第2部 新天地
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
レウウィス邸宅厨房にて―
多くの料理人がいた。彼らは一様に忙しなく働いている。
「おい、新人この料理あそこに持って行ってくれ」
一人の料理人がそう言い、指さしたのはこの屋敷に古くからある塔だった。
「あの、料理長……あの塔には誰がいるのでしょうか?」
新人の料理人はおずおずと尋ねる。
「お前は知らないかもしれないが昔、高貴な罪人が幽閉されていたところだよ」
料理長は、新人に優しく教えてくれた。
新人の男は納得すると同時に疑問を抱く。
「では、今はどなたかが幽閉されているということなのでしょうか?」
レウウィスの屋敷には多くの使用人がおり、彼らとよく話すのだが塔に近づくものは皆無だった。
だから、塔に誰かがいるなんて思いもしなかった。
レウウィスの命で唯一、料理だけもっていくときに近づける程度だった。
「ああ。誰も見たことがないんだ」
「そうなんですか……」
一体誰がいるのだろうと興味をそそられたが、あまり深入りすべきではないと新人鬼は自分に言い聞かせて、それ以上聞かなかった。
新人はその塔に料理を持って行った。確か、渡し口があったはずだ。そう思いながら探すと、すぐに見つかった。小さな戸を開けると食べ終わった皿があった。その皿を回収し、渡し口に新しい料理を置く。渡し口の鍵を閉めようとしたときだった。突然、声が聞こえた。
それは女の声だった。
聞いたこともない美しい声で囁くように歌を歌っている。歌詞はなくメロディだけだ。だが、不思議とその歌声を聞くと安心感を覚えた。
この世のものとは思えないような旋律の歌に耳を傾けていたときだった。レウウィス大公が後ろに立っていたのに気づかなかったのだ。
「なにをしているのかね」
「た、大公様!申し訳ありません。私は決して、そのようなつもりではなく」
必死に弁解しているとレウウィスはからの皿を見つめふむと小さくうなずくと男に言った。
「食事を届けに来たのか?ご苦労だった。君はもういいよ。さっさと仕事に戻りなさい」
男は、一礼すると逃げるようにして立ち去った。
ヘルガの住んでいる塔には窓がなく、外の世界を感じることはできない。
石の造りの間から漏れ出る光だけが、その日の目安だった。住居スペースは塔の2階に位置しており、螺旋階段を下ると1階に到達する。そこにはひんやりとした空気が漂い、石畳の床は歩くたびに冷たさを感じさせた。
1階にある大門は重厚な鉄製で、常に鍵がかかり外界への道を固く遮っている。小窓も鉄格子で守られており、外からの光が僅かに差し込むだけだ。その小窓から食事が差し入れられることがあるが、そこも厳重に管理されている。
台所はあるものの簡素な作りで、食材がないためほとんど使われることはなかった。井戸だけが唯一の水源であり、冷たく澄んだ水が塔の中の生命線となっていた。
湿気と古さが漂う塔の石造りの壁には、苔が生え、部屋全体に冷たく陰鬱な雰囲気が漂っていた。ヘルガがこの塔に連れてこられてから、半年が過ぎようとしている。当初は戸惑いと不安に苛まれていたが、最近では少しずつ環境に慣れ始めていた。
それでも、この塔での生活は決して快適なものではなかった。湿気は肌にまとわりつき、空気は重く、夜になると冷え込みが厳しくなる。暖を取るものは乏しく、身を寄せて寒さに耐える日々が続いていた。塔の中は不気味な静けさに包まれ、唯一の音は時折響く水滴の音と、自分の心臓の鼓動だけだった。
レウウィスがこの塔を訪れるのは月に一度あるかないか。そのため、ヘルガは大半の時間を孤独の中で過ごしていた。
「あなたが食事を持ってくるなんて、珍しいこともあるのですね」
ヘルガはランタンの微かな光に照らされながら、レウウィスに問いかけた。彼女の声には、驚きと微かな警戒心がにじんでいた。
「なに、しばらく邸宅を空けていてね。様子を見ようと思って」
レウウィスは部屋の中を見渡し、彼女が来た当初と比べて綺麗になっていることに気づいた。埃まみれだった床は掃除され、散らかっていた家具も整然と配置されている。ベッドの上にはきちんと畳まれたシーツが置かれ、生活感が漂っていた。
「君が掃除をしたのか?」
彼は少し驚いた様子で尋ねた。ヘルガはうつむき、小さく頷いた。
「ええ、少しでもここで過ごす時間を快適にしようと思って……」
その声には不安と緊張が混じっていたが、どこか微かな誇りも含まれていた。
レウウィスはその様子を見つめ、穏やかに微笑んだ。
「それは素晴らしいことだね。君の努力が見える」
その一言はヘルガの胸に、ほんの一瞬だけ温もりを与えた。
「それはいいとして……土産だよ」
レウウィスは小さな包みを差し出したが、ヘルガにとっては意外にも重く感じられる包みだった。彼女は驚きと警戒心を浮かべながら、それを受け取った。そして恐る恐る包みを開けると、中に布で包まれた物が入っていた。
ヘルガが慎重に布をめくると、目の前に現れたものに息を呑んだ。
「これをどこで……!?」
布の中には注射器、銃、その他の奇妙な道具が詰められていた。それらはどれも人間が使うものだった。ヘルガの目に、これらの道具が使われていた記憶がよみがえった。
「これは、人間のものですよね?どうしてこのようなものがここに」
ヘルガの声は震え、その問いかけには疑念と恐れが混ざり合っていた。塔の中の冷たい空気が、一層ひんやりと肌にまとわりつくように感じられた。レウウィスは、微かに口元を歪めて笑みを浮かべたが、その瞳には何か冷たい光が宿っていた。
「人間がかつて使っていた道具は、時に市井に周ることがあるのだよ」
言葉ではそう説明したものの、嘘だった。市井に人間の道具はほとんど出回らない。自身の権力とツテを頼り、道具を手当たり次第に集めていた。その大半はゴミやガラクタ同然のものだったが、まれに使えるものがあった。しかし、銃だけは手に入らなかったため、農園から横流しをしてもらったのだ。
ヘルガの手の中にあるものを見て、レウウィスはニヤリと笑った。
「ようやく、人間の武器を手に入れたのだよ。これでようやく君と殺し合いができると思っていたのだが……」
彼の視線がヘルガの下肢に移る。まだ包帯が巻かれているのを確認すると、レウウィスはわざとらしく肩をすくめてみせた。
「怪我が治るまで待つことにしよう、して寒くはないかね?」
レウウィスの質問に、ヘルガは考え素振りを見せると小さく首を振って答えた。
「いいえ、大丈夫です。毛布をいただきましたし、それに薪木と暖炉もありますから」
「……ふむ、そうか」
レウウィスは椅子に腰を下ろし、足を組むと肘をつき顎に手を添えた。その姿はどこか落ち着いているように見えたが、内心では彼の思いが渦巻いていたヘルガがもらった道具を整理し始めるのを見て、レウウィスは軽く目を閉じた。
まず注射器。新品で、先端はゴムのカバーで覆われている。それを慎重に布でくるみ箱の中へ入れるヘルガの仕草を見て、レウウィスの口元がわずかに動いた。次に銃。黒い筒状で、弾倉にわずか3発の弾が入ったアサルトライフル。高性能なその武器は、彼がかなりの危険を冒して手に入れたものだった。そして最後にナイフ。柄の装飾に至るまで、彼が意図的に選んだものだ。
ヘルガが眠りにつくまでの時間、レウウィスは何も言わずにただその様子を眺めていた。
夜になり、ヘルガは椅子の上で目を覚ました。暗闇に包まれた室内で、暖炉の火はすでに消えている。立ち上がろうとした瞬間、肩から何かが滑り落ちた。
拾い上げたのは、やや重みのあるケープのような布だった。それは見覚えのないもので、触れると微かな暖かさが手に伝わった。
「置いて行ったのかしら?」
ヘルガは不思議そうにそれを眺めた。布はレウウィスのものにしては小ぶりで、彼の普段の無骨な装いには似つかわしくない。かといって、この塔に他に誰かがいるとも思えない。
布を椅子に掛け、軽く肩をすくめるとベッドへと向かった。柔らかな感触を思い出しながら目を閉じると、心に少しの安堵が広がり、再び深い眠りへと落ちていった。
**
朝の起床の音で目が覚めたヘルガは、いつもなら二度寝を決め込むところだったが、今日は違った。昨夜の布が頭をよぎり、飛び起きた。
「夢じゃなかったんだわ……」
ベッド脇の椅子に掛けられたそれを掴み、胸に抱きしめる。暖かい、と心の中で呟きながら、その感触に安堵を覚えた。よく見ると、その外套は明るいグレーだった。
ヘルガは試しに袖を通してみた。軽くて暖かく、生地がしっかりしている。丈は足先が隠れるほど長く、身を包むと自然と安心感が増していくようだった。
「いいものね、これ……」
ぽつりと呟きながら、彼女は外套に身を包んだ。動きやすい軽さに驚きつつも、耐久性がありそうな触感に満足を覚えた。
扉の前に立つと、少し緊張した面持ちで螺旋階段を覗き込む。塔の下階からは物音一つ聞こえない。
「誰もいないわね……」
ヘルガは小声で呟きながら、静かに鍵を取り出した。半年もこの塔にいる彼女にとって、鍵を開ける作業はもはや慣れたものだった。棒を鍵穴に差し込み、そっと回す。
扉がわずかに軋む音を立てて開いた瞬間、冷たい外気が彼女の頬をかすめた。一歩外に出ると、目の前には一面の銀世界が広がっていた。雪は朝の陽光を浴びて淡く輝き、息を呑むほどの美しさを見せている。
彼女は恐る恐る足を踏み出し、両手を広げて大きく深呼吸をした。冷たい空気が肺に染み渡り、心地よい冷たさが全身を包み込む。ふと耳を澄ませると、遠くでカラスの鳴き声がかすかに聞こえたような気がした。
(逃げるのは無理ね……雪に足跡が残ってしまう)
ヘルガは小さくため息をつき、仕方なく引き返した。扉を閉める音が塔の中に響き渡り、再び静寂が訪れる。螺旋階段を上りながら、彼女はこれからの行動を思案し始めた。
**
ヘルガの足の骨折はすでに治っていた。しかし、彼女はその事実を隠し続けていた。レウウィスはまだ彼女の足が不自由だと信じており、それを利用することが彼女の脱走計画の第一歩だった。包帯を巻き続けるのも、彼を欺くための策略だったのだ。
脱走計画を進める中で、最大の問題は食料の確保だった。しかし、それも意外な形で解決した。
「料理をしてみたいんです」
ヘルガがそう切り出したとき、レウウィスは訝しげな目で彼女を見つめた。
「料理だと?」
「ええ。私が孤独な時間を有効に使う手段として、それがいいと思ったんです。それに、あなたが用意してくださる食事には感謝していますが、自分で作る楽しみも経験してみたいんです」
彼女の説得に、レウウィスはしばらく考え込んでいたが、最終的には同意した。
「……まあ、君がそう望むなら好きにすればいい。ただし、注意して使うんだ。何か問題があればすぐに知らせること」
こうして、ヘルガは塔の炊事場の使用を許されるようになった。彼女は表向きには料理を楽しむ素振りを見せながら、密かに食料を少しずつ蓄え始めた。
**
雪が解け始め、木々の新芽が顔を出す頃、レウウィスは外出の準備を始めた。
「しばらく戻らない。食糧は何とかあれでやりくりするように」
そう言い残し、彼は衛兵と側近を伴い旅立った。彼が去った邸宅は普段以上に静まり返り、ヘルガにとって好機だった。
翌夜、彼女は部屋を抜け出した。暗闇の中、邸宅で暮らす、怪物たちの足音が遠ざかるタイミングを狙いながら慎重に進む。塔の石畳に響く足音を消すため、靴を脱ぎ、裸足で動いた。冷たい床の感触が足裏を刺したが、彼女は息を殺して進んだ。
邸宅を出て庭を抜けると、高い壁が目の前に立ちはだかる。壁の表面にはわずかな凹凸があり、彼女はその感触を頼りに指を引っ掛け、全身の力を使って登った。
壁の上にたどり着いたとき、彼女は息を整える間もなく地面に飛び降り、森の中へと駆け出した。
森に入ると、彼女は懐から小さく折り畳まれた地図を取り出した。これは彼女自身が作成したものだ。何日もかけて夜中に塔を抜け出し、地形を確認しては地図に印をつけた。周囲の小川や大木、野良鬼が出没する危険地帯をすべて記録したこの地図は、彼女の命綱だった。
「ここから北西に進む……あの大きな木が目印ね」
彼女は地図をしまい、足早に進んだ。この土地は起伏が激しく、乾いた落ち葉を踏む音が不規則に響く。彼女は周囲に目を凝らしながら、自然の音に耳を澄ませた。
突然、遠くで低いうなり声が聞こえた。
(野良の怪物……こっちには来ないで)
息を詰め、物音を立てないよう慎重に進む。彼女の通った後には、獣が歩いたような痕跡だけが残るよう工夫していた。
やがて、目星をつけていた穴の入り口にたどり着いた。穴は地面にぽっかりと空き、その中は暗闇が広がっている。
彼女は慎重に中に入ると、ひんやりとした空気と湿った土の香りが鼻をついた。暗闇の中で何度かつまずきながらも、壁に手をついて奥へと進む。
**
この穴を見つけたのは偶然だった。小さな入口は外から見えにくく、火を使っても煙が漏れる心配がない。彼女は暗闇に慣れた目で周囲を確認しながら、小さく笑みを浮かべた。
「ここなら、しばらくは安全ね……」
地面に腰を下ろした瞬間、緊張の糸が切れたように涙が溢れた。
(やっとここまで来た……これからは、私の自由だ)
彼女は震える手で顔を覆いながら、心の中でそう呟いた。