愛らしい、愛おしい、守りたいという感情と共に──彼女に触れたい、滅茶苦茶にしたいという相反した感情がせめぎ合う。
不思議なモンだと思いつつ、これが恋──人を好きになるという事なのだと己で腑に落ちた。
アサリの味噌汁を作る美月さんの姿を眺める。もうすぐ夕餉ができそうだ。
「できたもの持ってくよ」
「ありがとうございます、お願いします」
皿に盛られたサラダ、レバニラ、そして箸を居間のちゃぶ台へ持っていく。すると、アサリの味噌汁と白米、それからお茶を美月さんが持ってきた。
「それでは食べましょうか」
「ああ、いただきます」
「いただきます」
久しぶりの美月さんの飯は胃袋と心に染みる。今日は何となく俺の食べたいものをリクエストして、俺の為に美月さんが作ってくれたものだから、余計に美味いと感じる。
「今日も美味いよ、美月さんの飯」
「あっ、ありがとうございます……」
嬉しそうに、でも何処か少し照れくさそうに美月さんは言って箸を進めた。
それから夕食を終えて、お互い何も言わずに洗った食器を布巾で拭いていると、美月さんがその沈黙を破った。
「赤木さん、昨日は……その、何をしていたんですか?」
手を止めて美月さんは尋ねる。二人しかいない静かな部屋で、秒針の音だけが響く。
美月さんはきっと、俺が命を賭けた事を何となくだが分かっているのだろう。昨晩引き留めようとしていた事といい、今朝の行動といい、この人はとても聡い。
誤魔化したり、嘘をつくつもりはハナからないが、昨晩の話を聞いたら酷く心配させてしまうのは想像できる。
だが──この人もある意味で狂っている人間だ。なのに、自分の死は躊躇いなく良しとするのに、他人が死んだら悲しみ、泣き、悼む心がある。
何処から説明しようかと考えていた時、美月さんが口を開いた。
「私、赤木さんが何をしてきたのか……少しだけ分かります。賭けてきたんですよね、命を」
「……ああ」
俺が頷くと、美月さんは少し黙ると、言葉を紡いだ。
「……勝ったんですね」
俺は昨晩の勝負思い出す。あの時、あの男──鷲巣巌との半荘6回戦で鳴かれていたら俺は確実に負けていた、死んでいた。
「……いいや、負けたよ」
そう言うと、彼女は目を見開いてこちらを見つめる。
「赤木さんが……?」
「ああ、負けた」
「でも、赤木さんはこうして生きているんですから、勝ったんじゃあないんですか?」
俺は皿を拭き終えると、それを否定する。美月さんも拭き終わり、二人で居間に移動して腰を落ち着け、そこで話す事になった。
俺は窓を開け灰皿をベランダに置くと、煙草に火をつけ、美月さんに話す。
「対戦相手が途中でぶっ倒れちまってな……相手は試合放棄ってかたちになっちまったが、あのまま続けていれば、俺は確実に負けていた。俺はただ──長生きしただけだ」
ゆらゆらと揺れる紫煙の向こうで、美月さんは呆然とした表情で俺を見る。目が合うと、彼女は我に返ったようにハッとしてから言葉を紡いだ。
「あ、ごめんなさい、赤木さんがあんまりにも楽しそうにお話するから……なんだか珍しいなって思って」
「そう?」
俺はいつも通りに話していたつもりだったが、そうでも無かったらしい。楽しい──そうだな、確かにあの夜は楽しかった。生きている実感が得られて、最高の時を過ごせた。
あそこで死ねたなら、本望だった。
「ああ……楽しかったかもな」
ポツリと彼女に答える。それと同時に、彼女に対して少し疑問に思っている事を俺はぶつけた。
「ねえ美月さん」
「はい」
「昨日、どうして俺を止めなかったんだ?」
あの夜、美月さんは「いかないで」とは言わなかった。俺の死の予感を察知していたのに。
この人は俺とは違い、人の死を悲しむ心を持っている。昨日もきっと、俺を待っている間泣いていたはずだ。
それなのに引き留めなかった──そこが何だか引っかかったのだ。
美月さんは少し考えると、言葉を紡ぎ始めた。
「止めようとも思いました。……でも、あそこで赤木さんを引き留めるのは、何だか違う気がして。赤木さんの在り方を否定するみたいで……嫌で、言えなかったんです。それに、赤木さんは止めても行くんだろうなって……それなら、ちゃんと送り出そうって思ったんです」
美月さんは既に薄くなった俺の左腕の注射痕に視線を移す。
「ただ長生きしただけと赤木さんは思うかもしれませんが……長生きしてみるのも、悪くないかもしれませんよ。死にたがりの私が言うのも変ですけれど」
窓から涼しい残暑の風が吹き込み、彼女の黒髪を揺らす。愛しい、恋しい、まだ思いを伝えられていない目の前の人は、優しく柔らかく微笑んでいた。
確かに、あそこで死んでいたらもうこの人には会えなかった。この笑顔を二度と拝む事はなく、この甘やかで暖かい時間を過ごす事も無かっただろう。
「ククク、確かに──悪くねえかもな」
決めた、逝く時は博奕の中で俺は逝く。それ以外の無意味な死は御免だ。それが実現できるかどうかは分からない──だが、こんな風に死にたいという事は、こんな風に生きたいという事でもある。
死にたがりのこの人の言う通り、長生きするのも悪くないかもしれない。
目の前の好きな人の隣に、何時まで居られるか分からねえが──もう少しだけ居よう。
たっぷり睡眠をとったおかげで朝の倦怠感は無くなり、こうして彼女と一緒に歩いている。
「赤木さんはレバーを使ったお料理なら何が好きですか?」
「……レバニラ」
「じゃあ今夜はレバニラにしますね。他にも何かありますか?」
「味噌汁の具はアサリがいいな」
「アサリ、いいですね。私もアサリのお味噌汁がいいと思っていたんです」
美月さんが作る飯はなんだって美味いから、正直何でもいいのだが──俺はこの時無性に食べたいものをリクエストしたくなった。
まずは野菜を買うべく美月さんと俺は八百屋に入る。ここはいつぞやも一緒に来た八百屋だ。
「お、美月ちゃんいらっしゃい」
「こんにちは」
「ん?そこのあんちゃん、久しぶりだな!4月以来か!」
「……どうも」
ここの八百屋の店主であろう男は俺を見るなりニカッと笑って欠けている前歯を見せた。どうやら店主は俺の事を覚えていたようだ。
そして美月さんはこの八百屋をよく使うのか、店主と顔馴染みのようだ。
美月さんはどの野菜が良いかを吟味しており、ピーマンともやし、ナスは決まったようだ。キュウリはどれがいいかと悩んでいるようで、しばらく考えると決まったのかキュウリを2本手に取ると、レジへと持っていく。
「すみません、お願いします」
「あいよー!えーっと、55円と80銭ね!」
「はい、丁度でお願いします」
「まいどありー!」
野菜を籠に入れて、美月さんと一緒に歩く。
「次はお魚屋さんですね、行きましょう」
美月さんはいつもより嬉しそうに笑うってこちらを見た。俺よりも小さい歩幅の彼女に合わせて歩く。
「いらっしゃい!」
「すみません、アサリをください。150グラムで」
「はいよ」
アサリがビニール袋に入れられ、測りにかけられる。151グラムと表示されて、美月さんは代金を支払うとアサリの入ったビニール袋を受け取った。
「毎度あり〜!」
魚屋の店主の快活な声が響く。美月さんは店主に会釈をすると帰路についた。
その途中、美月さんが陶器屋の前で足を止める。
「すみません、少し寄っていってもいいですか?」
「うん」
陶器屋の中に入ると、奥には婆さんが一人いる。いらっしゃい、とゆったりとした口調で俺たちを迎えた。
美月さんは笑顔で「こんにちは」というと湯のみを見定めている。
気に入った湯のみがあったのか、美月さんは淡い桃色の花が描かれた湯のみを手に取った。
「実はちょっと前に湯のみを落としてしまって……新しいのが欲しかったんです」
「そっか。……怪我、なかった?」
「はい、大丈夫です。心配してくださってありがとうございます。あ、あとこれ」
そう言って美月さんはもう一つ、あるものを手に取った。白い陶器でできた灰皿だった。
「灰皿?」
「はい、赤木さん用に。いつもお外でお煙草吸われてますから。これから寒くなってきますし、お部屋で吸った方がいいと思って」
煙草を吸わない美月さんが俺用にと灰皿を買おうとしてくれるその心遣いが愛おしい反面、何だか悪いなという気持ちもある。今更、禁煙はできないが。
「あ、でもお部屋で吸う時は窓を開けてくださいね」
「うん、分かった。ありがとう、美月さん」
彼女は柔らかく微笑むと、灰皿と湯のみを持って婆さんの座っている所へ向かって会計を済ませた。
「お待たせしました、それでは帰りましょう」
そしてまた、帰路につく。明日もよく晴れるのか、空は赤く染まっていた。
帰宅すると美月さんは早速料理をするべくエプロンを着ると、髪をひとつに束ねて手を洗う。
その様子を見て、俺はいつものように美月さんの隣に立ち、料理をしているところを眺める。
レバーの下処理をして、食べやすいサイズに切っていく。そしたら氷水に入れてレバーを洗い、水をザルで切るという作業を何回かしたら、別のボウルにレバーを移し、塩を入れて揉むと冷蔵庫に入れた。
その間に美月さんは今日のサラダともう一品おかずを作り終え、鍋に水を入れて味噌汁を作る用意を済ませている。
手際よく、滞りなく進んでいく美月さんの調理する様子は見ていて楽しいし、エプロン姿の美月さんはいつ見ても可愛らしい。見ていて何かくるものがある。
白いうなじに、細い手首、料理をする横顔──全てが無防備で、愛しいという感情と共に、滅茶苦茶にしたいという相反した感情に襲われる。
そのうなじに歯を立て、力任せに抱きしめたい。白い肌に触れたい、そして──
「……さん?赤木さん?」
彼女の呼びかける声で、ハッと我に返る。美月さんがこちらを不思議そうに見つめていた。
「あの、どうかしましたか?」
「?」
気がつくと、俺は彼女に手を伸ばして触れる寸前のところだった。無意識のうちにやっていた行動のようで、俺は何も言えずに美月さんを見る。
「あ、もしかして紐を直そうとしてくれたんですか?」
「紐……?」
美月さんが振り向いている視線の先を見ると、エプロンの紐が解けていた。どうやらこれの事を言っているようだ。
「ああ、うん」
「すみません、今手が離せなくて……結んでいただいてもいいですか?」
流しでアサリの入ったバットを手に持っている美月さんの後ろに周り、腰紐に手をかけた。
ちょうちょ結びにしてやると、彼女の洋服がエプロンと共に引き締まり、細い腰のラインが目立ち、思わず凝視してしまった。
「ありがとうございます」
振り返る彼女の笑顔が愛しくて、邪な心が浄化されるような感覚がした。
自分はこんなに理性のない、弱い人間だっただろうかと考える。
この人に恋をしてから、愛らしい、愛おしい、守りたいという感情と共に──彼女に触れたい、滅茶苦茶にしたいという相反した感情がせめぎ合う。
不思議なモンだと思いつつ、これが恋──人を好きになるという事なのだと己で腑に落ちた。
アサリの味噌汁を作る美月さんの姿を眺める。もうすぐ夕餉ができそうだ。
「できたもの持ってくよ」
「ありがとうございます、お願いします」
皿に盛られたサラダ、レバニラ、そして箸を居間のちゃぶ台へ持っていく。すると、アサリの味噌汁と白米、それからお茶を美月さんが持ってきた。
「それでは食べましょうか」
「ああ、いただきます」
「いただきます」
久しぶりの美月さんの飯は胃袋と心に染みる。今日は何となく俺の食べたいものをリクエストして、俺の為に美月さんが作ってくれたものだから、余計に美味いと感じる。
「今日も美味いよ、美月さんの飯」
「あっ、ありがとうございます……」
嬉しそうに、でも何処か少し照れくさそうに美月さんは言って箸を進めた。
それから夕食を終えて、お互い何も言わずに洗った食器を布巾で拭いていると、美月さんがその沈黙を破った。
「赤木さん、昨日は……その、何をしていたんですか?」
手を止めて美月さんは尋ねる。二人しかいない静かな部屋で、秒針の音だけが響く。
美月さんはきっと、俺が命を賭けた事を何となくだが分かっているのだろう。昨晩引き留めようとしていた事といい、今朝の行動といい、この人はとても聡い。
誤魔化したり、嘘をつくつもりはハナからないが、昨晩の話を聞いたら酷く心配させてしまうのは想像できる。
だが──この人もある意味で狂っている人間だ。なのに、自分の死は躊躇いなく良しとするのに、他人が死んだら悲しみ、泣き、悼む心がある。
何処から説明しようかと考えていた時、美月さんが口を開いた。
「私、赤木さんが何をしてきたのか……少しだけ分かります。賭けてきたんですよね、命を」
「……ああ」
俺が頷くと、美月さんは少し黙ると、言葉を紡いだ。
「……勝ったんですね」
俺は昨晩の勝負思い出す。あの時、あの男──鷲巣巌との半荘6回戦で鳴かれていたら俺は確実に負けていた、死んでいた。
「……いいや、負けたよ」
そう言うと、彼女は目を見開いてこちらを見つめる。
「赤木さんが……?」
「ああ、負けた」
「でも、赤木さんはこうして生きているんですから、勝ったんじゃあないんですか?」
俺は皿を拭き終えると、それを否定する。美月さんも拭き終わり、二人で居間に移動して腰を落ち着け、そこで話す事になった。
俺は窓を開け灰皿をベランダに置くと、煙草に火をつけ、美月さんに話す。
「対戦相手が途中でぶっ倒れちまってな……相手は試合放棄ってかたちになっちまったが、あのまま続けていれば、俺は確実に負けていた。俺はただ──長生きしただけだ」
ゆらゆらと揺れる紫煙の向こうで、美月さんは呆然とした表情で俺を見る。目が合うと、彼女は我に返ったようにハッとしてから言葉を紡いだ。
「あ、ごめんなさい、赤木さんがあんまりにも楽しそうにお話するから……なんだか珍しいなって思って」
「そう?」
俺はいつも通りに話していたつもりだったが、そうでも無かったらしい。楽しい──そうだな、確かにあの夜は楽しかった。生きている実感が得られて、最高の時を過ごせた。
あそこで死ねたなら、本望だった。
「ああ……楽しかったかもな」
ポツリと彼女に答える。それと同時に、彼女に対して少し疑問に思っている事を俺はぶつけた。
「ねえ美月さん」
「はい」
「昨日、どうして俺を止めなかったんだ?」
あの夜、美月さんは「いかないで」とは言わなかった。俺の死の予感を察知していたのに。
この人は俺とは違い、人の死を悲しむ心を持っている。昨日もきっと、俺を待っている間泣いていたはずだ。
それなのに引き留めなかった──そこが何だか引っかかったのだ。
美月さんは少し考えると、言葉を紡ぎ始めた。
「止めようとも思いました。……でも、あそこで赤木さんを引き留めるのは、何だか違う気がして。赤木さんの在り方を否定するみたいで……嫌で、言えなかったんです。それに、赤木さんは止めても行くんだろうなって……それなら、ちゃんと送り出そうって思ったんです」
美月さんは既に薄くなった俺の左腕の注射痕に視線を移す。
「ただ長生きしただけと赤木さんは思うかもしれませんが……長生きしてみるのも、悪くないかもしれませんよ。死にたがりの私が言うのも変ですけれど」
窓から涼しい残暑の風が吹き込み、彼女の黒髪を揺らす。愛しい、恋しい、まだ思いを伝えられていない目の前の人は、優しく柔らかく微笑んでいた。
確かに、あそこで死んでいたらもうこの人には会えなかった。この笑顔を二度と拝む事はなく、この甘やかで暖かい時間を過ごす事も無かっただろう。
「ククク、確かに──悪くねえかもな」
決めた、逝く時は博奕の中で俺は逝く。それ以外の無意味な死は御免だ。それが実現できるかどうかは分からない──だが、こんな風に死にたいという事は、こんな風に生きたいという事でもある。
死にたがりのこの人の言う通り、長生きするのも悪くないかもしれない。
目の前の好きな人の隣に、何時まで居られるか分からねえが──もう少しだけ居よう。