月を見ていた
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朝8時、雀の囀り声で目が覚めた。
昨日の嵐は過ぎ去ったのか爽やかな朝の光が窓から射し込む。
視界には綺麗な白い髪と、寝息を立てて眠る赤木の姿。美月は浮腫んだ目を擦って昨晩の出来事を思い出した。
──そうだ、私昨日赤木さんと一緒に寝ちゃったんだ……!
赤木を起こさないように身体を起こして美月は洗面所へ向かい顔を洗い、その場で恥ずかしさのあまりしゃがみ込んだ。
──私はなんて事を……!いくら、いくら悪い夢を見たからって、寂しかったからって…!お付き合いもしてないのに同衾はダメでしょう…!!
頭を抱え、一人懺悔する美月の事などつゆ知らず、ガラガラと洗面所の戸を開く音がした。
「永代さん?何してるの?」
「ひゃあっ!?あ、赤木さん!お、おおおはようございます!昨晩は本当にすみません、ご迷惑をお掛けして!」
まだ寝起きなのか少しボーッとしている赤木は美月が何に対して謝っているのか分からずにいたが、合点がいってああ、と短く答える。
「別に気にしてねえよ。それより、よく眠れた?」
「は、はい……お陰様で……」
美月は少し気まずそうに髪をいじりながら答えた。
「なら良かった。洗面所借りるよ」
ふと小さく微笑む赤木を見て、美月は心が締め付けられるような不思議な気持ちに一瞬なるが、はて?と首を小さく傾げると台所へ向かって朝食の準備をする。
今日は鮭に豆の煮物、卵焼きに味噌汁、そして白米だ。朝食を作っている最中、いつも居間で待っている赤木が今日は珍しく美月の後ろにずっといた。
何をする訳でもなく、じっと美月が朝食を作るのを見ていた。
「赤木さん、あの……どうかしましたか?」
「君の作る飯、いつも美味いからどう作ってるのかなって」
「ありがとうございます。別に、至って普通ですよ。特別なことは何もしてません」
美月はそう言うと卵焼きを綺麗に巻いていき、皿の上に移すと包丁で6等分に切っていく。その間も赤木はじーっと美月を見ていた。
「できたの運ぶよ」
「ありがとうございます、助かります」
赤木が鮭と卵焼き、豆の煮物の乗った皿を運んでくれた。美月は味噌汁と白米を運び、今日の朝食の完成だ。
「いただきます」
「いただきます」
朝食を食べ、今日赤木はどこへ出掛ける訳でもなく美月の部屋で読書をしていた。その間美月は家事をこなすと大学の勉強を始める。
しばらくすると赤木が隣に座ってきて、美月の勉強の様子を見ていた。
「なんの勉強してるの?」
「今日は数学です。昨日分からないところがあったので」
「ふーん」
勉強をしている美月を傍で見つめ、机に積んであった参考書を手に取って読んでみたりして赤木は時間を潰す。
美月は勉強を終えてぐぐーっと体を伸ばしていた。時計を見ると12時を少し過ぎた頃だった。
「ねえ永代さん、今日外で飯食べようよ。近くに美味い蕎麦屋があるんだ」
「あら、いいですね、是非行きましょう!」
「ククク…それじゃあ行こうか」
二人は軽く準備を済ませるとアパートを出て歩いて蕎麦屋へと向かう。歩いて20分ほどして件の蕎麦屋はあった。
大通りから入り、少し奥まった場所にあったこじんまりとした蕎麦屋。戸は開いており営業中の看板が立っている。
汁と揚げ物のいい匂いが二人の鼻をくすぐった。
暖簾をくぐると気の良さそうな恰幅のいい中年女性がこちらへどうぞと案内してくれる。二人は窓際のテーブル席につくとメニューを見る。
「私、月見そばにします」
「俺はかき揚げそばにしようかな」
「分かりました。すみません、注文いいですか?」
「はーい!」
美月は注文内容を先程の女性に伝え終えるとお冷を飲む。
店の奥からは蕎麦を打つ音が響いていた。
「赤木さん、今日はお出かけの予定はありますか?」
「いや、特にねえな。どうかした?」
「家に帰ったら二人で麻雀しませんか?私、赤木さんと麻雀やってみたかったんです」
思わぬ誘いに赤木は一瞬だけ目を丸くして美月を見つめる。そしていつもの表情に戻ると、小さく喉の奥で笑った。
「ククク、いいぜ。じゃあ何を賭ける?」
「うっ、何か賭けないと……ですか?」
「何でもいいさ、賭けるものは君が決めていい」
うーん、と美月が少し唸る。しばらく考えると何かを思いついたのかあ!と声をあげた。
「私が勝ったら赤木さんにお風呂掃除をお願いします!」
「いいぜ、俺が勝ったら永代さんには……そうだな、帰るまでに決めとくよ」
本当に思いつかなかったので赤木はそう言うと、美月は少し眉を下げて顔を青くした。
「うぅ、私、何されるんでしょう……」
「別にそんな怖い事はしねぇよ」
拙くも可愛らしい賭けに赤木は乗った。すると注文した蕎麦がやってきて、二人は手を合わせると蕎麦を食べる。
赤木は冷やしで、まだ少し寒いと感じる美月は暖かい蕎麦だ。
「ここのお蕎麦、美味しいですね」
「だろ?」
「知らなかったです、近所にこんなところがあるなんて」
「ふらっと探してみるとあるもんたぜ。こういうところ」
他愛のない話をしながら蕎麦を食べる。そんな二人を蕎麦屋の店員は微笑ましそうに見ている事に気が付かなかった。
食べ終えると赤木は美月よりも先にスっと立ち上がり、あれよあれよと会計を済ませてしまった。
美月が困った表情をしているので、赤木はいつも作ってくれる飯の礼だと言ってその場を収めた。
春の暖かい日差しの中を歩く二人を、地面にできた桜の花びらが浮く水溜まりが映していた。
家に戻ると美月は机を片付け、赤木は麻雀牌をボストンバッグから取り出した。
「2人でやる時はひたすらツモって行く感じで、山の18枚で手を作って行こう。カンはあり、それから必ず聴牌をしたらリーチをする事かな。4回やって点数が多かった方の勝ちだ」
「分かりました!よーし、負けませんよー!」
お互い理牌をして、美月は自分の手牌を見る。
──……よし、この時点で3シャンテン。運が良ければすぐにリーチできそう…!
お互い好きなように山から牌をツモっていく。河に牌を捨て、美月はなんとかリーチまで漕ぎ着けようと手を作る。
「リーチ」
美月、リーチ。そしてそれに続くように赤木もリーチだ。
「リーチ」
お互いあとは牌を捨てていくだけ。ツモるかロンか、美月は唇をキュッと締めて牌を捨てていく。
「悪いね永代さん、それだ、ロン」
「あぅ…!」
赤木が和了る。
「ククク…」
「ま、まだです!まだ勝負はここからですから!」
美月は真っ直ぐ赤木を見つめると、仕切り直すように洗牌を始めた。ジャラジャラと牌を混ぜていると、ふと美月が窓の外に目をやる。
「桜、綺麗ですね」
赤木も窓から見える桜の木を見た。満開の花が散り始め、ひらひらと舞って行く。
「そうだね」
「私、季節の中だったら春が一番好きです」
彼女は牌を積みながら言う。
「どうして?」
「うーん、そうですね……上手く言えないんですけど……暖かくて、柔らかくて、街に彩りが差して、心が弾む気持ちになるからです」
「君らしいね」
「赤木さんはどの季節が好きですか?」
赤木は少し考えると答える。
「秋だな、過ごしやすいし」
「ふふっ、赤木さんって確かに秋って感じがします」
「そう?君も春が似合うよ」
そう伝えると、美月は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます、嬉しいです」
そして、2局が始まる。美月の手牌は4シャンテン、悪くない手牌だ。
山からツモっていく最中、ふと美月は視線だけを赤木に向ける。
春の陽射しに照らされた赤木はその手牌を愛おしいものを見る目で見つめていた。
笑ってはいないが、その目から、指先から、伝わってくる。
「ふふふっ」
「?」
優しく微笑む美月を赤木は首を傾げて見つめた。
「どうかした?」
「いえ、赤木さんって本当に麻雀が好きなんですね。……あら、リーチです」
美月が牌を捨て、リーチの宣言をする。
その瞬間、赤木はツモった手中の牌を見てから、美月を見つめた。
──好き……好き?
赤木はその言葉を脳内で反芻する。
好き、確かに麻雀は好きだ。麻雀、というよりも博奕が好きだ。
しかし、目の前の女性の「好き」という言葉は、赤木の中にあった曖昧な感情に輪郭を描き、色をつけた。
彼女の傍は居心地が良い事、胸を甘く締め付けられるようなこの感情、彼女には──笑顔でいてほしいという願い。
それは博奕に向けられる好意ではなく、人に向けられるもの。
もっと別の好意──人はそれを、恋と呼ぶ。
──ああ、なるほど、そういう事か……俺は、永代さんが……美月さんが、この人が……。
赤木は手中の牌を切る。そして──
「ロン」
ジャラリと美月の手牌が倒される。
「国士無双です!」
窓から暖かな春の風が吹き込み、白いカーテンを揺らす。二人の間に桜の花びらが舞い込んだ。
赤木の目には、美月が春の妖精のようにキラキラと輝いて、その瞬間、世界が少し色付いて見えたのだ。
「……クククッ、君にはやっぱり適わねぇな」
恋心を自覚して、赤木は美月にしか目がいかず、牌を切ってしまった。美月の河の牌を見れば、彼女が国士無双を狙っていた事は少し考えれば分かる事なのに。
赤木はふと思い出す。飲み屋で誰かが話していた、恋は先に落ちた方が負けなのだという言葉を。
「ククク…!生まれて初めて負けたぜ」
「赤木、さん?」
小首を傾げる美月をよそに、パタンと牌を伏せる。
「あの、まだ勝負はついてませんよ?」
「いやなに、こっちの話さ。それから今日から君の事を名前で呼ぶけどいい?」
「はい、それは構いませんけど……」
しかし、赤木の性分的に負けっぱなしというのは性にあわない。
──俺を恋に落としたんだ。君も落ちて貰わないとな。
それから勝負は続くも、赤木の勝利で終わった。100点差で赤木が勝ったのだ。
「あうぅ、悔しいです……」
肩を落とす美月。それに対して赤木は楽しそうに笑っている。
「じゃあ美月さん、今晩付き合って貰いたいところがあるから、そういうことで」
その言葉に美月はまさか…と顔を青ざめさせた。
「ま、またヤクザさんとの代打ち……ですか?」
「安心しな、そういうのじゃないよ。まあ、夜までのお楽しみだな」
「なら良いのですが」
それから二人はラジオを聞いたり、美月はまた勉強や家事をしたり、赤木は本を読んだり、他愛の無い話をして、夜を迎える。
時刻は18時、赤木に連れて行かれ酒屋にやってきた。
「酒屋さん、ですか?」
「うん、美月さんもどう?」
「えっと、私まだ未成年ですけど」
困惑する美月を他所に赤木は笑う。
「ククク、真面目だね。でもまあ、今日くらい無礼講って事でいいんじゃない?」
「で、でも私、お酒分からないですし……」
「そっか、じゃあはじめて飲むだろうしこの辺かな?」
赤木が手に取ったのは梅酒の缶だ。小さい缶で、アルコール度数も3パーセントとはじめてでも優しいものとなっている。
赤木はと言うと日本酒の瓶、その隣の棚にあるお猪口を2つ買うとレジに向かった。
酒屋の男性店主は手早く会計を済ますと、赤木を見てニッと笑う。
「何だい兄ちゃん、夜桜見ながら可愛い嬢ちゃんと酒盛りかい?いいねぇいいねぇ、風情だねぇ」
「……」
「あぁ、なるほど!」
美月は赤木が何をしたかったのか合点がいき、ぽんと拳を手のひらに乗せる。
「ほれ、楽しんでこいよ」
「……どうも」
赤木は短く答えレジ袋を受け取ると、美月を連れて酒屋を出ていく。
「夜桜でしたか、楽しみです」
「あのオヤジ……」
ネタばらししやがって、と思いながら赤木はタバコに火を付ける。
──まあ、美月さんが楽しそうだしいいか。
「この近くの公園にいい場所があるんだ、少し歩くよ」
「はいっ!お酒重くなったら仰ってくださいね、私も持ちます」
「君にこんな重いもん持たせないよ」
月明かりと街灯が照らす中、二人は歩いていく。
しばらくすると件の公園が見えてきた。池があり、手漕ぎボートとアヒルボートが停まっているその公園に入り、少し歩くと丘が見えた。そこには立派な桜の木が一本佇み、二人を迎える。
「わぁ…!立派な桜の木ですね」
美月は感嘆の声をあげる。
「前から桜が咲いたら綺麗になると思ってたんだ。さ、行こうか」
桜の木の下に二人は座り、先程買った酒とつまみを出す。赤木は缶ビール、美月は缶梅酒のプルタブを開け、乾杯をした。
「「乾杯」」
美月は思い切るように梅酒を飲み、初めてのアルコールを口にする。
「あ、美味しいです」
「良かった、ゆっくり飲みなよ」
「はい」
ちびちびと美月は梅酒を飲み、静かに桜を見る。そんな彼女を赤木はじっと見つめていた。その視線に気がついたのか、美月が赤木を見て柔らかく微笑む。
「綺麗ですね、桜」
「そうだね」
「それに見てください、赤木さん」
美月が夜空を指さす。そこには美しい満月が二人を照らしていた。
「月も綺麗です」
ふと、赤木は月が綺麗だという言葉は愛の告白の意味が込められているということをどこかの誰かが言っていたのを思い出す。
それを彼女が知ってか知らずかは定かではないし、酒も入っているためただ感想を述べただけだと赤木は酒と一緒に期待の感情を飲み込んだ。
「ああ、夜桜を楽しむにはいい月だな」
「赤木さんって、風流な人なんですね」
「意外?」
「ちょっと意外です、博奕の事意外はあんまり興味ないのかと思ってましたから」
「そんな事ねえけどな」
赤木は缶ビールを飲み干すと、日本酒の瓶を空け、お猪口に注ぐ。
「俺だってこうして休憩くらいするさ」
「ふふっ、そうですね、博奕ばっかりじゃあ疲れてしまいますものね」
くっと美月は梅酒を飲み干すと、つまみのチーズを一口食べる。
意外と美月は酒が強い方なのか、梅酒を飲んでもケロッとしており、先程買ったお猪口を美月も取り出し、日本酒を注ぐ。
「日本酒はちょっとずつ飲みなよ、さっきのより強いから」
「はい、ではいただきます」
美月が日本酒を飲もうとすると、ひらひらと舞ってきた桜の花びらが真っ赤なお猪口に落ちる。
小さな水面が広がり、小さくあっと声をあげる。
「ククク、風流だね」
「はい、とっても素敵です。何だか飲むのが勿体ないなあ」
そう言っていると、赤木のお猪口にも桜の花が落ちてきて浮かび上がる。
「見て、美月さん。俺もだ」
「わぁ、赤木さんはお花が落ちてきましたね、綺麗です」
美月がお猪口の中を覗き込む為に近寄り、その瞬間肩が触れた。
赤木、この時内心動揺するもポーカーフェイスを崩さず。初めての感情にドキドキなのである。
そんな動揺を隠すように赤木は日本酒を桜の花ごと飲んだ。それを見て美月も赤木と同じように桜の花びらごと日本酒を飲む。
「あぁ…!喉が熱いです…!」
「ハハハ、最初は皆そうさ」
「でも味は好きです、慣れたらいくらでもいけそうです」
「あんまり飲みすぎると悪酔いするよ」
「き、気を付けます…!」
少しずつ日本酒を飲みながら、赤木と共に月を見る。
心地よい春風が吹き、桜吹雪はより一層勢いを増していく。彼女の濡烏色の長い髪も風に靡いて、気持ちよさそうに風を感じている。
「あら、赤木さん、ちょっと失礼しますね」
美月がそう言って赤木の白い髪に手を伸ばし、そっと何かをとった。
「桜の花びらがついていたので」
「あらら」
美月の手の中にある桜の花びらは、風に攫われてひらひらと宙を舞っていく。
月と桜を見て、美月は思う。
──もし死ぬのなら、ここで死にたいな。自分で死ぬも良いし、誰かに手をかけれてもいい。死ぬのなら……ここがいい。
どこまでも澄んだ瞳で考える。自分の最期は満足のいくものになるのかと。そして、満ちるにはどうすれば良いのかと。
「赤木さん、変なこと聞いてもいいですか?」
「…ん?」
「人生って、どうすれば満ち足りたものになるんでしょうね」
「随分急だね」
「なんか……私は結局のところ自分で死を迎えないと、この先ずっと満足なんてしなくて、このまま渇いて生きて行くんだと思ったら、気が遠くなるなって思って」
大分酔ってきたのか、彼女の奥底に眠る本音を話し始めた。
美月は飢えているのだ。好奇心、そして探究心から来る自分の死に。ただの死ではなく、満足のできる死に。
「俺もだ」
「え?」
「俺は自分が生きているって実感が薄い。どんなに博奕で命を賭けても、渇いて仕方ねえんだ」
美月は目を丸くして赤木を見ると、ふっと笑った。
「ふふっ、お互い難儀ですね」
「だな」
赤木は生の実感を求め命を賭け、美月は死を求め生きていく。
お互い考えは違えど、どこか人と違っていて、歪で、狂っている。本当に難儀なものだ。
「ま、この先美月さんにも心の変化とかあって満ちる出来事があるんじゃない?」
「例えば何ですか?」
赤木は少し考えてから答える。
「……恋とか?」
「……恋、ですか」
美月はどうやらしっくり来ないようで、うーんと首を捻る。
「恋は……した事がないのでよく分かりません」
「……」
「でも、本や映画で見た恋は素敵で、キラキラしていて、満ち足りていたように見えました」
美月の深い紫色の瞳が赤木を見る。
「赤木さんは恋ってした事ありますか?」
「さぁ、どうかな」
「そんなぁ、教えてくださいー」
少し酔ってきたのか、美月の話し方が間延びしてきている。
「そんなに気になるなら、勝負して勝ったら教えてあげるよ」
「分かりました!じゃあ勝負は家に帰ってトランプで勝負です!」
「分かった、時間もいい頃だしそろそろ帰ろうか」
「はい!赤木さん、今日は素敵な場所に連れて来てくれてありがとうございます」
笑顔で礼を言う美月。赤木は月明かりに照らされた彼女を細めた目で、眩しそうに見る。
──あぁ、やっぱり君は笑顔がいい。
赤木はタバコに火をつけると、美月と共に歩き出す。
「トランプ勝負、負けませんから!ババ抜きで勝負です!」
「ククク、そいつは楽しみだ」
二人はアパートに戻り、ババ抜きで勝負をするも結果は美月の敗北。赤木から恋をした事があるかどうかは聞けず終いだった。
*
暫く見ない間に、赤木さんは少し変わったように見える。
「おはよう、美月さん」
朝食を作っていると、後ろから赤木さんが眠そうな顔をしながらも声をかけてきた。
「おはようございます」
「今日は何?」
「今日はトーストと目玉焼きとウインナー、あとコーヒーとヨーグルトです」
目玉焼きとウインナーを焼いていると、赤木さんが隣に立って料理の様子を見ている。
今までこんな事しなかったのに、ここ最近は料理をしてるとずっと傍にいる。
料理する様子が面白いのかな?なんて思いつつ、今日の朝食ができあがると、赤木さんは運ぶよ、と言って朝食を居間に運んでくれた。
赤木さんが家に居て7日が経つ。こんなに長く居るのは初めてだ。
その間、赤木さんは家の事を手伝ってくれたり、他愛のない会話をしたり、一緒にラジオを聞いたり、平和な日々を過ごした。
今日は日曜日で大学が休みで、アルバイトもないため一日のんびり過ごせる。
洗濯物が外で揺らめき、春の心地よい風が窓から吹き込む。
その風を頬で感じで、窓際に座って目を閉じていると赤木さんが隣に座ってきた。
少し赤木さんとの距離が近い気がして、何だかドキドキしてしまうけれど、この胸の高鳴りと共に不思議な幸福感のようなものがあって、それが心地良くて、特に何を言うわけでもなく一緒に桜を見る。
「美月さん」
「?」
赤木さんが優しく声をかけてくると、その大きな手が私に伸びてきた。髪の毛に優しく触れると、するりとその手が離れてゆく。
彼の指先には桜の花びらが掴まれていた。どうやら吹き込んできた風と共に髪についていたようだ。
「あ……」
「ついてたぜ、花びら」
赤木さんに触れられた毛先から、頬に熱が伝わる感覚に襲われ、それと同時にどうしてだか恥ずかしくて、ドキドキして、花びらを見つめる彼から目が離せなくなってしまう。
「ん?」
「あっ、いえ、その…花びら……とってくださってありがとうございます」
赤木さんは薄く笑うと、その花びらに息を吹きかけ、窓の外へと舞っていく。
ひらひらと舞っていく花びらを青空の中へ見送ると、ふと桜の木が目に止まった。
緑が少し見えてきた桜の木は、春の終わりを感じさせる。
「今年も早いですね、春が終わっていくのが」
桜吹雪を眺めながらぽつりと呟くと、赤木さんはそうだな、と答える。
「でも、来年も春は来るんだ。その時は──また、花見でもしよう」
春の日差しに包まれて、赤木さんは優しい表情で言う。私はその言葉に胸がぽかぽかして、いつもよりも少し元気に答える。
「はいっ!来年もまた、桜を見ましょうね」
来年も、そのまた来年も、彼と一緒に桜が見たいと思った。だから、私はこの言葉を添える。
無駄かもしれない、彼はここに留まる人じゃないから、その保証はないけれど。
「約束ですよ」
そう答えると、彼は少し面食らったような表情をするも一瞬でそれを取り繕い、クククと喉の奥で低く、でも楽しそうに笑う。
「ああ、約束だ」
その約束が果たされる事がなくても、彼が約束をしてくれた事が、私は嬉しかった。
すると、彼はゆったりと立ち上がり煙草を取り出すも、ソフト箱の中は空のようでトントンと指で叩いても出てこない。
「あらら、煙草買ってくるよ」
「私も行きます、ちょうど八百屋さんへ行きたかったんです」
「そう、じゃあ行こうか」
「はい」
買い物籠とお財布を持って、私は玄関にあるサンダルを履いて。赤木さんはスニーカーを履いて外へと出た。
鉄製の階段がカンカン、カンカン、と二人分の足音を奏でる。
すぐ近くに煙草屋があるので、まずはそちらに向かうと、赤木さんはハイライトを二つ、とカウンターにいるおばあさんに頼んでいた。
おばあさんははいよ、とのんびり返事をすると淡い青色が特徴的なハイライトの箱を二つ差し出した。赤木さんがお金をぴったり渡すと、後ろにいた私とおばあさんの目が合う。
「お兄ちゃんの妹かい?」
「いや、妹じゃねえよ」
確かに、私と赤木さんが並んで歩いていたら、私は妹に見えるだろう。
「じゃあ恋人かい、若いねぇ」
「いや、そういうんじゃあ……」
私の苦笑いは一変し、口を魚のようにパクパクとさせておばあさんを見る。
静かに恋人である事を否定する赤木さんに対して、おばあさんは隠さなくてもいいと言わんばかりの態度で、毎度ありと言って店の奥へいってしまった。
顔に熱が溜まっていく感覚と共に、気恥ずかしくて俯いてしまう。
「あらら、行っちまった」
「で、ですね……」
「……顔、赤いけど大丈夫?」
「あっ…」
こちらを覗き込む赤木さんの距離が近くて、何故だが胸が締め付けられる感覚がして、恥ずかしくなって一歩後ろに下がってしまう。
「だ、大丈夫ですっ!今日、ちょっと暑く感じて……さ、さてと、八百屋さんに行きましょうか!」
そう言って私は八百屋へと歩みを進める。その隣を赤木さんは何も言わずに歩く。
その間ずっと、赤木さんと私が恋人に見えるのかどうかを考えた。
確かに、赤木さんはかっこいいし、そのうえ優しい。こんな私に理解を示してくれるほどに。
それにさり気ない気遣いだったり、面白いお話もしてくれて、きっとおモテになるんだと思う。
八百屋に到着して、私は大根と長ネギ、玉ねぎ、人参を籠に入れ、レジへと持っていく。
「全部で65円だよ」
「丁度でお願いします」
「毎度ありー!」
八百屋を出て帰路につくと、赤木さんは流れるように私の買い物籠を手に持ってしまった。
「持つよ」
「そんな…大丈夫ですよ、これくらい」
「君にいつも飯作ってもらってるんだ、これくらいさせてよ」
そんな事を言うけれど、家に来たらご飯代と言って3000円(現代の貨幣価値に換算すると約3万円)を渡してきて、家事も手伝ってくれているのに赤木さんにこれくらいの荷物を持たせる訳にはいかないというもの。
しかし、赤木さんも引かないだろう。どうにかしていい案はないかと考え、私は思いついた。
「じゃあ──」
籠の取っ手を片方、私は赤木さんからそっと離してそのまま持つ。
「半分、持ちますね」
ふと赤木さんを見ると、鳩が豆鉄砲でも食らったような、少し分かりにくいけど目を見開いて驚いたような表情をして、スっといつものポーカーフェイスに戻ると前を向いた。
「……可愛い」
「えっ?」
「いや、なんでもない」
可愛い、と聞こえたけれど、赤木さんが何に対して可愛いと言ったのかは分からなかった。
並んで歩いていると、一台の黒塗りの高級車が私たちの前に停車した。
何事かと立ち止まり、動揺していると車の中からスーツを着た体格のいい見知らぬ男性が出てくる。
「お前、赤木しげるだな?」
怖い──その人がカタギではない事が雰囲気で分かる。すると、赤木さんが私を隠すようにスっと前に立った。
「……そうだけど?」
「お前を探していた。何でも、神憑った麻雀を打つそうじゃあないか。うちの組長がお前の麻雀を見たいと仰っている。……そちらのお嬢さんは?」
その見た目にそぐわず、落ち着いた喋り方をするヤクザの男性は私に視線を移す。
「なに、道端で困ってたもんで通りすがりに助けただけさ」
赤木さんがこちらに視線を向ける。その視線の意味を察して、私は頷いた。
「はい、最近この辺りに引っ越してきて……土地勘がないものでこの方に助けて頂いたんです」
「そうか。……どうだ、赤木しげる。打つのか?打たないのか?」
「話は聞いてやる。その前に、宿に荷物を取りに行きたい。通りを出たところの喫茶店で待っててくれ」
「いいだろう、待ってるぞ」
そう言うと男性は車に乗り、通りを出て右へと曲がって件の喫茶店へと向かった。
赤木さんはふぅ、と小さくため息をつく。
「悪いね、美月さん。それに、話合わせてくれてありがとう」
「いえ、そんな……」
赤木さんは買ったばかりのハイライトを取り出すとマッチで火をつけ、深く吸った煙を吐き出す。
さっきの他人のフリは、赤木さんなりの気遣いだろう。赤木さんが私を裏社会の事に巻き込まない為の。
──やっぱり、この人は優しい人だ。
「……面倒だな」
そうポツリと呟く赤木さん。麻雀が好きな赤木さんの事だから、さっきの代打ちの話は乗り気なのだと思っていたけれど、そうでもないみたいだ。
「そう、なんですか?」
「俺は今休憩中だったもんでね。まあ、でも、そろそろ行くかな」
見えてきたさくら荘の階段を登り、アパートの鍵を開けると、赤木さんは部屋の中に入るとボストンバッグを持つと、また玄関へと向かいスニーカーを履く。
「行くんですね」
「ああ、長いこと世話になったね。大学生活、頑張って」
「ありがとうございます。赤木さんもお気をつけて」
「……戸締り、ちゃんとするんだよ」
「はい」
「……また来るから」
「はい、またいらしてください」
「じゃあ、いってくる」
赤木さんの広い背中を、私はこの言葉と共に見送った。
「いってらっしゃい、お気をつけて」
そう言うと、少しばかり彼は口角を上げて笑ってこちらを見る。
そして玄関のドアが締まり、アパートの一室には私一人となった。
静かで、一気に物悲しい雰囲気が漂う。網戸から吹き込む春風さえも、少し冷たく感じた。
「……」
窓から歩く白髪の彼の後ろ姿を見送る。春風に包まれ歩を進める赤木さんの背中はしゃんとしてて、何だか格好よく見えた。
「……いってらっしゃい」
いつ会えるか分からない、もう会えないかもしれないけれど──それでも、私はこの言葉を春風に乗せる。
彼の行く先に幸運を願って。
昨日の嵐は過ぎ去ったのか爽やかな朝の光が窓から射し込む。
視界には綺麗な白い髪と、寝息を立てて眠る赤木の姿。美月は浮腫んだ目を擦って昨晩の出来事を思い出した。
──そうだ、私昨日赤木さんと一緒に寝ちゃったんだ……!
赤木を起こさないように身体を起こして美月は洗面所へ向かい顔を洗い、その場で恥ずかしさのあまりしゃがみ込んだ。
──私はなんて事を……!いくら、いくら悪い夢を見たからって、寂しかったからって…!お付き合いもしてないのに同衾はダメでしょう…!!
頭を抱え、一人懺悔する美月の事などつゆ知らず、ガラガラと洗面所の戸を開く音がした。
「永代さん?何してるの?」
「ひゃあっ!?あ、赤木さん!お、おおおはようございます!昨晩は本当にすみません、ご迷惑をお掛けして!」
まだ寝起きなのか少しボーッとしている赤木は美月が何に対して謝っているのか分からずにいたが、合点がいってああ、と短く答える。
「別に気にしてねえよ。それより、よく眠れた?」
「は、はい……お陰様で……」
美月は少し気まずそうに髪をいじりながら答えた。
「なら良かった。洗面所借りるよ」
ふと小さく微笑む赤木を見て、美月は心が締め付けられるような不思議な気持ちに一瞬なるが、はて?と首を小さく傾げると台所へ向かって朝食の準備をする。
今日は鮭に豆の煮物、卵焼きに味噌汁、そして白米だ。朝食を作っている最中、いつも居間で待っている赤木が今日は珍しく美月の後ろにずっといた。
何をする訳でもなく、じっと美月が朝食を作るのを見ていた。
「赤木さん、あの……どうかしましたか?」
「君の作る飯、いつも美味いからどう作ってるのかなって」
「ありがとうございます。別に、至って普通ですよ。特別なことは何もしてません」
美月はそう言うと卵焼きを綺麗に巻いていき、皿の上に移すと包丁で6等分に切っていく。その間も赤木はじーっと美月を見ていた。
「できたの運ぶよ」
「ありがとうございます、助かります」
赤木が鮭と卵焼き、豆の煮物の乗った皿を運んでくれた。美月は味噌汁と白米を運び、今日の朝食の完成だ。
「いただきます」
「いただきます」
朝食を食べ、今日赤木はどこへ出掛ける訳でもなく美月の部屋で読書をしていた。その間美月は家事をこなすと大学の勉強を始める。
しばらくすると赤木が隣に座ってきて、美月の勉強の様子を見ていた。
「なんの勉強してるの?」
「今日は数学です。昨日分からないところがあったので」
「ふーん」
勉強をしている美月を傍で見つめ、机に積んであった参考書を手に取って読んでみたりして赤木は時間を潰す。
美月は勉強を終えてぐぐーっと体を伸ばしていた。時計を見ると12時を少し過ぎた頃だった。
「ねえ永代さん、今日外で飯食べようよ。近くに美味い蕎麦屋があるんだ」
「あら、いいですね、是非行きましょう!」
「ククク…それじゃあ行こうか」
二人は軽く準備を済ませるとアパートを出て歩いて蕎麦屋へと向かう。歩いて20分ほどして件の蕎麦屋はあった。
大通りから入り、少し奥まった場所にあったこじんまりとした蕎麦屋。戸は開いており営業中の看板が立っている。
汁と揚げ物のいい匂いが二人の鼻をくすぐった。
暖簾をくぐると気の良さそうな恰幅のいい中年女性がこちらへどうぞと案内してくれる。二人は窓際のテーブル席につくとメニューを見る。
「私、月見そばにします」
「俺はかき揚げそばにしようかな」
「分かりました。すみません、注文いいですか?」
「はーい!」
美月は注文内容を先程の女性に伝え終えるとお冷を飲む。
店の奥からは蕎麦を打つ音が響いていた。
「赤木さん、今日はお出かけの予定はありますか?」
「いや、特にねえな。どうかした?」
「家に帰ったら二人で麻雀しませんか?私、赤木さんと麻雀やってみたかったんです」
思わぬ誘いに赤木は一瞬だけ目を丸くして美月を見つめる。そしていつもの表情に戻ると、小さく喉の奥で笑った。
「ククク、いいぜ。じゃあ何を賭ける?」
「うっ、何か賭けないと……ですか?」
「何でもいいさ、賭けるものは君が決めていい」
うーん、と美月が少し唸る。しばらく考えると何かを思いついたのかあ!と声をあげた。
「私が勝ったら赤木さんにお風呂掃除をお願いします!」
「いいぜ、俺が勝ったら永代さんには……そうだな、帰るまでに決めとくよ」
本当に思いつかなかったので赤木はそう言うと、美月は少し眉を下げて顔を青くした。
「うぅ、私、何されるんでしょう……」
「別にそんな怖い事はしねぇよ」
拙くも可愛らしい賭けに赤木は乗った。すると注文した蕎麦がやってきて、二人は手を合わせると蕎麦を食べる。
赤木は冷やしで、まだ少し寒いと感じる美月は暖かい蕎麦だ。
「ここのお蕎麦、美味しいですね」
「だろ?」
「知らなかったです、近所にこんなところがあるなんて」
「ふらっと探してみるとあるもんたぜ。こういうところ」
他愛のない話をしながら蕎麦を食べる。そんな二人を蕎麦屋の店員は微笑ましそうに見ている事に気が付かなかった。
食べ終えると赤木は美月よりも先にスっと立ち上がり、あれよあれよと会計を済ませてしまった。
美月が困った表情をしているので、赤木はいつも作ってくれる飯の礼だと言ってその場を収めた。
春の暖かい日差しの中を歩く二人を、地面にできた桜の花びらが浮く水溜まりが映していた。
家に戻ると美月は机を片付け、赤木は麻雀牌をボストンバッグから取り出した。
「2人でやる時はひたすらツモって行く感じで、山の18枚で手を作って行こう。カンはあり、それから必ず聴牌をしたらリーチをする事かな。4回やって点数が多かった方の勝ちだ」
「分かりました!よーし、負けませんよー!」
お互い理牌をして、美月は自分の手牌を見る。
──……よし、この時点で3シャンテン。運が良ければすぐにリーチできそう…!
お互い好きなように山から牌をツモっていく。河に牌を捨て、美月はなんとかリーチまで漕ぎ着けようと手を作る。
「リーチ」
美月、リーチ。そしてそれに続くように赤木もリーチだ。
「リーチ」
お互いあとは牌を捨てていくだけ。ツモるかロンか、美月は唇をキュッと締めて牌を捨てていく。
「悪いね永代さん、それだ、ロン」
「あぅ…!」
赤木が和了る。
「ククク…」
「ま、まだです!まだ勝負はここからですから!」
美月は真っ直ぐ赤木を見つめると、仕切り直すように洗牌を始めた。ジャラジャラと牌を混ぜていると、ふと美月が窓の外に目をやる。
「桜、綺麗ですね」
赤木も窓から見える桜の木を見た。満開の花が散り始め、ひらひらと舞って行く。
「そうだね」
「私、季節の中だったら春が一番好きです」
彼女は牌を積みながら言う。
「どうして?」
「うーん、そうですね……上手く言えないんですけど……暖かくて、柔らかくて、街に彩りが差して、心が弾む気持ちになるからです」
「君らしいね」
「赤木さんはどの季節が好きですか?」
赤木は少し考えると答える。
「秋だな、過ごしやすいし」
「ふふっ、赤木さんって確かに秋って感じがします」
「そう?君も春が似合うよ」
そう伝えると、美月は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます、嬉しいです」
そして、2局が始まる。美月の手牌は4シャンテン、悪くない手牌だ。
山からツモっていく最中、ふと美月は視線だけを赤木に向ける。
春の陽射しに照らされた赤木はその手牌を愛おしいものを見る目で見つめていた。
笑ってはいないが、その目から、指先から、伝わってくる。
「ふふふっ」
「?」
優しく微笑む美月を赤木は首を傾げて見つめた。
「どうかした?」
「いえ、赤木さんって本当に麻雀が好きなんですね。……あら、リーチです」
美月が牌を捨て、リーチの宣言をする。
その瞬間、赤木はツモった手中の牌を見てから、美月を見つめた。
──好き……好き?
赤木はその言葉を脳内で反芻する。
好き、確かに麻雀は好きだ。麻雀、というよりも博奕が好きだ。
しかし、目の前の女性の「好き」という言葉は、赤木の中にあった曖昧な感情に輪郭を描き、色をつけた。
彼女の傍は居心地が良い事、胸を甘く締め付けられるようなこの感情、彼女には──笑顔でいてほしいという願い。
それは博奕に向けられる好意ではなく、人に向けられるもの。
もっと別の好意──人はそれを、恋と呼ぶ。
──ああ、なるほど、そういう事か……俺は、永代さんが……美月さんが、この人が……。
赤木は手中の牌を切る。そして──
「ロン」
ジャラリと美月の手牌が倒される。
「国士無双です!」
窓から暖かな春の風が吹き込み、白いカーテンを揺らす。二人の間に桜の花びらが舞い込んだ。
赤木の目には、美月が春の妖精のようにキラキラと輝いて、その瞬間、世界が少し色付いて見えたのだ。
「……クククッ、君にはやっぱり適わねぇな」
恋心を自覚して、赤木は美月にしか目がいかず、牌を切ってしまった。美月の河の牌を見れば、彼女が国士無双を狙っていた事は少し考えれば分かる事なのに。
赤木はふと思い出す。飲み屋で誰かが話していた、恋は先に落ちた方が負けなのだという言葉を。
「ククク…!生まれて初めて負けたぜ」
「赤木、さん?」
小首を傾げる美月をよそに、パタンと牌を伏せる。
「あの、まだ勝負はついてませんよ?」
「いやなに、こっちの話さ。それから今日から君の事を名前で呼ぶけどいい?」
「はい、それは構いませんけど……」
しかし、赤木の性分的に負けっぱなしというのは性にあわない。
──俺を恋に落としたんだ。君も落ちて貰わないとな。
それから勝負は続くも、赤木の勝利で終わった。100点差で赤木が勝ったのだ。
「あうぅ、悔しいです……」
肩を落とす美月。それに対して赤木は楽しそうに笑っている。
「じゃあ美月さん、今晩付き合って貰いたいところがあるから、そういうことで」
その言葉に美月はまさか…と顔を青ざめさせた。
「ま、またヤクザさんとの代打ち……ですか?」
「安心しな、そういうのじゃないよ。まあ、夜までのお楽しみだな」
「なら良いのですが」
それから二人はラジオを聞いたり、美月はまた勉強や家事をしたり、赤木は本を読んだり、他愛の無い話をして、夜を迎える。
時刻は18時、赤木に連れて行かれ酒屋にやってきた。
「酒屋さん、ですか?」
「うん、美月さんもどう?」
「えっと、私まだ未成年ですけど」
困惑する美月を他所に赤木は笑う。
「ククク、真面目だね。でもまあ、今日くらい無礼講って事でいいんじゃない?」
「で、でも私、お酒分からないですし……」
「そっか、じゃあはじめて飲むだろうしこの辺かな?」
赤木が手に取ったのは梅酒の缶だ。小さい缶で、アルコール度数も3パーセントとはじめてでも優しいものとなっている。
赤木はと言うと日本酒の瓶、その隣の棚にあるお猪口を2つ買うとレジに向かった。
酒屋の男性店主は手早く会計を済ますと、赤木を見てニッと笑う。
「何だい兄ちゃん、夜桜見ながら可愛い嬢ちゃんと酒盛りかい?いいねぇいいねぇ、風情だねぇ」
「……」
「あぁ、なるほど!」
美月は赤木が何をしたかったのか合点がいき、ぽんと拳を手のひらに乗せる。
「ほれ、楽しんでこいよ」
「……どうも」
赤木は短く答えレジ袋を受け取ると、美月を連れて酒屋を出ていく。
「夜桜でしたか、楽しみです」
「あのオヤジ……」
ネタばらししやがって、と思いながら赤木はタバコに火を付ける。
──まあ、美月さんが楽しそうだしいいか。
「この近くの公園にいい場所があるんだ、少し歩くよ」
「はいっ!お酒重くなったら仰ってくださいね、私も持ちます」
「君にこんな重いもん持たせないよ」
月明かりと街灯が照らす中、二人は歩いていく。
しばらくすると件の公園が見えてきた。池があり、手漕ぎボートとアヒルボートが停まっているその公園に入り、少し歩くと丘が見えた。そこには立派な桜の木が一本佇み、二人を迎える。
「わぁ…!立派な桜の木ですね」
美月は感嘆の声をあげる。
「前から桜が咲いたら綺麗になると思ってたんだ。さ、行こうか」
桜の木の下に二人は座り、先程買った酒とつまみを出す。赤木は缶ビール、美月は缶梅酒のプルタブを開け、乾杯をした。
「「乾杯」」
美月は思い切るように梅酒を飲み、初めてのアルコールを口にする。
「あ、美味しいです」
「良かった、ゆっくり飲みなよ」
「はい」
ちびちびと美月は梅酒を飲み、静かに桜を見る。そんな彼女を赤木はじっと見つめていた。その視線に気がついたのか、美月が赤木を見て柔らかく微笑む。
「綺麗ですね、桜」
「そうだね」
「それに見てください、赤木さん」
美月が夜空を指さす。そこには美しい満月が二人を照らしていた。
「月も綺麗です」
ふと、赤木は月が綺麗だという言葉は愛の告白の意味が込められているということをどこかの誰かが言っていたのを思い出す。
それを彼女が知ってか知らずかは定かではないし、酒も入っているためただ感想を述べただけだと赤木は酒と一緒に期待の感情を飲み込んだ。
「ああ、夜桜を楽しむにはいい月だな」
「赤木さんって、風流な人なんですね」
「意外?」
「ちょっと意外です、博奕の事意外はあんまり興味ないのかと思ってましたから」
「そんな事ねえけどな」
赤木は缶ビールを飲み干すと、日本酒の瓶を空け、お猪口に注ぐ。
「俺だってこうして休憩くらいするさ」
「ふふっ、そうですね、博奕ばっかりじゃあ疲れてしまいますものね」
くっと美月は梅酒を飲み干すと、つまみのチーズを一口食べる。
意外と美月は酒が強い方なのか、梅酒を飲んでもケロッとしており、先程買ったお猪口を美月も取り出し、日本酒を注ぐ。
「日本酒はちょっとずつ飲みなよ、さっきのより強いから」
「はい、ではいただきます」
美月が日本酒を飲もうとすると、ひらひらと舞ってきた桜の花びらが真っ赤なお猪口に落ちる。
小さな水面が広がり、小さくあっと声をあげる。
「ククク、風流だね」
「はい、とっても素敵です。何だか飲むのが勿体ないなあ」
そう言っていると、赤木のお猪口にも桜の花が落ちてきて浮かび上がる。
「見て、美月さん。俺もだ」
「わぁ、赤木さんはお花が落ちてきましたね、綺麗です」
美月がお猪口の中を覗き込む為に近寄り、その瞬間肩が触れた。
赤木、この時内心動揺するもポーカーフェイスを崩さず。初めての感情にドキドキなのである。
そんな動揺を隠すように赤木は日本酒を桜の花ごと飲んだ。それを見て美月も赤木と同じように桜の花びらごと日本酒を飲む。
「あぁ…!喉が熱いです…!」
「ハハハ、最初は皆そうさ」
「でも味は好きです、慣れたらいくらでもいけそうです」
「あんまり飲みすぎると悪酔いするよ」
「き、気を付けます…!」
少しずつ日本酒を飲みながら、赤木と共に月を見る。
心地よい春風が吹き、桜吹雪はより一層勢いを増していく。彼女の濡烏色の長い髪も風に靡いて、気持ちよさそうに風を感じている。
「あら、赤木さん、ちょっと失礼しますね」
美月がそう言って赤木の白い髪に手を伸ばし、そっと何かをとった。
「桜の花びらがついていたので」
「あらら」
美月の手の中にある桜の花びらは、風に攫われてひらひらと宙を舞っていく。
月と桜を見て、美月は思う。
──もし死ぬのなら、ここで死にたいな。自分で死ぬも良いし、誰かに手をかけれてもいい。死ぬのなら……ここがいい。
どこまでも澄んだ瞳で考える。自分の最期は満足のいくものになるのかと。そして、満ちるにはどうすれば良いのかと。
「赤木さん、変なこと聞いてもいいですか?」
「…ん?」
「人生って、どうすれば満ち足りたものになるんでしょうね」
「随分急だね」
「なんか……私は結局のところ自分で死を迎えないと、この先ずっと満足なんてしなくて、このまま渇いて生きて行くんだと思ったら、気が遠くなるなって思って」
大分酔ってきたのか、彼女の奥底に眠る本音を話し始めた。
美月は飢えているのだ。好奇心、そして探究心から来る自分の死に。ただの死ではなく、満足のできる死に。
「俺もだ」
「え?」
「俺は自分が生きているって実感が薄い。どんなに博奕で命を賭けても、渇いて仕方ねえんだ」
美月は目を丸くして赤木を見ると、ふっと笑った。
「ふふっ、お互い難儀ですね」
「だな」
赤木は生の実感を求め命を賭け、美月は死を求め生きていく。
お互い考えは違えど、どこか人と違っていて、歪で、狂っている。本当に難儀なものだ。
「ま、この先美月さんにも心の変化とかあって満ちる出来事があるんじゃない?」
「例えば何ですか?」
赤木は少し考えてから答える。
「……恋とか?」
「……恋、ですか」
美月はどうやらしっくり来ないようで、うーんと首を捻る。
「恋は……した事がないのでよく分かりません」
「……」
「でも、本や映画で見た恋は素敵で、キラキラしていて、満ち足りていたように見えました」
美月の深い紫色の瞳が赤木を見る。
「赤木さんは恋ってした事ありますか?」
「さぁ、どうかな」
「そんなぁ、教えてくださいー」
少し酔ってきたのか、美月の話し方が間延びしてきている。
「そんなに気になるなら、勝負して勝ったら教えてあげるよ」
「分かりました!じゃあ勝負は家に帰ってトランプで勝負です!」
「分かった、時間もいい頃だしそろそろ帰ろうか」
「はい!赤木さん、今日は素敵な場所に連れて来てくれてありがとうございます」
笑顔で礼を言う美月。赤木は月明かりに照らされた彼女を細めた目で、眩しそうに見る。
──あぁ、やっぱり君は笑顔がいい。
赤木はタバコに火をつけると、美月と共に歩き出す。
「トランプ勝負、負けませんから!ババ抜きで勝負です!」
「ククク、そいつは楽しみだ」
二人はアパートに戻り、ババ抜きで勝負をするも結果は美月の敗北。赤木から恋をした事があるかどうかは聞けず終いだった。
*
暫く見ない間に、赤木さんは少し変わったように見える。
「おはよう、美月さん」
朝食を作っていると、後ろから赤木さんが眠そうな顔をしながらも声をかけてきた。
「おはようございます」
「今日は何?」
「今日はトーストと目玉焼きとウインナー、あとコーヒーとヨーグルトです」
目玉焼きとウインナーを焼いていると、赤木さんが隣に立って料理の様子を見ている。
今までこんな事しなかったのに、ここ最近は料理をしてるとずっと傍にいる。
料理する様子が面白いのかな?なんて思いつつ、今日の朝食ができあがると、赤木さんは運ぶよ、と言って朝食を居間に運んでくれた。
赤木さんが家に居て7日が経つ。こんなに長く居るのは初めてだ。
その間、赤木さんは家の事を手伝ってくれたり、他愛のない会話をしたり、一緒にラジオを聞いたり、平和な日々を過ごした。
今日は日曜日で大学が休みで、アルバイトもないため一日のんびり過ごせる。
洗濯物が外で揺らめき、春の心地よい風が窓から吹き込む。
その風を頬で感じで、窓際に座って目を閉じていると赤木さんが隣に座ってきた。
少し赤木さんとの距離が近い気がして、何だかドキドキしてしまうけれど、この胸の高鳴りと共に不思議な幸福感のようなものがあって、それが心地良くて、特に何を言うわけでもなく一緒に桜を見る。
「美月さん」
「?」
赤木さんが優しく声をかけてくると、その大きな手が私に伸びてきた。髪の毛に優しく触れると、するりとその手が離れてゆく。
彼の指先には桜の花びらが掴まれていた。どうやら吹き込んできた風と共に髪についていたようだ。
「あ……」
「ついてたぜ、花びら」
赤木さんに触れられた毛先から、頬に熱が伝わる感覚に襲われ、それと同時にどうしてだか恥ずかしくて、ドキドキして、花びらを見つめる彼から目が離せなくなってしまう。
「ん?」
「あっ、いえ、その…花びら……とってくださってありがとうございます」
赤木さんは薄く笑うと、その花びらに息を吹きかけ、窓の外へと舞っていく。
ひらひらと舞っていく花びらを青空の中へ見送ると、ふと桜の木が目に止まった。
緑が少し見えてきた桜の木は、春の終わりを感じさせる。
「今年も早いですね、春が終わっていくのが」
桜吹雪を眺めながらぽつりと呟くと、赤木さんはそうだな、と答える。
「でも、来年も春は来るんだ。その時は──また、花見でもしよう」
春の日差しに包まれて、赤木さんは優しい表情で言う。私はその言葉に胸がぽかぽかして、いつもよりも少し元気に答える。
「はいっ!来年もまた、桜を見ましょうね」
来年も、そのまた来年も、彼と一緒に桜が見たいと思った。だから、私はこの言葉を添える。
無駄かもしれない、彼はここに留まる人じゃないから、その保証はないけれど。
「約束ですよ」
そう答えると、彼は少し面食らったような表情をするも一瞬でそれを取り繕い、クククと喉の奥で低く、でも楽しそうに笑う。
「ああ、約束だ」
その約束が果たされる事がなくても、彼が約束をしてくれた事が、私は嬉しかった。
すると、彼はゆったりと立ち上がり煙草を取り出すも、ソフト箱の中は空のようでトントンと指で叩いても出てこない。
「あらら、煙草買ってくるよ」
「私も行きます、ちょうど八百屋さんへ行きたかったんです」
「そう、じゃあ行こうか」
「はい」
買い物籠とお財布を持って、私は玄関にあるサンダルを履いて。赤木さんはスニーカーを履いて外へと出た。
鉄製の階段がカンカン、カンカン、と二人分の足音を奏でる。
すぐ近くに煙草屋があるので、まずはそちらに向かうと、赤木さんはハイライトを二つ、とカウンターにいるおばあさんに頼んでいた。
おばあさんははいよ、とのんびり返事をすると淡い青色が特徴的なハイライトの箱を二つ差し出した。赤木さんがお金をぴったり渡すと、後ろにいた私とおばあさんの目が合う。
「お兄ちゃんの妹かい?」
「いや、妹じゃねえよ」
確かに、私と赤木さんが並んで歩いていたら、私は妹に見えるだろう。
「じゃあ恋人かい、若いねぇ」
「いや、そういうんじゃあ……」
私の苦笑いは一変し、口を魚のようにパクパクとさせておばあさんを見る。
静かに恋人である事を否定する赤木さんに対して、おばあさんは隠さなくてもいいと言わんばかりの態度で、毎度ありと言って店の奥へいってしまった。
顔に熱が溜まっていく感覚と共に、気恥ずかしくて俯いてしまう。
「あらら、行っちまった」
「で、ですね……」
「……顔、赤いけど大丈夫?」
「あっ…」
こちらを覗き込む赤木さんの距離が近くて、何故だが胸が締め付けられる感覚がして、恥ずかしくなって一歩後ろに下がってしまう。
「だ、大丈夫ですっ!今日、ちょっと暑く感じて……さ、さてと、八百屋さんに行きましょうか!」
そう言って私は八百屋へと歩みを進める。その隣を赤木さんは何も言わずに歩く。
その間ずっと、赤木さんと私が恋人に見えるのかどうかを考えた。
確かに、赤木さんはかっこいいし、そのうえ優しい。こんな私に理解を示してくれるほどに。
それにさり気ない気遣いだったり、面白いお話もしてくれて、きっとおモテになるんだと思う。
八百屋に到着して、私は大根と長ネギ、玉ねぎ、人参を籠に入れ、レジへと持っていく。
「全部で65円だよ」
「丁度でお願いします」
「毎度ありー!」
八百屋を出て帰路につくと、赤木さんは流れるように私の買い物籠を手に持ってしまった。
「持つよ」
「そんな…大丈夫ですよ、これくらい」
「君にいつも飯作ってもらってるんだ、これくらいさせてよ」
そんな事を言うけれど、家に来たらご飯代と言って3000円(現代の貨幣価値に換算すると約3万円)を渡してきて、家事も手伝ってくれているのに赤木さんにこれくらいの荷物を持たせる訳にはいかないというもの。
しかし、赤木さんも引かないだろう。どうにかしていい案はないかと考え、私は思いついた。
「じゃあ──」
籠の取っ手を片方、私は赤木さんからそっと離してそのまま持つ。
「半分、持ちますね」
ふと赤木さんを見ると、鳩が豆鉄砲でも食らったような、少し分かりにくいけど目を見開いて驚いたような表情をして、スっといつものポーカーフェイスに戻ると前を向いた。
「……可愛い」
「えっ?」
「いや、なんでもない」
可愛い、と聞こえたけれど、赤木さんが何に対して可愛いと言ったのかは分からなかった。
並んで歩いていると、一台の黒塗りの高級車が私たちの前に停車した。
何事かと立ち止まり、動揺していると車の中からスーツを着た体格のいい見知らぬ男性が出てくる。
「お前、赤木しげるだな?」
怖い──その人がカタギではない事が雰囲気で分かる。すると、赤木さんが私を隠すようにスっと前に立った。
「……そうだけど?」
「お前を探していた。何でも、神憑った麻雀を打つそうじゃあないか。うちの組長がお前の麻雀を見たいと仰っている。……そちらのお嬢さんは?」
その見た目にそぐわず、落ち着いた喋り方をするヤクザの男性は私に視線を移す。
「なに、道端で困ってたもんで通りすがりに助けただけさ」
赤木さんがこちらに視線を向ける。その視線の意味を察して、私は頷いた。
「はい、最近この辺りに引っ越してきて……土地勘がないものでこの方に助けて頂いたんです」
「そうか。……どうだ、赤木しげる。打つのか?打たないのか?」
「話は聞いてやる。その前に、宿に荷物を取りに行きたい。通りを出たところの喫茶店で待っててくれ」
「いいだろう、待ってるぞ」
そう言うと男性は車に乗り、通りを出て右へと曲がって件の喫茶店へと向かった。
赤木さんはふぅ、と小さくため息をつく。
「悪いね、美月さん。それに、話合わせてくれてありがとう」
「いえ、そんな……」
赤木さんは買ったばかりのハイライトを取り出すとマッチで火をつけ、深く吸った煙を吐き出す。
さっきの他人のフリは、赤木さんなりの気遣いだろう。赤木さんが私を裏社会の事に巻き込まない為の。
──やっぱり、この人は優しい人だ。
「……面倒だな」
そうポツリと呟く赤木さん。麻雀が好きな赤木さんの事だから、さっきの代打ちの話は乗り気なのだと思っていたけれど、そうでもないみたいだ。
「そう、なんですか?」
「俺は今休憩中だったもんでね。まあ、でも、そろそろ行くかな」
見えてきたさくら荘の階段を登り、アパートの鍵を開けると、赤木さんは部屋の中に入るとボストンバッグを持つと、また玄関へと向かいスニーカーを履く。
「行くんですね」
「ああ、長いこと世話になったね。大学生活、頑張って」
「ありがとうございます。赤木さんもお気をつけて」
「……戸締り、ちゃんとするんだよ」
「はい」
「……また来るから」
「はい、またいらしてください」
「じゃあ、いってくる」
赤木さんの広い背中を、私はこの言葉と共に見送った。
「いってらっしゃい、お気をつけて」
そう言うと、少しばかり彼は口角を上げて笑ってこちらを見る。
そして玄関のドアが締まり、アパートの一室には私一人となった。
静かで、一気に物悲しい雰囲気が漂う。網戸から吹き込む春風さえも、少し冷たく感じた。
「……」
窓から歩く白髪の彼の後ろ姿を見送る。春風に包まれ歩を進める赤木さんの背中はしゃんとしてて、何だか格好よく見えた。
「……いってらっしゃい」
いつ会えるか分からない、もう会えないかもしれないけれど──それでも、私はこの言葉を春風に乗せる。
彼の行く先に幸運を願って。