第3部 変生者
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「奥様、本日はいよいよお出かけの日ですね」と、マチルダが話しかけると、 ヘルガは頷いた。今日は初めて、鬼の市井に行く日なのだ。人間だとバレないよう、顔の面は外れないよう、特殊な細工を召使のマチルダは施すのだ。
「ねぇ、マチルダ。気になっていたんだけど、奥様だなんて。どうして最近はそんな呼び方をするようになったの?」
マチルダは一瞬、困った表情を浮かべたが、すぐに微笑んだ。
「ヘルガ様は、大公さまと婚約したも同然ではないですか」
何をいまさらといった様子で彼女は言った。ヘルガはその意味がよく分からなかった。
レウウィスと婚約? なぜそう思われたんだろうかと。お互いに想いあっているがいるが指輪を渡したり、誓い合ったりしたことはないはずだ。ヘルガは不思議そうに首を傾げた。するとマチルダが説明してくれた。
「我々の文化では、パートナーが同じ屋根の下で十年以上を共に過ごし、尚且つ夜を過ごされると婚姻関係が成立したとみなされるのです。ですから、大公様があなた様の元を訪れられて……その、一夜を……つまり、もう夫婦のようなもので……その……ですから、我々の間では……もう奥様なんですよ」
彼女はうまく言葉がまとまらないようで顔を赤らめ、俯いてしまった。彼女は恥ずかしいのか、どんどん声が小さくなっていった。だが、彼女が言いたいことは分かった。どうやら、そういう文化らしい。なら、レウウィスはこのことを知っていたはずなのに、どうして教えてくれなかったのかと、彼は何も言ってこなかったことに少し苛立ちを感じた。
「マチルダ、教えてくれてありがとう。ごめんなさい、知識のなかった私の落ち度ね」
マチルダに感謝をし、謝罪の言葉を口にしたが、彼女はそれを否定し、慌てたように手を振った。
「あぁ、いえ、とんでもありません。わたくしどもの文化をお伝えすることができず、大変申し訳ありませんでした」
「いいえ、謝る必要はないわ。それよりも、大公様よ。知っているのなら、私に教えてくださってもよかったのに」
ヘルガは少し不満気に答えた。
「さぁ、奥様早く出発いたしましょう。このままでは日が暮れてしまいます」
ヘルガを奥様と呼ぶのを辞めるつもりはないようだ。マチルダは彼女を促して、部屋を出た。
レウウィスの部屋の前に来た時、中から扉が開かれた。
「おはようございます、奥様。これからお出かけでしょうか」
「今日は鬼の市に、マチルダと行こうと思って。心配しないで、ちゃんと帰ってくるから」
玄関へ向かおうとしたヘルガを執事長のラフィは呼び止めた。
「あ、待ってください。その、大公様には伝えたのですか」
「いいえ、今大公様はお出かけでいらっしゃらないから……、ダメかしら?黙っていくのは……」
「いいえ、ダメではないかと思いますが……なんとおっしゃるか」
ラフィは苦笑いしながら答える。
ラフィは知っている。
以前ヘルガが野良鬼に襲われ瀕死だった時にどうしてヘルガを一人で外に出したのだろうかと怒り狂う大公、レウウィスの姿を。あの時の大公の怒りようは恐ろしかった。最近はヘルガに対して温厚だった分、余計に。
このままヘルガを市井に行かせでもしたらなんとおっしゃるだろうか、なんとかここに引き留めるため、言い訳を考えるラフィ。
「護衛は連れて行きますよ。みんな、快く引き受けてくださって助かりました」
ヘルガがそう言うとラフィはますます、引き留められなくなった。しかし、
「それは……そうなんですが、それは、お止めになられた方がよろしいのではないかと……。その、お立場というものがありますし」
口ごもりながら、なんとか説得を試みる。だが、彼女は微笑むだけだった。結局、根負けしたラフィはため息をつく。そして、
「なら、行くならばこの町に行ってください」
と地図を広げた。ヘルガは予定とは違う場所だったので、首を傾げる。
「奥様、ここは布や衣類を扱うとして有名です。良い品が見つかるやもしれません」
「そうなの?なら行ってみようかしら」
彼女はそう言うと、ラフィから地図を受け取った。
「ラフィ様、どういうことでしょう? なぜあのような申し出を?」
マチルダは、眉を寄せて、困った表情を浮かべる。
「マチルダ……、あなたにだから話すのですが大公様は奥様が外へ出ることをあまり、良い顔をしないのです。ですから、お二方の希望に何とか沿えるよう、奥様に提案したのです」
ラフィはちらりと手紙を出し、マチルダに見せる。
「とにかく、奥様が大公様を迎えに行ったという筋書きにしたいのですね」
マチルダがそういうと、ラフィは深くうなずいた。
「これは、奥様に直接話した方がいいと思います。私から直接お話してもよろしいですか」
ラフィは恥を忍んで、
「うまく事が進むように祈っております」
と、ラフィは深々と頭を下げた。
**
「――ということなのです、奥様」
カタンカタン……ガタンガタン」
馬車の音と車輪が回る。
馬車は、広い草原を走っていた。どこまでも続く青い空、風がそよいで、草花をゆらしている。
ヘルガは、景色を見ながら困り顔のラフィを思い浮かべていた。
レウウィスがヘルガを外に出さないよう、命令していたのは知らなかった。彼は、そんなこと一言も言わなかった。ラフィにはわがままを言ってしまったと、思う。レウウィスも過保護すぎるのではないかと少し思っている。
「わかったわ、マチルダ。馬車からおりたら大公様を探しましょう。そのついでに質屋を回ればそれでいいわ」
「せっかくのお出かけなのに、こんなことになってしまい申し訳ありません」
「いいのよ、マチルダ。気にしないで」
ヘルガは、そう言って微笑んだ。
「よいですか、奥様。絶対に面を解いてはいけませんよ。わたくしと護衛から絶対にはなれないこと。いいですね」
「はい」
マチルダが念押しすると、彼女はうなずく。
「では参りましょう」
マチルダが手を差し出す、エスコートされながら馬車を降りる。
その手を握り、一行は歩き出した。
「長旅、ご苦労さまでございました。奥様、こちらをどうぞ」
護衛の一人が帽子を渡す。
「ありがとう。あなたたちも、ついてきてくださって、本当に感謝しています」
「とんでもねぇです。奥様」
護衛たちは、照れた様子だった。
その町では、様々な種類の生地が売られていた。色鮮やかな絹織物をはじめ、毛糸や綿などの手編みのものまである。しかし、ヘルガは自分のことよりもまずはマチルダや護衛達のお腹を満たすために、食事処を探すことにした。ヘルガは自分に気を遣い、人肉を食べようとしない彼らの優しさに心を痛めていた。
「ねえ、マチルダ。あなた達は食べたいものはない?」
マチルダは驚いて、「いえ、私は大丈夫ですから」と首を振る。護衛達も同じ反応だった。
ヘルガは強情な態度の彼らに困った顔をする。そして、ヘルガは強硬手段に出た。彼女は、マチルダの手を取り、近くの屋台に駆け寄った。その屋台は人肉を焼いていて、香ばしい匂いが漂っていた。
「店主、一番いいお肉をいくつか調理してほしいわ。あと、そっちの食材もお願い」
彼女は、そう言うとお金を渡した。
「はい、まいどあり」
肉を受け取った彼女は、少し離れ場所で待つ護衛二人の元へと戻る。
「さぁ、私は人間の肉は食べれないから冷える前に食べてしまいなさい」
彼女はそう言うと、串刺しにした肉を二人に差し出した。二人は、戸惑いながらも受け取ると、恐る恐る口に入れる。
「うまいぞっ! なんだこれ!」
「おいしい……」
二人がそう言うと、彼女は嬉しそうに微笑む。
「よかった。マチルダ、貴女も食べなさい」
彼女はそう言うと、マチルダに肉を手渡した。
「奥様……、人間である貴女様の眼前で人肉をたべるなぞ……できません」
マチルダが困惑していると、彼女はやれやれといった様子でナイフを出した。
「さぁ、マチルダ。その人肉を食べないのなら私の腕を切ってあなたに食べさせようかしら?言っとくけど、私はそのお肉より美味しいと思うわよ?ほぉーら、マチルダ。どうするの?」
マチルダは、彼女の脅し文句を聞いて、苦笑すると、意を決して、差し出された人肉を口に入れた。
ヘルガから隠れるようにいそいそと食べているマチルダを横目に見ながら、自分の分を食べる。
ヘルガが買ったのは、大きな丸っこいフォルムの紫色の幼虫である。鬼たちの間でも人肉ほどではないが、食べられる食糧である。彼女はそれを買って食べた。見た目はグロテスクだが、味は淡白で意外といける。
「というか、奥様も大概っすね。俺たちに人肉を買ってきて、しかも目の前で食べろなんて言うなんて」
護衛の一人がそう言って笑うと他の者も釣られて笑った。
マチルダは、彼らの会話を聞きながら複雑な表情をしていた。
自分たちをこんなにも思いやってくれる方に仕えられる幸運をかみしめるべきなのだと、彼女は思った。
「あら、だって奥様と呼ばれている以上、最低限の世話をするのが私の仕事でしょ?」
ヘルガは、そう言いつつ少し照れたように微笑んだ。護衛達が肉を食らい終わる頃を見計らうと、彼女は次の行動に出る。
「では、次に行きましょう」
そう言って彼女は、護衛とマチルダを連れ立って歩いた。彼女はある店の前で立ち止まる。
ヘルガはその店に入ると、商品を眺める。
「お、奥様まさか買いに来たものとは……」
「えぇ、武器を買いに来たの」
ヘルガは何度かレウウィスに武具が欲しいと頼んだが、ダメだの一点張りだった。
護衛が、慌てふためく。しかし、彼女は全く動じていない。それどころか、物色しながら柄の部分に手を滑らせていた。
店主が、剣や槍などを持ってくるが、どれもしっくりこない様子だった。
彼女が手に取ったものは小さなダガーナイフだった。ヘルガは護衛等に刃渡りについて助言を貰いながら選んでいた。
その刃物は、持ち手の部分が手に馴染む。だが重すぎる。それに小ぶりな分、切れ味も悪い。
レウウィスにもらった槍と比べてみても、明らかに劣っているものだった。
「奥様は、何を買うんです?」
護衛が尋ねると、彼女は答える。
「ええ、ナイフを買いたいのだけど、自分に合うものがなくって」
「では俺たちが見繕いましょうか」
ヘルガはお願いと頼むと、物の数秒でヘルガの元にいくつか武器を持ってきた。護衛たちが選んだナイフは使い込まれたものばかりで手入れも行き届いていた。そして、一振りのナイフを手に取ると彼女は目を細め、品定めをしていた。
「これにするわ」
護衛達は、彼女の判断の早さに驚く。
「本当にこれでいいんですかい?もっと良いものがあるんじゃあ?」
護衛の言葉に対して彼女は首を振る。
「いいの、お屋敷に帰ったらナイフの砥ぎ方、教えてくれる?」
「もちろんですとも!」
ヘルガは、他の武器が欲しかったと思いつつも、レウウィスが反対しているのだから、今は小さなナイフで我慢しようと決めた。
ローブに装備できるようどうやって縫い付けようかなと想像しながら歩いていると、広場のような場所に出る。
「あれは……」
護衛の一人が声を上げる。広場の中央には人だかりができていて、その中心にいたのは数人の貴族であった。
その様子を遠巻きに眺めている人達はひそひそと話しながら見ていた。
「バイヨン郷ですわ、奥様。このあたり一帯を治めてる領主様ですわ」
マチルダのつぶやきに、他の者達も、なるほどと納得する。
彼らは、護衛達を引き連れ、その中を割るように入っていく。
その先頭を歩くマチルダは、バイヨンに向かって堂々と挨拶をした。
「ご機嫌麗しゅうございます。バイヨン様」
マチルダのその態度に、周りの者がどよめいた。彼は、マチルダの姿を見ると驚いたような顔をした。
しかし、「……ああ、マチルダでしたか」と言って笑った。周りに居た従者たちも驚きの声を上げている。
マチルダは微笑みながら続けた。
「ところで、今日は折り入ってお話がございます。大公様はどちらにいらっしゃるかご存じでしょうか」
レウウィスの居場所を尋ねられた男は怪しげに笑った。
「……さぁ、つい先ほどまで談笑していたのですが、どこかへ消えてしまいました」
「左様ですか」
マチルダは残念そうに肩を落とした。
内心、マチルダは「せっかく奥様がいらしているのにどこで油を売っているんだか!!」と思っているのだが、それをおくびにも出さず冷静に対応した。
「ところで、マチルダその方はどなたです?私の記憶違いでなければ、そのような従者の方は雇っていないはずですよね」
護衛の後ろにいるヘルガに視線が向けられる。
マチルダはヘルガについて、どういうするべきか迷っていた。レウウィスから、ヘルガの関係について言及はされていないし、素性は絶対に言うなと釘を刺されているのだ。
マチルダの心臓がバクバク鳴っている。いざという時のために、護衛達が慌てて彼女の前に出て武器に手をかける。しかし、マチルダが言葉を言い終わらないうちに、隣にいたヘルガが手を上げた。
「自己紹介が遅れ、申し訳ありません。ヘルガと申します」
そう言って丁寧に頭を下げた。
「かのバイヨン郷であらせられます、貴殿に会えて光栄です」
「まあまあ、そんな堅苦しくしないでください」
彼は朗らかに笑うと、バイヨンは歩み寄り握手を求めた。ヘルガはそれに応えるように手を握り返す。こうして、他の邸宅以外の鬼に触ることは初めてで、人間だとバレないかヘルガは不安になった。彼の手はレウウィスと同じく、大きな手だったが、彼と違って暖かった。優しい人なのだと、ヘルガは思ったが、いざ顔を挙げてみると、どこかでバイヨンの面持ちを見たことがある気がした。
十数年前、かつて『楽園』と呼ばれた狩場から、シャーリーという仲間と逃げた時のことを思いだす。その時見かけた、『楽園』の狩場に来ていた知性鬼の中にいたような……。そこまで考えたところでバイヨンの手は離れて行った。
「それでは、また近いうちに」
そう言って、彼は従者を引き連れて立ち去って行く。姿が見えなくなると群衆はばらけていく。
ヘルガは、不安に駆られた。バイヨンとの会話は、なんとか上手くいったと安堵した。そして同時に、自分が緊張していたことにも気付いた。ふぅ、とため息をつくと彼女は自分の手のひらをじっと見つめた。その手にはまだ、彼の体温が残っている。それが妙に落ち着かない気分にさせた。
(あの鬼は私を見ていないだろうか? 人間だとバレたわけではないか)
その恐怖で身体が震え、立ちすくむ。護衛達は彼女に視線を向けると、彼女が怯えていることにようやく気づいたようだ。
マチルダが、大丈夫よと言わんばかりに背中を優しく撫でる。すると少しだけ落ち着きを取り戻してきた。
「皆のおかげだわ。さっき武器を抜こうとしていたわよね。マチルダには矢面に立たせてしまった。本当にありがとう。もう大丈夫だから」
護衛達の顔は明るくなり、ほっとした表情を浮かべた。
「いえ、奥様をお守りするのが我らの仕事ですから」
「そうだ、そうだー!」
彼らはヘルガに敬意を払いつつも、親身に接してくれる。ヘルガはそのことがとても嬉しかった。レウウィスの邸宅に住むようになってからというもの、初めは、腫れ物を扱うようだったからだ。特に護衛達からのその扱いが顕著であった。彼らとしては、人間という存在を信用できなかった。それに、鬼として長く生きている彼らが、人間の女の言動や行動を理解するのは困難を極めた。しかし、マチルダの助言により、彼らの態度が少しずつ軟化していった。
マチルダには感謝してもしきれないほど助けられている。
マチルダの口添えもあり、他の鬼たちも、彼女との付き合い方に慣れていった。
「ねぇ、マチルダ。気になっていたんだけど、奥様だなんて。どうして最近はそんな呼び方をするようになったの?」
マチルダは一瞬、困った表情を浮かべたが、すぐに微笑んだ。
「ヘルガ様は、大公さまと婚約したも同然ではないですか」
何をいまさらといった様子で彼女は言った。ヘルガはその意味がよく分からなかった。
レウウィスと婚約? なぜそう思われたんだろうかと。お互いに想いあっているがいるが指輪を渡したり、誓い合ったりしたことはないはずだ。ヘルガは不思議そうに首を傾げた。するとマチルダが説明してくれた。
「我々の文化では、パートナーが同じ屋根の下で十年以上を共に過ごし、尚且つ夜を過ごされると婚姻関係が成立したとみなされるのです。ですから、大公様があなた様の元を訪れられて……その、一夜を……つまり、もう夫婦のようなもので……その……ですから、我々の間では……もう奥様なんですよ」
彼女はうまく言葉がまとまらないようで顔を赤らめ、俯いてしまった。彼女は恥ずかしいのか、どんどん声が小さくなっていった。だが、彼女が言いたいことは分かった。どうやら、そういう文化らしい。なら、レウウィスはこのことを知っていたはずなのに、どうして教えてくれなかったのかと、彼は何も言ってこなかったことに少し苛立ちを感じた。
「マチルダ、教えてくれてありがとう。ごめんなさい、知識のなかった私の落ち度ね」
マチルダに感謝をし、謝罪の言葉を口にしたが、彼女はそれを否定し、慌てたように手を振った。
「あぁ、いえ、とんでもありません。わたくしどもの文化をお伝えすることができず、大変申し訳ありませんでした」
「いいえ、謝る必要はないわ。それよりも、大公様よ。知っているのなら、私に教えてくださってもよかったのに」
ヘルガは少し不満気に答えた。
「さぁ、奥様早く出発いたしましょう。このままでは日が暮れてしまいます」
ヘルガを奥様と呼ぶのを辞めるつもりはないようだ。マチルダは彼女を促して、部屋を出た。
レウウィスの部屋の前に来た時、中から扉が開かれた。
「おはようございます、奥様。これからお出かけでしょうか」
「今日は鬼の市に、マチルダと行こうと思って。心配しないで、ちゃんと帰ってくるから」
玄関へ向かおうとしたヘルガを執事長のラフィは呼び止めた。
「あ、待ってください。その、大公様には伝えたのですか」
「いいえ、今大公様はお出かけでいらっしゃらないから……、ダメかしら?黙っていくのは……」
「いいえ、ダメではないかと思いますが……なんとおっしゃるか」
ラフィは苦笑いしながら答える。
ラフィは知っている。
以前ヘルガが野良鬼に襲われ瀕死だった時にどうしてヘルガを一人で外に出したのだろうかと怒り狂う大公、レウウィスの姿を。あの時の大公の怒りようは恐ろしかった。最近はヘルガに対して温厚だった分、余計に。
このままヘルガを市井に行かせでもしたらなんとおっしゃるだろうか、なんとかここに引き留めるため、言い訳を考えるラフィ。
「護衛は連れて行きますよ。みんな、快く引き受けてくださって助かりました」
ヘルガがそう言うとラフィはますます、引き留められなくなった。しかし、
「それは……そうなんですが、それは、お止めになられた方がよろしいのではないかと……。その、お立場というものがありますし」
口ごもりながら、なんとか説得を試みる。だが、彼女は微笑むだけだった。結局、根負けしたラフィはため息をつく。そして、
「なら、行くならばこの町に行ってください」
と地図を広げた。ヘルガは予定とは違う場所だったので、首を傾げる。
「奥様、ここは布や衣類を扱うとして有名です。良い品が見つかるやもしれません」
「そうなの?なら行ってみようかしら」
彼女はそう言うと、ラフィから地図を受け取った。
「ラフィ様、どういうことでしょう? なぜあのような申し出を?」
マチルダは、眉を寄せて、困った表情を浮かべる。
「マチルダ……、あなたにだから話すのですが大公様は奥様が外へ出ることをあまり、良い顔をしないのです。ですから、お二方の希望に何とか沿えるよう、奥様に提案したのです」
ラフィはちらりと手紙を出し、マチルダに見せる。
「とにかく、奥様が大公様を迎えに行ったという筋書きにしたいのですね」
マチルダがそういうと、ラフィは深くうなずいた。
「これは、奥様に直接話した方がいいと思います。私から直接お話してもよろしいですか」
ラフィは恥を忍んで、
「うまく事が進むように祈っております」
と、ラフィは深々と頭を下げた。
**
「――ということなのです、奥様」
カタンカタン……ガタンガタン」
馬車の音と車輪が回る。
馬車は、広い草原を走っていた。どこまでも続く青い空、風がそよいで、草花をゆらしている。
ヘルガは、景色を見ながら困り顔のラフィを思い浮かべていた。
レウウィスがヘルガを外に出さないよう、命令していたのは知らなかった。彼は、そんなこと一言も言わなかった。ラフィにはわがままを言ってしまったと、思う。レウウィスも過保護すぎるのではないかと少し思っている。
「わかったわ、マチルダ。馬車からおりたら大公様を探しましょう。そのついでに質屋を回ればそれでいいわ」
「せっかくのお出かけなのに、こんなことになってしまい申し訳ありません」
「いいのよ、マチルダ。気にしないで」
ヘルガは、そう言って微笑んだ。
「よいですか、奥様。絶対に面を解いてはいけませんよ。わたくしと護衛から絶対にはなれないこと。いいですね」
「はい」
マチルダが念押しすると、彼女はうなずく。
「では参りましょう」
マチルダが手を差し出す、エスコートされながら馬車を降りる。
その手を握り、一行は歩き出した。
「長旅、ご苦労さまでございました。奥様、こちらをどうぞ」
護衛の一人が帽子を渡す。
「ありがとう。あなたたちも、ついてきてくださって、本当に感謝しています」
「とんでもねぇです。奥様」
護衛たちは、照れた様子だった。
その町では、様々な種類の生地が売られていた。色鮮やかな絹織物をはじめ、毛糸や綿などの手編みのものまである。しかし、ヘルガは自分のことよりもまずはマチルダや護衛達のお腹を満たすために、食事処を探すことにした。ヘルガは自分に気を遣い、人肉を食べようとしない彼らの優しさに心を痛めていた。
「ねえ、マチルダ。あなた達は食べたいものはない?」
マチルダは驚いて、「いえ、私は大丈夫ですから」と首を振る。護衛達も同じ反応だった。
ヘルガは強情な態度の彼らに困った顔をする。そして、ヘルガは強硬手段に出た。彼女は、マチルダの手を取り、近くの屋台に駆け寄った。その屋台は人肉を焼いていて、香ばしい匂いが漂っていた。
「店主、一番いいお肉をいくつか調理してほしいわ。あと、そっちの食材もお願い」
彼女は、そう言うとお金を渡した。
「はい、まいどあり」
肉を受け取った彼女は、少し離れ場所で待つ護衛二人の元へと戻る。
「さぁ、私は人間の肉は食べれないから冷える前に食べてしまいなさい」
彼女はそう言うと、串刺しにした肉を二人に差し出した。二人は、戸惑いながらも受け取ると、恐る恐る口に入れる。
「うまいぞっ! なんだこれ!」
「おいしい……」
二人がそう言うと、彼女は嬉しそうに微笑む。
「よかった。マチルダ、貴女も食べなさい」
彼女はそう言うと、マチルダに肉を手渡した。
「奥様……、人間である貴女様の眼前で人肉をたべるなぞ……できません」
マチルダが困惑していると、彼女はやれやれといった様子でナイフを出した。
「さぁ、マチルダ。その人肉を食べないのなら私の腕を切ってあなたに食べさせようかしら?言っとくけど、私はそのお肉より美味しいと思うわよ?ほぉーら、マチルダ。どうするの?」
マチルダは、彼女の脅し文句を聞いて、苦笑すると、意を決して、差し出された人肉を口に入れた。
ヘルガから隠れるようにいそいそと食べているマチルダを横目に見ながら、自分の分を食べる。
ヘルガが買ったのは、大きな丸っこいフォルムの紫色の幼虫である。鬼たちの間でも人肉ほどではないが、食べられる食糧である。彼女はそれを買って食べた。見た目はグロテスクだが、味は淡白で意外といける。
「というか、奥様も大概っすね。俺たちに人肉を買ってきて、しかも目の前で食べろなんて言うなんて」
護衛の一人がそう言って笑うと他の者も釣られて笑った。
マチルダは、彼らの会話を聞きながら複雑な表情をしていた。
自分たちをこんなにも思いやってくれる方に仕えられる幸運をかみしめるべきなのだと、彼女は思った。
「あら、だって奥様と呼ばれている以上、最低限の世話をするのが私の仕事でしょ?」
ヘルガは、そう言いつつ少し照れたように微笑んだ。護衛達が肉を食らい終わる頃を見計らうと、彼女は次の行動に出る。
「では、次に行きましょう」
そう言って彼女は、護衛とマチルダを連れ立って歩いた。彼女はある店の前で立ち止まる。
ヘルガはその店に入ると、商品を眺める。
「お、奥様まさか買いに来たものとは……」
「えぇ、武器を買いに来たの」
ヘルガは何度かレウウィスに武具が欲しいと頼んだが、ダメだの一点張りだった。
護衛が、慌てふためく。しかし、彼女は全く動じていない。それどころか、物色しながら柄の部分に手を滑らせていた。
店主が、剣や槍などを持ってくるが、どれもしっくりこない様子だった。
彼女が手に取ったものは小さなダガーナイフだった。ヘルガは護衛等に刃渡りについて助言を貰いながら選んでいた。
その刃物は、持ち手の部分が手に馴染む。だが重すぎる。それに小ぶりな分、切れ味も悪い。
レウウィスにもらった槍と比べてみても、明らかに劣っているものだった。
「奥様は、何を買うんです?」
護衛が尋ねると、彼女は答える。
「ええ、ナイフを買いたいのだけど、自分に合うものがなくって」
「では俺たちが見繕いましょうか」
ヘルガはお願いと頼むと、物の数秒でヘルガの元にいくつか武器を持ってきた。護衛たちが選んだナイフは使い込まれたものばかりで手入れも行き届いていた。そして、一振りのナイフを手に取ると彼女は目を細め、品定めをしていた。
「これにするわ」
護衛達は、彼女の判断の早さに驚く。
「本当にこれでいいんですかい?もっと良いものがあるんじゃあ?」
護衛の言葉に対して彼女は首を振る。
「いいの、お屋敷に帰ったらナイフの砥ぎ方、教えてくれる?」
「もちろんですとも!」
ヘルガは、他の武器が欲しかったと思いつつも、レウウィスが反対しているのだから、今は小さなナイフで我慢しようと決めた。
ローブに装備できるようどうやって縫い付けようかなと想像しながら歩いていると、広場のような場所に出る。
「あれは……」
護衛の一人が声を上げる。広場の中央には人だかりができていて、その中心にいたのは数人の貴族であった。
その様子を遠巻きに眺めている人達はひそひそと話しながら見ていた。
「バイヨン郷ですわ、奥様。このあたり一帯を治めてる領主様ですわ」
マチルダのつぶやきに、他の者達も、なるほどと納得する。
彼らは、護衛達を引き連れ、その中を割るように入っていく。
その先頭を歩くマチルダは、バイヨンに向かって堂々と挨拶をした。
「ご機嫌麗しゅうございます。バイヨン様」
マチルダのその態度に、周りの者がどよめいた。彼は、マチルダの姿を見ると驚いたような顔をした。
しかし、「……ああ、マチルダでしたか」と言って笑った。周りに居た従者たちも驚きの声を上げている。
マチルダは微笑みながら続けた。
「ところで、今日は折り入ってお話がございます。大公様はどちらにいらっしゃるかご存じでしょうか」
レウウィスの居場所を尋ねられた男は怪しげに笑った。
「……さぁ、つい先ほどまで談笑していたのですが、どこかへ消えてしまいました」
「左様ですか」
マチルダは残念そうに肩を落とした。
内心、マチルダは「せっかく奥様がいらしているのにどこで油を売っているんだか!!」と思っているのだが、それをおくびにも出さず冷静に対応した。
「ところで、マチルダその方はどなたです?私の記憶違いでなければ、そのような従者の方は雇っていないはずですよね」
護衛の後ろにいるヘルガに視線が向けられる。
マチルダはヘルガについて、どういうするべきか迷っていた。レウウィスから、ヘルガの関係について言及はされていないし、素性は絶対に言うなと釘を刺されているのだ。
マチルダの心臓がバクバク鳴っている。いざという時のために、護衛達が慌てて彼女の前に出て武器に手をかける。しかし、マチルダが言葉を言い終わらないうちに、隣にいたヘルガが手を上げた。
「自己紹介が遅れ、申し訳ありません。ヘルガと申します」
そう言って丁寧に頭を下げた。
「かのバイヨン郷であらせられます、貴殿に会えて光栄です」
「まあまあ、そんな堅苦しくしないでください」
彼は朗らかに笑うと、バイヨンは歩み寄り握手を求めた。ヘルガはそれに応えるように手を握り返す。こうして、他の邸宅以外の鬼に触ることは初めてで、人間だとバレないかヘルガは不安になった。彼の手はレウウィスと同じく、大きな手だったが、彼と違って暖かった。優しい人なのだと、ヘルガは思ったが、いざ顔を挙げてみると、どこかでバイヨンの面持ちを見たことがある気がした。
十数年前、かつて『楽園』と呼ばれた狩場から、シャーリーという仲間と逃げた時のことを思いだす。その時見かけた、『楽園』の狩場に来ていた知性鬼の中にいたような……。そこまで考えたところでバイヨンの手は離れて行った。
「それでは、また近いうちに」
そう言って、彼は従者を引き連れて立ち去って行く。姿が見えなくなると群衆はばらけていく。
ヘルガは、不安に駆られた。バイヨンとの会話は、なんとか上手くいったと安堵した。そして同時に、自分が緊張していたことにも気付いた。ふぅ、とため息をつくと彼女は自分の手のひらをじっと見つめた。その手にはまだ、彼の体温が残っている。それが妙に落ち着かない気分にさせた。
(あの鬼は私を見ていないだろうか? 人間だとバレたわけではないか)
その恐怖で身体が震え、立ちすくむ。護衛達は彼女に視線を向けると、彼女が怯えていることにようやく気づいたようだ。
マチルダが、大丈夫よと言わんばかりに背中を優しく撫でる。すると少しだけ落ち着きを取り戻してきた。
「皆のおかげだわ。さっき武器を抜こうとしていたわよね。マチルダには矢面に立たせてしまった。本当にありがとう。もう大丈夫だから」
護衛達の顔は明るくなり、ほっとした表情を浮かべた。
「いえ、奥様をお守りするのが我らの仕事ですから」
「そうだ、そうだー!」
彼らはヘルガに敬意を払いつつも、親身に接してくれる。ヘルガはそのことがとても嬉しかった。レウウィスの邸宅に住むようになってからというもの、初めは、腫れ物を扱うようだったからだ。特に護衛達からのその扱いが顕著であった。彼らとしては、人間という存在を信用できなかった。それに、鬼として長く生きている彼らが、人間の女の言動や行動を理解するのは困難を極めた。しかし、マチルダの助言により、彼らの態度が少しずつ軟化していった。
マチルダには感謝してもしきれないほど助けられている。
マチルダの口添えもあり、他の鬼たちも、彼女との付き合い方に慣れていった。
