第一部 末路
数日間、二人は見張り役の鬼たちの巡回パターンを観察し、隙間を見つけるために慎重に計画を立てた。彼らが巡回ルートを確認するたびに、ヘルガとシャーリーは木の上や茂みの中に隠れ、その動きをじっと見守った。
「彼らの巡回には一定のリズムがあるわ」とヘルガが言った。「次の巡回までの時間をうまく使えば、森の外に出るチャンスがあるかもしれない」
彼女は地面に図を描き、作戦の説明を始めた。シャーリーは慎重に耳を傾け、計画に自分の意見を加えながら一緒に考えた。
「このルートが一番安全そうね。見張りの鬼たちが最も遠い位置にいる時間を狙って進もう」とシャーリーは指差しながら言った。
ヘルガは地図を見つめ、深くうなずいた。
「わかったわ。夜明け前の薄明かりの時に出発するのがいいと思う」
「ルートは決まった、問題は……」
とシャーリーが言うと、彼女は顔を上げた。
「どうやって、この耳の発信機を誤魔化すかだね」とヘルガが答える。すると、ヘルガは自分の左耳に手を当てて見せた。
この発信機をどうにかしなければ、追跡は逃れられないことは、二人にはわかっていた。
「耳を切り落とさなくても、発信機を壊せばいいわ。ヘルガ、私に任せてこう見えて私シスター時代は、赤ちゃんの耳に発信機を付けるのが仕事だったのよ」
と、自信満々にシャーリーは胸を張って言った。ヘルガは思わず吹き出しそうになる。
「それは凄いわね。それなら、任せるわ」と彼女は苦笑いをしながら答えた。けれど、今壊してしまえば、鬼たちに気づかれてしまう可能性があると、ヘルガは心配そうに付け加えた。
「そうね、タイミングが重要だわ」とシャーリーは考え込むように言った。「今夜、鬼たちが最も遠い位置にいるときに発信機を壊そう。そうすれば、彼らの反応が遅れるはずよ」
ヘルガは頷き、「分かったわ。準備は万全にしておきましょう」と応じた。夜が深まるにつれて、二人は静かに準備を整えた。ヘルガは必要な食料や道具をまとめ、無駄なく迅速に動けるように身軽な状態でいつでも逃げられるように準備していた。
「本当は、消毒をしなくちゃいけないけれど仕方ないね」とシャーリーは言いながら、ナイフを火で炙り、沸騰した水を用意していた。「麻酔もないから、少し痛いかもしれないけれど、我慢してね。
時間が経つにつれ、二人の緊張感が増していった。「今よ」とシャーリーがささやくと、ヘルガは息を止め、目をつむり口に布を噛んで、痛みを抑えようとした。シャーリーは手早く、しかし丁寧にナイフを耳に突き刺す。カリッと音がして慎重に発信機を耳から取り出す。
ヘルガの発信機も外すと、傷口を洗い流し止血する。
「じゃあ、ヘルガ私のもよろしくね」
ヘルガは、医療知識を与えてくれた、シスター養成学校の教育係に感謝した。こうして、脱走の準備ができるのも農園側が彼女らに知識を与えたからだ。
シャーリーよりヘルガの手際は悪かったが、なんとか発信機を耳から切開できた。シャーリーはその間、痛みをこらえながらも冷静に指示を出し続けた。
「よくやったわ、ヘルガ。ありがとう」とシャーリーは微笑んだ。
ヘルガは深く息を吐き出し、緊張から解放された。
「いいえ、シャーリー。あなたの指示がなければできなかったわ」
夜が明ける直前、ヘルガとシャーリーは静かに洞窟を後にした。緊張した面持ちで、彼女たちは計画通りのルートをたどりながら、慎重に歩を進めた。冷たい朝の空気が肌を刺す中、彼女たちの心には不安と希望が入り混じっていた。
「今よ」とシャーリーがささやき、二人は一斉に走り出した。しかし、ここで予想外のことが起こる。『楽園』に狩りに来た知性の鬼たちが現れたのだ。彼らの目は鋭く、獲物を見逃さない。
ヘルガとシャーリーは立ち止まり、息を潜めて木々の間に隠れた。鬼たちはその周囲を警戒しながら歩き回っていた。
「どうしよう……」とヘルガは囁いた。
「静かにして。彼らが通り過ぎるまで待つしかないわ」とシャーリーは冷静に答えた。
二人は息を殺し、鬼たちの動きを見守った。やがて鬼たちは興味を失い、別の方向へと移動し始めた。
「いつもなら、こんな夜遅くに彼らが来ることはないはずだけど……」
「確かに。何か異常が起きているのかもしれないわ。油断せずに注意深く進もう」
二人は再び息を潜めながら歩き始めた。森の中は静まり返り、足音が響かないように慎重に一歩一歩を踏みしめた。彼女たちの心には不安が広がっていたが、それでも希望を捨てずに前進を続けた。当初の計画通り、見張りの鬼たちの巡回が最も少ない瞬間を狙って抜け出した。あともう少し進めば、出口が見えるはずだった。
(ここさえ抜ければ、後は逃げ切れる)
その時だった。突然、背後の茂みが大きく揺れた音に、二人は飛び上がるほど驚いた。振り返るとそこには、黒いコートに身を包んだ鬼の姿があった。
(どうする……?)
鬼たちは鋭い目で二人を見つめ、徐々に近づいてくる。シャーリーは鬼を見つめ、瞬間的に何かを決断したようだった。
「ヘルガ、やるしかない」とシャーリーは低い声で叫び、鬼に向かって飛び出した。彼女は手に持っていたナイフをしっかり握りしめ、全力で鬼に立ち向かった。
ヘルガも追随し、シャーリーに続いて鬼に突進した。二人は連携して鬼に攻撃を仕掛け、なんとか鬼の攻撃をかわしながら戦った。シャーリーは素早い動きで鬼の注意を引きつけ、その隙にヘルガがナイフを振り下ろした。
鬼は驚いた表情を浮かべ、一瞬の隙を突かれて倒れた。二人は息を切らしながらも、勝利の瞬間を迎えた。
「やったわ、シャーリー!」
「いえ、まだよ。目をささないと」シャーリーは鬼の目を狙い、ナイフを振り下ろした。鬼は痛みと驚きで身をよじり、動きを止めた。ヘルガは急いでシャーリーの手を取り、周囲の状況を確認した。
「死体が見つかれば、時期追手がかかる。早く行こう」
と、シャーリーは言った。二人は急いでその場を離れた高い塀をよじ登り。ついに、脱出に成功したのだ。
彼女たちは森の奥へと進んでいった。木々の間をすり抜け、時に枝をくぐり抜けながら、息をひそめながら駆け抜けた。彼女たちが通り過ぎた後には、無数の葉っぱや草などが舞い落ちていく。鬼たちに気付かれないよう、慎重に行動しなければならなかった。心臓の鼓動が高鳴っていくのを感じながら、ヘルガとシャーリーはただひたすら前に向かって進み続けた。
「見つけたわ、川よ」とシャーリーが声を上げた。
目の前に広がる川は透明で清らかに流れ、太陽の光が水面に反射してキラキラと輝いているのである。周囲には背の高い木々が生い茂り、その葉っぱが風に揺れる音が静かに響いていた。川岸には小さな岩や砂利が散らばり、流れる水が岩に当たるたびに、小さな波紋が広がっていく。川の流れは穏やかで、時折、魚が跳ねる音が聞こえてきた。川の両岸には色とりどりの花が咲き、その香りが風に乗って二人の鼻をくすぐっていたのである。
「なんて美しい場所なの」とヘルガがつぶやくのである。
シャーリーは静かに頷きながら、「そうね。まずは返り血をどうにかしないと」と言った。二人は、川に身を投げ、冷たい水が彼女たちの体を包み込むのを感じた。水の流れが返り血を洗い流し、彼女たちの体を清めていく。二人はお互いの体を慎重に体を洗った。
その後川の水を手ですくって口に運んだ。ヘルガは疲れ切った様子で座り込み、水を飲み終えた後にため息をついた。
シャーリーはヘルガに視線を向け、何かを考え込んでるとポケットに手を突っ込んだ。
「シャーリー、それ発信機じゃ……」
シャーリーは発信機を流れのはやい場所に放り投げた。
「こうすれば、発信機が動き続けて、鬼たちを混乱させることができるわ」
とシャーリーは言うのだった。
「ついでに川に血も流れていくから、追跡も難しくなるはずよ」
シャーリーはニカッと笑い、その目が一瞬で輝きを増した。口元が広がり、白い歯がちらりと見える。その笑顔には、自信といたずらっぽさが入り混じっているのが分かる。彼女は立ち上がり、大きく伸びをした。彼女の背中まで届くまっすぐな茶色の髪の毛から滴る雫が、きらめきを放ちながら落ちて地面に染みこんでいった。
彼女は両手を大きく広げて深呼吸し、新鮮な空気を思いっきり吸いこんだ。空を覆い尽くす分厚い雲のせいで月明かりはなく、夜の森は不気味さを増すばかりだった。
シャーリーは周囲を警戒するように見回し、それから自分の体についた汚れを確認し始めた。彼女の服装はぼろ布のような服を身に着けており、あちこちが破けてしまっていてとてもじゃないが人目にさらすことはできない姿だった。
「この辺りに隠れられるところはない?」
とヘルガは聞いた。彼女は、疲労と寒さに耐えきれず、体が震えていた。
彼女は今にも倒れてしまいそうなくらい弱っている。耳を切開したのはヘルガにとって大きな足かせとなった。シャーリーは、あたりを見回しながら歩き続け、木に近づいていった。シャーリーが木の根元に手をかけると、その木は大きく揺れて地面が少し陥没したのである。
「ここに隠れましょう」
とシャーリーが言った。
二人は木の後ろに回り、地面から盛り上がった大きな根っこの陰に身を隠した。地面がぬかるんでいて、泥まみれになるのは気にならなかった。ヘルガの体は、限界まで追いつめられていたのだ。彼女はシャーリーの肩に頭を預け、荒い息を吐きながら眠ろうとしていた。
「ヘルガ? ヘルガーー!」
とシャーリーは必死に声をかけるが、反応がない。
「……うぅ」
ヘルガはかすかに声を出した後、静かに眠りについてしまった。
シャーリーは不安そうな表情で彼女を見つめている。シャーリーは自分の胸に手を当て、心臓の音を聞きながら考えた。
(熱かしら、頭がぼーっとする……)
「ヘルガ!起きなさい。すぐに逃げるわよ!」
シャーリーの声が聞こえると、ヘルガは急いで目を覚ました。いつの間にか眠りこけてしまっていたのだ。シャーリーは彼女の頬を叩き、無理やり起こした。そのおかげで、ヘルガはなんとか目を開けることができた。
二人は立ち上がって周囲を確認するが、特に異変はなかった。シャーリーは胸をなでおろすと、「ヘルガ、移動しましょう」と言い、二人は川から離れた。シャーリーはヘルガを背負いながら進んでいった。
夜の森はますます不気味さを増し、シャーリーは一瞬一瞬を見逃さないように警戒していた。ヘルガはシャーリーの背中で安らぐが、その体はまだ震えている。
「ここで少し休みましょうか」とシャーリーが言い、二人は大きな木の陰に身を潜めた。シャーリーはヘルガの体をそっと地面に横たえ、彼女の顔をじっと見つめた。「大丈夫、もう少しだけ頑張って」と優しく言い聞かせて、頭を撫で続けたのだった。
ヘルガの体力は回復した。感染の類ではなくてよかったと、シャーリーは胸をなでおろす。彼女らは生きるために森の中を移動しながら狩りをし始めた。猿や鹿、魚もいればトカゲや蛙など、さまざまな獲物が森の中で彼女たちの生活を支えてくれる。
シャーリーは手際よく罠を仕掛けたり、ヘルガと協力して川で魚を捕まえたりと、日々の生活を送っていた。
「今日は鹿の痕跡を見つけたわ」とシャーリーが言った。
ヘルガはシャーリーの言葉にうなずき、「それなら今日の夕飯は豪華になりそうね」と微笑んだ。彼女たちの狩りは毎日が順調に行えるわけではなかった。時に、鬼に襲われながらも生き延びる日々が続いた。彼女たちを襲うのは、お面や知性のある鬼ではなく、四足歩行の鬼がほとんどだった。彼女たちは、四足歩行で言葉も介せない鬼たちを「野良鬼」と呼んでいた。
野良鬼たちは無差別に襲いかかってくるため、常に警戒を怠ることはできなかった。ある日、シャーリーが罠をチェックしていると、遠くから草むらの中で動く影を見つけた。野良鬼だと悟ったシャーリーはすぐに身を低くし、ヘルガに静かに合図を送った。
「ヘルガ、来るわ。気をつけて」
ヘルガはすぐにシャーリーの側に駆け寄り、二人で慎重に身を隠した。野良鬼が近づいてくる音が聞こえる中、二人は息を潜めて待った。やがて野良鬼が通り過ぎ、再び静けさが戻った。
「よし、今がチャンス」とシャーリーは低くつぶやいた。
二人は素早く立ち上がり、罠にかかった獲物を手際よく処理した。その日の夕食には、獲れたての鹿肉が加わることになった。
「やったわね、これでしばらくは食べ物に困らないわ」とヘルガは嬉しそうに言った。
シャーリーも満足そうに笑みを浮かべ、彼女たちの新しい日常が少しずつ形作られていくのを感じた。
彼女たちは絶望していた。鬼と鉢あってしまったのだ。しかも知性のある鬼で複数人だった。
「おい!人間だ!しかも首ナンバーがある!GF(グレイス=フィールド)に違いない!」鬼の一人が叫ぶと、シャーリーたちに一気に緊張感が高まった。
「殺せ!」
「いや、生け捕りにするんだっ!!」と他の鬼たちも声を上げた。
シャーリーとヘルガは背中合わせに陣取り、それぞれのナイフを構えた。相手は6人、シャーリーたちよりも体格が大きい。
(これは……無理かもしれないわ)
シャーリーは冷や汗を流しながら思った。
鬼が一歩ずつ歩み寄ってきた時、突然銃声が鳴り響いた。撃ったのは、シャーリーだった。その弾は鬼の頭を撃ち抜いた。仲間がやられたことで動揺した隙を狙い、ヘルガが走り出す。
しかし、もう一人の鬼に阻まれてしまった。
ヘルガはナイフを構え、相手の出方をうかがう。だが次の瞬間、彼女は鬼に首を掴まれてしまい、その体が宙に浮く。必死にもがくが、彼女の体はびくりともしない。
その時、シャーリーがもう一体の鬼に向けて発砲する。鬼はその銃弾をかわすことができず、腕を負傷した。
ヘルガは鬼の手から逃れ、地面に着地すると迷わずヘルガは、急いで銃を構える。弾は、命中したが致命傷ではない。
(まずい)
そう思った時には遅かった。ヘルガは、組み伏せられてしまった。
「おい、捕まえたぞっ!」
ヘルガは必死に抵抗するが、体格が違いすぎるため抜け出せない。
「シャーリー……!」
ヘルガは助けを求めるように彼女の名を呼ぶ。
シャーリーはナイフを構えた。そして、鬼に飛びかかる。その動きは、まるで獣だ。食人鬼の爪とナイフが激しくぶつかり合う。シャーリーは、そのまま押し切ると食人鬼の首を切りつけ、目を狙う。食人鬼は倒れた。
「いたぞっ! 追え!」
その声が聞こえた瞬間、ヘルガとシャーリーは走り出した。
後ろからは、複数の足音が聞こえる。
二人は、木々の間を縫うようにして走る。
「捕まったら終わりだ」
「わかってるわ」
ヘルガとシャーリーは、互いに顔を見合わせる。
言葉は交わさずとも、二手に分かれた。それだけで意思疎通ができるほど、信頼関係が築かれていた。
ヘルガが銃でおびき寄せ、シャーリーがナイフで仕留める。
野良鬼との戦闘で何度も繰り返してきたことだ。ヘルガとルーシャがいれば、怖いものなどなかった。彼女たちは冷静に状況を判断する。鬼の数は残り二人、一方は武器を持っていない。つまり、先に狙うべきなのは、無防備な方である。
ヘルガは木の陰に隠れると、慎重に狙いを定めて発砲した。
弾は見事に命中した。鬼は苦痛に顔を歪めている。ヘルガは鬼の頭部を狙って引き金を引いた。そして、すぐに振り返りもう一匹を探す。
鬼の姿は見えない。おそらく、木の上か茂みの中にいるのだろう。ヘルガは警戒しながらゆっくりと進む。
ヘルガは気配を感じ取った。上を見ると、鬼が彼女に向かって飛び降りてくるところだった。ヘルガは咄嵯に体を反らせ回避した。そして―シャーリーが引き金を抜いた。静寂を破るかのように、銃声が森の中に鳴り響いた。
「バンッ!」
---
鬼は力なく倒れ、森の中に再び静寂が戻った。
「これで、何匹? いや何人?まあどっちでもいいけど」 彼女は、穴倉の中で火に温まりながら鬼の肉を食べている。
「ヘルガも食べる?」 そう言って、シャーリーは自分の食べかけの鬼の肉を差し出す。
はじめは断っていたヘルガだったが、鬼に襲われるばかりで腹が減っていたこともあり、結局それを食べた。
「おいしい?」 「うん……」 ヘルガは素直に答えた。最も、肉は堅く筋肉質でとても美味しいとは言えない。だが、空腹は最高のスパイスという言葉もある通り、今はとにかく何かを口に入れたかったのだ。
「よかった。私もね、初めて食べた時は吐き気が止まらなかったの。でも、慣れれば意外にいけるものよ」 そう言って、シャーリーは笑う。彼女は鬼の肉を食べることに抵抗がないらしい。生きるためだと割り切っているのだろうか。
だが、自分もそうしなければ生きられない。ヘルガは鬼の肉に齧り付いたが、うまく噛み切れず飲み込めない。その様子を見て、シャーリーは大笑いした。
「ほら貸してみて」 ヘルガは、それを渡す。 シャーリーは鬼の肉を口に入れる。そして、咀嚼し喉を鳴らす。 「ちゃんと噛まないからそうなるのよ」 シャーリーは呆れたような口調で言う。
その言葉を聞きながら、ヘルガは思う。彼女はどうしてこんなにも冷静なのだろう。
「ねぇシャーリー。わたしここ数日のあなたを見て思うけどあなた、武術のスコアが低いなんて嘘でしょ?」 ヘルガがそういうと、シャーリーは驚いた顔をする。 図星だったようだ。
「どうしてそう思ったの?」 「だって、あなたの動きは洗練されている。少なくともわたしよりは」 「……それは、あなたの武器が銃だからじゃないの」 「ナイフを使って勝つなんて、わたしじゃとてもできない」 「……」 「それに、あなたはさっきの知性の食人鬼に対して臆することなく立ち向かえる度胸がある。並大抵のことでは、できないと思う。それに、あなたは……」
「わかった。降参。私の負けだよ。やっぱり、ヘルガには敵わないなぁ……」 シャーリーは両手を上げて言った。
「別に、隠していたわけでもないんだけどね。虫のような鬼と対峙して初めて分かったんだ。対人だとねどうしても怖くてできないって。意外と人間臭いところもあったんだなぁって」
「……シャーリー、人間臭いって。あなたは『ヒト』よ」 「ふっ、そうだね」 シャーリーは少し寂しげに笑った。
「そろそろ寝ようか」 「そうね」 ヘルガは毛布を体に巻き付ける。穴ぐらの中は寒かった。
「明日も早いから早く休もう。見張りは私がやるわ」 「ありがとう。辛かったら起こしてね交代する」 おやすみの挨拶を交わし、シャーリーは目を閉じた。ヘルガは焚き火の炎をじっと見つめていた。 ゆらめく炎を見ると、不思議と心が落ち着く。
――今日も生き延びた。生きていられる。そんな安堵感が湧いてくる。 この生活も、いつまで続くのかわからない。 もしかしたら、ずっとこのままかもしれない。 それでも、人間として生きていたい。 たとえ、それが叶うことのない願いだとしても……。
「だめ、暗くなったら」 ヘルガは大きく息を吸うと、長く吐き出す。土壁に寄り掛かりながらも、銃を手放すことはない。 「よし!大丈夫だ!」 ヘルガは再び銃を構え警戒態勢に入る。神経を研ぎ澄ませながら周囲に目を配らせる。
しばらくして、眠くなってきたのでシャーリーと交代しようと肩を揺らしたが、彼女は既にぐっすり眠っているようで起きる気配はない。 仕方がないので、ヘルガは自分が起きていることにした。
今までは、シャーリーに頼りすぎてしまっている部分がある。 これから先、二人だけで生きていくためにはもっと強くならなければならない。
「うーん……ううっ……」 シャーリーが寝返りを打つ。 ヘルガは彼女の方を見る。すると、彼女はうなされていた。悪夢でも見ているのだろうか。苦しそうに眉間にシワを寄せている。
ヘルガは、うなされているシャーリーを見ているうちになんだかいてもたってもいられなくなり、彼女の頭に触れたのだ。 すると、シャーリーの表情が和らぎ穏やかなものになる。
シャーリーはいつも一人で戦っている。 自分と同じぐらいの強さを持っているのに、その強さを誰かのためではなく自分のために使っている。 ヘルガがシャーリーに抱いている感情は、感謝と尊敬だった。
――わたしに、何かできることがあったら何でも言って。絶対に助けられる保証はできないけど、でも、力になりたいの。
彼女はきっと自分のことを友人や仲間とは思っていないだろうけど、それでいいと思った。シャーリーは困っている人がいたら迷わずに手を差し伸べるし、助けを求める人がいる限り見捨てたりはしない。彼女はとても優しい女の子なのだ。
だからこそ、自分も彼女を助けたい。彼女に頼られたいし、役に立ちたいとヘルガは思った。 そう、これはシャーリーに対する恩返しのようなもの。 ただそれだけのこと。それ以上でも以下でもない。
ヘルガとシャーリーは隠れに隠れ続けながら、鬼に見つからないように逃げ続けた。時には野良鬼に見つかってしまい戦闘になりかけたこともあったが、どうにか逃げ延びることができた。しかし問題もあった。何度かの戦闘でついに銃の弾が切れてしまった。これでは、鬼に対抗する術がなくなってしまう。
そこで、鬼たちが使っていた武器を使うことになった。それは、鬼が使う槍である。シャーリーが見つけてきたもので、錆び付いているがなんとか使えそうとのこと。
シャーリーの案により、二人はまず遠距離武器を手に入れることを優先するべきだと判断した。なんとなくで弓矢を作り出し練習してみたところ、これが驚くほどよく当たる。それに、弓ならば弾切れになることはまずないと言ってもいい。さらに、鬼の武器を加工して使えるようにした。鬼の牙を使って矢尻に使った。これでようやく自衛ができる状況になった。しかし、問題は他にもあった。
まず、食糧の問題がある。同じ所に居続けてしまえば、鬼に遭遇することもある。彼女たちは地図もない為、どこが安全であり、知性鬼が住んでいるのか知るすべがないのだ。見つかれば別の場所に移動する必要がある。そのときは、逃げることを最優先としている為、食糧を獲れないことが多くなってきたのだ。
次に、二人の体力の問題もある。いくら身体能力が優れているとはいえ、疲労は溜まっていく。その度に休息をとっていてはきりがなく、いつかは動けなくなる。そうなれば、鬼に見つからずに逃げ続けることは不可能に近い。なので、体力の消耗を抑える方法を考えなければならなかった。
「今日は、ここで野宿しようか」
「うん……」
日が暮れ始めると森から抜けて安全な場所で野営をすることにした。幸い、近くに小川があったおかげで飲み水に困ることはなかった。
「火を起こすね」
焚き火の明かりを頼りに二人は食事をする。今日は、蛇と蛙と小さな木の実だった。
「おいしい……」
「あぁ、そうだな」
シャーリーは、美味しいと言うものの顔色が優れていない。それもそのはず。鬼に見つかったらどうなるか分からない恐怖と緊張感、そして極度の緊張状態による精神的な負担で身体は疲れ果てていた。そんな状態で満足な食事などできるわけがなかった。
だが、食べなければ力が出ない。それに、弱音ばかり吐いている暇はない。とにかく前に進まないと……。
ヘルガは、シャーリーの心情を察しながらも黙って食事を続けていた。
小川で手を洗っていた時、波紋が広がる。気のせいだと思っていたが川から手を離しても水面に広がった波紋が消えることはなかった。ヘルガは、警戒して周囲の様子を伺うが特に変わった様子は見られない。
――何か嫌な予感がする……。
「ねぇ、シャーリー音が……」
耳を澄ませると川の流れる音に混じって足音のようなものが聞こえてくる。
しかも、その音の数が尋常ではない。
「ヘルガ、こっち」
シャーリーは、ヘルガの手を引っ張ると近くにあった洞窟へと逃げ込んだ。
ヘルガたちは岩壁を背にして、息を殺す。心臓の鼓動が速くなるのが分かった。
やがて現れたのは、武装した鬼だった。先頭を歩くのは、大柄で屈強そうな男で手には剣が握られている。彼は、ヘルガたちを見つけると声を上げた。
「見つけたぞ!」
シャーリーが身構えた瞬間、男はシャーリーの首を掴みそのまま地面へ叩きつけたのだ。
「シャーリー!!」
ヘルガは、思わず叫ぶ。しかし、男はお構いなしにシャーリーの首を絞めつける。
「くっ…………」
シャーリーは、苦しそうに顔を歪めた。ヘルガは、助けに入ろうとしたが鬼に阻まれる。
「ようやく、二匹の食用児をみつけた。彼らはこのまま農園の本部に連れ帰る」
男の言う通り、後ろに控えている鬼たちの手には縄が握られていた。
ヘルガは、どうにか突破しようと試みるが、すぐに他の鬼に取り押さえられる。
抵抗するが敵うはずもなく、あっという間に縛り上げられてしまった。そして、鬼たちに担がれ連れて行かれそうになる。
ヘルガは必死に暴れた。
――あんな場所に戻るのは嫌だ!絶対にいや!!
「こんなところで終わってたまるもんですかっ……わたしまだ死ねないんだからッ……」
シャーリーは、首元を掴まれて苦しいのか目に涙を浮かべながらヘルガを見た。
「―――ヘルガッ!!!お願い逃げてぇえーーッ!!」
シャーリーは叫んだ。その叫び声で、我に返ったヘルガは、力を振り絞る。
ヘルガが振り下ろした槍は見事に鬼に命中した。しかし、刃は鬼の皮膚に弾かれてしまい傷一つつけられなかった。それでも、鬼の注意を引くことはできたようだ。その隙を突いてヘルガは鬼の拘束から抜け出すと一目散に距離を取る。
鬼は標的をシャーリーからヘルガに変えて追いかけようとするが、そこに他の鬼が立ち塞がる。
「逃すな!」
一人の鬼がそう命令すると、鬼たちは一斉にヘルガに襲いかかってきた。
ヘルガは槍を構えながら走り出す。相手は人間ではなく、鬼である。遠慮する必要なんてない。むしろ、全力で戦うべきだ。ヘルガは立ち止まると槍を振る。
狙いを定め、一気に突き出すがあっさりと避けられてしまう。だが、それでいい。これは、ただの時間稼ぎに過ぎない。
鬼は避けたことで一瞬だけ隙ができる。そこを見逃さず、ヘルガは懐に入り込むと下腹部に向かって突きを放った。刃は、深々と刺さり鬼の動きを止めることに成功した。すかさず、もう片方の手で持っているナイフを構えると頭部目掛けて投げる。投げたナイフが刺さると鬼はすぐに崩れ落ち、絶命した。それを確認すると、ヘルガは再び走り出した。背後からは、先ほどまで戦っていた鬼が迫ってきている。鬼の目をめがけ土埃を投げかけると視界を奪い怯ませた。
「どこだ?」
木の上で、ヘルガを探していた鬼だったが不意に背後に気配を感じ、慌てて振り返る。しかし、そこには誰もいない。気のせいかと思い再び前を向いたその時、眼前にはヘルガの槍があった。
鬼が気付いた時にはすでに遅く、彼の脳は貫かれると血飛沫を上げながら倒れた。鬼が完全に事切れたのを確認した後、槍を引き抜くとシャーリーを探し始めた。彼女も拘束を逃れ、怪物たちと闘っているのが見える。しかし、数が多い。鬼の数の方が多く、押されているようだった。
このままじゃ二人ともやられるだけだ。そう判断したヘルガは、シャーリーに加勢する。鬼の攻撃をかわしつつ、槍を突き出して仕留めていく。
二人は背中合わせになり、互いの無事を確認し合った。そして、迫りくる鬼を次々と倒していく。やがて、すべての鬼を倒すとヘルガは問いかけた。
「シャーリー、大丈夫?怪我はない?」
「うん、平気よ。あなたも大丈夫そうね」
ヘルガは、安堵したように微笑むと、ふぅと息を吐き空を見上げた。
だが、彼女たちは完全に油断していた。シャーリーの背後には鬼がいたのだ。シャーリーと声をかけたヘルガが見たのは、長く伸びた鬼の爪が彼女の腹部に突き立てられる瞬間だった。彼女は、悲鳴を上げることもできず、そのまま地面へと倒れ込んだ。その様子を見て、ヘルガは絶句する。彼女は口から大量の血を流しており、明らかに致命傷を負っていたからだ。
鬼の手には吸血花が握られている。絶対、人肉になんてさせない!
ヘルガは、鬼を睨みつけると手にしているナイフを逆手に持ち、勢いよく駆け出した。そして、そのまま鬼にナイフを深く差し込むとそのまま持ち上げる。鬼が痛みに苦しみながらも暴れるが、そのまま地面に叩きつけとどめを刺しにいく。
「はぁ……はあ……これで終わりだわ!」
鬼が動かなくなったのを確認するとヘルガは、その場に座り込んだ。
---
しかし、すぐにハッとして立ち上がるとシャーリーの元へ駆け寄った。彼女は、ぐったりとしており、顔色は真っ青になっている。出血の量も多くとても危険な状態だと分かった。一刻を争う事態だ。今すぐ手当てしなければ、間違いなく死んでしまうだろう。
ヘルガは、自分の服を破るとそれを止血帯代わりにシャーリーの腹部に巻き付けていった。少しでも出血を抑えなければならない。
「絶対死なせない!シャーリーは、私が助けるから!」 ヘルガはシャーリーの手を握りしめる。
「ヘルガ……ごめん……なさい……わたし……もう……」 意識が混濁としているのかシャーリーの声はとても弱々しい。そんな彼女を励ますかのように、ヘルガは握った手に力を入れた。
「ダメ……だよ、こんなところで……死ぬなんて許さないからっ」 ヘルガは必死に声をかけ続けた。だが、シャーリーの呼吸は次第に小さくなり止まってしまう。シャーリーの命の灯が消えようとしているのをヘルガは悟ってしまった。
「シャーリー……だめっ!いやだっ……死んじゃ……いや……」 涙が頬を伝い、ヘルガは何度も彼女の名を呼ぶ。そして、その言葉に応えるかのようにシャーリーの瞳がわずかに開いた。その光景を見て、ヘルガは目を見開く。
「……ヘルガ、ありがとう……最期に……会えて……良かった……」 シャーリーの唇が小さく動き、かすれた声でそういうと彼女の身体から力が抜けた。その表情は安らかなものだった。
どうしてこんなことになってしまったのだろうか。私はシャーリーを守ると決めたのに、結局守れなかった。悔しくて涙が溢れてくる。シャーリーの亡骸を抱きながらヘルガは嗚咽した。
しばらく泣き続けるとようやく落ち着きを取り戻してきた。ヘルガはシャーリーを埋葬することにした。せめて、最後は人間として眠らせてあげたいと思ったからだ。ヘルガは近くの洞窟へ遺体を運び、そこに横たえた。
そして、土葬した。それから墓標代わりの石柱を立て、祈りを捧げた。どうか天国で幸せになってほしい。
この場を離れることに躊躇いはあったが、ここにずっといるわけにもいかない。それにシャーリーが言っていた通り、いつ他の怪物が来るかも分からないのだ。ヘルガは、一度振り向くとそっとその場を離れた。
シャーリーは、ヘルガのことをどう思っていたのだろうか。少なくとも、嫌われてはいないはずだ。
だって彼女は、私と一緒にいるときは楽しそうだった。だから、きっと嫌いではないはず。もし、そうじゃないとしたら……。……違う、今はそんなことを考えてる時じゃない。
ヘルガは、涙を流しながら、行先も決めずにただひたすら歩き続けた。
「彼らの巡回には一定のリズムがあるわ」とヘルガが言った。「次の巡回までの時間をうまく使えば、森の外に出るチャンスがあるかもしれない」
彼女は地面に図を描き、作戦の説明を始めた。シャーリーは慎重に耳を傾け、計画に自分の意見を加えながら一緒に考えた。
「このルートが一番安全そうね。見張りの鬼たちが最も遠い位置にいる時間を狙って進もう」とシャーリーは指差しながら言った。
ヘルガは地図を見つめ、深くうなずいた。
「わかったわ。夜明け前の薄明かりの時に出発するのがいいと思う」
「ルートは決まった、問題は……」
とシャーリーが言うと、彼女は顔を上げた。
「どうやって、この耳の発信機を誤魔化すかだね」とヘルガが答える。すると、ヘルガは自分の左耳に手を当てて見せた。
この発信機をどうにかしなければ、追跡は逃れられないことは、二人にはわかっていた。
「耳を切り落とさなくても、発信機を壊せばいいわ。ヘルガ、私に任せてこう見えて私シスター時代は、赤ちゃんの耳に発信機を付けるのが仕事だったのよ」
と、自信満々にシャーリーは胸を張って言った。ヘルガは思わず吹き出しそうになる。
「それは凄いわね。それなら、任せるわ」と彼女は苦笑いをしながら答えた。けれど、今壊してしまえば、鬼たちに気づかれてしまう可能性があると、ヘルガは心配そうに付け加えた。
「そうね、タイミングが重要だわ」とシャーリーは考え込むように言った。「今夜、鬼たちが最も遠い位置にいるときに発信機を壊そう。そうすれば、彼らの反応が遅れるはずよ」
ヘルガは頷き、「分かったわ。準備は万全にしておきましょう」と応じた。夜が深まるにつれて、二人は静かに準備を整えた。ヘルガは必要な食料や道具をまとめ、無駄なく迅速に動けるように身軽な状態でいつでも逃げられるように準備していた。
「本当は、消毒をしなくちゃいけないけれど仕方ないね」とシャーリーは言いながら、ナイフを火で炙り、沸騰した水を用意していた。「麻酔もないから、少し痛いかもしれないけれど、我慢してね。
時間が経つにつれ、二人の緊張感が増していった。「今よ」とシャーリーがささやくと、ヘルガは息を止め、目をつむり口に布を噛んで、痛みを抑えようとした。シャーリーは手早く、しかし丁寧にナイフを耳に突き刺す。カリッと音がして慎重に発信機を耳から取り出す。
ヘルガの発信機も外すと、傷口を洗い流し止血する。
「じゃあ、ヘルガ私のもよろしくね」
ヘルガは、医療知識を与えてくれた、シスター養成学校の教育係に感謝した。こうして、脱走の準備ができるのも農園側が彼女らに知識を与えたからだ。
シャーリーよりヘルガの手際は悪かったが、なんとか発信機を耳から切開できた。シャーリーはその間、痛みをこらえながらも冷静に指示を出し続けた。
「よくやったわ、ヘルガ。ありがとう」とシャーリーは微笑んだ。
ヘルガは深く息を吐き出し、緊張から解放された。
「いいえ、シャーリー。あなたの指示がなければできなかったわ」
夜が明ける直前、ヘルガとシャーリーは静かに洞窟を後にした。緊張した面持ちで、彼女たちは計画通りのルートをたどりながら、慎重に歩を進めた。冷たい朝の空気が肌を刺す中、彼女たちの心には不安と希望が入り混じっていた。
「今よ」とシャーリーがささやき、二人は一斉に走り出した。しかし、ここで予想外のことが起こる。『楽園』に狩りに来た知性の鬼たちが現れたのだ。彼らの目は鋭く、獲物を見逃さない。
ヘルガとシャーリーは立ち止まり、息を潜めて木々の間に隠れた。鬼たちはその周囲を警戒しながら歩き回っていた。
「どうしよう……」とヘルガは囁いた。
「静かにして。彼らが通り過ぎるまで待つしかないわ」とシャーリーは冷静に答えた。
二人は息を殺し、鬼たちの動きを見守った。やがて鬼たちは興味を失い、別の方向へと移動し始めた。
「いつもなら、こんな夜遅くに彼らが来ることはないはずだけど……」
「確かに。何か異常が起きているのかもしれないわ。油断せずに注意深く進もう」
二人は再び息を潜めながら歩き始めた。森の中は静まり返り、足音が響かないように慎重に一歩一歩を踏みしめた。彼女たちの心には不安が広がっていたが、それでも希望を捨てずに前進を続けた。当初の計画通り、見張りの鬼たちの巡回が最も少ない瞬間を狙って抜け出した。あともう少し進めば、出口が見えるはずだった。
(ここさえ抜ければ、後は逃げ切れる)
その時だった。突然、背後の茂みが大きく揺れた音に、二人は飛び上がるほど驚いた。振り返るとそこには、黒いコートに身を包んだ鬼の姿があった。
(どうする……?)
鬼たちは鋭い目で二人を見つめ、徐々に近づいてくる。シャーリーは鬼を見つめ、瞬間的に何かを決断したようだった。
「ヘルガ、やるしかない」とシャーリーは低い声で叫び、鬼に向かって飛び出した。彼女は手に持っていたナイフをしっかり握りしめ、全力で鬼に立ち向かった。
ヘルガも追随し、シャーリーに続いて鬼に突進した。二人は連携して鬼に攻撃を仕掛け、なんとか鬼の攻撃をかわしながら戦った。シャーリーは素早い動きで鬼の注意を引きつけ、その隙にヘルガがナイフを振り下ろした。
鬼は驚いた表情を浮かべ、一瞬の隙を突かれて倒れた。二人は息を切らしながらも、勝利の瞬間を迎えた。
「やったわ、シャーリー!」
「いえ、まだよ。目をささないと」シャーリーは鬼の目を狙い、ナイフを振り下ろした。鬼は痛みと驚きで身をよじり、動きを止めた。ヘルガは急いでシャーリーの手を取り、周囲の状況を確認した。
「死体が見つかれば、時期追手がかかる。早く行こう」
と、シャーリーは言った。二人は急いでその場を離れた高い塀をよじ登り。ついに、脱出に成功したのだ。
彼女たちは森の奥へと進んでいった。木々の間をすり抜け、時に枝をくぐり抜けながら、息をひそめながら駆け抜けた。彼女たちが通り過ぎた後には、無数の葉っぱや草などが舞い落ちていく。鬼たちに気付かれないよう、慎重に行動しなければならなかった。心臓の鼓動が高鳴っていくのを感じながら、ヘルガとシャーリーはただひたすら前に向かって進み続けた。
「見つけたわ、川よ」とシャーリーが声を上げた。
目の前に広がる川は透明で清らかに流れ、太陽の光が水面に反射してキラキラと輝いているのである。周囲には背の高い木々が生い茂り、その葉っぱが風に揺れる音が静かに響いていた。川岸には小さな岩や砂利が散らばり、流れる水が岩に当たるたびに、小さな波紋が広がっていく。川の流れは穏やかで、時折、魚が跳ねる音が聞こえてきた。川の両岸には色とりどりの花が咲き、その香りが風に乗って二人の鼻をくすぐっていたのである。
「なんて美しい場所なの」とヘルガがつぶやくのである。
シャーリーは静かに頷きながら、「そうね。まずは返り血をどうにかしないと」と言った。二人は、川に身を投げ、冷たい水が彼女たちの体を包み込むのを感じた。水の流れが返り血を洗い流し、彼女たちの体を清めていく。二人はお互いの体を慎重に体を洗った。
その後川の水を手ですくって口に運んだ。ヘルガは疲れ切った様子で座り込み、水を飲み終えた後にため息をついた。
シャーリーはヘルガに視線を向け、何かを考え込んでるとポケットに手を突っ込んだ。
「シャーリー、それ発信機じゃ……」
シャーリーは発信機を流れのはやい場所に放り投げた。
「こうすれば、発信機が動き続けて、鬼たちを混乱させることができるわ」
とシャーリーは言うのだった。
「ついでに川に血も流れていくから、追跡も難しくなるはずよ」
シャーリーはニカッと笑い、その目が一瞬で輝きを増した。口元が広がり、白い歯がちらりと見える。その笑顔には、自信といたずらっぽさが入り混じっているのが分かる。彼女は立ち上がり、大きく伸びをした。彼女の背中まで届くまっすぐな茶色の髪の毛から滴る雫が、きらめきを放ちながら落ちて地面に染みこんでいった。
彼女は両手を大きく広げて深呼吸し、新鮮な空気を思いっきり吸いこんだ。空を覆い尽くす分厚い雲のせいで月明かりはなく、夜の森は不気味さを増すばかりだった。
シャーリーは周囲を警戒するように見回し、それから自分の体についた汚れを確認し始めた。彼女の服装はぼろ布のような服を身に着けており、あちこちが破けてしまっていてとてもじゃないが人目にさらすことはできない姿だった。
「この辺りに隠れられるところはない?」
とヘルガは聞いた。彼女は、疲労と寒さに耐えきれず、体が震えていた。
彼女は今にも倒れてしまいそうなくらい弱っている。耳を切開したのはヘルガにとって大きな足かせとなった。シャーリーは、あたりを見回しながら歩き続け、木に近づいていった。シャーリーが木の根元に手をかけると、その木は大きく揺れて地面が少し陥没したのである。
「ここに隠れましょう」
とシャーリーが言った。
二人は木の後ろに回り、地面から盛り上がった大きな根っこの陰に身を隠した。地面がぬかるんでいて、泥まみれになるのは気にならなかった。ヘルガの体は、限界まで追いつめられていたのだ。彼女はシャーリーの肩に頭を預け、荒い息を吐きながら眠ろうとしていた。
「ヘルガ? ヘルガーー!」
とシャーリーは必死に声をかけるが、反応がない。
「……うぅ」
ヘルガはかすかに声を出した後、静かに眠りについてしまった。
シャーリーは不安そうな表情で彼女を見つめている。シャーリーは自分の胸に手を当て、心臓の音を聞きながら考えた。
(熱かしら、頭がぼーっとする……)
「ヘルガ!起きなさい。すぐに逃げるわよ!」
シャーリーの声が聞こえると、ヘルガは急いで目を覚ました。いつの間にか眠りこけてしまっていたのだ。シャーリーは彼女の頬を叩き、無理やり起こした。そのおかげで、ヘルガはなんとか目を開けることができた。
二人は立ち上がって周囲を確認するが、特に異変はなかった。シャーリーは胸をなでおろすと、「ヘルガ、移動しましょう」と言い、二人は川から離れた。シャーリーはヘルガを背負いながら進んでいった。
夜の森はますます不気味さを増し、シャーリーは一瞬一瞬を見逃さないように警戒していた。ヘルガはシャーリーの背中で安らぐが、その体はまだ震えている。
「ここで少し休みましょうか」とシャーリーが言い、二人は大きな木の陰に身を潜めた。シャーリーはヘルガの体をそっと地面に横たえ、彼女の顔をじっと見つめた。「大丈夫、もう少しだけ頑張って」と優しく言い聞かせて、頭を撫で続けたのだった。
ヘルガの体力は回復した。感染の類ではなくてよかったと、シャーリーは胸をなでおろす。彼女らは生きるために森の中を移動しながら狩りをし始めた。猿や鹿、魚もいればトカゲや蛙など、さまざまな獲物が森の中で彼女たちの生活を支えてくれる。
シャーリーは手際よく罠を仕掛けたり、ヘルガと協力して川で魚を捕まえたりと、日々の生活を送っていた。
「今日は鹿の痕跡を見つけたわ」とシャーリーが言った。
ヘルガはシャーリーの言葉にうなずき、「それなら今日の夕飯は豪華になりそうね」と微笑んだ。彼女たちの狩りは毎日が順調に行えるわけではなかった。時に、鬼に襲われながらも生き延びる日々が続いた。彼女たちを襲うのは、お面や知性のある鬼ではなく、四足歩行の鬼がほとんどだった。彼女たちは、四足歩行で言葉も介せない鬼たちを「野良鬼」と呼んでいた。
野良鬼たちは無差別に襲いかかってくるため、常に警戒を怠ることはできなかった。ある日、シャーリーが罠をチェックしていると、遠くから草むらの中で動く影を見つけた。野良鬼だと悟ったシャーリーはすぐに身を低くし、ヘルガに静かに合図を送った。
「ヘルガ、来るわ。気をつけて」
ヘルガはすぐにシャーリーの側に駆け寄り、二人で慎重に身を隠した。野良鬼が近づいてくる音が聞こえる中、二人は息を潜めて待った。やがて野良鬼が通り過ぎ、再び静けさが戻った。
「よし、今がチャンス」とシャーリーは低くつぶやいた。
二人は素早く立ち上がり、罠にかかった獲物を手際よく処理した。その日の夕食には、獲れたての鹿肉が加わることになった。
「やったわね、これでしばらくは食べ物に困らないわ」とヘルガは嬉しそうに言った。
シャーリーも満足そうに笑みを浮かべ、彼女たちの新しい日常が少しずつ形作られていくのを感じた。
彼女たちは絶望していた。鬼と鉢あってしまったのだ。しかも知性のある鬼で複数人だった。
「おい!人間だ!しかも首ナンバーがある!GF(グレイス=フィールド)に違いない!」鬼の一人が叫ぶと、シャーリーたちに一気に緊張感が高まった。
「殺せ!」
「いや、生け捕りにするんだっ!!」と他の鬼たちも声を上げた。
シャーリーとヘルガは背中合わせに陣取り、それぞれのナイフを構えた。相手は6人、シャーリーたちよりも体格が大きい。
(これは……無理かもしれないわ)
シャーリーは冷や汗を流しながら思った。
鬼が一歩ずつ歩み寄ってきた時、突然銃声が鳴り響いた。撃ったのは、シャーリーだった。その弾は鬼の頭を撃ち抜いた。仲間がやられたことで動揺した隙を狙い、ヘルガが走り出す。
しかし、もう一人の鬼に阻まれてしまった。
ヘルガはナイフを構え、相手の出方をうかがう。だが次の瞬間、彼女は鬼に首を掴まれてしまい、その体が宙に浮く。必死にもがくが、彼女の体はびくりともしない。
その時、シャーリーがもう一体の鬼に向けて発砲する。鬼はその銃弾をかわすことができず、腕を負傷した。
ヘルガは鬼の手から逃れ、地面に着地すると迷わずヘルガは、急いで銃を構える。弾は、命中したが致命傷ではない。
(まずい)
そう思った時には遅かった。ヘルガは、組み伏せられてしまった。
「おい、捕まえたぞっ!」
ヘルガは必死に抵抗するが、体格が違いすぎるため抜け出せない。
「シャーリー……!」
ヘルガは助けを求めるように彼女の名を呼ぶ。
シャーリーはナイフを構えた。そして、鬼に飛びかかる。その動きは、まるで獣だ。食人鬼の爪とナイフが激しくぶつかり合う。シャーリーは、そのまま押し切ると食人鬼の首を切りつけ、目を狙う。食人鬼は倒れた。
「いたぞっ! 追え!」
その声が聞こえた瞬間、ヘルガとシャーリーは走り出した。
後ろからは、複数の足音が聞こえる。
二人は、木々の間を縫うようにして走る。
「捕まったら終わりだ」
「わかってるわ」
ヘルガとシャーリーは、互いに顔を見合わせる。
言葉は交わさずとも、二手に分かれた。それだけで意思疎通ができるほど、信頼関係が築かれていた。
ヘルガが銃でおびき寄せ、シャーリーがナイフで仕留める。
野良鬼との戦闘で何度も繰り返してきたことだ。ヘルガとルーシャがいれば、怖いものなどなかった。彼女たちは冷静に状況を判断する。鬼の数は残り二人、一方は武器を持っていない。つまり、先に狙うべきなのは、無防備な方である。
ヘルガは木の陰に隠れると、慎重に狙いを定めて発砲した。
弾は見事に命中した。鬼は苦痛に顔を歪めている。ヘルガは鬼の頭部を狙って引き金を引いた。そして、すぐに振り返りもう一匹を探す。
鬼の姿は見えない。おそらく、木の上か茂みの中にいるのだろう。ヘルガは警戒しながらゆっくりと進む。
ヘルガは気配を感じ取った。上を見ると、鬼が彼女に向かって飛び降りてくるところだった。ヘルガは咄嵯に体を反らせ回避した。そして―シャーリーが引き金を抜いた。静寂を破るかのように、銃声が森の中に鳴り響いた。
「バンッ!」
---
鬼は力なく倒れ、森の中に再び静寂が戻った。
「これで、何匹? いや何人?まあどっちでもいいけど」 彼女は、穴倉の中で火に温まりながら鬼の肉を食べている。
「ヘルガも食べる?」 そう言って、シャーリーは自分の食べかけの鬼の肉を差し出す。
はじめは断っていたヘルガだったが、鬼に襲われるばかりで腹が減っていたこともあり、結局それを食べた。
「おいしい?」 「うん……」 ヘルガは素直に答えた。最も、肉は堅く筋肉質でとても美味しいとは言えない。だが、空腹は最高のスパイスという言葉もある通り、今はとにかく何かを口に入れたかったのだ。
「よかった。私もね、初めて食べた時は吐き気が止まらなかったの。でも、慣れれば意外にいけるものよ」 そう言って、シャーリーは笑う。彼女は鬼の肉を食べることに抵抗がないらしい。生きるためだと割り切っているのだろうか。
だが、自分もそうしなければ生きられない。ヘルガは鬼の肉に齧り付いたが、うまく噛み切れず飲み込めない。その様子を見て、シャーリーは大笑いした。
「ほら貸してみて」 ヘルガは、それを渡す。 シャーリーは鬼の肉を口に入れる。そして、咀嚼し喉を鳴らす。 「ちゃんと噛まないからそうなるのよ」 シャーリーは呆れたような口調で言う。
その言葉を聞きながら、ヘルガは思う。彼女はどうしてこんなにも冷静なのだろう。
「ねぇシャーリー。わたしここ数日のあなたを見て思うけどあなた、武術のスコアが低いなんて嘘でしょ?」 ヘルガがそういうと、シャーリーは驚いた顔をする。 図星だったようだ。
「どうしてそう思ったの?」 「だって、あなたの動きは洗練されている。少なくともわたしよりは」 「……それは、あなたの武器が銃だからじゃないの」 「ナイフを使って勝つなんて、わたしじゃとてもできない」 「……」 「それに、あなたはさっきの知性の食人鬼に対して臆することなく立ち向かえる度胸がある。並大抵のことでは、できないと思う。それに、あなたは……」
「わかった。降参。私の負けだよ。やっぱり、ヘルガには敵わないなぁ……」 シャーリーは両手を上げて言った。
「別に、隠していたわけでもないんだけどね。虫のような鬼と対峙して初めて分かったんだ。対人だとねどうしても怖くてできないって。意外と人間臭いところもあったんだなぁって」
「……シャーリー、人間臭いって。あなたは『ヒト』よ」 「ふっ、そうだね」 シャーリーは少し寂しげに笑った。
「そろそろ寝ようか」 「そうね」 ヘルガは毛布を体に巻き付ける。穴ぐらの中は寒かった。
「明日も早いから早く休もう。見張りは私がやるわ」 「ありがとう。辛かったら起こしてね交代する」 おやすみの挨拶を交わし、シャーリーは目を閉じた。ヘルガは焚き火の炎をじっと見つめていた。 ゆらめく炎を見ると、不思議と心が落ち着く。
――今日も生き延びた。生きていられる。そんな安堵感が湧いてくる。 この生活も、いつまで続くのかわからない。 もしかしたら、ずっとこのままかもしれない。 それでも、人間として生きていたい。 たとえ、それが叶うことのない願いだとしても……。
「だめ、暗くなったら」 ヘルガは大きく息を吸うと、長く吐き出す。土壁に寄り掛かりながらも、銃を手放すことはない。 「よし!大丈夫だ!」 ヘルガは再び銃を構え警戒態勢に入る。神経を研ぎ澄ませながら周囲に目を配らせる。
しばらくして、眠くなってきたのでシャーリーと交代しようと肩を揺らしたが、彼女は既にぐっすり眠っているようで起きる気配はない。 仕方がないので、ヘルガは自分が起きていることにした。
今までは、シャーリーに頼りすぎてしまっている部分がある。 これから先、二人だけで生きていくためにはもっと強くならなければならない。
「うーん……ううっ……」 シャーリーが寝返りを打つ。 ヘルガは彼女の方を見る。すると、彼女はうなされていた。悪夢でも見ているのだろうか。苦しそうに眉間にシワを寄せている。
ヘルガは、うなされているシャーリーを見ているうちになんだかいてもたってもいられなくなり、彼女の頭に触れたのだ。 すると、シャーリーの表情が和らぎ穏やかなものになる。
シャーリーはいつも一人で戦っている。 自分と同じぐらいの強さを持っているのに、その強さを誰かのためではなく自分のために使っている。 ヘルガがシャーリーに抱いている感情は、感謝と尊敬だった。
――わたしに、何かできることがあったら何でも言って。絶対に助けられる保証はできないけど、でも、力になりたいの。
彼女はきっと自分のことを友人や仲間とは思っていないだろうけど、それでいいと思った。シャーリーは困っている人がいたら迷わずに手を差し伸べるし、助けを求める人がいる限り見捨てたりはしない。彼女はとても優しい女の子なのだ。
だからこそ、自分も彼女を助けたい。彼女に頼られたいし、役に立ちたいとヘルガは思った。 そう、これはシャーリーに対する恩返しのようなもの。 ただそれだけのこと。それ以上でも以下でもない。
ヘルガとシャーリーは隠れに隠れ続けながら、鬼に見つからないように逃げ続けた。時には野良鬼に見つかってしまい戦闘になりかけたこともあったが、どうにか逃げ延びることができた。しかし問題もあった。何度かの戦闘でついに銃の弾が切れてしまった。これでは、鬼に対抗する術がなくなってしまう。
そこで、鬼たちが使っていた武器を使うことになった。それは、鬼が使う槍である。シャーリーが見つけてきたもので、錆び付いているがなんとか使えそうとのこと。
シャーリーの案により、二人はまず遠距離武器を手に入れることを優先するべきだと判断した。なんとなくで弓矢を作り出し練習してみたところ、これが驚くほどよく当たる。それに、弓ならば弾切れになることはまずないと言ってもいい。さらに、鬼の武器を加工して使えるようにした。鬼の牙を使って矢尻に使った。これでようやく自衛ができる状況になった。しかし、問題は他にもあった。
まず、食糧の問題がある。同じ所に居続けてしまえば、鬼に遭遇することもある。彼女たちは地図もない為、どこが安全であり、知性鬼が住んでいるのか知るすべがないのだ。見つかれば別の場所に移動する必要がある。そのときは、逃げることを最優先としている為、食糧を獲れないことが多くなってきたのだ。
次に、二人の体力の問題もある。いくら身体能力が優れているとはいえ、疲労は溜まっていく。その度に休息をとっていてはきりがなく、いつかは動けなくなる。そうなれば、鬼に見つからずに逃げ続けることは不可能に近い。なので、体力の消耗を抑える方法を考えなければならなかった。
「今日は、ここで野宿しようか」
「うん……」
日が暮れ始めると森から抜けて安全な場所で野営をすることにした。幸い、近くに小川があったおかげで飲み水に困ることはなかった。
「火を起こすね」
焚き火の明かりを頼りに二人は食事をする。今日は、蛇と蛙と小さな木の実だった。
「おいしい……」
「あぁ、そうだな」
シャーリーは、美味しいと言うものの顔色が優れていない。それもそのはず。鬼に見つかったらどうなるか分からない恐怖と緊張感、そして極度の緊張状態による精神的な負担で身体は疲れ果てていた。そんな状態で満足な食事などできるわけがなかった。
だが、食べなければ力が出ない。それに、弱音ばかり吐いている暇はない。とにかく前に進まないと……。
ヘルガは、シャーリーの心情を察しながらも黙って食事を続けていた。
小川で手を洗っていた時、波紋が広がる。気のせいだと思っていたが川から手を離しても水面に広がった波紋が消えることはなかった。ヘルガは、警戒して周囲の様子を伺うが特に変わった様子は見られない。
――何か嫌な予感がする……。
「ねぇ、シャーリー音が……」
耳を澄ませると川の流れる音に混じって足音のようなものが聞こえてくる。
しかも、その音の数が尋常ではない。
「ヘルガ、こっち」
シャーリーは、ヘルガの手を引っ張ると近くにあった洞窟へと逃げ込んだ。
ヘルガたちは岩壁を背にして、息を殺す。心臓の鼓動が速くなるのが分かった。
やがて現れたのは、武装した鬼だった。先頭を歩くのは、大柄で屈強そうな男で手には剣が握られている。彼は、ヘルガたちを見つけると声を上げた。
「見つけたぞ!」
シャーリーが身構えた瞬間、男はシャーリーの首を掴みそのまま地面へ叩きつけたのだ。
「シャーリー!!」
ヘルガは、思わず叫ぶ。しかし、男はお構いなしにシャーリーの首を絞めつける。
「くっ…………」
シャーリーは、苦しそうに顔を歪めた。ヘルガは、助けに入ろうとしたが鬼に阻まれる。
「ようやく、二匹の食用児をみつけた。彼らはこのまま農園の本部に連れ帰る」
男の言う通り、後ろに控えている鬼たちの手には縄が握られていた。
ヘルガは、どうにか突破しようと試みるが、すぐに他の鬼に取り押さえられる。
抵抗するが敵うはずもなく、あっという間に縛り上げられてしまった。そして、鬼たちに担がれ連れて行かれそうになる。
ヘルガは必死に暴れた。
――あんな場所に戻るのは嫌だ!絶対にいや!!
「こんなところで終わってたまるもんですかっ……わたしまだ死ねないんだからッ……」
シャーリーは、首元を掴まれて苦しいのか目に涙を浮かべながらヘルガを見た。
「―――ヘルガッ!!!お願い逃げてぇえーーッ!!」
シャーリーは叫んだ。その叫び声で、我に返ったヘルガは、力を振り絞る。
ヘルガが振り下ろした槍は見事に鬼に命中した。しかし、刃は鬼の皮膚に弾かれてしまい傷一つつけられなかった。それでも、鬼の注意を引くことはできたようだ。その隙を突いてヘルガは鬼の拘束から抜け出すと一目散に距離を取る。
鬼は標的をシャーリーからヘルガに変えて追いかけようとするが、そこに他の鬼が立ち塞がる。
「逃すな!」
一人の鬼がそう命令すると、鬼たちは一斉にヘルガに襲いかかってきた。
ヘルガは槍を構えながら走り出す。相手は人間ではなく、鬼である。遠慮する必要なんてない。むしろ、全力で戦うべきだ。ヘルガは立ち止まると槍を振る。
狙いを定め、一気に突き出すがあっさりと避けられてしまう。だが、それでいい。これは、ただの時間稼ぎに過ぎない。
鬼は避けたことで一瞬だけ隙ができる。そこを見逃さず、ヘルガは懐に入り込むと下腹部に向かって突きを放った。刃は、深々と刺さり鬼の動きを止めることに成功した。すかさず、もう片方の手で持っているナイフを構えると頭部目掛けて投げる。投げたナイフが刺さると鬼はすぐに崩れ落ち、絶命した。それを確認すると、ヘルガは再び走り出した。背後からは、先ほどまで戦っていた鬼が迫ってきている。鬼の目をめがけ土埃を投げかけると視界を奪い怯ませた。
「どこだ?」
木の上で、ヘルガを探していた鬼だったが不意に背後に気配を感じ、慌てて振り返る。しかし、そこには誰もいない。気のせいかと思い再び前を向いたその時、眼前にはヘルガの槍があった。
鬼が気付いた時にはすでに遅く、彼の脳は貫かれると血飛沫を上げながら倒れた。鬼が完全に事切れたのを確認した後、槍を引き抜くとシャーリーを探し始めた。彼女も拘束を逃れ、怪物たちと闘っているのが見える。しかし、数が多い。鬼の数の方が多く、押されているようだった。
このままじゃ二人ともやられるだけだ。そう判断したヘルガは、シャーリーに加勢する。鬼の攻撃をかわしつつ、槍を突き出して仕留めていく。
二人は背中合わせになり、互いの無事を確認し合った。そして、迫りくる鬼を次々と倒していく。やがて、すべての鬼を倒すとヘルガは問いかけた。
「シャーリー、大丈夫?怪我はない?」
「うん、平気よ。あなたも大丈夫そうね」
ヘルガは、安堵したように微笑むと、ふぅと息を吐き空を見上げた。
だが、彼女たちは完全に油断していた。シャーリーの背後には鬼がいたのだ。シャーリーと声をかけたヘルガが見たのは、長く伸びた鬼の爪が彼女の腹部に突き立てられる瞬間だった。彼女は、悲鳴を上げることもできず、そのまま地面へと倒れ込んだ。その様子を見て、ヘルガは絶句する。彼女は口から大量の血を流しており、明らかに致命傷を負っていたからだ。
鬼の手には吸血花が握られている。絶対、人肉になんてさせない!
ヘルガは、鬼を睨みつけると手にしているナイフを逆手に持ち、勢いよく駆け出した。そして、そのまま鬼にナイフを深く差し込むとそのまま持ち上げる。鬼が痛みに苦しみながらも暴れるが、そのまま地面に叩きつけとどめを刺しにいく。
「はぁ……はあ……これで終わりだわ!」
鬼が動かなくなったのを確認するとヘルガは、その場に座り込んだ。
---
しかし、すぐにハッとして立ち上がるとシャーリーの元へ駆け寄った。彼女は、ぐったりとしており、顔色は真っ青になっている。出血の量も多くとても危険な状態だと分かった。一刻を争う事態だ。今すぐ手当てしなければ、間違いなく死んでしまうだろう。
ヘルガは、自分の服を破るとそれを止血帯代わりにシャーリーの腹部に巻き付けていった。少しでも出血を抑えなければならない。
「絶対死なせない!シャーリーは、私が助けるから!」 ヘルガはシャーリーの手を握りしめる。
「ヘルガ……ごめん……なさい……わたし……もう……」 意識が混濁としているのかシャーリーの声はとても弱々しい。そんな彼女を励ますかのように、ヘルガは握った手に力を入れた。
「ダメ……だよ、こんなところで……死ぬなんて許さないからっ」 ヘルガは必死に声をかけ続けた。だが、シャーリーの呼吸は次第に小さくなり止まってしまう。シャーリーの命の灯が消えようとしているのをヘルガは悟ってしまった。
「シャーリー……だめっ!いやだっ……死んじゃ……いや……」 涙が頬を伝い、ヘルガは何度も彼女の名を呼ぶ。そして、その言葉に応えるかのようにシャーリーの瞳がわずかに開いた。その光景を見て、ヘルガは目を見開く。
「……ヘルガ、ありがとう……最期に……会えて……良かった……」 シャーリーの唇が小さく動き、かすれた声でそういうと彼女の身体から力が抜けた。その表情は安らかなものだった。
どうしてこんなことになってしまったのだろうか。私はシャーリーを守ると決めたのに、結局守れなかった。悔しくて涙が溢れてくる。シャーリーの亡骸を抱きながらヘルガは嗚咽した。
しばらく泣き続けるとようやく落ち着きを取り戻してきた。ヘルガはシャーリーを埋葬することにした。せめて、最後は人間として眠らせてあげたいと思ったからだ。ヘルガは近くの洞窟へ遺体を運び、そこに横たえた。
そして、土葬した。それから墓標代わりの石柱を立て、祈りを捧げた。どうか天国で幸せになってほしい。
この場を離れることに躊躇いはあったが、ここにずっといるわけにもいかない。それにシャーリーが言っていた通り、いつ他の怪物が来るかも分からないのだ。ヘルガは、一度振り向くとそっとその場を離れた。
シャーリーは、ヘルガのことをどう思っていたのだろうか。少なくとも、嫌われてはいないはずだ。
だって彼女は、私と一緒にいるときは楽しそうだった。だから、きっと嫌いではないはず。もし、そうじゃないとしたら……。……違う、今はそんなことを考えてる時じゃない。
ヘルガは、涙を流しながら、行先も決めずにただひたすら歩き続けた。
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