第3部 変生者
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「あら、大公様があすこにいますわ」
そう言われて振り返ると、レウウィスが歩いてくるのが見える。ズンズンと音を立てて歩いているように見えるのは錯覚ではない。彼の威圧感はいつだって恐ろしいのだ。しかし、慣れというのは恐ろしいもので今では、彼の気配を感じるだけで背筋が伸びてしまう。彼の姿を見るとマチルダは微笑みかけながら話しかけた。
「大公様、ちょうど今、探していたところでございますの」
「……そうか」
レウウィスの眉間のシワが深くなる。不機嫌になっていることは、誰が見ても明らかだろう。マチルダは慌てて言葉を続ける。
「その……、大公様をお迎えに上がろうとヘルガ様いらしたのです」
レウウィスは不機嫌そうな顔のまま、顎をさすった。彼は何か考え事をするときによくする癖である。
マチルダはその様子をみて、「ああ、これはしばらくかかるな」と思った。マチルダの言葉を聞いた瞬間、マチルダの後ろにいた召使たちは安堵の息をつく。
しかし、彼女の口から意外な言葉が発せられた。
「そうか、分かった」
それだけいうと踵を返し歩き始めた。マチルダと従者達は顔を見合わせ、驚いている。まさか、あんなにあっさり了承されるとは思わなかったのだ。ヘルガたちは急いで彼の後を追った。彼はどんどん先に進む。その足取りは、早く、追いつくのがやっとだった。レウウィスは、ふいに立ち止まり、後ろを振り向いた。
「なんだ、お前たち遅いぞ」
「申し訳ございません……、ですがなにもそんなに急ぐことはないかと」
マチルダがおずおずと切り出すと、彼はふんと鼻を鳴らした。そして、ある店にの前で足を止めた。看板には"服屋"と書いてあった。
色鮮やかなものから落ち着いた色合いのものまで幅広く置いてあり、品揃えは良いようだった。店内の隅々を眺めながらレウウィスは歩く。時折、手に取って確認していた。
「マチルダ、ヘルガのを見繕ってくれ」
マチルダは、驚きに目を見開いた。マチルダが戸惑っていると、レウウィスはさらに続ける。
「ヘルガには何を着せても似合うと思うが、女物で頼む」
レウウィスの言葉を聞き、ようやく理解したのか、マチルダは笑顔になり、「承知しましたわ」と答えた。
マチルダは彼の要望を叶えるべく、二人の従者に荷物を持ってもらいながら、店の中を駆け巡った。レウウィスはヘルガを自身の寛いでいる個室に連れて行った。革張りのソファーや大きなガラス製のテーブルが置いてある。壁際には棚があり、そこに陳列されている壺や絵画は高そうだなと素人目でもわかった。
「まさか、あのレウウィス大公様がこのような店に来られるとは、今日は、どんなものが欲しいんですかね。うちでは、貴族向けの高級なものから、庶民でも買えるような安価な物まで扱っております」
「私じゃない、妻の装飾品を探しに来た」
お茶を飲むヘルガは吹き出しそうに……ならなかった。
「大公様の、奥方様ですか!それは失礼致しました」
店主は深々と頭を下げた。そのせいで彼の頭に乗っていた帽子が落ちてしまった。それを、彼が拾って元の位置に戻す。そして、もう一度深くお辞儀をした。
「こちら、商品目録になります。実物を拝見したい場合はお持ちいたしますので……、当店自慢の商品がございますのでいくつか、お持ちいたします」
そう言って店主は去っていった。
「レウウィス、どういうこと?妻だなんて……」
「何を言っているのかね、お前は私の伴侶だろう」
レウウィスは平然と言ってのけた。彼は、自分が何を言ったか分かっているのだろうか……。そう思って彼を見ると、素知らぬ顔でティーカップを口に運んでいる。彼の真意が見えなくて混乱する。どう反応すれば正解なのか分からない。だが、ここで何か言わなければならないと思った。
「……っ、そ、それなら、せめて一言くらい仰ってくれれば。その長年同じ屋根の元で暮らすと夫婦となる文化があるとか……。今日初めて聞いて、びっくりしたんですから」
動揺している自分を落ち着かせるため、お茶を一口飲むと、甘い香りが鼻をくすぐった。その瞬間、少し冷静さを取り戻す。
「マチルダめ、余計なことを。まあ、そうだな。確かに何も言っていなかった。」
彼の態度に苛立ちが募る。彼は、悪びれもなくこう続けた。
「妻として迎えることが最善だった。婚姻関係を結んだら、従者からも文句は言われんだろう。もう、君は逃げられないだろう? もし、私が死んでしまったとしても、大公夫人という身分でいれば安泰だと思わないか?」
レウウィスに言いたいことは山ほどあった。まず、どうして教えてくれなかったのか。自分の知らないところで、勝手に話を進められるのは嫌だった。次に、どうして私の意見を聞かないのか。私はあなたの都合の良い存在ではないのだ。
(いろいろと……急すぎる)
しかし、彼に何を訴えかけても暖簾に腕押しであるように思った。きっと彼は変わらないのだろうと。
(この人は、自分勝手で……、言葉足らずで、傲慢で……、だけど……、そんなところも含めて彼を好意的に思っているのかもしれない)
でも、このまま黙ってはいられなかった。
私はレウウィスと向かい合って座り、ゆっくりと話し出す。
「レウウィス、あのね。一つだけ聞きたかったことがあるの。レウウィスは――」
ヘルガが話を切り出そうとしたとき、ちょうど店主が品物を持ってきたのが見えた。
「お待たせいたしました。こちら、奥様が普段使いできるようなものになっております」
店主は手に持っていた数点の小箱から中身を取り出して、ソファー前のガラステーブルの上に並べていく。どれもこれも高価そうな品々ばかり。
「ご覧くださいませ、とても繊細かつ繊細な造りをしております」
いずれも宝石がちりばめられていて、一見しただけで値が張ることがよく分かる。
店主の説明を適当に聞きながら、並べられた装飾品を眺めた。そのどれもが素晴らしい細工をされており、職人の腕が伺えた。綺麗なものを目にして、気分が高揚してしまう。だが、正直なところ、欲しいと思うものは見つからなかった。そもそも、そういった高価なものに興味がなかった。店主は一通り説明を終えると、次の品物を取りに行った。レウウィスをちらりと見ると、彼も退屈そうにしていた。
「レウウィス、どの装飾品を身につけていいのかしら?」
そう聞くと、レウウィスは面倒くさそうにヘルガを見た。
レウウィスはすぐに目を逸らし、装飾品を見渡した後、ヘルガに向き直った。
「そうだな、これなんかどうだ。似合うぞ」
そう言って彼が指差したのは赤い石がはめ込まれたシンプルなネックレスだった。シンプルではあるが、それが逆に彼女の魅力を引き立たせていた。
「肌によく映える。ほら、付けてやるからこっちに来なさい」
言われるまま彼に近づき、胸元を晒す。彼の手は首筋を撫でるように触れる。彼の体温を感じるほど近い距離。
「……まるで血が心の像から流れているようで美しいな」
レウウィスの小声が耳の奥で響いた。血が付いているのが美しいと褒められるなんて変だと思うが、彼の感性を否定する気にはなれなかった。それが鬼の文化だと分かっているから。
「そうですか、大公様が選んでくださった商品です。間違いはないでしょう」
ヘルガはそう言ってレウウィスに微笑みかけた。
「……。ああ、そうか」
レウウィスは何かを納得するように呟いた後、視線を落とした。
店を出ると、マチルダと従者護衛二人は荷物を馬車へと運んでいった。荷物の量にヘルガは驚愕した。マチルダに勧められるがままに購入した数々の衣類や布。こんなにあっても使うことはないのではないか、とんだ無駄遣いになってしまったのではないかと、ヘルガは心の中でため息をつく。今後このようなことがないように、レウウィスにはお小言を言う必要があると決心した。
ヘルガが荷物であふれた馬車に乗り込もうとするとだが、レウウィスに手を引かれて阻止された。どれくらいの時間そのままで居たのだろう、マチルダが声を張り上げた。
「大公様、奥様と町を歩かれてはいかがでしょうか。我々、従者は先に戻ります」
レウウィスはその提案を聞くと、すぐに承諾した。レウウィスの手が離れてようやく解放されたが、彼はすでに歩き出しており、急いで後を追いかけた。しかし、隣に並んで歩くのは何となく躊躇われた。
結局、二人の間に距離が出来たまま歩いていたが、その微妙な空間は気にしていないかのように、彼は普段通りの口調で話しかけてきた。
「これからの予定は特にないが、どうしたいかね?」
どうしたいと言われても、正直困る質問だった。今までレウウィスと何をしてきたのかを考えてみた。ただ二人で森を散歩したり、一緒に食事をとったり、狩りあいという殺し合いをしたり。
なにをしたいかと言われたら正直思いつかない。しかし、レウウィスはヘルガの気持ちなど関係なしに言葉を続けた。
「そういえば、君は本を読むのが好きなんだっけね。ちょうど良い。君に見せたいものがある」
レウウィスはそう言うと、ヘルガに付いてくるように促して歩き出した。
レウウィスが向かった先は、古びた書庫のようだった。建物の中に入るとひんやりとした空気が体を包む。その冷気に身を震わせながら周りを見渡すと、壁には隙間なく本が並べられていた。
レウウィスは慣れた様子で本棚の間を進んでいく。
そしてある一冊を手に取りパラパラとめくると、その本を棚に戻し、また違う本のページをめくり、それを戻す。そんな動作を繰り返していたが、突然足を止めてこちらに振り返った。
「これはどうだい、古くから伝わる昔話だ」
差し出して来た一冊の表紙は、何色にも塗られた厚紙に様々な模様が描かれているものだった。
「綺麗……」
表紙に描かれた、赤や緑、紫の模様は見たことも無いもので、思わず魅入ってしまった。
「気に入ったかい。なら、買ってあげよう」
そう言ってレウウィスは私にそれを手渡してくれた。
「でも、悪いわ」
「なぁに、私がそうしたいだけだ。気にすることはない」
彼に何か返せていない。何もかももらってばかりで。いつか何かの形で返したいと思っていた。だけど……、彼に渡せるものは何もなかった。
(返せるとしたら、自分の血肉くらいしか……)
「何冊か本を買ってあげるよ。私がいないとき、退屈しないようにね」
「……ありがとう」
ヘルガはそう言って、素直に礼を述べた。もっと、知識を身につけろという彼の無言のメッセージなのだと思った。大公夫人となるなら、礼儀作法も覚えなくてはならない。関連のありそうな本をいくつか選んだ。
だが、それは、彼のためではなく自分自身のためであることに、彼女はまだ気が付かない。
**
「ごめんなさい、選ぶのが遅くなってしまって」
夜、光る葉を頼りに馬を走らせながら、ヘルガは謝罪の言葉を口にした。だが、彼は「構わない」と軽く返事をして、ヘルガの手を取った。馬の揺れに合わせてレウウィスの体に身を預ける。その心地よい温もりに安心感を覚えたのだった。
「ねぇレウウィス。人間の私を大公夫人にするのは、本気なの?」
買い物中も、ずっと思っていた疑問をぶつける。彼はヘルガの手を握ると、真っ直ぐに前を見たまま答えた。
「私は嘘は言わん。君を妻に迎えるつもりだよ。ただ、無理強いするつもりはない。もし、嫌ならば断ってくれても構わん」
レウウィスのその言葉に驚いて、目を丸くして彼の顔を見る。
(私が断れる立場ではないのを知っているくせに)
ヘルガは人間。レウウィスの元以外、彼女の居場所はない。まして、人間を自身の家に住まわせる鬼が他にいるわけもない。生きていくために、この鬼に飼われることが確実に最善の選択であることを彼女は知っていた。
「私が怖いかい」
「いいえ、あなたが怖がらせようとしなければ」
彼女は、微笑んでみせた。レウウィスの前でだけできる表情だ。
彼は少しの間黙っていたが、「君は変わったね」と小さくつぶやいた。
レウウィスはその言葉の意味を問う暇もなく彼女を抱き寄せると、口を塞いだ。舌で歯列をなぞられ、強引に口を開かされると、生暖かい彼の舌を口内にねじ込まれた。突然のことに抵抗しようと体をよじるが、両手でしっかりと抱き留められて身動きが取れず、されるがままに貪られる。しばらくして、息苦しさから解放されて大きく呼吸をした瞬間、首筋に鋭い痛みを感じた。レウウィスが噛んだのだ。しかし、先ほどとは違ってすぐにその行為を止めた。
「どうせなら、跡を付ければ良かったね」
レウウィスはそう言うと、噛み跡を優しく舐めた。
彼の行為には慣れてきたが、それでも恥ずかしいものはある。
「痛い……」
「ああすまない」
素直にやめてはくれたものの、いつも自分ばかり責められているようで面白くなかった。
他人の肌を噛むのはそれほどいいことなのか、仮面を外しヘルガは手綱を握る手に手をじっと見つめた。青灰色の細いその指は、まるで陶器のように滑らかで美しい。しかし、所々に傷があった。
ヘルガは示指を、ゆっくりと唇でその皮膚を食んだ。
(どうということもないわね)
レウウィスは自身の指を舐められる様を見れば、全身の血流が逆流しそうになった。そんなことは露知らず、彼女は指を口に含むと、軽く歯を立てた。痛みはなかったが、彼女の口内で指先がチロチロと動いている感触がくすぐったかった。
「どうしたのかね、君も食人に目覚めたかね」
背後から声を掛けられ、指から口を離し、悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
「あなたが、私のことを噛んでくるからどんな気持ちなのかなって思ったの」
「どうだったかな」
「どうもなかったわ」
レウウィスは、一瞬驚いた顔をしたが、すぐにいつもの調子を取り戻した。
「てっきり、私のことを喰らいたいほど焦がれてるのかと思ったのだがね」
彼女の行動に、つい茶化してしまった。彼は動揺している自分を悟られないようにと、軽口を叩いたのだった。やがて口を離すと、彼女はレウウィスの顔を見てクスリと笑った。彼女の柔らかい口の中は、熱く潤んでいた。彼女の舌が指に絡みつき、爪の間を這うようにして動く感触が、ゾクッとした快楽を運んでくる。彼女が口を離すと、指先に唾液が伝い糸を引いていた。
彼は少し呆れた表情をして、ため息をついた。
ヘルガは、顔を赤らめ俯く。
レウウィスは、そんな彼女の様子を面白そうに見下ろしていた。彼の視線を感じながら、彼女の声は震えてしまう。
「……そうね、焦がれているかも」
彼女の言葉にレウウィスの鼓動が早まる。
彼女の口から紡がれる言葉が妙に心地よく感じられた。
「フハハハッ! 光栄だよ」
レウウィスの瞳孔は縦に割れ、歯は獣の様に尖っていた。彼は、馬を止め、そして降りた。彼の背は高く、ヘルガが馬に乗っているのと同じくらいの高さだ。
レウウィスは、ヘルガの耳に触れてきた。彼の冷たい爪先が触れてきて、ビクリとする。
耳をつまみ、ヘルガの髪をすきながら、この人間を早く食べてしまえばよかったと、レウウィスは再び後悔した。幾度も鬼の本能が、この人間を喰らえと囁いていたのに。そうすればこの人間に、のめり込むこともなかったろう。――鬼と人間 相容れぬ存在。
それでも、この女は捕食者である自分に焦がれていると。十数年待ち望んでいた言葉は枯葉が落ちてくるように自然と落ちてきたのだ。鬼と人間の恋愛譚は、本の中の空想上の絵巻物。そんなことは分かっていた。
「ヘルガ、私も好いているよ」
彼女の顎を掴んでこちらを向かせると、面の隙間を開き、ヘルガに口付けようとした。だが、ふと彼女の面の下からポタポタと水が溢れ出ているのが見えてしまった。彼女の面をゆっくりと取り外すと、彼女の顔には大粒の涙が幾つもの筋を作って流れ続けていた。
――ああ、もうだめだ
レウウィスは、口付けるかわりに彼女を抱きしめた。
「私は、鬼だ。どうしようもない。どうにもならん。私は、お前のことを愛している」
ヘルガはその言葉に、胸が締め付けられるような痛みを覚えた。それは決して、不快なものでは無かった。
「……あなたって人は、ずるいわ」
レウウィスは何も言わず、ただ優しく彼女を抱き寄せるだけだった。
二人はしばらく抱き合ったままだったが、やがてヘルガがそっと身を離した。
「あなたのことが好きだけど、嫌い。大好きなのに、憎らしいわ」
「君は矛盾してる」
「えぇ、自分でもそう思う。でも、仕方ないじゃない。私は人で、あなたは鬼なんだもの」
彼女は自嘲するように笑った。
「違いない」
彼は苦笑いをすると、彼女の手を取り口づけをした。彼女の手は小さく華奢で、とても柔らかかった。
「あぁ、やはり君を喰らえばよかった。そうしたら、こんな思いせずに済んだかもしれないのに」
「……」
「今更遅いがね」
彼は肩をすくめた。
二人は出会って、十数年。
ようやくお互いの気持ちを確かめ合えたのだ。
レウウィスは、ヘルガの頬を流れる雫を拭き取った。その感触に、心が満たされたような感覚を覚え、ヘルガは微笑んだ。レウウィスの口元だけ見えるよう、面を上にずらした。ヘルガの細い指先は少し震えながら、ヘルガは彼の頬に触れるだけの優しい口付けをした。ヘルガは目を瞑り、静かに身を引くとレウウィスの面を元に戻した。
レウウィスはまた、笑ったり何か言ってくるだろうと思っていたが何も言ってこなかった。
彼は黙り込んだまま、じっとこちらを見つめているようだ。
しばらくして、レウウィスは馬を引き始めた。
「レウウィス、どうしたの」
馬からおりたままで、私は彼に声をかけたが彼は応えてくれなかった。
機嫌を損ねて無視されてしまったのかと思い、掛ける言葉が無くなって口をつぐむ。
レウウィスは、ヘルガがすぐ面を直してくれてよかったと。年甲斐もなく赤くなった顔を見られないですんでいたからだ。
まさか、ヘルガから口付けてくれるとは思ってもいなかったのだ。
――嬉しいものだ
彼は、ヘルガに聞こえないようにそっとため息をつくと、口角を上げた。
自分の顔は緩みきっているに違いないと彼は思った。そして、彼女が可愛くてしょうがないと改めて感じるのだった。
フクロウの鳴く時間に邸宅に到着した二人は、執事のラフィと侍女のマチルダに遅すぎだと小言を言われ、着替えもそこそこに、各々部屋に押し込められた。
