第2部 新天地
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居城から少し離れた場所に、鬼がいた。その名はレウウィス。鬼の世界では大公の地位にある彼は、貴族階級に属していた。身なりは非常に整っており、シルクハットを被り黒い外套を羽織っていた。
レウウィスは自身のペットであるパルウィス、猿を模した鬼を連れていた。パルウィスは金属がこすれるような独特の鳴き声を出しながら、レウウィスの周りを走り回っていた。レウウィスはその愛らしいペットを撫でながら、満足そうに微笑んでいた。
「パルウィス、さぁ行っておいで」
レウウィスは自身のペットである、猿を模した鬼を撫でながら言う。
キキッ!と一声鳴いて、猿型の生物は走り去った。この森では、パルウィス自身に餌を獲らせるために、こうして度々狩りをさせている。
パルウィスの金属がこすれるような鳴き声が風と共に響き渡った。レウウィスを呼んでいるのだ。レウウィスが近寄ると嬉しそうに尻尾を振る。
「パルウィス。どうしたのだ?」
キィーッと返事をする。どうやら、また新たな獲物を見つけたらしい。この分だと当分の間は、暇を持て余すことは無さそうだ。
レウウィスは上から、獲物に奇襲をかけたのだ。しかし、その獲物はナイフを握りしめており、こちらの気配を感じ取るとすぐに反撃に出た。
しかし、レウウィスは狩りの天才であった。相手の動きを読むと、簡単に避けてしまう。そして、そのまま首を掴むと、一気に絞めつけた。彼女は、苦し気に息を漏らすも抵抗を続けた。レウウィスはそれを面白がり、さらに力を込める。
「……っ」
声にならぬ声を上げているのがわかる。そしてついに力尽きたのか、体から力が抜けた。もう意識はない。完全に死んだ。
レウウィスは、そう思い力を抜いたのだ。しかし、次の瞬間。ナイフを振るわれるがレウウィスにはスローモーションで見えた。その刃を、爪先でつかめばナイフは壊れてしまう。しかし、獲物は槍に持ち替えていた。今度はそれで目を狙うつもりなのだろう。
(面白くなってきたじゃないか)
レウウィスはニヤリと笑みを浮かべると、相手に向かって飛びかかった。
一瞬にして、勝敗は決した。勝負の行方は見えて明らかだった。
鬼と人では圧倒的な差が存在する。
鬼が本気を出せば、人間は虫けら同然。それは人間とて理解しているはずだった。それでも諦めない。その目に宿るのは絶望ではなく闘志だった。その姿に、レウウィスは高揚した。こんな気持ちは初めてだった。そして、彼女の心は折れていない。
(面白い!!)
しかし、そんな攻撃など無意味だ。その手を掴み引き寄せる人間を捕まえる。
骨の砕ける音がした。力を入れすぎてしまったようだと、レウウィスはわずかにつかむ力を弱める。
(人間とは、実に脆弱な生き物だ)
ふと、レウウィスは自身の手の中にいる人間を見つめる。
鬼は人間を食べる。だから、食べる時は躊躇なく食べた。でも今回は違った。人間を食べたい衝動よりも、もっと別の感情が勝った。
(この人間が万全の状態で戦ったらどうなるのだろうか)
木にたたきつけた人間に手を伸ばすとパシっと弾かれる。まだ戦う意志があるのだ。レウウィスの手は痺れていた。彼女は苦痛に顔を歪ませながらも立ち上がる。その表情に、先ほどまでの恐怖はなかった。
むしろ、レウウィスを睨む瞳には殺気がこもっているように感じられた。
「いいねぇ」
思わず感嘆のため息が漏れる。
(殺すのは惜しい)
レウウィスは人間の背後に回ると、両手で彼女の首をつかみ、持ち上げた。
人間の身体は驚く程軽かった。
「本当に人間なのだな」
近くで見るとますます酷い有様だった。
顔はよく見えないが随分と汚れているようで、薄汚い印象を受ける。興味本位で人間を観察することにした。
髪はボサボサで手入れをされた様子がない。身につけた衣類は泥だらけでところどころ破けており、元の生地の色も分からないほど汚れてしまっている。
さらに、栄養状態も悪く痩せ細っているように見える。何より目立つのが足に巻かれた包帯だった。怪我をしているのだろうか。それにしては血の匂いがしない。
この人間は何をしているのだろうと観察を続けていると、視線を感じたのか突然振り向いた。
「もう、殺して……。お願いだから」
人間の女は、泣きそうな声で懇願する。その言葉に、レウウィスの動きがピタリと止まる。レウウィスは立ち止まり、振り返ると、人間をジッと見据える。
人間は、その瞳を見て確信する。
あぁ、殺されるんだな、と。彼女は、目を瞑り覚悟を決めた。しかし、いつまで経ってもその時が来ないので不思議に思った人間は恐る恐る目を開けた。
「殺すわけがなかろう」
その答えに彼女は耳を疑った。レウウィスはまた歩を進め始めた。
「私は君と殺し合いをしたい」
レウウィスの言葉に彼女は警戒心をあらわにする。
「今はその時ではないがね」
レウウィスは人間の首にまとわりつく髪を避け、やはりかと納得する。首の識別番号は、高級農園グレイス=フィールド出身の証である。
王族のレウウィスでも中々お目にかかることができない貴重な人肉だ。レウウィスの口角があがる。しかし、どうしてこんなところへ人間がいるのかという疑問から、貴族間で話題になっている『楽園』を思い出す。
『楽園』とは、貴族の遊び場だった。1000年前の約束から人間を狩ることができなくなった高位の鬼たちからの不満が溜まる。そこで、農園と王政が貴族のうっぷん晴らしとして成人の食用児を狩ることができる場所を作ったのだった。
そして、ここ数か月、その食用児が逃げ出しているとの情報がある。しばらくして、『楽園』にいた貴族鬼が殺されたということが周知となった。しかも、犯人は脱走者だという情報もあり、鬼がやったとは考えられないことから、人間が斃した可能性が高いとされている。
今目の前にいるのはその逃亡した食用児である可能性が非常に高いと言える。発信機が『楽園』の外にあったということから、逃げているのは確実だというのはすべての鬼が知っている。それが、この人間ならとレウウィスの中で合点がいったのだ。
このまま食べるのはもったいない。ならば、戦えるくらいまでには回復させて、狩るか殺されるかの鬼ごっこをして遊ぶのもいいだろう。レウウィスはヘルガを解放し、その身体を肩に乗せた。ヘルガは一瞬驚きの声を上げたが、すぐにおとなしくなる。
「どうして……?」
人間の女は震える声で問いかけた。レウウィスの言葉が彼女の心に重くのしかかる。彼女は自分がただの獲物ではなく、彼の興味を引く存在であることを理解した。しかし、それが彼女にとって何の救いにもならないことも分かっていた。
レウウィスは一瞬立ち止まり、彼女を見つめた。ヘルガにはレウウィスがどんな表情をしていたのか見ることができなかった。夕日を背にした彼が、とても怖かったのだ。
「君は運がいい」
レウウィスは微笑みながら答えた。その言葉に人間は一瞬だけ希望を見出したが、すぐにその希望は打ち砕かれた。彼の目には冷酷な光が宿っていた。
「君を回復させて、再び戦う機会を与える。それが私の楽しみだ」
その声はどこまでも穏やかだったが、同時に恐ろしいものを感じさせた。人間は絶望に顔を歪ませた。レウウィスは無言のまま、人間を連れて歩き出した。
しばらく歩くと、木に繋がれている馬が見えてきた。いや、馬のような鬼がいた。
人間は馬に乗せられると、手綱のようなものを握らされた。そして、馬が走り出したのだ。
人間は涙を流しながら、「ひっく、ひっく」と嗚咽を漏らす。
「……」
レウウィスは無言で馬を駆る。その速さに、人間は何度か振り落とされようとすると、レウウィスは人間の髪の毛を引っ張り、落ちるなと命令していた。
彼女の目線の先には木で造られた門があった。その門の扉には何か文字が書かれているようだが、距離がありすぎてよく見えない。
「着いたよ」
レウウィスはヘルガの乗る馬のスピードを緩めると、彼女に告げる。彼女は、やっと到着したと安堵するが、その顔はすぐに強張る。レウウィスは、彼女の腕をつかみ、強引に降ろしてしまう。
地面に降ろされると、人間の足に激痛が走る。ここで、初めて骨折していたことに気付く。ヘルガは思わずしゃがみ込む。そんな彼女をレウウィスは冷たい目で見下ろしていた。
痛みに耐えながら立ち上がると、目の前の景色に彼女は、唖然とした。一際大きく壮麗な城だった。その姿はあまりに圧倒的で、彼女の心に一瞬の恐怖を刻んだ。
邸宅の外壁は白い石で作られており、太陽の光を受けて輝いている。その高さは空を突き刺すようにそびえ立ち、遠くからでも一目でそれと分かる威厳を放っていた。塔の先端には旗が揺れており、風にたなびくその姿は城の権力と権威を象徴しているようだった。
「行こうか」
レウウィスに荷物のように持ち上げられ、黒い外套で包まれたまま抱きかかえられる。まるで荷物のように抱えられた彼女は、なす術もなく邸宅へと連れていかれる。レウウィスの城には、従者の鬼たちが働いている。
彼らは城の維持管理を行い、主人であるレウウィスに忠実に仕えていた。
今を生きる鬼たちは、生きた人間を見たことがあるものは滅多にいないのだ。特に、食用児が城内にいることが知られると騒ぎになる可能性があったため、レウウィスは彼女を隠しながら連れて行くことにしたのだ。
彼女は包まれながら、何とか逃げ出せないかと思いながらも、外套によって視界を奪われているため、どのような環境にいるのか知る術がなかった。レウウィスはある塔の階段を上り、大きな螺旋状の廊下を進んでいく。しばらくして、扉を開ける音が聞こえ、室内に入る気配を感じた。そして、彼女はどこかへ放り投げられ、そのまま倒れ込んだ。
その衝撃が怪我をしている部分を刺激し、彼女は小さく悲鳴を上げる。レウウィスは部屋の中に入り、扉の鍵をかける。部屋の中には、ベッドや椅子などが置かれ、一見すると誰かの部屋のように思えるが、感じたのは不気味さであった。
「あぁ、すまないね」
優しい口調で話しかけてくる鬼に対して、彼女は無言のまま敵意を向ける。男は困ったような表情をする。表情は仮面でみえないのだが、ヘルガはそんな気がしたのだ。
「君に危害を加えるつもりはないんだ。君が大人しくしてくれるなら、だけどね」
そう言って彼は両手を上げた。それは、武器を持っていないことを示す行動だったが、それがかえって不気味に思えた。
「私の名はレウウィス。君は?」
「…………」
無言を貫くヘルガに対し、レウウィスと名乗った鬼はヘルガを持ち上げ、埃舞うベッドの上にそっと置いた。
突然の行動に、ヘルガは驚きと共に反射的に体を丸め防御姿勢をとった。 その様子を見下ろしながら、レウウィスは微笑んでいた。その声色は優しく、言葉はどこまでも丁寧だった。
「ここは私の住まいだ。ここには誰も来ないし、何も起こらない。君の傷が癒えるまで、ここでゆっくり過ごすといい」
レウウィスをそういいながら、木箱を指さした。
( なぜ、こんな回りくどいことをするの? 狙いは何なの?)
ヘルガはその言葉を聞き、レウウィスの顔を見上げた。だが、その表情は見えない。 レウウィスは踵を返すと、部屋から出ていく。 レウウィスが踵を返して部屋を出て行った後、重い扉が閉まる音が響いた。
ヘルガはその音に少し身を震わせたが、すぐに冷静さを取り戻した。彼女はベッドの上に座り込み、周囲を見回した。 ベッドの傍には小さなテーブルがあり、その上には水差しとコップが置かれていた。彼女は少しずつ体を動かし、痛みを感じながらもなんとか立ち上がった。部屋の中を歩き回り、扉を確認したが、全てがしっかりと閉じられていた。逃げ出す方法を考えなければならなかったが、今はどうすることもできない状況だった。
「まずは、手当てをしなくちゃ……」
ヘルガは木箱のふたを外す。その中には、清潔な布、包帯などが用意されていた。彼女は、骨折箇所に応急処置を施し包帯を巻く。たが、痛みは引かなかった。そこでどこで手に入れたか、わからなったが鎮痛剤のようなものと薬草まで入っていたが、薬草がどのような効能があるかわからないため、農園で見覚えがある鎮痛剤を水で流し込んだ。
「腕も痛めていたのね、気が付かなかったわ」
彼女は自分の体を見ながら、そう呟いた。その時、彼女は初めて自分の服が切り裂かれ、血だらけになっていることに気が付いた。そのせいもあって、自分の怪我に意識がいっていなかったのかもしれない。彼女は服を脱ぎ、傷の状態を確認しようとした。傷は深く、包帯でしっかりと巻いてもまだ痛みが引かない。
ヘルガは耐えるように深呼吸をし、再び包帯を巻き直した。口と一本の腕の止血を終えると、ベッドに倒れこんだ。疲労が全身に押し寄せ、まぶたが重たくなる。しかし、しばらくして扉の向こうから物音が聞こえた瞬間、彼女の意識は再び鋭く冴え渡った。
ヘルガは目を開け、耳を澄ませた。誰かが近づいてくるのだろうか。彼女の心臓は再び激しく鼓動し始めた。次に扉が開かれる時、何が待ち受けているのか分からないまま、彼女は緊張の中でその瞬間を迎えた。
扉がゆっくりと開き、金属が擦れる音が重々しく響いた。冷たい空気が部屋に流れ込み、ヘルガの背中に鳥肌が立つ。そして現れたのは、レウウィスだった。
ヘルガは慌ててベッドのシーツを引き寄せ、体を隠した。包帯以外に身を覆うものがない彼女は、警戒しながらレウウィスを見上げた。彼は片手にトレーを持っており、その上には食べ物と水が載っている。
「君のために食事を持ってきたよ。倒れられても困るのでな」
レウウィスはトレーをテーブルの上に置いた。その仕草には余裕が感じられる。ヘルガは彼の言葉を疑いつつも、空腹に耐えかねて一口だけ食べ物に手を伸ばした。
「鬼と人間が食べるものの違いなんぞ、人肉以外何ら変わらん――もっとも、君にとってはそれも些細な違いにすぎないだろうがね」
その言葉がヘルガの耳に届いた瞬間、彼女はスプーンを持つ手を止めた。警戒心が再び顔を覗かせる。皿の上には豆と野菜スープが置かれており、スプーンが脇に添えられている。そのスープには油の膜が薄く広がり、刻まれた豆や柔らかな野菜が浮かんでいた。
この食べ物に毒が入っていない保証なんてない――そう思いつつも、空腹が理性を蝕むようだった。
ヘルガは恐る恐るスプーンを手に取り、スープを一掬いした。その味は孤児院で食べたものよりも優しい味がした。柔らかな穀物の舌触りとともに、ほのかな温もりが彼女の体に染み渡る。
しばらくの間、ヘルガはスープを口に運ぶ音以外、部屋には何も響かなかった。彼女は警戒心を抱きつつも、その空腹を満たすために食べることをやめなかった。
レウウィスは静かに椅子に腰を下ろし、彼女をじっと見つめていた。その視線には何かを探るような鋭さがありながらも、どこか興味深げでもあった。
「驚いたよ」
彼はふと口を開いた。
「君のような食用児が、ここまで逃げ延びてきたとはね。それも、農園の目をかいくぐって……」
ヘルガはスプーンを持つ手を止め、鋭い目つきで彼を睨んだ。その視線に、レウウィスは笑みを深めた。
「怒らないでくれ。むしろ感心しているんだ。君のそのしぶとさ、そして意志の強さにね」
その目はまるで実験動物を観察するかのようで、ヘルガは居心地の悪さを感じた。彼女はすぐに顔を背け、再びシーツを引き寄せて体を隠した。しかし、そんなことでは隠せるわけがないのだが、今の彼女にできることはそれしかなかった。
レウウィスは彼女の動作に気づいたのか気づかなかったのか、再び椅子に深く腰をかけ、レウウィスは本を開いたが、その視線はほとんどヘルガに向けられているようだった。
その視線が突き刺さるようで、体が硬直した。しかし、食事を前にした空腹は恐怖すらもかき消していく。
「あの、食事と薬をありがとう……」
ヘルガの声はかすかだったが、レウウィスは足を止めて振り返った。 お礼を言うべきだとおもったが、レウウィスの顔を見ることができず、うつむきながら小声でつぶやいた。だが、彼の返答は予想とは違ったものだった。
「礼には及ばないさ。必要だから与えただけだ。」
ヘルガは思わず顔を上げ、彼を見た。レウウィスはいつも通りの感情のない目つきをしていた。ヘルガはその冷たい目に怯えつつ、それでも聞き返さずにはいられなかった。
「私は……、あなたたちにとって食糧なんですよね?」
「そうだ。君の血は芳しい香りがするよ」
レウウィスは笑みを浮かべることなく、まっすぐとヘルガを見つめたまま、顔を近づけた。ヘルガは咄嵯に身を引き、壁に背中が当たった。そして、無意識のうちに自分の首元を押さえていた。
「私を食べても美味しくないですよ」
恐怖心を隠すためにヘルガは皮肉交じりに答えたが、それが強がりであることは明らかだった。レウウィスはヘルガの言葉を聞いて、愉快そうに笑い声を上げた。
「美味かどうかは、試してみないとわからないだろう」
ヘルガの切り傷のある頬に舌を這わせ、その傷口に唾液を擦り付けた。 ヘルガは、突然の感触に体を震わせた。 彼女はその気持ち悪さに眉をひそめ、耐えるように唇を噛み締めた。
レウウィスはしばらく傷口を弄ぶと、ようやく満足したのかその行為を止めた。
「こんなにも甘く感じるのは初めてだよ」
彼の言葉はどこか満足げだったが、ヘルガの耳には、まるで毒のように底知れない狂気が染み込んでいた。
レウウィスは静かに身を引いた。しかし、その視線だけは、なおもヘルガの内側を穿つように突き刺さった。彼女は震える手で自分の首を押さえながら、ただその場に立ち尽くすしかなかった。
時は経ち――。
体はすっかり治ってしまった。包帯を外すとき、痛みは驚くほど感じられなかった。それどころか、体の調子は以前よりも良くなっていた。
だが、その事実はヘルガにとって、まるで枷のように重く感じられた。自分はきっと、鬼の糧として生かされているだけなのだ。
彼女はベッドの上で仰向けになり、天井をじっと見上げた。
どれだけこの生活が続くのだろうか。いずれ飽きられ、処分されるのも時間の問題だろう。だが、ヘルガには妙な確信があった。彼が自分を処分するとは到底思えなかった。
ヘルガがこの場所に来て、既に二か月が経過していた。
この部屋には窓がなく、一日中薄暗い光だけが漂っている。時間の感覚はとうに失われ、今が昼なのか夜なのかすらわからない。
「部屋の外に出るな」
――そう告げられて以来、ヘルガは一歩も外に出ていない。ここがどこなのかも分からないままだ。
トイレはあるが、風呂はない。
ヘルガは汗ばむ体の不快さを感じながらも、動く気力を失い、ただ横たわっていた。
目を覚ますと、レウウィスが部屋に立っていることがよくあった。
彼はほとんど何も言わず、ただヘルガを見下ろしているだけだ。その視線を感じている間、ヘルガはまるで時間が止まったかのように身動きが取れなくなる。
今日も同じだ――ヘルガは恐怖と不安に押しつぶされながら、ただ耐え続けた。
「……今日は?」
ヘルガの声が震えた。
だが、レウウィスは何も答えず、ただじっとヘルガを一睨みして去って行った。その瞬間、ヘルガは安堵と虚しさの入り混じった感情を抱えた。しかし、その安堵を打ち消すように、彼が見せた一瞬の笑みが胸に焼き付いた。ヘルガはその笑みに、自分がただの獲物に過ぎないことを実感させられた。彼の前では、常に恐怖と不安がまとわりつく。
「逃れられない……」
ヘルガは自分に言い聞かせるように呟いた。
農園から逃げてきたはずだった。けれど、この世界から逃れることはできないのだ――どこまで行っても、怪物に縛られる運命なのだ。
ヘルガの胸に、再び絶望が渦巻いた。
**
翌日、レウウィスが再び姿を現したとき、ヘルガは少しだけ態度を変えてみることにした。これまで怯えるばかりで、自分から何かを尋ねたり行動したりすることはほとんどなかった。だが、何もしないままでは状況は変わらない。
「そ、その……なぜ私を助けてくれたのですか?それに、あなたは農園の職員ではありませんよね?」
震える声で、それでも精一杯の勇気を振り絞って問いかけた。
部屋の壁には、ささやかなランタンが掛かっている。ランタンの中には、小さな植物が閉じ込められており、その葉先が淡い緑色の光を放っていた。光は微かに脈打ち、生きている証を静かに主張している。塔の暗い空間では、このランタンの光だけが頼りだった。
レウウィスは一瞬だけ目を細めた。彼の無表情に、微かな興味の色が混ざったように見える。ランタンの光が彼の瞳を照らし、植物の柔らかな輝きが彼の顔に不規則な影を落とした。その表情は冷たいが、その瞳の奥に潜む何かがヘルガの注意を引きつけた。
静寂が流れる。ヘルガは不安に耐え切れず視線をそらしそうになったが、相手の目を見据えた。その瞬間、彼の表情にほんの一瞬だけ驚きが走った気がした。もしかすると、彼はヘルガが農園の関係者であるとは知らずに助けたのかもしれない。その考えが、ほんのわずかに希望の芽を生じさせる。
「理由か?」
彼は低く呟き、ゆっくりとヘルガの前に歩み寄った。足音は静まり返った塔の中でやけに大きく響いた。その動きには一切の急かしさがなく、まるで相手の恐怖を楽しんでいるかのようだった。
「君こそ、農園の飼育補佐と言ったところだろうか?」
ヘルガの心臓が跳ね上がる。「飼育補佐」という言葉が冷たく響き渡り、自分が農園で過ごした日々の記憶を否応なく引きずり出す。
「あぁ、やめた方がいい。今は農園の連中が外を嗅ぎ回っているのでね」
落ち着き払った声だったが、その言葉の内容はヘルガの心を一気に揺るがせた。思わず足がすくみ、その場に座り込む。彼の言葉を反芻する。農園が自分を追っている――その事実が、全身の力を奪い去った。
「この世界に、人間の居場所なんてあるわけがない。昔の話だ」
レウウィスの声は静かだったが、その一言一言が心を刺すように鋭かった。
ヘルガは首を横に振り、歯を食いしばるようにして反論した。
「いいえ、知らないのよ。私たちは、そのような知識さえ与えられないの。もしかしたら、人間が暮らす集落くらいはあるんじゃないかと思っていたんだけど、あなたの言い分だとなさそうね」
ヘルガの言葉に、レウウィスは視線をそらし、小さくつぶやいた。
「そうか……知らなかったのか」
彼の声には、どこか遠い記憶を探るような響きが混ざっていた。
彼は何かを隠している――そんな疑念が、ヘルガの心に新たな種を蒔いた。そして、農園を支配する奴らは、どんな階級になろうと、食用児に有益な情報を与えてはいなかったと。
意を決して彼に、問い詰める。
「もしかして……あなたも農園と関わりがあるの?」
彼は短く息を吐き出し、平然とした声で返した。
「関わりはない。その証拠に私は農園を管理していないからだ」
だが、彼の声にはどこか矛盾のない響きがあり、意図的に作り出された隙を一切感じさせない。
ヘルガは強く唇を噛みしめながら、目の前の男の姿に目を凝らした。
塔の中は静寂に包まれ、ただランタンの光が二人の間で穏やかに揺れていた。その光が消えたとき、自分が何を信じるべきなのか――ヘルガの心の中に、答えはまだ見つかっていなかった。
レウウィスは自身のペットであるパルウィス、猿を模した鬼を連れていた。パルウィスは金属がこすれるような独特の鳴き声を出しながら、レウウィスの周りを走り回っていた。レウウィスはその愛らしいペットを撫でながら、満足そうに微笑んでいた。
「パルウィス、さぁ行っておいで」
レウウィスは自身のペットである、猿を模した鬼を撫でながら言う。
キキッ!と一声鳴いて、猿型の生物は走り去った。この森では、パルウィス自身に餌を獲らせるために、こうして度々狩りをさせている。
パルウィスの金属がこすれるような鳴き声が風と共に響き渡った。レウウィスを呼んでいるのだ。レウウィスが近寄ると嬉しそうに尻尾を振る。
「パルウィス。どうしたのだ?」
キィーッと返事をする。どうやら、また新たな獲物を見つけたらしい。この分だと当分の間は、暇を持て余すことは無さそうだ。
レウウィスは上から、獲物に奇襲をかけたのだ。しかし、その獲物はナイフを握りしめており、こちらの気配を感じ取るとすぐに反撃に出た。
しかし、レウウィスは狩りの天才であった。相手の動きを読むと、簡単に避けてしまう。そして、そのまま首を掴むと、一気に絞めつけた。彼女は、苦し気に息を漏らすも抵抗を続けた。レウウィスはそれを面白がり、さらに力を込める。
「……っ」
声にならぬ声を上げているのがわかる。そしてついに力尽きたのか、体から力が抜けた。もう意識はない。完全に死んだ。
レウウィスは、そう思い力を抜いたのだ。しかし、次の瞬間。ナイフを振るわれるがレウウィスにはスローモーションで見えた。その刃を、爪先でつかめばナイフは壊れてしまう。しかし、獲物は槍に持ち替えていた。今度はそれで目を狙うつもりなのだろう。
(面白くなってきたじゃないか)
レウウィスはニヤリと笑みを浮かべると、相手に向かって飛びかかった。
一瞬にして、勝敗は決した。勝負の行方は見えて明らかだった。
鬼と人では圧倒的な差が存在する。
鬼が本気を出せば、人間は虫けら同然。それは人間とて理解しているはずだった。それでも諦めない。その目に宿るのは絶望ではなく闘志だった。その姿に、レウウィスは高揚した。こんな気持ちは初めてだった。そして、彼女の心は折れていない。
(面白い!!)
しかし、そんな攻撃など無意味だ。その手を掴み引き寄せる人間を捕まえる。
骨の砕ける音がした。力を入れすぎてしまったようだと、レウウィスはわずかにつかむ力を弱める。
(人間とは、実に脆弱な生き物だ)
ふと、レウウィスは自身の手の中にいる人間を見つめる。
鬼は人間を食べる。だから、食べる時は躊躇なく食べた。でも今回は違った。人間を食べたい衝動よりも、もっと別の感情が勝った。
(この人間が万全の状態で戦ったらどうなるのだろうか)
木にたたきつけた人間に手を伸ばすとパシっと弾かれる。まだ戦う意志があるのだ。レウウィスの手は痺れていた。彼女は苦痛に顔を歪ませながらも立ち上がる。その表情に、先ほどまでの恐怖はなかった。
むしろ、レウウィスを睨む瞳には殺気がこもっているように感じられた。
「いいねぇ」
思わず感嘆のため息が漏れる。
(殺すのは惜しい)
レウウィスは人間の背後に回ると、両手で彼女の首をつかみ、持ち上げた。
人間の身体は驚く程軽かった。
「本当に人間なのだな」
近くで見るとますます酷い有様だった。
顔はよく見えないが随分と汚れているようで、薄汚い印象を受ける。興味本位で人間を観察することにした。
髪はボサボサで手入れをされた様子がない。身につけた衣類は泥だらけでところどころ破けており、元の生地の色も分からないほど汚れてしまっている。
さらに、栄養状態も悪く痩せ細っているように見える。何より目立つのが足に巻かれた包帯だった。怪我をしているのだろうか。それにしては血の匂いがしない。
この人間は何をしているのだろうと観察を続けていると、視線を感じたのか突然振り向いた。
「もう、殺して……。お願いだから」
人間の女は、泣きそうな声で懇願する。その言葉に、レウウィスの動きがピタリと止まる。レウウィスは立ち止まり、振り返ると、人間をジッと見据える。
人間は、その瞳を見て確信する。
あぁ、殺されるんだな、と。彼女は、目を瞑り覚悟を決めた。しかし、いつまで経ってもその時が来ないので不思議に思った人間は恐る恐る目を開けた。
「殺すわけがなかろう」
その答えに彼女は耳を疑った。レウウィスはまた歩を進め始めた。
「私は君と殺し合いをしたい」
レウウィスの言葉に彼女は警戒心をあらわにする。
「今はその時ではないがね」
レウウィスは人間の首にまとわりつく髪を避け、やはりかと納得する。首の識別番号は、高級農園グレイス=フィールド出身の証である。
王族のレウウィスでも中々お目にかかることができない貴重な人肉だ。レウウィスの口角があがる。しかし、どうしてこんなところへ人間がいるのかという疑問から、貴族間で話題になっている『楽園』を思い出す。
『楽園』とは、貴族の遊び場だった。1000年前の約束から人間を狩ることができなくなった高位の鬼たちからの不満が溜まる。そこで、農園と王政が貴族のうっぷん晴らしとして成人の食用児を狩ることができる場所を作ったのだった。
そして、ここ数か月、その食用児が逃げ出しているとの情報がある。しばらくして、『楽園』にいた貴族鬼が殺されたということが周知となった。しかも、犯人は脱走者だという情報もあり、鬼がやったとは考えられないことから、人間が斃した可能性が高いとされている。
今目の前にいるのはその逃亡した食用児である可能性が非常に高いと言える。発信機が『楽園』の外にあったということから、逃げているのは確実だというのはすべての鬼が知っている。それが、この人間ならとレウウィスの中で合点がいったのだ。
このまま食べるのはもったいない。ならば、戦えるくらいまでには回復させて、狩るか殺されるかの鬼ごっこをして遊ぶのもいいだろう。レウウィスはヘルガを解放し、その身体を肩に乗せた。ヘルガは一瞬驚きの声を上げたが、すぐにおとなしくなる。
「どうして……?」
人間の女は震える声で問いかけた。レウウィスの言葉が彼女の心に重くのしかかる。彼女は自分がただの獲物ではなく、彼の興味を引く存在であることを理解した。しかし、それが彼女にとって何の救いにもならないことも分かっていた。
レウウィスは一瞬立ち止まり、彼女を見つめた。ヘルガにはレウウィスがどんな表情をしていたのか見ることができなかった。夕日を背にした彼が、とても怖かったのだ。
「君は運がいい」
レウウィスは微笑みながら答えた。その言葉に人間は一瞬だけ希望を見出したが、すぐにその希望は打ち砕かれた。彼の目には冷酷な光が宿っていた。
「君を回復させて、再び戦う機会を与える。それが私の楽しみだ」
その声はどこまでも穏やかだったが、同時に恐ろしいものを感じさせた。人間は絶望に顔を歪ませた。レウウィスは無言のまま、人間を連れて歩き出した。
しばらく歩くと、木に繋がれている馬が見えてきた。いや、馬のような鬼がいた。
人間は馬に乗せられると、手綱のようなものを握らされた。そして、馬が走り出したのだ。
人間は涙を流しながら、「ひっく、ひっく」と嗚咽を漏らす。
「……」
レウウィスは無言で馬を駆る。その速さに、人間は何度か振り落とされようとすると、レウウィスは人間の髪の毛を引っ張り、落ちるなと命令していた。
彼女の目線の先には木で造られた門があった。その門の扉には何か文字が書かれているようだが、距離がありすぎてよく見えない。
「着いたよ」
レウウィスはヘルガの乗る馬のスピードを緩めると、彼女に告げる。彼女は、やっと到着したと安堵するが、その顔はすぐに強張る。レウウィスは、彼女の腕をつかみ、強引に降ろしてしまう。
地面に降ろされると、人間の足に激痛が走る。ここで、初めて骨折していたことに気付く。ヘルガは思わずしゃがみ込む。そんな彼女をレウウィスは冷たい目で見下ろしていた。
痛みに耐えながら立ち上がると、目の前の景色に彼女は、唖然とした。一際大きく壮麗な城だった。その姿はあまりに圧倒的で、彼女の心に一瞬の恐怖を刻んだ。
邸宅の外壁は白い石で作られており、太陽の光を受けて輝いている。その高さは空を突き刺すようにそびえ立ち、遠くからでも一目でそれと分かる威厳を放っていた。塔の先端には旗が揺れており、風にたなびくその姿は城の権力と権威を象徴しているようだった。
「行こうか」
レウウィスに荷物のように持ち上げられ、黒い外套で包まれたまま抱きかかえられる。まるで荷物のように抱えられた彼女は、なす術もなく邸宅へと連れていかれる。レウウィスの城には、従者の鬼たちが働いている。
彼らは城の維持管理を行い、主人であるレウウィスに忠実に仕えていた。
今を生きる鬼たちは、生きた人間を見たことがあるものは滅多にいないのだ。特に、食用児が城内にいることが知られると騒ぎになる可能性があったため、レウウィスは彼女を隠しながら連れて行くことにしたのだ。
彼女は包まれながら、何とか逃げ出せないかと思いながらも、外套によって視界を奪われているため、どのような環境にいるのか知る術がなかった。レウウィスはある塔の階段を上り、大きな螺旋状の廊下を進んでいく。しばらくして、扉を開ける音が聞こえ、室内に入る気配を感じた。そして、彼女はどこかへ放り投げられ、そのまま倒れ込んだ。
その衝撃が怪我をしている部分を刺激し、彼女は小さく悲鳴を上げる。レウウィスは部屋の中に入り、扉の鍵をかける。部屋の中には、ベッドや椅子などが置かれ、一見すると誰かの部屋のように思えるが、感じたのは不気味さであった。
「あぁ、すまないね」
優しい口調で話しかけてくる鬼に対して、彼女は無言のまま敵意を向ける。男は困ったような表情をする。表情は仮面でみえないのだが、ヘルガはそんな気がしたのだ。
「君に危害を加えるつもりはないんだ。君が大人しくしてくれるなら、だけどね」
そう言って彼は両手を上げた。それは、武器を持っていないことを示す行動だったが、それがかえって不気味に思えた。
「私の名はレウウィス。君は?」
「…………」
無言を貫くヘルガに対し、レウウィスと名乗った鬼はヘルガを持ち上げ、埃舞うベッドの上にそっと置いた。
突然の行動に、ヘルガは驚きと共に反射的に体を丸め防御姿勢をとった。 その様子を見下ろしながら、レウウィスは微笑んでいた。その声色は優しく、言葉はどこまでも丁寧だった。
「ここは私の住まいだ。ここには誰も来ないし、何も起こらない。君の傷が癒えるまで、ここでゆっくり過ごすといい」
レウウィスをそういいながら、木箱を指さした。
( なぜ、こんな回りくどいことをするの? 狙いは何なの?)
ヘルガはその言葉を聞き、レウウィスの顔を見上げた。だが、その表情は見えない。 レウウィスは踵を返すと、部屋から出ていく。 レウウィスが踵を返して部屋を出て行った後、重い扉が閉まる音が響いた。
ヘルガはその音に少し身を震わせたが、すぐに冷静さを取り戻した。彼女はベッドの上に座り込み、周囲を見回した。 ベッドの傍には小さなテーブルがあり、その上には水差しとコップが置かれていた。彼女は少しずつ体を動かし、痛みを感じながらもなんとか立ち上がった。部屋の中を歩き回り、扉を確認したが、全てがしっかりと閉じられていた。逃げ出す方法を考えなければならなかったが、今はどうすることもできない状況だった。
「まずは、手当てをしなくちゃ……」
ヘルガは木箱のふたを外す。その中には、清潔な布、包帯などが用意されていた。彼女は、骨折箇所に応急処置を施し包帯を巻く。たが、痛みは引かなかった。そこでどこで手に入れたか、わからなったが鎮痛剤のようなものと薬草まで入っていたが、薬草がどのような効能があるかわからないため、農園で見覚えがある鎮痛剤を水で流し込んだ。
「腕も痛めていたのね、気が付かなかったわ」
彼女は自分の体を見ながら、そう呟いた。その時、彼女は初めて自分の服が切り裂かれ、血だらけになっていることに気が付いた。そのせいもあって、自分の怪我に意識がいっていなかったのかもしれない。彼女は服を脱ぎ、傷の状態を確認しようとした。傷は深く、包帯でしっかりと巻いてもまだ痛みが引かない。
ヘルガは耐えるように深呼吸をし、再び包帯を巻き直した。口と一本の腕の止血を終えると、ベッドに倒れこんだ。疲労が全身に押し寄せ、まぶたが重たくなる。しかし、しばらくして扉の向こうから物音が聞こえた瞬間、彼女の意識は再び鋭く冴え渡った。
ヘルガは目を開け、耳を澄ませた。誰かが近づいてくるのだろうか。彼女の心臓は再び激しく鼓動し始めた。次に扉が開かれる時、何が待ち受けているのか分からないまま、彼女は緊張の中でその瞬間を迎えた。
扉がゆっくりと開き、金属が擦れる音が重々しく響いた。冷たい空気が部屋に流れ込み、ヘルガの背中に鳥肌が立つ。そして現れたのは、レウウィスだった。
ヘルガは慌ててベッドのシーツを引き寄せ、体を隠した。包帯以外に身を覆うものがない彼女は、警戒しながらレウウィスを見上げた。彼は片手にトレーを持っており、その上には食べ物と水が載っている。
「君のために食事を持ってきたよ。倒れられても困るのでな」
レウウィスはトレーをテーブルの上に置いた。その仕草には余裕が感じられる。ヘルガは彼の言葉を疑いつつも、空腹に耐えかねて一口だけ食べ物に手を伸ばした。
「鬼と人間が食べるものの違いなんぞ、人肉以外何ら変わらん――もっとも、君にとってはそれも些細な違いにすぎないだろうがね」
その言葉がヘルガの耳に届いた瞬間、彼女はスプーンを持つ手を止めた。警戒心が再び顔を覗かせる。皿の上には豆と野菜スープが置かれており、スプーンが脇に添えられている。そのスープには油の膜が薄く広がり、刻まれた豆や柔らかな野菜が浮かんでいた。
この食べ物に毒が入っていない保証なんてない――そう思いつつも、空腹が理性を蝕むようだった。
ヘルガは恐る恐るスプーンを手に取り、スープを一掬いした。その味は孤児院で食べたものよりも優しい味がした。柔らかな穀物の舌触りとともに、ほのかな温もりが彼女の体に染み渡る。
しばらくの間、ヘルガはスープを口に運ぶ音以外、部屋には何も響かなかった。彼女は警戒心を抱きつつも、その空腹を満たすために食べることをやめなかった。
レウウィスは静かに椅子に腰を下ろし、彼女をじっと見つめていた。その視線には何かを探るような鋭さがありながらも、どこか興味深げでもあった。
「驚いたよ」
彼はふと口を開いた。
「君のような食用児が、ここまで逃げ延びてきたとはね。それも、農園の目をかいくぐって……」
ヘルガはスプーンを持つ手を止め、鋭い目つきで彼を睨んだ。その視線に、レウウィスは笑みを深めた。
「怒らないでくれ。むしろ感心しているんだ。君のそのしぶとさ、そして意志の強さにね」
その目はまるで実験動物を観察するかのようで、ヘルガは居心地の悪さを感じた。彼女はすぐに顔を背け、再びシーツを引き寄せて体を隠した。しかし、そんなことでは隠せるわけがないのだが、今の彼女にできることはそれしかなかった。
レウウィスは彼女の動作に気づいたのか気づかなかったのか、再び椅子に深く腰をかけ、レウウィスは本を開いたが、その視線はほとんどヘルガに向けられているようだった。
その視線が突き刺さるようで、体が硬直した。しかし、食事を前にした空腹は恐怖すらもかき消していく。
「あの、食事と薬をありがとう……」
ヘルガの声はかすかだったが、レウウィスは足を止めて振り返った。 お礼を言うべきだとおもったが、レウウィスの顔を見ることができず、うつむきながら小声でつぶやいた。だが、彼の返答は予想とは違ったものだった。
「礼には及ばないさ。必要だから与えただけだ。」
ヘルガは思わず顔を上げ、彼を見た。レウウィスはいつも通りの感情のない目つきをしていた。ヘルガはその冷たい目に怯えつつ、それでも聞き返さずにはいられなかった。
「私は……、あなたたちにとって食糧なんですよね?」
「そうだ。君の血は芳しい香りがするよ」
レウウィスは笑みを浮かべることなく、まっすぐとヘルガを見つめたまま、顔を近づけた。ヘルガは咄嵯に身を引き、壁に背中が当たった。そして、無意識のうちに自分の首元を押さえていた。
「私を食べても美味しくないですよ」
恐怖心を隠すためにヘルガは皮肉交じりに答えたが、それが強がりであることは明らかだった。レウウィスはヘルガの言葉を聞いて、愉快そうに笑い声を上げた。
「美味かどうかは、試してみないとわからないだろう」
ヘルガの切り傷のある頬に舌を這わせ、その傷口に唾液を擦り付けた。 ヘルガは、突然の感触に体を震わせた。 彼女はその気持ち悪さに眉をひそめ、耐えるように唇を噛み締めた。
レウウィスはしばらく傷口を弄ぶと、ようやく満足したのかその行為を止めた。
「こんなにも甘く感じるのは初めてだよ」
彼の言葉はどこか満足げだったが、ヘルガの耳には、まるで毒のように底知れない狂気が染み込んでいた。
レウウィスは静かに身を引いた。しかし、その視線だけは、なおもヘルガの内側を穿つように突き刺さった。彼女は震える手で自分の首を押さえながら、ただその場に立ち尽くすしかなかった。
時は経ち――。
体はすっかり治ってしまった。包帯を外すとき、痛みは驚くほど感じられなかった。それどころか、体の調子は以前よりも良くなっていた。
だが、その事実はヘルガにとって、まるで枷のように重く感じられた。自分はきっと、鬼の糧として生かされているだけなのだ。
彼女はベッドの上で仰向けになり、天井をじっと見上げた。
どれだけこの生活が続くのだろうか。いずれ飽きられ、処分されるのも時間の問題だろう。だが、ヘルガには妙な確信があった。彼が自分を処分するとは到底思えなかった。
ヘルガがこの場所に来て、既に二か月が経過していた。
この部屋には窓がなく、一日中薄暗い光だけが漂っている。時間の感覚はとうに失われ、今が昼なのか夜なのかすらわからない。
「部屋の外に出るな」
――そう告げられて以来、ヘルガは一歩も外に出ていない。ここがどこなのかも分からないままだ。
トイレはあるが、風呂はない。
ヘルガは汗ばむ体の不快さを感じながらも、動く気力を失い、ただ横たわっていた。
目を覚ますと、レウウィスが部屋に立っていることがよくあった。
彼はほとんど何も言わず、ただヘルガを見下ろしているだけだ。その視線を感じている間、ヘルガはまるで時間が止まったかのように身動きが取れなくなる。
今日も同じだ――ヘルガは恐怖と不安に押しつぶされながら、ただ耐え続けた。
「……今日は?」
ヘルガの声が震えた。
だが、レウウィスは何も答えず、ただじっとヘルガを一睨みして去って行った。その瞬間、ヘルガは安堵と虚しさの入り混じった感情を抱えた。しかし、その安堵を打ち消すように、彼が見せた一瞬の笑みが胸に焼き付いた。ヘルガはその笑みに、自分がただの獲物に過ぎないことを実感させられた。彼の前では、常に恐怖と不安がまとわりつく。
「逃れられない……」
ヘルガは自分に言い聞かせるように呟いた。
農園から逃げてきたはずだった。けれど、この世界から逃れることはできないのだ――どこまで行っても、怪物に縛られる運命なのだ。
ヘルガの胸に、再び絶望が渦巻いた。
**
翌日、レウウィスが再び姿を現したとき、ヘルガは少しだけ態度を変えてみることにした。これまで怯えるばかりで、自分から何かを尋ねたり行動したりすることはほとんどなかった。だが、何もしないままでは状況は変わらない。
「そ、その……なぜ私を助けてくれたのですか?それに、あなたは農園の職員ではありませんよね?」
震える声で、それでも精一杯の勇気を振り絞って問いかけた。
部屋の壁には、ささやかなランタンが掛かっている。ランタンの中には、小さな植物が閉じ込められており、その葉先が淡い緑色の光を放っていた。光は微かに脈打ち、生きている証を静かに主張している。塔の暗い空間では、このランタンの光だけが頼りだった。
レウウィスは一瞬だけ目を細めた。彼の無表情に、微かな興味の色が混ざったように見える。ランタンの光が彼の瞳を照らし、植物の柔らかな輝きが彼の顔に不規則な影を落とした。その表情は冷たいが、その瞳の奥に潜む何かがヘルガの注意を引きつけた。
静寂が流れる。ヘルガは不安に耐え切れず視線をそらしそうになったが、相手の目を見据えた。その瞬間、彼の表情にほんの一瞬だけ驚きが走った気がした。もしかすると、彼はヘルガが農園の関係者であるとは知らずに助けたのかもしれない。その考えが、ほんのわずかに希望の芽を生じさせる。
「理由か?」
彼は低く呟き、ゆっくりとヘルガの前に歩み寄った。足音は静まり返った塔の中でやけに大きく響いた。その動きには一切の急かしさがなく、まるで相手の恐怖を楽しんでいるかのようだった。
「君こそ、農園の飼育補佐と言ったところだろうか?」
ヘルガの心臓が跳ね上がる。「飼育補佐」という言葉が冷たく響き渡り、自分が農園で過ごした日々の記憶を否応なく引きずり出す。
「あぁ、やめた方がいい。今は農園の連中が外を嗅ぎ回っているのでね」
落ち着き払った声だったが、その言葉の内容はヘルガの心を一気に揺るがせた。思わず足がすくみ、その場に座り込む。彼の言葉を反芻する。農園が自分を追っている――その事実が、全身の力を奪い去った。
「この世界に、人間の居場所なんてあるわけがない。昔の話だ」
レウウィスの声は静かだったが、その一言一言が心を刺すように鋭かった。
ヘルガは首を横に振り、歯を食いしばるようにして反論した。
「いいえ、知らないのよ。私たちは、そのような知識さえ与えられないの。もしかしたら、人間が暮らす集落くらいはあるんじゃないかと思っていたんだけど、あなたの言い分だとなさそうね」
ヘルガの言葉に、レウウィスは視線をそらし、小さくつぶやいた。
「そうか……知らなかったのか」
彼の声には、どこか遠い記憶を探るような響きが混ざっていた。
彼は何かを隠している――そんな疑念が、ヘルガの心に新たな種を蒔いた。そして、農園を支配する奴らは、どんな階級になろうと、食用児に有益な情報を与えてはいなかったと。
意を決して彼に、問い詰める。
「もしかして……あなたも農園と関わりがあるの?」
彼は短く息を吐き出し、平然とした声で返した。
「関わりはない。その証拠に私は農園を管理していないからだ」
だが、彼の声にはどこか矛盾のない響きがあり、意図的に作り出された隙を一切感じさせない。
ヘルガは強く唇を噛みしめながら、目の前の男の姿に目を凝らした。
塔の中は静寂に包まれ、ただランタンの光が二人の間で穏やかに揺れていた。その光が消えたとき、自分が何を信じるべきなのか――ヘルガの心の中に、答えはまだ見つかっていなかった。